中原實(minoru)

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■純理の速度一大正期新興美術運動のなかの中原實

五十殿利治

 「正確なる奇蹟のpeintre」と、北園克衛は『アトリヱ』誌1930(昭和5)年4月号に寄せた「星のピラミッド」という中原實頌でこの画家を称えた。

 理知を超越した「奇蹟」に「正確なる」という厳格な形容詞を結びつけたことは、シュルレアリスムの常套手段によるあの強引なメタファーというより、むしろこの作家を日頃からの交友によって鋭く見抜いていた詩人の直裁な表現と解するほうが妥当であろう。同時にそれは大正期の新興美術運動・・・ひいては我が国の近代美術の運動・・・において中原実が果たした役割を的確に割り出すために有効な基本的な認識となるように思われる。というのも、大正期の新興美術運動についてはいまだ解明されていない空白が多く、中原實という画家の存在もまた我が国の近代美術史が抱えるひとつの難問だからである。

 新興美術の名が冠せられるように、この時期には世紀初頭のヨーロッパにおける最新の美術思潮がつぎつぎに紹介され、造形活動と理論活動は多かれ少なかれそれを主軸に展開されることになった。 神原泰によるイタリア未来派、亡命ロシア画家ブルリュークと木下秀一郎によるロシア未来派、あるいは村山知義によるダダと構成主義のアマルガムである意識的構成主義など、さまざまなイズムがつぎつぎに紹介、唱導され、絵画表現としても不可避的な逸脱や歪曲をふくみながら実践された

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 神原にしろ、村山にしろ、そこには従前の新美術の紹介・・・たとえば「彼等にセンシブル(感受性がつよく)になる程自分は暇のある気になつてゐられない」とした木村荘八による立体派紹介(『芸術の革命』1914年5月刊)・・・のように対象への情熱を欠く中途半端な、あるいは冷淡な立場のものとは一線を画す、真筆で一途な姿勢がうかがえる。芸術理論家としての中原實は神原ほどオプティミスティックで自己肯定的ではなく、プルリュークや木下ほど開拓者的ではなく、また同じ時期に欧州に留学していた村山ほど挑発的で暴力的でもなく、まことに特異な位置を占めていたといえる。

 新興美術運動におけるこの中原宴の特異な位置とは一言でいうならばきわめて理知的で明噺な論客としての役割を担ったことにある。彼の理論は芸術上のいわゆるイズムとはおよそ趣きを異にしており、「芸術」だからといって容赦されないような、科学的・数理的な整合性にむけて積極的に開かれた、いまひとつ別の冊むろん荒唐無稽ともいえる一芸術体系を目指していた点で孤高ともいえる位相で展開されることになった。

 ひとつのイズムに別のイズムを対置するのが通例になった当時、中原實の冷例な着想と計算を、はたしてどれほどの人間たちが理解しえたのかわからない。。おそらく、新興美術家を含めて多くの画家たちにとってはその理知的な情熱自体が不可解なものであっただろうし、その理論はなにかしら超絶したものとして、ある及び難さと近づき難さをもって受け取られていたのではなかろうか。反面、中原實という一個の画家=理論家にとって、この理解の彼岸にあるがゆえに絶対的ともみえる距離感こそが、自分の芸術を成立させる必須の条件でもあったはずである。北国が喝破したように彼の芸術がまさに「奇蹟」であるならば、「正確なる」ものはこの距離感の存在に置き換えられよう。

 もっとも、こういったからといって、芸術家としての中原實がつねに安全な距離を保ったまま確実で容易な道を歩いたと考えるのはあまりに非芸術的な見方である。とりわけ大正期の新興美術運動においては。それは別の芸術体系への転換をひとり夢想するような中原さえも巻き込むような、短命ではあったが一気に活力が噴出した運動であって、作家たちを押しだし、日本の近代美術においては未開拓の辺境に、狭量なプロフェッショナリズムを打破アマチュアリズムするものおじしない大胆さと脱領域的な志向によってしか乗り越えられない境界を突破して、ひとつの重大な局面に進出させた。だからこそ、1924(大正13)年11月画廊九段を開設し、無選首都展を組織する一方、1925(大正14)年の「劇場の三科」では自ら軍服をまといフランス軍人の役を演じ、さらに1927(昭和2)年の単位三科による「劇場の三科」でも自ら劇を執筆し、自ら装置を考案し、自ら演じたという雄弁なる事実。以下ではこうした画家=芸術理論家としての中原貫の熱烈な大正期の新興美術運動への関わり方をさらに具体的にみていくこととしよう。

