魔術師の館1919-1927

■魔術師の館1919年−1927年

 1919年の秋にロヴ工レートで産声を上げた「デペロの未来派の家」は、その後さまざまな浮き沈みを経験しながら、20年間以上にわたって活動を続けた。設立については、同年6月5日に刊行されたFクローナカ・ダットウアリタ』誌第12号に「画家デペロは家具と装飾芸術品を扱う大きな工房をトレントに設立しつつある」と書かれているように、すでにその数カ月前には報道されていた。

 「デペロの未来派の家」設立の構想にフいてはさらに以前にさかのぽり、その設立理由は直接には未来派、特にボッチヨーニの提示した、空間における物体の総合の理論と関連している。これは1915年の「未来派による宇宙の再構築宣言」で、バツラとデペロによって広範囲に議論された。

 事実、造形的ダイナミズムによる物質の総合と芸術の各分野の間にあるヒエラルキーの撤廃を掲げた未来派は、「石積みの壁からなる箱の中にあるもの」を全面的に融合させることを推し進めた。それは応用芸術や手工業生産に、新たな可能性を開くこととなった。

 こうした方向にそってr未来派の家」を運営しようというその重要な精神的兆候は、1915年から1918年の間に制作されたいくつかの作品の中にすでに表れている。《未来派の壷》、《瓶》、《ユーモラスな造形手袋》、《造形的未来派パヴィリオン》といったデッサンや、造形的構成作品《卜一ガと木喰い虫≫、《女の子の構造》(cat.no.020)、《女性の構造》といったプレーダダイスム的小彫刻(*1)がそうであり、これらは明解なその遊戯的性格にょって、1923年に制作される一連の玩具をすでに予告している。実際、芸術家が空間における形態の造形的ダイナミズムによる総合に注意を向けているという点で、これらは「未来派の家」による生産の先駆的「実験」ととらえることができる。

 演劇や舞台背景術の分野での経験もまた、デペロの素材、環境、物に対する新しい感性の展開を育むことになった。人物一物体一空間の関係を大いに劇場化しようという意図からなされた彼の家具装飾品の様々なプロジ工クトは、演劇に対する未来派的理念に多くを負っている。

 1916年、すなわちデイアギレフとの出会いの時期以降、デペロは積極的に新しい演劇的空間作りに専念するようになった。この実験は、単に本来の演劇関係の作品に結実したのみならず、20年代を通じて「デペロの未来派の家」によって制作された室内装飾、ことに「悪魔のキャバレー」のプロジ工クト(1921−22)、メラーノのグランド・ホテル・ブリストルの広間の装飾プロジ工クト、そして「未来派の夕べ」の際にロヴェレートにある彼の「未94来派の家」で行った室内装飾(1923)、シチリアのカストロレアーレ・バーニにおける「マメルティーノ邸」の改装プロジェクト、そして最後にニューヨークのレストラン「ズッカ」の室内装飾と家具調度品(1930)に生かされているの。これらすべての装飾では、物と環境とをどのように関係づけて処理するかという問題に未来派の理念が運用されている。その未来派の理念におけるのと同様、デペロにとってもまた、空間における形態のダイナミックで連続的な膨張は、演劇舞台と直接関わるだけでなく、室内装飾プロジュクトの一般的な基準となった。

 こうしてデペロによってデザインされた日用品や家具調度品は、1915年の「未来派による宇宙の再構築睾言」に「あらゆる形態、宇宙のあらゆ壱要素に対する抽象的な等価物」と位置づけられたその性格だけでなく、畔らかにスペクタクル的側面をも持つこととなった。それは、舞台空間のデザインとインテリア空間のそれとの問に全面的な対応関係を置くことか∈生まれたものである。

 デペロが「未来派の家」のプロジ工クトに反映させることになる芸術的力向の端緒をたどると、1917年の夏にまでさかのぼる。まさにこの年、デペロはカプリ島の魅惑的な気候の中、友人のジルベール・クラヴェルのとこぞで最初の布で「縫った」絵画(*2)を試みている。 演劇の仕事をする中で、彼は同じ技法を「色のついたフェルトで描く」ことに適用させてみたいと考えていた。1916年の『ナイチンゲールの歌』α衣装のための習作は、すべて着色紙によるコラージュで制作されており(*3)、この技法の長い経験が生かされることとなった。

