ジョセフ・コーネル

 ■ジョゼフ・コーネル:黄金蜂ホテル

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■サンドラ・レナード・スター 

ジェームズ・コーコランに捧げる

 宗教的な重みで(どんな小さなものも詩的にする)感動的な色合いを与える晩秋の光にひたされた,そんな一日が始まろうとするとき,地下室では,日の光は西側から,ざらざらとした黄色いロープを弄ぶ私の手の上に流れ込み……。これらの言葉のなんとぎこちないことよ,こうした体験の崇高で神聖な美を語ろうとすれば。    

ジョゼフ・コーネル,1952年10月8日の日記から

 私が初めてジョゼフ・コーネルについて書き始めたのは,彼が亡くなって3年後の1975年のことである。私はコーネルが私生活に立ち入られることを非常に嫌う人であり,自分の生活や作品について書かれたほとんどすべてのものを認めていないことを知っていたので,いささかの不安なしにはこのテーマにアプローチできなかった。思うに,彼は,誰かが自分の芸術にいわゆる「究極の言葉」という死の接吻を与えて,その驚異的な解釈の自由さに終止符をもたらすのを恐れていたのだ。だが彼は安心していてよかった。彼は美術史家の能力を過大評価し,自分が作品に組み込んだ安全装置を過少評価していたのだ。コーネルを研究することは,日本の近江八景のようなものだ。若い頃コーネルは俳句を読んでいた。たぶん彼は,琵琶湖の八つの景色すべてを17文字に要約して見よという挑戦にたいする松尾芭蕉の答えをよく知っていたに違いない。

七景は霧に隠れて三井の鐘 

 私はいままでのところコーネルについて3つの見方しか持っていない。このように自分の視点を変えることは,自らのいたらぬことを痛感させられる体験があったが,得るところも多かった。多分,コーネルがボックスで頻繁に利用している精密な地図のついたあのドイツの模範的な旅行ガイドからヒントを受けたのであろう,ベデカー方式のアプローチから私はまず始めた。私は砂の一粒一粒を教え,彼の天球の星々の名前を挙げ,どれだけの天使が彼の作品≪指ぬきの森〉のなかの小さいピンの先で踊ることができるかを計算した。だが,作品はガラスの向こう側に守られたままだった。

 つぎに私はもっと高い地平に移行することにした。コーネルの作品の個々の要素に興味をそそられ,また魅惑された私は,それらの要素の間に物語の網の目を張り巡らした。それは私を古代エジプトから19世紀のフランスへ,メディチ家のローマからニューヨークのペニー・アーケイド(ゲームセンター)へと連れていった。箱作品は,魔法の空飛ぶ絨毯になり,「過ぎ去りし日々の光」で見たヨーロッパ大旅行(グランド・ツアー)をプレゼントしてくれたり,カシオペア座,アンドロメダ座,御者座に導かれた天球への展望旅行に連れていってくれることもあった。作品はまだガラスの向こうに守られていたが,眺めはより鮮明になった。

 1979年の夏,コーネルがクリスチャン・サイエンスの信者だったことを知って,私は,ちょうどコーネルが生涯毎日行っていたように,この教会の創立者であるメアリー・ベイカー・エディの全著作を読破した。私はクリスチャン・サイエンスの信者にはならなかったが,ルイス・キャロルのアリスのように私は鏡を通り抜けていた。突然・・・そしてまったく予期していなかったことに・・・私はボックスの内側にいて,外を眺めていた。

 それ以来,私は一種の特免状を授けられたように感じた。私のコーネルについての文章は変わった。形式的な記述は,当世風で安全なものだったけれど,不適切となった。避けなくてはならない落とし穴もあった。作品について熱狂的な文章を書くことは,その筆頭にあげられるものだった。その類いの文の一節が雲を生み,霧を漂わせ,あらゆる面を隠してしまう(コーネルの作品には私たちの中にある「出来そこないの」詩人を引き出してくる傾向がある)。いまや私の目的は他の人々,とりわけ彼の作品に初めて接する人々を導いて,彼らもまた「鏡の向こうに」行けるような有利な地点に立たせることであった。私が1982年にこの結論を発表した時,コーネルを生活においても芸術においても勤勉に形而上学を実践したクリスチャン・サイエンス信者と見なす人は他にいなかった。この見方は当世風でも安全なものでもなかった。

Christian_Science_Mother_Church,_Boston,_Massachusetts

 もしコーネル研究から学ぶべきことがあるとすれば,それは,宗教に限らず,霊的な体験は,言葉を語ることで高められることはまずないということである。おそらく,それが人間の心のなかに言語以前的な起源をもっているがゆえに,それは何か言葉で書かれたり語られたりするより感じられるべきものなのである。実生活においてコーネルはロマン主義者であったが,仕事においてはプラグマティックな理想主義者であった・・・,硬質で光を放つダイヤモンドのように。コーネル作品を見ることの「究極的な」結果などというのは,馬鹿げた言い方である。それは,作品と見る者の間に生まれる非常に私的で親密な何かなのであって,それゆえ他の誰にもあてはまらないし,内密に味わうのが最良なのだ。おそらく,それはあらゆる芸術にかかわる直感的知覚の本質である。だが,我々にあの崇高な精神の状態に入るための鍵を手渡してくれたのはコーネル自身なのだ。

 だが他方において,コーネルの生活と信仰は,彼のボックスとコラージュの基本的要素を構成しており,論ずるに値するものである。彼の作品は,たとえ非常に精巧に編まれたものだとしても,ヴィジュアルな日記である。我々はまた,いったい,作品との関係においてどこに身を置いたらいいのかという問題も論ずることができる。我々全員を芸術家にすることこそはコーネルの希望であった。それは自らの独学者としての体験に裏打ちされていた。彼のボックスやコラージュは,実践の場への招待であり,最も卑近な日常生活のなかで想像力を用いる際の我々の手本となるのである。マンハッタンからクイーンズ区のフラッシングに列車で帰る時に,コーネルは瞬きもせずに心のなかでフラッシング湾をナポリ湾に変えることができた。1940年の倉庫群の退屈な眺めを前にして,コーネルはいともたやすくお気に入りの19世紀のバレリーナ,ファニー・チェリートが建物の開き窓のなかで踊っているさまを思い描くことができた。コーネルの作品を見始めるとき,我々はある場所にいる。見終わるときには,別のもっと良し)場所にいる。我々は新しい目で見る−それはコーネルの目ではなく我々自身の目である。

 コーネルの若い頃の生活は大人になってからの彼の世界観にも彼の芸術にも深い影響を及ぼしている。コーネルは,自分の生涯の最初の14年間を「黄金の子供時代」と呼んでいた。この感じ方は,幼年期ののどかな日々には来たるべき試練を暗示する要素がほとんどなかったという事実によっても強められている。子供時代の記憶は,彼の心の中で他から切り離された純粋なものとして残った。ノスタルジーの危険には常に自覚的であったが,彼はまたそれによって支えられてもいた。妹ベテイ(エリザベス)・コーネル・ベントンの回想によれば,コーネルにとって子供時代は非常に大きな意味を持っていたので,生涯にわたって当時の人や場所,物についてのきわめて瑣末(さまつ・全く重要でない、ごく小さなこと。ささい。)なディテールについて語ってくれるよう頼んだという。彼はベティに子供時代についての彼女の夢のことを聞かせてくれるように頼み,自分自身の夢のなかでその時代を再現しようとさえしたという。彼が好んで引用する文句のひとつはメアリー・ウェップの小説『precious Bane』からの次のような一節であった。「過去とは見えなくなり,おし黙った現在にすぎない。記憶されたそのまなざし,その呟(つぶや)きは限りなく貴重なものである」。記憶や,過去と現在の間の照応関係は,コーネルの作品の基礎となっている。

ナイアック

 ジョゼフ・コーネルは,1903年のクリスマス・イヴに,ニューヨーク州ナイアックに生まれた。ナイアックはこユーヨーク市から30マイル離れたハドソン河沿いの小さい町である。1684年オランダ人が入植し,商業の盛んな中心地となった。この町の多くの住民と同様,コーネルの家族もオランダ系であった。彼の母方の祖父コモドア・ウイリアム・R.ヴーアリスは家族の伝説であった。彼は名高いヨットマンであり,蒸気式の双胴船を設計した。彼は西インド諸島まで旅行し,貝殻や宝石を含む異国の土産を持ち帰ってきた。想像のなかでしか海に行ったことのなかったコーネルも,同じような土産品を入れた一連の〈セイラー・ボックス〉を作った。今日ではナイアックはマンハッタンのベッドタウンになっている。時間のなかで凍り付いたように,この町はいまでも絵のように美しい場所で,19世紀末にアメリカで大流行したゴシック・リヴァイヴァルの様式で建てられた優美な住宅や公共建築が建ぢ並んでいる。ナイアックの思い出は,コーネルにこうした建築のもつ「古きアメリカ」風の香りに対する変わらぬ好みを植え付けた。それは,コーネルのボックスのなかのいくつかの作品,とりわけ彼の《鳩小屋》(下図左右)にみられる,雨風に晒された,淡く柔らかな色調の木に反響を見出すことができる。