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 1923(大正12)年5月大戦後30歳のヨーロッパのさまざまな新芸術に触れて帰国した中原實は芸術家、芸術理論家としての活動をただちに開始している。画壇への最初の登場はこの年の9月の第10回二科展、関東大震災によって東京展を断念せざるをえなかった不運な展覧会であったが、しかしそれ以前にすでに彼は理論家としての片鱗をみせる機会を得ていた。すなわち8月6日に中央美術社により本郷燕楽軒で開催された「中央美術の会」の発会式に呼ばれ「新帰朝の中原實氏が最近の独仏画壇の事に就て講述した」という(「第一回中央美術の会」『中央美術』1923年9月号)。残念ながら講演内容は報じられていない。おそらくパリで知己の間柄となった中川紀元の肝いりではないかと推察されるが、これ以後、同誌に彼はドイツ美術の紹介文をしばしば掲載することになった。

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 既述のように「末曽有の厳選」といわれ内憂外患の二科展に「モディリアニの美しき家婦」と「トレド」が初出品初入選し、中原實は画家としてもいちはやく頭角をあらわした。前者は顔貌、とりわけ眼の表現に特色のある文字どおりモディリアニ風の女性像である。この作品が大いに注目を受けたことは開会日の1923(大正12)年9月1日の東京朝日新聞朝刊に中川紀元の「入浴」とともに図版として複製されたことからも頷(うなづ)ける。これが機縁となったのだろう、中原は翌年の「アクション」展に参加することになった。「アクション」同人の側からすれば、新帰朝で、しかも関係がぎくしゃくしはじめたとはいえ、自分たちの母体でもある二科にさっそうと登場した新進作家の中原の加入は、力強い援軍といえたであろう。

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 その「アクション」第2回展は1924(大正13)年4月に三越で開催された。展覧会目録の発行について不明なので、出品内容ははっきりしない。

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 中原實についても確実なことは大正期の新興美術における代表的な作品「ヴイナスの誕生」と「山の旅」が出品されたという事実だけである。村山知義はまず間違いなくこの作品を念頭において「アクション」展評(「アクションの諸君に苦言を呈する」『みづゑ』1924年6月号)で、ほかの同人の場合と同じく、ほとんど八ツ当り的に「こんどの展覧会で一番ひどいのは、中原實氏のゲオルグ・グロツスの模写」と断じた。むろん、ベルリン・ダダの代表作家であるグロツスの影響をぬきにしてこの作品を論じることはできないであろうが、それだけの指摘では村山の作をたとえばシュヴイツタースの模倣といって済ませるのと五十歩百歩であり、それ以上の考察を停止させてしまう不毛な議論となろう。

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 その点で瀬木慎一は「当時の世相を未来派のセベリーニの描法で描いたもの」という注目すべき作家のことばを紹介している(「作品にみる『日本のレオナルド』の偉業」『中原實画集』所収1984年刊)。「世相」はドイツ、とりわけベルリンのそれととるべきであろうが、画面がさまざまなイメージの断片化と合成で構成されているのと同様に、こうしたドイツとジーノ・セヴュリーニGinoSeverini(フランスをもっぱら拠点として活動したイタリア未来派であるが、この時期にはすでに別種のリアリズムに移行していた)といった取り合せのちぐはぐさ、ないし異種交配性は20年代の美術のある側面を示しているように思われる。つまり、私たちはドイツといえば表現主義や新即物主義とステレオタイプで考えがちであるが、当時ベルリンに亡命ロシア人が流れ込み、またイタリア未来派が独自のドイツ語の雑誌を出すようにして活動したように、美術をめぐる状況に照してみると、ドイツの世相をこのようにイタリア未来派画家の手法で描写することは、あえて国際的とはいわないまでも、すぐれて20年代的な現象といった側面があるのである。

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 もっとも中原實の「アクション」参加の明確な表徴は出品作品というよりも、むしろ理論家としての面に現われたというべきであろう。第2回展に際して『みづゑ』『中央美術』『アトリヱ』という各美術専門誌に同時に、しかもかなり性格の異なる評論を発表したのである。それまで「アクション」のスポークスマンといえば神原泰であったのが、ここでさらに中原實という独自の個性が加わり、「アクション」運動にいっそうの奥行がでてきたように思われたことであろう。しかも、『みづゑ』誌上では村山の「アクション」への辛辣な批評の直前の部分に中原自身の一文「アクション」が掲載された。口絵でも村山のコラージュ「在る女」と中原の出品作「山の旅」が複製されるという次第で、明白にこの新進の論客二人が意図的に(一方は型破りで挑発的、他方は独立独歩で理知的と)比較対照されているようである。

 中原實に対する期待はそれほど大きかったし、彼はその期待を裏切ることなく、『みづゑ』では軽快な筆致で、『中央美術』では形態分析に数式を活用する科学的な志向で、さらには『アトリヱ』では同人に対しても党派に束縛されない評をくだす分析的な美意識で、その多面的な才能の一端をみごとに披渡することになったのである。

