木の文化

■帝国ホテル孔雀の間のピーコックチェアの行方  

生活文化研究所 鍵和田務

 アメリカの建築家フランク・ロイド・ライト(1867、1959年)が設計した帝国ホテル2階「孔雀の間」で使われていたピーコックチェア(孔雀椅子)1脚を私は所有している。椅子の展覧会があると、依頼を受けて出品している

 多くの椅子が展示されているなかで、一番高い白布の上に置かれたこの椅子は、その実しさと存在感を強烈に発揮して驚くことが屡々(しばしば)である。

 六角形の背もたれとシートの色は、赤、黄、灰色の3色に分かれ、大きなダイニングテーブルごとに色分けされていた。孔雀の美しい羽根を広げて大空に舞い上がるようなデザイン、当時ヨーロッパで流行したセセッション(分離派)のデザインに共通する直線構成、90年を経た今日見ても新鮮さを失わない魅力を感じさせる作品である。

 私の椅子は、帝国ホテルが改築のため、十数脚を競売にかけた際、名古屋工業大学建築学科内藤昌教授が研究資料として4脚入手された、その1脚をいただいたものである。過日、テレビ東京の人気番組「なんでも鑑定団」で、黄色のシートのピーコックチェアが出品され、その評価額は2百万円であった。

■木の空間/加地別邸の居間

  (写真と文:財満やえ子)

 湘南の海を見下ろす山裾に加地別邸が建てられたのは、葉山が別荘地としてにぎわっていた昭和3年(1928)のことである。関東大震災(1923)を生き延びた旧帝国ホテルの設計者フランク・ロイド・ライト(1867~1959年)の高弟、遠藤新(1889、1951年)が設計した木造2階建て一部地階RC造の別荘建築である。

 その中央には南面して吹抜けの居間があり、表紙写真は西の玄関ホールから東の中二階ギャラリー側を見ている。北面の暖炉の後ろには背中合せに暖炉を備えた玉突室があり、東奥には個室群、南のテラスの奥にはサンルームがある。手前の西側には玄関ホールを挟んで、南から北ヘテラス、食堂、台所、女中室、浴室等の諸室が接してT字型プランになっており、この2階に展望室や書斎や主寝室が乗っている。この建物の其処此処には90年近く使い続けられてきた遠藤設計の照明器具や家具類が数多く残されている。

  

 ライトも自身が設計した建物に家具を数多く設計しているので遠藤も師に倣ったのであろう。それで、ある建築雑誌の座談会で剣持勇が喋っていた言葉を思い出した。1965年頃の彼は、「そういうことで気になるのはライトの椅子です。あれは建築交響楽のためでライトの椅子はひどいですよ。そのかわり建築交響楽のためには確かに役割を果たしていますね。」と。剣持は造形的側面から話しているが、技術的側面から言えることかもしれない。

■恩師 野村茂治について

生活文化研究所 鍵和田 務

▶︎1. 忘れかけた恩師 野村茂治

 官立の東京高等工芸学校が戦局が厳しさを増した昭和18年に、全国の高等工業学校と共に、工業専門学校と改称され、木材工芸科も木材工業科と改称され、国力の増進に寄与するよう改革された時代に、私は昭和18年4月東京工業専門学校(千葉大学工学部の前身校)の木材工業科に入学しました。学校には軍隊と同じように、ゲートルを巻いて登校しました。暗い時代でした。私の実家が箱根細工の問屋業を営んでいましたので、父から、図案か木材か、図案は才能が要求されるので、木材の方が実用性があると勧められて、東京工業専門学校木材工業科に入学しました。教授達にどんな人がいるか全く知らずに入学しました。戦時下で軍事訓練の時間が多く、勉強にも気が入らない状況でした

 私は田舎の出身で、東京出身の仲間のように社交も下手で、むしろ孤独な学生生活を送っていました。

 昭和19年2年生のときに、私たち28名は動員され、埼玉県飯能市にある軍の木製飛行機を製作する工場に行きました。養蚕農家の広い2階に合宿し、木製飛行機の胴体を製作する仕事に従事しました。その時の担当教授が野村茂治先生でした。その時初めて野村先生を知りました。背の高いがっしりとした体格で、日本人離れの近寄り難い印象を受けました。

 私は木工場の隅でぼんやりしていると、野村教授は、「鍵和田君、余分な木材で椅子でも作りなさい」と言われ、毎日椅子を作っていました。その頃、私は野村教授がどんな経歴の方で、どんな研究をされてきたのか、全く知りませんでした。