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 コーネルは,1902年に結婚したジョゼフ(1世)とヘレン・コーネルの間に生まれた4人の子供の長男であった。彼の後まもなく2人の妹ベテイ(1905年生まれ)とヘレン(1906年生まれ)が誕生した一番年下の子供ロバートは1910年に生まれた。コーネルの父ジョゼフは若くして父親を亡くしたため,12歳で働きにでなければならなかった。しかし彼はテキスタイル関係の仕事で,まずセールスマンとして,次にはバイヤーとして,そして最後に毛織物のデザイナーとして成功したキャリアを辿った。こうして彼はナイアックとマンハッタンの間を毎日往復して暮らした。彼とその妻は幸福な結婚生活を営み,家族が増えるに従って,ナイアックの町のなかで段々と大きな家に引っ越していった

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 ベテイ・ベントンの記憶によれば,父ジョゼフはハンサムな顔だちの,背が高くスマートな男で,巻き毛の黒髪をしていた。彼女の言葉によれば,父親は陽気で笑う事の好きな,てきばきした性格であった。また野球とゴルフを好む万能のスポーツマンでもあった。鱒釣りも海辺で蟹を採るのも好きだった。狩猟でも優れた腕前を挙げた。その獲物のひとつである鹿の頭が家に掛かっていた。射撃術への関心はコーネルの作品にも標的,照準線,剥製の鳥となって現れ,反戦的なコンストラクションでは,銃弾で砕かれたガラスの形で登場している。父ジョゼフはまた手先も器用で,家に大工仕事場を持っていて,家具を作ったり,模型のモーターボートを組み立てたりした。

 コーネルの母親は,柔和な面立ちに暖かい笑顔を絶やさない可愛い女性であった。ベティはこの母親に,ひとりきりでハドソン河でボート漕ぎをして楽しむような,反逆的な面もあったことを回想している。この母が息子のジョゼフに伝えた特徴に,当時の新しい芸術形式であった映画への情熱があった。ヘレンは自ら映画の戯曲を執筆したことすらあった。コーネルは最初の映画のシナリオである『フォト氏(ステレオスコープを通して覗いた)』を1933年に書いている。1936年には,ハリウッドのB級映画から採られたフイルム断片のモンタージュである最初の映画『ローズ・ホーバート』を完成,同じ手法による3部作を始めている。1955年から57年にかけてスタン・プラッケージ,ルディ・プルクハートと共同でコーネルは少なくとも9本の短い映画を制作,それらはアーティストや前衛映画作家の間で直ちに評価されることとなった。彼の最後のフイルムは1965年にラリー・ジョーダンが撮影したもので,1972年コーネルが亡くなる直前に完成された。

 コーネルは音楽に囲まれて成長した両親はジュラルディン・フエラーやエンリコ・カルーソといった大オペラ歌手を聞くのを楽しんだが,コーネルは20代になるまでクラシック音楽にはあまり情熱を向けなかった。子供時代彼が聞いたのは,軽いオペラやポピュラー・ソング,アイルランドのバラードなどが中心だった。それは彼の両親が愛した音楽であった。ヘレンはピアノを弾いたし,父ジョゼフは(タップダンスに才能があったうえ)美声だった。ふたりは人好きのする若いカップルで,日曜の夜には友達を呼んでもてなすのが好きだった。ベテイ・コーネルの回想によれば彼女と兄弟たちはいつもベッドから抜け出して,ギルバート&サリヴァンの『軍艦ピナフォア』から『アイリッシュの瞳が微笑むとき』まで,両親が選曲するにぎやかな音楽に耳を傾けたものだという。

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 1910年7歳にロバートが生まれた後,コーネルの一家はハドソン河を一望のもとに見下ろす「丘の上の大きな家」(上図左)に移った現代の基準からすれば贅沢に映るであろうが,彼らの新しい家はゴシック的ディテールへのヴィクトリア朝ならではの愛着を示す輝かしい典型であった。見事な石造り,塔,張り出し窓,それに広いラップアラウンドのポーチ。家の正式の応接間は,特別の場所で,お客さんを迎えるときと日曜日の午後,家族で読書をしたり音楽を聞いたりするときにだけ使った。1940年代にコーネルはこの部屋の雰囲気と家族のあいだの暖かい情愛(上図右)とを記念し,《パオロとフランチェスカ》(下図)と題したボックスのシリーズを作った。

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 ロバートが生まれて1年もしないうちに,ての子の運動機能が正常に発達していないことが明らかとなった。幼い頃さまざまに誤診されたがロバートの病は脳性麻痺だった。今日ではこれは胎児のときの欠陥か出産の際に受けた傷が原因となった先天性の障害と考えられている。ロバートの場合,徐々に足が衰弱し,その後,手も衰弱していくという結果になった。この病気のためにロバートは助けなしに歩くことは一度もできなかったし,成長して後も車椅子から離れられなかった。

 言葉も不自由だった。しかしながら,ベテイ・ベントンは,こう断言している。「彼は素晴らしい心を持っていた。ジョー(ジョゼフ)はロバートの前では謙虚だった。もしロバートが運が良かったら天才になっていたのにと彼はよく言っていた」。生涯,ロバートは友人や家族の心を魅了しつづけた。そのユーモアのセンス,人生に喜びを見出す力は抗しがたく魅力的であった。1929年23歳以降コーネルが母親や弟と一緒に暮らしたユートピア・パークウェイの家を訪れた者は,ロバートが居間に座り,部屋中に張り巡らされた精巧な模型鉄道をコントロールしている姿に出会ったであろう。1965年(62歳の時)にロバートが亡くなってまもなく,コーネルはその思い出に≪マイかマグリット〉(下図右)と題した美しいコラージュを作った。その中心をなすイメージは1939年36歳のルネ・マグリットの油絵《釘づけされた時間》下図左から借用した。煙を吐く蒸気機関車は,コーネル家の居間のものに良く似た暖炉を突き抜けてやって来る。それはロバートの魂のメタファーであるように思われる。同シリーズの別のコラージュでは,コーネルは音楽の守護者も付け加えた。リュートを奏でる天使の図である。

ルネ・マグリットの油絵《釘づけされた時間》 138

 コーネル家では,祭日を子供たちにとって後々まで忘れがたい魔法の出来事に変えた。イースターは,手の込んだ卵探しを意味した。ジョゼフ少年はいつもその勝利者だった。7月4日には子供たちは飾りランプをつけた熱気球とともにふわふわとハドソン河を下って行くのを見物に連れていってもらった。そして感謝祭の日には,小さなアーモンド葉子の「ポテト」があった。ジョゼフのクリスマス・イヴの誕生日にはいつもお祝いに,彼の母方の祖母「ナナ」・ストームが焼いてくれたケーキがあった。家族は輪になって集まり,ロバートに『クリスマスの前夜』を読んで聞かせるのだった。先祖伝来のクリスマスの飾りがツリーにつけられた。ガラスの「雪玉」で遊ぶこともできた。応接間の暖炉の上には,香りをつけた葡萄,桃,そしてゼリーの詰まったガラスの壷が並んだ。それはナナおばあさんと彼女の夫ハワードからの手製の贈物だった。

 クリスマスの思い出は,大人になってからもコーネルにとって,いつまでも重要なものだった。コーネルはよく月分の展覧会をクリスマスの季節に合わせるように企画した。また彼はクリスマス飾りに似たミニチュア・サイズのガラスの雪玉のなかに,お気に入りのバレリーナのひとりタマラ・トウマノヴァの姿を封じ込めた。応接間の暖炉の上のガラスの壷の神秘的なきらめきは,≪ミュージアム》や≪ファーマシー》など彼の作品のなかにさまざまな形でふたたび現れている。彼はニューヨークのオールトマン・デパートのウインドウを愛した。クリスマスになるとそれは動く人形のいる等身大の陳列ケースになるのだった。

 この他にも,後にコーネルの作品の味わいを豊かなものにすることとなるさまざまな出来事があった。有名な遊園地コニー・アイランドに出掛けた時には,幼いジョゼフはそこで飾りランプに縁取られた建物や木を目にした。この装飾的な効果は,模造ダイヤで表されて,1940年38歳代以降のいくつかのコーネルのボックスに現れている(下図)。彼はウォーターシュートに乗る時の心臓のとまりそうなスリルにわくわくし,後にひとつのボックスにこの有名な水の滑り台を記念した名前をつけている。

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 コーネルの母親は舞台芸術のファンで,この情熱は息子にも受け継がれた。母親は,子供たちをニューヨークのヒッポドローム劇場に連れていったが,ここには水中バレエのショーのために設計された噴水装置もあった。この劇場で行われる華やかなショーでは,40人もの美女たちがしなやかな身体を翻して,ステージに組み込んだ水槽に揃って身を沈めるという芸もあった。後年,ここで見たニンフたちは,水の精のオンディーヌやナイアス,ダンスをするロブスターや水の中の裸馬乗りなどの姿でコーネルの作品に蘇ることとなった。ジョゼフはパレス座でヴォードヴィルも見た。彼はこの種の芸にも何点かの箱で礼讃を捧げることになる。

