沖新田村の巻

 ■妙向寺

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 この妙向寺の寺宝に水戸候・寄進の身不動の随身仏がある。随身仏ですから平常肌身離さず持っているもので、したがって小像(金銅仏)であるが鎌倉末期の作とされている。水戸侯も熱心な日蓮信徒であるので、江戸から水戸街道を通って帰国するとき、この寺に立寄り寄進したもので、近くの一里塚を含む二町歩の山林も添えて寄進したといわれている。水戸城貴公(黄門公の略)となっているが、誰であるかはっきりしない。

 なおこの沖新田は市域内では菅谷の一部とともに天領(幕府直轄領)で、幕末のころの代官は福田所左衛門となっている。したがって明治維新後は明治二年宮谷県に属した。富谷県は上総安房知(かずさあわち)県事の所管で、県庁は宮谷村(現千葉県山武郡大網白里町)に置かれた。しかし翌明治三年(一九七〇)十月の改革で新土浦藩(行政区名)に組入れられた。

 明治四年(一八七一)の廃藩置県により、土浦県に入り間もなく新治県の設置により、新治県第一大区二小区に入った。明治八年新治県が茨城県に統合されるにおよび、茨城県第十大区二小区に入った。明治十二年郡区町村編成法の実施により大小区制はなくなり、信太郡沖新田村となった。

 明治十七年の改正連合村で、本郷・実穀・小池・上長・福田・吉原・荒川沖各村と連合して荒川沖村に役場を置いたが、明治二十二年市町村制の施行により、そのままの区域で朝日村が誕生した。こうして沖新田村の村名は消えることになった。

 村名は乙戸川の支流朝日川によったものである。しかし昭和二十三年九月一日沖新田は荒川沖とともに朝日村から分村し、土浦市に合併し今日に至っている。