桃山の絵画

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武田恒夫

▶開かれた美意識

 三傑の活躍した桃山時代は,織田信長によって室町幕府が滅ばされた天正元年(1573)より,徳川家康が征夷大将軍となった慶長8年(1603)までの30年間に局限することもできる。しかし,絵画様式の上からみると,室町時代末期の永禄年間(1558−70)から,江戸時代初期の寛永年間(1624−44)あたりまでをふくめないと,まとまった時代様式を語ることはできない。いわば中世末期より近世初期にいたる約一世紀が対象となる。支配者や社会体制がめまぐるしく変転したものの,その背後にはなはだ現世主義的な世界観や生活観が支配していたことは見のがせない。現実の生活が,すべての基調となった時代である。彼岸も極楽も,現世とのかかわりにおいてはじめて価値あるものとされた。宗教画が不振であったのも,そのような理由にもとづけられる。中世に数多くつくられた垂迹曼荼羅図社寺縁起絵にかわって,神仏の霊験というより,むしろ大衆の側からする現世利益に主眼を移行させた新しいタイプの社寺参詣量茶羅も生れた。有名社寺の境内を画面いっぱいにとらえ,参詣人で賑いかえる現世的な情景を通じて,信仰の普及をはかるのである。このような参詣図の流行にあらわれた時世粧(じせいそう・流行のよそおい)への関心は,風俗画の出現によっていっそう明かとなる。当世に関するさまぎまな事象をあらゆる観点からとらえようとしたのが風俗画である。武家,公家,諸職人や芸人など庶民をふくむ諸階層が対象となり,さらに渡来した異国の南蛮人にいたるまで,貴賎僧俗のすべてにわたる諸風俗をとらえている。それらは野外や室内の遊楽,祭礼や歌舞伎などの娯楽,合戦や交易などを通じて,いわば現世の曼茶羅ともいえる多彩なパノラマを展開した。これらは近世初期風俗画といわれ,多くは屏風形式による大画面で鑑賞された。これを前にして,人々は現世に生きるよろこびや楽しさを交歓したにちがいない。そのことは,当時の世相がともに語るにたる豊富な内容をもっていたことを意味している。

金屏風001 金屏風01

 現実の人間に対するあらわな関心は,時世を追う風俗画ばかりでなく特定の実在人物に対しても,諸階層にわたる肖像画となってあらわれた。高僧像はもとより,武家や公家,さらに一般の在家層にいたるまで,その追慕像や供養像のかたちで描かれるケースが増加した。夫妻像や婦人像,幼児像をふくむ多くの遺品が,これを物語っている。中世の禅僧肖像である頂相の形式が一般にも広く普及したのである。

 桃山時代にいちじるしく拡大された生活空間に対して,新しい美意識が生れてくる。生活空間を彩る絵画として,多様な障屏画形式が主流となるのであるが,ひとくちに生活空間といっても,さまぎまである。多数者の上に君臨する権力者といえども,ひとりの人間であったから,その生活が常に公式儀礼に終始したわけではない。時には私的にくつろぐことのできる空間も要請された。奥書院や茶室といった大広間などと対照的な在り方を示す,そのような場にもふさわしい障屏画が制作されることになった。美意識の開放は,障屏画に多様な展開をもたらしたのである。

▶金碧と水墨

 儀礼的な対面が行われる大がかりな座敷が武家社会を中心に発展した。主室以下いくつかの間で構成される書院造では,室内の座敷の装備にも格式とそれにふさわしい意匠が求められている。とりわけ障壁画が重要な働きを示した。座敷飾りの諸方式を述べた立花の口伝書によると,真行草の方式があって,真は正式の飾りにあたる。障壁画にも異体があり,大広間には異体の金華画が用いられた。金箔押の画面地は一定のひろがりをもつことによって,光り輝く効果を示す。古くより,仏堂や仏像を荘厳化した金色が装いを改めて,座敷の荘厳化に適用されるにいたったのであるつまり,金碧障壁画は当時の支配者たちがみずからの生活の場に金色の荘厳をもちこんだのであって,彼らの威光を顕示するためには,最も適切な手段となった。大広間はいわば多人数の参会のために開かれた空間である。伺候者である謁見(えっけん・貴人または目上の人に会うこと)の相手を心理的に圧服するためにも,金色は可視的にきわめて有効であった。金碧画のもつ華麗な光り輝く空間は,一人ひとりの鑑賞を対象とせずに,多数者が期せずして共通の心情を抱かせるのに適している。画題のえらびも,山水よりは人物,ことに花鳥に集中されたのは,画面の深さや内容に訴えかけるものでなかったからである。ひとくちに花鳥とはいっても,現存する名古屋城本丸御殿や二条城二之丸御殿の大広間や表向きの御殿における花鳥をみても知られるように,実に多様である。桧や梅,桜や柳など,実物大あるいはそれ以上の花木を主軸として,贋などの猛禽類をはじめ,鶴や鷺などの禽鳥類に小禽をそえ,四季の草花をまじえることもある。これら諸題材の配合や構成に,金碧障壁画の特色が発揮された。

