ダダと構成主義

■基本要素の発見

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アンドレイ・ナーコフ

 なぜなら,その創意に富んだ発想をこえて,この数学的エネルギーの傑作は,無意識的な美の領域に,ふかく根を持っているのだ。それは数字以上数量以上のものである。というのもこの傑作にはある奥深い生命の要素がかくされており,もし我々の精神が彫刻芸術,建築芸術から感動を求めようとするならば,その要素に我々の精神は従わなくてはならないからである。そのもっとも衝撃的かつもっとも単純な例をあげよう。すなわち,解放された空間の真中に吊り下げられた,静止した一本の針金,である。それは彫刻の言語のもっとも純粋な要素であって,人はそれについて確かで,疑う余地のない,説明できない理念をいだく。この調和は,絶対的で決定的なものであって,ある無限の点を人の手にとどくものにするのである。  

レイモン・デュシャン=ヴイヨン「エッフェル塔』1913年Delaunay_-_Tour_Eiffel

 抽象美術の誕生につづく時期は,強烈な芸術活動に彩られた時代である。この二十世紀の主要な文化的事件がひきおこした変動は計り知れない。なぜなら,それは単に「形式上の」刷新ではなく,そもそも造形表現とは何であるべきかという概念の変化だったからである。古い「ミメーシス」の概念がひとたび放棄されると、新しい価値の体系が発展し,また,これまでとは別なレファランス(参照、問い合わせ)が打ち立てられねばならなくなった。ここに生まれたこれまでとちがうフォルム形の生命は,新しい表現の要因を確立し,また,その構成要素の働きを定義し直すことを求めていた。こうした考え方のひろまりと発展は,いくつかの方向に,しかもいくつかの異なった領域で行なわれた。1914年から1918年の時期,戦争行為の結果生じた文化的閉鎖状況は,ロシア,ドイツ,中央ヨーロッパなどパリ以外の芸術界が自立した発展をたどるのにきわめて好都合に作用した。こうして,現代美術は,立体=未来主義の騒々しい時代が鳴物入りで予告していたその最も実り豊かな発展を,大砲の影の下で体験することとなったのである。すでに1915年には,この現代美術の本当の意味の誕生は,ロシアの無対象美術の開花(マレーヴィッチのシュプレマテイズムとタトリンの構成主義)オランダの新造形主義(モンドリアン,フアン・デル・レック,ファン・ドゥースブルフ,フアントンヘルロー),チューリッヒ・ダダとベルリン・ダダ,中央ヨーロッパの構成主義,そして抽象映画の始まり)(ルットマンとエッゲリング)という形であらわれていた。戦争中の敵対関係が終ると,直ちに芸術家たちの接触は再び形成され様々な理念や作品が交流するようになった。戦争で中断されていた国際的な友情の鎖は,新しい基盤の上に再建されることになったのである。

 戦争による大量殺戮と社会=経済的変動のもたらした破壊的な衝撃は,ヨーロッパ文化の風景を根底から変えていた。スペイン,北アメリカ,ラテン・アメリカの勢力が拡張し,また一方,束ヨーロッパ,とくにロシアがいっそう大きな重要性を獲得した。1920年以降,ロシアの無対象美術は,ワルシャワ,ブダペスト,ウィーンでよく知られるようになった。多数の亡命者が到着すると,ベルリン,ワイマール,パリでもその実体は明らかなものとなった。また一方,それと並行して,あの有益な「不快さを惹きおこす陶酔」(ツァラ)を誇らし気にかかげたダダイズムが,壊乱のネットワークを編んでいた。チューリッヒとベルリンに発したダダイズムは,急速にフランス,スペイン,オランダ,ポーランドに広がった。すでに1915年には,マルセル・デュシャンとフランシス・ピカビアが,この新種芸術伝染病の最初の菌をニューヨークに運んだ。デュシャンの計算された無関心,ピカビアの陽気な無頓着は,戦争のために軍事的,商業的のみならず文化的な面でも,乙女の無邪気さを奪われ世界にめざめた,この若い国の文化の風景に,長く刻印を残すことになった。

新造形主義

 同じ時期,ヨーロッパの舞台には,オランダの新造形主義が登場していた。形而上学的というか神智学的な性格の象徴主義の新プラトン主義的な発展(モンドリアン)から生じたこの運動は,急速にドイツ(ベルリン,バウハウスの建築家),中央ヨーロッパ(ポーランド)へと拡がり,建築,彫刻(ファントンヘルロー),フランスと中央ヨーロッパ(チェコスロヴァキア)では応用美術に影響を与えた。

 一見したところ,この造形美術の展開は,対立的とは言わないまでも明らかにばらばらな道をたどっており,実際それぞれの運動の立て役者たちは,目につく相違点をいやましに前面に押し出してきた。しかしながら,そうしたいくつかの相違は時としてこれ見よがしに過剰に主張されたとしても,1920年代初めにはある共通項も急速に顕わなものとなった様々な傾向で働く創造的な作家たちの問の接触は,きわめて実り豊かなもので,ごく短い交流期間の末には(1919−21年),一種の「芸術家のインターナショナル」が誕生していた。1922年の前半にはお互いの立場を明確にしようという志向が高まるとともに,共通の美学的基盤をうち立てようという意志が強く感じられるようになって,それぞれが独自性を主張している芸術家グループ間の接近を図ることも可能となった。たがいに考えをとり交わすことによって,芸術家たちは,さまぎまな革新的な概念にも,それらをひとつの哲学的基本原理によってまとめてくれるような共通の背景というものが存在しており,その哲学的基本原理こそが,新しい世界像を支え,彼らを対話へ導いたのだということを意識したのである1920年代の初めには数多くの現代作家たちが,自分たちの求めているものの類似性に気づいている

