金龍寺

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 金龍寺(きんりゅうじ)は、茨城県龍ケ崎市にある曹洞宗の寺院。山号は太田山。本尊は釈迦如来。

■歴史

 応永年間(1394 – 1428年)、新田貞氏が祖先(祖父とも)の新田義貞追善(ついぜん・死者の冥福を祈って、仏事を行い、またはその人にちなんだ行事をすること。追福)のため、上野国新田荘金山(現・群馬県太田市)に創建した。なお、元亨元年(1321年)に新田義貞が天真自性を開山として創建したとの別伝もある。
その後、新田氏の末裔で一族で新田金山城主であった由良国繁が天正18年(1590年)、常陸国牛久(茨城県牛久市)に転封(てんぽう・所領を別の場所に移すこと・国替)されると寺も同地に移転した現在地に移ったのは寛文6年(1666年)のことである。江戸時代には多くの末寺を有していた。

■追補

 金龍寺の創建は不詳で諸説あり、元亨元年(1321)新田義貞が天真自性和尚を招いて開山したのが始まりとも、義貞の死後一族である岩松満純が新田義貞の追善供養の為開いたとも、応永14年(1407)に由良氏(横瀬氏)が開いたとも、応永24年(1417)に新田貞氏が開いたとも云われています。その後は新田家の後裔である横瀬氏、由良氏の菩提寺として庇護され寺運も隆盛しています。

 当初、由良氏の領地である上州太田(群馬県太田市)にありましたが天正16年(1588)に当時の当主、由良国繁が金山城(群馬県太田市)から桐生城(群馬県桐生市)に移ると金龍寺も随行し、天正18年(1590)の小田原の役の後に牛久城へ移封になると、牛久に随行してます。小田原の役の際、国繁は事実上の人質として小田原城(神奈川県小田原市)に軟禁されていましたが、嫡男である貞繁と母である妙印尼が豊臣軍として行動した為、かろうじて改易が免れ牛久領5千4百石が安堵されています。慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは東軍に与し7千石に加増されましたが跡を継いだ貞繁が元和7年(1621)に急死すると跡継ぎを定めていなかった為、改易、その後、弟である貞長が1千石分が認められ高家として明治維新まで存続しています。

 寛文6年(1666)、牛久藩2代藩主山口弘隆が新たに陣屋築城の計画した際、現在地である若柴に移されています。現在の本堂は天保4年(1833)の火災で焼失後の安政5年(1858)に再建されたもので寄棟、銅板葺、平入、桁行8間、正面唐破風向拝付、境内には歴代新田家の墓碑が建立されています。

 寺宝である絹本著色十六羅漢像(16幅)は鎌倉時代に制作されたもので当初は蘭渓道隆(鎌倉建長寺開山)に贈られたものが執権北条家、さらに新田義貞の手に渡り義貞が金龍寺に寄進したものとされ大正6年(1917)に国指定重要文化財に指定されています。宗派:曹洞宗。本尊:如意輪観世音菩薩

■場所 
所在地  〒301-0041 茨城県龍ケ崎市若柴町866

電   話          0297-66-3469

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■文化財

重要文化財 絹本著色十六羅漢像
参考文献 『日本歴史地名大系 茨城県の地名』、平凡社、1982
外部リンク 龍ケ崎市の文化財(茨城県教育委員会)



■絹本著色 十六羅漢像

絹本著色十六羅漢像16幅は道元が宋から請来したものです。『羅漢図讃集』

 絹本著色十六羅漢像16幅は道元が宋から請来したものです。『羅漢図讃集』にも、建長元年(1249)1月1日、永平寺で羅漢供養を行ったとき、瑞花が現れたことを記した『羅漢供養記』が収録されています
寺伝によると、のち鎌倉建長寺開山の蘭渓道隆に贈られ、執権北条氏を経て、新田義貞の手中に帰したものだといわれています。
羅漢図の表現は、繊細な描線で謹直に描かれ、特に服飾にみられる諸色金泥をもちいた精巧な文様が特色です。
概して描法は和風化されています。おそらく道元請来本を転写したものと推察される本画は、新田義貞が執権北条高時を滅ぼした元弘3年(1333)頃の14世紀前半の制作と思われ、16幅揃った羅漢図の古作として当地きっての遺作であり、美術史的価値は高く評価されています。

■市内説明

龍ヶ崎市概要: 龍ヶ崎市龍ヶ崎市周辺は平安時代後期、平家一門の支配下にあり、当時の常陸国太守平国香が治めていました。しかし、国香は甥である平将門との藤代川の戦いで敗れ、(※ 付近に国香の供養塔と伝わる石碑があります。)その将門も関東を掌握したものの平貞盛と藤原秀郷の手によって鎮圧されます。鎌倉時代に入ると藤原秀郷の一族である下河辺氏(後の龍ヶ崎氏)が龍ヶ崎市周辺の地頭となり長きに渡り支配し室町時代には鎌倉府の関東管領足利氏の信任を得て台頭、しかし、幕府と鎌倉府との対立に巻き込まれ結城城で討ち死にします。この時の結城城攻防戦に功のあった関東管領上杉家家臣土岐氏が龍ヶ崎領主となり現在の龍ヶ崎市を中心に茨城県南部に勢力圏を築きます。戦国時代、土岐氏は上杉家から独立し大名化しましたが小田原北条氏、佐竹氏、小田氏といった大名に囲まれ苦戦を強いられます。

 特に佐竹氏との対立が激しくなると小田原北条氏に従属するようになり、天正18年(1590)小田原の役の際、豊臣秀吉軍により龍ヶ崎城は落城、土岐氏は没落します。佐竹氏は早くから秀吉に対し臣従してきた事もあり、これを機に常陸国を統一し龍ヶ崎市周辺も佐竹領となります。関が原の合戦で佐竹氏は東西中立を保った為、秋田へ移封されると龍ヶ崎市周辺の支配が細かく細分化され複数の旗本領となります。中心にある当時の龍ヶ崎村は仙台藩領の飛地(1万石程度)となり龍ヶ崎城(廃城)の麓に陣屋を築き、仙台領への中継地点として物資の集積場となり経済的に発展し、天領だった若柴村には水戸街道の宿場が設けられ多くの人が行き交いました

■2016.11.5晴れ 金龍寺見学写真撮影

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