 1924(大正13)年10月31歳「アクション」は解散を余儀なくされたが、このように独行する作家として登場した中原にとっては、予想された事態が到来しただけのことであっただろうし、むしろ自ら新しい運動を開始するための口実となったのではないかとさえ考えられる。彼もなるほど同じ月に木下秀一郎の音頭で結成された「三科」に加わるが、しかし中原實の本領が発揮される舞台が同時期に着々と準備されつつあった。すなわち、画廊九段の開設と無選首都展の開催である。展覧会以上にこの画廊が果たした役割には大きなものがあった。つまり、ひとつの場として無選首都展から中村葬遺作展までじつに種々雑多な展覧会が開催されただけではなく、出品作の審査会場となり、あるいは「劇場の三科」のための舞台稽古の場所となり、さらには岡田龍夫や平林たい子らのアナーキーな作家たちのたまり場(平林の自伝的な小説「砂漠の花」に描かれた通りの)となるなど、まさしく変幻自在な、活性化された空間としての機能を存分に果たしたのである。

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 そもそもの設立について、中原實は後年ある会見記のなかで「アクション」解散の直接の契機となった主な同人の二科落選をみて父親の中原市五郎博士が画廊を建てる援助を申し出て、中原自身の設計、施工は伊藤文四郎により「非常にシンプルなモダンなかんじなもので、丁度当時ボツボツ流行り出していたコルビュジェのような感覚の建物」が竣工したと回想している(東京国立近代美術館ニュース『現代の眼』193号1970年12月)。翌年1月号の『中央美術』誌はその白亜の画廊の竣工直後の写真を掲載して、建坪72坪、壁面150坪、さらに「8尺に10尺の衝立五ヶ所」と設備について紹介している。

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 それ以前のことだが、時事新報も記事「中原博士令息が建てる美術館」(9月28日朝刊7面)で建設までの経緯をはじめ、9月27日から工事が開始されたこと、そして竣工の11月からは無鑑査による展覧会を開催し、15日ごとに出品内容を変えること、「首都美術展覧会」「首都美術科綜合展覧会」「日本アンデパンダン」の名称のどれかを選ぶ予定だが最初のものが有力であること、さらに「同人廿余人」で「委員」(会員ではなく)として、中原を筆頭に、山崎清(1901−1985)、河辺昌久(1901年生)、後にフランスに留学し二科展で活動するが当時は飛行の印象を描いた未来派的な仕事で評判をとった山路壱太郎(真護、1900−1969)、峰岸義一、山本行雄6名を報じている。

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 この6名で画廊新設とそれに伴う最初の「第一回首都美術展覧会」の案内状が配付されたようであるが、その後画廊建設の遅れによる展覧会の会期の変更通知で委員の顔ぶれが一新した。「アクション」以来の山本が抜け、新たに新進美術評論家の仲田定之助、安宅庸雄、加藤隆久、市川均が参加している。なお展覧会名は翌10月19日づけの東京朝日新聞記事「芸術運動の為にギャラリー九段の建設」によれば「首都美術展覧会」で落ち着いたことがわかる。

 「首都美術展覧会」の組織についてみよう。上述の最初の案内状におそらく同封された「出品規定」が残されている。内容的な規則については一切なく、会場と開会日(11月15日)、閉会日(「出品多数ナルトキハ十五日毎二掛換トシ以後連鎖展トス」)、搬入期日(11月1日−10日)、そして連絡先だけが記載されただけのいたって簡潔なものであった。このことは厳格に無鑑査を貫こうとする意図を告知している。河辺が委員を代表して12月号の『みづゑ』に書いた「首都展」で「すべてをゆたかに許容する」この無鑑査展で出品点数を会場の関係で5点に絞り(しかし15日ごとに換える)、また公募広告が全国的でなかったことについてあえて説明している事実も、無鑑査展へのなみなみならぬ意欲を物語っている。

 もっとも、首都展の成立には同展関係者たちの意図を超えた、ひとつの気運が背景にあったと思われる。つまり、「アクション」解散、さらにこの時期に村山自身が告白していた「マヴォ」運動の停滞など、新興美術の運動がひとつの節目を迎えており、局面の打開をはかるために新しい理念をもった清新な団体が求められていたのである。そこへ『みづゑ』11月号に横井弘三の「日本無選展覧会の時期来る」という呼びかけと同時に、木下秀一郎の「三科」設立の提唱が掲載された。彼はおそらく以前自ら奔走した三科インデペンデント展(1922年10月)に学んだ教訓からであろう、かならずしも無選展を標梼したわけではなかった。しかし、なにかにつけ会員が専横するという二科への反発から、より自由な開放された展覧会を三科として興すことを唱えたのである。

 翌月号には木下による「三科」成立の報告と同時に中原實の「ステキに立派なギャラリー」を「自己の自由境」として利用されたいと推奨した一文「三科展の私の記事を読まれた方々へ」、同じく三科と画廊九段の試みを歓迎する村山知義の「展覧会組織の理想」、さらに河辺の首都展紹介の文章が載ることになった。一方、前出の時事新報記事でもこの三科の成立に関連して、旧「アクション」系、「マヴォ」系そして木下の一派による「三角連盟」がこの画廊九段を「中心に成立した」と報じていた。このように画廊建設が大きな波紋を生じさせて、無選展と新組織という要求がせめぎあい、同義的な意味づけ、あるいは相乗的な効果をもたらしたのだった。

