デ・スティル 1917-1932

000序・・・零のモダニズム

新見隆

■美と精神の抽象学  

デ・ステイルは永く誤解されてきたモダニズム型である。

 それは極端に言えば、デ・ステイルが造形美術の運動やグループを装った新しい「生の哲学」そのものだったからに他ならない。美的なだけでもなく、ましてや理知だけでなく、その両方をあわせもったようなたったひとつの現実。幾何学の抽象性にひそむ清冽(せいれつ・水が清く澄んで冷たいこと)で奥深い精神性、あるいは宇宙的な倫理のようなものとまで言ってよいだろう。

 彼らの造形は周知のように、純粋で抽象的である。幾何学的でこれ以上切り詰めようのない表現であることを想えば、20世紀モダニズムの極北に位置すると言えるかも知れない。モダニズムを、ある特定の芸術実践を選び評価して、他を否定することで自律を目指し、自らを目的として自己浄化させながら、自らの有機的統一を目論むものだと考えるなら、デ・ステイルの造形は他のあらゆる造形に比べてそれに相応しい。しかしここに大きな落とし穴がある。

 彼らは確かに他のモダニズム型と同じ様に、過去の芸術とその在り方を否定した。自然形態の模倣も、個人的な主観的思考も、装飾も様式も趣味の伝統も捨て去ったように見える。けれど彼らの本当の力点は過去の伝統や習慣の「否定」や自己純化の方にはなく、むしろあらゆるものの間にある相互の「関係」を表現することの方にあり、あらゆる既存の対立する要素がすべて等価でありその同等な価値どうしの絶対的な調和や均衡こそが新しい現実としての「抽象」なのだと考えた。これはむしろ関数であり記号的なものであるわけで、こうした形而上的とも言える考え方そのものが、デ・ステイルをモダニズムそのもののメタフォアにしているところが極めて特異である。

 自然と精神、個と普遍、女性的なものと男性的なもの、科学と芸術、水平と垂直、原色と無彩色、内的なものと外的なもの、形態的なものと非形態的なもの、変化するものと不変のもの、現実と非現実、内容と形式・・・。

 彼らが求めたものはそれらが絶対的な秩序と厳密さで調和し、均衡しているような、社会と人間環境すべての原理となるべき「関係の芸術」だった真のリアリティーは、他の現実的ないかなるものにも置き換えることのできない、つまり現実的ないかなる意味とも対応しないまったく新しいものでなければならない。それはいまだ、そしてこれからも絶対に名づけることのできない「抽象的」なものだ。そしてすべての現実的なものはその「抽象性」において統合される。この精神的な、「抽象」への意味づけと志向こそが、20世紀モダニズムの絶対零度としてのデ・ステイルの独創性の核心である。

 目に見えるものを徹底的にバラパラに解体し、何の意味も持たないもっとも単純なもの「ゼロ」に置き換える。そして無数の、あるいはいくつかの「ゼロ」は互いの関係を理解し、認め合うことで「ゼロ」でありながらその自らに新しい姿を与えていく。

 それは近代的な新しさという意味だけではなく、あるいは既に芸術の範疇ではなくなっているような気さえする。私たち日本人の感覚から考えれば、それはあらゆる世界像がどれも取り除かれたりせずに、またどれかが特権的に選び出されたりもせずにあるがままで釣り合って拮抗し合っている「東洋的無」の世界を想わせる。彼らが絵画と空間にあれほどこだわった「非ヒエラルキー的」ということ、それこそが私たちの内なる故郷を想わせるのだ。

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 近代芸術を資本主義に倣った絶えざる自己批判的な革新と考えれば、1920年代のこの地点で既にその限りなく続く自己解体と自己増殖を宙吊りにしてしまっていることもまた、デ・ステイルの特異点をよく表しているだろう。モダニズムそのもののメタフォアと言ったのは、そうした宙吊りにされて前にも後ろにも行き場のなくなった絶対零度を生哲学としてのデ・ステイルに見るからである。関係の概念は必然的にゼロの概念に結びつく。デ・ステイルの原理が、数学におけるゼロの概念に酷似しているのはそのためだろう。

 モダニズムを宙吊りにするという言葉で思い出すのは、全く別の遥から、これもあらゆる二項対立を対置させて、「関係そのもの」を宙吊りにしたあのマルセル・デュシャンの≪大ガラス》である。

マルセル・デュシャンの≪大ガラス》

デ・ステイルは永く誤解されてきたモダニズム型である。

 それはまた単に運動としてとか、グループとしての性格とかの、現象面での特異性ばかりを言っているのではない。

 まずバウハウスのような、組織とその仕組みのはっきりした学校だとか工房を持った生産共同体であった訳ではない。また芸術至上主義的な傾向は共通するとは言っても、社会的な思想を基盤とした19世紀のアーツ・アンド・タラフツ運動は、その影はきわめて薄い。またロシア・アヴァンギャルドのような、芸術の日常性への解放と拡散、あるいは場や環境においての共同作業性といった特徴とも違う。また未来派のようにグループのメンバーがその運動を抜きにしては語れない(というより、それ以外に目ぼしい活動をしていない)という訳ではなく、首謀者ドゥースブルフ以外のメンバーはむしろデ・ステイル以降の活動もそれ以上に重要だったという例がほとんどだろうか。

 だからむしろ彼らの依ったメディア活動である雑誌『デ・ステイル」が極めて戦略的に他の1920年代のアヴァンギャルドの動向と実に緊密に切り結び新造形主義の理論を喧伝していったのに反して、その実彼らの作品制作や設計建築などの活動は個人的な関係や共同の域を出ていないとも言ってよい。だから後に多くのメンバーを吸収することになる「抽象(アブストラクシオン)=創造(クレアシオン)」や、建築で言うとC.Ⅰ.A.M.(国際現代建築家連盟)のような、組織だった戦略や、政治臭もない。

 そういった辺りがデ・ステイルをヨーロッパの一地方であるオランダの、極めて中立的な、純粋培養的で、理論や造形の衝撃力はなかなかあなどれないものがあるが、同時代のモダニズムの中での重要性ということになると、強調するのにやや腰が引けるという誤解を生んだものと思われる。この序はその誤解へのアンチ・テーゼに終止することが目的に思われる。

