柳瀬正夢

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■1900.1.12~1923.9.1 20

■柳瀬正夢が過ごした時代の門司

 1899年、福岡県下では福岡、久留米についで三番目に市制がしかれた門司は明治20年代には寒村に過ぎなかったが、筑豊の石炭の輸出、船舶の燃料の補給基地として大きくなった。日清、日露戦争はそれを後押しし、軍の軍需品倉庫、火薬庫なども設置され、1898年には要塞地帯の一角となった。

 柳瀬は1911年から1920年までをその門司で過ごした。すでに1890年代末から銀行、商社、船会社の支店が集まり、柳瀬家が住んだ新川町から日と鼻の先の九州電気軌道の電車通りは小ロンドンとも呼ぼれていた。一方で近県から成長著しいこの地に集まった港湾で荷役をする労働者は人口の多くを占めた。柳瀬は「終日汽笛の吠え猛ってゐる煤煙に燻ったせせっこましくいらいらした街であった。」と記したが、荒々しい街の気風も表現している。

 柳瀬がいた時代に門司は石炭だけでなく、八幡製鉄などと共に、日本の近代化の一業を担い、港も整備され、東南アジアとの貿易も盛んになる。また欧州航路の船舶も燃料を積むために門司港に碇をおろすなど次第に国際港としての様相も呈してきた。駅前の旅館には洋行する、あるいは帰り道の、東京や関西の文化人も宿泊した。地方都市としては早いカフェの出現はこのことと関係するのだろうか。

44-1916

 この時代の門司はすでに交通の要衝にもなっていた。路面電車や九州鉄道、また関門連絡船という手.段で人々は移動した。柳瀬少年が小倉や八幡、そして浅枝次朗ら下関の画家たちと広域的に交流したり、画困を求めてあちこち往来できたのもそのおかげである。

45-1933412■1914年14歳・油絵・静物

27-1914

■1916年16歳・人物画・自画像32-34■1917年17歳・デッサン26-1917

■1919-20年19-20歳・人物・油絵

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■1923.9.1~1932.11.5

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■「芸術革命」から「革命の芸術」ヘ

 「マヴォ」の機関誌として1924年7月に創刊され、1925年8月の7号まで発行された。1号から4号まではマヴォ出版部、5号以降は長隆舎書店発行。同人による詩、短編、版画などを収録し、タイポグラフィーや紙にも凝ったつくりとなっている。3号は表紙の高見沢路直《ラシャメンの像》にカンシヤク玉が貼付されていたため、発禁処分となった。柳瀬は1号では詩「葺麻子油の一空瓶と男一匹」と「旧作詩三篇とつけたり」、《資本家のヨダレの長さ》[晦l]が掲載されている。2号では詩「高圧線を追ふ」と漫画《1年前の淋しき会合》[血卦ユ]。3号には《帰郷》[晦3]1点のみ、4号には「海にて詩クゾを拾う」と《訓練されたる兵隊》[丘g.4]が掲載された。5号以降に柳瀬の作品は掲載されていない。145

■「劇場の三科」

 1925年5月30日、築地小劇場で開催されたパフォーマンス。「三科」は1924年10月にマヴォ、旧未来派美術協会、旧アクションなどの新興美術運動に関わった美術家たちによって組織され、木下秀一郎、村山知義、神原泰らとともに柳瀬も結成に参加した。「劇場の三科」プログラムには演劇、ダンス、朗読など12の演目が記載され、新聞評などから爆音や閃光忙観客が驚かされる、破天荒な公演であったことがうかがえる。柳瀬は、村山、下川凹天、吉田謙苦らを出演させ、『+−+一+−×÷=休日』を発表した。

