五姓田義松

147■五姓田義松が真の天才である理由

■日本絵画史に革命をもたらした画家

 古今東西、天才論は数多く記されてきた。天才の定義はあふれ、ありふれている。こうなれば誰しも天才といっても構わないほどに、天才という言葉が軽く響くほどに。それにも関わらず、本展のサブタイトルに「最後の天才」とつけた理由は、その言葉の陳腐さを超越してやまないほどに、洋画家五姓田義桧(1855−1915)が真の意味で天才であると本展を通じて主張したいがためである。本小塙は、このサブタイトルを詳しく説明することを軸として、義松の生涯や作品の魅力を記していこうと思う。

 安政2(1855)年4月28日、義松は江戸に生まれた。義松の父は、久留米藩士の森田弥平治。弥平治は、のち初代五姓田芳柳となるその人である。義松の生涯を語るには、まず父のことを語らねばなるまい。弥平治はもと紀州藩士浅田氏の子として江戸に生まれた。幼くして両親を亡くし、本多氏、続いて猪飼氏の養子となり、武家の子として育つ。のち森田氏に乞(こ)われて養嗣子(ようしし・家督相続人となるべき養子)として森田家に入り、同家の娘勢子と結婚。義松は、その次男である。弥平治も若い頃から絵師になりたいと思い、活動を続けていたようだ。時は幕末、もう江戸幕府の命脈は風前の灯火といった頃。九州の小藩の江戸詰藩士だった弥平治には、その身分に固執する必要はなく絵師として生きようという強い意志があった。本人は狩野派や浮世絵など、当時の本流をなす絵師集団に属することができず、結果として町絵師のひとりとして生きていくという展望しかなかったにちがいない。しかし、彼の行く末は、安政6(1859)年4歳の横浜開港により大きくその方向を変える。

 横浜が開港したことにより、西洋の文物、思想や技術が質量ともに大量にもたらされるようになった。モノと人との交流の中で弥平治は洋画に似せた作風を身につけ、またその作画の魅力にとりつかれ、将来は西洋絵画が日本で主流になると思い定めたようである。そこで、養父とともに息子義松を口説く。横浜にいる西洋人から、西洋絵画のテクニックを直接学ぶ機会を設けようというのである。生来絵が好きで、学問や武道に身の入らなかった少年義松が否というはずもない。そうして、最初はかのジョセフ彦(浜田彦蔵1837−1897)を通訳とし、またおそらくは持参金を付け、横浜居留地にいた英国人報道画家チャールズ・ワーグマン(CharlesWirgman1832−1891)に入門を交渉、子供相手の教授ということでワーグマンも許可したのだろう。ときに慶応元年冬というから、1865年10歳の末のことである。まだ世間さえも知らない少年を得体の知れない西洋人に預け、新たな技術を身につけさせようというのだから、父にとっても義松少年にとっても大きな賭けだったことは間違いない。

 ちなみに、翌年8月には日本洋画を代表する高橋由一がワーグマンの元に入門している。このとき由一は満年齢で37歳義松は11歳。二人は親子ほどの年齢差、いかに義松が早熟かがこのあと理解されることになる。

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五姓田義松肖像写真 明治14(1881)年・26歳 橘思助氏旧蔵美術資料館

 さて、そうして絵師の道を歩み始めた義桧は、明治になるまでは江戸から通い学び、明治になってからは横浜に移住し、より積極的に学習するようになった。そして、明治4(1871)年・16歳には一通りの学習を終え、独立。16歳で一人前として、絵を販売し稼ぎ始めた。現在、日本洋画の開拓者として名高い高橋由一は同時期、洋画の材料が手に入らず、売れず、貧困のなか生きた辛さをその履歴のなかで語っているが、一方義松は洋画を販売し利益を得、家族を養っていたのである。しかも、横浜居留地の酎人を専らの相手として。

 義松が画家としてスタートした道程は、その当時の絵師の多くが歩む常道から外れていると理解される。狩野派など近世で一般的だった絵師のシステムに学ぶわけでもなく、また外国人が集二横浜居留地を市場とした事実は、近世の絵師の常識からすれば外れている。だがしかし、このことだけをもって、稿者は義松が天才であると主張したいわけではない。