■不可能なもの、名づけえないものの魅力

 例えば訪れたこともないモンドリアンのデパール街のアトリエを想像してみる。あの中央に鉄製のストープのある天井の高い五角形の部屋。真っ白に塗られたイーゼルと壁にかけられた彼の絵画群。果の太い水平、垂直の帯と、赤・青・黄の三原色と自に塗り分けられた矩形。赤いテーブルとカーテン、赤と灰色の絨毯そして黒い帯を使わず矩形の面に塗り分けた壁。

モンドリアンの瞑想空間

 独身のモンドリアンがあたかも修行僧のように仕事し炊事しながら中年期47歳から64歳までを暮らした自宅兼アトリエである。そこは無音の静讃さが漂い、外からの自然光さえ遮られて、中間的な、極めて非現実的な浮遊感が支配するような空間であったと想像できる。

 色はまず私たちの五感の奥底にある何かを呼び出す。そして私たちは自分自身の感覚が色自体と同化してフラットな壁面に帰還していくのを眺める。すべての形はほんの僅か微妙に揺れて空間の中を前に出たり後ろに退いたりしながら位置と大きさを決定していく。その測定と形態は私たちの精神的なもののうちの、何かの要請によって顕れ、なされるのを私たちはこの空間で知らされる。そしてある絶対的な安らぎが訪れる。

 この感覚を知ることは同時にこの空間を体験する私たちじしんが、あたかも自然の中で見えない秩序に従って生まれ育つひとつの植物のようなものであるかのような覚醒を呼び起こす。そして私たちは私たちのかつての現実の中から消え去ろうとする。言い方を変えるなら、それはそこに私たち生身の人間が入り込めば自分の感覚や意識がどんどん周りの何かに吸い取られていき、透明に溶け出してもいくような何かではなかっただろうか。私たちはそこで、いかなる色彩も形も何も見ない。確かに周囲のひとつひとつは物体として識別できるのだが、私たちは結局は何も見ていない自分じしんの感覚を知るのだ。というよりどんどん自分の感覚が失われていく恐ろしさに全身が晒(さら)されることになる。こうした空間体験を何と表現すればよいのだろう。

 中性的、瞑想的、非個性的、超越的、そして調和的、均衡的そのどれもが違う。しかしそのいずれの要素をも含んだ空間体験である。そこではさまざまに位相の異なる対立しあうものどうしがバランスを保ち拮抗しあう。モビールを吊した計測器のような器である空間は、色彩、形態から五感、素材まであらゆるものを宙吊りにしている。瞑想的なのではなく、そうした均衡の中で急速に失われていく自我の意識を呼び戻すために、私たちはクリエイティヴで瞑想的であらざるを得なくなる。

 再び大きな意志の流れが現れる。静謐(せいひつ)の底から内部の形と色が自らの五体を充填し始めるのが解る。それは自分の体が宇宙のように途方もなく大きなもうひとつ別の肉体の一部に連なることの自覚でもある。驚きが溶けて再び絶対的な安らぎが来る。

 おそらくはこうした空間体験、環境体験こそが、モンドリアンがあれほど繰り返し主張した、決して名づけえない「新しい抽象的なリアリティー」の内実だったのではないかと思われる。またその空間を、あらゆる現実的な要素が抵抗し合っていて逆に何もないのと同じ、私たちじしんが見えない内面からそれを充たしていかなければいけないような空虚の箱だと見れば、それはまた極めて東洋的なものとも思われる。

 死の瞬間に私たちは、すべての、生涯のあらゆる体験が一瞬にして折り畳まれ、重ね合わされて損じ曲がりながら時間=空間を横切って生涯の始まりの時へ飛び去り収まるのを限の前に見ると言う。そうした超次元の体験の現前と言ってもよい。

 正直に言って私はモンドリアンのあの絵画群を美術館の会場では容易に体験できない。図版となったものではなおさら無理である。あの絵画をひとつの空間体験として全うするにはモンドリアンのアトリエのような環境が必要だろうし、少なくとも自分の家に持って帰って、他の全く何もないニュートラルな空間で対座することを幾時間かしなければ、その意味は私の中に決して深く生まれ育ってはこないだろう。単純にこれは絵画なのかと問うこともあるいはできるだろう。絵画という偶像を破壊してなお、ぎりぎりの地点で絵画であり続けているような、絵画の終焉なのだろうか。

 モンドリアンは、来たるべき真理の生活環境、空間環境が整えば芸術はその命運を終えると言った。芸術が私たちの生そのものの奥深い現実の中に溶け出して見えなく、触れえなくなると考えたのだろうが、モンドリアンには本気でそう信じていた節があった。

 しかし明らかなように、それは見果てぬ不可能な夢だった。それに何より私たちの現実の生活環境が、あのモンドリアンのアトリエのような、完全に抽象的で、数学の関数を視覚化したようなものになるとも思えない。

 とすると、一見楽天的な行動家でありながら、その不可能性をむしろ熟知しているように思われるデ・ステイルの首謀者ドゥースブルフは彼らの残した作品や空間環境を将来的な事例に対するひとつのユートピア的原型と考えていたのだろうか。

 確かに自然は模倣できるものではない。その表出力の全体性を血肉化して自らのものとするにはまったく別な次元での再創造しかあり得ないのだ。

▶こうして新造形主義は生まれた。

 それは他のいかなるモダニズム的傾向とも違う不可能で名づけえぬものをその核心に抱えていた。それは理念でも、計画でも、倫理でもなかった。リアリティーの変革、これこそがデ・ステイルを不可能なものにし、今日の私たちの眠からはモダニズムの前夫点という魅惑として廻る原因であるのだ。それは逆説的なようだが、あらゆるモダニズムは芸術と現実が一体となり同じものになるような空間環境を想像はしていなかったからだ。芸術は理念として、計画として、あるいは倫理として現実を変革するものだったはずで、決してそのまま横滑りして現実そのものになるようなものと考えられてはいなかった。ここにデ・ステイルがモダニズムの一典型でありながら、モダニズムを超えてそれを空無化させるような瞠目(感心して目をみはること)すべき特質であることの根拠がある。

