土浦の石仏

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■土浦の石仏

 「石仏の戸籍を作ろう」という相言葉ではじまったこの調査は、いわば、土浦市内の石仏・石塔についての悉皆(しっかい)調査である。ただし、純粋に個人的なものは除こうということで、屋敷神や墓石は除外された。従って、路傍や寺社の境内にあることが多いが、昔入会地(いりあいち)だった山林内や、管理の便をはかって個人宅地内にもちこんだり、墓地におかれたりしているものもある。

 またここでは、神様の石祠(せきし・石のほこら)もとりあげた。民間信仰にあっては、神も仏も神様とよぶ。古代以来の神仏習合によって、愛宕(あたご)神社に勝軍地蔵が祀(まつ)られ、天王さまには素戔(すさのおのみこと)鳴命が祀られていた。本地垂迹説といぅのがおこり、日本の神(垂迹)は、インドの仏(本地)が、日本の衆生を救うために姿をかえ、仮にあらわれたもの(権現)である、と説明された。勝軍地蔵が、愛宕大権現になったのであり、素戔鳴命はごず牛頭(ごず)天王なのである。こうした考えが徐々に庶民に浸透していき、神仏の間にとくに一線が引かれなくなった。だから、石仏・石塔調査で神社を除外するのは片手落ちなのである

■一覧表の作成

 調査の次の仕事は分類である。素人の我々は、手がかりを「日本石仏事典」にもとめ、これに基づいて、大きく三部に分け、更にそれをいくつかの項目に分類した。

▶像容の部・・・神仏の姿が、九彫りや浮彫りになっているもの

 如来・菩薩・明王・天・青面金剛・荒神(こうじん)・稲荷・羽黒山・弘法大師・道祖神・姥神の諸像

▶信仰の部・・・文字塔や石祠(せきし)、その他信仰をささえるもの

①像容の部と同じ項目順で塔になっているもの

②月待(つきまち)・庚申・山の神。水神・道祖神・天神・雷神・猿田(さるた) 彦神などの塔・祠

③光明真言(こうみょうしんごん)・念仏・読誦(どくじゅ・声をだしてお経をよむこと)・納経・経典・一字一石経・廻国・巡拝・題目・無縁・その他の諸供養塔

④結界石・道標・百度石(いし)・後生(ごしょ)車・雨乞石・生足石(うぶあしいし)・標石(ひょうせき)・力石などの石造物

⑤諸神社の石塔・石祠

▶形態の部・・・以上二つに入らないものを形態で分けた

層塔・宝筐印塔(ほうきょういんとう)・五輪塔・石幢(せきどう)・石灯篭・石鳥居(いしとりい)・手洗石・狛犬・神使(牛)などの塔と奉納石造物

 調査は、北部・中央・西部・南部の四地区に分けて行われたので、各地区毎に、右の分類帳で表にまとめられ、それぞれに通し番号がつけられた。こうして出来たのが巻末の「石仏石塔一覧表」(第1表) である。

第一表・供養塔年代別分布表

 しかし、内容検討がすすむにつれ、これでは土浦の実情にそぐわないのではないかとの意見がで、結局、第二章の各説の部分の目次を決定する際、分頬の仕方も変更することになった。その結果が現在みるような第二章の構成である。ただし、一覧表の方は、地図におとす作業も進んでしまっているということで、前に分けたままにとどめた。

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 第二章各説の各項目についての執筆担当が決まり、それぞれの項目で整理検討が進められることになった。この修正で、地蔵、つづいて如意輪観音を並べたのは、それらが数の上でとくに多いからである。

 こうした分類検討の結果を表示したのが次の第2表である。このうち、奉納石造物については悉皆調査というわけにいかず、物により、また地域によって、調査に精粗がでたことを了承されたい

■内容別・年代別分布

 石仏、石塔という形式的区別をとり払って、如来とか地蔵とかという、内容別にして、それを年代順にまとめてみたのが、前頁の第1表である

 これについては、いくつかの説明を加えておく必要があろう。

 地蔵では、六地蔵を六基一組として数えた。それぞれが地蔵の分身とみたわけである 十三仏では、別々の仏・菩薩の集合体とみられるので、一三個に数えた。

 その他の観音には、千手・子安・聖の観音が含まれる。その他の菩薩には虚空蔵と文殊の二菩薩がふくまれる。十三仏内の弥勤などはここへ入れない。

 十九夜塔の主導は如意輪観音を主とする観音、二十三夜塔ほ勢至、二十六夜塔は愛染明王である。なお、これらについては後述する。 庚申には、庚申塔・青面金剛尊などと彫ってある文字塔と青面金剛神像が彫ってあるものとある。すべてを含めた。

 弘法大師の坐像は、新四国八十八カ所霊場におかれている。大師堂内に安置されていて見えないものもあるので、見落しがあるかと思われる。他町村の例からみても、四三体というのはちょっと少い感じがする。

