ロシア・アヴァンギャルドふたたび

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海野弘【美術評論家]

■グラフィック・デザインの革命 

 ロシア・アヴァンギャルドは、埋もれていた、モダン・アートの未知の部分である。二十世紀をトランプ・ゲームにたとえれば、それは最後まで伏せられていたカードなのだ。ロシア・アヴァンギャルドが今なお、新鮮なおどろきを私たちに与え、魅力的であるのも、そのせいであるかもしれない。

 そのアーティストたちは激しく、またはかなく生きた。そのことが胸をゆさぶる。封印されていた扉が開かれ、それは二十一世紀への贈物として、私たちにさし出されている。

 〈ロシア・アヴァンギャルド〉といわれるのは、1910、20年代のロシアの前衛的な芸術運動のことである。もちろんそれは、立体派、未来派、ダダシュルレアリスムといった世界的なモダン・アートの流れに属している。しかしちがっているのは、1917年のロシア革命の大いなる渦にぶつかり、それと運命を共にしたことである。欧米のモダン・アートは変化しつつも、連続的な流れを持ったが、ロシア・アヴァンギャルドは、ぷつりと断絶し、埋もれてしまった。

 このように、芸術の革命が、社会的、政治的革命にちょうどぶつかってしまったことは、二十世紀では例を見ない。アーティストはスタジオからいきなり街頭にほうり出されてしまったのである。それは芸術の危機であったが、しかし思いがけない機会でもあった。既成の権威はおびやかされたが、若い、失うもののないアーティストには、新しい可能性が開かれたのである。社会革命は、旧体制の重圧をあっさりと吹きとばしてしまった。ロシア・アヴァンギャルドは革命を歓迎した。

 ロシア・アヴァンギャルドの遺産で、私たちが最も楽しめるのは、グラフィック・デザインの分野である。そのことも、以上のような状況と関係がある。第1次世界大戦の中で傾きつつあったロシア帝国は、革命によってあっけなく倒れた。しかし内乱はつづいたから、生産は停止し、物資は欠乏し、人々は飢えた。そのような悲惨の中でアーティストも活動しなければならなかった。建築や工芸のデザインの多くも、プランの段階に終わり、多くは実現しなかった。ロトチエンコのデザインした家具なども、実用化には、なかなか至らなかった。

 一方、個人的な絵画や彫刻などの作品も、ブルジョアのコレクターがいなくなったので、制作が衰えた。その結果、費用や材料があまりかからず、また社会的にも必要とされたポスターやパンフレットなどのグラフィック・デザインが大きな分野となった。演劇やパフォーマンスも盛んであったが、残念なことに、私たちに残されていない。

 もちろん、グラフィック・デザインが花咲いたのは、物理的条件だけが理由ではない。一部の人だけでなく、すべての大衆ヘアートを、という、ハイ・アートとロウ・アートの区別を壊そうとする考え、また、アートを、現実を動かす表現とし、ことばとイメージの境界をとりはらう考えが〈デザイン〉と結びついていた。アートはすべての人々に呼びかけ、世界を変えていく、とロシア・アヴァンギャルドは思ったのである。

 ロシア・アヴァンギャルドは、ロシア革命によって世界が変えられることを知った。彼らは世界を変える夢を見た。その夢が〈デザイン〉なのである。〈デザイン〉は夢の、ユートピアの設計図であった。アーティストはもはや、世界を写すのではなく、構成していくのだ。〈構成主義〉がロシア・アヴァンギャルドのキーワードとなる。〈構成〉は芸術世界から現実世界へと洗出し、〈建設〉となっていくのである。

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 ロシア・アヴァンギャルドは、1925年のパリ装飾博覧会(いわゆるアール・デコ博)ではじめて本格的に紹介され、世界に大きなおどろきを与える。かつて1909年、ロシアは、ディアギレフのバレエ・リエス(ロシア・バレエ団)によってパリを驚嘆させたが、再びロシアは脚光を浴びたのである。

 しかし皮肉なことに、ちょうどその時、ロシア・アヴァンギャルドヘの反動が強くなってくる。批判はその新しい〈デザイン〉に向けられる。その〈デザイン〉は、世界を変えようという夢であったはずだが、非現実的であり、形式にすぎない、とされるのである。

 革命の初期の自由な精神は失われ、保守化、全体主義化がはじまるスターリンの独裁が確立され、〈社会主義リアリズム〉という公式で唯一のスタイルが強制され、ロシア・アヴァンギャルドは夢を閉じる。次の三十年間、それは封印され、ロシアはモダン・アートとの接触を絶ってしまう。1960年代から少しづつ、ロシア・アヴァンギャルドは私たちの目に触れるようになった。その豊かな芸術がひそかに守りつづけられていたことがとてもうれしい。

