II.ロシアの前衛美術

■ロシアの前衛美術・The Russian Avan-Garde

 1910年代から20年代を通してロシアでは光線主義シュプレマティスム(絶対主義),構成主義など,種々の主義の素早い交替劇のなかで先鋭的な美術がめざましい展開をとげた.1909年,マリネッティの発した「未来派宣言」がさっそく紹介されたように,ロシアには西欧の美術界の最新の動向が逐一伝えられたシチューキンモロゾフといった富豪の邸宅に行けば,セザンヌ,ゴッホ,ゴーガンのような後期印象主義の巨匠の優作に加え,マチスやピカソの近作に接することができた.また,エクステルのようにアポリネールやレジェと親交を結び,パリの美術界と直接的な交渉をもつ作家もいた.

 ドイツのミュンヘンで活躍するカンディンスキーの役割も見逃せない.『アポロン」誌にミュンヘンの動向を紹介する「ミュンヘン便り」を連載したり,1911年末の汎ロシア芸術家会議では「芸術における精神的なもの」の草稿が代読された.さらに,カンディンスキーミュンター等とともに「ダイヤのジャック」展などに出品し,その成果を披露している.このように西欧から不断に刺戟を受けるなかで,ロシア前衛美術の先導者であった。ラリオーノフとゴンチャローヴァは民衆の生活に根ざしたイコン画や安手の木版画ルポークなどの力強く素朴な表現に動かされ,ネオ=プリミティヴイズムの運動をおしすすめた.

 ラリオーノフはやがて光線主義を打ち出すことになった.それは物体に反射する光そのものを描く様式で,印象主義以来の問題をそのままひきずっており,表現形式としてもイタリア未来派と選ぶところはなかった.しかしこのような主張が表明されたことによって,西欧とは別の文脈で,常に新規な形式を求める「もっと遠くへ」という動きに拍車がかかるとともに,ロシア美術は「非対象」絵画へむけて着実に歩を進めた.

 ロシアでは「抽象」という言葉はエクステルなど西欧との結びつきが強い一部の画家を除いてほとんど用いられず,むしろ「非対象性」(ベスプレドメートノスチという概念が一貫して追求された.そしてその先鋒となったのが,ラリオーノフの感化を受けながら登場するマレーヴイツチとタトリンであった.このふたりこそ今世紀の美術史に対するロシアの貢献を成就させた作家といって過言ではない・ラリオーノフに「ロバの尻尾」展に誘われた頃からしだいに画家として頭角をあらわしたマレーヴイツチフォーヴィスムやキュビスムなど西欧の新潮流を貪欲に摂取したが,1913年から明らかに独自の課題に取り組みはじめた.

 この年,マレーヴィッチはロシア未来派の詩人クルチョーヌイフ,そしてペテルブルク(現レニングラード)の「青年同盟」の指導的な一員であったマチューシンとともに未来派オペラ「太陽の征服」の上演にかかわり,舞台装置と衣装を担当した.未来派の詩人たちは新しい詩的言語の可能性をキュビスムや未来派の作品上に現われた物体の断片にみて,意味の呪縛を断ち切った言語,起意味言語(サーウミ)を探求しつつあった.マレーヴィッチもこれと並行する実験に挑んだ.それ以前の,キュビスムを形式的にのみ徹底化させた仕事にかわって,画面に再現的な要素が再び・・だが相互に脈絡を失ったまま・・・布置される「非論理主義」の作品が制作された。そして,この段階の後,改めて非再現的,非対象的な要素としての平面が画面上で大きな割合を占めるようになる.

 そして「平面の顕現」としてのシュプレマティスムが成立する代表作「黒い正方形」は1915年12月ぺトロブラード(現レニングラード)で開催されたプーニ主催の展覧会「最後の未来派絵画展 0,10」で他のシュプレマティスムの絵画38点とともに初めて発表された.

 白い地の上に黒い正方形だけが描かれたその作品はオペラの舞台装置の構想を練っていたマレーヴィッチにすでに「直観」されていたが,今や白の無限空間でダイナミックな運動を展開する平面の構成,「重量,速度,運動方向に基づく構成」こそが絵画芸術である,という宣言が発せられた.