 デペロ自身が回想しているように、切り取られた着色紙によってなされたこの実験は、当初用いられた脆弱なマルチカラーの布くずに取って替わ壱ものである。切り取られて厚紙の上に貼り付けらた紙片は、物質の持つ璧固さをよりよく表現できるのだった。とはいえ、この技法も結果としては初の予想を下回るものとなった。デペロはそれを改善するために、綿の粗布を枠に張り、その上に端切れを少しずつ縫いつけて「描いて」いった。そαガイドラインとしては、前もって紙に描いたデッサンを、その輪郭にそって小さな穴をあけ、色粉で布に転写する方法が用いられた。カプリ島では、「ロゼッタの真筆で愛情に満ちた協力のおかげで」、デペロは最初の一連¢「試作タペストリー」のグループを作り上げることができた(*4)。

 これについて彼は次のように語っている。「もちろん、あらゆる試作がそうであるように、これにもまた欠点はある。縫い目は不規則であるし、布の縫い付けも不完全だ0しかしともかく色は魅力的になったし、また人物や風景の幾何学的な表現も気に入っている」0結果は良好で、この最初のタペストリー・グループは、1917年9月8日から16日まで、アナカプリの広間で開催された、デペロの2回目の重要な個展(*5)に出品された0その展覧会カタログぐ6)には、これらのパッチワーク作品が「タペストリー(スペインの布による光景)」と記載されている。この「スペインの布」という名称は、1916年にデイアギレフがバレエFナイチンゲールの歌』の衣装のためにスペインで購入した布に由来している(ワ)0この布は舞台装置の仕事が不幸にも取り止めとなった後、デペロのアトリエに残されていたもので人それがこのパッチワーク作品に用いられたのだった。

 1918年の8月、ヴィアレソジョにおけるクールサール広間でのグループ展(*8)の際に、デペロとロゼッタはトスカーナ地方へと居を移し、よく知られた絵画作品《私と割に描かれているように、ここで優雅な小別荘を借りた。

 少なくとも8カ月に及ぶ当地での滞在で(*9)、デペロは《私の造形バレエ〉、《ゴム仕掛の悪戯、払と劃を含む主要作品のいくつかを制作し、また新しい展覧会を開催するために懸命な努力をしたのである0一方ロゼッタは、新しいタペストt」−や小さなクッションの制作に余念がなかった0

 「未来派の家」が構想された時期を、この頃であると特定することは難しい。しかしタペストリーの制作がデペロにとって重要な意味を持っていたことは事実であり、それはしだいに布による新しいプロジェクトの中核を占めるようになっていった○こうしたことから、この時期の彼の脳裏には、すでに「未来派の家」の設立構想が芽生えていたことが十分に推測できる。

 ヴィアレソジョの夕べは静かに流れていった0デペロいわく「ロゼッタは最初のタペストリーを仕付けし、縫いつけることに専念している。(一方私は)芸術の実際的な解決から思いがけず利益の出そうな仕事が生まれたことに満足して、喜びのあまり飛びはねる0地中海の広々とした紺碧の海原を前にして、安堵の息をつくと、将来はこの多色の端切れを魅力的な百リラ札 や千」ラ札に変えて見せると、予言するのだった」(*10)0

 デペロの仕事はすぐに批評家たちの目にとまり、このパッチワーク作品登場の当初から、普段はあまり使われない素材がもたらす抜群の効果への好 意的な評価が続いた。デペロにとっての技術的な問題は、布地の柔軟な表現の可能性に比べれば取るに足らぬものだった0タペストリーはその特殊な制作技術のおかげで、少なくとも彼の幻想的な童話的世界における形 態的総合を、豊かな色使いときわめて幅広い色調によって実現することを可能にした。このことは、この時期に制作されたすべてのタペストリー、とりわけ《空想的な騎士の行進》《寓話的ル工》、《セッラーダ》(c∂t.nO.053)、《大きな人形の行進》(cat・nO・054)といった大規模な作品についてあては まる。

