フリオ・ゴンサレス(1章~2章)

■1章:「彫刻家」への道程

野中明(長崎県美術館)

 バルセロナのランプラ・ダ・カタルーニヤにあった父コンコルディオ(1832−1896)の工房で1890年代の初頭頃より金工職人として働いていたゴンサレス(1876-1942)は、職人としての仕事をこなす一方で美術の基礎を学ぶため、兄のホアンとともにサン・ルック芸術協会に通った。また、カフェ「クアトラ・ガッツ」に出入りをするようになった彼らは、ラモン・カザス、サンティアゴ・ルシニョル、イシドロ・ノネイ、ホアキン・ミールも、パブロ・ピカソら、そこに集う芸術家たちとの交流を通して当時の最先端の空気を吸い大きな刺激を受けたことだろう。1897年21歳に初めてパリを訪れた二人は芸術に対する情熱をさらに強くし、やがて画家を志すようになもその後、自らの志の実現に向けて一足先にパリに移っていたゴンサレスを追って、彼の一家は父親が残した工房を引き払い1900年にパリに移住。以後、ゴンサレスは生涯をこの地で過ごした。

 

 本展の導入部にあたるこの章では、パリに渡り画家と去るための活動を開始したゴンサレスがその最初期に残こした彫刻の作例を紹介しつつ、作家の内に彫刻家としての自我が生じる1920年代末に至るまでの歩みについて振り返る。

 芸術の一大中心地であったベル・エポックのパリにはピカソはじめフランシスコ(パコ)・ドゥリオ、パブロ・ガルガーリョ)などスペイン出身の多くの芸術家たちが集まっていた。ゴンサレスは彼らとの親しい交流を通して、マックス・ジャコブ、モーリス・レイナル、アンドレ・サルモンらをはじめとする気鋭の詩人や評論家たちとも知り合っている。1907年31歳、前年からホアキン・トレス=ガルシアと仕事をしていた兄ホアンの病状が悪化したことをきっかけに、ゴンザレスを除く家族全員はバルセロナへ移住翌1908年32歳3月末にホアンは死去。一家の大黒柱であったばかりでなこ、仲の良い兄でありゴンサレスの良き理解者であったホアンの死が彼に大きなショックを与えたであろうことは想像に難くない。ホアンの死の直後、ゴンサレスとピカソとの間に諍(いさか)いが起こり、二人の関係はその後しばらく疎遠になったも言われている。兄の死の同年、ゴンサレスは「ジャンヌ」と呼ばれるフランス人女性ルイーズ・ベルトンと恋仲となり1912年36歳初頭頃まで居を共にした。1909年33歳、二人の間に娘ロベルタが誕生。この頃、ゴンサレスは主にドゥリオとともにいくつもの装飾のプロジェクトに取り組んでいる。ジャンヌとの離別の後、バルセロナに住んでいたゴンサレスの家族は再びパリの彼のもとに移り、以後、一家は基本的に離れることなく暮らした。

 1913年37歳頃、ゴンサレスと姉たちはラスパイユ大通りに宝飾店を開店する。そこで彼らはアンティークをはじめゴンサレスが制作した宝飾品や装飾品、姉たちが編んだレースなどを販売した。しかし翌1914年38歳に勃発した第一次世界大戦は家族の経済状況にも影を落としたのか、1918年42歳の6月から9月にかけての約3カ月間、ゴンサレスはルノーに自動車部品を供給していたフランス・ガス溶接社に溶接見習工として勤務。ここで身に付けた酸素アセチレン溶接の技術は、彼の将来において決定的な意味を持つものとなる。

 ゴンサレスは生活の糧を得るために金工職人としての仕事を行いつつ、自らの芸術ための制作を継続した。第一次世界大戦以前のゴンサレスの作品として現在知られているものの圧倒的多数は鉛筆、木炭、水彩、グワッシュ、パステルをはじめとする大量のドローイングであるが、彼はもちろん油彩画も多く描いている。それらの画面はゴーギャンやロートレックのスタイルに学んだもの、友人ピカソの「青の時代」の影響を明らかに留めているもの、ルドンを参照したとおぼしきものなど、いずれも時代を吸収しつつ成長しようとするゴンサレスの姿勢を雄弁に物語るものである。そして何よりも、彼の油彩画には、兄ホアンや友人のトレス=ガルシアも崇拝していたビュヴィス・ド・シャヴァンヌの作品が放つ、神秘的、瞑想的かつ構築的で静的なモニュメンタリティへの志向が伺える(Llorens挿図5)。