■モダニズムの確認作業

 今日、モダニズムをその単一性、還元主義的な原理性にではなく、むしろその諸相じたいの多様性のなかに把えようとするのが趨勢になってきたのではなかろうかと思われる。それはもちろん確認作業の在り方を、モダニズムを巡る言語表現と、実体とに分けて考えるやり方へ導いた解り易く言えば、モダニズムは宣伝文句とその実体はずいぶん違うということである。宣伝文句はやけに歯切れが良く、排他的で自己表出的、自らを徹底的に純化していった、上澄みのごとく透明な結晶体のシャープな優美さを思わせるのだが、その実彼らの残した表現を詳細に検討してみれば、折衷あり、模倣あり、はたまた前世紀の遺物のごときシンボルありでまったくモダニズムらしくないといった状況がそこここに出来してきたということだろう。そこで、何のことはない、ポストモダンなどと反旗を翻すこともなく、もともとモダニズムの土壌は、世界中のどこへ持って行ってもまたいつの時代にも通用する強固で頑健な不沈船艦のような原理的なものでなく、結構カオティツタでファジーな何やらぬるぬるした、それこそ有機的なぬめりさえ持っている怪物として別の側面を見せ始めたのである。

 これを積極的に良い意味にとると多様性ということになり、それまで瀕死の様相を呈していたモダニズムの論陣もひと息つくどころか、むしろ逆転攻勢に出始めるのである。

 私見の限りだが、例えば今日世界じゅうの多くの建築家は、モダニズムの様々な実用言語の換骨奪胎(他人の詩文の語句や構想をうまく利用し、その着想・形式をまねながら、自分の作としても(独自の)価値があるものに作ること。)でこれからもじゅうぶんやっていけると考えているのではなかろうか。ではいったいそこにあるのはむしろモダニズムをいかようにも読み替え可能な装置として措定していく積極的な姿勢なのだろうか。

 私はある用件で昨年、今年と現役最年長のモダニスト建築家、デザイナーであると思われるシャルロットペリアン(残念なことに、コルビュジェの共同者であった彼女は家具のデザイナーと見倣されているようで、量産小住宅の開拓者である建築家としての側面が余りに過小評価されていると思う)に会う機会を得た。現代都市の住環境の劣悪さや建築家たちの不甲斐なさを批判する歯切れの良い彼女の話の後で、私はどうしても聞きたかった質問をたどたどしく何とか彼女にした。それは彼女が日本の風土、美意識にどのように影響されたか、というものだった。1940年の来日以来の彼女のデザインには明らかにそうしたものが見受けられるからだ。ところが彼女は明確に、そして乱暴すぎるほどはっきりとこう言い放った。「ノン。そんなものは何処にもないよ。デザインは、素材とファンクション。まったくそれだけのことだよ」。

 ちょっと大袈裟に言うと私はその言葉に感激した。ただ字で読めばモダニズムの亡霊のように響くこの言葉が彼女のような生身の実践者から発せられればまたまったく違って響く。機能主義モダニズムが単なる謳い文句ではなく生活信条であり、一個の人間の生哲学そのものであることの厳粛さいがいのものではなかった。

■絵画と建築の相似形 

 デ・ステイルを多様なモダニズムにおけるひとつのモダニズム型に準(なぞら)えてみるために、私たちは1920年後半における同時代の、輝かしい達成を見ていかなければならないだろう。例えばまず第一に首領ドゥースブルフが常にライバル視していたコルビュジェ。

 スタイン邸、サヴォイ邸に結実した白い箱の構成的な機械美から、30年代の半ばあたりから自然素材を使うようになって、やがて戦後のロンシャン礼拝堂のあの巨大な獣の吐息のような、光と影のドラマティックに交錯する物質感の炸裂ブルータリズムへ変貌するというコルビュジェ観(下図)。

ル・コルビュジェ、サヴオイ邸、1928−30年ル・コルビュジェ、サヴオイ邸、2隋のガーデン・テラスロンシャン礼拝堂

 つまりはアポロ的なものからディオニソス的なものへ変貌するコルビュジェという誤解が長くあった。ところが今日の多様性の視点は20年代のコルビュジェのなかに、いわゆるロシア構成主義流の磨き上げられた機械のような表面と、数理的に処理されたプロポーションの形態学のみを見ない。もともとピュリスムの絵画が持っていた、曖昧で雑多な要素を、整理整頓して排除していくのではなく、むしろ混在させ併置して何とか相互関係を整えていこうとする性格を見るのだ。だから空間にも、様々なムダ、恣意的な凹みや、虚と実、あるいは官能を喚起するものとしての曲面や色彩の、極めて手法的で、装置的な混在を見るのである。これを還元的求心的な性格に対する、横断的調停的な性格と言ってもよいだろう。かくして、国際建築様式の雄というよりは、アポロ的ファロス的な古典的神話性を持ちながら、モダニズムの諸性格を横切っていく、青いモダニズムをコルビュジェに見るのだ。自ら好んで言及もし、様々に手を替え品を替えて暗喩としてちりばめた海、あるいは船の造形的断片を想い起しながら、コルビュジェ的モダニズムに、詩としての自然と、規範としての幾何学の共存と同一性への飽くなき渇望を見ること。これもマシニズム1920年代の諸相のうちである(下図)。

1924年

 コルビュジェという青いモダニズムにおいて、絵画と建築はけっして統合されるものではなく、断片として並置され横断されていくものであったことを想い出すべきであろう。モンドリアンもドゥースブルフも、絵画は建築へ理念のモデルとして変身すると考えた。そのままの形でいわば輪廻転生すると言ってもよい。というよりデ・ステイルの空間は、絵画によって獲得された解体・構築・均衡という原理に再び建築が同じように入れ子状に脱構築されていく過程そのものである。色彩平面という絵画による、建築への侵略のように見えるのだが、絵画において諸要素の調停を行っていた人間の感覚が、絵画そのものの空間の中へ入り込んでいくことで、それを建築化したのだとも言える。それは後に絵画にヘルメティズムを求め、彫刻にプリミティヴな想像力を求めながら建築を荒々しい、モダンな怪物の衝撃力として育てていったコルビュジェとは正反対である。デ・ステイルの、絵画から建築へ転生するモデルの一貫性に比べたら、コルビュジェの横断性の方が、多様性を旨とするモダニズムの型として広がってし1つたのもまたうなずける。

