■子供たち

31■子供たち

 コーネルは結婚せず,子供もいなかった。にもかかわらず,彼のボックスやコラージュには,過去の美術品から借用した子供たちのイメージが至るところに出現する。それらの典拠となった作品は,イタリア,フランス,ドイツ,スペイン,初期アメリカの各絵画,フランスの装飾彫刻,草創期および同時代の写真など,きわめて広範囲に及んでいる。コーネルは,自らの想像力が育んだ新しい環境に子供たちを置くことで,彼らをわが子となすことができたのである。ある時など彼は,従兄弟が持っていたフランス製の可愛らしい素焼の人形を「誘拐」したことさえあった。「マリーちゃん(bebe Marie)」の愛称で知られるこの「家宝」は,今ではニューヨーク近代美術館所蔵のコーネルの美しい箱に収まっている。彼は,また子供たちに向けた展覧会を生涯に3度までも催している。さらに,大人が相手では滅多に自作を論じようとしなかった彼が,子供からの質問には喜んで答えたものだった。妹のベティは語っている。「彼は理想のなかの子供たちを愛していました。子供たちは,彼を生涯で最も幸福だった時代へ連れ帰ってくれました・…‥。彼が本当に幸せでいられた最後の時代へと」。

 従来,コーネルにとって弟のロバートの存在がいわば息子代わりであり,ボックス作品それ自体の発想源もそこにあるといわれてきたのだが,これは誤解である。確かにコーネルはロバートに献身的だった。ロバートの勇気に深く心を動かされ,ときにはその純粋な人生観を制作上の契機にさえしている。彼はロバートと共にクリスチャン・サイエンスを学び,1965年62歳のその死後,このような弟を与え賜うたことを神に感謝している。コーネルはロバートを励まして,デッサンへの興味をかき立てた(彼は妹ベティのコラージュ制作も手助けしている)。兄と弟は自然界の小さなドラマのなかに共通の喜びを見出し,ロバートのデッサンに登場する動物たちに空想的な名前を付けている(例えばウサギの「鼻つまみ王子」,ハツカネズミの「鼠の王様」など)。コーネルは弟の死後,そのスケッチに基づく一連のコラージュ(下左右)を制作し,1966年63歳のロバート追悼のための展覧会に出品している。

70 71

 しかしながら,ベティの言によれば,「ジョーはロバートのために箱を作ったわけではありません。彼が箱を作ったのは,それがやむにやまれぬ心情の表れだったからです」。ロバートはコーネルにとっていわば目の肥えた観客だった。弟はベティにこう語っている。「ジョー兄さんは僕にロブスター・下図を撫でさせてくれた。僕がとても良い子だったからね」。

75

 コーネルの最も手のこんだ「子供の肖像」は,旅行鞄形式の作品≪クリスタル・ケージ(ベレニスの肖像)》(上図)のうちに見出すことができよう。彼は早くも1934年31歳に,この計画のための材料を入手し始めている。42年39歳デュシャンのいわゆる鞄の箱』の数点の制作に際し彼はその助手を務めた。恐らくこれが契機となって,コーネルは自分のベレニス・プロジェクトもケースに入れることを思いつき,またその複製版の刊行を志すのだが,結局実現には至らなかった。ただし,抜粋された形では43年にシュルレアリスムの雑誌『ヴュー(View)』に掲載されている。

 ベレニスは,事実と虚構がないまぜになった「夢の子供」である。コーネルがこの子がどんな少女であるかを絵画や写真,散文によってではなく,鞄(かばん)のなかに収められた物たちの思いもよらぬアッサンブラージュを通して描き出した絵葉書,新聞の切り抜き,写真,地図,書物の抜粋,鉄道の切符,リボンの切れ端,ベレニスに関する自分のメモや日記の記述,そして手のこんだコラージュによるベレニスの肖像。少女の個性はすぐには見えてこない。じわじわとその姿を私たちの眼前に現すのだ。実は1967年64歳に至るまでの長期にわたり,この作品に手を入れ続けたコーネル自身にとっても同様だった。

 コーネルにとって,ベレニスとは永遠の若さの象徴だった。彼は,形而上的な科学者として彼女を描き出した。鞄に収められた彼のメモによれば,彼女の目指していたのは「神とその素晴らしさを見出し・・・あらゆる美の源をよりよく理解すること」だった。彼はその目的から,ベレニスに観測所(鞄の裏蓋に貼られた写真)を設けてやり,そこで種々の実験を行わせたのである。「シャントルーのパゴダ」下図左・と呼ばれるこの塔は,ルイ15世の大臣ショワズール公爵のために1778年に築造された建物である。コーネルは自分でも,鞄に収められた1枚の紙片において,カリグラムの形でパゴダを築き上げた(カリグラムとはフランスの詩人アポリネールが創始した絵画=詩。詩句がその内容にふさわしい形に並べられていた)下図右。

シャントル43

 コーネルのカリグラム(上図右)では,パゴダは不思議なことに,逆向きの望遠鏡(レンズを地面に向けた形)へと変容している。これはつまり,「地面に耳を付ける(having an ear totheground)=社会の動きに通じている」という成句の視覚的な語呂あわせなのだ。そこでは元のパゴダの分厚い石積みの壁は消え,代わって19世紀の水晶宮(クリスタル・パレス)を思わせる繊細な格子状の構造が姿を現すもコーネルは,かつて最新の芸術的・科学的成果を展示する目的で欧米各地に建てられたこの種のホールを愛してやまなかった。

■WEB映像 

http://www.pem.org/sites/cornell/imagination.html

 カリグラムの望遠鏡=水晶の烏龍は,ベレニスがこれから行うであろう発見の数々によって組み上げられている。そしてそれは,コーネル自身の霊感源でもある人類の偉業を列挙したカタログの一種として読むこともできる。例えばダンスの領域で彼が選んだのはフランチェスカ(ファニー)・チェリート,マリー・タリオーニ,かレロツタ・グリージ,ルシル・グラーン,ファニー・エルスラー,アンナ・パヴロヴァ,タマラ・トゥマノヴァ,ルネ(ジジ)・ジャンメール,クレオ・ド・メロードといった顔ぶれである。

70

 音楽では,作曲家のモーツアルト,ウェーバー,オッフェンバック,ヨハン・シュトラウス,歌手のマリア・マリブラン,グィリア・グリージ,ラケル・メレルら。美術の分野でベレニスが「発見」するのは,ゴッツオリ,カルパッチオ,ジョルジョーネ,レオナルド・ダ・ヴインチ,フェルメール,ワトー,アングル,スーラ,J・J・グランヴィルといった顔ぶれ。彼女が読むことになるのはアンデルセン,エドガー・アラン・ポー,ランボー,ボードレール,スウイフトの書物である。科学者としては,アルキメデス,ケプラー,ベンジャミン・フランクリン,フレネル,リンネの名が挙げられている。ベレニスが教室で過ごすことになる時間は,明らかにごくわずかである。彼女はコーネル同様,野外研究に精を出し,地上と天上の驚異を探りあてることになる。それは,道化師と象バレリーナに等しく敬意を抱く者によって作り上げられた,学問的,美的エリート意識とはまったく無縁な教育課程である。

 ベレニスに与えられたコースをたどるだけで,人は指先すら動かすことなく,時空を移動する旅人となることができる。コーネルの外国好きはその作品からも明らかなのだが,それだけに彼がただの一度も国外に出たことがないと知ったなら,いささか驚きであろう。子供時代に何度か遠出した機会とフィリップス・アカデミー在学中を除けば,彼はニューヨーク周辺以外での生活体験をほとんど味わったことがない。彼はいわば「安楽椅子に坐った旅行者」であり,マンハッタンを訪れ,その民族的多様性に触れるだけで,世界周遊の切符を手に入れたも同然だった。彼の外国についての詳細な知識は,間接的な資料・・・書物,新聞,ラジオ,テレビ,レコード,雑誌,映画,写真などから得られたものばかりなのだ。

71

 コーネルのコラージュによるベレニスの肖像(上図)で中心をなすモティーフは,彼の多くの作品と同様,「上昇」である。烏たち,バレリーナ,シャボン玉,風船,綱渡り芸人,彼女の頭上を飛び交う天使たち。至るところで行なわれる天空飛行。天使のひとりがベレニスの頭に載せた巻紙には,ラテン語で”ASCENDET(上昇する)”の文字が記され,彼女が天に昇ることを暗示している。コーネルは実にやすやすと,ベレニスをひとつの世界から別の世界へと移行させる。彼女こそは,メアリー・ベイカー・エディの言うところのクリスチャン・サイエンスの天文学者の理想像にほかならない。ベレニスはもはや星を見上げるのでなく,「星々からさらに遠く宇宙を眺める」のである。

91 92888990

 さて,子供たちに捧げられた箱作品のうち最も重要なのは,〈ルネサンス・シリーズ〉であろう。このグループの作品は,イタリア・ルネサンス期の画家たちの手になる肖像画に基づいている。同グループのうち,彼自身「家族」と呼んでいたものに,〈メディチ・シリーズ〉がある。彼がそもそも最初にインスピレーションを受けたのは,雑誌『アート・ニューズ』(1939年10月14日号)に掲載されたソフォニズバ・アングィッソーラ(1539頃-1629)の作品《剣と手袋を持ち,犬を連れた少年の肖像》の複製図版であった。

