大永平寺展

000■道元禅師生涯の軌跡

菅原昭英

▶無 常

 道元禅師(一二〇〇〜五三)は、正治二年(一二〇〇)京都に生まれた。父は村上源氏正統の久我通親(くがみちちか・一一四九〜一二〇二)、母は藤原氏摂関家のひとり松殿基房(まつどのもとふさ・一一四四〜一二三〇)の娘であるとされてきた。しかし、わずかな基本史料を分析し直し、実父を通親の息通具(みちとも・一一七一〜一二二七)とする説が、近年有力である。両親について異説があるにせよ、道元禅師は間違いなく貴族社会でも上流の出身であった。養育は母方おそらく木幡(こはた)の山荘で行われた。のちの道元禅師の著書に垣間見る和漢の教養は、この幼児からの教育環境に負うところがあったろう。

 道元禅師は八才の時に生母と死別した。死にゆく母親は、幼い道元禅師に、出家して「後世(ごせ)」を弔ってくれるよう遺言して逝った。この遺言にはいくつかの背景がある。

 まず日本の貴族社会において、身近な人の死にあうと人々の気持は、異常に混乱した。九世紀以来の平安京では、権威ある政治秩序のため、死者のけがれを極端に排除する建前があった。内裏(だいり)・朝廷は、最も清らかな空間を維持するため、死傷に接した人を寄せ付けない。それゆえに、朝廷に出仕する人々は、瀕死の人に近付かないよう厳しく細心の注意を払う必要があった。とはいえ親しい人と最後の時を共にしたい、死に別れても死者と生者のつながりを維持したいという強い人情は避けがた社会であった。そこで人の死を、仏教の「無常」という普遍的な言葉でうけとめ、納得するほかなかった。この無常を正面から受け止めた者は、仏教の信仰を深め、さらに強く受け止めた者は、出家の道を選ぶ。道元禅師はしょうばう止りんぞう一すいもんき『正法眼蔵随聞記(せいほうげんぞうずいもんき)』(下図)のなかで「我、始めてまさに無常によりて聊(いささ)か道心を発し、あまねく諸方をとぶらひ」と述懐している。また「志の到ざることは、無常を思はぎるに依るなり」という。みずからのモチベーションを深く顧みた言葉であろう。道元禅師が後々までも重視した「無常」の受け止め方は、比重を各自に迫りくる死への対処に置くとはいえ、生母との死別を嘆いた「無常」とも一続きであったに違いない。

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▶遁 世

 貴族社会では、親を失い後ろ盾のなくなった子弟に、貴族の一員として生きてゆく道はなく、多くは出家させられた。僧侶社会に生きてゆく道がありえたのである。道元禅師の場合、実父が、通親にせよ通具にせよ『尊卑分脈』などの系図に、道元禅師の存在は確認されない。これは貴族の中での、その立場の弱さを暗示する。一方、もとふさゆうし母方の祖父基房(もとふさ)は、松殿家のために道元禅師を猶子(ゆうし・兄弟・親類や他人の子と親子関係を結ぶ制度)とし、元服させようとしたといわれる。貴族としての将来はまだ残っていたはずであるが、道元禅師はこれを退け、実母との約束によって出家を選んだという。

 道元禅師の時代の僧侶社会には、二つの領域があった。まずひとつめとしては、身分制の上下秩序が色濃く浸透し、身分制社会の一翼をなしていた寺院勢力の領域である。寺院勢力は、寺領荘園を経営し、また政治権力の側面があった。ここでは、仏教と寺院が身分制社会の骨組みの一部になっている。

 ふたつめとしては、出身身分から離脱し、身分なりの とんせい生活方法がないかわりに、身分的制約もない「遁世」の領域があった。これは「聖(ひじり)」と呼ばれ、二重出家ともされ、穢(けが)れを忌避(きひ・きらって避けること)する政治秩序への反発の面も含む。まさに社会秩序の中で流動的な潤滑油のような存在といえよう。聖には念仏聖・持経者など様々の遁世がいて、坐禅修行をするものもあった。また遁世は、十一世紀以後しばしば寺院組織の外部に、寺領・私領・無主の地の中で耕作されてない空閑地を利用し、別所とよばれる拠点をつくった。別所は、講会など信仰の営為や勧進活動(中世の戦乱による寺社の炎上や寺社領の衰退のため,勧進聖(ひじり)や御師(おし)たちが諸国を回り,勧進帳を読みあげて,たとえ一紙半銭といえども喜捨すれば神仏の加護を得ると説き,結縁(けちえん)を勧めて資財を集め,社寺の復興に努める)の拠点となる。勧進聖(諸方を勧進して歩く遊行(ゆぎょう)の僧)は、活動領域に制約がなく、その活動を通して外郭的に寺院勢力に関わった。また遁世の拠点は、寺院に発展していく場合があった。