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 孤立した状態から引き出された彼らは,ひとつのことだけを望んだ。すなわち,新しい芸術が大規模な形で社会的に開花することである。新しい芸術がアトリエを出て実生活の中に入りこむことは,彼らの目には,その莫の実現に通ずるものだったのである。

 ヨーロッパ各地の様々な大都市では,非公開の会合が開かれるようになった。1922年初めの数週間にはパリである「会議」の準備が進められていた。1922年5月末にはデュッセルドルフの「進歩的芸術家会議」で,構成主義者とダダイストが初めて出会い,つづいて9月末にはワイマールで,デュッセルドルフとほとんど同一の参加者によってダダイストと構成主義者の国際的な会合が開かれた。1922年を特徴づけるもうひとつの,芸術諸傾向の間の協力を物語る現象は,いくつかのヨーロッパの大都市で国際的な志向を持った雑誌が発行されたことである。

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 そのプログラムという点でとくに興味深い,野心的な雑誌『デ・ステイル」,「MA』,『ヴュシチ』,「G(形成)』などは,ダダイズムと構成主義の基本的主張を同等に擁護し,さらには両者の綜合に到達しようとした。こうした長続きはしなかったフォーラムの中で,1920年代,1930年代の「構成的な」近代性の基盤が形成されたのである。この1922年の最後を飾ったのはベルリンにおける大口シア美術展である。このときロシアの無対象美術が初めてヨ丁ロッパ世界に登場し注目された。一年後には「デ・ステイル」の新造形主義の作家たちがパリで自分たちの仕事を展示(ロザンベールの画廊),一方,バウハウスは同じ時期に最初の−そして唯一の一大展覧会をワイマールで開催した。

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 このようにして,1921年末から1923年夏にかけて,ヨーロッパの芸術界には,国際的な接触,展覧会あるいは芸術家たち自身の旅行がひとつの波となって生じ,それらによって第二次世界大戦勃発までの近代美術の発達の前提が据えられることになったのである。この大がかりな芸術界パズルの,活動の表層のみを越えて,あえて進もうというならば,いくつかの基本的な方向のラインは,引き出すことができるであろう。近代性の様々な表現をいわば歴史逸話的に示しているひとつひとつのテーマの背後に,基本的な諸潮流および概念上の緊密なつながりが発見できるであろう。それらは,1915年から1934年にかけてはひと掘りの「前衛的な」芸術家たちが体験し,1945年以降西ヨーロッパならびにアメリカでよみがえり,さらに最近二十年間にもっと広範な人々の間にひろまった我々の近代性というものを基礎づけているのである。

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 ダダイストと構成主義者の間の創造的な関係は,第一次大戦のさ中に出現したこの近代性の根本的局面のひとつをなしている。その結びつきは,社会的,思想的に緊急の課題に対する,理論的な姿勢のとり方に限定されるものではなく,実際の芸術制作の現場においても実り豊かな発展をとげている。そのもっとも生産的な例のひとつには,ストラスブールの複合施設「オーベット」(1926−28年)建設の際の,アルプ,ゾフィー=トイバー,ファン・ドゥースブルフの共同制作があげられる。さらに1920年代,30年代を通じて,ダダイズムのテーマと構成主義のテーマとは密接に絡みあい,モホイ=ナジの展開,タトリンの展開(1923年におけるフレープニコフの戯曲『ザンゲジjの演出),クルトシュヴイツタースの全作品(ハウスマン,リシツキーや「抽象派」の連中との関係を含む),ハウスマン,マルセル・デュシャン,テオ・ファン・ドゥースブルフその他多くの人々の作品に,深い刻印を残している。ダダイズムと抽象美術(無対象美術)を支える建設的な鉱脈の発見は,アメリカにおける近代美術史編纂の始まりをなす先駆的な企てである「ソシュテ・アノニム」の起源にも存在している。この企てはアメリカ近代美術およびニューヨーク近代美術館の起こりであると言ってもよいものであった。そしてこのニューヨーク近代美術館とこの機関を導いたアルフレッド・バーの活動を抜きにしては,今世紀の美術史は考えられないのである。

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 綜合への欲望は,混沌とした時代によくみられる衝動であるが,時としてそうした欲望のあらわれに他ならない様々な共同の企てよりも,さらにはるかにダダイズム,構成主義の関係において重要なのは,両者の対話を可能にしてくれる基本的な概念の形成であった。こうした概念のうちの多くのものは,以後数十年にわたって近代美術のあらゆる発展に根本的な特徴を与えるものとなった。それらの概念の正当性は,今日なお現実的意義を失わぬものなのである。

 芸術創造という点でいうと,我々が生きている時代は,物語を多少とも快く語ったりすることはもうしない時代である。現実からはなれむしろ固有の存在を獲得することによって,現実の事物を呼びおこしたり再現したりすることに頼らずに,現実の中に再び戻ってゆく,そうした作品を創造する時代である。その意味で今日の「芸術」は,偉大な現実性をもった芸術である。とはいえ,それは芸術的な現実性という意味であって写実主義という意味ではない。写実主義は我々の最も対極にあるジャンルだ。  