ソフォニズバ・アングィッソーラ

 そこではこれが恐らくコジモ1世(トスカーナ大公)の息子ピエロ・デ・メディチの肖像であろうと記されていた。コーネルが〈メディチ家の王子〉の第1作に着手したのは1939年36歳のことである。彼はこれに≪オブジェ(メディチ・スロット・マシーン)》と題名を付け,箱の裏に絵の原作者と上述した主題とを記した紙片を貼り付けた。本展に出品されている2点の〈メディチ家の王子〉のシリーズは,1950年代に作られたそのヴァリアント(「変化」「変異」)である。

 1944年41歳頃,コーネルのこれもスロットマシーンの体裁をとった作品のなかに,2人目のメディチ家の子供が登場する。彼女は画家プロンジーノ(1503-1572)が描いた王女マリア・デ・メディチ(ピエロの姉妹)である

ブロンズィーノによる肖像画。 102

 いくつもの区画に仕切られた≪無題(メディチ家の王女)》(上図右)は,本来のキャビネット型の≪メディチ家の王女≫をもとにした50年代のヴァリアントである。1951年に,コーネルはメディチ家の3人目,ロレンツオ豪華公の絵姿と取り組み始めた。ベノッツォ・ゴッツォリ(1421~1497)の描いた《東方三博士の旅》のなかに描かれた肖像である。この〈メディチ・シリーズ〉は,フェデリーコ・バロツチ(1535-1612)の描く幼児の姿をあしらった,1967年のコラージュ≪ウルビーノ最後の王子≫でもってしめくくられる。

90

 メディチ家の貴族的な世界と好一対をなすかのように,コーネルはより低い身分の2人の若者を仲間入りさせている。まず,1942年彼はピントゥリッキオ(1454-1513)の描いた少年像に基づくシリーズを開始する。≪無題(ピントゥリッキオの少年)》(上図)はその1950年代のヴァリアントである。歴史家の説によれば,マリア・デ・メディチは宮廷の小姓(こしょう・昔、身分の高い人のそばに仕えた少年)と恋におちてしまい,父公は娘の将来が台無しになったことに立腹し,16歳の彼女を毒殺してしまったという。ピントゥリッキオに基づくもうひとつの箱作品では,コーネルは中央の少年の周囲にマリアの肖像を5つ並べている。このように,コーネルの劇場ではピントゥリッキオの少年がロミオ,マリアがジュリエットという配役で,悲恋劇が演じられている。コーネルはこの種の物語に惚れ込んでいた。ダンテの物語る不幸な恋人たち,パオロとフランチェスカを題材としたシリーズ(pl.5)は,コーネルが自らの形而上的な浄化作用を,文学に対してのみならず,死によって別れ別れになった自分の両親の姿に対しても及ぼそうとしたことを示す,もうひとつの作例となっている

7418

 この作品は,ナイアックの自宅の居間に坐った両親を撮した,いかにも情愛に満ち溢れた家族写真(fig.2)と対をなすものである。一連の〈ルネサンス・ボックス〉の最後を飾るのは,カラヴァッジオ(1571-1610)が描いた〔と考えられた〕少年の肖像である。コーネルはこのイメージを1950年に用い始めたが,今回の出品作≪無題(カラヴァッジオの少年)》(下図)は恐らく1953年頃の作品と思われる。

91

 これらの作品が我々に提示するのは,あまりに早く大人になってしまった,悲しげな顔立ちの若者の姿である。ピエロ・デ・メディチは,嫉妬にかられて妻を殺害したと伝えられる。そのため彼はスペインヘ追放された。マリアはといえば,16歳の若さで実の父に毒殺されたことがほぼ確実であるカラヴァッジオは決闘の末,男を殺害したかどで投獄され,釈放後間もなく39歳で死んだ。一連の箱のなかの子供たちは,コーネルの理想の少女ベレニスの正反対なのである。元になった肖像画の心理描写の強さ,憂鬱な内省的気分は,これらのボックスにほの暗さと複雑な味わいをもたらし,コーネルの造形作品中で異例なものとしている。

 もちろん,コーネルは早く大人になりすぎた子供の境遇について知り抜いていた。わずか14歳で経験した父の死により,彼はそうした子供たちの仲間入りをしていたのである。しかしながら,1917年14歳以前の「黄金の子供時代」の記憶は,成人後の信仰心に支えられて,彼に終生変わらぬ力を与えた。コーネルはこれら〈ルネサンス・ボックス〉で,自らの内なる忌まわしい想念と直面している。彼は人生が必ずしも甘くも輝かしくもないことを熟知していた。忘れてならないのは,このシリーズがヨーロッパの子供たちが悲惨な境遇にあった第二次大戦のさなかに開始された事実だろう。

 これらの作品は,コーネルの仕事の原罪的な側面を端的に表している。その構造的形態はルネサンス建築の床面のプランを模倣しており,しばしば箱の内側にはその子供が実際に生活した場所にちなんだベデカー旅行案内の地図が貼られている。一方,動かせる部品類・・・ぜんまい,ボール,ビー玉,ジャックス〔骨の形をしたお手玉の一種〕,積み木など・・・は,スロットマシンを暗示するものである。このシリーズや,60年代のコラージュ連作〈ペニー・アーケイド〉(下作品)に見られるスロットマシンのモティーフはコーネルの幼年期への幸福な連想を誘う。

125

 彼は1914年に保養地アズベリー・パーク(ニュー・ジャージー州)の仮設遊歩道で,また母に連れられて訪れたこユーヨークのタイムズ・スクェアで,スロット・マシンに小銭を投げ入れた楽しい思い出をもっていたのである。

 コーネルは大人になってからも,このペニー・アーケイドのわくわくするような喜びを忘れずに保ち続け,単純な行為に熱中した。 

 あちらからこちらへと動き回り,映画芸術からの借り物である光と音の機械魔術のシンフォニーとともに・・・子供時代へ・・・幻想へ・・・ニューヨークの街路を駆け抜けて・・・南国の空を通って・・・そして・・・景品を手に入れて,玉はようやく受け皿にとどまる……。

 彼が〈ルネサンス・ボックス〉の子供たちの周囲に配したのは,「命の糧になる」景品の数々一方位磁石,ビー玉,よき母の像(ボッティチェッリから借用),恋人(カラヴァッジオの絵),パルナッソスの情景(マンテーニヤから借用)などである。彼はその運命を変えてやることで,家に背いたこの若きプレイヤーたち〔箱のなかの子供たちのこと〕に味方してやっているのだ。

crosses-illustration-set-different-kind-isolated-white-background-each-cross-entitled-35551219

 コーネルは箱の前面のガラスに,キリスト教の象徴であり,クリスチャン・サイエンスの全刊行物にも印されている縦長のラテン十字を描き込んだ。箱のなかにはさらに,ビー玉,射的のターゲット,ゴムボールなど,丸い形が存在する。球形はコーネルの視覚語法のなかに頻出する形であり,地球,月,大洋,真鍮の輪,〈サンド・ボックス〉やその他の作品では刻まれた円形として登場する。球形はまた,メアリー・ベイカー・エディが神による原罪を語る際に用いた象徴でもある。「球形。始まりも終わりもない永遠不滅のひとつのあり方。」。

 コーネルは若者に手を差し延べたいという強い願望を終生抱いていた。そうした思いが最も痛切な形で現れたのが,ジョイス・ハンターという10代の少女との関係である。彼が1962年59歳にこの少女に初めて出会ったとき,彼女はマンハッタンのカフェテリアでウェイトレスをしていた。2人の付き合いは,彼女がジューク・ボックスにコインを入れて,コーネルのために一曲聴かせたことで始まった。女優を目指して苦労しているジョイスを助けようと,コーネルは彼女を助手として雇った。ところが64年9月,彼女はコーネルの箱9点を盗み出し,それを売ろうとしたところを逮捕されたのだ。彼は大きなショックを受けたが,ジョイスを訴えることはせず,保釈してやった。この年の12月,少女はニューヨーク市内で殺害されてしまう。コーネルはひどく取り乱しながらも,埋葬の手続きを行なった。彼はジョイスをすさんだ環境の犠牲者・殉教者と見なしていた。死んでしまって,彼女は彼のミューズ(ギリシア神話で、知的活動をつかさどる九人の女神)になった。コーネルは,彼がついに彼女自身のなかから救い出せなかったひとりの少女に「ティナ」という愛称を付け,このティナに一連のコラージュ作品と一本の映画を捧げている。翌年,弟のロバートが世を去ったとき,コーネルは天国にいる2人を結び付けて考えていた。「空の上の黄金蜂ホテルで,君とロバートとは,それぞれ雲の両端を持って,何世紀もの間,引っ張りあっているのだろうか?」