 そして今、私たちは、ロシア・アヴァンギャルドの宝庫をあける。こんなにもデザイナーが大胆に、楽しげに世界に向かったことがあっただろうか。

■ロシア・アヴァンギャルドの歴史

 1917年まで、ロシアは皇帝が専制的な権力を撞っていた封建的な帝国であった。そのため、近代化の進む西ヨーロッパから著しくおくれていた。しかしそれでも近代化の波をまったく遮ることはできず、いくつかの新しい動きがはじまっていた。1892年、パーヴェル・トレチャコフは、長い間にわたって集めてきたロシアの美術のコレクションをモスクワ市に寄附した。公共の美術館の基礎が置かれる。鉄道によって大きな富を築いたサッヴァ・マーモントフは、モスクワ郊外のアブラムツェヴォに芸術家村をつくった。また、テニシェヴァ皇女は、スモレンスクの近くのタラシキノに芸術家村をつくり、ロシアのフォーク・アートの復興を計画した。

 この二つの芸術家村はロシアのアーツ・アンド・クラフツ運動ということができる。つまり、かなりおくれていても、やはりロシアでも、モダン・アートヘの胎動がはじまっていたのである。西欧の新しい美術の刺激、ロシアのフォーク・アートの復活という二つの要素が、やがてロシアのモダン・アートを誕生させる。ロシア文化の中心となったのは、モスクワとペテルブルク(ペテルスブルク)という二つの都市であるが、モスクワはロシアのフォーク・アートの極に近く、ペテルブルクは西欧の極に近かった。

ペテルブルグ

 ペテルブルクではセルゲイ・ディアギレフが〈芸術世界〉グループを結成し、1898年、雑誌「芸術世界』を創刊した。レオン・バクスト、アレクサンドル・ベヌアなどの画家が、ロシアのアール・ヌーヴオー・スタイルを展開した。

 やがてディアギレフは、バレエ・リュス(ロシア・バレエ団)を組織し、1909年、パリに登場する。ニジンスキーやカルサーヴイナなどのバレエ・ダンサー、バクスト、ベヌアなどの舞台デザインが西欧に衝撃を与えた。それはちょうど生まれつつあったキュビスム、フォーヴィスムなどのモダン・アートと響き合っていたのである

 ロシア帝国はすでに崩壊しつつあった。1904年にはじまった日露戦争でロシアは大敗し、1905年、ペテルブルクで改革を求めるデモ隊を軍隊が発砲して多くの人を殺した。この「血の日曜日」事件をきっかけに、ロシアの帝制は解体してゆく。そして帝国の呪縛から解放され、ロシア・アヴァンギャルドが育ちはじめる。

軍隊による襲撃を描いた絵画

 ロシア・アヴァンギャルドの一つのはじまりは1910年とされている。この年、ペテルブルクでミハイル・マチューシンを中心に「青年同盟」が結成された。世紀末的、アール・ヌーヴォー的、象徴主義的な傾向からの分離を目標としている。

 この時期のロシアでは、ネオプリミティヴイズムと未来派の傾向が目立った。モスクワでは、ギレアというクボ・フトゥーリズム(立体未来派)のグループがつくられ、詩人と画家が集まった。ここにはやがて、ヴェリミール・フレーブニコフ、ウラジーミル・マヤコフスキーなどが参加してくる。

ミハイル・ラリオーノフ

 1910年12月、ミハイル・ラリオノフは、モスクワで「ダイヤのジャック」展を組織した。クレーズ、メッツァンジェ、ル・フォーコニエというパリの画家、カンディンスキーやヤウレンスキーなどミュンヘンで活動する画家、ロシアで活動する画家(ラリオノフ、ゴンチャロワ、レントウロフ、コンチャロフスキー)が出品した。しかし、ラリオノフ、ゴンチャロワなどのロシア派とコンチャロフスキー、レントウロブなどのフランス派に分裂した。

 ラリオノフは1912年、モスクワで「ロバの尻尾」展を開いた。ラリオノフ、ゴンチャロワにマレーヴィチとタトリンが加わっている。ロシア・アヴァンギャルドが勢ぞろいした最初の展覧会といわれている。

タトリン

 タトリンの出品作の多くは衣装デザインで、ロシアのイコン(聖像画)にヒントを待た、遠近法を無視した表現であった1913年にパリに出かけたタトリンはピカソに会い、キュビスムに目を開かれ、コラージュの手法を学び、平面からレリーフに向かう。

カジミール・マーレビッジ

 1914年、第1次世界大戦がはじまった。1915年、「五番線」展がベトログラード(ペテルブルク)で開かれた。年末には、「0,10」展があった。これは最後の未来派絵画展といわれた。アヴァンギャルドの中心は、ラリオノフ、ゴンチャロワ、そして、未来派から、マレーヴィチとタトリンヘと移りつつあったマレーヴィチは形而学上的観念派を、タトリンは唯物派を代表していた。マレーヴィチのシュプレマティスムとタトリンのカウンター・レリーフ(立体的構成)が対立していた。1916年、モスクワで「マガジン」(店)展が開かれた。ここにはロトチエンコが登場している。

