勅使河原蒼風のいけばな

■勅使河原蒼風のいけばな

今泉篤男

 勅使河原蒼風は、いけばなの他に、書もかき、絵も描き、彫刻もつくった。それぞれの分野で独自な作風を示し、もちろんそれらのいずれも素人芸というものではなかった。器用にまかせて何にでも手を出したというのではなかった。もともと東洋の造形表現の伝統には、例えば書をよくすることによって絵も立派に描けるとする書画一致論というような主張も苦からあって、造形の一芸に秀でれば、他の造形の領域でも見るべき仕事が出来るのは当然だとする考え方がある。が、それにしても勅使河原蒼風のように多方面の世界で一家をなすに足る才能を示した人は稀れだと思う。

 だが、その中にあって、何といっでも、いけばなはこの芸術家の本職であり、表芸であったのだが、そういう形式的な見方からいうばかりではなく、本来のこの作家の才能の力量と適性からいってもいけばながこの人の一番優れた長所を示した領域だったと私は思っている。この作家の書でも絵でも彫刻でも、何か豪放とか魁偉とか、そういう観念的な目標がつきまとっていたように思うが、いけばなにももちろん、そういう目標は全くないわけではなかったにしろ、もっと自然で、もっときめこまかな優しさがあり、観念化されない伸びやかさがあった。

 私の知る限りの勅使河原蒼風という人物は、やはりいけばなに出ているような優しさやきめこまかさを裡(り・うら)に持っている人であった。誤解のないように断っておきたいが、いけばなは花を主な材料として成立している表現だから、花本来の優しさが蒼風のいけばなに出ているのは当然だとする考えがあるかもしれない。もちろん、それもあるけれども、その優しい花を更に優しく表現するのは、いけばな作家としての勅使河原蒼風の性格なり体質なりによることなのである。そして蒼風のいけばなにはそれがあった。

 生前のこの作家から直接に聞いたことだが、中年の勅使河原蒼風がアメリカで鈴木大拙老師にお目にかかる機会があって、その時、蒼風は老師に、いけばなというのは、いけたばかりの瞬間が勝負であって、彫刻のように恒久性のないのがもの足りないと欺いたところ大拙老師は、世の中に恒久とか永遠とかいうものはない。あるとすれば、それは瞬間の継続、つながりのようなものだ。あなたは、いけばなは瞬間の芸術であり、彫刻は恒久の芸術であるというが、さと本来の姿にあって、そんなに両者が別ものではないだろう、と訓(さと)されたそうである。勅使河原蒼風はその訓えによって眼が開かれたような思いで、決意を新たにし、いけばなに取り組む気になったという。

 日本のいけばなの歴史は、平安朝以来だから随分旧(ふる)くからあるわけで、その歴史の流れの中で、さまざまな流派の始祖があり、偉い人もあったかもしれないが、近代いけばなの新しい様式を創り出したことで、勅使河原蒼風はいけばなの歴史始まって以来、初期の立華の創始者と並んで一種の天才と呼んでも過言ではないと私は思っている。蒼風いけばなの特質は、一口に言えば、自然のフォルムを模倣しないで自然の模倣とは違った別箇のフォルムを形成しようとしたことにあった

 例えば、水盤の中にかきつばたをいけて、ひろい池中を連想させるようなフォルムを自然の模倣とすれば、そういう発想を全然捨て去って、鉄の枠組みの中にかきつばたを置いて、そういう材質即コントラストから一種の幻想的な表現を醸し出すことが出来るとすれば、それが蒼風いけばなの世界となる。それも余りにも観念的な構成にすれば、児戯に類した表現になるかもしれない。勅使河原蒼風はこの段階でさまざまな材料の駆使、いろいろな手法の変化を自由にこなした。いけばなに使う樹木の枝細く染めたりしたのも、蒼風いけばなが始めてやり出した手法である。

 そんなことを一々挙げればきりのないほど、蒼風いけばなの発想は自由に飛昇した。西洋の諺に、最初に美人を花に誓えた人は天才だったかもしれないが、次に同じ比喩を使ったのは単なる凡庸の徒に過ぎない、という言葉があるが、勅使河原蒼風はまさしくその最初の人であったのである。

 この作家のなんら他異(たい・おなじでない)ない普通のいけばな作品を見ても、明かに他の作家のものとは違ったものがあるように私は感じていた。それは、椿なら椿を、ただそれだけいけていても、そのフォルムの伸びやかさ、そのフォルムの簡潔の強さ、そのフォルムに盛っている繊細な含蓄には、他のいけばな作家のものとは違ったものがあることを私は感じていた。椿をいけている時の蒼風を見たことがある。何の躊躇もなく鋏でバサリバサリ枝や葉や花を切り落すのである。その方法は完全な「除去方法」によるフォルムの構成であった。いかにも無雑作らしくやっているので、苦心などどこ吹く風といった様子であった。それでいて、仕上った作品を見ると、花の方向の向き向き、葉の交叉の変化、それらを支えている基本的な幹や枝の根幹の強さなど見事な出来なのである。そこにはまぎれもない勅使河原蒼風がいた。

 そういう何でもない普通のいけばなも佳(よ)かったが、この作家の大作はまさしくこの人の独壇場の観があった。蒼風は若い頃、古事記を読んで、その雄大怪奇なドラマの展開に息もつけぬぐらい感動したそうである。それが後になってそれら大作のいけばなや彫刻に反映してくるのである。いけばなの大作は、小器用な技巧ではまとまらない。一本それを貫いている太い強敵なフォルムの心棒がなければならぬ。蒼風いけばなの大作には、そういう太い強靭な心棒が貫いていた。そこに潜んでいるエネルギーの燃焼も少しも皮相なものでないものがあった。

 勅使河原蒼風は天性のいけばな作家だったと私は信じている。前述のように、日本のいけばな史上で屈指の天才だったと思っている。かつこの作家が何かに書いているのを嘗て読んだ記憶があるが、「もし先生が花のない砂漠のようなところで生きていかなければならないと仮定したら、その時どうされますか」という質問に答えて、「その時は私は土で花をいける」と応じている。これは訊く方も愚問であるが、答える方も観念的な答である、と私は思った。勅使河原蒼風は日本という草木の繁茂する風土と歴史の中に生まれ、そしていけばな作家となった芸術家である。いかなる場合、いかなる芸術家にとっても、風土と歴史を離れてはどんな芸術も成立しない。第一、花も木もないところへなど、勅使河原蒼風は行こうとはしないだろう。

  (美術評論家)