■透明なモダニズムーシステムと個人主義

 ドゥースブルフの建築訓練を決定的なものにしたのは、彼のヴァイマール行きであることはよく知られている。

 バウハウスと言うと、もうこれは白いモダニズムと断定してもいいのではないかと思われる。コルビュジェのファロス的彫塑的な、種々の形態言語の重層性に比較して、空間無性格でニュートラルな、単一のユニットに還元して、そこから構造的に組み上げ再構成していく傾向であり、そうした横木組みのような仕組みこそを、空間のシステム的理解、プログラム性への志向と捉えることができる。そのうえ、透明で軽やか、無重力で無方向の、純粋なマッスとヴォリュームの操作の与えるインパクトというインターナショナル・スタイルの教条は、よりバウハウスのそれに当て嵌(は)まるまる。

図10.ピエール・シャロー、ガラスの寮、1928年20年代マシニズムのブラック・ボックスのごとき奇作。横様のメタファーを乱用したマニアックな空間。

図11.ロブ・マレ=ステヴァンス、レイフェンベルク邸、1g27年ヨーゼフ・ホフマン=アール・デコの正系を受け#いだ、キュビズム見の装飾空間。

 ところがバウハウス・イメージにももちろん誤解はつきもので、機能主義モダニズムの牙城,生産主義の開拓者としてのバウハウスを代表するグロピウスのデッサウ校のガラスのカーテン・ウォールや、人間を透明な空間に浮かせて宙吊りにしたブロイヤーのワシリー・チェアは、実は構成主義期のものであり、生産のための単純化というよりも、やはり審美的な衝撃力の方が未だ遥かに優勢を占めている。生産も工場で分業し、生活環境自体の設計を目指す様になる後の時代の、実際にヒットした生産品は案外に造形的には地味で素材的にもさほど見映えは長くない。そのうえヴァイマール期のバウハウスが、手工芸的、民衆工芸品的な、土着的でプリミティヴな表現主義に色濃く染め上げられていたことも最近まで、まったく注目されてこなかった(ちなみにこれもよく知られたことだが、このヴァイマール期の表現主義的傾向を徹底的に批判して、イッテンなど表現派の教師から排斥されながらも、私塾のようなものまで作って学生たちをゲリラ的に洗脳し、グロピウスの思惑通り表現主義的な手工芸性をバウハウスから一掃させたのがドゥースブルフである(下図左右)。

デッサウ・バウハウス校舎 デッサウ・マイスターバウハウス教員住宅。

 20世紀の都市空間のイメージとして広がったバウハウス・イメージの中心が構成主義期のものだったことで、モダニズムは自らを都合の良いように整理整頓もし、また自らの宣伝イメージに似合わないものを切り捨てていく不純な傾向さえあるという反省もまた生まれる。

 もうひとつここでモダニズムにおける趣味性ということを考えてみよう。それはモダニズムにおいて異端的な、いったんは訣別したはずの様式への傾きということで、ここにはあるいは極端なまでに尖鋭化された作家の個性と時代精神の対立という問題が絡んでくる。そしてデ・ステイルが目指したもののひとつがこの個性の超越であったことをここで思い出しておきたい。

 ウィーンにおいてホフマンらウィーン工房やクリムトの装飾性を排撃した建築家アドルフ・ロースは、徹底して個性の洗練という砦を守ってそのラディカルな表現に固執した。しかし彼の持ち味は、建築の内部を徹底して愛玩し、素材や物質の持つ象徴性や官能性の交錯を空間の味わいとして楽しんだ、ストイックでしかもダンディな「趣味の思想」にある(下図)。

アドルフ・ロース、ブルンメル

 この辺りをもう少し広げていけば、リートフェルトのシュレーダ邸に比肩しうる1920年代後半の卓越した作家たち、アイリーン・グレイとピエール・シヤロー、そしてロプ・マレ=ステヴァンスを視野にいれなければならない。いずれもアール・デコの豪著な装飾性と、機能主義をいささか横滑りさせたような、メカニックな機械的な動きや工業生産品へのマニアックな偏愛が見受けられる。それはそれでじゅうぶんに魅惑的なハイ・スタイルの作家たちである(下図)

ピロティの上に建つメインの居住空間。 アイリーン・グレイ設計傑作住宅〈E.1027

 1920年代は、地域性や、伝統的な技術から切り離された、純粋な試験管のような、バウハウスの白いモダニズムのシステム志向と同時に、都市生活の表層的欲望、アウラを超えた消費=交換系を横滑りしていく、パスティッシュでブリコラージュ的なアール・デコの、多色のモダニズムの時代でもある。産業情報社会である20世紀に固有のマニエリズムの現れる時代である。

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 しかしこうしたモダニズムにまた潜む根強い個性信仰、その表現としての趣味性に対しても、デ・ステイルは徹底して潔癖なまでに、自己浄化的性質としてとどまり続けるのである。あらゆる選択的優劣性を拒否する、等価主義の砦として自らを現す。敢えて言えばこうした傾向が窺えるのはリートフェルトのシュレーダー邸(上図)においてだけだが、私見ではそれさえも、パタパタとやたらに蝶番やスライドのように動く間仕切り壁や窓の可動空間を、マシニズムの同時代性と言うよりは、デ・ステイル的な、世界と非世界の境界である「縁取り」へ向けたファナティックな信仰告白と解釈したい。

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 手法を駆使しながらも、審美的であるということに伴う必然的で隠しがたいエロティシズムや身体的官能性が、デ・ステイル的なものからは周到に排除されてあることがここでは注目に値する(上図)。

 比喩的に言えば青くもなく、白くもなく、また多色でもない透明な原理主義的なモダニズムがここにある。

 三原色は有彩色として、あくまで黒や白や灰色の無彩色と対置し、関係づけられるためにだけ必要なのだ。だから完壁な関係が得られたとき、色彩は既に問題ではなくなるのである。