 さて首都展はいよいよ1924(大正13)年11月20日31歳に開幕した。東京朝日新聞は23日朝刊に「二十日開かれた首都展」という見出しの記事で貴重な会場写真を掲載している。同記事に「マヴオやダダの新派から未来派、立体派、印象派、メカニズム、古典の写実派等様々」とあるように、写真でも手前の壁にはコラージュないしレリーフの類が、奥の壁にはタブロー作品が掛けられていることが判断できる。記事はまた出品点数について「百六十余点」と報じたが、これは一般出品の数(164点)で、「GAROKUDAN TOKIO/“SCHTO”−KUNSTAUSSTELLUNG/20−30,NOVEMBER1924」というドイツ語表記の展覧会名が印刷された一枚物の出品目録には各委員による出品を加えて全部で191番までの記載がある。出品者の顔ぶれをみると、木下、渋谷修といった旧未来派美術協会の作家、村山、岡田龍夫、矢橋公麿、戸田達雄というマヴォ系の面々がおり、さらに横井弘三、建築家の石本喜久治なども作品を出したもようで、旧「アクション」系の不参加が目立つとはいえ、出品作品と同様に多士済々で、あるていど無選展に期待された効果を発揮することができたといえるだろう。

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 展評としては、『中央美術』に画廊九段の紹介とともに出品作の図版2点(ただし題名と作者名が互い卦)になっている)が掲載されたが、それとは別の部分に、委員のひとりによる「第一回首都無選展評」がある。評者はとくに加藤隆久の「死へ渡す時の計算者のメカニズム」(目録180番)に関連して「題材、及び題材に依る説明的内容は確かにメカニズムであり得るが、純画の境地からはメカニズムに離るゝことを認める」と指摘しているが、河辺の出品作で、現在は板橋区立美術館所蔵の「メカニズム」(目録175番)山崎自身の「疫病と騎士のメカニズム」(同187番)があったように、首都展の美学的な主張としてメカニズムという概念を打ち出そうとしていたことがわかる。これは「当時の画壇へのアピールとして、メカニズムの導入をモチーフとして絵画部門にきりこんだ」という河辺の回想によっても裏づけられる(「画廊九段のこと」『河辺昌久画集』所収 私家版1980年刊)。なるほど委員たちは医学(山崎、河辺)や飛行(山路)に従事するものが多いとはいえ、コルビュジェなどによる「エスプリ・ヌーヴォー」への共感に発したと思われるモダニズムの美学「メカニズム」という語が科学や工学を連想させること・・・事からして、その理論的な根拠ないし霊感を提供していたのはまず間違いなく中原であったとみなされよう。

20130328_6869d5 河辺昌久画集

 当初「首都美術展」と呼ばれた展覧会は委員のひとり山崎が展評を書いたときにはすでに「首都無選展」と「無選」を冠したものに改称されていた。これによって展覧会の開催主旨がより明確になったことは疑いない。またこれと相前後して、時事新報の「美術界」欄をみると(12月12日夕刊3面)、会員の構成が変り、新たに村山、横井、そして石本が加わり、それまではどちらかといえば、中原實の影響力が強く働いていたところが、むしろ展覧会としての充実を優先するようになったのである。

 こうして第一回展が終ったが、画廊九段の活動はさらに加速されることになった。まさしく矢継ぎばやに重要な展覧会が開催されたのである。実質的に三科が成立をみたものの、展覧会などの活動が開始されていない時期に、画廊九段が新興美術運動の強力な推進母体となったわけである。首都展後、最初の展覧会は報知新聞主催の「北欧新興美術展覧会」(12月1日−15日)である。これは同年6月丸善書店で開催された「欧州表現派展」をさらに発展させたかたちで、仲田定之助、石本喜久治、宗像久像収集のドイツを中心とした現代作家の仕事を紹介した(水沢勉「わかちあった情熱」『1983年度神奈川県立近代美術館年報』)。仲田によるていねいな紹介文を掲載した図録も刊行されている(下図版)。

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 1923年9月号から『中央美術』に「ドイツ現画壇の主潮」のような評論を連載していた中原にとっても好ましい企画であったにちがいなく、自ら「重要な催し」と述べている(『現代の眼』前出会見記)。