ロトチェンコ

 1917年、ヤクーロフ、タトリン、ロトチエンコは、カフェ・ピトレスクのインテリアをデザインした。ロシアはドイツに大敗し、帝国は傾き、革命がはじまった。

ロドチェンコ-1

 「1914年から1917年の革命直後までの時期は、まさしくロシアにおけるアヴァンギャルド運動の全盛期である」とステファニー・バロンは書いている(「ロシア・アヴァンギャルドー西側からの一考察」、ステファニー・バロン、モーリス・タックマン編『ロシア・アヴァンギャルド1910−1930』五十殿利治訳、リブロポート、1982)。

 大戦のために、西欧にいたロシアのアーティストの多くが帰国し、ロシアにいたアーティストと一緒に活動した。シャガール、プーニ、アリトマン、リシツキー、カンディンスキーなどがもどってきた。ロシアは西欧から切り離され、その密室の中で、大いなる実験が行われた。国内は混乱し、無政府状態にあったから、芸術も既成の砕から解き放たれ、無限の自由を感じていた。

Malevich

 その中でマレーヴィチのシュプレマティスムとタトリンの構成主義が中心となってきた。マレーヴィチは、抽象的、精神的、絶対的な形を求めた。彼のアートは、物質より精神、国家より個人を上に置くもので、本来、実用性を排するはずなのに、面白いことに、ロシア革命が起きた時、まっさきに積極的な活動をするのはマレーヴィチであり、シュプレマティスムのパターンはデザインに応用される彼は純粋な抽象美術へ向かうが、そのパターンは実用化されるというアイロニカルな関係は、抽象美術とデザインについて再考すべきことを語っている。

 タトリンはカウンター・レリーフなどの構成作品で、三次元の、現実的事物による空間構成を行った。その〈構成〉は、〈デザイン〉といいかえてもいいほど現実世界への働きかけを含んでいたから、世界の変革を目指すロシア革命に結びついた。構成主義は革命期のデザインの主流となる。

タトリン000

 シュプレマティスムと構成主義は、〈デザイン〉の二つの極と見ていいかもしれない。純粋形態と実用性の間を揺れ動くのである。1914−17年という過度期に、シュプレマティスムと構成主義によって行われた実験が、ロシア革命のデザインを準備したのであった。

 アヴァンギャルドは革命を歓迎した。マレーヴィチのような個人的な芸術家でさえ、そうであった。1917年8月、マレーヴィチは、モスクワ市ソヴェトの芸術部の部長に選ばれ、「良き社会」のために闘うと宣言している。まず、最初のモスクワ人民アカデミーが計画される。

ヴフテマス(国立高等美術工芸工房)学生作品コレクション・カタログ(br)-(国立シチューセフ名称建築博物館所蔵

 1918年、アナトーリ・ルナチャルスキーがナルコンプロス(教育人民委員会)をつくり、その美術部(イゾー)にマレーヴィチやタトリンが入った。モスクワの美術アカデミー(ストロガノフ美術学校)はスヴォマス(国立自由工房)になり、マレーヴイチはここで教えた。マヤコフスキーの革命劇『ミステリア・ブッフ』メイエルホリドが演出し、マレーヴイチがコスチュームと舞台装置のデザインをして上演された。

モスクワではエイゼンシュテイン

 1919年、マレーヴィチは、シャガールにヴィテブスクの美術学校に招かれた。ヴィテブスクはスモンスクの少し西である。彼はすぐに若いグループを集め、シャガールを追って校長となった。彼らはウノヴィス(新芸術派)と称した。そこにはリシツキー、チャスニク、スエチン、エルモラーエワらがいた。ウノヴィスのモスクワ支部にはクスタフ・クルツイスがいた。1922年、マレーヴィチはベトログラードにもどり、新しい美術アカデミーの教授となり、ギンフク(国立芸術文化研究所)に入り、1923年から26年まで所長であった。

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 1919年から、マレーヴィチは絵画を離れ、デザインや建築などの領域に向かっている。あくまで宇宙的なリズムを求めるといった神秘主義的な世界観を貫きながら、生産主義が強かった20年代を生きたことは見事である1927年、マレーヴィチはベルリンに行き、バウハウスを訪れる彼の思想はバウハウス叢書『非対象世界』にまとめられる。

 20年代未、彼は再び絵画にもどる。その軌跡は、20年代のロシア・アヴァンギャルドが、マレーヴィチのような純粋美術を志向する人をも〈デザイン〉の世界に引き込んだことを示している。おそらく、短い間ではあるが、装飾と物質、幻想と現実、現在と未来の境界がなくなり、夢見ることと現実化がつながっているように感じられたのだろう。

