橋本章

000■こまったものだ

橋本 章

 私は、ひとに何かを伝えようとしては決して絵をかいていない。存在物としての「強い絵」をかくことだけを目標としているのだ。弱い絵よりも、強い絵の方が上等というのではなく、絵は強くなければ絵ではない、と私は考えている。この場合の絵とは、壁画や挿絵なぞを除いたタブローのことだが、文学や音楽なぞと異なり、タブローは一瞥(いちべつ・ひと目ちらっと見ること)な芸術なのだ。人間の瞬間な視覚に対し、激しく絡み迫って来る、その強さだ。

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 四年近くを陸軍一等兵で通した不良兵士は兵役除隊を迎え、スケッチの大きな束を抱えて、戦地のフィリピンから職場であった南満州鉄道株式会社(満鉄)大連埠頭局の事務所に帰って来た。すぐに大連市の中央画廊が「戦地スケッチ展」を企画してくれ、それを見た満鉄埠頭局の運輸部長が私を管轄下の美術専門の職に配置換えしてくれた。当時、日本の美術界は戦意高揚を目的とする展覧会に統一されており、その一つの「決戦美術展」が大連市の三越デパートで開催された。同展は、従軍画家の絵に、開催地のベテラン画家のを加えた構成だったが「戦地スケッチ展」の好評で若輩の私も加えられた。絵具は配給制になっておりコンテとクレヨンでべニヤ全判に紙を張って出品画をかいた。私は絵をかくのに、始めに題材を決めたり構図をとったりせずに落書きのようにしてかき始めるが、当時からその傾向で、仕上がった絵は、重い装具を付けて疲れ佇んでいる兵隊群像だった。

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 オープニングの席で、従軍画家の代表が最末席の私のところに来て、「あなたの絵は本当の絵だ」とだけ語り去って行った。従軍画家の絵は絵具をふんだんに使い、上手で俯瞰図などは良いのだが、兵隊の姿が出て来るとスポーツなんかをしているようで空々しく、地元画家のは、無理して戦意高揚な絵をかいているのでひどい。そんな中で私のにはリアリティなるものがあってのことか。・・・別の日、憲兵隊の呼び出しを受け、部屋に入るなり、「おまえのかいた兵隊には戦闘意欲が全く見られない、反戦思想かと怒鳴られ、殺されるかと思った。逃げるように帰ったが追っては来なかった。会社での美術仕事は少ししかなく、三好課長は用もないのに満州は曠野の街に何度も出張させて下さった。再兵役・終戦となり大連市で妻と二人の抑留生活に入った。

 金になることは何でもしたが、一番の収入は中国街に入つての似顔絵がきだった。内地引き揚げの時が来て、長男も生まれていて荷物が持ち切れず、スケッチの何校かを残して、戦地スケッチも大連でかいた油絵も全てを捨てた。大連時代、私は、俳人で満鉄調査部の要職にあった牟田隆治氏に可愛がられたのだが、別れ際に「君はひょっとしたら将来スコイ絵をかくようになるかもしれない」と語り、私の中のその要因をいくつか上げて下さった。・・・まだひょっとしない。

 故郷である戦災の四日市市で、名古屋の映画館の看板かきをしていたが、何ケ月かで、1947年11月28歳結局は当地福島県伊達郡霊山村の妻の実家に落ちつき、幸運にも当時教員不足で中等学校卒でしかない私も中学校美術教師の職を得て、昼は教師、夜は画家の、二重生活に入った。二重生活に耐えられず何度かすごく悩んだが、教師を辞めれば食って行けなくなるのがわかっていたから耐え抜いた。その間の画歴として、早くから自由美術に出品し、会員となり、分裂で主体美術の創立に参加して今日に至っているのであるが、この方は体験出品のようなもので私にとってどうということではなく、審査にも行かないし、出品の勧誘もしていない。・・・私をして、のめり込ませたのは、当地での「前衛美術運動」だ。

 契機としては、やはり美術教師の故安斎邦雄君と佐藤公基君の突然な訪問を受けて、グループ展をやらないかという勧誘に応じてのことだった。私は同じことを長くやるのが嫌いで、四十数年間に四つの運動体を主宰した。最初は十数名くらいの〈福島青年美術会(福島青美)のちの集団ZZE〉で、福島市で十数回と東京都で三回のグループ展を開いた。次は、後期の<新作家美術会〉で、三十名ぐらいの集団展を四回と、集団個展の五回とを福島市で開いた。次は、十名ぐらいで〈企画グループ〉を組み、同グループ主催で県内外に出品要請をして百名ぐらいの、展名を変えての隔年展を五回福島市で開いた。最後は、再びグループ展で〈顔〉を、福島市での一回展の後、東京のキッド・アイラックさんと矢吹町の芸術村さんとに、同じ作品で三回ずつ企画して頂いた。通しての目標は、当然のこと前衛美術の誕生であって、前衛作品は「志向」だけでは決して生まれず・・・自然体である人間は現代文明と、独立する自由人は既成体質と、そうして前衛は保守との・・・戦略と戦力での絶えない闘争の中から生まれる。