 その次は年末となったが、マヴォ展であった(1924年12月20日−30日)。出品目録は知られていないが、さいわい出品者のひとり加藤正雄による展評が翌年『建築新潮』2月号に載っており、「出品点数八十余点、現在のマヴォイスト六人とその他合せて十二人」であったことがわかる。年があけて1月−2月の展覧会については不明であるが、3月1日からは中村彝の遺作展が故人の友人たちの尽力で催された(15日まで)。つづいて3月22日から29日まで日露芸術協会主催の「ロシア芸術展」が開催され、東京朝日新聞の一連の報道によると出品は人形、写真、「農民美術品」などじつに雑多のようだが、なかに「アルヒペンコやシャガールやカンヂンスキーの作品も数点」あり、また「ブブノワ女史の未来派の版画」も含まれていた。

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 4月1日から17日まで、2回目の無選首都展が開催される。目録によれば点数こそ前回並みの189点であるが、出品者も増え、明らかに第1回展よりも内容的に充実した感がある。目録にしかるべく「会則」や「出品規定」が掲載されている。出品者の陣容はあいかわらず「アクション」系は参加せず、木下等も抜けたが、「マヴォ」系はさらに高見沢路直や住谷磐根や柳川税人が加わるなどして中心的な勢力となりかけていた。中原自身はここで「Atomic l 1925」(出品目録189番)を出品している。はたしてこれが「アトミックNo.1」という副題をもつ画家の大作「乾坤(けんこん・天地・陰陽。)」かどうかにわかに断定できないが(というのも「乾坤」はこの年の9月の三科展に出品されることになるからである)、その画風は末公刊の北園克衛宛書簡のなかで「キリコ通過の中原」の作であるとした「ノスタルジア」、あるいは静謐(せいひつ)で透明な時間が支配する「海水浴」とはおそらく異なり、人間の視界の外部にある巨視と微視と幻視のコスミックな世界を幻想的な筆致で描くものであったろう。

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 第3回目の無選首都展は9月2日に開催されることになったが、明らかに5月の三科会員展と1925(大正14)年31歳の「劇場の三科」(5月30日、築地小劇場)の上浜によっていよいよ意気あがる三科が同じく9月開催する公募展の方に、中原自身の精力も注がれており、盛り上がりに欠けていた。出品目録もあるがわずか79点の記載しかなく、そのうえ中原の項は作品名が空白になっているほどである。なお「劇場の三科」は後述するように単位三科が朝日講堂でまったく同題で上演するので紛らわしいが、三科会員展とともに開催されたのが最初である。中原も台本こそ書かないものの、みずから出演している。村山の前評判をとった「子を産む淫売婦」フランス軍人の役で出演し、しかも、この実験劇場の閉幕に際して最後の挨拶に立ったという。

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 このように中原實はますます作家活動を遠心的に拡大してゆき、新興美術運動の発展においては画廊九段を軸として顕著な貢献を果たすことになった。しかし、これはあくまで実際面でのグループの一員また指導者としての活動であり、個人的な営為としての創作活動とはおのずから異なる局面でのことである。こうして、彼は河辺や山崎を前面に押し出した後で、ひとつのマニフェストを発して、理論家として再度じぶんの存在を主張することとなった。それが『中央美術』8月号に発表した「理論絵画」である。

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 「科学・科学より他何物もない」という戦闘的なことばが冒頭をかざる「理論絵画」は20頁を超える長文の論説であるが、1929(昭和4)年になって『アトリヱ』に書いた「写実の分現」と並んで中原實のこの当時に発表した絵画論中の白眉であろう。以下要約してみよう。中原は神原や村山が当然のように踏襲していた美術上の諸イズムの一覧表からは出発しなかった。表を白紙にして、遠く宇宙の方からの視線を地球へ向け、絵画の存立について思考を傾ける。そのすべてを射ぬくような視線は科学・・・あるいはテクノロジーと今ならばいうだろうが一から発する。中原はたとえばモンドリアンのようにいずれ未来社会では芸術が不要になることを疑わない。しかし、モンドリアンが絵画には未来を先取りする力があると信じたのとは反対に、中原はより冷静に「静かに屋内に保存しなければあぶない絵画」の物体としての脆弱、さらにその破産を説く。現状では物質的のみならず、絵画は社会とも遊離しており、「決して真の人間生活とはなり得ない」。その調停役は科学が務めるが、「最後の世紀を迎えるまで」画家としては社会を忘却せず、一方であくまで絵画独自の表現を深化すべきである由来絵画は「神秘の帷(とばり)」の内部に閉じこもってきたが、「今、一枚の名画を科学の前に立たせ」て、完壁な分析に基づく厳密な「計算表」を作成したらどうなるだろう。

 そこで中原は「絵画原器」というものを着想する。「絵画原器」とは「計算可能」な絵画を「計算ストラクチユアー」に還元したもので、いくつか図式に分類された上でその存在形式と可能性について考察が加えられている。「絵画原器」は「計算表」さえあれば破損することもなく、「古くなつたらいつでも原器を出して新しいのを作り出す」という点で上述の絵画の破産という問題を根本的に解決するのである。この「原器」のメカニズム自体はバウハウスで活躍し、個人主義を超える客観的な正当性を追求していたモホイ=ナジの電話発注による絵画1924年に発表されたいわゆるテレフォンビルダーに通じる。最後に著者は新美術館Muse de Noirについて、太陽の位置にしたがい回転する展示室、「絵画原器」の保管室も確保される施設の計画を細かく図解して、この長い文章を締めくくるのである。