 こうした考え方の背景にはイタリア未来派の影響もたしかにあったが,しかしそれ以上に,マチューシンを通して関心を抱きはじめた四次元論が踏まえられていた.それはアインシュタインの相対性理論以前の議論で,幾何学的な類推によってその未知の次元の特質を明らかにしようとする空間的な想像力の課題であり,世紀末以来,西欧でさかんに論じられた.マルセル・デュシャンも四次元論に傾倒した一人であった.

 

 「0,10」展では,結束してパンフレットを配布したマレーヴィッチのグループ(プーニ,クリューン,メニコフら)にタトリンのグループ(ポポーヴァら)が激しく対立した.タトリンは1913年,ドイツ経由でパリに行き,ピカソをそのアトリエに訪ねた.帰国後,1914年5月夕トリンはモスクワの自分のアトリエで「最初の絵画的レリーフ展」を開催し,さらに「0,10」展では「反レリーフ」や「コーナー・レリーフ」を出品した.これら一連のレリーフはピカソのギターを主題にしたレリーフに触発されたものと考えられるが,しかし種々の素材を合体させたアサンブラージュとしてすでに非対象的な性格を賦与されていたブロンズや石など伝統的でアカデミックな素材にかわる,ガラスなど新しい素材の彫刻への導入は,イタリア未来派が一足先に叫んでいたが,タトリンはこれを非対象という方向で実力と現させた.しかも,部屋の角に懸けられた「コーナーレリーフ」は彫刻の台座からの解放を意味し,展示空間を鋭く意識させて環境芸術への足掛りともなった.

 十月革命はそれまで美術界の間辺にあった前衛作家たちを前面に押し出した.というのも,当初革命を積極的に支持したのは「未来派」と一指して呼ばれた彼らだけであったからである.

 こうして革命政権との蜜月時代がはじまった.作家たちは革命記念日に実施される大衆街頭劇のために巨大な装置を制作したり,船や列車を飾ったりして煽動芸術に取り組む一方,教育人民委員会造形部会に属して美術館や美術学校などの教育機関の機構の変革のために奔走する.

 

 むろん,展覧会もさかんに開催され,実験的な試みが相次いで発表された.1919年1月,モスクワで「非対象的創造とシュプレマティスム」と銘打った第10回国営展が組織されたが,マレーヴィッチは同展で〈白の上の白〉連作を出品した.この連作は文字通り,白地の上に同系色の形体を配する表現で,形体というものを無限空間に埋め込み,対象としての幾何学的形体をも否定しようとする意図ガ隠されていた.マレーヴイツチはこれをもって絵画の終焉と捉え,1920年の文章では画家は「過去の偏見」であり,「ペンは絵筆より鋭利である」と断じた

 マレーヴィッチは1919年11月,ヴィテブスクの美術学校に招かれ,教育に情熱を傾けるようになった.彼を中心にして学生たちのグループ「ウノヴィス」(新芸術の肯定)が結成され,煽動芸術をはじめ,「太陽の征服」の再演など積極果敢な活動を展開した.このグループの参加者には,チャーシニク,スエーチンなど,マレーヴィッチが1922年ペトログラード(規レニングラード)の「インフク」(芸術文化研究所)に移るにあたってつきしたがった者もおり,またクルツィスのようにモスクワの「スヴォマス」(国営自由工房)でマレーヴィッチに学んだ作家もいた.加えて,講師としてヴィテブスクに招かれ,やがて西欧への文化使節として主にドイツで活躍するリシツキー(下図)も,シュプレマティスムに影響され,「絵画と建築の乗り換え駅」と自ら定義づけた「プロウン」の連作(下図)に挑むことになった.

 このようにヴィテブスクのような地方都市でさえ新しい動きが生じたが,革命前からウクライナではボゴマーゾフが独自の道を切り拓いており,革命後もエルミーロフが登場して,リシツキーを想起させる洗練された構成主義の造形言語を築きあげた.


