デペロ

000 111■未来派の中のデベロ

井関 正昭(庭園美術館長)

■まえがき

 はじめ、個人的な体験から。

 1985年というともう15年も前になる。秋のある日、私の勤め先だった ローマの日本文化会館に突然予告もなく一人の大男がもっそりとあらわれ た。名前はポンテウス・フルテン、あの著名な、パリのポンピドゥー・セン ター美術館の元館長である。

 「来年ヴェネツィアのグラツシ美術館で「未来派と未来派たち」と題して 世界中の未来派の作品を集めた展覧会をやることになった。ついては日本 の未来派作品もいくつか借りてこの展覧会に加えたい。いろいろ世話をし てくれないか」、というのが来訪の趣旨であった。さらによく聞くと、既に何 件か日本の個人コレクターに出品依頼の手紙を出したがなしのつぶてなので何とか助けてくれないか、というのがどうも本音のようである。私は日本 のコレクターは遠い外国からいきなり手紙で作品を送ってくれといわれて も、とくに知らない人や聞いたこともない美術館からそういわれて、すぐ返 事をだすことはないでしょう、これから大変ですよと一応こたえたのだが、 その後案の定いろいろあって、経緯はここでは省略するが結果だけいえば、日本では立体未来派といわれる優れた作品の一つ、寓鉄五郎の《樹の 聞から見下ろした町》(1918年)と東郷青児の《帽子を被った男》(1921年) を中心に、そのほか神原泰と柳瀬正夢のそれぞれ2点づつが出品された。

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 そもそも未来派を含めてだが、戦前の日本の前衛美術がヨーロッパに知 られることはそれまで殆どなかった。だが80年代後半になって何か憑かれ たように紹介されはじめたのは興味深い。まず最初の紹介はこの年1985 年の4月から5月にかけてジェノヴァで開催された「未来の日本の前衛」展 (Giappone Avanguardia de Futuro)で、かなり大がかりな催しだった。ジェノヴァ市内の主要な美術館、宮殿を使って日本の前衛芸術が戦後ヨーロッパでグローバルに紹介された最初の催しであった。日本のためになぜ そんなに税金を使うのかというジェノヴァ市民の不満の声も上がった程で ある。そしてこれが翌1986年12月のパリ「前衛の日本」展(」apon des  AvantGardes)につながるわけである。ちょうどその中間にヴェネツィア の未来派展が開催されたのである。ジェノヴァの方の日本展の目録に私は  日本の未来派についての記事を寄せたのだが、フルテンはこの拙文(せつぶん・まずい文章)を見てぜひ日本の未来派作品をもってきたいのだとつけ加えた。

 またついでにいうと、萬鉄五郎の《樹の聞から見下ろした町》はパリの「前衛の日本」展に出品する約束になっており、一度日本に返却する時間がなくヴェネツィアの未来派展の終了後できるだけ早くパリに持って行く必要があり、主催者の国際交流基金の指示で私は手持ちでこの作品をヴェネツィアから直接パリに運ぶことになった。このときヴェネツィアのグラッシ宮殿の作業室で梱包を手伝ってくれたのがローマにフルテンの秘書として一緒にあらわれたイイダ・ジャネッリ女史で、現在彼女はトリノ近郊のカステッロ・デイ・リヴォリの近代美術館の館長をしている。

 それやこれやの緑もあって私は未来派をかじることになったのだが、少なくともイタリアの未来派の奥深さに今は辟易(へきえき・勢いや困難におされて、しりごみすること)しているところである。

