Ⅰ.キュビスムと未来派

■キュビスムと未来派・Cubismand Futurism

 ピカソの〈アヴィニョンの娘たち〉(1907年)から大きな刺戟をうけたジョルジュ・ブラックは,1908年の夏レスタックで,海辺の情景や家並みを単純な幾何学的立体へと還元した一連の風景画を制作した.「キュビスム」の名は,それらを評した美術記者ルイ・ヴオークセルの言葉-「喬妙な立方体の絵bizarreriescubiques」-から生まれた.

 キュビスムが,その誕生の当初から幾何学に結びつけられた点は示唆的である.キュビスムの生みの親であるピカソとブラックにとっては,幾何学的な形体はあくまでも対象から抽き出されるもの,対象を表現するための手段にすぎなかった.彼らが1908年以後,事物を単純な形の面へと,次いでより細かな線的要素へと角年休していったのは,三次元のヴォリュームをもった事物を二次元の画面上にいかに表わすか,という再現的な動機からであり,事物の分析的な解体が必ずしも抽象絵画へ通じるものでないことは,彼らのその後の展開一綜合的キュビスムーが示している.

 それに対して,1912年の「黄金分割Sectiond,0r」展に結集したキュビスム第二世代の作家たち,なかでもレジェ,ドローネー,クプカらにとって,キュビスムがもたらした幾何学的な形体は,ピカソやブラックの意図に反して,絵画を事物の再現的役割から解放するための決定的なヒントとなった.彼らは,直接のモチーフこそレジェにおける機械,ドローネーにおける光,クプカにおける運動や音楽とさまざまであったが,いずれも幾何学的な形体相互の純粋な関係性Ⅶリズム,コントラスト,動きなど一に目を向けることによって,1910年代前半に相次いで非対象的な抽象絵画に到達したのである.

 オルフィスム(秘教主義0rphisme)の中心的な画家ドローネーにとって,組織的に関係づけられた形体が生み出すリズムや運動は,世界の成り立ちに関わる重要な暗示を含んでいた.彼は1909年から,キュビスムの影響下にエッフェル塔やパリの街並みの解体を試み,1911年の〈街〉連作では,画面全域を鋭い明暗の交錯する幾何学的パターンヘと還元するにいたった.彼がそれらの画面に,スーラゆずりの点描法を重ね合わせ,分析的キュビスムのピカソとブラックがしりぞけた光を復活させたことは,驚くにあたらない.彼にとって,事物を幾何学的な形へと還元する作業は,目に視える世界の背後に潜む動的な原理の発見へと通じ,その時,そうした原理そのものとして,世界にくまなくゆきわたる光と色彩が再発見されたのである.ドローネーが,色彩の純粋なコントラストからなる〈円盤〉連作にとりかかったのは,翌1912年である.

 クプカの場合,重要なきっかけは運動の分析であった.ジュール・マリーの連続写真に啓示をうけた彼は,1909-10年の〈花を摘む女〉で,人体の連続的な動きを一枚の画面に描きこみ,時間の継起的な層を表わすために画面全体を色彩のストライプで分割した.そこでは,人体は運動を通じて,世界全体に浸透するハーモニーと一体になっている.垂直の色彩の帯は,彼の抽象画の最初のモチーフのひとつとなった.

 レジェもまた,1909年ころピカソとブラックに触発されてキュビスムに転じたが,彼の場合には,のちに「機械の美学」(1923年)で説かれるようなオプティミスティックなまでの機械への信仰があった.風景をも人物をも等質的な形体の連なりへと還元する彼のキュビスムは,1913年の〈形体の対比〉連作で純粋な抽象表現へと達したが,それらは,単一的な要素の反復的な連鎖という点で,機械の機能と,機械に取り巻かれたわれわれの日常とを映す形式なのである.

 さて,レジェにみられる機械時代の新しい現実への視点は,イタリアの未来派においては,一切の過去の伝統を否定する偶像破壊的な激しさをもって現われた.詩人フィリッポ・トマソ・マリネッティがパリの「フィガロ』紙に「未来派宣言」を発表したのは1909年であり,翌年には彼のもとに集まった5人の画家,ボッチヨーニ,セヴエリーニ,バッラ,カッラ,ルッソロによる「未来派画家宣言」および「未来派絵画:技法宣言」がミラノで発せられた.