「新しい絵画のも一つ先きの絵画」発生から保管場所まで一貫して考えぬかれたひとつの概念、というよりもヴィジョンとして定義された。こうしたテクノロジーや現実空間や建築を動員する美術家からの発想自身はこの時代特有といってもいいものであろう。たとえば、関東大震災後に催された帝都復興建築創案展(1924年4月)で他の建築団体に伍してマヴォが「マヴォ本部」などの模型や設計図を発表しているように。しかし、そうした概念を徹底させて、絵画の構造に科学的思考のメスをいれ「もーつ先き」まで踏み出して行こうとするところに中原實の独自な理数的な想像力がうかがえる。

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 無選首都展の実践的な行動に並行して掘り下げられた絵画原論ないし絵画のシステムに即応する作品は当面は観念としてしか存在しないわけであるが、しかし中原實の絵画作品にそうした想像力が起動され、反映されないはずはないだろう。それが第2回無選首都展(「Atomic l 1925」)、三科会員展(「Atomic No.2」)、三科公募展で連続的に出品された「アトミック」の連作でありとりわけ2メートル四方の油彩「乾坤(けんこん)」であったと考えていいだろう。

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 この大作は会期なかばにして内紛から閉幕を余儀なくされた三科公募展に出品された。展覧会前に、時事新掛こ掲載された記事「中原實氏/三科に出品する大宇宙の作と氏の抱負」(1925年8月26日朝刊5面)に従うと記者はつぎのようなモチーフについての説明を受けている。そのまま引用してみよう・・・「エックスレーの環がある、プリズムがある、星雲があり、彗星がある、地球がある、海のスペクトル、アトムの構成しかゝる時の想像、愛の結晶体、鉱物の原子に分解されたもの」

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 これらは「秩序ある法則の下に画面一杯に描かれてゐた」。なぜなら自然を描くとどうしても伝統的な図像で束縛されるが、一方新しい表現だからといって荒唐無稽にはなってはいけないので、ひとつの法則にたって創造する必要があるからだ、という主張も画家の言葉として伝えられた。つまり中原實にとって・・・作品のリアリティ・・・を支えるのはこの整合性を貫徹する「法則」である。人間の視野の外にあるものを対象とすれば、おのずから別体系の造形論理が必要とされるのだ

 1925(大正14)年夏の一連のこうした主張はグロツスの模倣と村山知義に一蹴された自分の芸術的姿勢の本質を単なる反論に織りこむのではなく、思考の深化によって正面から表明しようとする中原賓の意志の表明であったにちがいない。だからこそ「理論絵画」も「理論絵画全体は、一抹も舶来品ならざることを、世の美術愛好家に告ぐ」と、いわずもがなともみえる一言をあえて添えて結ばれることになったのであろう。

場所:東京都千代田区..設東京市..建築年代:1926(大正15)年1927山崎商店・建築画報1928.01-(1)

 こうして中原實は芸術的な自己を確立した。そして三科や無選首都展のアモルフな集団の運動に対する真率な反省にもとづいて、あらためて「単位三科」の結成にむけて歩み出すのである。それは空中分解した三科運動の継続であると謳う企図であったが、その動きが具体化するのは翌1926(大正15)年/4月、玉村善之助、大浦周蔵、村田実、山崎清、中原實、仲田定之助岡村蚊象が、受取人をあらかじめ「三科委員」と推薦して会合への参加を求めるために葉書を出したところであったようである。その会議は5月5日と記載されているが、東京朝日新聞記事「変つた顔触で/『単位三科』生る」(1926年5月20日夕刊2面)では5月20日に「単位三科」の「同人総会」がもたれる予定が報じられた。さらにその陣容も、見出しにあるように「日活スタヂオの新監督」である村田実、「分離派よりももつと新しい」創宇社同人、「演劇および舞台装置研究団体牧初の会の人達」、「人形芝居の人形座」、「図案研究の自零社同人」と紹介されており、三科やマヴォがみずから他の領域に進出しようとしたのとは違い、逆に専門家たちを動員して諸芸術領域を結合してゆこうとする姿勢において注目される。

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 単位三科が芸術集団として活動を行なうのは翌年6月のことであり、そしてそれが最初で最後の営為であった。同時期に開催された矢部、岡本、神原等の「造型」グループによる「新ロシヤ展」と同じく、この運動は実質的に大正期の新興美術運動の綽尾を飾った。ただ、前者がプロレタリア美術への潮流と合体するのに対して、後者は不完全燃焼のまま空白となって美術史上の系譜では途切れたという違いがある。しかし、むろんこのことは単位三科の意義を否定するものではない。それも大正期新興美術運動のなかで未分化のかたちで包含されていたカオスであり、いろいろな可能性がそれぞれの現象となったといえるからである。