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 それはともかく、ヴェネツィアのグラツシ宮殿美術館の「未来派と未来派たち」展(Futurismo&Futurismi)(ここでいう「未来派」はイタリアの未来派を、「未来派たち」はイタリア以外の国の未来派を意味する)はとにかく画期的な展覧会であった。宮殿の入り口の吹き抜けの大ホールの天井から当特の最新鋭の戦闘機が2機ぶらさがり、床にはマリネッティが得意気に乗り回したのと同型のフィアット車が横たわって会場に入った観客の度肝を抜くことになっている。3階分をフルに使った展示場は世界中の未来派作品が国別に並べられていた。なかでも英国とチェコスロヴァキアの出品数が非常に多かったと記憶している。つまり、この会場でわれわれは日本の未来派をはじめベルギーの未来派、アメリカの未来派、メキシコの未来派など多くはそれまであまり知られていなかった世界の未来派の広範な実態を見ることができたのである。もちろんそれらが本来の意味での未来主義というべきかといった議論はあったのだが、一つの視点によって20世紀前半の美術の形成がかなり明白に見られたのは貴重な成果だったといえよう。

 このことをフルテン自身目録の中でかなり自画自賛している。

 「これは国際的な視野で未来派全体を見渡す最初のものである。・・・文化の全ての様相を理解する計画全体をはっきり現す新しい一つの理念を知るために雄大な感覚が必要であった……」。

 単にイタリアにとどまらず世界中に波及した未来派こそが本当の未来派であって、それはフランスの印象派があらゆる国の近代美術の誕生に果たした役割と同様、未来派をもっとグローバルに捉えなければならないという思いがフルテンの考えの基本にあったに違いない。

 印象派以後の世界の美術を根本から変革したのはむしろ立体派だといえるのだが、立体派はあくまでも知的で理論的でいわば観想的だったとすれば、これに比べ未来派は確かに立体派のもつ栄養分を充分吸収しながもずっと社会的で産業的であり激動であった。そして何よりも未来派の効用は世紀末という廃墟に新たな空気と光を与えたことにあったと考えれば、とりわけ環境的な造形の必要性と生活への拡がりを必要とする新しい世紀の芸術へのわれわれの希望は未来派を再認識させる強い要因だともいこよう。フルテンの意図はこの辺にもあったかも知れない。

■承 前

 前置きが長すぎてしまった。今回取り上げるのは、数多くのイタリア未来派の個性の中で最も現代美術、とくに現代のデザインの分野に直接影響を与えたフォルトウナート・デペロである。

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 ほぼ100年前にデペロが20世紀全体の造形芸術に対して予測した素晴らしい直観をわれわれは無視するわけにはいかない

 いうまでもなく、未来派が色彩と速度を要因としてこれまでの密室的な「芸術のための芸術」の創造から離れ、建築、写真、舞台、詩、ファッションから料理にいたるまで、つまり文化全体の革新に多大な貢献をしたのはよく知られている。そして最初の未来派を形成した5人の代表メンバーがそれぞれの個性をもって、とりわけ絵画の分野で斬新な革命を実施したのこが、その中で近年とくに注目されているのはジャコモ・バッラである。彼の絵画における抽象主義をいちはやく展開しただけでなく抽象形態はむしろ立体的な創造に応用すべきだとして多くの立体造形作品を残した。グラシ宮殿美術館のバッラの部屋でもこれら立体造形作品群がとくに新鮮であると再評価されたのである。そしてこのバッラ(1871年- 1958年)の意志を継いでイタリアの現代デザインの源流となるべき多くの造形作品、絵画、タペストリー、家具とりわけ舞台芸術の分野に新たな革命を実現したのがデペロである

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 したがってデペロを語るためにはバッラの切り開いた道に触れるのは必須条件といえよう。1909年にマリネッティが最初の「未来派創立宣言」出し、翌年これに賛同した5名の画家が「未来派画家宣言」を発したときバッラは5人の中の一人として未来派の理念である速度と運動(ムーヴン)の表現に真剣に取り組んだ。そしてバッラの特質は他の仲間に比べ、確実に最も早く純粋抽象に向かった点にあった。バッラのこの抽象主義へ・傾斜は同じ仲間のボッチヨーニやセヴエリーニそしてカッラなどと違って未来派生成の基本的な状況から説明しなければならないのだが、一口にいってそれは未来主義の特質である同時性=SIMULTANEITÅの一つの帰結であった。つまり印象主義から立体主義を通って二次元の絵画領域に時間という三次元の要素を与えようとするとき、同じ対象を同時的に並列して動き(ムーヴマン)を表現しようという方向である。