 ミラノのパラツツオ・コーヴァに展示された作品ぐ‖)はまさに並外れた量であり、そこから1921年にデペロの工房がいくつかの部門に分かれて制作しながら、フル操業をしていたことがわかる。展覧会にはタペストリー、クッション、ポスター、劇場用デッサンなど、「未来派の家」の製品が並べられた0さらに1919年の秋に再びロヴェレートに戻ったデペロが、ウンベルトノターリ(*12)から、モンツアにある彼の喫煙室のために、フェルトによる2点のタペストリーの制作を依頼されたことが判明している。これが腔想的な騎士の行進》と《大きな人形の行進》のタペストリーであり、数カ月間に縫製されたこれら2点の大作は、新生の「デペロの未来派の家」の初期の代表作に数えることができる(♯13)。

 展覧会カタログの中でデペロは、彼の「未来派の家」の目的を初めて次のように説明している0「私の芸術工房は目下のところ、タペストリーとクッションを主として製造しております0その目的とするところはまず第一に、現在洗練された階級に入り込んでいるゴブラン織り、ペルシャ、トルコ、アラブ、インドのタペストリーなどあらゆる織物を、何としても超モダンな製品に代えたいということです0第二に、それは第一の目的に続くものですが、客間であれ、劇場やホテルの大広間であれ、また貴族の宮殿であれ、そこに新しい環境をつくりだすことが是非とも必要であり、また急がれているということです。それは時代に即応して、今日盛んに活動しているあらゆる前衛芸術を迎え入れるのにふさわしい環境のことなのです」(*14)。1920年の8月に、ノターリの注文を契機として展望が開けたこともあって、「未来派の家」は規模を拡大し、場所もロヴ工レートの「9月2日街」にあるケッペル館の大広間に移された。

 この広い場所で、デペロは1921年の展覧会のためだけでなく、さらに重要な1923年のモンツアにおける展覧会、1925年のパリ、1926年のヴェネツィアにおける展覧会のための準備をした。また最初の室内装飾、すなわちローマの「悪魔のキャバレー」のための様々なプロジェクトが制作されたのもここである。

 こうした国際的な展開からすれば、彼の活動はまさしく動きの激しいものだった0ミラノのパラツツオ・コーヴァにおける展覧会の成功と、特に作品が数多く売れたことによって、デペロは経済的に確固たる安定を手に入れることができた。1921年から翌22年にかけて書かれたと推測される小さな備忘録(*15)のおかげで、私たちは工房の主要な活動をあとづけることができる。この小さな日記に、デペロは1921年1月のミラノにおける展覧会のありさまをほとんど毎日のように記していた。そこから絵画の運送のためのケースの数や内容物の詳細など、またミラノ、そして続く3月に予定されていたローマにおける展覧会の開催期間に彼が結んだ取決めや、購入契約についての正確な情報を得ることができる。こうしてペルー領事(*16)が3点のクッションを総額1200リラで購入したこと、そして500ないし600(原文ママ)のクッションをブエノスアイレスに送るよう熟のこもった調子でさらに注文したこと、ピニヤテツリ公がタペストリー《ポジクーノ》ないしは(アルマジロに乗ったバレノーナ》を1000リラで購入したいと申し出ていたこともわかる。

 展覧会を訪れたジョルジョ・デ・キリコが絵画作品《魔術師の家》や、タペストリー《セツラーダ》(cat.no.053)を気に入ったこと、マルゲリーク・サルファッティはむしろクッションがよいと思うが、そのタペストリーも悪くはないと言ったこと、一方マリネッティは最もよくできた絵画は《影によって機械化された都市》と《魔術師の家》だと言ったことも判明する。コレクターのロデイジアーニは、9点のクッションを購入し、その中には《翼のあるマリオネット》、《花瓶》、《小さな原住民》が含まれていたぐ17)。ノクーリは結局それぞれ7500リラになった2点の大きなタペストリー《空想的な騎士の行進》と(大きな人形の行進》のための支払いを済ませ、さらにきれいなパッチワーク作品《オウムたち》を1200リラで購入した。デペロが「フ工デーレアザーリ中尉・未来派飛行士」の知己を得たのもこの頃のことである。彼は2000リラでクッション4点とパネル画を買ったのだった。

 ローマではセメノフが400リラでクッション《ネズミたちの交錯》を購入した。同じくローマではデペロの「航海博覧会」への参加が決定し、このロヴェレートのアーティストはそのためにタペストリーとクッションの中から9点を送った(*18)。