■バレエ

 1934年31歳から40年37歳まで,コーネルはテキスタイル・デザイナーとして,「食べていくのがやっとの給料で」マンハッタンのトラフアーゲン・テキスタイル工房で働いた。そうした彼にとって,1932年から43年にかけて,ジュリアン・レヴィ・ギャラリーと関わりをもった体験は,いわば「第二の人生」とでも呼ぶべきものであり,当時最もソフィスティケイト(教養のある)された芸術との接触をもたらしてくれた。彼はロバート・マザウェル,マッタ,マックス・エルンスト,ドロテア・タニング,マルセル・デュシャン,パーヴュル・チェリチェフらと交遊を結び,『ヴュー』誌と『ダンス・インデックス』誌の寄稿者となった。コーネル自身,そのロマンティック・バレエへの関心は,シュルレアリスムの「より抒情的で優雅な部分」に身を置くことで目覚めた,と記している。レヴィの扱っていた画家にはピカソ,マティス,ブラック,グリス,デ・キリコ,チェリチェフが含まれ,彼らはみな1920年代にセルゲイ・ディアギレフのロシア・バレエ団のための舞台装置および(または)衣装を手がけていたのだった。レヴィはジャン・コクトーの作品も展示していた。コクトーは1912年以来,このバレエ団のためにデザインや台本を提供してきた人物である。1933年30歳コーネルの作品にダンスが初めて登場する年であるが,それはレヴイがセルジュ・リファールの蒐集したロシア・バレエ団関係のオリジナル資料の展覧会を催した年である。この展覧会には,チェリチェフのデザインになる宝石を散りばめた衣装や舞台幕も出品された。後者は40年代にコーネルがバレエやその他のテーマを取り上げる際に,顕著な影響となって現れてくる(pls.5,7)。7674

 同じこの時期,アメリカではダンス全般が隆盛を見ることになる。1933年30歳にモンテカルロ・ロシア・バレエ団がニューヨークで定期興行を開始し,35年にはジョージ・バランチンのアメリカン・バレエ・カンパニーが旗揚げしている。バレエについての新刊書も相次ぎ,そのなかには舞踊史や過去の大バレリーナの伝記も含まれていた。シリル・W・ポ−モントやアンドレ・レヴィンソンといった人々の著作は,今なお研究者の基本文献とされている。1939年36歳にはニューヨーク近代美術館にダンス関係資料部門が開設され,ほどなくコーネルにとって恰好の利用場所となった。こうした諸々の事情が重なって,コーネルのバレエにちなんだ箱やコラージュの豊富な図像表現が生み出されることになる

Marie-taglioni-in-zephire

 レヴィンソンが著したマリー・タリオーニ(ロマンティック・バレエのプリマ・バレリーナ)の伝記と,テオフィル・ゴーティエによる当時の目撃証言のお陰で,コーネルは自分がこだわりをもつ主題に対して親近感を抱くことができた。ゴーティエを読むことで,彼は偉大なパントマイム芸人ドビュローの存在やジュラール・ド・ネルヴァルの作品を発見した。ボーモントの著書『バレエ集成』は,『オンディーヌ』『ジゼル』『ラ・シルフィード』『眠れる森の美女』を含む古今のバレエのシナリオを詳しく掲載しており,そこで知った物語を下敷きに,コーネルはそれらのテーマに基づいたボックスやコラージュを制作したのであるボーモントはまた,『同時代の石版画に見るロマンティック・バレエ』(サシヤヴュレル・シットウェルとの共著)を著した。この書物はロマンティック・バレエの記念版画(スーヴェニア・プリント)の複製を収録しており,それらは,コーネルが往年の偉大なプリマ・バレリーナたち・・・タリオーニ,グリージ,チェリート,グラーン,エルスラーに捧げたオマージュで作品中で用いられることになる。

 40年代37歳に入ると,コーネルはいくつかの特殊なテーマに専念するようになり,自作を形而上的な創作の舞台として用い始めた。この10年間とそれに続く一時期,バレエは彼の重要な主題となった。1940年,次いで49年に,彼はダンスに関連した作品の展覧会を催している。

75

 1942年39歳,コーネルは〈食料貯蔵室のバレエ〉と題するシリーズ作品を手がけた。これらは第二次大戦の野蛮な出来事に対抗すべく,政治諷刺を用いた点で,彼の仕事のなかでユニークなものとなっている。≪食料貯蔵室のバレエ(ジャック・オッフェンバックに)》(上図)が拠りどころとしたのは,オッフェンバックのオペラ・ブック『人参の王様』(1872年),J.Jプランヴィルの描いた幻想的なカリカチュア≪蟹の踊り≫(1851年),ジョージ・バランテンがチュチュを着けた象のために振り付けたバレエ『サーカス・ポルカ』(1942年),この3つである。

Part Two: Circus Polka, Curupira, Dance of the Knights, and Serenade from OBT-PDX on Vimeo.

 1872年,オッフェンバックは普仏戦争後のプロイセン軍によるフランス占領を諷刺して,侵入者たちを人参王に率いられた野菜の軍隊として表した。やがて歴史は繰り返し,1942年にはドイツによるフランス占領がなされた(コーネルは反戦的心情の持ち主であるとともに,熱烈なフランス好きでもあった)≪食料貯蔵室のバレエ》において,コーネルはオッフェンバックの野菜軍団をロブスターの群れに代えた。ロブスターは後ろ向きに歩くその習性から,臆病の象徴とされている動物である。ロマンティック・バレエの華やかな衣装を身につけたロブスターは,英雄気取りのプロイセンの人参王と同様に笑うべき存在なのだ。ロブスターたちは全く気付いていないが,周囲に下がったスプーンによって,コーネルは彼らを料理して皿に載せることで,フランスを解放しようと目論んでいるのである。

MarieTaglioni

 ロマンティック・バレエは1832年のマリー・タリオーニによる『ラ・シルフィード』初演をもって始まり,1850年まで栄えたといってよい。そのロマンティックな台本が好んで採り上げるのは,異なった2つの世界・・・死すべき人間の住む地上界(terra firma)と,水の精,風の精,木の精,ペリ,ウィリら精霊の住処である地下の国・・・の関わりである。死すべき肉体に繋(つな)がれた男と,かりそめに人間の姿をまとった不死の女。両者の狂おしくも成就されざる恋をめぐって,ドラマチックな緊張感が漂う。

99

 ロマンティック・バレエの踊り手は,非物質的世界からの訪問者を表している。コーネルによる『ラ・シルフィード』を演じるルシル・グラーンの肖像(上図)は,その完壁な一例である。薄綿のチュチュを付けたバレリーナは,月明かりの林の空き地のなかに溶け込み,海の泡沫のなかに姿を消し,あるいはたちどころに雲に姿を変ずることができる。わずかな変更を加えるだけで(コーネルはそれを辞さなかった),彼女はエディ夫人が語るユートピア的世界観,すなわち「完全なる神(Mind)によって描かれた不死の男女,つまり霊的感覚のモデルたちは,あらゆる物質的感覚を超越した素晴らしさの概念の反映である」といった世界観の完壁なメタファーたりうる。

 バレリーナたちは,コーネル自身の女性に対する感情のメタファーでもあり,捌(は)け口でもあった。彼は1948年45歳に,ダンサーたちとの体験が自分に「同情と安らぎ,ときに感傷的で涙もろくもある切実な感情」を生じさせたと述懐している。50年代47歳に入って,彼は「(自分の)人生を豊かにしてくれたロマンティックな女性たち」のことや,どぎまぎせずに見ていられる『ジゼル』のラヴ・シーンの好ましさについて語っている。1940年37歳のこと,友人のチェリチェフの紹介で,彼はタマラ・トゥマノヴァ(下写真)に出会う。彼女はコロネル・ド・バジルのオリジナル・ロシア・バレエ団に所属する21歳のプリマだった。コーネルは数人の若いバレリーナと親交を結ぶことになるが,その最初が彼女だった(ほかにティリー・ロッシュ,パトリシア・マクプライド,アレグラ・ケントらがいる)。

tamara-toumanova-1947

 コーネルのトゥマノヴァとの関係はプラトニックなものだったが,彼は自分の人生に心ときめくような美人が出現したことにすっかり動揺してしまった。彼女は生きたバレリーナとして初めてコーネルの作品に登場し,その主題は数多くのボックス(pl.7)やコラージュ(pl.43)に姿を見せることになる。2人が出会ったとき,コーネルはまだ37歳だったのだが,トウマノヴァの回想によれば,

115 76 

 彼はもうかなりの年齢で,めったに微笑んだりせず,声にして笑うことは皆無だったわね。飾りけのない,でも恐ろしく無口な人。私たちの会話ときたら,それこそ奇妙な代物だった。私の怪しげな英語と彼の内気な英語。すべてが尻切れとんぼなの。楽屋に来てしっくり収まる人も,邪魔なだけの人もいるけれど,彼は感じのいい部類だった。そこにいるような,いないような。あまり喋らないけれど,それだけに,口を開くときは大切に感じられたわ彼は楽屋の三面鏡に映った私の姿にうっとり見とれてしまっていて,立ったまま,さまざまな視点から私を眺めていたわ。ときには,やって来るなり私の前にちっちゃなキューピッドの人形を置いたりした。それが彼と私との結びつきの印になったというわけ。 