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 たとえばバッラの有名な作品《鎖でつながれた犬のダイナミズム》(1912年)では、平面に何本も平行に描かれた脚が示すように、まさに歩(という同時的な動きが強調される。ここから出発してバッラはこの動きを自然の対象から離して幾何学的な連続模様の構成に変えながら抽象化するのである。

 この出発の後の長い過程でバッラはとりわけボッチヨーニ(1882年- 1916年)のいわゆる未来派の「精神状態」の探求よりもむしろデペロを発見してデペロとともに造形複合体と名付けた立体造形の方向に向かうのである。バッラの抽象主義の傾斜が同時性の帰結であったことは、自然の対象の単純化によるモンドリアンの抽象の道と違って速度やダイナミズムといった未来派の理念に忠実であったのでずっと直裁であり、むしろ同次元の世界を示唆しているという意味でより現代的だといえよう。ここで現代的というのは彼の抽象形態の多様さに基づいている。バッラがモンドリアンやカンディンスキーと異なって彫刻や立体造形に関心を持ち、実現できたのもそこに原因があるといえよう。

 ヴェネツィアの未来派展でバッラのこの「造形複合体」がとりわけ注目されたのもその先見性にあったといえる。この造形複合体(Complesso Plastico)はデペロの造形作品と共通の呼称でもあったが、その理念としてま絵画+彫刻+詩+音楽で構成された立体作品で、素材は生活の中のあらかるありふれた材料(布切れ、ゴム、ブリキ、セルロイド、色ガラス、電灯、花火仕掛けにいたるまで)が使用される。

 デペロを語るためには、直接の影響のあったバッラを語らなければなら巨いのだが、バッラを語るためにはもっと他の未来派の仲間、とくに彼とボッチョーニとの関係に触れなければならない。そこから未来派創立者た5の中で、デペロがどのような位置を占めるかが問われるだろう。未来派か中のデペロが検証されなければならない。

 バッラが単純化-抽象化の実験で立体的な造形作品に向かうとき、彼はまずボッチヨーニの中に際立ったライバル意識を感じた。ボッチヨーニの彫刻は〈絵画と彫刻の伝統的概念から自由になる〉ためのまさに造形芸術か制限を超える努力の成果であった。それは彫刻や絵画をもはや信じない者の彫刻的絵画であり、同時に絵画の彫刻化でもあった。そこにはメダルトロッソ(1858 – 1928)の影がつきまとっているのはいうまでもない。ボッチヨーニのこの成果は《空間の中の壜の展開》(1912年)下図や《空間の中のユニークな連続の形態》(1913年)に結実する。

ボッチヨーニのこの成果は《空間の中の壜の展開》(1912年) サンテリーア

ボッチヨーニの考えはまた未来派の機械主義の新しい自然主義に基づくもので、未来派の建築家サンテリーアが「居住する機械」を建築と規定したようにボッチョーニは彫刻に「表現する機械」を求めたのである。だが、バッラはこの前提さえを否定する。というよりボッチョーニの前提とは違った意味で立体造形を体得したといっていい。少なくともバッラにとっても絵画と彫刻との伝統的概念から離れることは前提だったのだが、しかし彼の理念は何よりも人間のイメージと自然に対する直接の引用を無効にすることが第一条件だったのである。有機的でなく無機的な純粋抽象の方向に向かったが、ただこの場合バッラは実際に動く彫刻をイメージしてデペロのモーター付きの彫刻に直接つなげるのである。こうして見るとバッラの抽象的形態をいっそう装飾的で多彩で華麗なロボットのような形態とし、遊びの要素を加えて、われわれの日常の世界に未来主義を引きずりこんでしまったのがフォルトゥナート・デペロだということがわかる。