 革命後,タトリンは教育人民委員会の重要な地位につき,レーニンの発した煽動用記念碑の制作という指示に応える形で〈第三インターナショナル記念塔〉のプロジェクトに専念し1920年これを展示した.地軸と同じ傾きをもつ螺旋状の形体と球,正四面体,立方体,円柱を合体させたこの建築モデルは地上400メートルの高層ビルとして構想されており,そのダイナミックな構造はむろんのことだが,実用性という問題を提示した点で,まさに構成主義の出発点となった.

 芸術に実際的な効用を求める論議は,革命直後から,たとえば教育人民委員会造形部会が発行した『コンミューンの芸術』誌などでなされていたが,1921年,新経済政策が採用されるに及んで,緊急の課題として浮上した.この年の9月,「5×5=25」展でロトチエンコは三原色それぞれの単色のカンヴァスを出品した.「最後の絵」と呼ばれたこの仕事は純粋芸術への訣別の宣告であった.もはや現実への応用をねらいとして企図される「実験室の仕事」も乗り超えられ,実用性,即効性が喫緊の課題となる生産主義が声高に論じられる.

 こうした急進的な動向の根拠地となったのが1920年に発足したモスクワの「インフク」(芸術文化研究所)であった.ここはコンポジションと構成との相異を問う論争が展開されるなど,先鋭的な美術家の討論の場となった.生産主義の主張においても,ステンペルク兄弟などが結成した「オブモフ」(青年芸術家協会)をはじめとして,この研究所の周辺で活発な動きがみられた.

 しかしながら,生産主義者が実際に有用な仕事として見出したのはせいぜい織物や衣服のデザイン(エクステル,ポポーヴァら)でしかなかった.美術家の側に必要な知識や実際的な経験が欠けていたし,また彼を受け入れる工場の側にもその用意がなかった.このような弊を是正するとして,モスクワの「ヴフテマス」(高等芸術技術工房)には大きな期待が寄せられた.この学校は革命によって閉鎖されたアカデミーに代わって設置された「スヴォマス」を改組した教育機関で,ドイツのバウハウスに相当する.全学生が受講する基礎課程の他に,絵画から建築にいたる専門課程があって,ロトチエンコをはじめとして有力な作家が教鞭をとった.だが,この学校がその最初の卒業生を世に送り出す頃には社会状態が一変していたのである.

 革命後の蜜月時代が過ぎ去ると,前衛的な潮流はしだいに圧迫された.アカデミーが再興され,具象画家たちが種々の団体を結成して勢力をのばした.自ら絵筆を棄てたロトチエンコは写真に精力を費やすかたわら,舞台や映画の分野で活躍する.同様にクルツイスはフォトモンタージュに新しい煽動芸術の可能性を求めた.また,モスクワとは性格を異にするレニングラードの「インフク」ではマレーヴィッチが理論的著作に没頭し,マテューシンが色彩に関わる知覚の領野の研究に踏み込むことになった.タトリンもー時,この研究所で「素材の文化」の研究室を指導したが,その後,「レタトリン」と呼ぶ滑空機の製作に,構成主義の最後の夢を託した.

 1922年,ベルリンで開催された大規模な「第1回ロシア美術展」は大戦後のロシア美術(成果を一堂に展示して西欧に衝撃を与えた1927年,同じベルリンでマレーヴィッチは回顧展を開くことになった.その途次,彼はワルシャワでも展覧会を開催する.ヴィテプスク時代,彼と交渉のあったストゥシェミンスキがポーランド構成主義を先導していたからである.この年,ストゥシェミンスキはシプレマティスムを批判的に咀嚼した「ウニスム」理論を発表した.二元論的な緊張や対Jを排すその一元論的な絵画はマレーヴィッチの無限空間としての白い「地」を乗り超える初の実験といってよかった.