 最初のときから感じていたけど,チェリチェフが言ってたとおり,彼は偉大なアーティストだったわ。でも人間としては変人ね。フラッシングのお宅へ伺ってお茶を御馳走になったときのことを覚えているわ。テーブルが準備されていて,でもそれがお湯とティー・バッグだけなの。彼はひどく神経質になっていたわ。そんなに神経質になるなって,チェリチェフから諭されてた。そんな風ではみんなが落ち着けないからって。 

 彼は私の生活のなかで宗教が一番大切なことを知っていたし,舞台に出る前に私が十字を切るのも見ていたわ。最初の頃,私のことを死ぬほど怖がっていたけれど,じきに私の個性に惚れこんでしまったみたい。私のことは生きた人間というより,夢みたいな,血や肉をもたない精霊のような存在とでも思っていたのね。私が踊ると,チェリートやタリオーニやグリージがみな彼の前に生き返ってくる,何だかそんな気がしたものよ。

 コーネルがトゥマノヴァに最も密接に結び付けていたバレエは,『白鳥の湖』だった(上図右)。彼は1941年夏に彼女がこれを踊るのを観ている。1895年の作品ではあるが,この作品は,ロマンテイク・バレエの精神を継承したものである。バレエは城,魔法の湖,深い森といったドイツ・ロマン派風のおとぎ話的な雰囲気のなか,邪悪な魔術師の手で白鳥に変えられた美しい乙女と,彼女に恋した王子とのストーリーを物語っている。最後には魔術師の呪縛が解け,美しい白鳥はついに人間の姿となって蘇るのである。

 コーネルの1946年43歳の作品≪タマラ・トウマノヴァのための白鳥の湖》を見ると,トウマノヴァは,白鳥として初めて王子の前に姿を現わしている。彼女は,コーネルによってガラスの海に変えられた湖の上に,堂々と浮かんでいる。白鳥の周りを,羽が額縁のように取り囲んでいるが,そのうちの何枚かはコーネルがこっそりトゥマノヴァの頭飾りから抜いてきたものであり,何枚かはウルワースの店で買ってきたものである。白鳥と背景には模造宝石が散りばめられ,天空のような雰囲気を譲し出している。トゥマノヴァ自身は,この作品を彼女のみならず,アンナ・パヴロヴァに対する捧げ物であると強く感じている。パヴロヴァは,コーネルが自分のヒロインとした最初のバレリーナであり,に姿を変えた女性を演じた『瀕死の白鳥』で知られている。

 ロマンティック・バレエのなかに,コーネルは地上の天国を見出した。ロマンティック・バレエの踊り手は,トゥ・シューズを居いてすっくと立ち,見えないワイヤー装置に吊られて星々の高みに舞い上がり,飛翔術を超地上的なレヴェルにまで引き上げたのである。彼女の演じる役柄は,神話・妖精物語・民話などを含んだ普遍的な想像力に端を発しており,彼女自身に歴史的な連続性を与えている。時を超越した精霊として文明史を旅しながら,彼女はさまざまに姿を変える。水の精オンディーヌを例にとれば,彼女はオデュッセウスにとって魔女キルケ(下図左右)であり,ハンス・クリスティアン・アンデルセンにとっては人魚姫,詩人アロイジウス・ベルトランにとっては雨粒,そしてコーネルにとって,それはファニー・チュリート(下図)だったのだ。

119 126 127

 美術・文学・音楽・バレエ・映画・演劇,いずれにおいても,彼女がミューズを演ずるたびごとに,永遠の生命が保証されるのである。過ぎ去り行く一瞬のうちに永遠が示されるというこの奇跡的な現象を,コーネルは「束の間の形而上学(Metaphysiqued’Ephemera)」と呼んでいた。彼のバレエの箱とコラージュは,エディ夫人の言葉「人生は永遠である。われわれはそれを発見し,それについて立証しなければならない」を肯定するものである。

 立証への鍵は,過去と現在とを結びつけ,それによって死と衰退の観念を否定することにある。これによって,コーネルが「並行する生」という考えに魅せられていたことの説明がつく。彼がほんのわずか想像の翼を拡げるだけで,19世紀の偉大なダンサーたちの魂が20世紀に生きて蘇ってくる・・・バレエは彼にそのような発見の機会を与えてくれた。1940年37歳のこと,コーネルはバレエ『ララ・ルーク』のヒロインとして東洋風の装束をまとったファニー・チェリートの幻が,マンハッタンの倉庫で窓閉めをする制服姿の守衛たちの姿とすり代わる光景を思い描くことができた。トゥマノヴァはカルロツタ・グリージの再来であり,マルコヴァとアレグラ・ケントはマリー・タリオーニの魂を受け継いでいる。コーネルはこれを「永劫回帰(えいごうかいき・経験が一回限り繰り返されるという世界観ではなく、超人的な意思によってある瞬間とまったく同じ瞬間を次々に、永劫的に繰り返すことを確立するという思想である)」と呼んだ。この体験は,熱心な研究によってさらに助長され,彼にとってはきわめてリアルなものとなった。信念の発端となるものは,ちょっとした視線,名前の一致,本のなかでの言及など,ごく些細なものばかりである。このようにして,地下鉄で見かけた深い眼の色をした少女はチェリートになった。場末のカウンターの少女はモーツアルトの『魔笛』のケルビーノ,母と一緒の少女はベレニス,評論家スーザン・ソンタグはベル・カントの歌姫ヘンリエツタ・ゾンタークの生まれ変わり,といった具合なのだ。

 1845年42歳,ロマンティック・バレエに前代未聞の事件が起こった。舞踊界の四大ライヴァルであるタリオーニ,チェリート,グリージ,グラーンが一堂に会し,バレエ『パ・ド・カトル』の舞台に勢揃いしたのである。1941年38歳頃,コーネルは過去におけるこの稀有な瞬間を記念した小さな≪思い出の小箱スーヴュニア・ケース)》をつくり,そのなかに,4人のダンサーが最後の挨拶を送っているところを描いたA.E.シャロン作の記念石版画の小さな複製を収めた。偉大なダンサーたちに観客が投げた花束にちなんで,コーネルは箱のガラス蓋の下にドライ・フラワーの花弁を散りばめている。

マリシア・マルコヴァ

 1936年,マリシア・マルコヴァとアントン・ドーリンが『パ・ド・カトル』を復活上演し,マルコヴァがタリオーニの役を踊ったことがあった。コーネルはその公演をニューヨークで観ている。1947年44歳,彼はもうひとつの小さな思い出の小箱≪ロマンティック・バレエ讃(風の精アリシア・マルコヴァに)≫(下図)を制作した,この作品で,彼は『パ・ド・カトル』のみならず「ジゼル』や『レ・シルフィード』を踊って,ロマンティック・バレエの精神を現代にもたらしたマルコヴァの役割に対し,捧げ物をしたのである。

77

 コーネルはこのマルコヴァの箱を,彼がタリオーニにちなんだ色と考えた濃紺のビロードで覆っている。淡いピンク色をした内側には真珠,砂金,1枚の羽が収められている。蓋の内側の銘シルフィード文には「彼女の渦巻く衣装の裾に降り積もった花束一風の精,アリシア・マルコヴァのために」とある。鳥の羽は,有翼のシルフィードを演ずるマルコヴァの浮遊するような軽やかさを想起させる。コーネルにとって,彼女の軽やかさは1832年にこの役を初演したタリオーニからじかに受け継いだもののように感じられた。そしてそれは,マルコヴァの踊りをタリオーニになぞられたエドウィン・ダンピーの文章をも想起させる。「恐らく世界中の誰にも,彼女がやったように完璧に〈飛ぶ〉ことはできまい。『パ・ド・カトル』で,彼女は落ち着き払って宙に腰掛けた。まるで上品なお茶会にでもいるように,そしてそのお茶会では誰しも空中に坐るのが当然といった風に」。

ファニー・チェリート

 コーネルがその作品のなかでオマージュを捧げた五大ロマンティック・バレリーナのうちで,最も彼の心を捉えたのはナポリ出身のファニー・チェリートだったようだ。1817年生まれのチェリートは1940年37歳から60年代57歳に至るまでコーネルのミューズであり続けた(上図)。石版画に描かれた彼女の肖像は,甘く優しい愛くるしさを伝えている。舞台では,その活力と素早い足運びによって,生気の化身となった。コーネルはハンス・クリスティアン・アンデルセンが彼女について記した文章を愛しても)た。「若さというべきもの,それを私をチェリートのなかに見出した!それは比類なく美しい何かだった。舞台におけるツバメの飛翔,プシュケの戯れだった」。

 古版画から,埃まみれの書物から,忘れられて久しいバレエからチェリートを取り戻すこと。それがコーネルの四半世紀に及ぶひとりきりの「十字軍」だった。1956年53歳彼は書いている。 

 チェリートのような人が葬られ,そして無数に散りばめられた出会いのうちに蘇るというそのこと・・・つねに驚嘆すべきこと・・・における無上の魅惑……RB[ロマンティック・バレエ]の伝説(そしてその舞台裏),それはいかなる伝記にもまして興味をかきたてるものだ。