■村山知義

 美術家、デザイナー、演出家、劇作家、小説家など多彩な顔を持ち「日本のダ・ゲインチ」と称される。1922年にドイツに渡り、ダダや構成主義忙触れ、帰国。柳瀬らと「マヴォ」を結成、パフォーマンスやダンス、『朝から夜中まで』に代表される舞台美術、バラック装飾、イラストレーションなど目覚しい活動を繰り広げ、1920年代の日本の近代美術に決定的な影響を与えた。1920年代後半から左傾化し、以降は演劇の活動に主軸を置いた。

■『+−+一十−×÷=休日』

 「劇場の三科」で上演された柳瀬の作品。プログラムには「香ひと動作と光りを主とするパントマイム」と善かれており、基本的に台詞はなかった。台本には『我等』の原稿用紙が用いられ、警視庁の検閲印が押されている。登場人物は14人ほどで「影の男」を佐々木孝丸、「美しい、而しサディステイツシュな蹄子」を村山知義、「痩せた労働者」を下川凹天が演じた。佐々木は「観客席の通路をイワシの焼いたのを持ち歩き、建とにおいを場内にたちこめさせる」1、観客だった旗一兵は「黙って麺類を食べるだけで退場するマイム」と回想している。148149■日本漫画会

 1923年3月に創立された新聞漫画家による漫画家団体。1915年に発足した日本初の漫画家団休で季る東京漫画会を前身とする。東京漫画会は、漫画家の親睦と地位向上を目的として東京朝日新聞の岡本一平らが結成し、毎年のように漫画祭を開催し、漫画雑誌『トバエ』を発行して外国漫画の紹介も試みた1。改称にあたって、読売新聞に在籍した柳瀬らも加わった。柳瀬は、東京・三越呉服店での会員展に続けて出品し、同会主催の漫画模様浴衣地陳列(三越呉服店)や名流似顔漫画展(青山会館)にも参加している。

■柳瀬正夢と漫画

 柳瀬が初めて漫画を投稿したのは1916年の『美術週報』である。『我等』でカットを描き、『読売新聞』で議会漫画を描きながら、『種蒔く人』や『日本及日本人』にも寄稿して、漫画の風刺精神を養った。やがて村山知義がドイツから持ち帰る画集をきっかけにジョージ・グロスに大きな感化を受け、1929年に鉄塔書院から『無産階級の画家 ゲオルグ・グロッス』を刊行した。

 1925年創刊の『無産者新聞』では、無産階級の視点を明確に打ち出し、橿の枝を使った力強い筆線による独特の描法を編み出した。ウイリアム・グロツパーらアメリカ左翼漫画を研究し、国際的な視野の下で、社会変革の思想的立場にたつ漫画の可能性を切りひらいた。『無産者新聞』の仕事は、1930年の叢文閣版『柳瀬正夢画集』に結実したが、それは「この時代の一つの記念碑であり、プロレタリア漫画の代表的な金字塔」1となった。

 1930年からの『読売サンデー漫画』に連載した「金持ち教育」は、ジョージ・マクマナスの「親爺教育」をもじった風刺漫画で、コミックという新しい分野への進出でもあった。また、『よみうり少年新聞』では「ヂャアヂャカパン太」や「パン太の冒険」の子ども向けコミックを手がけた。これらの仕事を通じて、柳瀬の漫画表現の幅は大きく広がる。

 かつて新興美術時代、柳瀬は絵画様式を「写象、漫象、没象」の3つに分けて考えたことがある。「漫象とは漫画に於ける思想内容と表現様式と漫画精神を有意誠に無意識に借りてゐるもの、現代の新興派即ち後期印象派辺りからダゝイズムに到る形象画の最端までの総ては此の類型に属する」。柳瀬は、漫画を現代絵画の本質ともいうべき、世界のとらえ方の問題として考えていたようで、画家は対象となる現実がいかにしてあるかを描かねぼならず、「現代の画家一般は全て漫画家でなくてはならない」3とさえ、述べたこともあった。157159

■ジョージ・グロス

 ドイツ出身の画家。1910年代から辛辣な社会批判を主題にした作品を、油彩、版画、写真モンタージュ、書籍の挿絵、諷刺画など多彩な手段で発表した。1923年、村山知義がドイツから帰国して