 無選首都展と異なり、今度は中原は自ら率先して運動の理念を掲げようとしたようである。正確な月日は不明だが、1926年(おそらく同人総会前後)に自身が起草した単位三科の宣言書にその明快な意欲を読むことができる。そこではダダ的でアナーキーな集団、烏合の衆であった三科を否定し、出直しする基軸として、あらたな自己規定が要請される、「地球は我々の実験室なのだ。而て我々は其中に住む冷静な灼熱な科学者なのだ」と。彼等の仕事は過去と未来という従属変数と現在という独立変数の「宇宙に引き得る自由の線図式」であり、その点において「我々即ち進行的エネルギーと時間との相乗積」が「一単位三科」と規定される。そして、以上では便宜的に上の集団について「単位三科」の呼称を用いてきたが、正確には各年度ごとに一九二六年三科、一九二七年三科、があると宣言書はいう。基本的に三科はある固定した集団ではなく、ひとつの「三科現象」として理解されることが求められていた。

 単位三科の展覧会・・・正式には「三科形成芸術展覧会」・・・は1927(昭和2)34歳年6月3日−12日、会場をニヵ所に分け京橋北槙町の室内社画堂と銀座の資生堂美術部で開催された。出品日録には全部で118点があるが、どちらの会場に出品されたかは記載がなく、展評などに言及されたものを除いては不明である。同人以外の出品者で注目されるのはマヴォの暴れん坊であった岡田龍夫の名がみえていることである。しかし、全般的には、河辺昌久宛に仲田定之助が「展覧会には中々いゝものが有ります。前の三科に較べて綺麗でした。ダダが影をひそめました。」と書き送っているように、ダダを精算して、純粋芸術的な性格を回復するのである。しかし、他方で『建築新潮』が特集を組んだように、つまり美術雑誌よりも建築雑誌が大きく誌面を提供したように、創宇社同人の参加が重視された事実を見逃すことはできないであろう。中原實は「星群と女性」と「青の周辺」を出品した。いずれも図版でしか確認できないが、前者はモディリアニのモチーフをコスミックな表現の系列に導入したものであり、後者は最近発見された板橋区立美術館蔵の「アトミックNo.3」ないし対の作品ではないかと考えられる。

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 単位三科は展覧会期間中に、前述のように6月4日と5日の両日、朝日講堂で「劇場の三科」を開催した。この実験劇場について現在知られていることはごくわずかである。全部で16の演目が掲載されたプログラム、そして玉村善之助による貴重なポスター(倉敷市立美術館蔵)が残されているが、調べた限りではその実際についての証言や資料は仲田や中原のものを除いて皆無に近く、再構成することはまず不可能である。劇評も『ゲエ・ギムギガム・プルルル・ギムゲム』(2年8号1925年8月)に掲載された野川隆による評「『劇場の三科』の反響(感度の低い劇壇)」を除くならば、『舞台新声』7月号に載った北村小松の短評だけのようである。しかも、その評によれば「余りにデリケエトな音楽的非音楽的混合楽」は「其の筋」から禁止されたということがわかるし、また河辺自身の証言によれば彼の名前が印刷されているが実際には出演していないという。このように上演内容を正確に把握するにはいくつも難題がある。

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 しかし、例外的に中原實作・演出・装置の「Pensees Sans Langage.(又は蒼穹(青空)の尺度)」については台本、上演に関連する写真、梗概(こうがい・あらすじ)リーフレット(パンフ)があり、また仲田定之助、岡村蚊象による「色彩・光線・形態・音響の階調的転換によって舞台上の空間に一切の人間登場を否定して、ただ動く抽象形態を表現する可能性を創造する着想」(仲田「回想の三科」『みづゑ』1969年2月号)であった「ファリフォトン舞台形象」についても仲田の東京朝日新聞への寄稿をはじめ文章や上浜写真が残されており、わずかに「劇場の三科」の様子を推測することができる。前出の北村小松の評では、評者が最初の「劇場の三科」の野放図な挑発を期待していたのであろう、藤田巌の「零」、川田照の人形劇「三科二十五座」、田口麟三郎の「太陽は置いて行かう」などの「途方もない面白さ」について好意的であったのに対して、このふたつにはむしろ厳しい注文をつけている。それは両者がより深く芸術性を追求する実験的性格が顕著なものであったことを逆説的に物語るのではなかろうか。

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 三科による「劇場の三科」以前に野川隆は『ゲエ・ギムギガム・プルルル・ギムゲム』誌(2年2号1925年2月)に寄せた「ルートマイナス・1劇場」の創設を説く文章で、村山知義を意識しながらダダの「芸術的無理数」に対して「虚数的芸術概念の導入」を唱え、「芸術概念の数理的拡張に依つて諸芸術は書き換へられた」以上、「舞台芸術は書き換へられた諸芸術の構成」であると主張していたが、その方向こそ中原實の目指したものであろう。野川の発言はこの実験劇場の性格をよく言い当てているのではなかろうか。