 1917年の革命以後、ロシア・アヴァンギャルドは文化の最前線に立ち、現実の変革(デザイン)に参加していくが、その流れはいくつかの時代に区分される。それをここで示しておこう。まず1917年から20年までで、革命直後の混乱期である。革命はモスクワやぺトログラードでは成功したが、地方ではまだ内乱がつづいている。新しいものを建設する段階どころではない。生産は復活していない。なによりも必要なのは、革命のニュースを全国の人々に伝えることだ。プロパガンダのためのポスター、チラシ、宣伝のために全国をまわる列車や船が必要である強いアピールを原色や大文字で示すビラがおびただしく描かれる。

 突然ロシアは、宣伝アートの巨大な実験場となった。紙のポスターだけでなく、街中の壁や建物、乗物など、いたるところにスローガンが書きなぐられ、色を塗りたくられた。アートはストリートヘと流出したのであった。

 それらのストリート・アーティストたちのほとんどは無名で、アマチュアであったろう。アートはギャラリーやアカデミーから解放されたのであった。材料や場所は、手当たりしだい、ありあわせですませた。手法も、ロシアの民衆版画から、キュビスム、未来派の表現までが使われた。

 あらゆるスタイルが混在した、デザインの無政府状態ともいえる革命直後のアートは、ほとんど失われてしまった。ごく断片的な資料しか残っていない。作品の質などが問題にされる時期ではなかった。動く革命宣伝塔として、横腹にスローガンを描かれたアギート(宣伝)列車やアギート船のぼんやりした写真があるだけだ。

 新しいロシアが、自らの文化の方向をさぐる余裕を持つのは、1919年ごろからである。1919年8月27日、レーニンは映画産業を国有化したソ連映画が誕生する。それまで、映画館主は、革命にサボタージュを行い、プロデューサーたちは西欧に亡命して、映画産業はほとんど中断していた。

 1919年には国立出版所(ゴシズダート)が設立された。映画、出版などのマス・メディアをソ連政府がようやく把握しはじめていたのであるイゾー(教育人民委員会美術部)は、タトリンに第三インター記念塔のデザインを依頼した。革命が成功し、永続的なものになったことを記念するゆとりが出てきた。

 〈構成主義〉のことばが出てくるのもこの年であり、リシツキーは「プロウン」シリーズをはじめる。1920年にはモスクワにインフク(芸術文化研究所)が設立され、カンディンスキーが所長となった。しかしすぐに意見の衝突があり、彼はインフクを去った。スヴォマス(国立自由工房)はヴフテマス(国立高等芸術技術研究所)となり、多くの新しいデザイナーがここで育った。ソ連のバウハウスといえるだろう。

 このように、1919、1920年に、ロシアは混乱期を脱し、新しい文化のための組織をつくりはじめていた。詩人マヤコフスキーは1919年、ロスタ通信社のために「ロスタの窓」をつくりはじめる。ロシア・アヴァンギャルドのグラフィック・デザインの一つの出発点である。

 1921年まで「ロスタの窓」はつづけられた。1921年からソヴェト・ロシアは新しい時代に入る。それは、1928年までつづく、アヴァンギャルド・デザインのピークの時代といえる1921年から28年までは、細かくいえば、1925年で二つに分けられる。この年にパリ装飾博覧会が開かれ、ロシア・アヴァンギャルドははじめて本格的に国際舞台に出て、人々をおどろかせる。

 1921年、ソ連は経済再建のために、ネップ(新経済政策)を採用する。すべてを国有化、共有化しようとする共産主義からすると、一時的妥協、後退ともいえるが、一部の私有、私企業を認めるものであった。市場経済を認めたので、生産は活発化し、経済は回復する。

 農民が余剰農産物を市場に出すのを認められたこと、ウクライナ、ラトヴィア、リトアニア、ベラルーシなどの共和国が乱立したことは、新しいロシア文化に多様な要素をもたらした。アヴァンギャルドのアーティストにも地方出身者が目立つようになる。

 経済の復興とともに文化活動も盛んになる。デザインは紙上にとどまらず、ようやく実際に製作されるものとなる。モスクワでは「5×5=25」展が開かれた。ロトチエンコ、ステパノワ、ヴェースニン、ポポーワ、エクステルの五人がそれぞれ五点の作品を出した。五人のうち三人の女性アーティストが入っていることが注目される。

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 この時期、〈構成〉ということばがキーワードとなり、構成主義がアヴァンギャルドの主流となる。〈構成〉については後でまた触れる。ネップ時代に構成主義が盛んだったことは、〈構成〉が現実的な生産や建設との関係で使われることが多かったのを示している。アーティストは、純粋アートの世界に閉じこもるのではなく、社会に出て活動することが求められた。1921−28年のロシア・アヴァンギャルド・デザインは、あまりに多くの分野にわたっていて、のべきれない(海野弘『ロシア・アヴァンギャルドのデザイン』新曜社を参照してほしい)。ここでは、代表的なデザイナーを何人か紹介しておきたい。まず欠かせないのは、アレクサンドル・ロトチエンコである。