 またマンハッタン見物に行くこともあったが,そのときには父ジョゼフの事務所にも立ち寄り,子供たちはタイプライターや自動スタンプ機に心奪われた。夏休みにはメイン州やアディロングック山脈,コネティカット州シャロンで過ごしたが,それは幼いジョゼフの心に,やがて彼の多くの作品を美しく飾ることになる自然美への鋭敏な感受性を吹き込んだ。大人になっても彼の目は自然美を至るところに見出した。自然史博物館の小鳥の巣の展示にも,ニューヨークのユニオン・スクェアを横切る鳩たちの飛翔にも。

 ナイアックの暮らしを通して,コーネルは本物の古きアメリカの光景を目にし,その記憶を終生失わなかった。夏になれば子供たちは,手回し風琴の辻音楽師が踊る猿を連れてやって来るのを今か今かと待ちわびた。また,シェイカー教徒たちもやってきて,手作りの質素で優美な箱を売り歩いた。コーネルはこうした箱を〈指ぬきの森〉のシリーズで容器に使うことになる。それは,駄菓子と氷売りの馬車の時代,初期の幻燈機と点燈夫の時代だった。点燈夫は毎晩,幼いジョゼフの寝室の窓のすぐ外にあるガス灯に火を点しにやって来た。それは,100年近く昔の,今とはまるで違うアメリカだった。生活は今よりもずっと簡素なものだった。世界はまだ人々のなかになだれ込んでいなかったし,人々も世界を見付けに飛び出していくことはなかった。一つ所に腰を据えて人生が向うからやってくるのを待つ時間があった。静かに座ってじっと見詰め,待っているときにのみ,何かが起こるという知恵があった。そうした心の状態を想像してみよう。そうすれば,コーネルがどうやってボックスやコラージュを作ったのか分かるだろう彼は時を顕微鏡で見ることによって,永遠性の感覚を生み出した。特殊な形而上学のレンズを通して,彼は1秒を1分に,1日を彼のいう「永遠日(eterniday)」に引き延ばしたのである。

 母ヘレン・コーネルは,結婚する前に幼稚園の保母になる訓練を受けていたけれども,自己改善の熱心な信奉者で,子供たちには聖書の文句を暗記させた米国愛国婦人会の活発なメンバーだった彼女は,小説や詩より歴史の本を読むのが好きだった。コーネル家の子供たちは4人とも早くから読み書きを習った。両親は,本を読んで聞かせるより,子供たちが自分たち自身で読書の楽しさを発見するように任せた。コーネルは,母親がもっと新鮮な空気を吸った方がよいと心配するほどの本の虫になった。ベティの記憶によれば,その点を除いて,兄はまったく平均的な少年だった。コーネルは切手を集め,ボーイスカウトにも入っていた。関心の共通する親友も数人いた。彼の興味を引いたことのひとつに,2つのブリキ缶を針金で繋いで作った手製の携帯電話の実験があった。ジョゼフには茶目っけもあって,妹たちに罪のないいたずらをしては面白がった。彼は飛行機にも夢中になった。(彼はライト兄弟がキティ・ホーク号で歴史的な飛行をしたのと同じ年,同じ月に生まれた。1956年53歳にはフランスの発明家・飛行家ルイ・プレリオに捧げる箱の作品を2つ作っている)。また彼は,友だちの誕生日のパーティによく現れる手品師も大好きだった。とりわけ縄抜けの名手ハリー・フーディーこには夢中だった。前にも述べたように,ジョゼフは熱烈な映画フアンで,地元の映画館に通い詰めた。厳格な規律を重んじる両親は,子供たちが悪いことをすると体罰を与えたが,ベテイ・ベントンは自分たちの子供時代は恵まれていたと回想している。「私たちはあらゆることに胸高鳴らせた。私たちの暮らしは充実そのものだった」。

 1917年14歳,この幸福な子供時代は,突如その幕を閉じることとなる。父親が白血病のため42歳の若さで世を去ったのである。ベティは,父が救急車で運び去られるとき,悲しみに気も狂わんばかりの母が,こう言ったことを覚えているという。「子供たち,お父さんをよく見ておくのですよ,これがお父さんに会える最後ですからね」。父のジョゼフは,5年間病床にあったが,「悪性貧血」と診断されていたので,事業は整理されていなかった。彼の未亡人には,4人の子供を養うのにぎりぎりの収入源しか残されていなかった。家族の面倒を見るため,ヘレンはナイアックの大きな家を諦め,仕事を探さなくてはならなかった。

 1918年15歳から29年23歳にかけて,一家は借家から借家へと4回の引っ越しを体験した。最初はロング・アイランドのダグラストン,2番目の家はクイーンズのベイサイドだった。運良くヘレンには商売の才覚があった。彼女は手作りのクッキーや,手編みのセーターを売り,国勢調査員として働き,一時は下宿人まで置いて,帳尻を合わせた。娘たちも働きに出た。ジョゼフが14歳になった時,父の昔の雇主,ジョージ・クンハートが学費を払ってくれるという親切な申し出のお陰で,彼は寄宿学校へやられることが決まった。ベティの回想によれば,これは一家全員にとって,とりわけジョゼフにとって,苦しい時代であった。「それは大きな精神的打撃でした。ジョゼフは自分が家にいるべきであると感じていたのですも彼は家の長でした。ところが,その代わりに彼は学校に送り出されたのです。おわかりでしょう,彼は父親になりたかった,でも彼はそうならなかったのです」。

 1917年14歳・秋,コーネルは,マサチューセッツ州アンドーヴァーの大学予備校フィリップス・アカデミーに入学した。これは彼の生涯できわめて不幸な時期だった。彼は愛する肉親を失い,家族から引き離され,特別に恵まれ守られた生活のスタイルが終るのを目の当たりにしたのだ。ついに彼は二度とこの生活を取り戻しえなかった。彼のナイアックの家には何人もの召使がいた。フィリップス・アカデミーでは,彼は学費の足しにするため給仕として働いた。想像力豊かで,感じやすい少年だった彼は,科学やフランス語,ラテン語を含む外国語を忠実に,しかし目立った熱意なしに,学んだ。天文学のクラスで彼は無限の概念と対決することとなった。かつてプレーズ・パスカルがそうであったように,その概念はジョゼフを恐れおののかせた。休暇で故郷に帰っていたとき,彼は悪夢に悩まされ始め,眠っているとき大きな叫びを上げて,ベティに助けを求めるのだった。ある晩,彼の叫びに目を覚ましたベティは,兄が自室の壁にはったポスターを眠っている間にびりびりに破ってしまっているのを発見した。

 コーネルにとってこの時期の数少ない楽しい記憶のひとつは,19世紀にマサチューセッツ州サンドウィッチで作られた押型ガラス製品を発見したことであった。彼がこの華やかな色彩の装飾美術品に出会ったのは,マサチューセッツ州ローレンスのクンハートの布地工場で夏のアルバイトをしていたときのことであった。このように早くからガラスに魅惑されたことは,訪れるべきものの前兆だった。デュシャンとならんで,コーネルは美術にガラスを導入したパイオニアであり,その可能性を同時代のどのアーティストにも増して引き出した。それは,瓶や,色つきビー玉や,箱にはめた着色ガラス(暗褐色,ブルー,グリーン,イエロー,薔薇色など)を用いたり,あるいは単に,≪シャボン玉セット》(下図)のひとつに収められているような普通のコーディアル・グラスであったりした。そこにはまた,コーネルが「ただの美学」と皮肉ることになる狭苦しい芸術の枠を超えた,気取りのない芸術への彼の深い尊敬が予告されていた。

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 後年,コーネルは,鳥の巣やアメリカのフォーク・アート,くもの巣や商業的なイラスト,地図,ヴァレンタイン・デーのカード,絵入り名刺,シェーカー教徒の手作りの箱,装飾プリントの壁紙,切手,手作りの飾り物など,そうした芸術形式の作例を自分の作品に組み込んだ。彼は,市販のグリーティング・カードの甘ったるい感傷も好きで,しばしばそれにコラージュを加えて友だちに送っていた。

 1921年,18歳の時に,ジョゼフは正式に卒業することなしに,フィリップス・アカデミーを後にした。彼は,クイーンズのベイサイドに住む家族の許に帰郷し,一家の生計の中心となる責任を引き受けた。彼はその後9年間を布地(ぬのじ)の仲買人としてニューヨークのウイリアム・ホイットマン社で働くこととなった。それは彼の叔父が確保しておいてくれた地位であった。布地取引の粗野な客相手の商いは,コーネルにはきわめて辛いことだった。嫌悪感を催させる仕事,ほとんどプライヴァシーの得られない家庭生活に抵抗するように,コーネルは,自分だけの私的な世界を創り始めた。言いかえれば,この試みは西欧文明史講座を生涯受講するようなものだった。彼の教室は,書店,図書館,レコード店,画廊,美術館,劇場,そしてニューヨーク市における都会生活全般であった。その体験は彼のなかに「街と群衆に対する愛」を植えつけた。コーネルの作品はマンハッタンが与えてくれた自由に対する感謝の表現である。