ピエール・ルヴェルディ「ノール・シュド』第1号,1917年,より

 ダダイズムにせよ構成主義にせよ,新しい美術は,美術以外の世界に対して模倣的な関係性をもつことを拒否していることで,定義づけられる。レッシングが『ラオコーン』を出版して以来(1766年),造形芸術にはひとつの傾向があらわれた。すなわち,芸術表現が自立し,何であれ自分以外のものの視覚的な説明ではなくなり,自立した「もの」として自らを形成するという傾向である。何十年という長い歳月の後には,この「もの」は完全な自律性を獲得し,固有の法則を練り上げ,自立した世界として自らを提示するであろう。この自律性は,再現的な表現言語(古いミメーシス)の放棄を決定する。

 つづいてこの自律性は,新しい形態と素材の概念を条件づけることになる。かつて素材は表現に従属し,その個性は形態に(そして形態は主題に)従属していたとすれば,表現が造形世界以外の現実に従属することから全て解放されるにおよんで,今度は素材の個性が解放され素材の物理的な存在の独自性を十全に表わすことが可能となっていったのである。この抽象的な(自立した)形態と再現的機能から自由になった(それゆえ最大限に個性を獲得した)素材との問の弁証法的な相互依存の関係は,無対象芸術およびダダイズムの新しい創造をその誕生以来特徴づけるものであった。

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 つまりタトリンの1914−15年のレリーフであり,チューリッヒのダダの1917年のレリーフとアッサンブラージュである。純粋な形態に価値をおくことテクスチユアは,素材の解放を導いたのである。素材は,それぞれの材質感の持殊性のおかげで個性化され、一方,材質感は形態をくみ立てるひとつの要素となる。一方の解放は他方にも及び,非=模倣的な形態には非=模倣的な素材が対応する。素材は恐れることなく自らの「響き」,固有の「音色」を高らかにうたい上げるのである

 音楽創造の分野では既に1911年からこうした理論が出現していたテクスチユアが,それに倣(なら)って初めて材質感の理論の定式化が行なわれたのは東ヨーロッパのことで,抽象的な無対象美術の最初の思想家のひとり,ラトビア人のウォルデマール・マトヴュイス(ウラジーミル・マルコフ)により為されたのである。

 彼の理論書「ファクトゥラ』(材質感の意)が1914年にロシアにおいて,つまり造形美術と言語芸術が他にさきがけて抽象美術無対象の創造に到達した国で,出版されたことは驚くにはあたらない。こうした理論が誕生するのに適した土地は,立体=未来派サークルの沸きかえるような創造的雰囲気の中にあった。最初の音声詩が作られるのも(クルチョーヌイフ),最初の無対象絵画が作られたのも(マレーヴイツチ),このサークルの中であった。

マレーヴィチ

 現代の画家は,素材に対する全く特殊な崇拝によって特徴づけられる。

      N.タラプーキン「絵両の一理論のために』1916−23年

 1915年から1918年にかけて無対象美術はめぎましい発達をとげたが,この時代の後では,1920年代初めに,材質感の問題が再び重要な意味を獲得している。ロシア,ドイツの「ファクチュリスト」の第二世代が,第一世代の立場から出発し直して,近代美術の流れを継承したのである。こうして無対象美術の歴史に新しい挿話が生れた。たしかにそれは副次的なものが形成される時代の美術に相応しく,フォーマリズム的な在り方の場合が多かった。その一例としてロシア構成主義のポーランドにおけるエピゴーネン(「模倣者」、「亜流」),画家ベルレーウィの作品がある。彼の仕事は1922年,1923年にワルシャワ,ベルリンで有名となった。彼の書いた理論的な小冊子『メカノ=ファクトゥラ」(1923年)は長いこと,その立論の源泉となっていた構成主義の真の姿を隠すフォーマリズム的なカーテンの役を果たしていた。

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 ダダイストたちは,ロシアの無対象の芸術家たちと対立するとは言わないまでも,一見したところ全く異質とみえる道をたどった。アルプ,ハウスマン,シュヴイッタースたちは,コラージュ,アッサンブラージュ,レリーフの中で,直接キュビストから想を得た幾何学的な形態構造を,もっぱら素材を解放するという目的で利用した。それゆえにまるで素材を強調することだけが,彼らのただひとつの関心と思われ多くの場合それも純粋に逸話的な種類のものに見えたほどなのである。(1917−20年頃の彼らの作品の物語性を見よ)。しかしながら,この素材の強調は,不可避的に彼らを非=模倣的(抽象的)な形態にみちびいた

ジャン(ハンス)アルプ

 そのことを物語っているのはアルプの幾何学的なコンポジションであり,ハウスマンのそれであり(「絵画の素材」),あるいは「逸話的な」作品と並行して現われた,シュヴイツタースの数多くの純粋に抽象的なコラージュである。つまり彼らの過程は,ロシアの無対象の芸術家の場合と,あらゆる点からみて類似しており,ただ出発点だけが逆転していたのである。実際,それは同一の創造のプロセスであり,その二つの極は自由に入れ替わりうるものであった。なぜなら,新しい造形表現の基盤をなす論理は,より高い次元にあり,必然的に,作品を構成するフォルムも素材も等しく包摂するからである。さて,この省察を結論に導こうと思うなら,ロシア立体=未来派の純粋に超理性的段階(1914−15年)に言及しないわけにはいかない。この段階において,ローザノワの接合素材によるレリーフやクリューンのレリーフでは,無対象的な形態の出現が「野蛮な」素材の爆発的な使用を伴い,一方,これらの素材が今度は「拾得物」の造形作品への導入(クリューン)をもたらしていたのである。詩人クルチョーヌイフの『世界戦争』の挿絵にローザノワが作った「超理性的」(シュプレマテイズム的)コラージュならびにタトリンの初期のレリーフは,真に革命的なこの芸術上の実験が成熟に達してきたことを示すものであった。他の面から言えば,ロシア美術のこの段階がよく「ダダイズム的」という言い方で形容されるのは,驚くことではなかった。この様式的形容は,純粋に歴史的な視点からすれば妥当なものではない。というのは「ダダ」という言葉が作られたのは,年代的には,ここで挙げているロシアの実験より後のことだからである。とはいえ,他方から言えばそれは根拠のない言い方ではない。なぜなら,この時期のロシア立体=未来派がかかえていた問題意識は,アルプ,ファン・レース,ヤンコらのチューリッヒにおける最初の示威行動に続く時期の,ダダの作品がかかえる問題意識と多くの点で似通っているからである。