 層塔、宝筐印塔、五輪塔はこの表では供養塔の方に分較した。

 諸神は便宜的に道祖神以外を四つに分けた。この分け方には問題があるかもしれないが寛恕を請いたい。

■中世の石塔     

文殊のl一菩薩が含まれる。

 今まで、土浦で最古の石塔ほ、東崎鷲宮(わしのみや)にある永禄七年(一五六四)の読諦塔とされてきたが、今回の調査で宍塚般若寺から、元応三年(一三二一)の阿弥陀一尊種子(しゅじ・キリーク)の板碑が発見された。鎌倉末期のものである。

 中世の板碑では、何といっても阿弥陀如来が主流である。近くの、桜村古来(ふるく)に文永九年(一二七二)の阿弥陀三尊、新治村下坂田に永仁六年(一二九八)の、阿見町君島に文和四年(一三五五)の阿弥陀三尊種子、の板碑が残されている。

 手野王塚附近と小岩田鹿島神社からも阿弥陀一尊種子の板碑が見出された。武蔵型の青石塔婆で、無年号だが中世のものと考えられる。

 なお、宍塚般若寺には建長五年(一二五三)の結界石が二基あり県文化財に指定されているのでここでは説明を省くが、このあと、奉納石造物としては、年代の明らかなものは元禄期まで現われない。

 戦国時代になってはじめて現われるのは、前述の読誦塔であるが、ここに刻されている種子は(梵字・イー)をので、帝釈天と考えられる。帝釈天信仰が流行したかどうかはよく分らない。それよりも、この頃流行したのは地蔵信仰である。

 鷲宮(鷲宮神社)に元亀二年(一五七一)天正二年(一五七四)同三年の三基の地蔵塔がある。小松には天正二年の愛宕山大権現の石塔があるが、愛宕山大権現は本地が勝軍地蔵とされる。筑波町では桜川左岸方面で、天文・永禄期の地蔵種子塔四基が見出されている。

 珍らしいのでは、神立観音寺に天正七年(一五七九)の月待塔があった。道立二十三日になっているので、二十三夜得であろう。この近辺では最古の月待塔であろう。日待塔は筑波町で文禄時代のものが、みられるが、土浦では中・近世を通じて現われなかった。

■近世前期の石仏・石塔

 寛永期(一六二四~四三)に筑波郡から稲敷郡にかけて、一帯に沢山の大日塔・時念仏塔がたてられた。爆発的な流行で、「茨城の民族」22号で山中正夫氏は五六基と数えたが、まだまだ発見されそぅである。そのうち、胎蔵界大日の浮彫は鼻の大きい顔立ちが特色で、坐像が主である。般若寺に寛永五年(一六二八)の塔があり、大日の浮彫がある。乙戸にある大日坐像も、年号不明だが、この鼻の特色をもっているので、寛永期のものではないかと思われる。他町村にはほかに種子や大日真言塔もあるが、胎蔵界大目の石塔は出羽の湯殿山信仰と関係がありそうである。

 時(とき)(斎)念仏塔は今泉に一基あり、寛永三年(一六二六)のものである。これだけでは何を対象に念仏したのか不明だが、他町村の寛永期の時念仏塔に.ほ大日信仰を示すものが多いので、今泉の場合もその可能性があると思われる。

 寛文・延宝期(一六六一~八〇)から、如来・観音の石仏、月待塔や神岡がぽつぽつと道立されはじめ、元禄期(一六八八~一七〇三)になると種類も数も多くなり、念仏・経典などの供養塔もたてられるようになる。

 寛文・延宝期といえば、近世村落を支える本百姓体制がほぼ確立した時期である。生産力が向上し、生活水準が高くなってきた。墓石にも年号や個人名(法名)を記した角石がみられるようになる。そして元禄期といえば、産業や文化の発展が頂点に達する時期である。

 近世の地蔵像の盛行の発端をなしたのはこの元禄期であり、奉納石造物として手洗石がはじめて現われたのもこの時である。庚申講もこの頃におこったのではないだろうか。神立に宝永七年(一七〇一)、青面金剛神像が作られたかハ像より講の起源の方が古そうだからである。因みに、呵見町で最古の庚申塔は延宝八年(一六八〇)である。

■近世後期、石仏・石塔の隆盛期  

 宝歴から文化、文政にかけて(一七五一~一八二九)、石仏・石塔の流行する時期を迎える。

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 石仏では、如来の道立はみられなくなったが、寛文・延宝期に流行し、享保期に衰えた如意輪観音の建立が目立ちはじめる。勢至菩薩の道立もふえてくるから、これは月待講、そして月待塔の流行とも考えられる。そこで、月待という視点から石仏・石塔の分布表をつくってみたのが第3表である。石仏をよくみると、その光背部の前面の所に十九夜・二十三夜などと明記してあるものが多く見出される。また、明記はしてなくとも、十九日、二十三日の造立日付のあるものは、それぞれ十九夜待・二十三夜待の塔と考えることができる。明記もなく日付・のちがうものでも、女人講中とあるのは、十九夜話の人々とみられるがそれは省いた。先の第1表では、月待塔(十九夜塔と二十三夜塔)は文字塔だけを集めており、石仏の方は像容別になっていて、例えば、地蔵で十九夜塔の場合は地蔵の方に分類しているからである。