ジーン・イーグルズ

 彼は,楽屋口であこがれの女優を待ち受けるようになった。1923年20歳には,大女優エレオノーラ・ドゥーゼが,イプセンの『海から来た女』を演じるのを見た後,劇場から出てくる彼女に会おうと待ち受けた。1924−25年21-22歳には,アンナ・パヴロヴァがメトロポリタン歌劇場でバレエを踊るのを何度か見た。同じ年,コーネルは,サマセットモームの芝居『雨』に出演しているジーン・イーグルズを見た。彼女はやがて彼の一群のコラージュのヒロインとなるであろう。コーネルはまた,モーリス・シュヴァリュとラケル・メレルのシャンソンも聴きに行った。子供時代のヒーローだったフーディーニの芸も見た。大西洋横断の飛行士チャールズ・リンドバーグの帰国歓迎パレードにも立ち会った。この時代に彼が読んだ本のなかで,もっとも重要な意味をもったのは,マースデン・ハートリーの『芸術の冒険』であった。このアメリカ人画家の書いたエッセー集には,コーネルと同じ非常に広いヴィジョンがそなわっていた。ハートリーはあらゆる所に詩を見出した。エミリー・デッィキンソンの詩のなかばかりでなく,軽業師の身体にも,アメリかインディアンの風習にも,ヴォードヴィルの見せ場にも。貪欲な好奇心の結果,コーネルはベンジャミン・フランクリンやトマス・ジェファーソン,チャールズ・ピールなどと同じように,博識家となった。彼の知識は,後年,映画,音楽,バレエ,演劇,文学などさまざまな分野で,専門家をも驚嘆させるものとなった。

 ずっと後になってコーネルは,美術の世界に入るようになる以前の時期を,次のように記述している。「1921年から29年までの10年間は,ニューヨークという大都会に夢中になった思い出で一杯だ。この時代の特別な雰囲気,その神秘を思い出させる名前の数々……」。彼は,玩具店のシャッタマンやF.A.O シュウォーッ,アイスクリーム・パーラー,ビギロウ薬局,ビリー・ジ・オイスターマン食堂,ハッピネス軽食堂チェーン,「布地裁断業のロフト,窓からの眺め,エレベーター,果てしなく続く建物のファサードなどを,今でも夢に思い出す」と語っていた。

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 マンハッタンは,コーネルのいう「幸福な狩場」となった。日記のなかに彼は,ニューヨーク市を一日中あさって手に入れた「過去と現在を物語る花束」について熱っぽい言葉で書き記した。この時代に,彼は,アルベニス,ラヴェル,ドビュッシー,デュカス,サティ,シャブリエ,セヴラック,リストなどの音楽を発見して,レコードの蒐集を始めた。ベテイ・ベントンの回想によれば,彼はまた,オペラに対する愛と知識を家族と分かち合うために,歌劇の台本を家に持ち帰ったという。彼は,あらゆる種類のショーウィンドウにも心奪われた。子供時代に父親に連れられて行ったことのあるワナメイカー百貨店,アンティークの店,花屋のディスプレイ,角におかれた鏡に自分の姿をちらりと映してみたことのある剥製屋の店先,後年作品に使うことになる最初の箱を買ったマディソン・アヴェニュー沿いの東洋物産店,そして,彼の記憶によれば「最初の鳥の箱のもっとも萌芽的なイメージ」を与えてくれたペットショップのウインドウなどである。

 生涯にわたって,コーネルは自分の作品に対する影響の問題には,神経質であった。このことのひとつの原因は,1932年29歳から49年46歳までの間,自作をシュルレアリスムとつながりのある画廊で陳列したということがあろう。だが,彼は一度として自分がシュルレアリスムの運動の一員だと考えたことはないのだ。彼は自分自身をsui generis(独自な)であると考える方を好んだし,それはコーネルの芸術における主たる貢献の適確な記述であった。1968年66歳,コーネルは,イエール大学の21歳の学生レズリー・ジョン・シュライヤーから,自分の年頃にはどんな芸術家を尊敬していたかというアンケートを受け取った。コーネルの反応は次のような反駁(はんばく・他の意見に反対し、論じ難ずること。論じ返すこと。)であった(この回答は何度も書き直されており,この間題に対するコーネルの気遣いを暗示している)。

……単純にいって,「お気に入りのアーティスト」と私の作品 の間には,何のつながりも見出すことは不可能なのです。私の作品はそれ自身の力によって徐々に成長したものであって,いかなるアーティストに対する敬意も献身も,それに対しては何らの意味ある影響を与えていないことは,私の確信するところであります。

 私の体験は,いかなる意識的な芸術研究とも美術学校とも関係ないものでした。それは,一般的な広い意味の美に対する,知識に裏打ちされた自然な反応でした。あなたの年頃に私の美術についての知識はほとんど零でした……。私は毎日ニューヨークという大都会の豊かな生活にさらされていました。でもそれは実作者としてではありません。

 しかしながら,シュライヤーに対する回答を準備しているときのメモをみると,コーネルが1920年代から美術に真剣な興味をもっていたことは明らかである。彼は,東洋美術に関心をもち,「日本の浮世絵−とりわけ広重と北斎−を発見して大きな喜び」を味わったと回想している。(コーネルが1932年29歳ジュリアン・レヴイ画廊で世に初めて公表した最初のオブジェは,釣鐘型のガラス壜の中に封じ込めた日本の扇子であった)。この時期,コーネルは,ブルックリン美術館の東洋コレクションに親しみ,ラファェル・ベトルツチの中国絵画についての本を読み宋代の「とりわけ動物や鳥や花や植物の主題」に特別な関心を示している。中国や日本の芸術家に対するコーネルの共感は容易に理解できるところである。それらの芸術家は,彼と同じように,小さなディテールを丁寧に観察することのなかに大宇宙を見ていたのだ。さらにまたコーネルは,中国や日本の偉大な画家たちと,虚の空間・・・ある物と別の物の間にある空間そして作品と見る者の間の空間・・・がもつ力に対しての鋭敏な感覚を共有していた。

 彼はドラクロワの『日記』やゴッホの手紙を読んだ。メトロポリタン美術館ではゴヤの≪カササギと子供(ドン・マヌキル・オソリオ・デ・スニガの肖像)≫を賞賛したし,ホイットニー美術館も訪ねた。プルンマ一画廊で開かれたブランクーシのニューヨークにおける最初の個展も見た。カラヴァッジオ,フェルメール,デ・キリコや,アメリカの生活のノスタルジックな場面を描いたカリア・アンド・アイヴズの版画に目をとめた。コーネルは,ジョン・クインの集めた近代絵画の大コレクションの展覧会も見て,特にルソーの≪眠るジプシー女》,スーラの《サーカス》,ピカソの《母子像≫,ドランの《窓辺の静物≫に惹かれた。彼は1920年代にアメリカの前衛絵画を展示していた数少ない場所だったスティーグリッツの画廊やダニエル画廊の「親密な雰囲気」に喜びを見出した。

 コーネルは「毎週,四番街の古本屋を巡るグランド・ツアーを何よりも豊かで意味のあったこと」と述べている。14丁目とアスター広場の間に集中していたこれら露店は,古本の宝庫であった。それらの古本の多くは見事な挿絵が入っていた。ここでコーネルが買った書物の数々は,その後25年間の彼の人生と作品に養分を与えた。彼がこの早い時期に買った特に重要な本に,フランス象徴派の画家オディロン・ルドンの作品のフルーリ版の豪華本があった。ルドンは,コーネルがアーティストとしてデビューする以前に深く影響を受けたことを認めている唯一の画家である。コーネルと同じようにルドンも現実世界の微細なディテールに非常に鋭敏な感覚をもっていた。ルドンは,花や蜘妹やあるいは人間の顔などをまず他から切り離し,次にそれを強めることによって,自分自身の内にもまた作品を見る者にも想像力を羽ばたかせうることを理解していた。

 コーネルとルドンの作品を互いに結び付けているばかりでなく,またそれらを中国や日本の偉大な水墨画家に結びつけるのは,目で観察した現実ではなく「心で感じた」現実である。妹のベティは,ある時,コーネルが彼女のためになにか夜明けと関わりのある曲を演奏してくれたことを覚えている。多分それはドビュッシーの曲だった。ベティは座って耳を傾けていたが,本当に自分の目の前に上ってくる太陽が見えると叫んだ。コーネルは彼女をやさしく訂正して,「ネル(それがベティの渾名(あだな)だった),音楽を文字通り受けとってはいけないよ。それは日の出が呼び覚ます『感情』なのであって,実際に太陽の上ってくるのを見なくてはいけないという意味ではないのだ」と言ったという。

 コーネルはハンサムな青年だった。しかし自分が痩せていることは気にしていて,多分それは彼の異常な食生活と関係をもっていた。ベティはこう言っている。「彼は尋常ではない食べ方をした。食事のために椅子に腰を落ち着けたことなど一度もなかった。彼自身,自分が食べ物に関しては奇人であることを認めていた」。コーネルは飽く事を知らない甘い物好きで,彼の日記にはパイやクッキーやケーキの話が一杯でてくる。そこにはいつどこでそれを食べたかというメモもついている。