 1921年の展覧会は「未来派の家」にとってよい弾みになった。この最初の数年間に主としてタペストリー、クッション、広告のグラフィック・デザインに係わったロヴ工レートのこの工房では、特にこの最後の部門がイタリアの企業やメーカーなど、とくにミラノのダヴィデ・カンパリ社、ヴ工ルゾッキ社、ウニカ製菓社、サン・ペツレグリーノ社、スケーリング社、ストし−ガ社96などから得た多くの重要な注文のおかげで、20年代半ばから主要な収入を稼ぎだした。

 広告のグラフィック・デザインに対するデペロの興味は決して新しいものではなかった。すでに1918年、彼は二つの重要な広告をデザインしている。一つはヴィアレツジョのクールサール広間における展覧会のための、またもうひとつは、「造形バレエ」ショーのため(cat.no.039)のものである。1921年にはパラツツオ・コーヴァにおいて(*19)、12点のポスターがデペロによって展示された。

 これらの作品を通じてデペロは、企業や商業に「独創的な」広告を提供できるという自信を得た。それらは「群衆の目を引きつけ、釘付けにしてしまう」イメージの力によって、それまでの「壁の公示の生気のない単調さ」の中に独自の位置を占めることになる。ノターリは彼の雑誌にこう書いている。「このトレンティーノの若き芸術家のポスターを前にすると、道行く人は〕驚きの声を上げて立ち止まらざるを得ない。彼のポスターの色調によって、■人はまるで日の中に指を突っ込まれでもしたかのようにその動きを止めてしまうのである。彼のデザインは一時の瞑想へと誘う。ちょっとでも大衆の注意を引きつけるには、それで十分なのだ」(*20)。

 ミラノの展覧会で成功して以降、新しい注文によって、芸術制作の部門の中ではとくにパッチワーク作品と、すべてがまだ実験段階にあった室内装飾に興味深い仕事の機会が訪れた。この後者の部門で最初の重要な仕事は、「悪魔のキャバレー」という名のローマのナイト・クラグの内部装飾と調度品である。芸術家、詩人等が集まる場所だったこの「キャバレー」は、所有者だったジーノ・ゴーリの助言を受けながら、デペロによってローマのホテル・エリ一卜工・デゼトランジ工の中にしつらえられた。未来派的な文脈における環境の真の再構築といえるこのプロジ工クトは、調度品と布地モザイクによる広大な壁面の装飾によって3つの大広間を変貌させることをめざしており、ロヴ工レートの「未来派の家」と契約していた熟練の職人たちに助けられて、またたく間に完成したのである。

 1922年4月19日の記念すべきオープンの日には、マリネッテイ、友人のカゼッラ、マリピエロ、詩人ルチャーノ・フォルプレらが参列していた。現在はわずかしか残されていない家具調度品や写真の資料によると、デペロの仕事の理論論な前提となったのは、芸術の総合的な相互交流をめざし、環境空間を総合的に構築しようという未来派の理念だったことが理解できる。

 椅子、テーブル、ベンチはまったく新しい、独創的な形態の創造をめざした、造形的ダイナミズムの痕跡を示している。それは鑑賞者を巻き込み、彼らを物体の一種の延長物へと変貌させてしまうのである。すべてを遊戯的で魔術的な雰囲気が支配しており、メカニズム的な要素が入り込むいかなる余地もない。

 1年後の1923年1月、「未来派の家」は「未来派の夕べ」のためにケッペル館の広間の装飾という新しいプロジ工クトを手掛けることになった。それはすべての家具が未来派風の化粧を施されたとはいえ、基本的には壁面装飾のイベントだった(*21)。第1回モンツア「国際装飾美術展」の「トレントの間」の装飾をデペロが手掛けたのも同年である。

 すでに「悪魔のキャバレー」の室内装飾で行ったように、ここでもデペロの関心はギザギザやジグザグの奇妙な緑を特徴とし、そこにトレント地方の民衆的伝統をいくぷん加味しながら新しい家具の形をデザインすることに向かっていた。この装飾プロジ工クトは、空間を調和ある物体の総合的世界へと変貌させたもので、壁に吊るしたり、専用のガラスケースに収めたパッチワーク作品というもっとも装飾的な部分が、色彩の巧妙な使用によって、室内の個々の物と相互に影響を及ぼし合っている。