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 道元禅師は、十四歳で比叡山の延暦寺戒檀院において菩薩戒(ぼさつかい)を受け、公認された僧侶の身分を得た。これは前者のコースであり、出身身分と努力次第で、僧侶として華々しい地位に昇ることができた。『三祖行業記(さんそごうぎょうき)』『建排記(けんぜいき)』などの伝記によると、道元禅師は鋭意経典の学習を進めるうちに、やがて大きな疑問を抱えるようになったという。道元禅師が、権威ある顕教・密教の究極の教ほんらいほんぼつしようてんねんじしょうしん理とみたのは「本来本法性、天然自性身」、すなわち「もともとすべては本質的に内に悟りを宿しており、ありのままが清らかな悟りの姿である」という理論であった。これは本覚法門(ほんがくほうもん)呼ばれて、この時代に隆盛を誇った。自分も世間もありのままで、究極的にはすでに悟りを実現している、という。十二世紀には地獄におちる恐怖が大きく広がっていた。この理論はその恐怖を薄めたかもしれない。しかし道元禅師は、「もしそうならば、どうして諸仏はわざわざ志をたて、修行し、悟りを開かねばならなかったのか」という疑問に直面した。これを、純粋な教理上の疑問とみることもできる。また寺院勢力が 身分差別観をも全面肯定し、僧兵が跋扈(ばっこ)して政治的にも収拾がつかず、仏道に専念できる環境も乏しくなっていた現状に対しての、批判をこめていたとみることもできる。いずれも一理ある。しかし、もしこの教理が若い道元禅師にとって、深く抜き差しならぬ課題であったとすれば、それは、この理論では「無常」の欺きにしっかり応えることはできない、死者と生者との思いがひとつになることはできない、という道元禅師の素直な直感があったからではなかろうか

法勝寺

 道元禅師は、その頃この疑問をもって、父方の一族にあたる園城寺(おんじょうじ)の公胤(こういん・一一四五〜三一六)を訪ねたという。公胤は、天台宗の抜きんでた学僧であったが、法然(一一三三〜一二一二)の専修念仏に心服し、栄西(一一四一〜一二一五)とも、公胤が別当をつとめる法勝寺(ほっしょうじ)をめぐつて交流があった。公胤は、道元禅師の問いに対して、理論的な答えがあるにはあるが、満足いく答えを得るには、宋国に行って修行すべきだろう。取りあえず京都の建仁寺を訪ねるとよい、と助言した。

建仁寺-

 道元禅師が建仁寺に腰をすえたのは、十八歳の時(一二一七)という。建仁寺は、二度の入宋をはたして宋代の禅宗を伝えた栄西が、鎌倉幕府の支援のもと、京都の六波羅の近くに建立した寺院であった。栄西は、戒律の励行を呼びかけ、これを新しい禅宗の特色として強調していたが、入宋以前から引き続いて、勧進活動を得意とし南宋の阿育王山(あいくおうざん)や天童山の建築にも責献した

阿育王山

 このため栄西の国際的信用は厚く、建仁寺は日宋交流のはっ拠点となっていた。栄西自身ほ、東大寺の大勧進職や法勝寺の九重塔再建の勧進に貢献し、権僧正という名誉にも浴した。しかし栄西をふくめて栄西の門弟たちは、出身身分から離脱した「遁世」の境涯にあった。道元禅師は、建仁寺に入れてもらうことによって、比叡山の僧侶として順調な出世コースのある立場を捨て、遁世の仲間になってしまったのである。これは道元禅師の生涯の一段階を画す大きな決断であった。のちに道元禅師は『正法眼蔵随聞記』の中で、遁世について度々語ったが、いずれの場合も自身と門弟たちが、すでに遁世であることを、当然の前提にしていた。

 栄西の没年からして、道元禅師が、生前の栄西に直接出会えたとしても、わずかの機会にすぎない。道元禅師が実際に師事したのは、栄西の高弟としての明全(一一八四〜一二二五)であった。