 私が野村茂治氏のことを書くよりも、今は亡き同級生の坂田種男君(野村研究室に所属、千葉大学講師を務めた)か、野村教授の講義を受講した藤盛啓治氏の方が、恩師を語るにはふさわしいのではと思っています。

 戦争が終り、芝浦の高等工芸学校の校舎も破壊されたので、千葉県松戸市の陸軍工兵学校を校舎として、授業が再開されました。南東の端に私たち木材工業科の寮がありました、それは簡素な兵舎でありました。材料学とか、林学とか、設計学とか専門科目の授業が始まりましたが、私にはすべて興味がなく、ただ一つ東京芸大の先生の「美学」が大変興味のもてる授業でした。

 野村教授の授業は3年生の卒業制作の授業でしたが、今考えてみますと、ほとんど印象に残っておりません。当時は木材工業に関することに全く興味を失ってしまい、哲学を中心に文学や美学に関する書物を読みふけり、将来は東北帝大か京都帝大の哲学科にあこがれて、ひそかに受験準備をしておりました。野村教授の卒業制作は、設計ではなく、論文で「工芸の美学的考察」というテーマの論文を提出しました。野村教授がどう判定したかは不明でした。以上のように、3年間の学生生活の中で、野村教授に特別に関心をもつことはありませんでした。卒業記念写真/松戸校舎からの帰途、野村教授(左から2人目)と木材工業科3年生達。私は帝大受験のため出席できませんでした。昭和22年(1947)2月頃

 ところが、昭和22年(1947)3月に、京都帝国大学文学部哲学科を受験するに当って、在学証明書や内申書を提出する必要があり、初めて野村教授の研究室を尋ねて、受験の事情などを詳しく説明し、私自身工専時代の成績はあまり良くないので、ご配慮下さるようお願いしたことは覚えていますが、野村教授が何と言ったかは全く記憶にありません。

 この年の京大哲学科は、人気があり、全国の旧制高校の理科から文科に転向する者も多く、定員60名のところ、3百数十名の受験があり、私のような傍系のものには、合格が不可能に近いことでした。英語とドイツ語は慶応外国語学校で特別に学んでいたので、英語とドイツ語には旧制高校の出身者には負けない自信がありました。浪人を覚悟していましたが、無事に合格しました。野村教授には一応報告しましたが、何の反応も無かったように思いました。

▶︎2.野村茂治教授の履歴 

 ここで野村茂治教授の履歴について書くことにします。私の手元に資料がありませんので、私がこれまでに集めた情報をもと,まとめることにします。

 ご出身は兵庫県神戸市、関西でも多くの秀才が集まる旧制神戸第一中学校(神戸一中)の出身、そして京都の旧制第三高等学校理科(甲)に入学、そして京都帝国大学工学部建築学科に入学されます。当時の京都大学の建築学科は増設中で、その責任者が武田五一教授でありましたので、野村茂治氏も入学当初から武田五一教授の影響を受けたものと推測されます。

 京都帝国大学卒業時に、東京高等工芸学校木材工芸科への着任は内定し、その準備のために、ヨーロッパへの1年間の研究旅行をされたものと思います。イギリス、フランス、ドイツ、オーストリア、イタリア、そしてアメリカを巡って帰国、正式に東京高等工芸学校数授に着任されたものと思います。渡辺力や剣持勇なども、野村茂治教授の指導を受けたものと推測します。私が入学した昭和18年は米国との戦争も拡大し、野村教授にとっては一番失意の時代ではなかったかと思います。

▶︎3.野村茂胎教授の研究論文

 忘れかけた恩師野村茂治を思い出す機会になったのは、木の文化フォーラム編集長財満やえ子の著書『木の建築造逍遥』(2016年5月)の404頁「24・鍵和田務著『西洋家具の歴史』を巡って」を読んでいた時です。

 財満氏は、野村茂治の『ヨーロッパ系(立坐系)居住型の発展に対する研究』は、従来の住居の研究やインテリア・家具の研究とは異なった新しい視点、居住の型と坐り方と生活環境を、風土的、社会的、文化的など有機的、総合的に追求している点で素晴らしいと述べており、私の著書『椅子のフォークロア』(柴田書店、1977年)の考え方と野村茂治氏の考え方に共通点がみられると指摘されていることは、まさにその通りで、忘れかけていた恩師野村茂治教授を思い起こすきっかけを与えてくれました。