■ロシアの前衛美術作家たちの作品群

▶ ナターリア・ゴンチャローヴァ

ナターリア・ゴンチャローヴァ1881年ロシア,トウラ近郊ラドゥイシノ生れ.1962年フランス.バリ没.Natalia GONTCHAROVA

1898年モスクワ絵画彫刻建築学校に入学.1900年彫刻科から絵画科へ移籍し,後の生涯の伴侶となるラリオーノフに出会った.「ダイヤのジャック」,「ロバの尻尾」,「標的」といったグループ展に参カロしたが,1912年から13年にかけて彼女の作風はそれまでのネオ=プリミティヴイズム新素朴派から未来主義と光線主義の融合に傾いた様式へと移行した.数多くの本に挿画を描き,他方,舞台美術も辛がけ,1917年ラリオーノフとともにパリに居を定めた.

▶ リューポフ・ポポーヴァ

1889年ロシア,モスクワ近郊生れ.1924年ソ連.モスクワ;没.Liubov POPOVA

ロシア・アヴァンギャルドの重要な一員で.1912年から13年にかけてのパリ滞在中に得た西欧美術の発展に関するその知識は立体・未来主義の抽象美術に貢献するところ大であった.1907年から08年までモスクワで学び,その後パリのル・フォーコニエ,メッツァンジェと深く交わるようになった.1914年以降モスクワでの前衛美術展に出品するようになった.「絵画的構築」への関心が1916年から20年までの実験的な作品によく現われているが,それは.色彩の微妙なぼかしによる動きの中にダイナミックでしばしば円環的な構成を浮彫りにするものであった.1920年「インフク」(芸術文化研究所)の一員となり,23年から24年にかけてはメイエルホリド,トレチャコフの舞台美術を担当し,またテキスタイルのデザインも辛がけた

 

▶ オーリガ・ローザノヴァ

1886年ロシア、ウラシーミル.マレンキ生れ.1918年ソ連.モスクワ;没.OIga ROZANOVA

1904年に絵画をはじめ.ポF」シャコフ美術二学に学ぶためモスクワに出る.1904年から‘年までストロガノフ美術学校で,ユオンのとで学び,「青年同盟」の創立会員となる.1女は1910年,このグループの最初の展覧会はじめ,1910年代を通じて.モスクワ,ペ・ルブルクでの前衛美術展に出品した.1912二以降,未来派の小冊子の装偵を辛がけた.の後,キュビスムと未来主義の時期を経て,シュプレマティスムヘと移行した.ただし1女はマレーヴィッチの神秘的な連想を排て,独自にシュプレマティスムを探究した.1918年モスクワのイゾ(教育人民委員会造ヲ部会)の一員に選出されるが,十月革命−f年を祝う装飾を制作中に倒れた.

 

▶ カジミール・マレーヴイツチ

1878年ロシア,キエフ近郊生れ.1935年ソ連,レニングラード没.Kasimir MALEVICH

シュプレマティスムの創始者でロシア前衛美術の立役者のひとり.1902年モスクワに移り,モスクワ絵画彫刻建築学校に学んだ.1908年頃独自のネオ=プリミティヴイズムを生み,さらにこの様式をキュビスムと融合させて,平面をダイナミックに分割した.シュプレマティスムの原理を具現した最初の完全に抽象的な幾何学的コンポジションは1913年にさかのばる.1910年代を通じモスクワでのいろいろな前衛美術展に出品した.20年代初めにはヴイテブスク美術学校で教鞭をとりながら「ウノヴィス」(新芸術の肯定)を組織し,さらにべテルブルクの「インフク」(芸術文化研究所)でも教壇に立った.この時期彼は主として建築・彫刻の研究,および陶芸デザインに精力を費やしているが,1930年前後には具象的な様式に回帰し,社会主義リアリズムのテーマをさえ手がけている.