118  ニューヨークの街路を歩きながら,コーネルは自分自身を19世紀のロマン主義詩人・小説家のジェラール・ド・ネルヴァル(上図)に結び付けていた。ネルヴァルはその夢のなかで,自分の愛する何人もの女性を蘇らせた。それも,彼の日々の現実では決して起こり得ないような具合に。コーネルの場合も,古めかしい資料のなかにしか存在しないはずのチェリートが,生身の人間として彼の日常生活のなかに出現するという驚異が繰り返されたのである。

 コーネルがチェリートと最初に出会ったのは1940年37歳,ニューヨーク四番街の古本の露店でのことだった。そこで彼はヨーゼフ・クリーフーバー作の肖像画を見つけたのだ。彼の探索は,ほどなく彼女の最も名高い役柄がバレエ『オンディーヌ,またはラ・ナイアード』(1843年)におけるそれであることを突き止める。そこで彼女は,若い船乗りのもとにさまざまな変装をして現れ,彼を誘惑しようとする不死身の海の妖精として登場するのだ。幸運な偶然から,その1年前コーネルの友人チェリチェフは,バレエと同じ主題によるジャン・ジロドゥーの芝居『オンディーヌ(波の女)』の舞台装置をデザインしたばかりだった。チェリートとの出会いに対するコーネルの反応は凄まじい。 

 これは驚くべき発見なのだが,花も恥らうファニー・チェリートがこのわれわれの大都会を,全く気づかれずに,注目されずに歩いていたのだ。彼女のお気に入りのバレエ,あの移り気な『オンディーヌ』と同様,彼女はまたも人間の扮装をしているらしい……。バレリーナの姿が前へ歩んでいくさまは,周囲の摩天楼と同様,完全に現代のものだった……。風に翻るようなイメージは,自由に解き放たれた踊り子,蘇ったオンディーヌの泉さながら……。彼女が思い起こさせるのは永遠の若さだ。

 コーネルはチェリートを讃えて,数多くのボックスとコラージュを手がけているが,そのなかには「思い出の小箱」や通常の箱作品も含まれる。1940年から60年代初めにかけて,彼はチェリートの旅行鞄による肖像を制作したが,その一部は1945年42歳にニューヨーク近代美術館で,そしてまた1956年53歳にはウィッテンボーン・ギャラリーで展示された。コーネルはこの≪オンディーヌの肖像》を「非公認の伝記」と称していた。彼はチェリートを,ナポリからニューヨークへ,19世紀から20世紀へと時空を超えて行き来させていたので,この作品のことも「詩に似た,一種のイメージ探求」に擬していたものだ。

119

 コーネルのチェリートへの最後の捧げ物のひとつに,1958・55歳−62年59歳頃に制作したコラージュ≪ロマンティック・バレエ讃》(上図)がある。シリーズ中の一点ながら,これは彼のコラージュとして最も美しいもののひとつに数えられよう。50年代までに,コーネルは視覚的メタファーと詩的連鎖の大家となっていた。ここに登場するコーヒー・ポットは,当時の雑誌やニューヨークの地下鉄の駅で見かけたシュラフト社のアイスクリームの広告からの借用である。その広告自体が,輝かしい変身的発想にほかならない。アイスクリームの容器が,メーカーが売り出したフレーバーの種類に応じて,例えばパイナップル,苺のバスケット,コーヒー・ポット(コーネルがコラージュで用いたもの)に姿を変えるというわけである。シュラフト社は,マンハッタンにカフェテラスのチェーン店も経営していた。コーネルがチェリートの幻を見るのは,しばしばこの種の情景のなか,一切れのパイや熱いコーヒーや紅茶を前にしたひとときだった。

 コーネルはこのコラージュの裏面に,異例なことに3つの献辞を書き込んでいる。まずファニー・チェリートに,そして2人のフランスの文学者,フィロクセーヌ・ボワイエとテオフイル・ゴーティエに対してである。この作品と記銘とは,コーネルが連想作用を最も手の込んだやり方で用いた好例にほかならない。1848年,ボワイエは『変身』と題した詩を書いたが,これをコーネルは彼自身のチェリート体験の先駆けと解釈した。詩のなかで,ボワイエは永遠の愛を見出すことに絶望を感じている。薔薇の花はあまりにはかなく,星はあまりに遠すぎるというのである。彼は変身のための時は過ぎたと述べる。彼の信念は希望の一枝を掲げた天使によって再び蘇る。そして現世とは,天使の甘美な輝きに照らされた絶対世界のおぼろげな反映に過ぎないと悟る−この結論こそはコーネル自身の形而上的な信念と合致するものである。

 1851年48歳,ボワイエは『黄金の歌』と題する詩のなかで,チェリートと同様にナポリのサン・カルロ劇場で踊るバレリーナたちのことを称賛している。ナポリはチェリートの故郷でもあった。コラージュの裏面の銘文を書くにあたって,コーネルはこの微妙な一致のなかに,ボワイエとチェリートを結ぷ「ナポリ訊(1’accentnapolitaine)を感じ取った。もうひとりの文学者ゴーティエは,ロマン主義時代の重要なバレエ『ジゼル』や『バクレット』の台本作者である。後者はチェリートを主役に,その日にも鮮やかな変装ぶりをみせるというバレエであり,20年釆コーネルが見ていた彼女の変身の幻に似つかわしいものであった(コーネルは彼女のための鞄《オンディーヌの肖像》のなかに,このバレエの台本を収めている)。

 薔薇の花飾りは,≪ロマンティック・バレエ讃≫の中心的なイメージになっている。バレエ『オンディーヌ』のなかで,チェリートは母に一輪の薔薇を手渡し,自分は喜んで不死身である自分を捨て,この薔薇のように,人間である恋人のために死ぬと宣言する。こうして陸に上がった彼女は体力を使い尽くし,「萎れた薔薇の踊り」を踊るのである。すでに述べたように,コーネルはマンハッタンの倉庫の窓に『ララ・ルーク』に扮したチェリートの幻影を見るのだが,このバレエは『ラホールの薔薇』とも題されていた。こうして,薔薇はチェリートの「永遠の若さ」の象徴となった。

 コーヒー・ポットは,シャボン玉のパイプや魔法のランプと同様,束の間の美しさのイメージを蒸気として吹き上げる。ボワイエの語る希望の小枝を持つ天使は,チェリートへのコーネルからの薔薇の花束の捧げ物を手渡す2人の風の精(シルフィード)たちに姿を変えている。彼女たちは変身の時がいまだに過ぎ去っていないことを示している。

100

 コーヒー・ポットには「HOTEL FONTAINE(泉ホテル)」のラベルが貼られているが,これはコーネルの初期のチェリートについての記述,「解き放たれた踊り子,蘇ったオンディーヌの泉」を示唆している。なんの変哲もないコーヒー・ポットが,〈砂の泉〉シリーズ(上図)と同様に「永劫回帰」と永遠の生の象徴となっているのである。これは永遠の若さの泉なのだ

 コーヒー・ポットの上には,50年代以降のコーネル作品ではお馴染みの鳩がとまっている。クリスチャン・サイエンスでは,鳩は「神聖な科学,純粋と平和,希望と信仰の象徴」とされる。コーネルはコラージュの図像を刻み込んだ円で囲っているが,すでに述べたように,クリスチャン・サイエンスの信者にとって,この形は「始まりも終わりもない……永遠不滅のひとつのあり方」だった。

81

 シャボン玉のなかに封じ込められたシャボン玉によって,コーネルは「人や場所,物などを,経験の歓喜のうちに変貌」させようと努めたのである。これはエディ夫人の宇宙観,「物質的感覚にとって,大地は現象であるが,精神的感覚にとってそれは理念の複合体である」の視覚的な証明にほかならない

■鳥小屋

 コーネルはジェラール・ド・ネルヴァルと同様,この世界を,来るべき不死の世界に備えて,さまざまな大テーマが演じられる舞台と見ていた。コーネルの演技者は,ローレン・バコールやグレタ・ガルボ,マリリン・モンローといった著名なスターであることも,普通の男女であることも,またときに兎,猫,雄鶏,ロブスター,犬といった「性格俳優」の総出演である場合もある。とりわけ,鳥たちはコーネルの専属劇団で特別な地位を占める存在である。1941年38歳,ペットショップの窓をたまたま覗き込んで以来,コーネルはフクロウ,オウム,インコ,カナリヤ,ツバメ,鳩を作品に用いだした。彼は熱心なバード・ウォッチャーであった。ユートピア・パークウェイの自宅の小さな裏庭には,マルメロの木,花ざかりの薔薇,鳥の水浴び場,木製の安楽椅子,鳥の給餌台があり,芸術家の大切なオアシスだった(下写真)。

999

ユートピア・パークウェイの自宅の庭のジョゼフ・コーネル,1969年

 ここで,彼は自分がドイツの黒森や,アラン=フルニュの小説『モーヌの大将(さすらいの青春)』註㍊)の魔法の森にいると想像することができた。この木陰の隠れ家で,彼は訪れる鳥たちに餌をやり,その驚くべき行動を日記に書きとめるのを日々の楽しみとしていた。1949年46歳,彼は鳥のボックスばかりを集めた展覧会を催し,これを〈鳥小屋〉と名付けている。