 東京工業専門学校在学中は、野村茂治氏がどんな研究をしていたのか、どのような建築思想をもっていたのかは、全く知りませんでしたし、興味も感じておりませんでした。

 この『ヨーロッパ系(立坐系)居住型の発展に対する研究』は学位論文取得のためにまとめられたと聞いておりますが、これで学位を取得されたか否か不明です。私がこの論文をどのようにして入手したのか不明ですが、よく覚えておりませんし、私の書斎にも残っておりません。

 

 この論文では、古代エジプトの坐姿勢が詳しく実証的に論じられ階級による坐姿勢と椅子が異なること、支配者の玉座のこと、庶民たちは椅子を使用することが出来ず、床に直接坐ることなど、論理的、体系的にまとめてあり、野村教授の卓越した思考の鋭さには感心しました。この研究が古代社会で終わり、中世から近世、近代に続くことを願っていましたが、浅学韮才(せんがくひさい・学問や知識が浅く未熟で、才能が欠けていること)をかえりみず、私がこの思想を引き継いで、中世、近世、近代までに進展させました。忘れかけた野村教授のデザインへの哲学を初めて知り、思いに報いる気持ちであります。

▶︎4.その後

 戦後、東京工業専門学校木材工業科は、昭和26年(1951)4月、千葉大学工学部建築学科に併合、野村茂治教授は建築学科に研究室をもうけ、同級生の坂田種男君を助手として採用しました。それ以降のことは、私は全く知りません。

 京都時代から親しく交際のありました小原二郎氏が京都府立大学から千葉大学工学部建築学科の教授に着任され、私も千葉大学建築学科の非常勤講師として週に一度千葉大学に参りましたが、野村教授のことは何も情報がありませんでした。


■柳宗理とバタフライスツール

    元天童木工取締役開発部長 菅澤光政

 柳宗理さんに初めてお会いしたのは、1963年天童木工に入社した年の6月である。当時の私の上司は、仙台の産業工芸指導所東北支所から移職した乾三郎氏であった。柳さんがバタフライスツールの話を持ち込んだのは、当時指導所に在籍していた乾氏を頼ってであり、乾氏に天童木工を紹介されてバタフライスツール(写真1)が誕生することになる。

 戦後間もないころ乾氏の上司は剣持勇氏で、ともに仙台で成形合板の研究をしていて、展示会などの試作を天童木工が引き受けるようになっていた。柳さんがバタフライスツールを考えた時にはすでに海外情報として成形合板のことが知れわ 写真1/バタフライスたっていたので、柳さツ ̄ルんなi)にこの素材を使ってデザインを試したかったのだと思う。

 塩化ビニールの板を熱にあぶって手で曲げながら模型をつくったという。まさに手の中から生まれた名作といえる。私が会社に入った時は既にバタフライスツールは販売されていたが、特に売れている商品でもなく、優れたデザインの商品として国の内外で認められていた。バタフライスツールと同時に同じ構造の背付きのイスもデザインしている。スツールの座面の一方を伸ばして背としたが、形態的に優れず中止となっている。

 海外へ紹介されることも多くなり、バタフライスツールのメーカーとして天童木工は知られるようになった。知己のシャルロット・ペリアン氏の紹介もあって、パリのショップに輸出したこともあった。また海外の雑誌などに掲載されることも多くな12り、各国の美術館にコレクションされるようになった。その後海外では実用的に小さすぎるとのことで、国際サイズとして大型化する話が持ち上がi)、約10%のサイズアップすることになった。

 その試作が始まった時から私は柳さんの担当となった。愛用のジープに乗って東京から10時間以上かけて天童に来られた。決まって6月に来るわけは、柳さんの好物の山形名物のサクランボの季節が目当てである。当初の大型化の試作では、塵面が大きく頭でっかちに見えたこともあって、数回の修正を繰り返した。その都度自分で石膏モデルを作り、図面を修正する。モデルと図面が一致する精密な原型を持参しての打ち合わせで、作業も進めやすかった。

 50m間隔の断面を水平、垂直に線図に書き込み、ブループリントした図面を添付しての提案であった。型作りの工場職人にとってはやり易い反面、精密さが要求された。プレスの型は合板を積層した木型で、すべて曲面であるために、専門の職人がかかりきりとなった。時間と費用がかかるために修正は大変である。試作も本番も同じ工程であるために、若干の修正も大きな修正も同じである。

 その後の柳さんのデザインを製品化する際には、同じ手法で図面とモデルの提示があって試作が繰i)返し行われて、提案があってから実現まで2、3年かかる。今ではCG画面を見て即実物試作に入ることが当たり前になったが、柳さんは最後までマイペースを買いたデザイナーであった。公共の施設のデザインも手掛けられているが、身近な生活用品のデザインが多く、これも父宗悦の民芸と通じているように思える。