▶ ウラジーミル・エヴグラフォーヴィチ・タトリンVladimir Yevgrafovich TatlinWladimir Jewgrafowitsch Tatlin、1885年12月28日 – 1953年5月31日)

ロシア帝国出身の画家、彫刻家、建築家、デザイナー、舞台美術家である。1885年、ロシア帝国領下にあったウクライナのハリコフで、技師の家庭に生まれる。若い頃は水兵としてエジプト・シリアなど各地を航海した経歴も持つ。1909年、モスクワの絵画・彫刻・建築学校で学ぶ。1917年のロシア革命後は芸術学校で教鞭を執り、人民教育委員会モスクワ支部長に就任。カジミール・マレーヴィチらとともに、1920年代ソビエト連邦のロシア・アヴァンギャルドおよびロシア構成主義の代表的な作家の一人にあげられるが、彼自身はその活動に加わりながらもマレーヴィチらと袂を分かち、最も構成主義を批判した作家でもある。

▶ イヴァン・プーニ

1894年フィンランド.クオカラ生れ.1956年フランス.パリ没.van PUNI  プーニは1910年から12年までパリのアカデミー・ジュリアンに学んだが,ロシアに帰ってからマレーヴィッチ,タトリン,ラリオーノフと親交を結び立体=未来主義の洗礼を受けた.非対象芸術の理論に深く惹かれ.それを彼自身の絵画や「絵画的彫刻と呼んだシュプレマティスムの立体構成に反映させた.それらの作品においてプーニは,マレーヴィッチの非物質的な平面という思想を対象的世界の明白な現実へと変換させた.1919年プーニはロシアを去り翌年ベルリンに落ち着いて,シュトゥルム画廊を中心に活動していた前衛芸術家たちの仲間入りをしたが,1924年パリヘ出て,豊麗な色彩の再現的な様式による絵画制作に専念した.

 

▶ ナジェージーダ・ウダリツォーワ

 

▶ アレクサンドラ・エクステル

1884年ロシア,キエフ近郊へロストク生れ.1949年フランス.フォントネー=オ=ローズ没.Alexandra EXTER

ロシアの立体=未来主義及び構成主義の展開においてもっとも重要な役割を演じた人物.1907年にモスクワで「青薔薇」グループの展覧会ではじめて作品を発表した.1908年から14年までパリに住みそこで学びとったキュビスムと未来主義の諸原理を第一次大戦勃発による帰国の際ロシアに伝えることになった.1915年「市街電車5番線」展に参加,翌16年からは演劇にかかわりはじめ,構成主義的な様式で多くの装置や衣装をデザインした.これと並行して,ダイナミックな構成の原理を探求する絵画の制作にも励んだ.1924年フランスに移住した後も死に至るまで舞台美術の仕事は続けられた.

 

▶ イヴァン・クドリヤショフ

1896年生れ.1972年ソ連没.Ivan KUDRIACHOV

モスクワ絵画彫刻建築学校へ入学.1913年以降マレーヴィッチの工房で働いた.彼の最も重要な仕事として,1919年に着手されたオーレンブルク市立劇場の装飾のためのシュプレマティスムのデザインがあげられる.モスクワに帰ってからOST(「イーゼル画家協会」)のメンバーとなりソ連およびヨーロッパ各地で作品を発表した.

 

▶ アレクサンドル・ロトチエンコ

1891年ロシア.ぺテルブルク生れ.1956年ソ連.モスクワ没.Alexander RODCHENK

1910年から14年にかけてカサン美術学校で素描と油彩を学んだのち,モスクワのストロガノブ装飾美術学校に移った.立体=未来主義の影響を受け,絵画や素描において,螺旋状に交錯しながら上昇する構図と幾何学的要素を融合させた.1918年初めからは,構成的作品にそれまで以上に専念するようになったが,それらは基本単位による初めての開放的構造となった.これに続く絵画作品で彼は当時流行していたシュプレマティスムの考え方から遠ざかっていく.1921年彼は〈純粋な三色〉と題する,それぞれ、赤,黄,青でぬられた単色の3点の作品を発表する一方,画架絵画の諸原理を否定する宣言を発した.1920年代初めより,タイポグラフィー,グラフィック・デザイン,写真,そして演劇や映画のためのデザインなど,実用的なデザインに関心を寄せ,すぐれた仕事を残した.1920年から30年まで「ヴフテマス」(高等芸術技術工房)で教鞭をとった.1925年パリの国際装飾美術展に際しては,種々のデザインを辛がけ,また,雑誌「レフ」(芸術左翼戦線)に拠って,マヤコフスキーとともに活動した.