入 宋

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 貞応二年(一二二三)明全は、六波羅探題(ろくはらたんだい)からの過書(かしょ)(通行証、上左図)と後高倉上皇の院宣(上右図)を得て、門弟の道元・廓然(かくねん)高照とともに京都を出発し、西海道を経て、宋国に向けて航海の途についた。現在永平寺に伝わる過書も院宣も、原本ではないが、同時代の一般的古文書に「道元」の名が確認される初見である。またこの時、明全が携行した東大寺の戒牒が永平寺に伝わり、道元禅師親筆の奥書がある(下図)

明全戒牒

 この戒牒(かいちょう)は正治元年(一一九九)十一月八日付であるが、それは明全が比叡山で登壇受戒していることと明らかに整合しない。道元禅師の奥書によって、日本と宋国の戒律の制度が異なるという事情に対応するために、明全が、入宋の時にのぞんで、この戒牒を用意していったことが判る。寧波(ニンポー)に着岸して、明全だけがいち早く上陸できたのは、この戒牒を持っていたためであろう。

 道元禅師たちが乗ってきたのは、日宋貿易船であったので、停泊中の船内にひとりの年老いた中国人僧が買い出しにやってきた。道元禅師は、この僧にお茶をふるまい、話しかけた。宋国の僻地であった萄(しょく・四川省)の出身で、各地で修行し、やっと寧波に近い阿育王山において典座(てんぞ)の役職に任命されたところという。明日の端午節に、修行僧たちにご馳走する麺の出し汁のため、日本産の茸を買い求めに来たのであった。道元禅師は、一晩ひきとめて話をきかせてもらおうとしたが、断られてしまった。彼は、自分は典座なので自らその仕事をするのが修行なのです、また外泊の許可も得ていない、という。道元禅師は、あなたは高齢なのになぜ煩わしい典座の仕事などしておられるのか、坐禅の修行や公案の研究に専念されないのか、と尋ねる。すると老僧は大笑いして、外国からきた好青年よ、君は修行のなんたるかをお分かりでない、文字のなんたるかをご存じでない、というではないか。大いに驚いた道元禅師は、文字とはなんですか、修行とはなんですか、と、畳み掛けて問うた。典座は答えて、君がその質問をしっかり持ち続けるならば、きっとものになりますよ、という。道元禅師は、理解できなかった。典座(てんぞ)は、阿育玉山にいらっしゃい、またお話しましょう、といって帰って行った。後に道元禅師は、このエピソードを『典座教訓』(一二三七、下図に取り上げ、この典座との後日談にも言及し、大恩の人である、といっている。確かにこの衝撃的な出会いは、道元禅師のその後の求道のあゆみを、大きく方向付けるものであった。

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 中国において唐代から以後、禅宗は、他の仏教諸宗と一線を画して発展を遂げてきた。道元禅師は、建仁寺においてその一端に触れていたとはいえ、入宋して本場の禅僧や禅宗寺院に目の当たりにし、次々に感銘をうけるけさことがあった。たとえば、お袈裟を着用する時の作法である。隣の単(たん・席)の僧が、頭上にお袈裟を載せ低い声で偈(げ)を唱えるのを聞いて感動に震えている。経典研究からは知りえない、インド伝来の仏道実践の世界を感じえたからである。また道元禅師が強い関心をもったのは、日本で未だ知られていなかった嗣書(ししょ)の存在である。道元禅師のいう嗣書には、経典解釈の系譜でなく、仏道体得を認証してきた系譜、すなわち釈尊から当人にいたるまで中断のない系譜が図示される。先に入宋していた日本僧隆禅(りゅうぜん)の手引きにより最初に拝観することを得、その後も機会に恵まれて、その都度、深く感銘した。しかしインドからの継続というのなら、書式も一様であるはずなのに、書式が何種類もあることを知って、道元禅師は疑問が生じた。そしてその疑問を率直に語り、これをバネに、かえって、日常的基準で判別可能な婆冗と、悟道の尊さを休得することとの間には、質の差があることを思い知らされたのである。このことは『正法眼蔵嗣書』(一二四一、下図左)に詳しい。

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 道元禅師は、寧波や杭州の周辺に散在する禅宗寺院を歴遊して、宋代の禅僧の在り方に、通じるようになったが、自らの強い求道心にしっかり応える禅匠には、なかなか出会うことがなかった。そういう状況で、慶元年(南宋・一二二五)五月、道元禅師はついに天童山の如浄(にょじょう・一一六二〜一二二七)に逢い師と弟子として互いに全幅の信頼を寄せ合うことになった(上図右)  