 一方で、ごく少数ではあるが、この時期に制作されたテラコツタや石膏等の塑像、そして金属板の叩き出しによるレリーフやマスクも残されている。恐らく1900年代の半ばに制作されたものと推定されている最初期の塑像の作例は、形式的なテーマとしてはロダンの影響を、ボリューム創出への志向においてはマイヨールの影響をうかがわせる(挿図1)。今回の出品作を見ても当時圧倒的な影響力を放っていたロダれそしてマイヨールへの参照の跡がその主題や対象のポーズにおいて明らかだ。また、ゴンサレスは1912年36歳頃より銅やブロンズなどの金属板の叩き出しによるマスクの制作を始めている(挿図2)。これは友人のガルガーリョが1907年噴から開始した同技法によるマスクの制作に触発されたものであるかもしれない。

 原始的とも言える技法によって生み出されたこの時期のマスクは《少女の横顔》(下図右)にも見られるように、いずれもどこかヴェールに覆われたような甘美で茫洋とした佇(たたず)まいを持ち、象徴主義的な余韻を漂わせている。1907年のサロン・デザンデパンダン、1909年のサロン・ドトンヌに油彩画を出品していたゴンサレスは、彼の才能を高く評価した詩人・評論家のアレクサンドル・メルスローの勧めもあり、1913年37歳のサロン・ドトンメにおいて油彩画、宝飾品に加え、はじめてこの鋼板叩き出しのマスクを発表。翌年のサロン・デザンデパンダンにおいても油彩画、宝飾品のほか金属板叩き出しのマスク1点を出品している。

 

 第一次大戦終結後、1920年代を通しゴンサレスはサロン・ドトンヌをはじめサロン・デザンデパンダン、サロン・ナシオナルなどへ精力的に作品を出品し続けるとともに多くのグループ展に招かれ、次第にその認知度を上げていく。また1922年46歳、ギャルリ・ポヴォロッキーにおいて彼の初個展がついに開催され、つづく1923年47歳にもモンパルナスの画廊カフェ、ル・カメレオンにおいて個展が開かれている。しかし、前者の招待ハガキにある「フリオ・ゴンサレス:絵画、水彩画、素描、彫刻、宝飾、銀・金・鉄の打ち出し細工による装飾美術、ファイアンス焼、木工、漆工芸の展覧会」という案内が示す通り、この時点においては未だゴンサレスの芸術家としてのアイデンティティは定まっていない。彼のアイデンティティは第一に画家としてのそれであったであろうが、同時に装飾美術家としての自己認識も強く感じられる。一方で、彼は自身が制作する金属板叩き出しのマスクをいわゆるファイン・アートとしての彫刻とはみなしていなかったと思われる。事実、1928年52歳サロン・ドトンメに出品された4点のブロンズ叩き出しの作品のラベルには、装飾美術を示す「A.D.」(Arts decoratifsの略)の文字が表示されていた。

 翌1923年47歳の個展においても、ゴンサレスは前年の個展と同様に絵画をはじめ幅広いジャンルにわたる作品を展示した。その展覧会のレヴューにおいて象徴派の詩人ギュスターヴ・カーンは、ゴンサレスは傑出した彫刻家であり、優れた金工職人であり、才能を持った画家であるが、それらの作品の中で最も魅惑的なものは疑いなく彼のマスクであると述べ、同時にゴンサレスの油彩画には優れた彫刻家としての彼の資質が反映されているという洞察も示している。ここでカーンの言うマスクとは間違いなく金属板叩き出しのマスクのことであるが、カーンはゴンサレスのマスクの内に作家の最良の仕事を見ると同時に彼の彫刻家としての資質をも見抜いている。ゴンサレスの自己認識とは異なるこのような周囲の評価は、ゴンサレスの無意識を大きく揺さぶったに違いない。

 1920年代の金属板叩き出しの作品は、戦前とは異なり、対象の形がより明快に象られたものとなる。またこの年代の半ば以降は農婦、母と子(下図)、家事をする主婦、読書をする女、身支度をする女など、彼のドローイングや絵画において初期より繰り返されるモティーフが全身像として登場するレリーフが支配的となる。同時に、対象の描写とオブジェとしての仕上がりは、装飾性とはかけ離れた荒削りなものとなって行く。この変化は、ゴンサレスが金属板叩き出しの作品を装飾美術としてではなく、絵画や彫刻と並ぶつの表現媒体として(それがたとえ無意識下に行われたものであったにせよ)認識するようになって行く過程と捉えることも可能だろう。