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 ここで『中原實絵画論集』(1966年刊)に再録された台本を簡単に紹介しておこう。この劇は「単位尺」「聖なる尺」「自然尺」の三つの尺度をめぐる、互いに関連のない四つの場から成り、生理学者ピッカリールを主人公、「推移のメフィスト」と「自然の指針を名付くるもの」を脇役にして、スポーツ選手、俳優、画家(モディリアニ、クールベ、アンリ・ルソー)などが登場して、各場で短い挿話を織り成してゆく。「単位尺」とはセルフ・ユニットとルビがふられるように、単位三科の単位と同じく個人の単位とみなしていい。各場はそうした個としての人間と超越的、絶対的な自然との関係をめぐる思考の切片からなっている。

 単位三科展は「劇場の三科」ともども大阪に巡回することになった。会期は6月18日−23日、会場は高島屋であった。ところが6月19日午後まさに「劇場の三科」の開演準備をしているところで、火災が発生し、展覧会はもとより中止となったばかりか、単位三科の運動そのものが「あっけない幕切れ」(仲田定之助)を迎えることになったのである(もっとも6月26日記で『アトリヱ』8月号に寄稿した「三科進出」では仲田は上記の展覧会などについて触れた後、三科運動はさらに京都で劇場を開く計画もあり「洪水のやうに流動し、奔出しつゝある」とまことに威勢のいいことばを吐いている)。

 ここで以前の三科との大きな相違として注目したいことは彼等が大阪JOBKから6月20日午後7時10分から放送のラジオ・ドラマに取り組んだことである。仲田の回想では野川隆の群衆劇「千万人のツアラトウストラ」を放送し、同行した好江夫人も出演したという。もっとも読売新聞では題名が異なり、野川作「時間表と群衆と力学について」とあり、宇留河泰呂他十数名の出演となっている(「大阪と名古屋 けふの番組」6月20日朝刊、なお大阪朝日新聞でも同題である)。内容についてはにわかに判断するには材料が少なすぎるが、半年ほど前に本放送が開始されたばかりの大阪で、新しいメディアの回路をさっそく探求したところにテクノロジー志向と実験芸術へ傾斜を強めた単位三科のひとつの具体的な成果をみてもいいだろう。

 単位三科の特質をもしここにみるならば、とりあえず速度を要請する近代的な知性による芸術運動と規定できるように思われる。それは「過去の三科は、ダダイズムと構成派を底辺とする三角形であつた」(野川隆「新興三科の運動に就て」『アトリヱ』1927年5/6月号)ことに対するひとつの芸術的な、だが時代の文脈からみるとあまりに芸術的な回答であったといえるかもしれない。理性的であるがゆえに、以前の三科に投入されたあの途方もないエネルギーはいやおうなく過剰を許さないように配分されてしまうのである。しかし、これをもってただちに「単位三科」を断罪することはできまい。むしろ注目すべきことはこのこと自体がひとつの芸術運動が一種の必然性をもって受け継がれた・・・我国の近代美術史の上ではきわめて希な例であることを瞭然と物語っているのではないかということである。

 「純理の速度」と中原實はいう。中原理論のひとつのキーワードである「速度」は北園克衛のいった「奇蹟」のための必須の条件をなす。それは中原實が『ゲエ・ギムギガム・プルルル・ギムゲム』(3年1号1926年1月)に寄稿した数学詩「割算」で「(絶対に割切れない部門)/時間ノ光年の涯の数里(ママ)状態。」と記したように、宇宙の彼方までくまなく走査しようとする知性のありようをいうのではなかろうか。

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 それにしても「単位三科」の運動からでさえすでに60年以上を経て、はたしてわたしたちはこの知性の速度に追いつくことができたのだろうか。 (筑波大学講師)註

(1)本稿では画家としての中原實についてわずかに触れるにとどまるが、その全貌については『日本歯科大学校友・歯学会会軌に1983年(9巻2号)から連載されている同大新潟校史資料室編「一枚の写真」の評伝を参照されたい。随所に新事実を紹介し新知見を盛り込み、多面的な人物像を浮彫りにした基礎文献である。

(2)「アトミック・ストラグルNo.2」および「乾坤」については物理学者による専門的な図像の解読がなされているが、それによるとやはりこの新聞の説明では不十分のようである。

(3)中原音「新形態としてのドイツチッウムとアメリカニズム」Fアーリヱ。1929年5月号50頁に、「芸術の油となつた過去のヂレツタンチズムは純理の速度の前に遂に兜を脱いだ」とある。

(付記)文中では敬称を略しました。本稿に関わる調査で中原泉氏、中原リザ子氏をはじめ多くの方のご協力をいただきました。