 コーネルの仕事のなかで鳥の主題が発展していくのに長い年月がかかっているため,彼の仕事全体を特徴づける形式的な変化をそこに認めることができる。本展出品作で最も早い〈鳥小屋〉は,1948年頃45歳の作品≪無題(オウムと蝶の住まい)≫(下図)である

82 ペット・ショップ的な雰囲気は,この2種の異国の生きものを分かつ金網によって,かなり明確に再現されている。金網の右はとまり木に乗ったオウム,左は蝶の標本が飛んでいる姿である。しかしながら,コーネルは烏龍や虫籠といった設定をはっきり読み取れなくするような微妙な要素をそこに組み込んでいる。蝶は金網をすり抜けて,密林のなかを自由に飛び回っているようだし,オウムには捕虫網が与えられ,籠から出て蝶を捕らえることが可能であることを示している。ペット・ショップのショーウインドウないし籠は,空想の飛翔のための競技場と化しているのである。

83

 コーネルの〈鳥小屋〉は閉ざれた構造物ではなく,臨時の休憩所である。彼は1949年46歳の時点で,籠の扉が完全に開け放たれ,異国の生きものたちを未知の領域へと解き放つような一連のボックスに着手した時このことを明確に示した。≪見棄てられた止まり木》(上図)は,その端的な例である。ここに表現された空白は純粋なもので,ほとんど厳粛さに近づいており,後年の〈ホテル〉や〈鳩小屋〉シリーズの簡潔な抽象性を予告している。このボックスは人が考えるほど空虚ではない。作品のそばを通ると,ぜんまいが生きもののように震え,観る者の動作を箱のなかに導き入れる。箱の底には色の付いた羽が散らばっていて,このボックスの先住者のことを想起させるとともに,彼らの行方についてもあれこれ考えさせる。1966年の日記のなかで,コーネルはその答えを明かしている。 

 4羽のカモメの神秘的なシルエットが素晴らしく優美にさまよい・・・一瞬の飛翔場面は神秘的に消え去る・・・だがそれは神秘的というより前兆・・・「存在」のたしかな前兆,永遠なる美の前兆なのだ。 

 アンデルセン同様,コーネルは最もつつましい者のなかに秘められた力が蘇り,語り始め,観る者の心を動かすことを理解していた。彼がかつて語ったように,「どんなものでも生きている間には役に立つ・・・物が物に対して何を語りかけるか,いかにして知ることができよう」。コーネルの劇場では,重要な動作はボックスのなかの特定の部品に集中しているのではない。それは部品と部品の間の空間に拡散しているものだ。そこに生じる会話は,観衆も演技者として加わったときに,その心のなかで沈黙のうちに生じるのである。≪見棄てられた止まり木》は,存在が不在によって際立つという点で,物質的な外観のはかなさをわれわれに思い知らせてくれる。

 コーネルの芸術家としてのキャリアは,30年代のおびただしいコラージュ作品とともに開始される。1937年34歳,彼は初めて雑誌のレイアウト(『ハーバーズ・バザー』からの仕事)をフリーとして請け負うが,これが契機となって,常勤の仕事からは次第に解放されていく。40年代,彼が真剣に取り組んだコラージュの大半は,雑誌『ヴュー』と『ダンス・インデックス』のための仕事として生み出された。1955年52歳を過ぎてより自由で内発的な仕事を追求するようになって,彼は再びコラージュに取り組んだ。1960年57歳以後は,コラージュが彼の仕事の中心的な媒体となる。

7980 81

 30年代と40年代を通してコラージュはコーネル作品を形づくる副次的な存在にとどまっており,主に箱作品(上三点)文章や地図,文様のある紙を,壁紙のように貼り付けたものに限定されていたしかしながら,早くも1941年38歳にコーネルは,箱の内側にポスターでも貼るような具合にコラージュする試みを折にふれて行っている。1950年47歳までに彼は蒐集した古いガイドブックの挿絵を〈鳥小屋〉に導入し始める同年の作品≪無題(北ホテル)》(下図)はその一例である。

84

 ここでコーネルの鳥たちは世界周遊の旅行者となった。帰国した彼らは,宿泊したホテルの思い出の品や旅先の景色などを,小屋の壁にコラージュする。ときには「旅の思い出」の品々を将来の楽しみのため「旅行用引き出し」にしまい込まれる。コーネルの鳥に対する見方はいたって擬人的なものだった。彼らは隠れ家の止まり木にじっととどまることもあれば,「放浪の気分」に誘われて自由に飛び回ることもある。その視線はいつも際立って鋭い。鳥たちは,コーネル自身が本で読んだり,想像のなかで夢見た場所や出来事を実地に体験してきたとすら思えてくる。

 コーネルは鳥たちのことを音楽やダンスと結びつけていた。物心ついて以来の熱烈なオペラ・フアンとして,彼は一羽のモノマネドリ(モツキンバード)を想定した。この鳥は歌劇場のペットで,ベル・カントの歌姫グィリア・グリージの話し相手でもあったことから,オペラの台本を丸暗記していたというのである。コーネルはまた,モーツアルトがムクドリをペットにしていた事実を発見した(下図)

124

 彼はその作品に登場させた多くのフクロウの一羽を,ファニー・チェリートの「後見人」として提供している。彼はルネ・ジャンメールの飼っていた「彼女と共にどこへでも旅する」というカナリアにコラージュを捧げている

 彼はさらに,文明の古文書学者・考古学者としての鳥たちを空想した1956年53,彼はT・S・ホワイトの『動物寓話集』の脚註を写し取っている。そこでは南アフリカの探検家が1羽のオウムと出会う話が物語られている。「滅びた言葉をひとり知っている尊いオウム。その言葉を話した唯一のインディアン部族(アトゥレス族)はみな死に絶えた」。このオウムのように,コーネルはきわめて独特の方法で,偉大な芸術家や科学者の道連れとして世界を旅し,われわれの図像的遺産を忘却から救い出したのである。

93

 1952年49歳,コーネルはフラッシングの図書館でアメリカの女性詩人エミリー・ディッキンソン(1830−1886)の伝記を2冊借り出した。こうして熱心な探索の時期が始まり,それはやがて彼女の生涯と詩作を讃える少数の作品群(上図)として結実することになる。コーネルはデイツキンソンのうちに,自分と多くの点で共通するひとりの女性を見出している。両者は生涯結婚せず,家族とともに暮らした。ほとんど独学で学び,日々の狭い生活範囲を脱するべく読書した。2人とも遠く旅に出ることはなかったが,遥か彼方への旅のイメージが作品の隅々にまで浸透している。人付き合いを避けたことで,コーネルもデイツキンソンも内気な変わり者と見られたが,どちらも少数の選ばれた友人とは親密に付き合うことを願い,そのように努めた。両者とも,家族が寝静まった間に働く夜型人間だった。デイツキンソンはマサチューセッツ州アマーストの2階の寝室で,孤独のうちに1700篇もの詩を書いた。一方,コーネルは地下の小部屋で,しばしば明け方まで制作に励んだ2人とも気分の浮き沈みが激しく,昼が夜になるように,躁状態のあとには必ず鬱状態がやって来た。作品のなかで絶えず神と対話していた点も,2人は共通している。そして何よりも,コーネルとデイツキンソンは,何げないものを壮大なヴィジョンへの手がかりとなし得るロマンティックな感受性を共有していたのである。

Black-white_photograph_of_Emily_Dickinson2

 コーネルのデイツキンソンとの自己同一化は,1952年10月の日記の記述に早くも感じられる。 

 台所のコンロの前で・・・エミリー・デイツキンソンの「部屋」について,パターソンの書物の明白な重要性について考える・・・そしてその詩……「向かい合うのにもってこいの私の本たちの世界に」・・・彼女の辛い隠遁生活にとって,それらが何を意味したか・・・同様の逃避についての手掛かりを,晴れた朝の四番街で,本のなかに見出した。E.D.の異国の宮殿,「イタリア,その他」。古い版画や写真,書物,ベデカー旅行案内との度重なる出会)による心ときめぐ周遊旅行」についても,私自身の感情のなかに同様の手掛かりはあるのかト・・・10月6日月曜日,ベートーヴェンの弦楽四重奏曲第15番のアダージョが,その静かな抒情で地下の「部屋」を満たしたように,E.D.も自然から心の安らぎを得て,無数の時を満たしていたに違いない。

 コーネルの作品タイトル<青い半島に向かって(エミリー・デイツキンソンへ)〉は,その信仰が仕事の妨げになることへの恐れを彼女が表明した,1862年頃の詩に関連している。冒頭で彼女はその寝室の作業場を「神の秘蹟をこめるには/何フィートも小さすぎる」と描写している。詩の終わりは次のような2連でしめくくられる。 