 我々には,力強く,剛直,厳密で,永遠に理解されることのない作品が必要だ。トリスタン・ツアラ1918年

 形態がひとつの(写しとるべき)「規範」とみなされなくなったときから,形態の発展をおし進めるのは,もはや模倣の論理でもミメティック(模倣, 擬態性)な直接の競合の論理でもない,ある論理の力である。ひとつの形態は,もうひとつの形態から,模倣により派生することは不可能となる。なぜなら,形態を構成している原理が,もう,単に視覚的な(表層の)類似の原理(ミメーシス)ではなくなったからだ。新しい形態は,内的な構成の原理,固有の論理を根拠として存在している。人はこの固有の論理の結果(「裸形の」形態)は模倣できないが,構成のシステムを継承することだけはできるこの構成のシステムすなわち「手法」を根拠として,形態は存在する。つまり,作品を構成しているのは,目に見える結果であるとともに,その構成作用の論理なのである。あるコンポジションが絵画外の世界のモデルからインスピレーションを得ることがなくなるのと同様に,新しい形態はすでに存在している形態の単なる外観から「インスピレーションを得る」ことはありえなくなる。コンポジションもフォルムも,内的な論理,形態=創造的な原理をもたなくてはならない。この原理は「形態=模倣的」なものではありえない。模倣的でないということは,その原理は別の所,異なる位相に自己を位置づけねばならない。この原理は多くの場合,力学的な性格,もっといえば生命=力学的な性格のものであろう。フォルムは,生気論的な原因から形成されるのであって,たんに機械論的な・・・あるいは,(円,四角形,三角形等)視覚的に類似したタイプの形態の間の純粋に「表面の」関係という意味における「フォーマリズム的な」・・・原因からではありえない。マレーヴイツチは,1915年に既に,無対象の作品の存在が次のような必要から生れたと定義している「形態に生気と独立した存在の権利を与える(……)それぞれの形態は自由で自立している(……)それぞれの形態はひとつの世界なのだ。どんな絵画の表面であろうと,二つの目のついた微笑を浮かべたどんな顔よりも,生きているのだ」。

 1916年からマレーヴイツチは,形態の連続的展開を組みたてるうになっており,そこから彼のシュプレマテイズムの作品が,形態のエネルギー的同一性の考え方にしたがって発達するのである。形態の存在根拠は,形態を作っている素材の性質の中にある(とはいえ形態は常に油絵具で描かれそれゆえ全くイリュージョニスティックなままの表現を作り上げている)。形態の連続的展開を支えているのは,物質の「状態」の理念である。そこから,「磁力の関係」をもった宇宙的な」形態グループが生じる。形態の点在の仕方は,「爆発」,「拡散」(ガス状態),「液体」(滴の形)の結果である。コスミックなテーマはのちに,マレーヴイツチの同僚(ローザノワ,クリューン,ロトチエンコ)たちの展開した無対象美術の多彩な発展を豊かに支えることになる。

 いかなる純粋に幾何学的な(つまり模倣的な)モデルとも結びつかないこうした自由な形態構成の考え方は,ロシア未来派から生れたこれ以外の様式的な展開の出発点にも,存在している。たとえば,ピョートル・ミトゥーリチの「造形的アルファベット」(1915-17年)のもっているおどろくべき絵画的自由や,1914年以降マチューシンが制作した植物のような形で構成された彫刻がその例である

《空間内の運動》(1917-1919) 《色彩的=音楽的コンストラクション》(1918)木の根っこを用いた彫刻(1920年代はじめ)

 ここでもまた;フォルムの存在理由は,素材の「生命」にあり,なにものにも拘束されないフォルムは,マチユーシンが直接利用している植物の根のように,成長している。これに先立つ二年前,ダヴィート・ブルリュークは「自由デッサン」の理論をあみ出し,その中でカンディンスキーに言及していたが,カンディンスキーの1910-14年の芸術こそ,この絵画の野性的な生命力の激発を何よりよく物語っているもののひとつなのである。この純粋に生命=論理的なフォルムの自由の考え方は,ロシア無対象美術の作家たちを,まだ生成過程にある,未完成のフォルムへと導いて行くことになった。こうした未完成のフォルムは,1917年以降,まずマレーヴイツチの絵画活動の中にあらわれその後ポポーワ,ロトチエンコ,ローザノワ・エクステルに継承されることになる。こうして,無対象美術の新しい絵画表現の中にひとつのフォルムがあらわれるには,もうその全体を表わすことは必要でなくなった。フォルムの全体像を視覚的に表わすことは無用であり,ただその構成原理の本質を,フォルムを発生させる原理を,その構成の手法を,つきりその存在根拠を,コンポジション内にあらわれさせるだけで十分なのである。この構成原理の誇張は,この後,「手法」を重視するというかたちで,徹底して開発されることになる。