 多くのデザインはメーカーからデザイン依頼したものは少なく、柳さんからの提案であった。柳さんの友人からの依頼でデザインしたものを持ち込まれたこともあり、ベッドや食堂セットなどを限られた数だけ乍ることもあった。家具は柳さんの好きなデザインの対象であった。天童木工でのデザインもカタログ商品化されたもの以外に幾つかの家具をデザインされている。1974年の栃木県立美術館の家具デザインを担当されたのが一番大きな家具プロジェクトであった。今でも美術館で一部が使われている。

 材料は重厚な木材が好みで、特にアフリカ産の赤黒いマコレ材が気に入っていた。1978年にデザインした「マコレの椅子」(写真2)と呼ばれた肘掛、肝なしのシリーズはカタログに載ることはなかったが、先生の気に入ったデザインの一つであった。その後スタッキングチェアとシェルチェアの2種類を商品化したのが最後であった。 柳さんは数多くの家具デザインをしているが木製家具が多い。プラスチックや金属家具もあるが気持ちとして写真2/マコレの椅子木製家具に愛着があったのではなかろうか。中でもダイニングチェアなどの小型の家具デザインが多いのも特徴といえる。それが何故かは不明であるが、自身の手の内でできる身近なモノに関心が高いのかもしれない。カトラリーやキッチン用品などダイニング・キッチン周りの商品が多いのもそれをうかがわせる。それは手仕事を基本とした氏のデザイン姿勢が大きくかかわっていると考えられる。結局民芸的なモノづくりに通じることになるのであろう。若いときに古臭い民芸を嫌っていた時代から逃れることなく、結局民芸的なモノづくりの世界に戻っているようにもうかがえる。

 後年には環境問題にも関心があったようで、ゴミのヤマを見てモノづくりの不合理な点にも、デザインする側の責任をそれと13なく漏らされるようになっていた。東京湾から出ていくゴミの運搬船を見て、膨大な量のゴミが毎日排泄されることへの反省を聞かされたことがある。モノづくりは氏にとってはなんであったのか不明である。

 柳さんとの打ち合わせの中で、時々デザインを始めた経緯について伺ったことがある。父柳宗悦の民芸活動について家の中にあった民芸品を古臭くて嫌だったと漏らされていた。それがモダンデザインを志向したきっかけになったようだ。また1940年に招碍されたシャルロットペリアン氏を日本各地に案内したことで、デザインワークだけでなく、デザインに向かう強い姿勢にインパクトを受けたという。ペリアンは凄い女だったといわしめる程で、その後の氏の活動に大きな影響を与えた。

 柳さんは1950年代から60年代にかけてヨーロッパとのデザイン交流も盛んに行っている。ミラノでの個展やドイツの学校で教え、国際デザイン会議へ日本代表として出席するなど幅広い活動をしている。1980年に柳さんと2人で北欧旅行をした。スウェーデンのデザイナー、ブルーノ・マットソンの招きであった。積み立てられた氏のデザイン科をベースにしてマットソン財団が設立されて、身障者向けの商品の開発者・デザイナーの活動を支援するために賞を与えていた。毎年コペンハーゲンでのスカンジナビア家具展で表彰式があり、その式に招待されたのである。同じように日本でも財団賞を作るとの話からその打ち合わせであった。残念ながら日本では実現はしなった。その時の旅行はフィンランド、スウェーデン、デンマークを回った。各地で柳さんの友人に会うことになり、国際的な知名度があることを知ることになった。特にスウェーデン、デンマークではデザイン関係者に歓待された。

 天童木工を紹介するときには、バタフライスツールのメーカーですと言えばわかってもらえる。それだけバタフライスツールの知名度と優れたデザインかが分かった。


■椅子探訪 

▶︎パントンのスタッキングチェア 1968年 F.R.P.製 武蔵野美術大学所蔵 

 ヴュルナー・パントン(1926〜1998年)はコペンハーゲン王立美術アカデミーに学び、アルネ・ヤコブセンの事務所に勤務、彼のもとでモダンデザインを学び、リートフェルトのジグザグチェアをヒントに成形合板のジグザグチェアを作った。その新鮮なフォルムで西ドイツの1966年ローゼンタール賞を受賞、彼は同じタイプをプラスチックで試作、1968年に商品化され、ケルンの見本市に出品、注目を集めた。私は調布の神代植物公園に行く度に、植物館1階ホールのこの椅子に坐る。体にフィットして疲れがとれる素晴らしい椅子と愛好している。 (写真と文 鍵和田 務)