■生まれてきた時代と場所を間違えたような存在

 明治4年・16歳に一人前となって以後義松は瞬く間に日本洋画家のトップに登り詰めていった。明治8(1875)年・20歳に陸軍土官学校国学教師(一年で退官)、同10年に工部美術学校入学22歳(およそ半年で退学)、同11年21歳・明治天皇の北陸・東海道行御巡幸に供奉同12年22歳昭憲皇后肖像を描く。明治政府、明治皇室の御用を彼がたびたび務めたという事実は、重要な意味をもつ。同時代の洋画家あるいは日本画家を見渡しても、これほどに国家に重用された者はいない。とはいえ、この事実をもって最も優秀な画家であると考えるのも安易だ。なぜなら明治初頭、西洋絵画技術はその現実再現性に優れるといった特徴によって、社会的に重視され求められたからである。その特徴をとらえて、芸術性の観点では見るべきところは少ないという批判もあるが、その指摘はあたらない。義松がワーグマンや顧客だった外国人たちの示唆、そしてその天性により技術偏重とはならない絵の豊かさを理解していたことは、本展で紹介する多くの作品から明らかとなろう。

 ここで画家義松の特長を指摘しながら、その作品の見所を詳述していこう。彼は見たもの、かたち、色、空間など、その視覚に関する記憶力がたいへんに優れた画家だったと推定される。天才と呼ばれる画家たちがあまねく持ち合わせた視覚記憶力を、彼もまた有していた。本図録に所収している作品を見て欲しい。単純な鉛筆の線でとらえたかたちの確かさ、そしてその躍動感。水彩絵の具によりつかまえられた大気の煌めき、湿潤さ。油彩画で再現された布の質感や、人々の的確なプロポーション。どれも対象を真摯に観察し、その二次元化を実現させる技術をもちあわせてはじめて可能となるものばかりだ。

 さらにもう一つ、技術者としての義松が優れていた点を補強しておきたい。それは画材を知り尽くしていたという事実である。先に挙げた特長は、画材を熟知しないことには実現できない。果たして何種類の鉛筆を用いたか不明だが、一枚の紙片の上で細い線、太い線、圧力の強い部分また弱い部分と使い分けられた描線が幾種類も確認できる。今でこそ鉛筆の濃さと固さによって等級が定まり複数入手することが可能だが、幕末明治の頃の鉛筆が輸入品だった状況を考えれば、大量かつ複数の種類を揃えることは難しかっただろう。その制限された環境が、なおさらに道具に対する感性を鋭敏にしたものと想像される。

 洋画材の不足については、高橋由一ほか明治初頭に活躍した洋画家すべてが語るところである。しかし、現存する義松の作例を見渡すと、紙切れなどに描き付けられたものも多いとはいえ、他の画家たちと比較すれば、恵まれたものだったと想像されるそれは横浜という環境、西洋人の顧客たちによってもたらされたと推測される。絵の具についても概ね同様だったろう。水彩絵の具は自製のものを用いたという。師ワーグマンに製造方法を学ぼうとしたが、師が知らず、義松自ら方々を尋ねまわり、ようやく完成したとの逸話がある。輸入材と異なり、自製であればさほど費用もかからなかっただろう。この経験は水彩ばかりでなく、油彩の理解も助けただろう。そして、この画材理解が絵の具の粘性や光沢を自由自在に操作することを可能にし、その複合的な技術の産物となる麗(うるわ)しい画面作りへとつながっていく。

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 さらに、義松の技術力ということで最後に記すべきは、決して現実再現性ばかりを重視したリアリズムに陥っていないという点である。絵画としての「遊び」も知り、空間の広がりのために細部描写を「おろそか」にすることも知る画家なのである。たとえば、上図の≪横浜西太田ノ村落≫ を見てみよう。柔らかな日の光に照らされた農村をさらっと描く水彩画には、義松の技術力が凝縮されている。遠景として小高い丘に連なる木々の葉の重なりを画面右手奥に、近景から遠景へとつながる道を画面左手に配置し、画面に安定感を与え、その二箇所を画面の見所とする。重要なのは、それ以外の部分をある程度「おろそか」にする点である。例えば、画面右下、田圃は簡素に描き終えている。画面全体を緊密にかつ微細に描くことが「洋画」ではないと、「リアリズム」ではないと理解していたのである。そして「遊び心」。よくよく限をこらさなければわからない画面奥の暗闇にひそむ景物など、ちょっとした描写が画面に動きと知的好奇心を添えている点は、特に油彩画に顕著に認められる特長である。