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 ロトチエンコは1891年、ペテルブルクで生まれたが、モスクワの東のカザンで育った。カザンの美術学校で学び、ワルワーラ・ステパノワと一緒で、後に結婚している。1914年、モスクワに出て、アヴァンギャルドのグループに入り、タトリン、ポポーワ、マレーヴィチと出会った。1916年、モスクワの店舗だった建物で開かれた「マガジン」展に、タトリンの誘いで、未来派風のコラージュを出品した。1917年には、タトリン、ヤクーロフと、「カフェ・ピトレスク」のインテリアをデザインした。

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 ロシア革命1917年がはじまると、タトリンとともにそれを歓迎し、協力した。1918年、イゾー(教育人民委員会美術部)に入り、芸術生産部で、ロザノワらと活動した。この頃は、タトリンのような三次元の構成作品、シュプレマティスム風の「黒の上の黒」といった抽象絵画など、両極にまたがる作品を制作している。 彼はアレクセイ・ガン、ステパノワとともに、1921年、「構成主義者の第一労働グループ」を結成した〈構成〉を重視し、〈労働〉と結びつけた最初のグループであった。1920年につくらえたヴフテマス(国立高等芸術技術研究所)で「構成基礎コース」を担当し、1930年、ヴフテマスが閉じられるまでつづけた。美術と工芸を結びつけたアート・デザイン・スクールであった。

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 そして1923年、マヤコフスキーとの協力によるすばらしいグラフィック・デザインが生み出される。その拠点となったのは、オシップ・ブリークとマヤコフスキーが1923年に発刊した雑誌『レフ』(左翼芸術戦線)であった。ここにはアヴァンギャルドのグループが集まった。ロトチエンコ、ステパノワ、アントン・ラヴィンスキー、映像作家ジガ・ヴェルトフ、セルゲイ・エイゼンシュティンなどである。1925年まで発行され、1927、28年には、マヤコフスキーとセルゲイ・トレチャコフによって『ノーヴィ・レフ』が出された。

ロトチェンコ-3 ロトチエンコは『レフ』の表紙にフォトモンタージュを使い、マヤコフスキーの自伝『プロ・エー卜』の表紙もデザインした。またマヤコフスキーは、1923−24年に、モスクワの百貨店「モッセルプロム」や国立印刷所「モスポリグラフ」、「ゴシズダート」などや、ビスケット、ビール、タバコ、文具などの国営企業のために数百枚のポスターをプロデュースした。彼がコピーを書き、ロトチエンコ、ステパノワ、アントン・ラヴインスキー、A・レヴィンなどのアーティストがデザインした。

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 ロトチエンコが開発したのはフォトモンタージュの手法である。〈モンタージュ〉はソヴェト映画でも駆使された手法であるが、ロトチエンコはジガ・ヴェルトフの『キノ・プラウダ』『キノ・クラース』などのドキュメンダノー映画のポスターにもフォトモンタージュを使った。

 グラフィックから、家具、インテリアへとロトチエンコはデザインの領域を広げていった。1925年のパリ博に出した労働者クラブの部屋と家具は大きな注目を集めた。

 しかし、1925年にロシア・アヴァンギャルドが世界的に評価された時、国内ではアヴァンギャルドに逆風が吹き出していた。1927年、第1次五カ年計画がはじまる。リアリズムが要求される。アヴァンギャルドの実験は修正されなければならない。ロトチエンコの大胆でダイナミックなデザインは影をひそめてゆく。彼は1956年、ロシア・アヴァンギャルドの復活を見ずに没している。

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 ロトチエンコと並んで20年代のデザインをリードしたのはエル・リシツキーである。ロトチエンコのデザインは力強く荒々しいが、リシツキーのデザインは、やさしく優雅である。リシツキーは、1890年、スモレンスクの近くで生まれた中流のユダヤ人の家系である。ペテルブルクの美術アカデミーに入れなかったのは、ユダヤ人であったかららしい。ドイツに行き、グルムシュタットの高等工芸学校で学んだ。1914年にロシアにもどった。その間、パリに行って、ザッキンに会ったモスクワの建築事務所で働いていて、1917年のロシア革命にぶつかった。

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 ユダヤ人アーティストの多くはロシア革命を歓迎した。帝政期に差別を受けていたからである。革命はすべての人の平等を掲げていた。リシツキーはイデイッシュ語の印刷、ユダヤ芸術の復興などの活動に参加した1919年29歳、シャガールに招かれてヴィテブスクの美術学校に行った。ヴィテブスクは彼のふるさとに近く、シャガールも同じユダヤ人である。