二条城障壁画 二条城天井画

 禅院の障壁画は本来水墨を基調としてきたが,室町末期より一部に彩色が導入されはじめ,さらに桃山前期にいたると,画期的な変化が起った。絶大な権力をふるう豊臣秀吉が檀那となり,その実母である大政所の菩提を祈って創建された大徳寺天瑞寺の方丈には,各室に松,桜,竹,かき菊といった花木花卉(かき)を主題とする金碧障壁画が,狩野永徳の筆によって登場した

洛中洛外図右唐獅子図狩野永徳

 禅院でありながら,あたかも大広間の荘厳をみるような華麗な障壁画が求められたのである。数年後には,天折した秀吉の長子棄丸の菩提寺にも,桜,楓,松に秋草など巨大な花木とそれをとりまく草花の群れを主題とする金碧画が,長谷川等伯一派によって描かれた。これが,今も智積院に遺された著名な障壁画群である。金碧障壁画の流行は,禅院の客殿における様相を一変させた。桃山後期から江戸初期にいたって,そのような例は次第に増加している。

『花鳥図屏風(かちょうずびょうぶ)』長谷川等伯(信春)-六曲一双・16世紀

 金碧画でみのがせないのは,桃山時代に黄金期を迎えた初期風俗画が,屏風絵形式を中心として,その多くが金碧もしくは濃彩によって描かれたことである。当世風のさまぎまな題材を前にして,語り合いながら鑑賞するという風俗図屏風の効用は,正式儀礼の場ではないが,やはり多人数の参会する社交的な雰囲気をもつ小広間などにしつらえられたにちがいない。金碧花鳥図が大広間などの障壁画に,金碧風俗図が屏風絵によりふさわしいものとして制作されたことを遺品が端的に物語っている。

 桃山障屏画は,豪華絢爛たるものばかりではなかった。公私にわたる生活空間の発展につれて,金碧や濃彩によるもの以外に水墨や淡彩の障屏画もその需要の度を高めた。あたかも天守閣や大広間が脚光を浴びたのと同時に,他方で茶室が流行したのと似た事情にある。儀礼的な大広間に対して,奥向きの部屋や御殿も用意された。主人がくつろぐ私的な生活の場である。このような空間に対応するのが水墨障屏画であり,水墨と金碧はいわば表裏一体となって公私にわたる人間生活のそれぞれの側面に対応する障屏画の在り様を示すことになる。

 ところで,中世の水墨障屏画では,制作にあたって馬遠様,夏珪様,牧渓様,玉潤様などと いった中国名家の筆様を絵手本のパターンとしてえらびとるのを常とした。しかし,この方式では、名画の数量や主題,活用の面でも限られた状況のもとにあった。したがって,生活空間の拡大と多様化は大規模な障屏画制作を要求し,一定の様式に律せられた絵師集団の活動を容易にするためには,筆様方式はゆきずまりをきたしはじめた。水墨画系のなかから諸流派が成立したのは集団活動を容易にするための合理的な手段が求められた結果である。つまり,流派の統率者がみずからの筆様を創始し,馬遠様や牧渓様,玉渦様に代って、真,行,草の各方式を確立するという新しい画体方式が体系化されたのである。