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 そのような大人の知的遊戯としての絵画を作り上げることもできた義松。画材を自製することもできた義松。現在とは異なり、情報や物質が乏しかった幕末明治の日本で、高度な技術力の獲得は「奇跡」と形容しても過言ではない。その存在はまるで生まれてきた時代と場所を間違えたかのように、まさに西洋人のプロフェッショナルな画家と同じといえる。そして、明治13(1880)年・25歳、日本でなすべき仕事をほぼ終えてしまった義松は、本場に挑戦する。さしずめ現在のプロスポーツ選手が国内タイトルをすべて獲得し、海外リーグへ挑戦するのと同じだろう。翌14年26歳フランス春のサロンで水彩画5点が入選。フランス画壇で初めて日本人画家の作品が認められた瞬間だった。

■「最後」の天才

 前節までは義松の天才たるわけを、その活動歴とともに記してきた。しかし、これまでの説明だけでは「最後」とはならない。むしろ前節まで記してきたのは、日本で最も早く西洋絵画技術を身につけ実践した画家の姿だった。その意味では「最初」と記すべきと指摘されるにちがいない。

 近代日本美術史というヴィジョンの成立を大きく規定した土方定一は、高橋由一を「江戸洋画最後の、明治洋画最初の巨人」と評した。現在時制で考えれば、むしろその惹句は義松にこそ適当だ。さらに稿者は、より長い歴史的なスパン、日本美術史さらに東アジア美術史というなかで義松の立ち位置を探るとき、最後という形容詞を選択するのが相応しいと指摘したいのである。

 そもそも絵画という行為は、古来、三次元の現実空間を二次元平面にうつすものである。そのための思想や技術を磨き、今日にいたる。東アジア絵画史を展望すると、絹や紙に墨や絵の具(膠等で溶いたもの、あるいは染料など)で描いた絵画が主流だった。一方西洋では、空間把握の技法、透視図法(線遠近法)が強固な空間を画面内に作り出し、そのなかで対象を微細に正確に描き出す手法を開発・展開した。さらに、画材をとっても西洋では油彩画を開発発展させ、版画技術としても油性インクを主に用いた銅版画や石版画が生み出された。しかし技術や思想のちがいはあれ、三次元を二次元に写すという行為は古今東西同じだったわけだ。

 さて、以上のように展開してきた異なる技術や思想、表現に対して強い興味を抱くのは至極当然だ。そして18世紀ごろから、世界史的な交流が始まる中で、互いを学習しようという意識が高まっていく。周知の通り、日本は19世紀半ばにいたるまでいわゆる「鎖国」を実施していたため、限定的にしか西洋の文物と情報が人手できなかった。しかし、先に述べたように、横浜開港により状況が一変する。この歴史次章は絵画史にも大きな変革をもたらした。それまでは東アジア絵画という枠組みのなかにあった「日本美術」、つまり主に朝鮮半島や中国大陸からもたらされる技術や思想を選択的に受容してきた営みに、突然、西洋絵画の技術や思想が流れ込み、それを積極的に学ぼうとし始めたのである。

 つまり、幕末明治とは日本美術史という歴史展開において、重要な転換点に他ならない。

 現在の研究においても、近世までの美術は一般に古美術、明治以後の美術は近現代美術と大別されている。それは歴史的にみても、幕末明治あたりに大きな断層があることを誰しもが認めているわけだ。その断絶を生み出した最大要因が西洋絵画技術との交わりであり、その最初期に位置し、最も早くそして高い完成度でその技術を身につけたのが義松だった。さらに注意深く記せば、既にこの19世紀半ばの時点で、ただ目の前の事物を正確に描き写すという営みを意味する「絵画」の内実が変容し始めていた。

 繰り返しになるが、最終的なかたちのちがいはあれど、現実再現性という性格において、その技術と思想を磨き上げていくという志向において、古今東西の絵画は同一ベクトル上にあったことにかわりない。それが19世紀後半の西洋において否定される萌芽が生まれ、さらに本展では深く触れることは叶(かな)わないが写真というメディアが誕生した要因もあって、急進的に絵画という営みが変質していった。想像の通り、そのひとつの帰結は「抽象絵画」の誕生を意味している。義松が生まれ活躍した19世紀後半という時空間は、巨視的に見れば、そのようないくつもの大きな断絶、変革が生じていた時であった。