 最後に1920年代のゴンサレスの生活におけるいくつかの出来事を概観してみよう。遅くともこの年代の半ばまでに兄の死の前後より疎遠になっていたピカソと再び連絡を取り合う仲になる1924年48歳頃ガルガーリョに溶接の技術を教える。1925年49歳後に妻となるマリー・テレーズに出会う。1925年から26年頃ブランクーシのアトリエでアシスタントとして働く1928年52歳5月、母ピラール・ペリセール死去。同年、ピカソの金属彫刻の制作における技術的サポートを開始する。この最後の出来事、ピカソとのコラボレーションはゴンサレスに決定的な影響を与えることになる。これを機に、ゴンサレスは彫刻家としてのアイデンティティを確立することになるのだ。そしてピカソと仕事を開始した翌年、1929年53歳のサロン・ドトンヌこおいてゴンサレスの作品は「A.D.(装飾美術)」ではなく「鉄彫刻」として出品されることになる。(野中明)

■第2章:彫刻家の誕生平面から立体へ

野中明(長崎県美術館)

 1929年53歳のサロン・ドトンヌにおいて、ゴンサレスは初めて自らの作品を「彫刻」として発表した。前年の同展には4点のブロンズ叩き出しのマスクを収納した装飾ケースを出品していたが、その出品票には装飾美術を示す「A.D.」(Artdecoratifの略)と記入されていた。この「装飾美術」から「彫刻」へと変化した作品の表記には、ゴンサレスの彫刻家としての自我の発生が反映されていると考えることができるだろう。本章ではこの意識の変化が起こった1929年前後における作家の造形の展開を紹介する。

 1928年52歳から1931年55歳頃にかけてのゴンサレスの作品の大部分は金属板を切り出したレリーフ状の彫刻とマスクであり、そのスタイルは対象描写的なものから次第にキュビスム、あるいは構成主義の形式的要素を取り入れつつ独特の抽象化がなされたものへと向かう。

 1920年44歳代中頃までのレリーフにおいて、人物や対象はある種のボリュームを伴う形で浮彫状に叩き出されていた。しかしここに来て、それらは矩形の余白部分から独立し、時に完全に、時にその一部が輪郭に沿って切り出されるようになる。そして後者においては、切込みを境界としつつシートを折り曲げることで高低差を持つ複数の面とその隙間が生み出され、作品にレイヤー状の厚みが付与される(上図左右。この時期のドローイングには、人物の輪郭に沿って紙を切り抜き、それを別の紙に貼り付けたものが存在するが、ここには対象を環境から一度切り離し再びそれらを統合しようとするゴンサレスの志向を見るべきだ。また、その発展形として複数の金属板を溶接によって層を成すように連結することで、その間に空間をはらむ独立した面により作品を構成しようとする作品も生み出されている(下図)。

 ここでピカソとの関係に簡単に触れておこう。この章が対象とする作品が制作された時期は、ピカソとゴンサレスとのコラボレーションの期間とはとんど重なっているからだ。1928年52歳の恐らく3月頃ピカソは金属による彫刻を制作するための技術的なサポートをゴンサレスに依頼する。親しい友人であったギヨーム・アポリネール(1880−1918)の追悼記念碑の制作を依頼されていたピカソは、ゴンサレスの金属に対する深い知識と高度な加工技術の提供を受けることによりそれを実現させようと考えていた。二人のコラボレーションはピカソのキャリアにおける重要な作品の数々を生み出しながら、少なくとも1931年55歳まで継続する。このコラボレーションを通し、二人のアーティストは互いに少なからぬ影響を与え合ったことだろう。特に、様々な金属の部材を溶接によってつなぎ合わせ作品を生み出すという制作工程はもとより、形に対するピカソの独特のアプローチを目の当たりにしたゴンサレスは、そこから多くのことを学びつつ芸術家としての自身の在り方に関する確固たる見通しを得たに違いない。美術雑誌『カイエ・ダール』に寄せた自著テキスト「彫刻家ピカソ」において、ゴンサレスは次のように記している。「1908年、彼の最初のキュビスト絵画(訳者註‥キュビスムの絵画)において、彼は形態をシルエットとしてではなく、また対象の投影としてではなく、面の配置によって、その統合によって、そしてレリーフ化されたそれらによる立方体によって、一つの『構成体』として我々に提示した。

 「これらの絵画において必要なことは、それらの面を切り抜き一色は単に遠近の違いを示すものであり、一方から他方へ、あるいはその道に傾いた各々の面を示すものに過ぎない」そして一つの『彫刻』を誕生させるために、色の指示に従いながら切り抜いた面を組み合わせることだけである。と、ピカソは私に語った」

