太平記の里

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■曹源寺(さざえ堂)

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平成27年9月28日より平成29年7月31日(予定)において本堂大規模補修工事の為、堂内拝観できません。

■場所 太田市東今泉町165

 祥寿山(しょうじゅさん)曹源寺は曹洞宗寺院で、本尊は魚藍観世音菩薩である。寺伝によると、新田氏の祖・新田義重の養姫祥寿姫の菩提を弔うため、文治3年(1187)に祥寿院を建立したのに始まるといわれる。その後、文安元年(1444)に横瀬貞俊によって再興され、寺号を曹源専と改めたと伝えられる。また、境内には鎌倉末期から南北朝期に造立されたとみられる名号(みょうごう)角塔婆(市指定重要文化財)があり、当時この地域を支配し浄土信仰に帰依(きえ)していた薗田氏との関わりも考えられる。

 県の重要文化財に指定されている曹源寺本堂は「さざえ堂」と呼ばれ、江戸時代中頃に三十三観音、百観音信仰を背景に東北、観葉地方に限って建造された三匝堂(さんそうどう)[仏教儀礼の一つである右繞三匝(うにょうさんぞう)(堂や仏像の周りを右回りに3回廻る)]がある。寛政5年(1793)4月、大工棟梁龍舞村・町田兵部栄清(ひょうぶよしきよ)により建築された。間口、奥行きともに9間(約16.3m)、高さ55.5尺(約16.8m)であり、正面は東向きである。屋根は方形桟(ほうぎょうさん)瓦葺で正面中央には一段と高い向拝(こうはい・日本の寺院建築・神社建築において、仏堂や社殿の屋根の中央が前方に張り出した部分のこと)を設けてある。内部は三層で下一層は秩父(34ケ寺)、二層は坂東(33ケ寺)、三帝は西国(33ヶ寺)の順で合わせて百体の寄木造り、金箔の観音が回廊に沿って安置されている

 現在、埼玉県本庄市の成身院(じょうしんいん)、福島県会津若松市の旧正宗寺(しょうそうじ)のさざえ堂と合わせて、日本三大さざえ堂といわれているが、曹源寺のさざえ堂が最大である。また、「上州太田七福神」の布袋尊の木造が本堂に祀ってある。

■参考資料・栄螺堂(会津若松)

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金龍寺・曹洞宗

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■場所 太田市金山町40-1

 大田山金龍寺は曹洞宗の寺で、寺伝によると、寺名は新田義貞の法名「金龍寺殿眞山良悟大禅定門」にちなんだものです。創建は応永24年(1417)に横瀬貞氏がその祖とした新田義貞を追善供養するため開基したとされています。近年の研究によれば、金山城の重臣であった横瀬氏が文明年間(1469~1486)に創建したとする説が有力です。
その後、金龍寺は下剋上により新田(岩松)氏を退け金山城の実質的な城主となった横瀬氏(のち由良氏)一族の菩提寺として興隆しました。しかし、天正18年(1590)、金山城の廃城に伴ない、由良氏は常陸(茨城県)牛久に移封され、金龍寺も寺僧とともに同地へ移りました。現在の金龍寺は慶長年間(1596~1615)に、この地を領した館林城主榊原氏により再興されたものです。

由良氏五輪塔は9基あり、横瀬国繁から由良成繁に至る歴代の金山城主とその一族を弔うために造立されたものと考えられています。安山岩製で、それぞれに紀年銘・法名・五大が刻まれています。

新田義貞公供養塔は五輪塔の奥、最上段にあります。寛永14年(1637)、新田義貞三百回忌法要に際し造立されたものです。銘の入った石英斑岩製の基礎部の上に、安山岩製の多層塔を重ねたもので、総高は246cmです。

■牛久市・竜ヶ崎市との関わり

 時が経て、天正13年(1585)、由良成繁(横瀬一族)の子 国繁は小田原北条氏に加勢し、全国制覇を目指す羽柴秀吉と敵対する。当然のごとくではあるが、天正18年(1590)小田原城落城とともに北条氏は滅亡、由良氏もこれに殉じて滅亡の運命であった。しかし、夫の成繁亡き後を城主のごとく支えていた赤井氏(国繁の母、一説によると輝子)は秀吉軍の筆頭前田利家の元に馳せ参じ、不本意ながら北条方陣営として戦かった事と、由良家は新田義貞の末裔で、血筋が絶えるのは忍びがたいことであると、我が子の苦境をを訴える。利家は、その訴えを聞き入れ秀吉へ上奏する。上奏文を読んだ秀吉は、その真意はともかく、利家への義理立てで、由良氏の存続を許すのである。