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 デペロの成立ちについてはこの目録でも他に詳細な年譜と作品に即した解説があるので、ここではとくに注目すべき彼の特質といった点に触れてみよう。

 未来派におけるデペロの物語は1913年の終わりにはじまる。この年は1910年の未来派自身の誕生から、初期未来派の活動が最も活発であった1912年の翌年にすぎない。ここですぎないというのは、デペロがプランポリーニと同様、未来派の第二世代の代表と通常いわれているにかかわらず、その活動の始まりが第一世代の未来派と殆ど重なるという意味である。ただし、1913年にデペロは20歳、バッラは42歳であった。ボッチヨーニは31歳、未来派の主導者マリネッティは37歳、バッラが未来派メンバーの最長老であることを考えれば、デペロが第二世代にランク付けされてもやむをえないかも知れない。というよりデペロは他の未来派のメンバーより文化的な経験が全体として違っていたというのが正しい。

 未来派が結成された1910年のデペロは、実はまだ未来派の存在も知ることなく、象徴主義的な作品を故郷のロヴェレートの小さな画廊で並べていたにすぎない18歳の若者であった。つまり1913年以前の若いデペロは第一世代の未来派と同様、社会的、道徳的な抗議に身を置いてはいたが、とくに北方的な象徴主義と1800年代のヴエリスモ(写実主義)の間にあったのである。1913年に未来派の機関誌といえる『ラチエルバ』が創刊され、デペロはこれを定期的に受けとり先人たちの動きを充分気遣うことになる。

 この頃ローマではジュゼッペ・スフロヴィエーリがトリトーネ通りに開いた未来派画廊で、ボッチヨーニの個展が開かれ、更にカッラ、セヴェリーニ、ソッフィチといった主要未来派メンバーの作品がこの画廊で紹介された。こうした活動にロヴェレート出身のこの若い芸術家が刺激されないわけはない。1913年の12月20歳にデペロはボッチヨーニの素描と彫刻展を見るためはじめてローマを訪れ、未来派のメンバーと最初の出会いを果たすことになる。そして彼は翌年もローマに滞在し、頻繁にこの画廊に出入りした1914年4月21歳に行われたこの未来派画廊の「国際自由未来派展」にデペロは作品を出品することになり《光+騒音》、《走っている赤ん坊の分解》など未来主義的な題名の作品を展示し、デペロの未来派の出発点を現すことになったのである。ちなみにこの展覧会にカンディンスキーが出品したが、それは彼のイタリアでの最初の作品展示であった。

 1913年20歳のデペロの変化、というより新たな展開を見ると、この年はデペロが未来派にいわばのめりこむと同時に、未来派を凝視しながら未来派の室長で何ができるかを彼が探索した年として、非常に注目すべきではないかと思う。

 そしてここで強調していいのはデペロの未来主義はボッチョーニ風のダイナミックな造形理念から直接かつ迅速に動き、バッラの開かれた道に自分を置いた点である。ローマのこのスプロヴィエーリ画廊を基点とする未来派とデペロの交流は、当然ボッチョーニ等の未来派の創立者たちにデペロの存在を強く印象づけたに違いない。

 デペロの未来派グループヘの正式な加入1915年22歳、マリネッテイ、ボッチヨーニ、カッラ、ルッソロの署名による手紙をバッラがうけとって実現した。「親愛なるバッラ。我々はデペロの名前を未来派の画家、彫刻家の中に入れることに意見の一致をみた。それをこうして君に伝えることを嬉しく思う。このことは多大なる自己犠牲と情熱でもって若者を発掘し、激励する君の喜びとなるだろうし、デペロもきっといっそう大きな勇気をもって、彼の仕事を続けるだろう」。