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 やがてヴィテブスクにマレーヴイチが乗り込んでくるリシツキーはシュプレマティスムに魅せられ、ウノヴィスのグループに入った。そして「プロウン」という、幾何図形が平面で遊んでいるような作品のシリーズをはじめる。それは、絵画と建築の中間にある、と彼は説明している。そこから、子どもの絵本『二つの正方形』(1920−22)が生まれる。シュプレマティスムの手法で政治的宣伝のポスターを描いた≪赤い楔(くさび)で白を打て》(赤軍が自軍を破る)もよく知られている。1921年からヴフテマスで教えた。しかし同時に、国際人として、ソヴィエ卜文化の宣伝のために西欧諸国をまわった。ソヴィエトと西欧の芸術交流に貢献していたのである。ワイマールのバウハウスとは密接な関係を持っていた。

 国際的になかなか認められなかったソヴェト・ロシアにとって、非公式ではあるが、西欧諸国との文化的ネットワークを持つユダヤ系の知識人であるリシツキーや作家のイリヤ・エレンブルクなどは、便利な存在だったようだ。

 1925年以後は、ロシアにいることが多くなり、モスクワのヴフテマスで、建築、インテリア・デザインなどを教えた。1925年には、ユートピア的で実現不可能な高層ビルのプランをつくっている。20年代後半には、リシツキーは、博覧会、展示会などのディスプレー、場内構成などのデザインを多く手がけた。30年代に入ると、グラフィック・デザイン、フォトモンタージュ、タイポグラフィーなどを主に制作し、1941年に没した。ロトチエンコをはじめとするアヴァンギャルドのデザイナーの多くが、スターリンの体制下で追放されていくのに対して、リシツキーはデザイナーとして生きつづけた。不思議な人である。

 とりあげたいアーティストはあまりにも多いが、きりがないので、あと一人、グスタフ・クルツィスに触れておこう。

グスタフ・グスタヴォヴィチ

 クルツィスは1895年、バルト海のリガ湾に面したラトヴィアで生まれた。すでにのべたように、地方からユニークなアーティストがあらわれるのが、ロシア・アヴァンギャルドの一つの特徴である。リガの美術学校で学び、1915年から17年にべトログラードで過ごした1917年のロシア革命の時、彼はラトヴィア射撃隊の一員で、ベトログラードの冬宮の防衛をしていたという。軍隊にいる間も、彼はポスターなどを描いていた。キュビスム風のレーニン像などの作品がある。モスクワでは、マレーヴィチやアントワーヌ・ペヴスナーなどに学んだ。そしてヴフテマスに入り、1921年に卒業している。ちょうどこの時期に、マレーヴィチやペヴスナーなどの影響を受けた純粋抽象作品から、煽動的、宣伝的で、構成主義的な表現に変わっている。シュプレマティスムの平面性、抽象性と、構成主義の三次元の実験性、空間性をクルツィスは統一したといわれている。

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 1922年、クルツィスは、革命五周年を祝う飾り屋台を構成した。彼は博覧会の会場デザイン、ディスプレーから『レフ』のグラフィック・デザインまで広い領域で活動した。しかし自由奔放な作家であった彼はスターリン体制下で逮捕され、1944年、強制収容所で没したと伝えられる。

■構成主義のデザイン

 かつて、ロシア・アヴァンギャルドについての唯一の研究書だったカミラ・グレイ『大いなる実験 ロシア美術1863−1922』(1962)は1922年で終わっている。1971年にニューヨークのレナード・ハットン・ギャラリーで開かれた「ロシア・アヴァンギャルド1908−1922」展もそうである。1917年の革命よりずっと以前に、ロシア・アヴァンギャルドは誕生しており、それが1917年前後に開花したのだと見ることができる。

 しかしそれは、純粋美術という枠内で見た歴史であり、もし、デザインという領域に目を向けるなら、1922年以後こそ豊穣な時代である。あるいは、1910年ごろからロシア・アヴァンギャルドは準備されていて、1917年ごろ表現はピークに達していたが、それ以後、その表現が社会化され、実用化されていき、20年代のデザインが形成されたと見ることもできる。

 20年代のロシア・アヴァンギャルドのデザインで中心となったのは、〈構成〉という概念である。ロシア・アヴァンギャルドを理解するには、これを解明しなければならない。

 ロシア・アヴァンギャルドが、モダン・アートの他の流れとちがっているのは、それがちょうど革命という社会変革にぶつかり、それと切り離せなくなっているからである。もし革命がなかったら、〈構成〉も理解しやすい概念だったのではないだろうか。ほとんど形態的分析ですむからである。ところが革命への衝突により、美術は美術だけとしてあつかえなくなってしまった。

 革命との衝突により、美術は、デザインという現実との関連の場に押し出されてしまったロシア・アヴァンギャルドはいわば第二の歴史を持つことになり、〈構成〉はひずみを受け、表層化した。

 私は〈構成〉とはなにかと理解するための参考に、図にしてみることにした。ここで簡単にそれを紹介したい(『ロシア・アヴァンギャルドのデザイン』参照)