 「時間と空間は過去のものになった.われわれはすでに絶対のうちに生きている.なぜならわれわれは,永遠の,永遠に現在のスピードを創造したのだから」という彼らは,すべての事物一止まっていようと動いていようと一に,固有の内在する動きや力の方向をみとめ,そのかぎりで,従来の具象絵画の前提である物質と空間の二元論的把握を破棄した.また知覚の現実と,記憶や連想の現実をまったく同等視することから,不可逆的な時間の流れを否定し,独特の「同時性」説を唱えるに至った.彼らの芸術の目標は,物質と空間を,人間の内面と外界とを通貫する「普遍のダイナミズム」を表現することである.表現のうえでは,主に後期印象派の分割主義¶色彩の分析一によったが,1911年ころキュビスム・・・形体の分析・・・を知るにおよんで,さまざまなレヴェルの現実を解体し「同時的」に再構成する,彼らに多かれ少なかれ共通のスタイルが成立したのである.

 そのうちシャコモ・バッラは,有名な〈首にひもをつけた大のダイナミズム〉(1912年)にみられるような運動の分析・・連続写真の要領・・から入り,じきに運動の軌跡やスピードを表わす直線的要素からなる,抽象的な画面にうつった.またジーノ・セヴエリーニにとって,「普遍のダイナミズム」とは何よりも,個々の事物から「空間中を球形に拡散する光」の相互作用のことであったが,特定の色や形の同時的な類比作用を探究する過程で,主に曲線的要素からなる彼の抽象画が生まれたのである.

■キュビスムと未来派作家たちの作品群

フェルナンド・レジェ

ロベール・ドローネ

ロベール・ドローネー1885年フランス,パリ生れ.1941年フランス,モンペリエ没Robert DELAUNAY,初め舞台装飾家としての修業をしたが,1904年頃から絵画に専念するようになり,サロン・ドートンヌ,アンデパンダン展にたびたび出品した.キュビスムの一時期を経たのち,1912年に「構成的時代」の様式に入り,同時に見られたさまざまな色彩の幾何学的形体を並列させて作品を構築してゆくことが試みられた.これに続く時期の作品の色によって分割された同心円のフォルムは,リズムとエネルギーを意味するとともに,色,光,動きに対するドローネーの並々ならぬ執心を物語っている.そうした彼の視覚的な探究に,はじめて「オルフィスム」の名を用いたのが,アポリネールである.律動的な円環のフォルムは彼の終生の主要テーマとなった.

ジーノ・セヴェリーニ

Gino Severini, 1883年4月7日 – 1966年2月26日

ジーノ・セヴェリーニは、イタリアの画家。未来派運動の中心的メンバーの一人で、主にパリとローマで活動した。第一次世界大戦後は新古典主義に傾倒した時期もある。絵画のほか、モザイクやフレスコなどさまざまな技法の作品を残している。ローマ・クワドリエンナーレを含む主要な展覧会に参加し、受賞を重ねた。

ボッチヨーニ

ウンベルト・ボッチョーニ(Umberto Boccioni、1882年10月19日 – 1916年8月17日)はイタリアの画家、彫刻家、理論家。彼はマルクス主義者のアナキストであり、未来派の主要メンバーでもあった。

フランティシェク・クプカ

1871年チェコスロヴァキア,オポッノ生れ.1957年フランス,プュトー没.Frantisek KUPKA   1887年から91年までプラハで,91年からパリに出る94年まではウィーンで美術を学んだ.1906年プュトーに移り,そこでデュシャン兄弟らの「セクシオン・ドール」の会合に加わった.色彩,かたち,光の特性と相互関係に対するクプカの徹底した探究は1910年に最初の完全抽象の作品を生むにいたり,それによりカンディンスキー,マレーヴィッチとともに抽象絵画の創始者として並び称されるようになった.クプカの作品における二つの主要なテーマは,1920年以前のダイナミックな円形の形象と20年以降の作品に見られるアクセントの強い垂直の色彩面とである.厳格な幾何学的形象は晩年になってから現われてくる.

ジャコモ・バッラ

ジャコモ・バッラ1871年イタリア,トリノ生れ.1958年イタリア,ローマ没.Giacomo BALLA トリノで短期間デザインを学び,1900年頃パリで絵画を学んだが,ほとんど独学で,新印象主義から多くの影響を受けた.ボッチヨーニとセヴェリーニの師で,未来派の創始者の一人であり,1910年の未来派宣言に名を連ねている.その後,1930年代にかけて,ダイナミズムや光や音といった抽象的な絵画的価値に関心を持ち,それらを追求した.多くの作品には色と形の建築的な組み立てが見られ,構成主義的な伝統の中に位置づけられる。