 このバッラに対する手紙は、未来派創立者たちがいかにバッラとデペロの関係をよく理解しかつ評価しているかを示している

 ボッチョーニはデペロのアトリエを既に訪問していたが、1916年23歳に『リ・アヴェニメンティ』にアトリエ訪問記を載せてこう述べている。「疲れを知らぬこの働き者は、ある一つの巨大な生産を重ねていた。そこではダナミズムが探求され、無限の可能性があらゆるものに表現されている。次の展覧会では、デペロによって一人の完全に新しい芸術家像が展示されだろう」。

 デペロは1913年20歳から同16年23歳にかけて抽象形態のすぐれた構成に達し「未来派による宇宙の再構築宣言」をもとに独自の構成による作品を次々生んだのである。

 数多くの未来派の宣言の中でも1915年3月9日付・22歳で公表されたこの「未来派による宇宙の再構築宣言」はきわめて重要なものの一つである。署者はバッラとデペロの二人だけで、しかも署名の下に未来派抽象主義者記されている。この公言によって、デペロもバッラも自分たちの立場がそれまでの未来派の単なるダイナミズムや速度とは違った新しい絵画と造形な探求であることを明白にした。つまり、未来派の新様式の提案であり、抽象的で総合的な形態であることを主張することになる。いいかえると1915年までの未来派が分析的であったのに比べ、これからの未来派は・合的であるべきという理念を明白にしたのである。

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 とりわけデペロはバッラの抽象的機械主義を受け継いでより想像力富んだ、より総合的な形態、ときには魔術的、童話的な造形に向かうことなる。この宣言の趣旨を実現するために行われた作品を造形複合体とんだわけだが、いわばこれは絵画と彫刻にまたがる新しいオブジェだといっていい。

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 「未来派による宇宙の再構築宣言」の内容は全文をここで紹介できなが、以上の理念は例えばこんな表現の中で理解できるだろう。「われわれは、見えないもの、触知できないもの、量れないもの、そし知覚できないものに、骨格と肉付けを与えよう。われわれはまたあらゆる形態、宇宙のあらゆる要素に対して抽象的な等価値を見いだそう。次に、そうした抽象的等価物を組み合わせ、造形複合体を作り上げて、それに動きを与えよう」。

 宣言を基本にしたデペロの探求においてわれわれは、重ね合った描写中で強く組立てられた創意に富む新しい抽象形態に直面するのである。

 一方、この頃のローマはまさに国際的な芸術家の活動の拠点でもあった。フランスだけでなくロシア、ベルギー、アメリカの画家、彫刻家が集まり、ヨーロッパの前衛の正面にデペロもまた立ち合うことになる。デペロがとりわけ関心を寄せたのはロシアの芸術家であった。アーキペンコの造形的な適性にデペロはまず感動する。当時ローマで開催されたデイアギレフのロシア・バレエ団、つづいてジャン・コクトー、ゴンチャローヴァ、ラリオーノフ、ピカソもまたローマに現れる

 デイアギレフ劇団の振り付け師のレオニード・マシーンは自分のコレクションをもっており、ピカソ、グリス、レジェ、などのほかバッラとデペロの作品も加え、ローマでこのコレクション展を開催した。こうして1917年24歳のデペロは国際的な人脈に加わるとともに、この人脈から刺激的な生命力を見いだしたといっていい。

 この成果の一つで特筆していいのは、1916年3月23歳にローマで行った最初のデペロの個展である。絵画、素描、モーター付きの造形複合体、木と紙による造形作品、「ミミスマジア」(魔術的喜劇)のための舞台衣装やタペストリーその他200点におよぷ作品を展示した。オープニングにはマリネッテイ、バッラとともに擬声音の朗読を行ったという。つまり、このときデペロは全く未来派の一員として振る舞ったのである。

 とくに1916年23歳と17年24歳の間にデペロロシア・バレエ団の『ナイチンゲールの歌』の衣装と舞台のデザインを依頼された。物語の魔術的感覚、幻想的で驚異的なパフォーマンスとなる舞台で動き回る途方もない衣装の発明である。しかしこの企画はデイアギレフによってピカソにとって替わられてしまった