■自然という名のグリッド

 デ・ステイルがオランダという国の風土の特徴と精神伝統の土壌から出てきたモダニズム型であることは明らかに思われる。

 ここで然光を遮蔽した部屋で造花のチューリップを生けていたパリ時代のモンドリアン、果てもなく続くオランダの牧草地を嫌悪した彼のファナティックな自然嫌いを持ち出してもよい。オランダの風土には人工性が溢れている。そもそもが海抜下の埋め立てた人工の土地に生きるという、人間の合理的意志と叡知なくしてはオランダという国そのものが成立しえなかったのだ。その人工的、箱庭的な抽象性は、果てもなく続く牧草地の水平線(それに風車の垂直線がアクセントになっている、などとも言われるが)から、アムステルダムなどの都市で平行に走る運河に垂直に交わる道路の、実に整然としたグリッドにまで終止一貫している。

 オランダを歩いてみた人なら誰でも気づくのは、これでもかと言うほど建物を覆いつくしているレンガ積みだろう。それこそオランダではレンガの矩形を建物の壁に、そして路面にさえ、見ないことの方が不可能なのだ。それに加えて室内は陶製タイルの幾何学的パターンが溢れている。

 いささか単純すぎるとは言っても、モンドリアンの水平・垂直の直交線が果てもなく続く水平線と、車窓から見れば打ち下された楔のようにも見える風車の垂直からくるのだというよく耳にする説明の説得力はかなり根が深い。絵画における伝統的な地と図の関係の解消、奥行きのイリュージョンを捨てて絶対平面へ到るための、色面を均衡させるものとしての直線の帯。あるいは画面の緑を意識させずに、内と外の境界を取り払うために設けられたもうひとつの「内なる境界」そして有機体ぜんたいの科学的構造を保障するグリッド。絵画における厳密な展開とは別に、この直交線とグリッドは多様にダブリ、ズレながら私たちの思考の幻覚を誘う。

 アウト設計の初期の郊外住宅デ・フォンクの床にがデザイした、ジグソーパズルのような神秘的タイルの配置を見たときに、単純な建築作業に従事したタイルばりやレンガ積みの職人達の伝統の見えない終局点にデ・ステイルの理念が見え隠れするのを感じた。そうした連綿とした紋様やパターンの連続性そのものの過程が見事に抽象的なものに結晶していると言ったらよいだろうか。それは確かに私たちが使っている「造形」という意味を超える何かだった。またこのタイルはドゥースブルフが1924年に斜線を導入したカウンター・コンポジションを描く際のプロセスにもなった20枚のノート型スケッチ「真理の書』に酷似しているのに驚いた。

 ここでも長い世紀を通じてレンガ積みの工程に馴れ親しんできた職人たちとその伝統が、もうどんなに雑物を捨て去っても捨てようのないぐらいまでに還元化された20世紀の原理とダブリ始める。もともと在ったもの。そして長く在ったもの。決して新しくはないが慣れ親しんだもの。最も単純で当たり前のものを新しい有効な原理として拾い上げること。これらは彼らの言う、伝統と創造、主観と科学との、最も有効で調和的なバランスを得る力法ではなかっただろうか。ドゥースブルフはまた、職人的な「手技」を極限にまでおしすすめていった果てにくる純粋で透明な、非人間的な、構造的な「抽象性」を最晩年に絵画において追求してもいる。

テオ・ファン・ドゥースブルフ-《脱自然的物質-破壊Ⅱ》-1923年 vandoesburgcontracompositionxv-377x380

■伝統という名のグリッド

 例えばリートフェルトは、いわば家具職人の伝統から出てきた人である。モンドリアンとも親交がなかったにもかかわらず、彼は独自にあの革命的な肘掛け椅子≪ブルー/レッド・チェア》をもたらした。空間の中でばらばらになって飛び交い、交錯し、新たな関係を持ち始める純粋な直方体群=エレメヴォリュームント。原色に塗り分けられることで、むしろ材質の持つ量塊が色彩によってより抽象的なものの中に追い込まれていく。それは人間の肉体とても同じことで、私たちの生身の肉の有機性は、透明で見えない濾過器の中を通り抜けることで実体を失い、空間の中の何かと何かの「関係」そのものに置き換えられていく。「分解一再構築一均衡」。実に不思議で抽象的なリアリティーを持った異形なもの。戦傑的な、新造形主義の面目躍如たるものがこの椅子にはある。

 しかしいっぽうでこの椅子の原型は、フランク・ロイド・ライトのユニティ教会の椅子に見いだすことができる。リートフェルトのデ・ステイル期の家具には一貫して井桁のような、四角い細い角材を組んだディテールに満ちており、空間の影というか、がっちりとした緊密なヴォリュームの空間を解きほぐし解体させる特殊な持ち味があり、逆に言えばグリッドや、直線の交錯というミニマルなパターンで空間を自動的に組み上げていく傾向が強い。これはいわば空間という、モダニズムにおいては上部構造的な絶対優位性に対して、手法的にグリッドや連続する垂直線を多用して細部に多くの凹凸を作り、自動的に空間を構築=脱構築の術中に追い込んでいく、有機建築の巨匠ライトの、正しく換骨奪胎なのである。リートフェルトの中に根強くあるパターンの増殖、あるいは装飾=構造の一体化への執着は、ドゥースプルフ流に言うなら、空間の絶えざる脱構築一構築の波動運動のことになるだろう(下図)。

フランク・ロイド・ライト、ユニティ教会。

 デ・ステイルにはしばしば、伝統的なもの、あるいは手法的なものがまた見え隠れする。

 ひとつのことをできるだけ単純化してそれを繰り返していくこと。この連続性のパターンこそが原理となる。パターンと言うと語弊がある。それもまた、ア・プリオリな伝統的な何かと、釣り合い均衡化し、空無化するための手法なのだ。あるいはある究極的な探求の結果がまったく元の問題の出発地点と同じところへ戻る。こうしたことはしばしば起こるのではなかろうか。ゼロの哲学。