 これは1936年60歳に発表されたものだ。しかし、引用した部分とほとんど同じ内容の記述を含む草稿が、二人のコラボレーションが継続している最中である1930年54歳の年記を伴ってゴンサレスのスケッチブックに記されており、そこにはピカソの名前は登場しない。ここで、このテキストはピカソに捧げられたものであると同時に、自らの彫刻観を述べるゴンサレスの一種のマニフェストでもあると読むことが可能となる。そして実際に、ピカソが語ったとされるキュビスト絵画の制作方法は、本章に見る作品群が生み出される工程にかなりの程度重なるものだ。この意味で、この時期のゴンサレスの彫刻は、彼の解釈に基づいたキュビスト絵画の延長に位置する「キュビスト彫刻」であると捉えることが可能となるだろう。

 一方で、ゴンサレスの作品は、ピカソのみならず周囲からから受けた様々な影響の跡を留めている。その一つは、彼の古くからの友人ガルガーリョの影響(上図左右)だ。二人の交友は遅くともガルガーリョが初めてパリを訪れた1903年27歳に遡る。以後、ガルガーリョはしばしばパリを訪れ、ピカソのバトー=ラヴオアールのアトリエで《アヴィニョンの娘たち》(1907,MoMA)31歳の制作現場に立ち会うなどスペイン出身のたちとの作家達と交友を重ね、最終的に1924年48歳にバルセロナからパリに移住している。その間、ラスパイユ大通りのゴンザレスの宝飾店においてガルガーリョの装飾品が取り扱われた他、1924年頃にゴンサレスは酸素アセチレン溶接の技法を彼に教えたと言われている。このように二人は非常に近い関係にあり、ゴンサレスはガルガーリョの仕事を身近に見つつ芸術家としての自らの道を探っていたはずだ。対象の特徴を装飾的に図案化するガルガーリョの作風や、金属板を切り出したパーツを組み合わせることにより虚のボリュームを内に抱く彫刻を生み出すその手法の響きをゴンサレスの作品に見ることはそう難しいことではないだろう。(下図左右)。

 また、バルセロナ時代からの親しい友人であるさアキン・トレス=ガルシアとの関係も忘れてはならない。1927年51歳から32年56歳にかけてパリに滞在したトレス=ガルシアは、1929年53歳ミシェル・スーフォーとともに構成主義的な傾向を持つ芸術家集団「セルクル・エ・カレ」を創設した。ゴンサレスは彼を介し構成主義の造形にも通じており、「セルクル・エ・カレ」を吸収するかたちで1931年55歳に成立した非対象芸術を標榜する芸術家集団「アブストラクシオン=クレアシオン」の作家たちとも交友を持っている。自然から得る霊感を第一義に置くゴンサレスはその根本的な造形哲学、美学において彼らとは相いれず、彼らの展覧会には一度も参加しなかった。

 しかし、例えばゴンサレスのく切り出されたマスク(小):<モンセラ》(下図)《深い頭部》(上図)にロシア出身のナウム・ガボ(下図右作品)をはじめとする構成主義の作家の作品からの形式的な影響を見ることは可能だろう。

 

 その他、明らかにアフリカの彫刻を参照したと思われる作品の制作など、この時期のゴンサレスは周囲から受ける様々な刺激を自分なりに咀嚼(そしゃく)しつつ、これまで蓄積してきた造形的なコンセプトを一気に開放するかのように彫刻家としての様々な試みを同時並行させながら推進し、金属板のレリーフから立体的な彫刻制作へと向かう道を駆け抜けた。そしてキュビスムと構成主義とがある種のユーモアの内に融合された代表作《接吻I≫(下図)を生み出すに至る。また、ゴンサレスはブランクーシとも終生の友人であり、1920年代半ばには彼のアトリエにアシスタントとして出入りしたこともあった。この求道者とも言うべき作家との交友は、作品のスタイルはもとより彫刻家としての在り得べき姿を、その道を歩み始めたゴンサレスに強く印象付けたに違いない。

 ゴンサレスの抽象化はブランクーシのように対象の形態を還元的に抽象化するものとは異なり、例えば《陽光の中のロベルタI》(上図)に見られるように、ある要素を全体から選択して図形的にデザイン化する過程と見なすことが可能だ。ここでゴンサレスは強い日差しを浴びる娘の顔をその明暗の差を極大化した二語調において捉え、明るい部分の輪郭を図式化した上で切り抜き、影の部分を示す背景となる鉄板の上に重ねている。また《光輪のある頭部》(上図右)においては人物の顔の額と鼻とが「T」字型に図形化されている。以後、1930年50歳代の半ばにかけて生み出される作品においてゴンサレスはこの独特の抽象化を更に押し進め、彼が生み出す形態はその主題との間に現実的な繋がりを見いだすことがほとんど困難なものとなって行く。 (野中明)