 デペロがモンツアの「国際装飾美術展」に参加したことは、この室内装飾の時だけではない。実際、デペロと彼の「未来派の家」のために大ホールが提供され、そこでパッチワーク作品、クッション、〈アナカプリの飲酒家》、(魔術師の家〉、(私の造形バレエ〉、(クランテツラの国〉といった油彩画、そして展覧会の最新作である、寓話的な人物や動物を表現した木製の一連の玩具や構築物が展示された。この最後のものは、「造形演劇」の自動人形から再度、霊感を得たものである。玩具の制作はこの頃から「未来派の家」の製品リストに入れられるようになった(*22)。そこに「未来派による宇宙の再構築宣言」との関連を指摘することは困難ではない。

 タペストリーの中には新しい3点の重要なパッチワーク作品《アルプス山脈のリズム》、《サイ〉、〈羽飾りをつけた騎士〉が含まれており、これらには同時に展示された一連のクッション《アラベスク》、《黒い悪魔》、《翼のある仮面》、〈ネズミ》などとの類似がみて取れる。モンツアでかねがね切望していた「栄誉賞」を獲得したデペロは、国際的舞台へと躍り出て行く。審査委員会にはナポリとヴェネツィアの産業芸術協会の要人たちだけでなく、年老いた彫刻家レオナルド・ピストルフィも含まれていた。

 受賞とそれにともなう名声の高まりによって、デペロはパリの「現代装飾・産業美術国際博覧会(アール・デコ博)」にイタリアを代表して、バッラとプランボリーニとともに招待された0彼は織物部門と紙工芸部門で2つの金賞、木工部門で銀賞、玩具部門で銅賞を受賞し、さらにポスター・街頭芸 術部門では栄誉賞を受けた。

 マルゲリータ・サルファッティは3人のイタリアの画家たちと出会ったことを次のように語っている。「パリの博覧会で前衛芸術の最先端を代表していたのが、ソヴィ工卜館とイタリア未来派館でした0そこでは工ンリコ・プラン ポリーニとジャ]モリてッラの建築総合体の構想、装飾や舞台装置のプロジェクトと並んで、フォルトウナート・デペロによるパネル作品が人目を引いていました。最後の作品は、生き生きした色使いと一枚一枚重ねられた布の上に縫い取りされた人物が特徴で、それが完壁な技術と洗練された趣味、図式的で時としてカリカチュア的な構図を見せているのです。彼が制作した木製人形もまた、簡潔な造形表現と面白いリズム感を効果的にねらったもので、楽しげな創意工夫の跡がはっきりとみて取れました」(*23)。

 パリの博覧会のおかげで、デペロは国際的な美術コレクターの中で注目されるようになり、彼のタペストリーや、ことに木製の玩具彫刻には熱い視線が注がれた(*24)。この予期しなかった成功によって天にも上る気持ちになった彼は、ロヴェレートで「未来派の家」をひとりで切り盛りしているロゼッタに、新しいタペストリーとクッションの注文のために、パリから何度も催促の手紙を書いている0「もう2人、職人が必要だ。ともかく探して、探して、探して欲しい0どうしても2人、押さえてもらいたい」「今日、君に書き送った、あと2人のお針子を何とかして調達してくれといったこと、よろしく頼む。生産だ、そう、ともかく生産だ0パリでは−00個、また−00個、あと1000個、もう1000個のクッション、という具合に注文が殺到しているのだ」(*25)。

 パリの博覧会カタログではまた、彼のタペストリーと面白い玩具彫刻臓槌を打つ人々》(catno朋1)がことさら評価されている0展覧会に出品した芸術家たちの短い評伝を担当した著者は次のように書いている。「これらの布製のモザイクには、非のうちどころがない0類似の色彩の繰り返し、ある−いは不調和色を使い分ける技術、全体の色彩の調和によって、細部まで生き生きとした性格が与えられ、全体として意気揚々たる印象を獲得している0デペロは勇気と良心に満ちた一連の《鉄槌を打つ人》の作者である。ロヴェレートにある「デペロの未来派の乳は、世界中に製品を送っている工場になっている。個々の製品は霊感から生み出され、すぐれた職人たちによって制作されているのである」(*26)。