 その後のデペロの形成に重要となる次の接触は、スイスの詩人ジルベール・クラヴェルである。彼はダダイストを自称していたが素朴なデペロに大きな変化をもたらした。それはクラヴェルのもっていた秘教的な文化のためで、カバラ占いをはじめ魔術、エジプトの象徴主義、黒いユーモアがデペロの中に作用する。デペロの抽象造形の実験はこのクラヴェルのカプリ島での共同生活の中で閉じられ、デペロの上に素朴・子供の感覚によって強く様式化した特異な世界がつくられたのである。この理念はインテリア・デザインの革命というべき1922年29歳の「悪魔のキャバレー」に実現され、またデペロのその後の舞台芸術の基本である素朴で楽しいイメージもここから生まれたのである。

 デペロの舞台を中心に見られる幾何学的構成は、一見して立体主義の総合を呼び起こすのだが、しかしデペロの装飾主義はむしろスペクタクルやイヴェントのもつエンターテイメントの効果と価値を保ち、時には確かに立体主義的な原型(《中国人の仮面》に見られる)やアンリ・ルソーのもつ幻想主義にも支えられている。デペロによって、人間は幾何学的な自然の中でロボット化し様式化する。

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 未来派は1916年23歳のボッチョーニとサンテリアの死によって一応終わるとされるが、しかし未来派の継続は1916年以後もボッチョーニを超えてという意味で、文化のあらゆる場面に見ることができた。とりわけヨーロッパの前衛に移って何らかの成功をおさめたのはバッラ、デベロ、プランポリーニ、パンナッジ等である。そしてこの継続はデペロが本質的に貢献したといっていいすぎではない。未来派はいつまで続いたかという議論は今でも盛んであるが、1916年を一つの区切りとして、その後は後期未来派と考えるべきという意見、あるいは1940年47歳のマリネッティの死をもって終わりとする考え、またイタリアのファシズムに巻き込まれて自然消滅したという見方も多いのだが、それだからこそ、とりわけ後期未来派における数多くの芸術家のなかでプランポリーニと共にデペロが政治的な未来派となることを避けつつ果たした未来派の継続の方向が、直接第二次大戦後のイタリア美術の、とくにデザインの分野に貢献したというべきで、その役割の大きさは計り知れないものがある

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 この場合、1910年の5名の未来派創立者のうち、カッラは1916年23歳にデ・キリコの形而上絵画派に参入した点、あるいはボッチョーニでさえ晩年、といっても没する1916年の直前にセザンヌに帰ろうとした点を考えると、バッラだけがデペロと共に未来派の継続を抽象主義に基づいて現代につなげたという意味は非常に大きいといえよう。バッラの今日の再評価もその辺にあるというべきである。

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 バッラもデペロもその基本はあくまでも「未来派による宇宙の再構築」だったが、バッラとともに構成したデペロの役割は芸術と生活の間の境をとり除き、自由という次元での永遠の創造であり、デペロのおかげでわれわれは誰でもそこに参加できるようになったといっていい。

 ところで、舞台芸術に関していえば、バッラはデペロほど関与していないが、デペロの演劇の貢献はとくに「色彩」においてである。色彩は抽象的な演劇の場合、演劇の総合にほかならないことをデペロほど舞台に適合させた芸術家はいない。色彩家としてのデペロはバッラと同様、時代のとくにアール・デコの色彩と無縁ではないが、デペロの場合はイタリアの分割主義・・・未来主義を経過しているために、よりイタリア的といえる。ここでイタリア的というのは、ルネッサンスの伝統の中にある明度が高く湿度の少ない色彩調和のことである

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 デペロの自動人形については、その創造あるいはマリオネットの性格化も舞台衣装の常識を超えた発展から生まれた、といえよう。1918年4月25歳にクラヴェルと強力してローマのピッコリ劇場で開催した「造形バレエ」の公演でデペロはこう自負している。「人間の要素を自由にして最大の自立性を私の愛すべき生きた構造の中で達成した。かくして私の造形バレエが生まれる。これは世界の演劇的造型再構成と確信の実現である」。