 コーネルは生涯,結婚しなかった。このことの理由については,クリスチャン・サイエンスの倫理を熱心すぎるくらい読んでいたことを始め,生来の内気さ,それに複雑な家庭環境にいたるまで,はてしなく憶測することはできる。ベティの記憶では,コーネルは20歳の頃にも特別のガールフレンドはいなかった。しかし彼は生涯,女性に対する強い関心をもち続けた。それは時として偏執に近付くほどのものだった。コーネルのイマジネーションの世界のなかでの女性の圧倒的な重要性は,非常に対照的な視点からではあるが,彼の友人のウィレム・デ・クーニングの作品の場合のみが匹敵するほどであった。新しく女性を知ると容易に魅惑されてしまうコーネルは,また,ごく些細な約束をちょっと破っただけでもすぐに裏切りととった。バレリーナのルネ・ジャンメールや女優のグウェン・ヴァン・ダムなど何人かの女性は自分がコーネルの作品のなかばかりではなく,彼の思考や夢の中でも並々ならぬ役割を演じたという事実に,まったく気が付いていなかった。

 私の結論としては,コーネルが抱いていた家族に対する義務の感覚,深く植えこまれた道徳律,そして非常に理想化された女性観などによって,長続きする親密な交際はどれも不可能になっていたのである。コーネルは,弟と母と一緒に暮らし,彼らが1965,66年にそれぞれ亡くなる直前までその世話をした。彼はロバートの肉体的な必要に対して責任をもったばかりではなく,彼のために本を読んで聞かせ,古い映画をコレクションして彼を楽しませ,彼と一緒にテレビを見,彼のために手紙を書いて,ロバートの暮らしができる限り活発で刺激的なものになるよう努めた

 ベティによれば,彼女と姉のヘレンが1920年17歳代の末に結婚して家から出てから,母親はコーネルを一層頼りにするようになったという。「母はジョーに対していくぶんやかまし屋のところがあった。母は彼に余りにも多くを期待していたのだ」。コーネルの母は独占欲も強い人で,息子と他の人間との関係に嫉妬した。コーネルが愛情深い息子であり兄であったことは疑問の余地がないが,その一方で,ベティは,はっきり次のように言っている。「彼の創作へのインスピレーションの多くは,彼が自分の暮らしの現実からの逃避を求めていたという事実から来ていたと,私は思う」。

 コーネルは理想主義者だった。ベティの回想によれば「彼は無垢と純粋を渇望していた。彼はこの世の何よりもそれを求めていた」。しかし,また彼女が述べているように,コーネルは「疲れた女の顔に浮かぶ微笑」にも常に魅惑された。実生活においても彼はトラブルに巻き込まれた女に弱くて,なかには彼の優しさを利用した女も何人かいた。彼の作品には,償いを求める堕落した女のイメージやほのめかしに満ちていた。そのなかには,ジーン・イーグルズやマリリン・モンローのように有名な女性もいたし,そうでない者もいた。コーネルは作品のなかで彼女たちが実生活の中では獲得できなかったものを実現した。彼は,ヘロイン常習者だったイーグルズに「秋の穏やかさ」を与えた。また,親から見捨てられた子供時代を過ごし,おそらく自殺を遂げたモンローには,「保護者」を与えた。

ジーン・イーグルス  マリリン・モンロー

 興味深いことに,コーネルの家族にも女性の「厄介者」がいた。それは彼の母親の妹にあたるクレア・オズボーン叔母さんであった。株の仲買人と結婚したクレア叔母さんは,贅沢三味の暮らしをしていた。コーネル家の子供たちは,コネティカット州シャロンにあった,何人もの執事のいる彼女の大邸宅を訪れたことがあった。クレア叔母さんは美しいドレスを着ていた。叔母さん夫妻は一時パリに住んだこともあって,ジョゼフと弟と妹たちに素晴らしい服を贈物に持って帰って来た。ベティはクレア叔母さんが「フランスのきわどい小説で読んだことのある誰か」みたいだと回想している。このエキゾチックなクレア叔母さんは,しかしながら,偏執的な賭け事好きだった。叔母さん夫妻は一時経済的に苦しくなってナイアックのコーネルの家族と一緒に暮らした事もあつた。夫が亡くなって後,クレア叔母さんは落ちぶれてマンハッタンのホテルで暮らすようになった。コーネルはそこに叔母さんを訪ねた事もあった。コーネルの〈メディチ・シリーズ〉の箱(下図)を見ると,若きメディチ家の青年の魂とともに,クレア叔母さんの魂を救う事と何か関係があると考えざるをえない。これらの作品は,無慈悲な運命を逆転するよう設計されたスロット・マシーンなのだ。

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 1925年23歳,コーネルは胃の具合が悪くなって苦しむようになる。その痛みは,昼食の時間,体を二つ折りにしてマディソン・スクエアで座っていなければならないほどであった。同僚の忠告で,彼はクリスチャン・サイエンスの実践師の診察を受けた。その結果,最初の治癒が訪れ,コーネルはクリスチャン・サイエンスを信ずるようになった(こうした治癒はもう一度起こった)。クリスチャン・サイエンス教団は,1875年メアリー・ベイカー・エディによって創設された。その教義は彼女の著作,なかでも『科学と健康・・・付・聖書の鍵に基礎を置いていたキリスト教科学は,人間も宇宙も神の精神の反映であり,それゆえに不滅,永遠であり,衰退はありえないと主張した。また悪,病,死は,誤った思考から生まれた幻覚と考えられ,精神的な知力によって正しく改めるべきものと見なされた。クリスチャン・サイエンスはまた,神性は物質的な事象よりも精神に最も密接に反映すると主張した。エディは述べている。「神聖な科学は物理的な理論の上位に立ち,事物を排除し,『物』を『思考』へと解消し,物質的な感覚の対象を精神的な理念に置き換えるのである」と。 

 ベティは,クリスチャン・サイエンスがコーネルの宗教となったばかりではなくまた彼の「根本的な現実」ともなったと確証している。

 クリスチャン・サイエンスがなければ,彼があのようなものを作り出すことは決してなかったでしょう。それは『科学と健康』『雑録』や出版されているあらゆる小冊子を読むことと,教会に行くことにより生まれました。彼はグレート・ネック教会の熱心な信徒で,日曜ごとに鉄道で出かけていました。後には彼はベイサイド教会の指導的なメンバーとなりました。彼はよく説教に行きました。ニューヨークの五番街の教会で行なわれる正午の祈りにも行きました。彼はその教えを吸収しましたし,本も読みました。彼は盲目的に受け入れていたわけではありません。彼は教えの多くを論証しました。一時たりと彼がそれを忘れたことはありませんでした。

 コーネルは,ベティとロバートもクリスチャン・サイエンスを勉強するよう説き伏せた。しかしコーネルの母親はその信者ではなかった。ひとりの実践師がロバートの治療に失敗すると,彼女はもう,この種の努力を受け入れようとはしなかった。後に見るように,コーネルのボックスやコラージュは,彼の宗教的な信念に視覚的な形で対応したものであり,生涯変わらぬ信仰を表したものであった。彼の信念は非常に強固なもので,一時は,美術を捨てて,宗教に専念しようかと考えたほどであった。

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 1929年,コーネルと家族は,クイーンズ区フラッシングのユートピア・パークウェイに,寝室が3つある小さな家を購入した(fig.3)。コーネルは1972年69歳に亡くなるまでここに暮らし,制作をつづけた。大恐慌が進行すると,コーネルは,その後4年間,仕事がみつからなかった証。私たちの知るかぎり,コーネルは,1931年の末,28歳の時までオブジェやコラージュを作り始めていない。若い頃画家エドワード・ホッパーに短期間師事したこともある妹のベティや,かなり達者なドローイングの才能を示したロバートと異なり,コーネルは若い頃には芸術的な才能の兆しはまるで表わさなかった。彼自身認めているように,彼は素描もできなければ,絵も描けず,彫刻もできなかった。写真の蒐集に興味を持っていたせいで,コーネルは1931年冬に,ニューヨークのジュリアン・レヴイ・ギャラリーを訪れることとなった。そこではアメリカ写真の回顧展が催され,次にはフランスの写真家ナグールとアッジュの展覧会が開かれた。

 コーネルがこのギャラリーに足繁く通い始めた頃,レヴィは,アメリカで開催される最初の総合的なシュルレアリスム美術展に出品予定のヨーロッパのアーティストたちの作品を解梱しているところであった。この展覧会には,マックス・エルンストやマルセル・デュシャンの作品も含まれていた。

 ウィリアムリレービンの指摘しているように,シュルレアリスムの「レディメイド」のオブジェは(1915年マルセル・デュシャンが初めて思いついた),造型芸術の本流に,他の分野の人々,とりわけ詩人や文学者たちが参入する突破口を提供するものであった。伝統的な美術の技の代わりに,日常の暮らしの中のさまざまな事物を取り上げ,それらを新しい設定の中にはめ込み直すことによって,人は芸術作品を創り出すことができたこのテクニックは,ものとしての美術作品から,新しい意味を作り出す思考のプロセスへと,力点を置きかえるものであった。それはまた,観客のはるかに大きな参加も必要とした。その結果として,シュルレアリスムは領域の越境をうながした。アーティストは映画作家になれたし(デュシャン),文学者がアーティストにもなれ(アンドレ・プルトン),写真家が画家,オブジェ作家であるということも起こった(マン・レイ)。この環境の中でコーネルは文字通り,一夜にしてアーティスト,映画作家,そして場合によっては文学者になることを可能にするような手段を発見したのである。