 まず〈構成〉の語であるが、ロシア語のコンストルクツイアの訳である。構成、構造、建設といった意味がある。構造主義という思想がはやったことがあった。こちらは英語でいえばストラクチャリズムである。ストラクチャーは静的な構造で、それにコンをつけたコンストラクチャーは、動的な形成、組立をあわらす、と考えておこう。 

 〈構成〉を、集め、組み立てる、形づくる働き、と考えた時、その働きを内的(精神的)なものと見るか、外的(物質的)なものと見るかで二つの方向がある。クリスチナ・ログーは『ロシア構成主義』(1983)で、構成主義を非実用と実用に分けた。モンドリアンやマレーヴィチは前者に、タトリンやロトチエンコは後者に入る。内的・外的という二分法は、非実用・実用という二分法に重なってくる。ここで内的(精神的)・非実用一外的(物質的)・実用という軸を考えることができる。

 一方、形態の面からすると、構成主義が描く形は、外界の事物を写す受身な写実ではない。より能動的な構成であり、抽象的・幾何学的形態の組立である。ここでは抽象・写実という、モダン・アートおなじみの軸があらわれる。

 二つの軸を縦軸と横軸にして、次のようなダイヤグラムをつくってみる。この図の右半分(㈵と㈵)を絵画、左半分(㈼と㈿)をデザインと見てもよい。

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▶ Ⅰの抽象・非実用の領域にはオランダのデ・ステイル(ファン・ドースブルク、ピエト・モンドリアン)の運動やロシアのシュプレマティスム(マレーヴィチ)などが入る。

▶ Ⅱには写実的絵画が入る。

▶  Ⅲには、具象的な工芸品が入る。花模様のテキスタイルなどである。

▶  Ⅳの抽象・実用にはロシア構成主義、そしてモダン・デザインの多くが入る。

 もちろん、一つの領域に収まらないものもある。ドイツのバウハウス運動は、ⅠとⅡにまたがっているだろう。ロシア構成主義は、Ⅰから出発して、Ⅳに移っていったと見ることができる。そして実用の極限の生産主義に向かうが、ペヴスナーやナウム・ガボのように、ロシア構成主義から離脱して、Ⅰにもどってしまった作家もいる。

 20年代未になると、図の下半分、リアリズム派が勢力を盛り返し、Ⅲに属する社会主義リアリズムが主流となる。それは構成主義の実用性を否定し、フォルマリズム(形式主義)であるとして、Ⅰの領域に押しもどそうとするのである。

 次に少し別なダイヤグラムを考えてみたい。すでにのべたように、〈構成〉に対立するのは〈描写〉(写実)である。今はやりのことばでいえば、ディジタルとアナログといってもよい。

 そして、世界を〈構成〉していく時、私たちはなにをモデルとするだろうか。合理的なモデルとしてまず浮かぶのは〈機械〉である。時計またはコンピュータをモデルとして私たちは世界を再〈構成〉し、ヴァーチャル・リアリティをつくり上げる。しかし、〈機械〉をモデルにした構成は、生きた人間をとらえることができないのではないだろうか。そこで生命、生物、有機体といったもう一つのモデルがあらわれ出る。

 ここで〈構成〉のモデルの両極、機械・有機体という軸考えてみる。

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 そして構成一描写という軸を直交させ、第三のダイヤグラムをつくる。構成主義には機械的構成と有機的構成がある。Ⅲの有機的描写には写実的絵画リアリズムが入り、Ⅱには、写真、映画、テレビ、ビデオなどが入る。タトリンの第三インター記念塔は、Ⅰに入るだろうが、ラセン状の塔のダイナミックな生命感を考えればⅠにまたがっているかもしれない。

 二つのダイヤグラムは、かなり複雑で混乱している〈構成〉という概念を整理し、多様な構成主義を一つのまとまりとしてとらえるために、とりあえずつくってみたものである。ロシア構成主義の理解に役立てばうれしいと思う。

■ロシア・アヴァンギャルドの終末と再生

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 1928年、第1次五カ年計画がはじまった。アヴァンギャルドの時代が終わりつつあった。スターリンは反対派を粛清していった。マヤコフスキーの『ノーヴィ・レフ』廃刊となった。1930年、マヤコフスキーが自殺した。1932年、党中央委員会は、あらゆる文学団体を解体して一つにまとめ、社会主義リアリズムを唯一の芸術スタイルとした。その他の芸術団体もジャンルごとに単一団体にまとめられた。アヴァンギャルドのアーティストたちは、作品の発表ができなくなっただけでなく、逮捕されたり、処刑されたりした。そしてロシア・アヴァンギャルド芸術は歴史的に封印されてしまった。