 「強い絵」を目標にしていると前述したが、それの媒体である折々のテーマを生ませた、通しての私の題材は何なのか。ひとの指摘もあって、ある時期に、それは「人間の正体」を追求していることだと自覚した。では今の作品に正体がどう現れて来ているかとなると、本人にそれがわかる筈がない。批評家では、〈人間とは何か〉十人の画家によるシリーズ個展=に選んで下さった坂崎乙郎さんは、画集と案内状とで「素朴さとユーモアが見事に一体化され、オブジェも絵もナイーブな情感をたたえていた」「今なお痛烈に非人間的状況に向けられ、しかもそれに屈しない笑いを武器としている」「一本の線から詣諺に支えられて、浮浪者や、とむらいの女や・・・が現れ始める」と。針生一郎さんはシンポジウムで「どの作品もユーモアの域に達して完成している」「現代の寒山拾得」「兵役で四年近くも一等兵で通したのはスゴイ」「新しい手法を獲得するために、ある期間、乱暴な制作に徹するイズムがあるが、強烈なことの嫌いな日本人でやる人は少なく、少ないうちの一人」と語つて下さった。先輩画家、故吉井忠さんは画集に「彼の作品に見え始めた諧謔(かいぎゃく・面白い気のきいた冗談。しゃれ。ユーモア)は・・・案外ここには彼の人生哲学と文明批評が含まれているのではないか。それは十五世紀のネーデルランドに生きた幻想的ヒューマニストであるヒエロニムス・ボッスの姿に近い」と。美術館主の窪島誠一郎さんは、著書〈額のない絵〉三十一人の画家肖像=のなか(物言わぬヒネクレ硬骨漢)と題して私のことを評論された内と、企画して頂いたく画業六十年・橋本章の世界展〉の案内状で「古びた農家の戸板や、こわれた車輪、不用になった農耕具、朱さびた鉄材などを手当たりしだいに蒐めはじめ・・・ぶらさがったボロ布やどニール、鎖といった廃材がふしぎな発色をしめし、何か遠い地底からの生命感をつたえる力強い作品世界をつくり上げた」「現世にあふれる矛盾や欺瞞をするどく撃つかのようにみえて、じつは敵の砲弾にすすんで身を晒そうとする頑強な楯のようにも見える」と述べて下され、≡桜社画廊さんは〈人間その愉快なもの・橋本章展〉を企画して下さった。

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 外に出ての大きな紙にコンテでかく、もちろん写生ではないデッサンも私の画業のうちだ。大勢の人間がわあとこちらに向かって来るのと対面するのが理想で、バックに変化と色彩があり、全体の雰囲気が喧燥であれば、さらに良い。して自分の立つ場所が安全でなくてはならない。・・・東京港の広大な台場埋め立て地は私の二十数年来のデッサン場だ。世界都市博やらをやると突貫工事していた狂気の時期、都市博の中止で草原にビルが群立した廃墟のような時期水面下で何かが蠢(うごめ)くような道路・公園の整備時期、そうしてモノレールが走り大型店舗が連なり観覧者が動いたり催しものがあったりする今日の風景−どの風景の暗も魅力的で私をして彷徨(ほうこう・目あてもなく歩きまわること。さまようこと)させてくれた。さらに、通して愉快にさせてくれたのは・・・人類は自然を破壊して生存して来たので、永久に、絶えず何かをしていなければ自らを持ちこたえられなくなっている、というが・・・それの縮図を見て来たことであった。まさに人間は諧謔(かいぎゃく・面白い気のきいた冗談。しゃれ。ユーモア)な生き物であり、人間の手で造られる施設や街は諧謔の、風景なのだ。

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 物質表現について述べなくてはならない。それは絵具に砂を混ぜることで始まるのだが、エスカレートし「絵画」ではない「物質本位の造形物」も手がけるようになった。その頃、オブジェなる言葉も使われ始め、フランス語の原語で・・・オブは突出する、であり、ジェは、来る者を待ったと遮る、の意味であることを知り、私は我が意を得たと喜んだ。オブジェとは、物質文明下、物質たちが自分たちの造り主である人間社会に対し反逆の闘争に出た造形物なのだ。オブジェを制作するということは、人間である作者が物質側に荷担して、人間社会を攻撃することである。私のオブジェは何処か人間らしい姿をしているが、それは人間の姿に偽装して人間社会の中に組み込ませているからなのだ。ひとに好かれるわけがない。オブジェを制作するのには各種の素材をいくらか加工して手許に蓄えておく必要がある。前には粗大ゴミで子供の三輪車がよく出たし、廃棄物の捨て場は山道を少し入った場所にあり、素材は資材店や中古品店でも買える。一私は漁港が好きで、いくつかの漁港によくデッサンしに行くが、必然か偶然か、まさに漁港は廃棄物の宝庫だった。ロープ、綱、浮き・・・そのつど大きい画材と共に持ち帰るのだが、電車の中では勇気を必要とする。

 昨秋、私は不覚にも緊急入院し、八日間も集中治療室にいて見たたくさんの幻覚のうち、こんなのがあった。いま私は、画面の何処かに穂先で突っつく行為で超微細な部分を創ろうとしているが、それを始めた私の行為と全く同じ作業を、スウェーデンの画家が、同じ速度と色彩と手先でもって同時に始めたのだ。世界中が騒然となり、福島日赤病院はマスコミ陣に取り囲まれ身動きがとれない。−やりたいことが山ほどあり、あと何年生きられるかだ。  (はしもと・あきら 画家)