 こうして,部分的な形,断片が,完全な形と対等な自立した存在を獲得することとなった。ここまで見てきたことからもういちど明確にしておかねばならないのは,素材的(テクスチェア的)構成要素が,最大の重要性をもった役目をはたすようになるということである。なぜなら,断片の存在理由とは,最少限度の量の物質を用いて,いわば分子的な,しかし同時に普遍的に概念的なフォルムの固有性を示すことにあるからである。限りなく小さなものが,普遍的な本質,すなわち概念と,こうして,ふたたび結びつくことになる。フォルムと素材とは,この創造的な対話の各段階で均衡を得るのである。この断片の強度の原理こそ,ダダのコラージュ,アッサンブラージュの詩学の根本にあるものである。ダダイストたちは,この考え方をつきつめて,偶然的なフォルムや廃棄物の崇高化まで行くことになる。ガートルード・スタインが言った,それぞれの部分は,その部分を含んでいる全体と等しく重要であるという仮定は,ここでは別の水準にまでつきつめられている。つまりシュヴィッタース,ハウスマンあるいはパーダーにとって,細部は全体よりも,多くの場合,いっそう重要なのであるあるオブジェの断片は,作品の全体にとっての起爆剤の役割をはたす。それこそが,批評的な大衆を前にした,革命の原則,爆発の原則である。それは現代美術の作品にいずれもあてはまるものである。単にひとつの粒子が起爆剤の役目をつとめるのだ。それはちょうど,社会的に爆発寸前という状況の外にいても,ある一介の個人が表明した考えが,社会秩序の壊乱を招くことがありうるのと同じことなのである。

 断片が昇華されるということは,必然的に,現代の芸術家たちを,基本的な要素,エレメントについて深く考えることに導くものだった。そして,ダダイストと構成主義者たちが,ただちに共通の土俵を見出すことになるのは,この点であった。作品のもつ素材的な固有性と(新しい)フォルムの存在論的な固有性の重要性を発見したのち,ダダイストとロシアの立体=未来派は,物質のもつ潜在的なエレメントならびに基本要素のもつ概念的な価値を最初に意識する者たちとなるのである。その後,基本要素は,(形態的にも素材的にも)最小限の存在の状態で,美術作品の内容を満たすに十分となった。この存在論的ないし「実存的」アプローチは,ハイデッガーをもっとも優れた代表とする同じ名をもつ哲学の誕生と完全に一致している。この哲学の問いかけによって「存在」と「本質」は現代世界を再定義することになるのであるが,その探究と美術の分野におけるエレメンタリズムの追求とは,多くの面で対応しあっているのである。

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戦争とは,他者の領土に自分の国境を進めることである。

クラウゼヴィッツ「戦争論」1913年

 エレメンタリズムの基準は,1920年代の初めに,新しい創造の根本的なテーマとしてあらわれた。それは,(抽象)映画の分野でも,建築の分野でも(ミース・ファン・デア・ローエ),彫刻においても(フアントンヘルロー,コプロ),絵画でも,音声詩でも(ハウスマン,シュヴィッタース),光の絵画でも(モホイ=ナジ),豊かな思考を育てることになった。1918年から1922年にかけての時期,数人の芸術家は,この「基本要素をめぐる」研究に,集中したのである。基本要素とは何かを定義しそれを強調し,操作することが,彼らの研究の中心的な主題となった。物質の本質的局面の研究,その強調,その固有性(新しい創造の基盤)は,ダダイストと構成主義者たちを,同時に複数の芸術分野に関心をもつように導いた。この段階において素材のもつ潜在的な表現力を引き出すことには,特殊な知識はまるで必要ではなかったし,扱いに技術(つまり修業によって獲得される職人的な技)もいらなかったのであるから,様々な分野に手をひろげることは,なおのこと正当化されうるものであった。問題は,そうした斬新な技術,ないしは「手法」を発明することであった。

 ダダイストやロシアの立体=未来派のいだいた破壊の情熱は,(すでに一世紀半の昔にアカデミックな美の規範がどんな結末に至るかをみていたヴォルテールを引用するならば)この「趣味の頽廃(たいはい)」の責任が「きれいにつくるという怠惰と美の飽満」にあるという気持から,まさに生れている。こうした精神の自由は,この時代のひとつの特徴であった。それは,あらゆる創造の起源とくらべることのできるような時代であって,この斬新な芸術世界を開拓する可能性は尽くしがたく思われていたのである。自分が時代の出発点に居る,ひとつの文明,ひとつの新しい宇宙観の誕生に立ち会っている,という感覚は,「普遍的」芸術,「普遍的」言語を作り出そうという努力(ロシア未来派やチューリッヒ・ダダ)の中に,はっきり見てとることができる。ニーチェ的な「宇宙の春」(クプカ)の感覚によって芸術家たちは心おきなく,複数の芸術分野に手を出すことができたのであり,むっと言えば,すべての分野は互いに交換できるものとなったのである。なぜなら,この時代の美術のテーマが「基本要素の」操作にあったがゆえに,基本要素はどこにでも存在し,その基本要素間の関係が,一にして全てでもある芸術の主題となっているのである。こうして,「職人的な」芸術分野の区別は廃棄されまた1918年以降は「高級な」芸術と「応用的な」芸術の遠いも現実的な意味を失い,構成主義者,ダダイストは,あらゆる分野で制作することになるのである。バウハウスやモスクワのヴフテマスの設立精神を思いおこせば,十分である。詩も彫刻も絵画も,タイポグラフィーや舞台装置,舞踏、デザインなどと交換できるものとなる。シュヴイッタースは,音声詩を書き,朗読し,絵を描き,アッサンブラージュを制作する。