 つまり、ここで主張したい「最後の天才」とは、古から続く絵画という営み、三次元の二次元化を目指したその技術的な達成を 果たした最後の画家であることを意味している。義松以後の多くの日本人画家たちは、現実再現性の高度化ないしは洗練という意識で制作している者は少なく、急速に展開する西洋画壇の「流行」を学習することに重点をおく者ばかりだった。西洋絵画の古典的かつ正統な技術と思想を学ぼうという態度は薄かったといえる。

 義松が渡仏したのは、西暦でいえば1880年。その6年前、1874年はいわゆる印象派第1回展が開催されていた。印象派なしいは外光派が流行となり、以後、西洋画壇も不断の変容を究めていく時代だったたとえば黒田清輝が外光派を、梅原龍三郎が フォビスムを学習したように、次々と新しい作風を学び、日本にもたらすことが、これまでの日本洋画の展開を支えた論理だった。明治初頭において諸産業を支えるための技術偏重という傾向に強く反発するかのように、「絵画」の否定にむかう流れに多くが参与していくことになる。

 西洋の新しい画壇の流行を学習することは、何も画家のみに限定される傾向ではない。同時代の批評家やその後の美術史研究者もまた、その流行を歴史記述の主要な軸としてきたのである。それ故に、時代を逆行してまでも西洋絵画の本質を学習し、西洋で活躍しようとした義松は、「時代遅れ」として記述の対象外となっていく。この点は実に真聾に反省しなければならない。誰よi)も高度な技術をいち早く身につけ、素晴らしい作品を数多く制作し、正統の西洋絵画を実践しようとした画家義松の評価が正しくなされてこなかったのだから。

五姓田吉松

■横浜美術史・・・郷土の画家としての横顔

 義松を従来以上に高く評価しようと試みるとき要点となるのは、海外挑戦をどう理解するかである。別書にて、義松が父初代芳柳にあてた書簡や家計簿など多くの文献資料から読み解いた.その結論だけをここに記せば、次の通りである。すなわち義松にとっての欧州挑戦は、他の画家たち同様の「留学」ではなく字義通り「挑戦」だった。自らが磨き上げた技術が本場で通用するのかを試しに行ったのであり、そして本場で一人前の画家として成功することが最終的な目標だった。ひととおりの技術を身につけ、多少の見聞を広げて母国へ戻るようなあり方を本人は望んでいなかったのである。それはおそらく師ワーグマンの示唆によるものだろうし、青年義松の志の高さによるものだろう。

 さりとて、いくら天才義松とて易々と成功するはずはなかった。たった数度のサロン入選だけでパリ画壇の流行児になれるわけもなく、もともと金銭にやや怠惰な面があったが故に生活が立ちゆかなくなる。明治14年26歳以後もサロンに入選、模写作品の高値の売却など肯定的に認められる成果はあるものの、今日目にすることのできる作例がほとんどないことや、荒(す)んだ生活の記録を示す日記類などがわずかな手がかりだったこと書ち、その成功もほとんど見向きもされなくなる。

 そして明治22(1889)年34歳に帰国。当時の日本美術界内部にうずまいていた洋画排斥運動への対抗として洋画家たちが大同団結して起こした明治美術に義松も参加するものの、深入りはせず翌年父とともに渡米し一旗揚げようと期したにもかからわず失敗。美術会社で版下画の業務を短期こなしたのち、退職。そして帰するも以後公的な制作はほとんどなくなる。

 明治20年代・32歳末以後、彼は横浜において制作活動を続けていた。徹頭徹尾、画家であり続けた。彼が主に描いたのが、土産として求められたいわゆる横浜絵だったとしても。横浜絵とは蔑称であるが、しかし義松の描いた作例を見ると、丁寧にそしてまた円熟味を増した技術を認めることができる。若描きの大胆さこそ影を潜めるものの、卓越した水彩絵の具の滲みのコントロール、風景のなかに点景として添えられる生活感などが認められる。その画面はおそらく義松にとって「古き良き時代」を凝縮した箱庭的な世界の広がりとなっている。このような活動は、幕末明治以後、横浜で生起した美術の営みのひとつのあらわれである。その最初期の成果を体現したのが義松だったといえよう。外国人からの複層的な刺激をうけ、その技術や思想を学ぶことこそ、横浜美術史が運動し始める原初だった。そして横浜で開かれた世界を体感し、単純に美術=欧州というばかりでなく、経済的な潤いを増すアメリカをも視野に入れて活動した義松は、まさに横浜で培った喚覚を備えた画人だったといえよう。このような視点をもったとき、また改めて郷土の画家として、そのゆったりとした晩年期の活動を再評価することにつながると期待される。