 パリの「アール・デコ博」は、同じくらい忙しかった1923年のモンツアのそれからわずか2年後であり、そこから1926年のヴェネツィア・ビエンナーレ、そして1927年には再びモンツアの美術展が続いた。この時期のもっとも重要な展覧会を挙げるとこのようになるが、「未来派の家」の仕事は膨大なものとなった。それをロゼッタのすぐれた手腕が何とかしたのだった。芸術家の妻だった彼女は、しばしば長くなりがちなデペロの不在の間も、職人たちに助けられて、工房の運営を完璧に支えたのである。タペストリーの制作の一連の手順を、デベロはこう書いている。「1)デペロによるデザイン;2)技術者による原画の2倍の拡大;3)拡大されたデザイン紙の一つを裁断;4)裁断されたデザイン紙の個々の切片を布で再現。色についてはデペロが指示;5)フレームに張ったカンヴァス地に仕付け;6)かがり縫いで縫製。機械にいっさい頼らず、すべて手作業」(*27)。

 「未来派の家」の組織だけでなく、さらにその経営を理解するという点で、1925年6月から1926年の前半期にかけて、ロゼッタがデペロに書き送った手紙は興味深い。この時期にこのロヴ工レートの芸術家は、「アール・デコ博」の機会を利用して、パリのサンソヴェール街93番地(*28)にアトリエを構えたのだった。しかしそれは1926年、資金と仕事の両方が不足したために閉鎖されることになる。

 「未来派の家」の経費と借財はデペロの記述や証言に何度も出てくる話題であり、1942年にも「ともかくテナント料、輸送料、強制保管の回避の支払いに恐ろしく奔走せねばならなかったし、ホテルの宿泊料、食事を抜かしても女房を食わせ、土曜には5人、6人、いや8人の職人に賃金を支払わねばならなかった」と述懐している。

 経営におけるこうした経済的困難は、すでに彼の活動の開花期に待ち伏せていた。それはデペロがクラヴェル、ノターリ、ゴーリ、スプロヴィエーリ、フェデーレ・アザーリ、マッティオーリ、カゼッラ、シニヨしツリ、マシーン、ナーヴァ、ジャネッリといった知的な人々から注目され、愛好されて、作品がその個人コレクションに入ることを誇っていた、あの時期である。1936年に「未来派の家」の最初の10年間の活動を振り返って、デペロはこう記している。「この(困難な)時期はほぼ1920年から1930年まで続いた。精神的には満足が行かず、また経済的には茨の道の10年間だった。しかし情熱の火が弱まったり、消え去ってしまうことはなかった」(*29)。

 一方、デペロ財団に保存されている書簡からは、経済的な不満はきわめてわずかしか伝わってこない(*30)。それは大きな国際博覧会に参加し、あるいはグランド・ホテル・ブリストルのパーティー・ホールの装飾、ジヤ98ネッリがシチリアのカストロレアーレ・バーニに所有する「マメルティーノ邸」の改装などの重要な個人的注文を受けた1923年から1927年にかけての、彼の大いなる活動期についても同じである。

 ところでこの「マメルティーノ邸」の改装プロジ工クトとメツシーナのプリンチパート書店における個展の準備のために行ったシチリア旅行によって、彼のグラフィック・デザイナーとしての活動に注目が集まり、彼の作品は公的な注文を含めてシチリア島でも収集されるようになった(*31)。ことにフェルトによるタペストリー、クッションによって彼の名声は高まり、ロヴ工レートの「未来派の家」の出費をカバーすることができた。 パッチワーク作品の成功は、1926年9月にレッジョ・カラブリアで開催された第4回カラブリア・ビエンナーレにおいて公的に認められた。デペロはこの展覧会に、《実のある仮面》、《自転車乗り》、《いかさま師》を含む10点の作品を展示している(*32)。

 1927年、第3回モンツア「国際装飾美術展」に設置されるベステツテイ・トレヴェス・トウミネッリ出版社のためのパヴィリオン設計(cat.nos.085−086)の仕事は、建築方面へと展開を広げるという意味で、「未来派の家」に新しい−ページを開いたといえる。実際、それは新しい部門の設置だけでなく、広告の仕事で満杯になっていた部門を拡張することにもつながった。まさにこの時期に、ミラノのダヴィデ・カンパリ社のような国内の有名会社との間に締結された契約の大成功があり、そのおかげで広告の受注は増える一方だったのである。

 ベステツテイ・トレヴェス・トウミネッリの社名を「相互に買入し、重ねられたブロック状の巨大な文字」(*33)で構成したこのパヴィリオンのプロジ工クトは、博覧会建築のまさに革新的な作例となった。これらの文字は集められて、建築全体の周囲とヴォリュームを形成すると同時に、入口、窓、棚の上に全面的に繰り返されている。この博覧会パヴィリオンの形式は、デペロによってカンパリ社、「デペロの未来派の家」、コマレク社などの他の多くの広告キャンペーンに利用されることとなる。