もたらしたグロスの書籍に柳瀬は夢中になり、大きな影響を受けた。グロスへの傾倒ぶりは繊細な線描、重ねられた様々な異なった空間の描写などその頃の彼の挿絵によく現れている。グロスに関する文章も多く、ついには1929年11月、鉄塔書院から『無産階級の画家 ゲオルグ・グロツス』を刊行した。グロス研究を通じて、社会のうちにある小市民的要素に対崎するためであった。163

■『無産者新聞』

 1925年9月に創刊された日本共産党の合法機関糸氏(週刊)。大衆的な政治新聞をうたい、1928年2月に『赤旗』が発行されるまで、日本共産党の唯一の機関紙であった。労働運動や農民運動、無産政党の促進、中国革命への干渉に反対する反戦運動に大きな役割を果たした。最盛期は4万部に達したが、あいつぐ弾圧によって部数は減少し、1928年8月238号をもって廃刊した。柳瀬は、編集局内における漫画の主任として健筆をふるった。終刊後『第二無産者新聞』も発行されたが、やがて『赤旗』に統合された。164

■プロレタリア美術

 広義的には主に労働をテーマにした左翼的な美術運動。プロレタリアとは、資本主義社会において、自己の労働力を資本家に売って生活する賃金労働者階級のことを指す。第一次世界大戦前後から1920年代末にかけて、組織的なプロレタリア美術が多くの国に発生し、それらはおもに各国の共産党機関誌を中心に展開された。日本では先駆的な例に、1903年創刊の『平民新聞』とその継続運動として平福百穂、小川芋銭、竹久夢二らの参加があげられる。第1回メーデーが開かれた1920年に、未来派芸術協会と社会主義同盟が結成され、同年10月開催の橋浦泰雄、望月桂ら の黒耀会第1回展が、最初のプロレタリア美術運動といわれている。1925年、柳瀬は日本プロレタリア文芸同盟の創立に参加し、美術部(R.A)は28年から32年までプロレタリア美術展を開いた。日本共産党の検挙や治安維持法の改正、警察による弾圧などを背景に、1935年には組織的なプロレタリア美術運動は終息してゆく。165208

 

■1932.11.5~1945.5.25210

■柳瀬正夢と北九州の文化人

 「私が柳瀬正夢という名前に親しんだのは、無産者新聞の時事漫画からである。毎号の柳瀬漫画は諷刺以上の力づよい訴えをもっていて、それは後年に知った柳瀬という人物からは想像もされないような戦闘的な絵だった。」

 北九州の作家・劉寒言はこう回想している。

 劉以外に、後に柳瀬と親交を深める作家・火野葦平や画家・星野順一らも、1920年代に雑誌や新聞といった印刷メディアから柳瀬の作品を受容していただろうが、その親交が急速忙深まるのは1940年代である。

 1940年9月、柳瀬は福岡、小倉、門司で、個展を開催する。地元での個展は、1922年に、門司の門司基督教育年会館で「柳瀬まさむ第7回油画展覧会」を開いて以来である。柳瀬正夢画伯後援会の筆頭3う ̄47に名前があるのが、10代から柳瀬を支援している曾田共助であり、その後ろに、火野葦平、横山健夫(自虹)、劉寒吉、星野順一らの名前が続く。個展の準備に尽力したのは、原田磯夫と秋好一雄であった。彼らがそこで求めた作品の一部は今に伝わっている。

 柳瀬は1920年代から、活動の拠点を東京に移すが、火野葦平の親友であるロシア文学者の中山省三郎や、火野葦平の『糞尿罷』や、岩下俊作の『富島松五郎伝』を刊行した小山書店など、東京にいながらも九州とつながる人脈があったのも大きいだろう。個展の終了後もその交流ほ途絶えることがない。『九州文学』の同人になったり、火野葦平「みづうみ」の挿絵を手がけるなどしている。特に、実在の人物が多くモデルとなった「みづうみ」の挿絵を柳瀬が担当し、火野や劉の姿を柳瀬が描いたことからは、彼らの交友関係の深さが感じられるだろう。