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■おわりに・・・二つの作品群が結集した意義

  最後に、本展の目的とその構成について述べ、本小塙を終わりとしよう。その目的は、五姓田義松の作品をできる限り数多く集め、新出の史料とともに示しながら画家義松の特徴、人間義松の真実を検証し、その輝かしい業績を顕彰することにある。可能な限りの実作品を提示し、その真価をご覧頂く皆様にはかっていただきたいと考えている。また本図録では、展覧会には残念ながら不出品となった作品であっても、義松の画業にとって重要な作品を参考図版として収録し、あわせて皆様に義松のことを紹介する機会となるようにした。

 展覧会準備を進行するなかで、滞欧期の模写作品を見出し得なかったことは残念な点だった。震災や戦災などにより現存の確認できない作例も多かったものの、一方で従来見過ごされがちだった水彩画や鉛筆画を大量に示すことに力を注ぐことで、より充実した展覧会の開催をはかった。具体的には、神奈川県立歴史博物 館が所蔵する五姓田義松旧蔵作品群、さらに同作品群から昭和初頭頃に別れたと思しき斎藤俊吉氏旧蔵作品群の紹介をおこなう。前者には義松の日常的な姿が潜んでいること、さらに義松の弟子たちなどの作品も含まれていることなどの特徴を過去指摘した。従来、小さいサイズの習作として等閑視されがちだった作品群の存在に注意を促し、その後継続しておこなった調査研究の成果を本展で示すものである。また、その存在を重視し、本図録には当該作品の図版を全点掲載した。別に詳述するように、その作例の分析は未完であり、かつ難問である。将来の研究に資するため、より多くの方にその解ヘアブローチしていただくため、本書では基礎的なデータをまとめた次第である。あわせて斎藤俊吉氏旧蔵作品群を本展でまとめて公開することができたのは、望外の喜びである。その図版も全点掲載し、目録も整備した。その伝 来については、当該作品群が見出された折りに細野正信氏が報告している通りである。

 没後100年というものは概してその作家にとって、大きな節目にあたる。それまでの評伝や評価、研究を再整理し、そしてその後の方向性をうらなう性格がある。よって、その折りにそれまで未整理だった多くの要素がつどうことは何ら不思議はないものの、とはいえ、本展のようにこれまで分散されていた作品や史料群が一堂に横浜に揃ったという事実はただただ歴史の妙を感じるところである。五姓田義松旧蔵作品群は義松の息子義彦から美術史家団伊能を経由し、当館へ収められた。斎藤俊吉氏旧蔵作品群は、義彦のもとから直接斎藤家へ譲渡されたものである。さらに、現在当館が数多く所蔵する義松に関連する史料群は、義彦そして斎藤氏とも横浜商業学校の同窓だった西田武雄の旧蔵だった。義松が画業をスタートさせ、その生涯を終えた地である横浜に、彼らが守り伝えた作品や史料が集ったことにより、そわ真価を問うための土台がようやく完成したといえる。

 五姓田義松という画家は、歴史の大きな裂け目に位置するが故に、その特徴や存在を正確に的確にとらえることが容易ではない。むしろ、その存在をとらえるための座標軸、視座を獲得することすらままならなかったのが従来の研究史だった。その是正を促すために、本展のような機会や各種出版などを通じて、その存在をこれまで継続的に、そして今回さらに集中的にアピールできたことは天恵といえる。今ここで改めて、五姓田義松という画家の総体を提示し、強烈な輝きを放った天才義松を多くの方に知って頂きたい。そうでなければ、世界レベルだった稀有な日本人洋画家を、私たちはいつまでも歴史から失ったままでいることになるのだから。歴史の断層に忘れられた画家五姓田義松を取り戻すことによって、さらに日本洋画史は豊かになるのだから。