望むことに私は慣れていない  希望の奇麗な行進が  踏み込んで来て  苦難に定められた場を冒漬するかもしれない  

目的の地を望みながら  朽ちるほうがたやすいかもしれない  私の青い半島を自分のものにするより  歓びのうちに絶える方がたやすいかもしれない

 ≪青い半島に向かって》は,ルネサンス・ボックス〉同様,デイツキンソン作品への周到な解釈による,傷ついた生に対するコーネルの芸術的療法にほかならない。デイツキンソンは「希望は翼をもったもの/心の中にとまっている」と記している。コーネルはデイツキンソンの「部屋」を烏籠として表した。床には彼女が詩を書きつけた紙片が散乱している。もう片側は開かれた窓,もう片側は開いたままの籠の扉である。これは神の王国に近づくことを夢想した彼女の詩,「私の背後には永遠が/私の前方には不滅がたゆたう/私はそのはぎまの限られた時期」)を思い出させる。門は狭く,道は細いが,コーネルはデイツキンソンが青い半島へと飛び立つことのできる窓を開けたのである。


■蜜蜂ホテル(Hotel:L’Abeille)

 コーネルの母親が好んで引用した聖書の言葉に「わたしはあなたの高き家,とこしえのみすまいを建てた」という一節があった。しかし,コーネルの箱を,ソロモン王が建てた高貴な神殿と比較することはできないだろう。彼の劇場,烏龍,鳩小屋ホテルは質素なつくりをしたものだ。にもかかわらず,それらは,神の顕現を追求するために生涯を捧げたひとりの芸術家のさまざまな表現を宿している。芸術家として,クリスチャン・サイエンスの信者が目指す究極の目的は,物質的なるものを用いずに神の教えを説くことである。それゆえ,コーネルの築き上げた建物は,そのなかの住人たちと同様,つぎつぎに姿を変えてゆく,はかないものとなった。役者がつかの間の芝居を演ずる舞台,鳥が止まっては飛び去って行く鳥小屋や鳩小屋,そして星が夜毎に運行するクリスタル製の天体観測所などである。

 道中の旅人が行き来するホテルは,住まいたるものを仮の宿とするコーネルの形而上的な感覚にうってつけのメタファーである。ショーウインドウや劇場の舞台,車窓からの眺めや鏡に映った像のように,ホテルは人や物が「一期一会」の出会いを果たす中間駅なのだ。

137

 コーネルには気に入りのロゴ,それもホテルのマークがあった。1950年代と60年代の日記やコラージュ(pl.65)に登場するその名は,「蜜蜂ホテル(Hotel:L”,Abeille)」。時にはただ「黄金蜂ホテル(Hotel of the Golden Bee)」とも呼んでいた。彼はエミリー・ディッキンソンの著書を読み進めるうちに,彼女の詩から次のひとつを日記に書き写している。

これらは自然の宿屋への道しるべ 飢えたものだれもが 彼女の神秘的なパンを味わうための 彼女からの大きな招待状

これらは自然の館のしきたり ものごとにも蜂にも 同じように広々と広げられた 歓迎

73

 ホテルへの最初の言及であり,そしてコーネル作品における変幻自在ぶりの前触れは,≪オブジェ(劇場風のホテル)》(1940年37歳)(上図)にみられる。ホテルに対するコーネルの感情は,仕事の打ち合せをする父に連れられて行ったときの思い出から生まれたものだろう。この作品で,箱はいくつかに区切られる形式をとり,ホテルの断面図を見ているかのような印象を与える。また,それぞれの部屋に本物のホテルと同じフラシ天の絨毯を敷くことで,その印象はより強いものとなっている。しかしながら,19世紀の名刺判写真を加えることで,ホテルは劇場にも姿を変える。ステージには,聖書や神話をジェスチャーで演ずるひとりの少年の姿で埋めつくされている。これは,子供時代のもうひとつの記憶にも共鳴するものだ(コーネルは父の死の数カ月後,家族のために自ら笑劇を演じたことがあった)。そして,これは3度目の変貌になるが,コーネルはひとつながりのスタジオ・ポートレートの数コマを見事に配し,初期の映画(彼の得意とする分野のひとつ)にみられるぎくしゃくした動作を模倣している)。最初はホテルに泊っていたはずが,最後には映画館に来てしまった。私たちは,またしてもコーネルの白魔術にかかったのである。

 デビューしてから20年の間,コーネルは自分の作品に,芝居や映画から借用したさまざまなテクニックを採りいれた。1949年46歳,彼は写真家ブラッサイの手になるバレエ『ランデヴー』の舞台装置を目にした。そこでは巨大に引き伸ばされたホテルのロゴが組み込まれていた。このときの体験が〈ホテル〉シリーズができ上がっていくのに何らかの役割を果たしたと,コーネル自ら日記のなかで認めている。同シリーズはその後,鳥小屋や天体観測所と同様,1950年代のコーネル作品に多く見られるものとなった。

 1940年代後期,ピート・モンドリアンの極度に単純化された仕事を強く意識しながら,コーネルは,鳥小屋のなかに収める形態的要素を,まさに抽象に達するぎりぎりの線まで,蒸留し始めた。そこでは初期作品にみられた,きわめて物語的な連想は徐々に失われてきている。1950年代と60年代には彼のイメージは密度を高め,天空が大地よりもずっと近くに見え始めるのだが,1950年代初めまでのコーネルは,作品を変貌させるためのテクニックをさらに押し進めて,より洗練したものにしていった。鳥小屋は瞬時にしてホテルの部屋に(下図左)《青い半島に向かって》(下図右)では,マサチューセッツ州アマーストのエミリー・ディッキンソンの寝室が鳥小屋へと,巧みに変貌を遂げた。空に向かって窓を設けたことで,鳥小屋やホテルは,天体観測所にも姿を変えることができるのである。

84 93

 彼はいかにして白魔術をなし遂げたのだろうか。ここで,コーネルのボックスの作り方をもう一度振り返ってみよう。《無題(ホテル:太陽の箱)≫(1956年頃)(下図)は,非常に単純で簡素なものである。この箱は,雨風にさらされ色あせた木材,ひび割れた塗料,子供の積み木,鎖のぶら下がった真鎗の輪,そして笑う太陽の顔で出来上がっている。

96

 1950年のこと,「安楽椅子の旅行者」であったコーネルは,自分で集めてきた古いヨーロッパ旅行のガイドブックをばらばらとめくり,こちらのホテルの広告,あちらの住所と,感じの良さそうな言葉をみつけては,それらを切り取ってしまっておく。後日,昼食にアンチョビーを食べた際には,イタリアから輸入されたそのブリキ缶から,太陽の笑顔を切り抜き厚紙の箱に入れる。それから,メアリー・ベイカー・エディの太陽に関する記述を探して次のようなくだりを見つける。「大地に光と熱をもたらす太陽は,神の生命と愛の姿であり,世界を照らし出して力を与えるものである」と。さらに彼は聖書をひもとき,「神は光であって,神に少しの暗いところもない」というヨハネの言葉に読み人る。そしてこの2つの言葉を「新たな太陽の箱,ランプ屋」と印を付けて,日記に書きとめる。

 そしてマンハッタンへと赴く。ロウアー・フィフス・アヴェニューにあるシャックマン玩具店へと足を運び,楽しげな動物たちが色鮮やかに描かれた積み木セットを見つける。次に,切手コレクターのための専門店へ行く。目録に目を通して,美しく彩られた蝶の切手セットを買う。それから露店の古本屋で天文学についての古びた本を手に取る。いくつかのページにはカシオペア座が描かれている。これも買い求めて,カササギよろしく,ユートピア・パークウェイの隅々に他の宝物と一緒にしまい込む。

 数カ月後,フラッシングの目抜き通りをぶらぶら散歩し,クレスという近所の安物雑貨店に入るそこで彼は真鍮の輪を掘り出し物で見つける。回転木馬でつかみ取る輪(それで景品がもらえる)のミニチュアのようなものだ。さらにその先の金物屋では,数フィートの金属の鎖を手に入れる。

 そして1956年53歳のある夕,気付いてみると,毎日のように悩まされていためまい,偏頭痛,首のこり,鬱病がよくなっている。キッチンでひと切れのアップル・パイとキャリコ・ティー〔ハーブ・ティーの一種〕を口にする。裏庭を眺めているうち,キッチンの窓が天体観測所に見えてくる。夜になって,弟のロバートとテレビを見る。テレビが終わると,弟を2階のトイレへ連れていき,階段を降りてベッドに寝かせる。母親はすでに眠りについている。彼は家の窓の正面にあるガラス張りのポーチで机に向かい,当時世界中のクリスチャン・サイエンスの信者に読まれていた,メアリー・ベイカー・エディの『科学と健康・・・付・聖書の鍵』にある教えと聖書の章句に目を通す。

001 002

ユートピア・パークウェイの家のジョゼフ・コーネルのアトリエ,1969年。 

 それから,地下室へ降りて行く。1941年38歳以来,ここは彼の仕事場兼隠れ家になっている(上図)。地下へと下る木の階段の一段一段にそれぞれ箱が置かれている。小さな都島)天井は低く,配管は剥き出しだ。一方の壁には棚がいくつも並べられ,「貝殻(Sea Shells)」「手紙/ジェニファー・ジョーンズ(btters/JenniferJones)」「空き瓶/博物館(Bottle/Museums)」「コーディアル・グラス(CordialGla岱eS)」「メディチ・スロットマシン(MediciSlotMachine)」「鳥たちの住まい(HabitatBirds)」「がらくた(Flotsam&Jetsam)」というマーク付きの箱が雑然と並べられ,仕事道具が収められている。「書類」の山,すなわち,彼が興味を抱いたテーマと関連するメモや新聞の切り抜き,写真でいっぱいになったビジネス・ファイルは,椅子の上に,積み重ねられている。それに,コーネルが星をのぞき見る小さな高窓がいくつかある。