 機械の俳優=自動人形の発見は大衆レベルの感覚の新しい発見であり、これを駆使して、遊び、驚き、幻想の要素を美的作業によってデペロは記すのである。《電気仕掛けの冒険》、《曲芸的自殺と殺人》、《オートマテイツクな泥棒》といった作品たちはまさに80年前のデイズニーランドに他ならない。

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 更に1929年36歳から一年間のニューヨーク滞在はデペロに視覚上の大きな変化をもたらした。仕事自体は未来派の自由詩とこれに関連したタイポグラフィ建築と称する創造物の発見につらなる。これはデペロの創造の中でもとりわけユニークなアイデアで、この建物では、たとえば門は強い浮き彫りの文字で構成され内部は大きなガラス文字で外部に広がり、天井、家具もすべてアルファベットの文字によって暗示される。この時代、20年代から30年代まで未来派は印刷環境に注目したのだが、タイポグラフィの主物の発想はニューヨークという大都市の風景に触れたこと、摩天楼の垂直主義と人間の間の戦いを視覚的にとらえた点に要因があったといえよう。

 第二次大戦中は長期間故郷ロヴェレート近郊の小さな山村セツラーダで過ごしたが、戦後は50歳も過ぎ1948年の二度目の渡米からイタリアに帰って、デペロは故郷での永住を考えはじめた。晩年のデペロはまだ多彩な活動を続けていたが、故郷ロヴェレートに1919年に創設されていた著名な「未来派の家」においてとりわけ応用美術の領域で制作する職人の仕事を推し進めた。ここに疑いのないデペロ様式が生まれ、家具、玩具、タペ ストリー、クッションなど生活に即した生産を妻のロセッタと共に行い、やや 大げさにいえばここで新しい未来派の美学をつくりあげたのである。

 デペロにおけるより空想的で完全な創造の年代を考えると、記された彼の年譜で綿密にたどることはできるが、その華麗なまでの活動ぶりを考えれば「未来派による宇宙の再構築」の貢献から、映像の実験や演劇上の改革のための堂々たる行為にいたる、タペストリーや多彩な絵画にいたる、陽気な幻想への信仰と燃えるような表現にいたる、これらが結局デペロの個性だといっていい。

 今日のイタリアのデザインの優秀さの原点は、未来派のとりわけバッラとデペロの造形と色彩にあることは疑いえず、とりわけ豊かで繊細で輝くような彼らの色彩は単に一つのフォルムに適用されるのではなく独立の個性をもつ色彩である。

 現代イタリアのすぐれたデザイナームナーリもソットサスもバッラとデペロが存在しなかったら自らも存在しなかった、と繰り返し述べている。

■あとがき 

また、個人的な体験から-。

 デペロという芸術家を私が知ったのは1970年のことで、きっかけはローマに滞在していた日本の画家阿部展也である。「キミ、今バッサーノという町でデペロの大展覧会をやっている。絶対見るべきである」という彼の言葉に促され、デペロの名前さえ知らなかった私は、早速ローマからヴェネツィアよりまだ北のバッサーノに出掛けた。グラッパというイタリアの焼酎というべき食後酒の生産地でもあるバッサーノは、町中何かすえたようなグラッパの匂いがただよっている特異な町である。町の小さな丘の上にあるストウルム宮殿がデペロ展の会場で、彼の没後10年を記念して行われた没後最大の回顧展であった。60年代のイタリアの前衛の華麗な展開にいささかとまどっていたとき、その直接の源流であるデペロの作品群に私は圧倒されたとしかいいようがなかった。

 阿部展也という戦前・戦後を境にいち早く欧米の新しい傾向に眼をつけ、とりわけ早くから未来派に注目して日本の画壇を叱咤していた画家の姿勢を今強く想い出す。

 阿部展也はそれからまもなくローマで他界してしまったが、デペロを知るべきという彼の言葉は多分遺言だったにちがいない。