 コーネルは,デュシャンとならんで,20世紀のイコンを作り出した偉大な作家のひとりである今世紀前半,優位に立った抽象美術の影響で,再現的な美術は絶滅の危機に瀕した。コーネルは,イメージを用いる芸術を忘却の危機から救い出し,その用途を新たに作り直す道を選んだ。ピカソ,プラック,シュヴィッタースを含む上の世代のアーティストたちと同様,コーネルもまた,産業革命と現代のテクノロジーが,日常生活の組み立てを決定的に変化させてしまったことを理解していた。鉄道,航空機,自動車,地下鉄,電話.映画,新聞や雑誌やラジオといったマス・メディアレコード,写真,そして田園型から都市型への生活人口の変動・・・これらすべてが結びついてほとんど混沌に近い錯乱の感覚が作り出された過剰な情報の時代が到来したのである。過去の生活の簡素さにあれほど惹かれていたコーネルが,現在の溢れんばかりの豊かさのなかでもこれほど完壁にくつろいでいられたというのは逆説的なことだ。たぶん,彼のようにしっかりと「旧式の価値観」に根ざした純粋なヴィジョンをもった者だけが,20世紀的環境に秩序を与える道を見出せたのであろう。

 アッサンブラージュとコラージュは,今後,数百年間に現われるべき新しい芸術表現形式の最初のものである。それらは詩人のステファヌ・マラルメならばさしずめ「象徴の森」と名づけたにちがいない非常に複雑な新しい都市の現代性に対する創造的な反応として生まれたものであった。アーティストは今や,視覚情報の氾濫に取り巻かれている観客の注意を,無理やりにも引き寄せなくてはならなかった。第一にアーティストは,観客の歩みを十分に緩めて,その注意を引きつけねばならなかった。彼は,敵も引き込んで自らその先頭に立った。つまり,彼は現実の生活をアートに持ち込んだのである。次に,アーティストは,観客を受け身の傍観者ではない何者かにしなくてはならなかった。そこで採られた手段は,芸術作品を実生活の中に運ぶプロセスを仕上げる役廻りを観客に求めることによって,創作行為に参加させることであった。芸術を放棄してチェスを選ぶという決断によってデュシャンが明らかにしたように,アートはもはや絵画や彫刻やデッサンにまつわることというよりも,アーティストと観客の間のウィットの競い合いのようになった。芸術作品はその場合,ゲームボードの役割を果たすのである。

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 西洋文化のなかで,アッサンブラージュという手段は,古い歴史を持っている。といってもそれは美術ではなく宗教的な慣習という領域においてである。そのもっとも近い先例は,中世に起源をもつキリスト教の聖遺物匣(こう・はこ)である。ある聖人がこの世に残したもの・・・骨とか衣の切れ端,頭髪の房あるいは木のかけらなど・・・が,ガラスを組み立てた容器に収められ,熟視瞑想に供じられた。これらのささやかな事物が,信者の心のなかに神聖なるもののイメージを呼び起こし,この世と彼岸とを連想作用によってひとつに結びつけたのである視覚芸術の領域ではアッサンブラージュの概念は,ありふれた事物に謎めいた神秘の影を与えた17世紀オランダ絵画とともに始まった。パイプ,ゴブレット,途中まで皮をむいたオレンジ,懐中時計などが,(時には頭蓋骨と共に)この世の生のはかなさを見る者に思い出させるための静物画のテーマとして集められた。

中世飾り

 コラージュの始まりは,ヴィクトリア朝時代に流行った遊びにあった。招待状や舞踏会のプログラム,押し花や頭髪の房,切符の半券,お祝いのカード,新聞,雑誌の切り抜きなど,物珍しい品々の寄せ集めによってスクラップブックを一杯にするというものである。こうすることで,過去の香りが現在のなかに持ち込まれ,未来へと保存されたのである。文学の分野でのコーネルのヒーローのひとり,ハンス・クリスティアン・アンデルセンは,すでに1850年代からコラージュを実行し始めており,つまりピカソ,ブラックシュヴィッタースなどの成果を50年以上も昔に先取りしていたのである。

ハンス・クリスチャン・アンデルセン22177002404

 コーネルのボックスは,いずれも19世紀に起源をもついくつかの形式の複合体である。1800年代に,ミニチュア版の劇場は,当たりをとった芝居につきものの土産品として,大量に作られた。登場人物や舞台装置を描いたシートが,家で切り抜いて組み立てる模型の舞台として売られたのである。多くの場合,音楽作品にまつわる品を封じ込めたガラス張りの箱もしばしば人気があった。これには,バレリーナやヴォードヴィルの役者のような人物や,踊る猿や歌う小鳥などを組み込まれていた。   

 1900年前後に登場し始めたコインを入れると作動する機械がさまざまに発達したことによって,動きという発想がさらに一歩推し進められた。こうした多様なギャンブル用,販売用,娯楽用の装置は,少しずつ鉄道の駅や地下鉄や駄菓子屋や一般商店やレストランに入り込んでいった。

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 このような品々をコーネルがどれほど驚異的なやり方で自らの創造に採り込んだかは,本展全体に現れている。たとえば,ミニチュアの劇場は,≪タマラ・トゥマノヴァのための白鳥の湖》や≪パオロとフランチェスカ》の形式のよりどころとなっている。一方,遊戯用機械の自動人形たちは,《食料貯蔵室のバレエ》(上図)の原型をなしている。また〈ルネサンス・シリーズ〉(下図左右)は,自動販売機やスロットマシーンとの関連を示す要素を含んでいる。

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 デュシャンが「見出されたオブジェ」の使用を正当づけたのに対して,マックス・エルンストは,見出されたイメージの可能性を見事に開拓した。ジュリアン・レヴィのギャラリーに通ううちに,コーネルは,エルンストのコラージュ小説『百頭女』(上図)を発見した。ピカソ,ブラックが初めて用いたコラージュ技法を採用しながら,コーネルは,雑誌,書物,新聞の図版を切りとり,それらを新しい脈絡に配置し直すことによって,既製のイメージを自分のものに取り込んでいた。この2人の師の足跡に従いながら,コーネルは,コラージュとアッサンプラージュとを,きわめて創造的なやり方で結びつけたのである。彼は携帯用の薬箱から,ろうそく入れの箱,スーツケース,ピル・ケース,ミニチュアの劇場,コインを入れて動かす機械装置に至るまで,さまざまな機能と装飾性をもったあらゆる種類の箱の歴史から多くを得ていた。1936年には,コーネルは最初の重要な箱作品である《シャボン玉セット≫(コネティカット州ハートフォード,ウォズワース美術館蔵)を制作,美術の世界に新しい種類の「詩的な劇場」を導入していた。コーネルが全く正当に主張していたように,彼のこの形式の使用はいかなる特定の影響をも直ちに超越するものだった。

 シュルレアリスムは様式ではなく,ある精神の状態,あり方であった。実際,コーネルの関心を惹きつけたのは,シュルレアリスムのもっている「心的な」性格,単なる外観を乗り越えた,その挑発的な現実についての理念であった。コーネルと同じく,デュシャンも自分のことを,美術の「網膜的な側面」を乗り越えて,もっと深遠な何かに到達する道を探している形而上学者であると考えていた。ある作品に特徴を与える観念の美にくらべれば,美術作品そのものは副次的なものとなった。デュシャンの好奇心をかきたてたチェスは,盤上の駒の美的な魅力ではなく,眼には見ることのできない,瞬間ごとに消えてなくなるキングやクイーンの動きであった。

 コーネルは,自分自身の作品が「事物を思考に変え,物質的な感覚の対象を精神的な観念に置きかえる」というクリスチャン・サイエンスの形而上学についての自分なりの理解を表す完壁な手段であると思っていた。それゆえ,問題は箱のなかの個々の要素ではなく,それらと我々が互いに働きかけるときに作動し始める対話であった。大切なのは美術作品そのものよりも,それが刺激して生み出す思考のプロセスであった。もし,物の引きおこす連想作用を利用して,箱の魔術がうまく働きだせば,我々は,メアリー・ベイカー・エディが「願われた事物の実体,見えざる事物の明証」と述べたところのものに到達することとなる。

 コーネルが何度かギャラリーに訪ねてきた後,ジュリアン・レヴィは,この内気な若者から自作のコラージュを何点か見せられて驚愕することとなった。本展にも,その時の題名のない作品が出品されている。コーネルのコラージュは,マックス・エルンストの作品,および「手術台の上でのミシンとコウモリ傘の偶然の出会いのように美しい」というロートレアモンの有名なイメージ(それをシュルレアリスムは継承した)と,形式の上で明らかな関連をもっている。コーネルは,布地取引に関わっていた頃に見慣れていた工業用のミシンを,ロマンティックで謎めいた魅力をもつ「一品生産」を生み出す魔法使いの道具へと変貌させた

