生きること・描くこと

000■橋本章の芸術

酒井 哲朗

1.画家への道

 昭和54年(1979)11月に福島県文化センターで、「北方から撃て」というサブタイトルをつけた「’79東北現代作家展」が開かれた。福島、宮城、山形、岩手、秋田県の気鋭の作家31人が結集した展覧会であったが、私はここで橋本さんの作品をはじめて知った。宮城県美術館開設準備のために、前年に仙台に来た私は、宮城県関係の作家をフォローしていて、橋本さんの作品に出会ったのである。《私の福島県(重症の人)》、《私の福島県(居座りの人)》という2点の作品であった。土着の風土を意識させる、ヒューマンな強いメッセージをこめたこれらの作品は、深く印象に残った。その後も何度か作品にふれる機会があり、いつも遠くから敬意をもって橋本さんの仕事を見ていた。それから20年余も経って、この福島県立美術館で、橋本さんの個展を開くというめぐりあわせになった。

 あらためて橋本さんの経歴をつぶさに知るに及んで、次のふたつの点に興味を惹かれた。ひとつは、橋本さんは生来(ネイティヴ)の東北人ではなく、三重県四日市生まれであったこと。もうひとつは、絵は、社会人になってから旧満州(中国東北地方)で苦学して学んだことである。私もいわゆる「引揚者」であり、終戦の頃奉天(藩陽)にいた。また、前任地が三重県であり、美術館という仕事がら地域の文化風土にかかわることになり、四日市はなじみ深い。そんなわけで橋本さんには格別の親近感をもつが、私が興味をもったふたつのことは、単なる個人的感情ではなく、橋本さんの芸術の本質に深く関係すると思われるからである。つまり、橋本さんの芸術は、生得的な東北人の情念の表出というような単純なものではなく、その土着性は、画家が自らが生きる風土の中で、自らの意志によって形成したものだという点である。

 橋本さんの回想(「父源之助のこと」『無番荘4号』・昭和47年10月)によれば、父上は四日市の小学校の名物校長で、三重県の体育史に残る人物であったらしい。学校でも家庭でも厳格な教育方針を買いたというが、一方人間味豊かな豪快な人柄であったようだ。橋本さんは美術学校に進学したいという希望をもっていたが、父親の方針にしたがって、商業学校を卒業して貿易会社に勤めた。その後赴任した大連で本格的な絵画修業をはじめることになった。体育系を硬派とし文学や芸術を軟派とみなす風潮がかつてあったが、橋本さんは父親の期待に背いて絵画の道に進んだ。だが、自らの意志を貫く反骨の精神、そして時代や社会の矛盾に毅然として立ち向かう橋本さんの芸術は、いわば硬派の芸術であり、そんなところは父親の血脈を引いているように思われる。

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 橋本さんは、大連で勤めのかたわら、夜大連洋画研究所(大連美術学院)に通った。1年ほどで会社を辞め、研究所の昼間部で学び、いまでいえばフリーターのような仕事をしながら、絵の勉強をした。このような暮らしを2年余りつづけ、地元の展覧会で入賞したりしていたが、昭和12年に平島信という研究所の主宰者の推薦で南満州鉄道株式会社(満鉄)に入社し、宣伝美術を担当した。だが、3カ月くらいで兵役につき、軍隊生活を4年ほど、中国や南方に配属され、肺浸潤にかかって病院生活を経験し、昭和18年退役、再び満鉄に復帰する。しかし昭和20年再度応召、奉天で終戦を迎えるが、大連に脱出し、そこで抑留生活を送り、帰国したのは昭和22年27歳、すでに一児の父親だった。

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 橋本さんが研究所に通いはじめたのは17歳、20歳で兵役についたが、軍隊時代もスケッチを怠らなかった。除隊した昭和18年に決戦美術展に油絵《転進》を出品、大連の中央画廊で戦地スケッチ展を開いている。港で船を待つ兵隊の群像を描いた《転進》は、憲兵から「戦意昂揚」の意欲に欠けると叱責されたという。このように橋本さんの絵画修業は、実社会の実生活の中で鍛えられたもので、このことは橋本さんの現実感覚を育て、その表現には、現実社会に根ざした強敵なリアリティがその当初から内在している。