▶ クスタフ・クルツイス

1895年ラトヴィア.リカ近郊生れ.1944年行方不明.Gustav KLUZIS

1918年歩兵としてモスクワヘ行き違隊の工房で働き,後に「ヴフテマス」(高等芸術技術工房)に学んだ.フォト・モンタージュや絵画のほか,ポスター.タイポグラフィーのデザイン,建築設計に興味を抱き,とくにリシツキーの影響を受けた.30年代,40年代のいくつかの国際展に出品した.

 

▶ ユーリー・アンネンコフ

1889年ロシア,ベトロバヴロフスク生れ.1974年フランス.パリ没.Yuri ANNENKOV

ペテルブルク大学,のちにシュティーグリッツ美術学校に学ぶ.1911年から13年にかけパリに滞在,ヴァロットンに学んだ後,14年に帰国して,重要な前衛的な美術展に参加した.コラージュ作品において立体=未来主義の特質を掘りさげる一方,煽動芸術のプロジェクトとして公共施設の装飾を手掛けた.とくに1921年に制作した群衆劇「冬宮襲撃」はよく知られている.1924年母国を離れるまでの間,絵画,タイポグラフィーのデザイン,映画,舞台美術の各分野で活動しながら,ぺトロゲラードの自由工房で後進の指導にあたった.

 

▶ ラーサリ(エル)・リシツキー

1890年ロシア.スモレンスク近郊,ボルシチノク生れ.†941年ソ連.モスクワ没.Lazar(EL)LISSIZKY

1909年から14年までドイツ,グルムシュタソトで建築を学び,各地を旅行した後1915年モスクワで建築の学位を取得した.1917年から翌年にかけて煽動用の街路の装約の仕事に従事した.19年にヴィテブスクの美術学校の講師に迎えられたが,そこでマレーヴィッチと親しく交流するようになり,非対象美術へと転じた.最初の「プロウン」の構成作品・・・それはいわばシュプレマティスムの宇宙に発射された非対象の諸要素であった・・・は,「新しい建築学のための諸命題」を設定することになった.そのあとに続く作品群で,彼はシュプレマティスムの思想と構成主義のそれとを融合させたが,そのことが20年代の彼の仕事における最優先の課題となった.ロシア前衛美術の代表的作家のひとりであるリシツキーは,建築設計,イラストレーション,タイポグラフィー,展覧会の展示構成,それに室内装飾を手掛けた,1923年ベルリンの「大ベルリン美術展」のために制作した抽象的環境構成「プロウン空間」は,26年ドレスデンで再現され,27年から28年には常設されるべくハノーヴァーの州立美術館に設置されることになった.1925年モスクワに帰った彼は「ヴフテマス」(高等芸術技術工房)で室内装飾を教えた.広範囲にわたる旅行を繰り返した彼は,ロシア前衛美術と西側世界との橋渡しの役を務めた

▶ イリヤ・グリゴーリェヴイツチ・チャーシニク

1902年ラトヴィア,リュチテ生れ.1929年ソ連,レニングラード没.IlyaGrigorievich CHASHNIK

1903年一家はヴィテブスクに移り住み,後年同地の応用美術学校に入りマレーヴィッチのもとで学んだ.1919年「ボスノヴィス」,後の「ウノヴィス」の結成に参画,マレーヴィッチを指導者として仰ぎみながら工ルミ一口フ,クルツイス,リシツキーなど前衛美術家たちと親しく交わって制作に励んだ.1922年スエーチンらとともにペトログラードの「インフク」(芸術文化研究所)に移籍し,マレー・アルヒテクトンヴイツチの「建築構造体」の制作を助ける一方,独自の建築プロジェクトを探求した.さらに陶芸やテキスタイル・デザインを手掛けシュプレマティスムの作品を残している.