こうして前田利家の取り計らいで存続を許された由良氏は、常陸の国、岡見氏没後の牛久城の城主となるのであるが、秀吉から由良氏へ与えられた領地5,400余石は赤井氏へのものであった。当然のごとく彼女は領地を子の国繁へ譲り、自らは得月停(後の曹洞宗得月院)という隠居所を設け妙印尼となり余生を過ごすのである。

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牛久市城中得月院                                              得月院境内 妙印尼の墓

 天正18年(1590)このように、由良氏の牛久移封に伴い、金龍寺も新田義貞の墓と共に牛久に移された。場所は現在の牛久市新地町、東林寺である。東林寺は先代の牛久城主岡見氏の菩提寺であったが、由良氏の支配下のもとで廃寺となり、改めて由良氏の菩提寺金竜寺として再興される。こうして由良氏の前途は揚々たるものかに思われたが、しかし、由良氏の牛久城主の座は国繁一代限りであった。国繁没後、その領地は没収となり嫡子に相続権は許可されなかった。その真意は今も謎であるが、かつて秀吉の庇護を受けた由良氏にとって、大坂の陣は辛い戦いであったのだろう。徳川方として戦うものの、はたして豊臣家に弓を引くことが出来ただろうか。皮肉にも新たに牛久藩主となったのは関ヶ原及び大坂の陣の功労者山口氏なのである。とにかく、徳川家は豊臣家の恩恵を受けた者たちには冷たかったのである。加藤清正や福島政則の処遇を思えば納得出来るだろう。余談だが、山口氏は城を持たず、牛久沼を見下ろす景勝地(河童の碑付近)に陣屋を築き、ここで明治維新の廃藩置県まで牛久藩を支配したのである。

 さて、牛久城は廃城となり、城主の座を失った由良氏は東猯穴(ひたち野牛久駅付近)に僅かな所領を許され幕末まで続くのであるが、多くの家臣たちは浪人となって市井に溢れたことであろう。これに伴い、寛文6年(1666)金竜寺と義貞の墓は、幕府の庇護を受けて、ちょうど牛久沼の対岸、若柴の古寺を改修してこに移されたのである。

このように、義貞の墓は越前国称念寺から数奇の運命を経て常陸国若柴金竜寺に変遷され、現在に至ったのである。尚、福井県丸岡町の称念寺には屋根付きの立派な義貞の墓が今も残っていて、県指定史跡となっている。更に群馬県太田市の金竜寺には新田義貞三百回忌法要に際し造立された立派な供養塔が建っている。それらは義貞にとって由緒深いところで、彼の事跡を振り返るに於て意義のある史跡と言えるが、いずれも再興されたものである。つまり、ご当地金竜寺に祀られた五輪塔こそ正統な流れを汲むものであるが、幾多の変遷には為政者たちの手の届かない人の思惑が加わり、墓の正当性を証明するものが筋書きどおり運ばれたとは限らない。また、新田氏と由良氏の関係の不透明さは、更にその信憑性を低くしている。まして、新田義貞にとって、常陸国若柴は、無縁の地であるがために、史跡としても、あまり重要視されていない。悲運の武将新田義貞は、没後もどこまでも悲運なのか。彼にとって血筋とは違う由良氏によって祀られ続けている。否、ここで血筋のことを言うのは止めよう。川の流れのように、血筋だって歴史の激流の中で新田氏と由良氏はどこかで混じり合っているのかもしれない。明治になって、由良氏は新田氏に改姓したという。旧水戸街道若柴宿の一角、新田義貞の墓は金竜寺本堂の裏手にひっそりと佇んでいる。周りは竹薮で囲まれていて薄暗く、訪れる人も少ない。ああ、これが義貞の墓か、と思わせるほど貧弱であるが、幾多の風雪を耐え忍んだ歴史の重みを感じることが出来る。

 ■大光院

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■場所 〒373-0027 群馬県太田市金山町37−8

 大光院(だいこういん)は群馬県太田市金山町にある浄土宗の寺院である。山号は義重山。詳名は義重山大光院新田寺。通称「子育て呑龍(こそだてどんりゅう)」、「呑龍様」もしくは「呑龍さま(どんりゅうさま)」。東上州三十三観音特別札所、群馬七福神の弁財天。中島飛行機で開発された百式重爆撃機という航空機の愛称「呑龍」は同寺院の通称から名づけられたものである。

 慶長18年(1613年)、徳川家康が先祖とする新田義重を祀るために呑龍を招聘して創建。境内裏には、新田義重や呑龍の墓がある。義重は九条兼実に従い法然上人に帰依した。建久6年(1195年)3月に寺尾城内に大光院を建立した[1]。時を経て、家康は観智国師・土井利勝・成瀬正成に遺跡を探させ、墓石と礎石などをここに移した。

■参考資料 新田家と足利氏の家系図TIPS2402