2.作家活動 

 橋本さんは昭和22年(1947)2月に帰国し、その年の9月に四日市から夫人の実家である福島県伊達郡霊山村に移り住み、11月には霊山中学に教師の職を得ている。以来、作家と美術教師という二重生活に入ったが、橋本さんは、作家として常に第一線で活躍するとともに、教職の方も定年退職まで立派にその職責を果たし、見事に両立させた。美術教育の面では、昭和47年(1972)に福島県中学校教育研究会の美術部長、同50年(1975)には県造形教育連盟理事長、全国中学校美術教育連盟副理事長、北海道東北地区理事長を兼ねるなど、教育者として信望が篤かった。教育現場の体験というものも、現実認識という点で、橋本さんの芸術に少なからぬ関わりをもったように思われる。

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 橋本さんは福島に来たその翌年の昭和23年に第2回福島県総合美術展に《海辺》を出品した。昭和30年代に2度ほど入賞した後、昭和36年(1961)から招待出品になり、以来昨年の第56回展まで毎回出品している。昭和37年にできた福島県芸術祭秀作美術展にも、ずっと出品を続けている。はた目には、この種の展覧会は、橋本さんの芸術信条とは相容れにくいと思われるのだが、この驚くべき律儀さは、まわりがどうあれ自らの信条を貫き、地域に根を下ろして生きて行こうとする橋本さんの誠実の証というべきものであろう。

吉井忠、麻生三郎 吉井忠「落日」(1938年)

 昭和25年(1950)31歳に橋本さんは第14回自由美術展に入選した。この頃の自由美術は、ヒューマニズムとデモクラシーの思潮を色濃く反映していた。しかし、何よりもこの会に福島の先輩吉井忠・上図左右がいた。吉井は1930年代に前衛的なシュルレアリスムの作家として注目されたが、戦中の強圧的な思想統制下に農民や農村にモチーフを求め、東北の風土に根ざした新しいリアリズム絵画を追求した。橋本さんは、吉井忠を一歩前を歩く作家として、指標としたようだ。昭和39年(1964)45歳に会員がふえてふくれあがった自由美術の会のあり方や運営をめぐって内部分裂がおこり、主体美術が創設された時にも、橋本さんは吉井忠と行動をともにした。この主体美術展には、いまにいたるまで出品を続けている。

 橋本さんの作家活動において、昭和28年(1953)に橋本さんら福島の作家たちが結集した福島青年美術会と福島青美展、昭和32年(1957)に郡山を中心にした作家たちと橋本さんが加わった新作家グループ(のち新作家美術会)とその展覧会、この両者はしばしば合同展を開いたが、これらのグループ展は、橋本さんの芸術形成の上で、重要な意味をもっている。橋本さんは、これらの展覧会で自由奔放に造形上の実験を行い、その成果を自由美術や主体美術、日本アンデパンダンなどの展覧会で問うというかたちで制作活動を展開してきた。こうして橋本さんは、地域の先鋭な美術運動の核となり、東北の現代美術の中で重要な存在となった。

3.その芸術

 橋本さんが絵画に求めたのは、その当初から、うまく描くことではなく、真実を表現することであった。戦後再出発した頃は、表現主義的な具象絵画を描いていたが、次第に抽象的構成の人物像に移行した。1950年代半ばになると、アンフォルメル旋風に呼応するかのように、その表現は急速にラディカルなものになっていった。

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 今回出品される作品でいえば、《作品黒》(1958)上図のような、絵具に砂をまぜて画面の物質性を強調し、行為の痕跡であるオートマテイツクな線描を刻んだ作品である。また、《赤い盾》(1961)下図のように、古板に砂をまぜた塗料をぬった平面上に、鎖の実物をとりつけた作品も現れる。

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 橋本さんは、当時『福島青葉』第2号(1961年11月)に、「強烈なるもの」と題して、短いが注目すべきエッセイを寄せている。「”絵画”する。とは、自己の精神構造の組み立てを平面化する」ことである。現代はや強烈なもの。を希求する時代であり、それは「あくなき欲望の上にたった独特の内部構造から生まれる」もので、「強烈な自己主張」は「現代の持つ宿命」に対する防衛であり、「強烈なる防衛は挑戦に始まる」「強烈な挑戦はより孤独なあり方から生まれよう」という。

 橋本さんのマニフェストであり、芸術は現実に拮抗し得るという信念にたち、現実の不条理に対し、根源的な生命感情に基づいた精神の変革、芸術の変革を主張するものであった。橋本さんの芸術活動は、このマニフェストの実践であった。グループ展の活動も、集団個展という発想にみられるように、「孤独なあり方」と矛盾するものではない。《赤い盾》はそれを作品として示したものである。盾とは他者を遮るものであり、自らを防御するものである。防衛は挑戦に始まるというように、《赤い盾》は挑戦的な作品である。