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 ファン・ドゥースブルフは,理論的な活動に加えて,画家であり建築家でありタイポグラフィーのデザイナーであり,また音声詩を書いている。造形美術の分野での活動のほかに,アルプは詩を書き・ハウスマンは写真家であり,プロとしてダンスを踊り,タトリンに倣って機能的な衣服にまで関心を拡げている。芸術のいくつかの領域で仕事をすることは,素材の本質(タトリン),身振りの本質(ダダイスト),フォルムの本質(マレーヴイツチ,ファンードゥースブルフ,コプロ),画面の本質(ストシュミンスキ),言葉の本質(ロシア未来派),音の本質(ハウスマン,シュヴイツタース)などそれぞれの創造行為の本質が追求されていたがゆえに,いっそう「構成的な」芸術家という新しい考え方にとって重要であった。ハウスマンやシュヴィッタースの言語についての仕事を一種の「アングルのヴァイオリン」すなわち趣味とみなすなら誤りであろう

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 クルトシュヴイツタースの晩年の書簡の一通は,そのことをはっきりと証明している。1945年以降,最後の「メルツバウ」を,熱心に制作しながら,シュヴィッタースは,同時に,ハウスマンと共同で実現しようと考えたある出版物(Pin)の計画を再びとり上げている。シュヴィッタースはこの本を何より音声詩に捧げようと考えていた。死の数カ月前,シュヴイツタースは,ハンス・リヒタ一に宛てて,「メルツバウ」と「原ソナタ」が対等な資格で自分の「主要な大作」であると書き送っている。

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 同じようにポーランドの構成主義者ストシュミンスキは,自分の1930年代のタイポグラフィーのレイアウトの仕事(プシボスの「ツポナド」)に,「ウニスム」の油絵にかつて与えていたとほとんど同じ重要性を与えていたのである。しかも,ストシュミンスキがタイポグラフィーの習作を無数と言ってよいほどに作っていたことはよく知られている。こうしたタイポグラフィーの構成の数々の「ステート」を見ていると,彼の作品の真剣さがよくわかる。ストシュミンスキの作品の質の高さは,たんにポーランド画エボス派の叙事詩ということを越えて,まだ発見されなくてはならないものなのである。それゆえ,タイポグラフィーの仕事が構成主義美術のひとつの頂点を形作っているということは,驚くにはあたらないこの領域においてリシツキー,ストシュミンスキ,シュヴィッタースは,二十世紀美術のかがやく傑作のいくつかを残したのである。

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 1920年代末に「新しいタイポグラフィー」の展覧会がいくつも開かれたことは,このように卓越した造形作家たちの目からみてこのテーマがどんなに重要性をもっていたかということのもうひとつの証拠なのである。数世紀の昔,フランスにおける初期ルネサンスの時代に,絵画美術のひとつの頂点はジャン・フーケの写本挿絵によって到達されたということを思い出すべきであろう‥。

 形態についての考え方が狭い「様式的な」鎖から解放されることによって,こういった,ある表現素材から他の素材への移行というものが可能になった。さらに,こうした姿勢は,理論的な結論をまとめることをうながし,理論は作品の不可分の一部となった。また理論のおかげで芸術作品が完成するのに不可欠な手法を形成することができるようになったのである。この手法を明確化したいという要請が根拠となって,いわば新しい創造の「通奏低音」をなす数多くの理論的なアピールが出現することとなった。こうした普遍性のクレド「信条告白」というべき,壮大なアピールに加えて,芸術家たちは,別の特殊性をもったアピールも数々生み出した。それは,技術宣言であったり,実際の制作の説明であったりしながら,とり上げるそれぞれの領域に固有のものだった。こうした技術的な立場は,問題の分野に応じて異なったもので多様であるが,それは私たちを驚かせるものではない。なぜなら,重要なことは,どの場合も,とり上げる技術の特殊性を考察することだからであり,しかも,その技術の存在そのものが,素材の特殊性とその素材が要求する手法によってしか,ありえないからである。それがテオ・ファン・ドゥースブルフの場合におそらく当てはまるのであり,建築,絵画,詩ととり上げる分野に応じてその技術的な立場は多種多彩になるのである。同様に,ストシュミンスキにとって,絵画の理論と彫刻の理論とは,いずれも「ウニスムの」と銘打ってはあるが,大きく異なるものであつた。というのも,彼は,彫刻の条件に対比して,絵画の条件(平面的な二次元性)の特殊性を完全に意識していたからである。彫刻の条件は,無対象の面が現実の三次元空間に発展して生れたものであった。芸術家は,当然,ウニスム彫刻のコンポジションには時間の成分が含まれているのに対し,ウニスム絵画のコンポジションでは時間的要素のないこと(またそこから生ずる物語性のないこと)が特徴となるにちがいない,という結論を引き出しているのである。