■潔癖な原理主義

バート・ファン・デル・レック

 オランダ人たちは私がデ・ステイルの中にある形而上的ではあるが、ファナティック(熱狂的なさま)な潔癖症を言うと決まって、そのヒューマニスティックな、むしろ感覚主義、もっと言えば伝統主義的ですらある点を逆に強調する。もちろんこれは、バウハウスの持っていた、空間のプランニングに対しての純粋なシステム的な志向をドイツ流の非人間主義と非難しての反論であるファン・デル・レックの絵画などに特徴的な、抽象は自然の構造をより単純化したものであるので、極めて感覚的で人間的なものだという論理で、それでいけばモンドリアンでさえ、彼のゆっくりとした、1920年あたりまでの歩みを追っていけば、それ以降の如何にも遠大な宇宙の神秘をつかんだかのごとくの自説も、そうした感覚主義の抽象の範疇へ容易に差し戻すことができる。しかしモンドリアンもドゥースブルフも抽象画を描いたということではなく、抽象という概念を規定できたことで、その一線を超えている。オランダ人はデ・ステイルをいまだ神秘主義的な生哲学の一歩手前の地点で捉えたがっているようだ

 オランダの都市や国土の整備された精緻さはまた、彼らが徹底したピューリタンの原理主義に支えられた人種であることを想い出させる。カルヴィニストの明噺で清潔な秩序好きはまた、数に対する、数理的なものに対する執着を表裏一体というか、支えてもいる(国土といいメンタリティーともいいヨーロッパの中で最も日本と似た、中庸と組織化を旨とする国と言ってもいい)。

 仮説をたてる訳ではないが、そうした数理的な精緻さはそれを突き詰めていけばまたファナティックで神秘的なものにもなり得るのだ。レンズを磨き続けたスピノザがあの稀有な幾何学の精神性にまで到達したように。

■細胞分裂する普遍空間

デ・ステイル的空間という言葉を使いたい。それは相互淘汰の作用で展開していったデ・ステイルの原理と空間は、実は入れ子状の相似形のように見えるからだ。

 ドゥースブルフは終止一貫して、建築に非形態的なものを求めた。これがよりラディカルに現れたとき、機能主義の文脈における標準化ということさえ拒否し、アウトと袂を分かつことになった。また新しい建築と工法にこだわったアウトに対しては、「物質的」な既存の建築への要求として、こうありたいという「観念的」な建築が作用してそれらの統合を最後に「造形的」建築の均衡が実現するとしている。乱暴に言えば、技術革新など放っておいても自然にできるという考え方である。

 ドゥースブルフはさらに1924年の建築における16の要項で、いわゆる均質で連続な普遍空間について述べている。不定形で非形態的な空間は基本タイプを持たず、直交する平面は壁を取り去った単なる支柱として内部と外部を流動させ、また可動的な間仕切りで再分割され時間をも取り入れる。全体は既に箱ではないような、開放されたキュービック、抜け殻のような細胞の生成となる。シンメトリーに代わって様々に異なる部分の均衡・平衡関係がもたらされ、その関係を実体化させるのが有機的色彩である。空間は反装飾的、反重力的、非標準的なものである、と述べる。いわば色彩平面によるヴォリューム空間の脱構築である。

 1923年にパリでドゥースブルフが発表した三つの住宅設計案、いわゆる「パリ・モデル」は、施主であり画廊主であったロザンベールのための巨大なヴィラ計画を除けば、ほとんどドゥースブルフの定式に適合しているように思われる。

 これは例えば、同じ1923年にバウハウス展でグロピウスが発表した、キュービックなユニットを次々に組み替えたり、継ぎ足したりしていくプレ=ファブリケーション住宅の実験モデル群とは明らかな違いがある。またムッへが設計した、展覧会の際に実際にモデル・ルームとして1棟実現したアム・ホルン通りの住宅において明らかなように、天井の高いホールというか家族が集うリビングを中心として、周りにより個別の用途に沿った小部屋を連ねて最終的には求心的なボックス型にしていくというバウハウス型は、ヴォリュームを中心とした、機能的なシステム志向の空間である(下図)。

アム・ホルン邸実験住宅

 まず違うのは、「パリ・モデル」には飽くまで中心がなく、キューブは買入し合うことによって隅を掻き取られ取り去られて壁に穴を開け、あるいはそれまで壁と壁が直交する分厚い隅であったものが1本の柱として解消していっているのが最大の特徴だろう。それによってさらに内部の壁は接合部分を消し去られて、L字型かあるいは、両脇に空間の開いた衝立のようになって空間を流動させている。

 キュービックを組み合わせることによって必然的に生じる「ヴォリューム」の厚みそのものである壁と壁の直交する隅を消去することが、おそらくはドゥースブルフの言う「空間細胞の生成」であり、「時間=空間」建築の要点であるだろう。

 また外形では角を内へ内へと貫入しあうことで、床板のキャンティレバーを多用した非重心的な様相と、宙に持ち上げられたようなドラマティックな迫力は、グロピウスが自らのためにデッサウに建てたマイスター・ジードルングを凌ぐだろう(というより私はあのジードルングの窓の外壁の緑に、実に微妙に赤や黄、青の細い帯がペイントされてあったのを見た時、グロピウスの仕掛けたモデル・ルームのごときショー・アップされた空間の迫力の中にも、デ・ステイルの、空間を脱構築する力が影のように見え隠れするのに驚いた)。

  外光を自在に取り入れることで建築の内と外を連続させた他のモダニズムタイプ型、とりわけ同じ色彩空間にこだわったコルビュジェに比べて窓からの外光の取り込みが少なすぎるのではないかという疑問はある。じりじりと照りつける太陽の自然光に古代的精神への憧れを託したコルビュジェは、とりわけ内部空間のディテールに精緻な厳密を求めないタイプであり、内部をいわば外部の延長と考えた、そういう点でデ・ステイル的な瞑想的で抽象的な内部志向とは全く正反対の「外部」の人、ヴォリューム空間のカラリストだった。1925年、パリの国際装飾美術博覧会(アール・デコ万博)で止むなく床なしの土間にしたという、かの「エスプリ・ヌーヴォー館」を想いだせばよい。色彩にしたところで、ヘルメティックでプリミティヴな初源性、言い換えれば彼の造形と同様に、モダニズムにおける非モダニズム的「外部的」野生の導入をそれに目論んだのであって、空間の中の諸要素の関係やその均衡を人間に関知させるための「実在性」、つまりは見えないものの視覚化の道具として色彩を使ったデ・ステイルの抽象性とはかなり遠い(下図)。