 桃山時代に近づくにつれて,水墨画系のなかから流派の結成がにわかに清澄化した。元信のころより画体方式に移行した狩野派が,流派活動の先鞭をつけたが,これに刺戟されて諸流派が続出,いずれの始祖も独自の画体方式を確立することに専念した。障屏画はその技法や主題が建築と密接なかかわりをもっているが,画体もまた重要な指標となった。真体を基調とする障屏画が表向きの儀ネ肋な建築空間にふさわしいものであったのに対し,行草体はむしろ日常的な空間,御座間(おましのま)や奥書院,あるいは茶室付属書院など格式ばらない空間に求められたそれだけにいっそう日本的な感性や美意識が発揮されることになる

松林図

 水墨画は障屏画形式において和様化を完成させていったのであり,個性を存分に披瀝(ひれき・心の中の考えをつつみかくさず、打ち明けること)できる舞台となったのである。桃山時代にユニークな画風を展開させた巨匠たち狩野永徳,狩野山楽,長谷川等伯,海北友松,雲谷等顔らは全て水墨画から出発した画家であったことも注目される。

海北友松の雲龍図

 桃山時代にはすぐれた金碧障屏画と水墨障屏画とがともども創作された。この彩墨にわたる対極性は,いずれも公私にわたる生活の場からの要望に応じて成立した。障屏画は,そのような生活の場に定着し,日本固有の生活感情に支えられながら,和様化の方向をたどったとみることができ,桃山障屏画の特質もそこにみいだされるのである。

▶流派と工房

 狩野派の始祖は正信であるが,流派としての体制を築きあげたのは元信(1476−1559)の時期と推定できる。この元信より幼時に直接指導をうけた永徳(1543−90)は,20歳代の半ばにして早くも永徳様というべき大画面構成の障壁画方式を,永禄9年(1566)の聚光院客殿の花鳥画に実現した。洛中洛外図屏風のような細画方式の作品も若年期にはつくられたがこれは将来の課題とはならなかった。

四季花鳥図屏風00狩野永徳

  天正4年(1576)以後永徳は一派を統率して安土城の天守閣や諸御殿での制作に没頭するが,これは障壁画史上画期的なものであったらしい。その後豊臣秀吉の時代に入っても,その支持をうけ,大坂城や聚落第,内裏などでの制作を次々に命じられ,その大画方式による桃山様式は一世を風摩した。諸大名もこれにならって,永徳に金碧障壁画を競って依頼したため,実のところ細画を描く暇がない有様であった。

 水墨画においても,藁筆を用いた筆法はすこぶる新意にみちて奇々怪々,骨気も正調でありながら奇趣にとむものであったという。かかる大画方式はそのまま当時の狩野派の規範となり,さらに永徳様式はそのまま豪快といわれた桃山前期の時代様式となったところに重要な意義がある。過労のため早死せぎるをえなかったのが惜しまれるが,永徳の活躍によって,狩野派は桃山画壇に不動の地歩をきずきえたのである。

狩野永徳

 桃山後期の狩野派を,実質的にリードしたのは山楽(1559−1635)である。浅井長政の家臣筋の出身で,狩野派の嫡流ではなかったが,永徳の養子となり,その大画方式を発展させるに功があった。豊臣家の御用絵師として,伏見城をはじめ多数の殿舎や関係社寺の障壁画制作に活躍している。元和元年(1615)の豊臣家滅亡の結果,山楽の画歴にも一大転機がおとずれたが,その後の晩年は徳川家に仕え,遺品としてはむしろこの時期のものが多い。桃山後期における水墨の和様化は,山楽の働きに負うところが大きく、彼のやまと絵への造詣の深さを物語っている。風俗画も数多く手がけた。山楽も,この時代の画人としてあらゆる画題をこなし,各種の技法を身につけ,多角的な成果を挙げている。大画面構成をいっそう装飾化し,うるおいある豊麗な画風を創り出したところにその特色をみいだすことができる。山楽の画系は,狩野派の主流が江戸へ移ってからも,なお京都にとどまって,京狩野として栄えた。