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 また、この時期には馬頭観音・庚申(青面金剛神)・道祖神などの道立もめだつ。これらほ石仏・石塔・石祀などを一緒に含んでいるので、石仏と石塔・石岡を分けて、どちらがどのくらいずつあるかをみた表をつくってみた。それが第4表である。

 像より塔が圧倒的に多いのが馬頭観音、やや多いのが庚申、塔祀(とうし)の多いのが道祖神、像の方が多いのが如来・地蔵・如意輪観音・その他の菩薩・明王と天・弘法大師となっている。

 光明真言塔が現われるのほ享保期(一七一六~三五)だが、暦期からふえはじめ、これに歩調を合わせて各種経典供養塔や諸神の塔・両がふえてくる。道標もぼつぼつ現れてくる。

 道標が供養塔の性質をもつのは、人に功徳を施すことによって、それが自分に善果として戻って釆て、極楽往生への助けとなるからで、多くは死んだわが子のためにたてる。従って、道標としてではなく、他の仏・塔の形で立てられ、その中に道標を刻むことも多い。他の石仏・石塔に分類されているものの中から、道標を兼ねたものを拾ったのが第5表である

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 とくに馬頭観音が多いのは、馬の神・交通の神として路傍に立てられることが多いからである

 以上、近世中期を概観すると、まさに黄金時代の観を呈するが、隣の阿見町の例などをみても同様なので一般的傾向といえよう。

 ただ、筑波町では元禄から寛政期(一六八八~一八〇〇)が黄金時代とみられるので、土浦などよりは一時期早目の先進地といえょう。

■幕末・近代期

 年代の明らかな石仏・石塔の分布をみると、天保期を境にして、その種類や数が減少してくる。勿論、年代不明のものが四〇%余も占めるから、その中に幕末以降に立てられたものも沢山あったかもしれないが、とに角、大きな変化があったとみてよさそうである。

 まず、如意輪観音や月待塔がほとんど立てられなくなってくる。男性の講ともみられる庚申講の造塔が、昭和まで継続して立てられるのに対し、女性の講の代表とされる観音講や十九夜話の像塔が後を断っているのは何故であろうか。そういえば、老婦人の代表講である念仏講の塔も消えている

 一つ考えられることは、水戸藩の天保改革期に行われた寺院整理、いわゆる廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)政策である。土浦でこれがどう影響したか分らないが、考えられる所ではある。この政策は明治時代に入ると、神仏分離令となりその結果、廃仏毀釈の運動が全国を風靡することになる

 石仏をみると「○○講中」と書かれているものが多い。信仰を同じくする人々が集ってつくった社会集団が講である。講の集会は神仏の縁日に行われるので、毎月か干支一巡毎に行われることになる。石仏石塔は講中の人々が、造仏・造塔の功徳で現世や来世の幸福を願おうとするところから、更に記念碑的な意味もこめて作られるのである。念仏講や観音講・十九夜話など、講そのものは戦後まで続いている。それでも石仏や石塔がつくられなかったとすれば、単に、廃仏毀釈の政策や運動の影響だけとはいえないかもしれない。あるいは、農村地区における女性の地位が下るなどの変化があったのかもしれない。

 庚申塔と並んで馬頭観音の石塔が衰えないへむしろ増加しているのは、農耕馬としては勿論、軍馬の需要もふえたからであろう。

 それと、明治以後神社関係の石岡や奉納石造物がふえた。近代国家になって国家主義が台頭すると、神仏分離・国家神道の高揚などの政策や社会運動がおこって、仏から神へという造塔、道南の変化をひきおこしたからと思われる。

 戦後、ことに高度成長期以降は、物質文明の偏重という時代の波に洗され、宗教的な慣習が次第に消えていき、造仏・造塔も少くなったそうした中で、例外は地蔵であろう。一つは、交通事故の頻発によって、事故死亡者の慰霊と、今後の事故の絶滅を願ってたてられた交通安全地蔵であり、もう一つは、この調査にはあらわれなかったが、妊娠中絶によってこの世に生きる権利を奪われた胎児の後生を祈ってたてられる水子地蔵である。これも世相の反映であろう。

 ところで、石仏・石塔が信仰の遺産の一部にすぎない、ということには注意しなければならないと思う。大きな神社・仏閣は別としてもほかに木造の両堂や神仏像があり、さらに、土地神や氏神を祀った藁宝殿がある。ことに、前にかかげた一覧表で、仏の数に対し神の塔・祀が少いことに疑問をもつ人もいようが、例えば、市内のある所で、「土地神は本当は藁宝殿で祀るもんだ」と聞いたことがある。石祀は金をかけて立派にしたようにみえるけれども、実は毎年つくり代える面倒を省いていると批判されるのである。今年とれた藁で新殿をつくりかえて神に捧げる。それによって自分の信仰も一新される。造りかえることに意義があるというのである

■土浦市南部地区 荒川沖・乙戸付近の石仏調べ