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 また同様に,1930年代のコーネルの≪名前のない物語−マックス・エルンストには,エルンストの『百頭女』がもつ黙示録的なヴィジョンに対抗した,コラージュによる解毒剤である傾いた熱気球,難破船,火災などが,不滅のシンボルーろうそく,蝶,白鳥,ツバメーによって対比され,我々の思念を別の,より次元の高い現実に向けて導く。実のところ,コーネルは,自分の作品がエルンストのものと間違えられはしないかと心配していた。レヴィに対し,コーネルはこう言ったという。 

 私はクリスチャン・サイエンスの信者です。もちろん,あなたは御存知ないでしょうけれど……。エルンストは私を動揺させます,まるで何か妖術みたいに……。でも結局は実在しないのかも知れないですね,彼のコラージュは。というのも,悪魔は存在しないからでもエディ夫人をよく理解すれば,わかるはずです……。私がやろうとしていることはすべて,白魔術なのです。

 シュルレアリスムはコーネルがアーティストになる形式上の手段を与えたし,1932年29歳の彼の最初の個展(レヴィ・ギャラリー)が成立するための背景も提供した。にもかかわらず,彼は一度も自分をシュルレアリスム運動の一員と考えたことはなかった。1936年33歳にコーネルは,アルフレツド・バー・ジュニアに次のように書き送っている。「〔私は〕シュルレアリストたちの無意識や夢の理論を共有したことはなかった。私は正式のシュルレアリスムのメンバーであったことはなく,またシュルレアリスムはこれまで実際に展開してきた以上により健全な可能性をもっていると信じている」。暴力的な悪夢のようなイメージをまきちらすパンドラの箱という,シュルレアリストたちの心の見方に,コーネルはぞっとしていた。そこでは,神聖なものが通俗的なものに移され,ポルノグラフィに近い性的イメージが氾濫していた。コーネルの作品は,全般的に言って,シュルレアリスムよりもその源泉の19世紀,20世紀文学(とりわけマラルメ,ボードレール,ランボー,ベルトラン,そしてシュルレアリスムという言葉を発明したアポリネール)の方に関心を抱いていた存在を明らかにしている。美術から「網膜的な側面」を取り除きたいとするデュシャンの欲望は,シュルレアリスムのなかでコーネルがみつけた「より健全な可能性」のひとつだった。デュシャンの目標は,エディ夫人が語っていた,物質的な支えなしに表され受け取られる,思考としての芸術,つまり神聖な精神としての芸術と一致していた。

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 病気は実践師の「心の」治療で直せるという信仰のせいで,クリスチャン・サイエンスは創設以来,物議をかもしてきた。その信者が普通の薬を使おうとしないことは,時として悲惨な結果を招き,生死に関わることさえあった。このことについての否定的な報道も大きく作用して,教団は外部の人からは不信の目で見られるようになった。ベテイ・ベントンの回想によれば,1925年22歳,コーネルは,クリスチャン・サイエンスへの改宗をホイットマン社の他の従業員には秘密にしておいた方がよいと言われたことがあった。彼の母親も,宗教的ではあったが,クリスチャン・サイエンスには反感を抱いていた。こうした要因は,コーネルの信仰の芸術表現にも明らかに影響を及ぼした。初期キリスト教美術と同じように,コーネルの図像も,慎重な二面的性格をそなえていた。それは,世俗的,精神的両方のレベルで十分に機能している。また,こうした在り方において,それは,エディ夫人の著作に常にみられる俗と聖の間の比喩的な相関性と類似していた。

 40年以上の期間にわたって制作されたコーネルの作品を考える場合に,彼の時間についての考え方が現実的というより形而上的なものであることを理解するのは有益である。永遠は,彼の作品のなかで最も重要なモティーフである。瞬間が特別なものであるということが,その原理を証明する際に彼の支えになった。コーネルが自分の作品のなかにつかまえたいと常々語っていたのは,(時間でも日でも月でも年でもなく)舜間だった。彼が繰り返し行なったのは,今という瞬間の本質をつかみ,過去のなかにそれに対応するものを見出し,両者の対話を作り出すことだった。この直観的な並置の結果は,コーネルが「永劫回帰」と呼んだところのもの,流れゆく時間と死と衰退の否定であった。1954年にコーネルは,自分自身の体験の意味を問いながら,ニコライ・ベルジャーエフからの次のような引用を写し取っている。 

 この行為[回想]の価値は,どの程度にそれが時間を超越し,「実存的」な時間,つまり永遠とひとつになるかにかかっている。死に至る時の流れを克服することこそ,わが生涯の主要な関心であった。

 この考えはクリスチャン・サイエンスの形而上学と一致している。日記の1952年9月17日の項に,コーネルは「時空と美についての人間の感性のかげり」に言及して,メアリー・ベイカー・エディの著作から次の文章を書き抜いている。

 「七日間」と呼ばれる無限の数は,決して時のカレンダーに従って数えられることはない。この日々は,死すべき運命のものたちが消滅するとともに現れるであろう。そして永遠性,生命の新しさを開示するであろう。そこでは,誤った感覚はすべて消え去り,思考は神聖なる永遠の計算を受け入れる。

 制作年のないものに制作年を与え,題名のないものに題名を与えようとする美術史家たちのやみがたい欲望を警戒していたコーネルは,作品の多くを制作年も題名も書き込まない状態で残した。さらにややこしいことに,彼は,異なるシリーズに属する複数の箱を同時に並行して手がけることが多かったし,その制作はしばしば長期間にわたった。構想を暖めている期間は,場合によって1週間から20年までさまざまだった。コーネルにとって,ボックスなりコラージュなりが完成したことを告げる,内からわき起こる「恩寵(おんちょう主君や神のめぐみ・いつくしみ。)の一撃」は,つねに奇跡であった。その奇跡の決して訪れないときも多かった。そのようなときコーネルは,「未だ生まれざる」と自ら形容した多くの作品をながめ,途方に暮れた。

 1932年29歳,コーネルがジュリアン・レヴイ・ギャラリーでデビューしたとき,彼は芸術技法という面では初心者だったかも知れないが,彼の作品が視覚的な形を与えるべき大きな構想は「すでに出来上がって」いた。コーネル作品の年代的な展開は,発想よりも形式の問題である。1931年28歳から39年36歳までの初期の作品は,まるで姿の見えない指挿者が謎に包まれた演(だ)し物を上演しようとしているような印象を与える。我々は,多種多様な技のある役者たちがオーディションを受けに来ているのを見る。アクロバットもいるし,綱渡りの芸人もいる。天球に高く飛翔するカシオペアとアンドロメダのチーム,熱気球乗り,蜂,蝶,小鳥たちもいる。コーネルは,プディング,飛行機,シャボン玉,空飛ぶコルセットといった,とんでもない組み合せの小道具も集めた。我々は,この演し物では上昇が重要になっていくだろうと結論づける。役者たちはさまざまな舞台で稽古をしている・・・釣鐘型のガラスの器の下で,標本やピル・ボックスの内側で,シェーカー教徒の箱のなかで(その場合,我々は彼らをのぞき穴を通して見なくてはならない),また,劇場のプロセニアム・アーチにも似た陳列ケースのなかで。

 1940年37歳・代に入るとコーネルは,選ばれた数人に配役をしぼり込んだ。小鳥にバレリーナ,映画の世界のヒロインたち,ルネサンスの子供たち,そして文学の世界の人物たちである。芝居が始まると,物語の筋道はきわめて特殊なものになる。50年代・47歳になると,天上に住む御者座やアンドロメダ座の人物たちが袖から登場してくる。彼らは,以前なら小鳥やバレリーナやメディチ家の子供たちが演じていた役まわりを演じているようにみえる。まるで以前の役者たちは,これらの役の代役に過ぎなかったように。ほとんどそれと気づかぬうちに,20年という期間を通じて,「演出」は微妙な変化を遂げた。出発点では,堅い大地は,宮殿や月の光に照らされたテラス,烏龍,浜辺,深い森などの形として,至るところに見えていた。ところが50年代までに舞台の形式は単純化され,書き割りは微妙な転調に過ぎなくなった。烏籠の内部はホテルの部屋へと変容し,そのホテルの部屋もやがて天体観測所へと変わった。我々はもはや大地の上にいるのではなく,天上の世界にいる外界に星たちを見下ろしながら。これがコーネルの言う「白魔術」だった。彼の子供時代のヒーロー,ハリー・フーディーニのように,彼は,我々を牢破りの名人に変えた重力のくびきは消滅する。御者座(ぎょしゃ座(馭者座、Auriga)は、北天の星座でトレミーの48星座の1つ。α星は、全天21の1等星の1つであり、カペラと呼ばれる)に導かれて,我々は上方へと浮上し,「青い半島に向かって」(下図),崇高へと近づく。