 フォルムについてのダダイズムと構成主義の考え方は,とくに写真の領域・・・実験映画(抽象映画)とフォトグラム・・・で一致している。フォトグラムの技術は,フォルムについての近代的な考え方を定義してくれる一群の要素を提供している。つまり,フォルムはもう,芸術家の手で直接に形成されることはないし,また多くの場合,断片的(あいまい)であり,別の性質の経験の抽象的な・・・したがって純粋に概念的な・・・一変形をなしているのである。フォトグラムは,視覚的な現実の別の容貌を(陰画に変化させることによって)目に見えるようにする自立したオブジェである。つまりフォトグラムは,特殊ではあるが現実の存在をもった自立した世界なのである。機械的に生み出される,このオブジェは,旧来の規則に従って,フォーマリズム的,「職人的な」やり方で,変形されることはない。得られたフォルムは,ある直観的負荷を伝えてくる。というのは,つねにそれらは,計算されたとは言わずとも,確実に意図され,大筋において前もって考えられた(またそれゆえ制作の手法にとりこまれた)偶然の結果生れているからである。また,作品の統一性は,偶然的な制作法と写真材料によって保証されている。作品の変質(紙が崇ずんでくること)は,その素材的(化学的)特性のもっとも直接的な表現である。たったひとつしかないものという概念は,一見したところでは,構成主義者たちの掲げていた「生産主義の」前提と矛盾するように思われる。だが実際には,唯一の作品という概念は,厳密な意味の発明を問題にしているという点において,重要であり選択的である。それぞれのフォルムは,それが「形態的な個性」を得ている度合に応じて,つまりその存在が自律的な根拠を持っている限りにおいて(手法の重要性はそこに由来する),成立しており,それこそがフォルムの存在理由をなすのだ。こうした前提から出発して,モホイ=ナジのような芸術家たちは,「生産」への要求を定式化するが,ここでいう「生産」とは,新しい未曽有の芸術品を軌道にのせるということなのだ。こうして「生産する」という言葉は,「再現する」と対立するものとしてスローガンとなったのである。

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 今日の構成主義の芸術家たちは,イデオローグ以外のものにはなり得ない。 タラブーキン 「イーゼルから機械まで』1923年

 近代美術を誹謗する者たちのイデオロギー的言説は,ただちにこの前提を自分の都合の良いように骨抜きに懐柔した。「生産主義」のイデオロギーは,「生産」の本来の概念(それは常にオリジナルの生産の意味であった)を,近代産業の「大量生産」の実践の意味にゆがめて用いたが,そのことは,この概念が本来もっていた意味を堕落させ,純粋な創造性の領域から消費物資の工場生産の領域への概念のおきかえをなすものであった1923年に,構成主義の評論家タラブーキンは,このイデオロギー的な逸脱を明らかにして,こう述べている。「今日のロシアの視覚芸術に大きな影響を及ぼしている構成主義とは,私のみるところ,生産主義者の熟練とは明確に区別すべきものである」。ダダイズムと構成主義の発展の並行にとってきわめて徴候的なことは,生産主義者によるイデオロギー的な逸脱と将来のシュルレアリストグループによるイデオロギー的な反動とが,同時に並存したという事実である。シュルレアリストのグループは,イデオロギー的にちょうど同じようにダダイズムとの関係において作用したのである。この二つの全く独立した反動のもつ,イデオロギー的色彩,基本的構造・・・官僚的,独裁的・・・にみられる平行現象は,前期=全体主義的な働きという点でおどろくべきものである。つまりこの1922年初頭において,近代美術は,その最初の反近代主義的な退行の危機を味わっていたのである。この後退は,創造そのものの基盤を攻撃するものであり,自由な創意に対する初めての停止命令をなしていた。それを証明しているのは,近代文明の向かうべき方向を「規定する」ための会議を開催しようとしたブルトンの行動である。パリにおける真のダダイストの陣営からはげしい反撥をまねいたこの行動は,1922年の初めの数週間に繰り拡げられた。イデオロギー的な逸脱,官僚主義的な響きをもった統制的な調子創造活動を硬直した上からの枠組みにはめ入れようという意志などが,ふたつのケースに共通していた。生産主義とシュルレアリスムの差異を低く見積るわけではないが,両者の反近代主義的な反動の性格ならびに両者が据えようとした形態創造への制限のもつ根本的な保守主義は,強調しておく必要がある。造形美術という点から言えば,この二つの反動の類似性は,さらに,生産主義もシュルレアリスムも,その造形的な立場を,自分たち自身は造形作家でなく文学理論家であるイデオローグ・・・オシップ・プリークとアンドレ・ブルトンによって定められることになるという事実によっていっそう強められている。一世紀以上にわたる激烈な戦いののち造形美術がようやく投げ棄てた文学の独裁が,ふたたびシュルレアリスムと生産主義の造形理論を指揮するようになったのである。

 物質も空間も時間も,過去二十年間に,それまでずっと続いてきたものと同じではなくなってしまった。かくも大きな新しさは,芸術の技法すべてを変容させ,そのようにして創意そのものにさえも作用を及ぼし,おそらくは芸術の概念そのものさえも,目をみはるように修正してしまうに至ると考えるべきであろう。 ポール・ヴァレリー 「古代の征服」1934年