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 この強烈なるものを求める橋本さんの自己主張や芸術の変革は、1960年代はじめは、《なまけもの》(1962)上図のように、平面よりも日常的な¢モノ。を利用したオブジ工という手法によるところが大きく、このオブジェ制作は、古い土蔵の廃品によって構成した《YANAGAWA》(1964)において最高潮に達した。しかし、オブジェによって発見した解体と再生の方法は、その後60年代後半から平面において橋本さん国有の作法として、イメージの次元で追求されることになる。

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 《ビルディング》(1967)上図右や《SARABA》(1970)上図左は、断片的なフォルムの集積によって画面は構成されているが、浮遊感があり、線的な要素が強い。《えっこらぽっぽっ》(1972)や《旅は道づれエツポッポ》(1976)では、画面はダイナミックな曲線的なフォルムによって重層的に構成され、赤、黄、緑など橋本さん独特の色調が明瞭に現れる。恐らくこのあたりを橋本様式の確立とみてよいのであろう。以後、多様に豊かに展開されていく。

 橋本さんは、「絵画にとって重要なのはそのテーマだ」と断言する。この時、テーマとは単なる主題を意味するのではなく、いわゆる主題主義とは無縁である。橋本作品の題名は、人間そのものを指していたり、「旅は道連れ」「花も嵐も」「おばんです」など、ユーモラスに人間しぐさや行為、状態などを表している。それらを通じて、橋本さんは、その芸術において、終始人間と人間の置かれている状況をテーマにしてきたといえるだろう。

 橋本さんは、「魔」と名づけた作品をいくつか制作している《赤い盾》という作品は、発表当初は《魔2》だったものをのちに改めたものである。橋本さんは、あるところで、表現行為というものは偏執や魔性の世界に没入してしまう、と語っている。それならば、「魔」とは自らの内部のデーモンを解き放つ試みということになり、橋本さんのすべての作品の別名は「魔」のシリーズといういい方もできる。私がはじめて見た橋本さんの作品である<重症の人》下図も、しばしば登場する兵士たちも、「魔」という観点からみれば、すべて橋本さん自身、一種の自画像といえるわけで、なかなか興味深い。橋本さんは文明批評のイラストレーションをしているのではなく、人間の状況を自らの内部の問題として表現しているのである。

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 橋本さんの作品は題名がユーモラスであるだけでなく、作品の形象においてもユーモラスである。ユーモアとは、批評精神のひとつのあり方である。対象との関係の仕方といってよいと思うが、そのユーモアは、橋本さんの精神の柔軟さ、人間としての優しさを表しているように、私には思える。

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 橋本さんは、1978年頃からオブジェ制作を再開した。<看守さん》(1978)上図左≪歩く人》(1981)上図右などから、近年まで続いている。椅子、三輪車、漁網、水道の蛇口等々、日常生活で使われ捨てられた廃品を合成し、彩色したオブジェである。これらは物そのものとしてではなく、毒々しく彩色され、禍々(まがまが・悪いことが起こりそうな予感をさせる。)しい表情をもったアグレッシブな異物として再生される。これらのオブジェは、イメージのみでは満たされない根源的な感情を、物を通じて表現したものである。それはまた、平穏な日常性に対する反乱として、橋本さん自身にも向けられたものでもあったろう。

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 平行して制作された平面作品、たとえば〈えっこらさ〉(1978)上図左、《兵士たち》《武装する都市〉(1979)、《重症の人》(1980)、《大砲と足》上図右(1984)などは、平面という制約が表現の密度を高め、これらのユーモラスな形象は、画家橋本章の魅力を存分に表している。橋本芸術がもっとも充実した時期であったと考えられる。

 近年は、絵画とオブジェを結合したような作品が制作されている。橋本さんは、絵画の幻想性だけでは満足できず、現実の事物に強いこだわりをもっているようだ。だがやはり、橋本さんはオブジェ作家であっても、スカルプター(彫刻家)ではなく、ペインター(画家)である。

 戦争を体験した橋本さんは、あらゆる非人間的なものに抵抗する。橋本さんがその芸術においてめざしたのは、「人間の復権」である。戦後の日本は、人間の欲望が生みだした物質文明が、人間性を抑圧したり歪めたりするという困難な状況をむかえた。自然とともに生きる人間の根源的な生命力を重視する橋本さんは、このような状況に抗して、解体と再生の儀式を繰り広げる。そんな橋本さんを、吉井忠は、敬愛をこめて、「野の魔術師」と呼んだ。 (さかい・てつを 福島県立美術館長)