▶ ナウム・ガボ

1890年ロシア.ブリアンスク生れ.1977年米国.コネテイカソト州ミドルバリー没.Naum GAB0

本名はナウム・ぺヴスネル.兄アントワーヌと間違えられるの避けて名を変えた.ミュンへンで工学を学んだが1913年と14年にパリを訪れキュビスムとアルキペンコの作品に感銘をうけ,第一次大戦中オスロに住んでいた時,最初の構成的作品を制作した.やがて構成主義の彫刻家の中でもっとも中心的な人物のひとりとなったガポは,1917年からベルリンヘの移住を余儀なくされる22年までロシアで制作に励んだ.「ノヴェンバー・グルッペ」(11月グループ)と親しく交わり,バウハウスで教鞭もとった.1932年に「抽象=創造」に参加,37年には『サークル』誌の共同発行人となっている.1932年から35年までパリで過ごし,以後ロンドンを経て46年に渡米した.エネルギー,光,調和,そして宇宙についての科学的モデルと直観といったものが彼の繊細なそれでいて力強い内面性に支えられた造形芸術の根幹をなしている.

▶ アントワーヌ・ペヴスネル

1886年ロシア,オレル生れ.1962年フランス.パリ没.Antoine PEVSNER

ナウム・ガボの実兄である彼は1902年から1909年までキエフの美術学校,また10年にはペテルブルクの美術アカデミーに学んだ.1911年から13年までパリに住み,キュビスムと未来主義に興味を抱いた.第一次大戦中はガボとともにノルウェーに行き最初の彫刻作品を制作した.1917年モスクワに帰り「ヴフテマス」(高等芸術技術工房)の講師となった.レリーフや自立する構成を制作したが,セルロイドやアクリルなど半透明の非伝統的な人工的素材が用いられ,根本的に新しいイメージを築きあげようとした彼には貴重な経験となった.そうした素材が,マッスよりもむしろ虚空を強調する,彫刻における構成主義の原理を具体化しようとする彼の重要なねらいを実現させた.1920年,ガボと共同で「リアリズム宣言」を発表,翌年当局によって彼らの工房が閉鎖されると,ペヴスネルはドイツを経由してパリヘ移住した.彼は1932年の「抽象=創造」グループの結成に尽力し,46年には「新現実展」の創設にあたって骨を折った.晩年の作品において彼は透明な素材の使用をやめ,金属の板や棒を熔接した平面的な構成を制作した.

▶ ウラジミール・ステンバグ

生まれ: 1899年、モスクワ死亡: 1982、モスクワムーブメント: 構成主義画家、グラフィックアーティスト、彫刻家、デザイナー、建築家、教師。 Georgy Stenbergの兄。

モスクワのスウェーデンのアーティストAugust Stenberg(1899)の家族に生まれる。 インペリアル・ストロガノフ・セントラル・スクール・オブ・アートアンドインダストリー(1912-17)とモスクワ州フリー・フリー・スタジオ(1917-20)のウラジミール・イーゴロフとアレキサンダー・ヤノフのもとで学びました。 設計されたステージセット(1915年以降) 彼の兄弟Georgy (1917-33)とのコラボレーション。 青少年協会創立メンバー(1919〜23) 芸術文化研究所(1921-24)で働き、建設主義研究所を設立し、建設主義者の第一ワーキンググループ(1921年)に加わりました。 LEF(1921〜25)とのコラボレーション。 ジオルギー・シュテンバーグとコンスタンティン・メドネツキー(1922年)と共に構成主義のマニフェストをまとめた。 モスクワの室内劇場​​(1922-31)、 “2Sten”または “2 Stenberg 2″(1923年)、11月の赤い広場(1928年)の看板に貼られた300枚以上の映画ポスターのデザインセット。 モスクワ建築・建設研究所(1929-32)で教鞭を執りました。 主にモスクワ(1940〜70)の公的祭典や建物のデザインに携わった。 モスクワで死去(1982)。 展覧会に貢献しました(1919年より)。