 構成主義,ダダイズムの芸術家たちが変化発展してゆく中で,二十世紀美術の論理の源泉となった,新しいフォルムの定義は,さらに発展することになった。いわゆる「幾何学的な」フォルムと「生命=論理的な」フォルムの間での往復は,彼らの芸術のひとつの特徴であった。この特徴は,なによりもシュヴィツタースの作品に確認できるものであるが,またコブロやストシェミンスキ,モホイ=ナジ,ファントンヘルロー,その他多くの人々の作品にも発見することができる。直角に区切られた幾何学的なフォルムから生命=論理的な曲線をもったフォルムへの移行は,一見したところでは,敗北とは言わずとも,一時的鎮静とみえるかも知れない。旧来の,「視覚的な共感」を通してフォルムの模倣的な競合という視角に立つならば,このことは妥当であろう。しかしながら,旧来のミメーシスの論理を棄てた現代の芸術家にとっては,フォルムの変貌の過程がたどる展開の論理は,別の領域に属している。つまり,素材とその素材にとって可能な変容という領域である。二十世紀の精神を形づくってきた新しい物質概念を考えてみよう。新しい元素の創造を仮定する原子物理学の概念である(実際それは新しい物質を生み出してきた)。すると,我々がここで問題としている芸術思考が,どれほどまで二十世紀のメンタリティの中にしっかりと巻きこまれているかが,理解できるであろう。内的なレファランスに基づく新しい論理は,全く外的な単純な模倣によって成り立っていた過去のミメーシス(模倣)論理とは区別されるものなのだ。新しいフォルムの概念は,単に自由なフォルムを仮定するこのことが幾何学的なフォルムの領域から生命=論理的な領域への移行や両者を同時に制作することを可能にしている話・・・ばかりではない。それはまた,絶えず一方から他方へと移行することを仮定し,永久につづく変動をみちびくのである。そこから,断片的で,未完の,一時的なフォルムというものが生ずる。モホイ=ナジの光の機械(「リヒトレクヴィジィート」)以上に,この概念をよく表わしている作品はない。

  この機械は,シュヴイツタースのメルツバウと同様,モホイ=ナジの生涯のうちで何年にもわたる歳月(1922一部年)を費やし,その期間の論理のすべてを規定し,またその後のモホイの発展をも規定するものであった(モホイのアメリカ時代の絵画は疑いなくそこからインスピレーションを得ている)。この機械は次のような特徴を示している。それは,抽象的な変化するイメージを作り出す機械であり,そのイメージは常に変動しつづけ,固定した,決定的なフォルムはまったくない。フォトグラムの技術の場合と同じように,これらのイメージは,芸術家の手の直接的な介入なしに,機械的なやり方で作り出される。複合的な素材でつくられた装置が,実にメカニカルな精密さをそなえているのと同様に,そこから生れる造形的な結果・・・イメージ・・・は,非物質的,流動的で,とらえがたく絶えず変動している。その十年前(1920年),ロシアの芸術家ナウム・ガボは,既に,モホイの「リヒトレクヴィジィート」を予告する彫刻作品を思い描いていた。このガボの「円柱」(これが題名)は,金属の軸を電動モーターで振動させるというものであった。こうして得られるフォルムは純粋に仮想的なもので,振動がつづいている時間しか存在しなかった。おどろくべき非物質性のフォルム,運動、たえぎる生成の中にあるフォルム〜このフォルムは,新しい構成主義美術の本質を体現していたのである。

 フォルムにこうした非物質性があること,物理的にはフォルムは仮想であること,それはエレメンタリズムの論理のもうひとつの側面であった。ある物質の断片が世界全休を意味し得たのと同様に,最少限の量の基本要素的な「フォルム」(マレーヴイツチの「黒い四角形」)は,絵画を(画面を)意味していたのである。芸術が自らの本質に,自らの本質の内部に,ゆえに実質的にはその全体性の中に,集中すればするほどに,芸術は自らの実存的極限に触れたのである

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 こうして,開かれた,未完成の,一時的な,たえず生成するフォルムは,決して完成されない,開かれた,永遠に生成するコンポジションヘと通じていたのである。それこそが,ジェイムズ・ジョイスの『ユリシーズjやシュヴイツタースの「メルツバウ」の仕事を支配するものであった。完全ではないが,永遠の生成の中で生きる作品,ちょうど我々の生きる現代世界が,決して完了せず,たえず変動しているよう

 こうしためくるめくような,壮大な,宇宙的な流動性の中で,現代人が,明確な指標,しっかりと定義された要素を必要としている・・・というのも,理解できることである。それこそが,正方形,三角形,円,およびそれらの変形という基本的な幾何形態であった。マレーヴイツチが1915年夏に到達してしまった,「絶対的」ないし「普遍的」な言語はフォルムをめぐる思考にとってのひとつの指標をなしていた。同時にそれは,フォルムの超越をも画するものであった。なぜなら,現代美術においてフォルムとは,理念世界の複雑さをもはや主張していないし,ましてや,何らかの成熟,「完壁さ」の結果として生れるような充実は求めない。近代のフォルムの完璧さとは,その内的な構成の堅固さの中にあるのであり,またそれは手法の独創性,手法の制御を要求しているのである。このようにして,作品の成熟度は,手の経験,日の経験(絵画制作活動)の領域から,純粋概念の領域に,おきかえられているのである。それこそが,ツァラやピカピアのダダイスト的な発想,デュシャンやマン・レイ,そしてまたモホイ=ナジ,リシツキー,あるいはフアン・ドゥースブルフの発想であった。

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 いま一度,マルセル・デュシャンというダダイズムの英雄の事績に立ち帰るなら,彼がダダイズムを実践していた時代,彼のフォルムの概念は,これまで略述してきた概念と完全に一致していることが確認されるであろう。つまり,デュシャンは「ほこりの培養」に満足し,また別の場合には,自らの思考を基準原基」へと流し込んだのである。また同様にして,ピカビアは,色のスペクトルによる幾何学的なフォルム(「絵画は音楽の如し」)と,イメージをその源泉へと送り返す「愚か者の肖像」の暗示性の間を,行ったり来たりしていた。これらすべての一致点は,線的な思考による狭くるしいフォーマリズム的な分類法をはるかに越える,近代美術史のヴィジョンを企てることを許してくれるものである。そして,ダダイスト,構成主義者たちは,はるか昔に,そうした線的な思考に訣別を告げていたのである。  (太田素人訳)