 しかし1960年代から雪解けがはじまり、ほんの少しづつ、ゆっくりとその封印は解かれ、埋もれていた姿が整ってきた。なんと多くの人たちが、あらゆる困難に耐え、ひそかにロシア・アヴァンギャルドの作品と記憶を守ってきたことだろうか。 そして私たちは今、やっとその全貌に接し、開かれた自由な研究を出来る時に達している。これまでロシア・アヴァンギャルドは歴史の犠牲者としての面を強調されすぎたという見方もある。その反省から、ロシア・アヴァンギャルドが敗北したのは自らの芸術的限界からであり、スターリニズムという外圧によってではない、という考えが出された。さらには、ロシア・アヴァンギャルドは社会主義リアリズムの先駆である、という見方もある。

 確かに、アヴァンギャルド対社会主義リアリズムといった単純な比較は再考されなければならない。しかし私たちはイデオロギーを論じる前に、作品をまず見て、その魅力を楽しむべきではないだろうか。私は、あの困難で不自由な時代に、これほど大らかですばらしい作品がつくられた不思議に、なにより感嘆するのである。その作品とそれをつくった人間のドラマの面白さは、イデオロギーをはるかに越えている。 日本では、戦前にロシア・アヴァンギャルドの動きが同時代的にいきいきと伝えられていた。私が戦後、ロシア・アヴァンギャルドに興味を持った時、まだ資料や研究の少なさに悩んだ。その時、役に立ったのは、昇曙夢などによって戦前に訳されたロシアの本であった。たとえば私の手もとに、レオン・ムウシナック『ソヴィエトロシアの映画』(飯島正訳、往来社、1930)がある。

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 フランスの映画批評家レオン・ムウシナックが1927年にロシアを訪問し、映画界をレポートしたものだ。その臨場感がひしひしと伝わってくる。1926年にエイゼンシュテインの『戦艦ポチョムキン』が公開され、構成主義的な映画ポスターがはやり、ソヴ工卜映画が最高潮に達した時期であった。本のはじめに、レーニンの「あらゆる芸術の中で、最もロシアにとって重要なものは、わたしの意見では映画である。」ということばが引かれ、ムウシナックの次の献辞が添えられている。

 「モスクワ、レェニングラッド、キエフの映画組織のわが僚友に。彼等がソフキノに、メシュラブポムに、ヴフクに於いてわたくしに示された歓迎の思ひ出として。あらゆるロシアのシネアストに、殊に若き巨匠、エイゼンシュテイン、プドフキン、そしてジガ・ヴェルトフに。わたくしの真筆にして深甚なる讃乱のしるしとして。そしてわが友愛の情をこめて。」 ソフキノは、1925年に創立されたロシアの映画製作と興業を行う機関で、モスクワとレニングラード(ペテルブルク)にスタジオを持っている。エイゼンシュテイン、クレショフ、ヴェルトフなどが属している。

 メシュラブポムは、国際労働者救済会がつくった映画製作会社である。ソフキノの管理下にあるが、相対的に独立しているらしい。プドフキン、プロトザイフはここに属している。

 ヴフクはウクライナの映画製作・興業を独占する機関で、キエフにある。

 ムウシナックのレポートからは、ソヴェト・ロシアの映画が直面している劣悪な条件が痛いほど伝わってくるとともに、その中でのロシアのシネアストの若々しい情熱が感じられる。ムウシナックは最後に次のように宣言する。

 「映画は真の誕生を革命ロシアに於いて知った。それは既に映画の第一にエクスプレッシヴな、意味深い、民衆的である、一言にして云へば社会的なる、形式を定めた。

 新世界の階段にある新表現手段・・・それは限りなき運命を有してゐる。かくて、一つのより大いなる世紀が初まった。    1927年12月−1928年4月」

4455  エクスプレッシヴで、意味深く、大衆的なスタイルという映画に捧げられたことばは、そのまま、映画のポスターにも当てはまるだろう。ステンべルク兄弟の映画ポスターは、ちょうどムウシナックが見た、ソヴエ卜映画界を表現していたのであった。

 しかし今、「かくて、一つのより大きな世紀が初まった」というムウシナックの讃辞を読むと、メランコリックな想いが迫ってくる。私たちは、彼がこう書いてロシアを去った時、アヴァンギャルドの時代が終わりつつあったことを知っている。1929年は映画製作の本数が激減するステンべルク兄弟の晴れやかなポスターも、それとともに姿を消してゆくのである。

 こうしてロシア・アヴァンギャルドの歴史は途絶えた。だが、その作品に向かえば、その輝きが今も失われていないことがわかるだろう。ステンペルク兄弟は、彼らが見た夢を、21世紀にまっすぐさし出しているのだ。

 私たちはやっと、その夢を受け継ぎ、ロシア・アヴァンギャルドを楽しむ時代に達したようだ。かつてロシア・アヴァンギャルドの展覧会は、イデオロギーや国家の思惑などに縛られていた。だがようやく、作品を心から愛する人々による自由な展覧会が組織され、私たちはアートを楽しむことができるようになった。今回の展覧会もまた、その一つの試みである。