 プロジ工クトは即座に成功を収めたが、前の時もそうだったように、予想を越える出費と協賛企業の支払いの問題に起因する経済的困難によって、この成功も苦い敗北に変わってしまった。ほぼ同時になされた「ボルト本」の出版も、評論家の興味を引いたにもかかわらず、金銭的には大赤字だった。 職業上の満足と経済的には大きなダメージという状況の中で、運営を少しでも好転させる可能性のある、より大きな都市へとロヴ工レートの「未来派の家」を移転させるプロジ工クトがしだいに重要な意味を持ってきた。1925年、デペロは「未来派の家」をミラノに移転させるつもりでいた(*34)。そこならば、注文者との関係がより容易になると思われたからである。1927年5月まであたためられていたこの計画については、友人であり将来のコレクターになるジャンニ・マッティオーリとの度重なる通信の中に何度も登場する。

 しかし1927年6月にはすでにニューヨーク行きの考えがもち上がっていた。デペロはマッティオーリに次のように書き送っている。「ひよつとするとアメリカに滞在することになるので、心に留めておいてほしい。私はもみの木でできた家具などを含めた(未来派の独創的なコーナーを作っていた)客間のすべてのものを12,000リラで、また私のいくつかのクッションを15,000リラで売るつもりだということを」。ここにはアメリカン・ドリーム(*35)の偉大なる幻想を求めてイタリアを去ろうとする、彼の心構えが見て取れる。

 出発の準備はほぼ1年かかり、しかも面倒な作業になった。「未来派の家」に押し寄せていた経済的困難が、それに拍車をかけた。そういった否定的な兆候があちこちからやって来たにもかかわらず、デペロはこの旅行に、揺るぎない決意と大いなる希望をいだいて臨んだのだった。

 1928年の春、同胞のアザーリは経済的成功を夢見て、ニューヨークに向かう大西洋横断を企てた。アザーリがアメリカに滞在した2カ月間にデペロとの間に交わした書簡からは、アメリカの状況が前衛芸術の実験家たちにとって、必ずしも良好ではなかったことが読み取れる。アザーリの手紙の以下の文にはそのことが明白に表れている。「一日中忙しいので、君には明日かその後に僕の印象を書き送ろうと思う。しかしすぐ君に言っておきたいのは、ここには芸術的な趣味や努力、愛といったものはさらさら無いということだ。僕はたくさんの店や画廊を見たが、目下のところ前衛などには誰も関心を持っていない。ただ商売、商売、商売。金、金、金だけだってことだ」(*36)。「広告なんてものはここでは誰も見やしない。他の都市ではどうか知らないが」(*37)。そしてさらにr要するに、ここでは問題が山積みだ。ニューヨークは考えていたものとはまるで違う!ニューヨークとその近郊にいる、すべてが同じ趣味と習慣、生活様式を持つ1千万人の住民から、たしかに富と名声の近道が蜃気楼となって立ちのぼる。だが僕はこの環境が嫌いだ、気難しいし、我々の慣れ親しんだものからはきわめて遠い。しかしまた大変魅力的なのだと言えば、君はその姿をわかってくれるだろうね。ではまた。何かの仕事の取り決めのためにここに戻らねばならないとすれば、それは君と一緒の時だろう。というのも、唯一可能な道は芸術の産業化だからだ」(*38)。

 同じ手紙の中でアザーリが、現代芸術に対するアメリカ人の全面的な無関心について戒めのように語っていたにもかかわらず、この最後の一節「芸術の産業化」に含まれた希望ゆえに、デペロの望みは膨らんだ。「より良い方法は、装飾品と家具を低価格で量産することだ。この条件は市場への参入には不可欠だ。もしうまく参入できれば、すぐにでも財産が築けることだろう。というのは、すべての人が買うのは流行ものであり、そこには洗練されたエリートやお偉方の要望も、また芸術への変も存在しないのだから」。

 デペロは工房をたたみ、3人の職人を解雇すると、未知の世界への不安と希望のつまった鞄を携えて、1928年の9月にジェノヴァ港からディーゼル船「アウグストウス号」に乗り込んだのである。