狩野山楽

 狩野派が中央画壇に君臨したかにみえる桃山時代であるが,それ以外の漢画系分野において,果敢に勢力の伸張をはかった諸派もみのがせない。その最たるものが,長谷川等伯(1539−1610)であり,独歩の画境を推進して,狩野派の牙城に迫るだけの派閥を結成した。能登七尾の出身で,若年期は信春の画名を用いていたが,34歳どろ上洛して以後,等伯と改名,牧渓様や雪舟様などを学んで,やがて独自の等伯様を確立,長谷川派をつくり上げた。秀吉より信頼をうけることに成功した等伯は,永徳亡きあと,文禄元年(1592)に創建された秀吉の長子棄丸の菩提寺のための障壁画を依頼された。現在智積院にのこる桜楓図などの金碧障壁画群がそのときの成果を物語るが,明かに流派としての統制された様式で一貫されている

智積院・桜楓図長谷川等伯

 狩野派にみられない清新な作風である。一派の絶頂期はその後数年におよぶが,この時,水墨画の傑作もいくつか生み出された。真体の禅林寺波涛図,行体の竜泉庵枯木猿狽乳草体の松林図がそれである。等伯もまた,最晩年には徳川家との交渉をもち,江戸へおもむいての帰途,桑名で客死している。

海北友松

 等伯とならび称せられる桃山画壇の異才に海北友松(1533−1615)がある。同時代人であるが,経歴や画風 性格,さらに処世的な態度にも,両者の相異は顕著であった。友松も,浅井長政の家臣筋にあたる武門の出であるが,幼時東福寺に修業し,やがて気骨にとむ独特の水墨画家として登場するにいたるが,遺品の知られるのは,67歳以後の晩年期に限られる。慶長4年(1599)の建仁寺大方丈の水墨障壁面群が代表作となっているが,真行草のあらゆる画体が駆使され,友松様で律せられているところが注目される。秀吉より愛顧をうけた形跡はあるが,はなばなしい流派泊動を試みたふしはみられない。孤高の画家であったとみられる。狩野派とは異なる画体方式,例えば実体と草体との混用といったアンバランスな手法が指摘されるが,それがまた友松の魅力となっている。水墨を本領としたが,妙心寺三屏風にもみられるように金碧画も手がけている点,当代一流の画家として例外ではなかった。

雲谷等顔--山水図

 友松と同じく武門の血をひく雲谷等顔(1547−1618)は,小早川隆景や毛利輝元の支持をえて,西国を舞台に一派を立てて活動した。雪舟の遺跡である雲谷庵を継承して,雪舟三代を名のっている。雪舟正系を意識しすぎて,時代に即応した新風を生むにはやや稀薄であったが,梅に鶉図のような雄抜な金碧画ものこした。強固な画体方式と流派様式をつくり,等顔を始祖とする雲谷派はその後も代々西国方面で勢力をはり,近世を通じて発展している。

 桃山時代に発揚された集団的エネルギーは,画壇においても各流派の結成をみることになったが,家系を軸としてタテとヨコヘの強力な拡りを示した。世襲制へのつながりの点では流派的性格となるが,ヨコヘの集団的つながりとして発展をみた工房組織もみのがせない。いずれにしても,有力な主宰者の存在が背後に予想される。俵屋宗達は慶長期から寛永前期にかけて活躍した幻の巨匠である。京都の上層町衆の系譜でとらえられる俵屋の名で知られ,扇絵をはじめ色紙や冊子といった小品画,織物などの下絵をつくる工房の主宰者であったとみられる宗達が障屏画制作に向うのは,元和期以後のことであるが,狩野派や漢画諸派のゆき方とは直接かかわりなく,やまと絵古典に対する斬新な解釈をもって,伝統の重みにこだわらない自在さを示した

俵屋宗達-184

 金碧画にみる総金地方式は卓抜であり,新鮮な感覚が彩色や構図にあらわれている。墨絵においても,たらしこみをふんだんに用いて,いわゆる水墨画とは全く趣きを異にする柔軟で軽妙な基調が発揮された。宗達あっての工房であり,宗達周辺の画家たちも数多く存在したが,宗達の家系と画系とを一致させて発展させるような流派的努力はみられなかった。一方で,幕藩体制に呼応した狩野派の組織が,探幽を頂点として強化されはじめた時期に,宮廷文化と町衆文化との接点に結実した宗達芸術の意義は大きい。

(大阪大学教授)