エスプリ・ヌーボー館

 模型と平面図では解り難い内部構造が、ドゥースブルフ自身が後で描いた色つきの、あるいは完全に透視したペン描きの≪カウンター・コンストラクション》で詳しく窺える。ランダムに直交する矩形の直方体板が、互いにそれぞれ上下左右の彼方から飛んできて、あるいは今現在もスライドしながら仮の時点=地点で小休止して宙吊りにされて止まっているという印象を強く受ける。アクソノメトリーそのものがそうした軸線上の方向性を常に脳裏に喚起する描法なわけなのだが、天井と壁を取り払って一部を悪意的に透視できるように描き直し、しかもそれに「カウンター」(つまりあらゆるものには対になる何かが存在するという暗示いがいのものでないだろう)という言葉をつけて、「四次元の時間=空間におけるコンポジション」という言い方もドゥースプルフらしい(下図)。

(カウンター・コンストラクション≫、1923年 ドゥースブルフ(カウンター・

 要素がランダムで位置や形における法則性が何らないのに、それが軸線という見えない法則性に沿って集まってくる。ある悪意的な集合体は、アクソノメトリーという「関係」を秩序だてるものによって、ある絶対的な「造形」に規定される。

■空間を食べる色彩

 ドゥースブルフが「空間細胞」という言葉を使ったのは、イメージとしては見えない透明で微小な細胞が生き物のようにうごめいてひとつの大きな空間を蜜蜂のように作り上げている様子に近い。メタフォアとしても、全体が細部に食べられまた新たに吐き出されて産み育てられていく興味深い構造を示している。細部はこの場合、原理そのものであって、細部(原理)と全体(空間)はあくまで相似形だろう。

 すべてを断片化するための道具だった色彩平面は、また空間と空間の境界面として現れ、それがまた断片群として再び周到に、有機的に繋ぎ合わされて、連続性を持った「ひとつの有機的境界面」として顕現されなければならない。

 1924年のベルリン展に出品された仮説のコーナー展示というか、展示空間の独創性は、こうした「色彩平面による壁の連続体」へと向けられたものだ。対比、均衡はここでも生きており、色面はコーナーを回り込んでいるものも有り、他の色面とのみ重なるもの、まったく壁のエッジにも他にも接せずに浮かんでいるものもある。言わんとしているのは、壁面という「境界」がひとつの有機的統一体であるというリアリティーだ。

 これはまた、例えば近代建築における色彩の導入者、あの宇宙論的な『アルプス建築』の作者ブルーノ・タウトのカラリストぶりとも異なるタウトの色彩は何よりポリタロノミー(多彩色)であって、ガラスの館の、色ガラスのブロックを積み上げた、天に向かって黄金に発光する万華鏡のドームに実現されたように、色彩そのものがそれだけで実在する、魂さえ持った物神的存在である、極めてネオ・プラトン的なものだった。色彩空間とは宇宙を構成する神秘的で精神的な物質であるこの色彩を元素として再構成された小宇宙であると考えるタウトは、確かに非モダニズム的空間の魅惑を私たちに残した。同じ20年代設計のダーレヴィッツの自邸も、また日本に残した数少ない建築である日向邸も、強烈な色彩のコントラストの中に、あるいは色彩そのもの中に、ヴォリュームの空間が消え去り収斂していくようなタイプ型のものだった。空間の優位性を突き破ってしまうような神秘的な強度がそこにはあった(下図)。

ブルーノ・タウト・ガラスパビリオン

 デ・ステイルの色彩はタウトの色彩神秘主義とは違って、もっと構造に根差したものだった。ネオ・プラトニズム、錬金術、こうしたシンボリズムの文脈とは違う。より関数で、もっと抽象的な数理の側にあるのだ。

■空間を食べるパターン

 デ・ステイル建築の出発点はフランク・ロイド・ライトである。初期のデ・ステイル建築の代表作ファントホフのヴィラ・へニーやウィルスのほとんどの建築、アウトのビュルメレントの工場案や、あるいはアウト=マチネッセの支配人住宅など枚挙にいとまがない。バルコニーや連続して低く伸びる軒や庇、そうした水平に対する建物の稜の延長である化粧柱や煙突が連続する垂直線の処理また水平・垂直の直角交差で起きる、大小のボックス型の凸凹空間の味わい。その結果である室内の解放、流動する空間といった具合に、正しく空間構造においてデ・ステイルはライトの申し子である。

 もともとライトの空間は、コロンビア博の鳳凰殿など日本建築から学んだ軒や長押の横に伸びる水平線を基調にした連続する垂直線の交差、グリッドをパターン、ユニットとした、ズレや連続の効果で空間を生んでいく特殊なモダニズム型であるこうした、コルビュジェのように空間を一挙に鷲掴みするのではなく、幾何学的パターンの増殖で自動的に空間を生んでいくような「手法的空間」の半分いじょうは、ジャポニズムと考えていいと思うのだが、してみると私たちは実に驚くべきことに、デ・ステイルにジャポニズムの影を見ることになる)(下図)。

フランク・ロイド・ライト、ロビー邸

 デ・ステイルより遥か以前に、ライトはもうグリッドの人だったのである

 もちろんこういう「構造パターン」の増殖による空間もまた、極めてヴォリューム中心のモダニズムに対して脱構築的(固定化された既成の観念の相対化を促す作業であると同時に、それを乗り越えようとする、新たなる地平への可能性の提示)である1923年に設計されたアウト=マテネッセの集合住宅は、それ以前にアウトが好んだ閉鎖症的なプラン(これもデ・ステイル的と見える)に比して開放的であり、三角形のプランに整然と高さを揃えて並んだ白壁と屋根の形作る水平線も見事だが、何と言っても独創は現場事務所だろカフェ・デ・ユニのファサードにも同様に使っている、同心円状に規則的にズレて膨らんでいくL字あるいは矩形のパターンが特徴であり、室内の暖炉まわりから始まってピラミッドのように空間全体を渦巻いて凌駕する「パターンの魔」は、デ・ステイル的というより、遥かにライトそのままである。