 そこで,マンハッタンから家に持ち帰ったたくさんの包みのひとつに目をとめる。開けられないまま何カ月も経っているので,何が入っているか覚えていない。未開封の小包みの謎をあれこれ楽しんでみる。開けるべきか開けざるべきか。しぶしぶ茶色の紙を引き剥がす。一枚のレコードが出てくる。モーツアルトの『グラス・ハーモニカのためのアダージョ』を見つけたことを思い出した。そして,棚にある「シャボン玉」の箱に収められたコーディアル・グラス群を眺める。自分の箱のなかの楽器が,星たちの歌を聞くために並べられていたと知ったら,モーツアルトは喜んだだろう,とふと思う。いまや,ベル・カントの偉大な歌姫たちのための天上の楽園に住むグィデッタ・パスタが自分を見守ってくれているのだろうか。昔,この音を奏でるグラスを使って彼女のボックスを作ろうとしたことがあった。そこで,レコード・プレイヤーのスイッチを入れる。鳥たちに楽曲の調べが届くように,地下室の窓を開け放つ。彼らがモーツアルトを旅の道連れにすることを知っているからだ。夜空を見上げると,カシオペア座が目に入る。

 彼は立ち上がり,部屋の真ん中にある仕事机に向かう。空っぽの箱を据える。内部は白い絵の具で何層にも塗り重ねられている。剥がれかけた年代ものの壁紙が貼られたようにみせるため,太陽にさらされてきた箱だ。このように創造力が蘇ることは,彼にとってけっして当たり前ではない。いかなる場合も感謝の念をもって受け止めるべきなのだ。夜が明けるころには,日記にその日の出来事を次のように書き記すことになるだろう。この新しい箱の誕生は「前菜による蘇り」のおかげだと。そもそも,このシリーズの発端は,輸入されたアンチョビーの缶詰から切り抜いた太陽の顔だったのだから。

 彼が,箱の内側に「ホテル(HOTEL)」という言葉をコラージュして,そのホテルがローマのヴィットリオ・エマヌエーレ広場にあることを示す文字の切れ端をも付け加えている様子が見える。それでよしと微笑む我々。素敵な場所。ローマのど真ん中。さらに,コーネルは太陽の顔を貼り付ける。好天に恵まれた眺めは我々にも喜ばしいものだ。ところが,このなかに身を落ち着け,土地の景色を眺めようとした途端,コーネルは太陽の下にカシオペア座を貼り付けて,我々を驚かせる。それはないよと無言の異議。我々は,すでにローマではないどこかへ来てしまっている。

 事実,この芸術家は我々を大気圏外へ連れ出してしまった。太陽と山羊座の間のどこかに。太陽の周りを飛んでいる蝶は一体何をしているのだろう?雄鶏が時を告げているから,暁の頃にちがいない。でもそうだとしたら,なぜ太陽はこれほど明るく輝いているのだろうか?星と太陽がどうして同時に見える?今は夜それとも昼?これは我々が予約したとおりの旅じゃない。旅行会社に手紙で厳しく言っておくことにしよう。

 作者が混乱しているのだろうか?いや,それとも我々が?すべての〈ホテル〉と同様,このボックスでのコーネルは,蜜蜂たちのみならず,我々に対しても宿屋の主人の役割を演じている。そして,我々はこの世界から次の世界・・・「永遠の都」ローマのホテルから形而上的に永遠を眺めやる部屋・・・へと移り住もうとしている。今のところは,まだ「宇宙グランド・ホテル」あるいは「星ホテル」の客人だ。黄金蜂ホテルの住人は大勢いる。鳥たち,バレリーナたち,メディチ家の子供たち,フェルメールやパルミジャニーノの描いた美少女たち,マリリン・モンロー,ジーン・イーグルズ,ジョイス・ハンター,エミリー・ディッキンソン,ベレニス,それから弟のロバート。あたりを見回すと,まるでコーネルが彼らを手招きし,自分のグランド・ホテルのロビーに呼び集めているかに見える。コーネルはしゃれ好きでもあったらしい。「蜜蜂ホテル ラベイユホテル(Hotel:L’ Abeille)」の発音は「ホテル・ロビー」にも聞こえるだろう。ホテルの壁は,映画のフェード・アウトのごとく,我々の心のなかで崩れ去っていく。ホテルは宇宙船だ。劇団の一座ともども,我々も成層圏へと飛び立とうとしている。

 やがて,最終地点にたどりつくだろう。コーネルが1965年62歳の日記で蜜蜂ホテルについて書き記した場所である。ローマよりも,パリよりも,ナポリ,ニューヨークよりも遥かに遠い異国の聖なる都市。その風景は,『ヨハネによる黙示録』に登場する天上の理想都市そのものだ。エディ夫人は次のように述べている。「この正義の太陽イエス・キリストに照らしだされた聖なる都・・・この新しきエルサレム,この無限なる万物は,はるか彼方の霧のなかに隠されているかのようだ」。エディ夫人と聖ヨハネにとって,神の創り給うたこの都では,神殿も礼拝堂もホテルも必要としない。「神の御国はあなた自身の内にある」からである。

81

 〈シャボン玉セット〉のひとつを覗くと,こんどはまた別のロビーにいる自分自身に気付くだろう。ここは無限への入り口だ。足元には砂。かたわらにある貝殻と流木のかけらは,しゃがみこんだあなたに拾われるのを待つばかりの「現実」世界の心の慰めものだ。しかし,コーディアル・グラスはここで何をしているのだろう?とてつもなく大きく,いかめしく見える。それに,あの不思議な素焼きのパイプは?船首に飾りを付けた航海中の船のようだ。ここは地上なのか水中なのか?そこにあるものはどれも見慣れたものなのに,我々が教えられてきた物の尺度や意味とは全く相いれない。作者はそれを気付かせたかったのだ。だからこそ,これほど拡大してみせたのである。我々はアリスのサイズまで縮小されることによって,2つの世界がひとつになる不思議を体験すべく招き入れられるのである。

 太陽,月,星たちによって表される,もうひとつの世界が我々の目前にある。暗黙の誘いに応じ,パイプを拾い上げて,コーディアル・グラスのなかに浸し,巨大なシャボン玉を吹く。地球と同じ大きさ,同じ形のシャボン玉。向う側には月が見える。これもメタファーであることはよくわかっている。2つの世界はひとつになったのだ。シャボン玉ははじける。物理的な事物や距離などはシャボン玉のようにはかない夢。地球,そして月,太陽,ビー玉,真鎗の輪,刻み込まれた円,金属コイル,コロコロと転がるコルクの玉,1セント銅貨は,どれもただのシャボン玉にすぎない。それらは姿形や色彩を超越した絶対的領域へと吸い込まれようとしている。「始まりも終わりもない永遠不滅のひとつのあり方」。そうして,我々も飛び立つのだ。バレリーナのトウ・シューズを履いたり,鳩の羽を付けたり,あるいは宇宙船に乗って,四輪車に同乗して。星へ,望むらくはそれが東方三博士を導いた北極星でありますように。コーネルはあの場所へ行くすべての道筋を教えてくれた。どこが出発点でも構わない。彼は,我々の道中,とびきり上等の宿を提供してくれた。それに,腕利きのガイドにもなってくれる。なにしろ,彼はそこを訪れたことがあるのだから。そして我々の質問すべてに喜んで答えてくれる。ただし,我々が「子供の心」を失わなければの話だが。

 1965年62歳,コーネルはそれまで人生で体験してきた一体感について思いを巡らしていた。彼は,ウォーレス・ファウリーの次の言葉を引き合いに出している。「詩人は,まさにある世界から別の世界へと,両者の違いなど気付くことなく通過できる子供や天使になるのである」。

 私は,マルセル・デュシャンの有名なチェスの終盤戦「見合いとチェス盤の互いに対になった目が和解する(Opposition et les cases conjuguees sont reconciliees)」のことを考える。そしてジョゼフ・コーネルの終盤戦のことも。2つの世界は和解した,と。そして,彼のボックスやコラージュを眺めやる。理屈や道理を捨て去れば,それらは20世紀で最も貴重な4つの宝を,まるで手で触れるように実感させてくれる。すなわち空間,静寂,調和,平和の4つを。

 三井寺の鐘が聞こえる。指抜きに針が当たるかすかな音。琵琶湖の残りの七景は隠されたままだ。でも,今の私にはこのひとつの景色だけは見えているのである。

〔文中に引用したエミリー・デイツキンソンの詩の翻訳は,国際基督教大学教養学部人文科学科準教授・大西直樹氏(エミリー・ディキンスン協会会員)の新訳になるものですも本稿のために訳出の労をとって下さった同氏に感謝いたします。〕

43