X線によるレオナルド派作品の解明

■X線によるレオナルド派作品の解明

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 古い絵画の研究や鑑定にⅩ線を用いることは、1895年にレントゲンがⅩ線を発見して間もをく始められ、今では世界の各美術館で採用されている。

 ミラノのスフォルツァ城古美術博物館は、イタリア・ルネサンス期の絵画作品のうち、-「レオナルド派」とよばれる一群の画家たちの作品弧点を選び出し、Ⅹ線写真による研究解明を行い、その成果を展覧会の形で発表して大きな反響をまき起した。

 今回の「科学者レオナルドダピンチ展」の中の「Ⅹ線によるレオナルド派絵画の分析解明」の部に出品されているのは、先にイタリアで開かれた展覧会の出品物を、そのままそっくり日本に運んできたもの。

 これは、7点の絵画と73枚の絵画の写真およびそれをⅩ簸で撮影した80枚のⅩ線写真によって構成されている。スフォルツァ城古美術博物館の特別のご好意により出品されているのは、同館所蔵のすばらしいイタリア・ルネサンス期の作品7点(ボルトラッフィオの作品Ⅰ点、チェーザレ・ダ・セストの作品6点)である。この7点は500年ほど前のもので、いずれも板に描かれているが、このようをイタリア・ルネサンス期のすぐれた絵画が、これだけまとまってわが国で公開されるのわが国はじめてのことである。

 Ⅹ線写真による絵画の科学的解明のあとをじっくりごらんにをると共に、イタリア・ルネサンス時代のすぐれた絵画をご鑑賞いただきたい。

レオナルド派について

メルチェデス・P・ガルベリイ(スフォルツァ城古美術博物館館長)

 「レオナルド主義」ということばは、結局ダ・ビンチというたぐいまれな天才の、余りにも幅広く、従ってとらえ難いまでに多種多様な面を、なんとかひとつの枠にはめこもうとする便宜的な定義への試みではなかったかと、多くの批評家は自問自答しつづけてきた。そして、いまいえることは、「レオナルド主義」が、普通一般にいわれるような芸術のひとつの「流派」ではなかったということである。いわゆる「流派」を形成するには、ひとつの影響力の一貫性と理解しやすさが必要であるが、レオナルドの天才の余りにも隔絶した、近寄り難いまでの高さと神秘さが、その形成を妨げていたからである。彼が活躍した当時のロンバルデイア地方には、当然その大地に根ざした芸術の流れがあったわけだが、突然そこへレオナルドの個性を継ぎ木しようとすることは、その流水に急停止を命じるようなものであった。

 「レオナルド主義」がロンバルデイア芸術の主流の一つになったのはレオナルドの影響が、さらに「ポー河流域」に拡がった、次の段階においてであった。しかも、それは単に絵画の面においてだけでなく、彫刻にも拡がり、彫刻界にもレオナルドの絵画主義が根づいた。たとえば、クリストフォロ・ソラーリや、バンパーヤの手にかかると、大理石はその硬直さを失い、絵画的なやわらかさを得ることになる。

 当時の各種芸術の表現における理想の一致は、バンバーヤと、チューザレ・ダ・セストの間の興味ある接触点の発見によっても明らかである。

 レオナルド派のもろもろの作品に対するレオナルドの影響を分析し、次のように分類することに熱心な研究を捧げたのは、スィーダであった。それはレオナルドが直接手を加えたもの、直接示唆を与えて指導したもの、彼の様式から単に影響をうけただけのもの、彼の有名な作品のテーマを単にマネただけのもの、あるいは、そのバリエーションなどである。ひとくちにレオナルド派といっても、その中には、直接のもの、間接のもの、あるいは単なる”立ち聞き”程度のものまで、レオナルド自身とのかかわりあいは千差万別であり、それらの評価は、さまざまな尺度によって調整されなければならない。

 レオナルドが、彼の”門人”に対して行った”協力”については、1501年、彼を訪れたビュトロ・ダ・ノベルラーラの次のような証言がある。「彼の見習いたちが肖像画を製作しており、彼はときどき、どれかの絵に手を加えていた」