Cafe_De_Unie

■リアリティーを超える境界

 ユトレヒト郊外の、正しく伝統的なレンガ住宅の街並の端に忽然と建つシュレーダー邸も、外見の斬新な仕上げはスタッコ壁でコンクリートに似せてはあるが一部を除いてレンガ造りのものだ。外観は構成主義的にも見えるが、むしろその緊密な量感のインパクトを旨とするロシア構成主義とも違い、飽くまで空中の水平・垂直の軸方向からスライドし、飛んできたさまざまの、直方体板と角柱の浮遊感を思わせる。シンメトリーも、また建物自体のキュービックな外形も見事に解体されている。

シュレーダー邸

 内部には二つの特徴があって、ひとつは静的な、色彩平面の関係、あるいはそれに家具が加わって自分の肉体と空間との新しい関係を気づかせてくれるような、奇妙な質感のリアリティーである。もうひとつは例の有名な、建物の隅の稜辺を消し去ってしまう外観音開きの隅の窓や、スライド式で収納される大きな可動式色面壁、それに上下左右にスライドして収まつてしまう階段回りのガラスの間仕切りなど、動くもの、可変的空間へのオブセッションのようなものだろう。先にも述べた通り20年代の中期に共通した機械主義的特徴、空間のマシニックな操作性への嗜好と受け取れば、シャローの「ガラスの家」グレイの「E−1024」、あるいはマレ=ステヴァンス、果てはコルビュジェにまで繋がるコンパクトで未来的な、列車や客車のコンパートメントのような、メタリックで可動的な最小限の仮設空間へのこだわりにも通じる。

 しかしそれらの二つの要素、静的な関係の全体性と、そしてパタパタと折り紙細工のように伸び紆みしながら、開いては閉じる可変空間とは、互いにまたひとつのものを強調するように作用し合っている。彼の家具のもともと持っている井桁組のディテールの横溢は、ヴォイド(隙き間)となって空間の裏側である影を意識させる。というより、色彩面と動きとは、やはりここでも「関係」というより、重なり、ズレあう時の経として、細胞分裂して増殖するグリッド「境界」のようなものとなって作用している。

 動くことは空間を流動させ透明感を増すように働くと同時に、色彩をパタパタと動くものの縁取りのような役割にしているのだ。建物の各部分が鮮明に独立すればするほど蝶番そのものであるそれぞれの面の縁が強烈なグリッドとして浮かび上がってくる。これもあるいはライトの遠い亡霊なのか。

 ここでも、デ・ステイル的なものは増殖する、見えない「境界」として迫ってくる。

■空無の器

 最後に私は、今年の初夏、ドゥースブルフが最晩年にパリ郊外ムードンの坂の中腹に立てたアトリエを訪れた際の空間体験を記しておきたいと思う。

ドゥースブルフ1930

 そこはもう色彩がなかった。いや正確に言えば台所とかネリー夫人の音楽室の床タイルのチェッカー模様としていまだに残響を聴くことはできるのだが、むしろそれは白い壁全体の無色で透明な抽象感の方を強調している。大きな庭側の嵌(は)め殺しのガラス・ウォールが、上方にあるアトリエがただあるだけの、深い、水槽のような空間だった。ディテールはほとんどないと言ってよい。妻ネリーのピアノの室へ通じるドア(というか壁)が確かに噂通り、端の軸で回転して開閉するのだが、デ・ステイル的な空間の分節化としての動きなどというものでは微塵もなかった。

 それはただスコンと抜けた、驚くほどに無味無臭の空間だった。けれどそれは、バウハウスのアム・ホルンやデッサウの校舎、マイスター・ジードルングとは違う。それらの空間には、構成があり、ユニットがあり、志向とヴェクトルがあって、何よりドラマティックな審美的演出があって決して無味無臭ではなかった。ふんぷんたるモダニズムの自己演出的な欲望が偏在して空間力にもなっていた。

 私はムードンに失望したのだろうか。レストラン・シアター「オーベット」にょって、空間の中に分離して対比する色彩面と色彩面とを人間の動きそのものが結びつけ、人間が絵画の中に入り込む、あるいはそのようにして絵画が原理のまま入れ子状になってそのままの形で空間化されていくことを目論んだ、あのラディカリストの遺作に。

 いや、逆である。この不気味な無味無臭な透明感に私は戦慄したと言ってもよい。

 私はモダニズムの零度に立ったように感じて、デ・ステイルの不思議さ、訳の解らなさに今更ながら身じろぎした。

 神秘主義のもっとも原則的な出発点は、私たちが通常の感覚で認識しうる世界の背後に、見えない、聞こえないけれども、確実に存在するもうひとつの世界を規定することだろう。つまり言い換えるならば神秘主義とは、こちら側とあちら側の「境界」を認めることなのだ。

 私にとってモンドリアンの絵画は偶像破壊的であってなお、イコンのように思われる。現実的ないかなる意味もないけれど、それは来たるべき礼拝の対象であることに間違いはないように思われる。それはミニマルなもの、コンクリートなものとはまったく違う。意味のない、抽象的な、ア・プリオリなイコン性なのだ。それは私たちの世界とその外の世界の狭間に置かれたものであり、あるいはその「境界」そのものであるかもしれない。どんなに細かく砕いても、あるいは純粋に還元していっても、その先に横たわっている見 えない世界の確かな実感。

 20世紀の現代都市に生きる今日の私たちの、母なる時代である1920年代。それは幾何学的清神と神秘主義が歴史上もっとも近づいた時代と見ることができるかもしれない。生産主義のデザイン原理が生まれ、それがまた表層的にイメージとして消費され始めた時代。シミュレーション的にイメージを産んでいく見えない「原型」という考え。そうした抽象性の概念を気づかせた深い根のところに神秘主義があったと考えることはできるだろう。

 私は再び、あのモンドリアンのデパール街のアトリエに立ち戻らなければならないような気がする。あのあらゆる関係性の均衡を実現して、それゆえにこそ私たちを漠とした、虚ろな、無に誘い込む空間へと。

 デ・ステイルが幾何学的精神と神秘主義の両方を宙吊りにした原器であったことが明かされる日は、そう遠くないと思われる。(セゾン美術館学芸員)