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 今回の回顧展は,コーネルの作品を彼自身が見たようなやり方で,つまり年代的にではなくテーマ的に見る機会を与えてくれる。ある人々はコーネルを詩人とみなしている。事実,彼はそうだった。コーネルほど巧みに言葉をイメージに,イメージを言葉に移し変えてみせたアーティストは他にいない。彼は,美術と言語,目と精神の関係の大家なのだ。彼は,ダンテ,アレクサンドル・デュマ,ベルナルダン・ド・サン=ピエール,シャルル・ペロー,ハンス・クリスティアン・アンデルセングリム兄弟,アラン=フルニエ,トマス・デ・タインシーの伝統に属する,偉大な物語の語り部であった。作品のなかで,彼はこれらの人々に賛辞を捧げた。また,コーネルの礼讃者のなかには,オクタビオ・パス,ジョン・アシェベリー,メアリアン・ムーア,スーザン・ソンタグ,ドナルド・バーセルミなど当代第一級の文筆家たちもいた。 

 コーネルはまた,音楽家でもあった。彼は心のなかで,自分の作品の小鳥たちは,失われた古典的な図像体系のことばだけではなく,ベル・カント・オペラのすべてのレパートリーを歌うことができるという考えを抱いていた。彼の〈シャボン玉セット〉の中のコーディアル・グラスは,モーツアルトの『グラスハーモニカ(ガラス楽器)のためのアダージョ』を楽々と演奏できる。コーネルは,映像作家としての時間と運動の感覚を,転がる球や振動するコイルや砂の泉や連続的なイメージによって美術へと導入した。彼はまた,創造的なバレエの振付師であった。バランチンは象のためのダンスを手がけた。コーネルは,ロブスターのための踊りを創作した(下図)。

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 さまざまな分野の活動からそのトリックを美術へと組み込んだコーネルは,つまり総合の大家であった。彼に匹敵する唯一の人物は,同様のことを舞踊において行なったディアギレフであった。コーネルはジョルジオ・デ・キリコの作品を賞賛していたが,そのキリコと同じように,コーネルは形而上学的な芝居の厳しい演出者であった。主題は一貫していた。作品は,単一の主題によるヴァリエーションをなし,さらにそのヴァリエーションをめぐるヴァリアント(勇敢」や、「勇気」)が展開された。

 メアリー・ベイカー・エディにならって,コーネルも世界をみつめ,まずその世界に対する自分の感情を表すために,次にはその条件を改善するために,メタファー(言語においては、物事のある側面を より具体的なイメージを喚起する言葉で置き換え簡潔に表現する機能をもつ・隠喩・暗喩)を用いることを考えた。彼は,他のメタファーの大家たちも捜し求めた。それがアーティストであれ,音楽家,詩人,科学者,文学者であれ,はたまた映画作家であれ商業的なイラストレーター,写真家,ダンサー,サーカスの芸人であれ,一向に構わなかった。彼はまた,自分の信条とは一致しない一大思想家の理念・・・なかんずくデカルト・・・と格闘した。彼は常に「友情ある和解」を求めていた。

 コーネルの仕事は,彼の信念を表明するものであったが,そのための証拠は世界のかなたから寄せ集めたものであった。彼は,神聖なものと俗なるものが共に流れ出る場所の上方に,蜘蜂(クモ)の巣のようにか細い縄を張り巡らせた。彼の(そしてメアリー・ベイカー・エディの)ヒーローのひとりは,19世紀の綱渡り芸人で,ナイアガラの滝の上を横断したチャールズ・プロンディンであった。そしてコーネルも,その形而上学的な釣り合い棒を用いながら,彼自身のナイアガラ爆布の上をなめらかに横断したのだ。〈シャボン玉セット〉の金属棒上を転がるコルクの球のように。

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 ■シャボン玉セット

 コーネルは,アーティストとしてデビューして4年目に当たる1936年33歳に,最初の〈シャボン玉セット〉を制作した。この連作(pls,9,11,12,34-39)は,1936年から亡くなる1972年までの彼の全作品のうちで,最も重要で唯一の恒常的なテーマであった。それは彼の形而上学の(究極的に証明すべきもの)であり,コーネルがアルキメデスからアインシュタインに至る科学史を把握し直す枠組であった。これらのボックスは,存在の大いなる目標のヴィジョンであり,彼はクリスチャン・サイエンスの形而上学を芸術に翻訳したのだ

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 今回の展覧会に出品されたどの〈シャボン玉セット〉を見ても,初めは風景に向かって開かれた窓のような印象を受けるだろう。まき散らされた砂,流木,海草の切れ端など海を暗示するものが収められていることも多い。コーネルは,水辺に歩いて行ける所で生涯を過ごした。オランダ人の彼の先祖は,海を旅する男たちであった。また,大昔の天文学者が描いた図で出来た天空の世界もあった。コーネルは星を観測するのが好きだった。彼は星たちの名前とその神話的な意味を知っていた。スケールの感覚に注目してみよう。普通我々から何千光年も離れているものが,非常に近くにある。夜空を見上げるとき,我々は針穴のような光の点を見ている。しかし我々がコーネルのボックスの天球を見るときには,星々や天体は我々の上に,等身大の大きさで存在している。竜座や大熊座といった星座は,動物園でみる動物たちと同じ大きさなのだ月はもはや我々が目をこらして見る小さな球ではない。それは隣の家のように近い。古代人の想像力と(コーネルを魅了した)現代の宇宙探検の現実とは,ひとつになっている。我々は,世界から「つばをはけば届く距離」の内側にいる。世界はもはやほんの数フィート離れているだけだ。コーネルの「白魔術」がそこには作用している。驚嘆をもう一度味わってみたいと思うとき,我々は論理や理性を風のなかに投げ捨てる。我々は,かつてコーネルがそうであり,ある意味でつねにそうあり続けたように,子供になる。我々は琵琶湖の大橋を雨の日に渡っている。それはコーネルが早い時期に多くを学んだ広重によって有名になった風景だ。橋はとても長く,背後は雨のかなたに見えなくなる。しかし,我々の眼前には別の眺めが開けてゆく。あの眺めももうひとつの眺めも,ともに真実ではないだろうか 

広重雨

 分銅や輪やコルク球が金属のレールの上に寄り添っているのを見ると,コーネルが子供時代に携帯用電話に夢中になっていたことを思い出す。分銅には,ときに太陽や星や樫の葉や幼い子供の絵がコラージュされている。携帯用電話の回線は,銀河系宇宙の星間通信の音でうなりを上げている。 

シャボン玉セット〉には何らかの容器が入っていることが多い。普通はコーディアル・グラスか陶製のパイプだが,いずれにしても我々の空間的な転位の感覚をいっそう強めている。キリスト教において,杯とは聖霊との交感にいざなうものであり,人間と神との結びつきを象徴していた。この連作を〈シャボン玉セット〉と呼ぶことによって,コーネルは,石けん水の入ったコップに金属の輪をひたし,シャボン玉を吹くという日常的な楽しみも思い出させてくれる。それは,もののはかなさの至上のメタファーである。太陽はシャボン玉である。地球もシャボン玉である。月もシャボン玉。金属のレールを転がるコルク球もシャボン玉。このシャボン玉たちがはじけるとき,それらはどこへ行ってしまうのだろう。それらが捕らえた「ただひとたびの」美は,どこへ行ってしまうのだろう。クリスチャン・サイエンスの形而上学においてと同様,コーネル作品においても,球は「人類を支配する魂・・・真実,生命,愛のシンボル」である太陽と「始まりも終わりもない永遠不滅のひとつのあり方である地球の両方を表す。シャボン玉ははじけ,物理的な事物は消滅し,精神は物質的な支えのないヴィジョンを抱く。そのとき我々は,うつろいの形而上学に関するクリスチャン・サイエンス的な実験を完了しているのである。

 もしコーネルのボックスやコラージュを,さまざまな方角からひとつの場所に向かう一連の旅と考えるなら,〈シャボン玉セット〉は最終的な跳躍点である。ここにおいて,最もつつましい大地と海のシンボルによって表された我々の世界はスケールのお陰で天上の世界と完全に一体化する貝殻や砂やグラスや釘やパイプといった細部・・・惑星としての地球の日常的な表徴・・・は,我々の多くには未知で神秘の領域である天上界とやすやすと合体する。潮の流れは一様ならず,貿易風も変化する。科学者は,先人が誤っていたことを証明する新発見をし,季節が過ぎ行くにつれて星座も別の星座と入れかわる。だが,つねに潮も月も太陽も星々も季節も,存在し続けるであろう。

 コーネルが少年時代に無限という概念に恐怖を抱いたことを思い出すならば,クリスチャン・サイエンスによる心理的な治癒が,芸術家としての彼の発展にとって決定的な意義をもったことは明白となる。砂の上を地平線に向かって,さらにかなたに向かって歩むとき,我々は借り物の勇気に頼るのである。海を旅する者たちにエディ夫人は次のような祝福を与える。「地上の遍歴者よ,汝が家は天上なり。見知らぬ者よ,汝は神の客人なり」と。同じようにしてコーネルは,見慣れぬ領域において我々が快適であるように努めてくれる。〈シャボン玉セット〉には,彼の他の作品よりも,より純化された空気が備わっている。それらのなかでは現世的な要素は孤立しており,それぞれの物が偉大さを暗示し,すぐれて象徴的な強さを与えられている。我々は,永遠への扉口に立っているのである。