 ダ・ビンチの書には、彼と交渉のあった人びとの名前がくり返し出てくる。といって、その交渉の事実自身は、それらの人びとの作品の評価とは必しも結びつかない。

 ダ・ビンチが初期のミラノ滞在中、身を寄せていたアンブロージオ・デ・プレディスは、アンプロジアーナ図書館の「音楽家の肖像」や「真珠のヘアネットをした婦人」などの作者としての名声を、ほしいままにしていた時期があったが、現在では、彼への評価は極めて陽の当らないものになりつつある。

レントゲン01

 ジョバンニ・アントニオ・ボルトラッフィオについての評価は安定している。彼の作品のうちのいくつかは、レオナルド自身が直接手を加えたという推定もできるし、彼の上レオナルド風リズムは、多くの批評家を納得させるに足るだけの力強いトーンをもつている。マルコ・ドジョーノの「マドンナ」のいくつかは、レオナルドの直接の加筆か、あるいはデザインの指導で描かれたものと、スイーダは考えている。また一群の同質の作品によって、レオナルド派と裏付けられている。

 ジャンピェナリーノは、出生も死亡も明らかでない全く正体不明の人物である。また、レオナルドの2回目のミラノ滞在中、最も勤勉な門人のひとりであった、フランチェスコ・メルツイについては、彼のただ一つの署名・日付入りの作品と、彼のものとされてきた他の作品群との間に、スタイルの一致がみられないという奇妙な問題もある。

 こうして、レオナルドと、なにがしかの関係でつながっている人名は無数にある。門人、側近、知人、新来者、共鳴者、崇拝者、愛好者、そして単なる取りまき。それも単にロンバルディア地方だけでなく、はるか北方の人びと、たとえば、フォン・オルナイ、ファン・クレーベ、パティニール、メツイス、グロッセルトなどもまた含まれてくる。

 レオナルド派には、このような実に幅広い一大「流砂地帯」があったのである。

 ダ・ビンチ文書に名はあがっていないけれど、レオナルド派の中で、最も完全なレオナルド芸術の理解者であり、最も才能豊かだったのは、サン・ロッコ教会の大祭壇の上に、装飾屏風を残した、チューザレ・ダ・セストであろう。

レントゲン03

 こうして、レオナルド派部門だけに限っても、批評家、研究者を悩ます多くの問題が残されている。作品と作者の帰属の問題。評価の問題。「流砂地帯」に存在する極めて不明瞭な流動的状態。さらにレオナルドが直接介入(加筆・指導)したかどうかの発見。レオナルドの知識技術の継承と波及の追跡。

 これらの問題に対して、決して解決や回答を主張するものではないが、私たちは、この展覧会において、科学的研究がなんらかの貢献を提供し得ることを実証したいと考えている。それは、レオナルド派の作品とそのレントゲン写真との比較を謙虚に利用しようとする読みである。作品を、そのかくされた内部において正しく読みとることによって、作者の象徴的な特徴を決定し得る技術的傾向の定数の存在を指摘することができるかどうか。また、レオナルド派といわれる、千差万別の多様な表現性をもった作品群に、一定、もしくは共通の技術的特徴の係数を論じることが可能なのかどうか。

 もちろん、この分析研究の試みの結果は、十分であるというには、ほど遠い。各種の問題について、現実的な、あるいは示唆的な結論を得るためにも、分析と解明はさらに深く押し進められねばをらか1のである。たとえば、デ・プレディスの、確実に彼のものである作品のⅩ線写真と、はじめは彼のものといわれ、その後それが否定された作品のⅩ線写真とを比較して、その科学的根拠を求めるようなこと。ベルナツァーノについては、彼の風景画と、カタニア美術館所蔵の彼のものと推定される、極めてアントニュルロ風の風景画中の聖隠者とを、Ⅹ線写真で比較対照してみること。

レントゲン02

 フランチェスコ・メルツイについては、彼に帰せられてはいるが、彼の署名・日付入りの唯一の絵と、スタイルが全く一致しない作品群とを比較分析することなどが、その努力の方向である。