 晩年刊行を予定していた句集には、「洞海の河童還りて冬ぬくし」「バラックの門司のホームのさむざむと」「冬の月鉄都のクラブ高台に」など、火野葦平や門司などを詠んだ句もある。10代の柳瀬を育んだ門司、北九州は、晩年においても柳瀬にとって大きなよりどころであり、まぎれもないもう一つの故郷であった。

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■小林勇

 出版人、随筆家、文人画家。1920年に岩波書店に入社し、岩波文庫の創刊に携わる。1929年に鉄塔書院を創立する。1934年に岩波書店に復帰。支配人、専務を経て、岩波書店会長となる。/ト林は1928年に柳瀬と出会い、その親交は生涯にわたって続いた。失意の底にいた柳瀬忙再び油絵を描くことをすすめるなど、柳瀬の傍らでその活動を見守り、支えた。「ねじ釘の画家 柳瀬正夢と子供たち」をはじめ、柳瀬について言及した文章も多く残している。

■鉄塔書院

 小林勇が1929年に創業した出版社。柳瀬は、雑誌『鉄塔』や、大山郁夫『嵐に立つ 日本に於ける無産階級政治闘争の一記録』、長谷川如是閑『歴史を捻ぢる』、オリヨーシヤ『新しき者と古き者』など、鉄塔書院から出た本の装丁を多く手がけている。

■羽仁五郎

 歴史家。明治維新史研究において、人民史観と呼ばれる基礎を作り、マルクス主義史学の確立に努めた。羽仁は1928年に、三木清らと雑誌『新興科学の旗のもとに』を創刊しており、その頃から柳瀬と交流を深めている。妻の羽仁説子とともに、家族ぐるみの付き合いがあり、《合歓の花天安門》をはじめ、柳瀬の作品を多数所蔵していた。

■柳瀬正夢の三鷹の住居

 1939年、柳瀬は洋裁を生業としていた松岡朝子と再婚した。その頃は、中国に旅行し、北京にも滞在し、油絵やスケッチの展覧会を度々開いた。作品はよく売れ、新居の建設の資金となった。

 柳瀬は、親しかった経済学者、林要の家を作った山越邦彦に設計を依頼した。山越は新興建築運動に関わった建築家で、その依頼をよろこんで引き受けたという。折しも山越は北京大学に招蒋されて自宅を空けることになったため、柳瀬が1941年頃、三鷹町下連雀210番地の山越邸に仮寓した。

 新築にあたっては、山越が土地探しはもとより、資金を一部貸与するなどの世話をしたらしい。今日三鷹台と呼ばれる見晴らしのよい畑作地の三鷹町牟礼113番地が選ばれた。1942年3月に着工し、翌年3月に住居とアトリエが完成した。その祝いの会には、小林勇、三木清、羽仁五郎、速水敬二、栗田確也らが集った1。

 アトリエは住居と栗の木で隔てられ、北側が高くなった四角い建物だった。東側のところが2階になっており、山越が東京に戻ってきたとき利用できるよう寝室が作られていた。防寒・防暑のため壁を二重構造にしたので、柳瀬は無産運動時代の貴重な資料をそこに隠すことを思いついたヱ。

 戦時下における三鷹の住居は、郊外にあって進歩的な文化人の接点となり、避難場所にもなった。柳瀬は、横浜事件で逮捕された松本正雄の家族を住まわせ、空襲が酷くなると品川から同盟通信の松方三郎が避難して来たりした。柳瀬自身が亡くなる5月25日の空襲直前には、医師の安田徳太郎も焼け出されて避難して来た。柳瀬の没後、住居部分は残った。だが、アトリエは引き揚げてきた山越が取得したのち火事に遭い、焼失して現存しない。