 その直後、道元禅師たちを率いてきた明全は天童山の病室にあって、道元禅師の報告に満足しながら、客死した。天童山といえば、栄西が資財をもって建築に貢献した寺院であったが、如浄と道元禅師の間に芽生えたのは、栄西の場合と異なり、資財を介することのない直接の信頼関係である。重源・栄西、道元禅師に少しおくれて入宋した円爾弁円(えんにべんねん・一二〇二〜八〇)たちが南宋寺院の資金的期待に応じたのと比べると、日中仏教の交流は、新しい段階に入ったといえよう。

 当時、南宋の首都杭州や貿易港寧波を中心に散在する巨大な禅宗寺院の住持は、先代の弟子ではなく、禅僧たちの間で評価の高い禅僧が推薦され、南宋皇帝が任命する制度であった。如浄もこの制度によって天童寺住持に就任したのである。如浄は禅宗の中でも少数派の曹洞宗法系にあったけれども、隆盛を極めている臨済宗の禅僧に対しては、忌憚(きたん)のない批判を公言した。如浄は、宋代禅宗の一般的傾向に反し、特に坐禅の実践を重んじた。また道元禅師に国王大臣に近づくな、と教えた如浄の厳粛で情愛のこもる指導は、『正法眼蔵随聞記』『正法眼蔵』のなかに繰り返し反芻されている。中国と日本との寺院制度や信仰文化の落差は大きかったが、その相互認識を踏まえつつ、師匠と異国の弟子との間の深い共感と摺り寄せが実現していったのであろう。『宝慶記』(下図左)は、具体的にその様子と結果を伝える道元禅師の記録である。

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 こうして「無常」から始まった道元禅師の求道のあゆみに、最終的な決着の時が熟した。宝慶元年(一二二五)道元禅師は、如浄から仏祖正伝菩薩戒を授けられてそのつ法を嗣ぐことを許され『仏祖正伝菩薩戒作法』上図右)、なおしばらく如浄の許にあって、合血による嗣書を与えられ、宝慶三年帰国した。

深 草

普勧坐禅義

 道元禅師は京都に戻り、はじめ建仁寺に身を寄せた。次に京都の南の郊外にあたる深草の地を選んで移住し、やがてここに興聖寺を開創した。この間、四六餅償体という格調の高い漢文を駆使して、坐禅の普及のため『普勧坐禅義』(一二二七、上図)を著わし、坐禅の意義と方法を明らかにした。また和文を用いて『弁道話』(1231)を書き、中国で体得しえた仏道の真実を、日本の信仰文化のなかで丁寧に解きほぐしてゆく努力を開始した。このふたつの作業を通じて、道元禅師の決着がなんであったかが示されてゆく。『弁道話』では、坐禅の修行をするとその場で悟りが顕現し、当人も知らず知らずのうちに、影響の波紋が身の回りから果てしなくひろがり、時空を超えてその悟りが通じ合う中で、いよいよ確固として修行が展開する、という。また在家の得悟を肯定し、得悟における男女差を否定したその禅思想の独創的で開放的な特色が浮かび上がる。しかし帰国後の道元禅師が、日本の寺院制度の中において、遁世の境涯にあることは入来以前と変わらなかった。それは観音導利院(興聖寺)に僧堂を建てるための勧進活動にょっても明らかである。興聖寺もまた遁世のための寺院にはかならない。

観音導利院(興聖寺)-1 観音導利院(興聖寺)

 興聖寺の僧堂は、中国様式で珍しく、京都では評判となり、見物の僧俗が集まったという。やがて、達磨宗と称し入宋せずに禅を唱えた大日房能忍(だいにちぼうのうにん)の系統をひく人々が、本格的な修行僧として集団的に移籍してきて、道元禅師の僧団は充実期に入っていった。この時期に和文による『正法眼蔵』の著作活動が盛んに行われた。和文の文脈による華麗ともいうべき、禅思想の展開は日をみはるものがある。そしてこれに並行して、漢文体による上堂が行われた。上堂とは、中国の禅宗寺院の中で法堂(はっとう)の須弥壇(すみだん)の上に登り、僧俗の修行者を相手に行う最も公式の説法である。道元禅師は、日本において最初に上堂を行ったことを自ら誇った。漢文こそがこの時代の東アジア世界の共通語であり、上堂のスタイルは禅宗ネットワークの国際基準であった。如浄の門下としても、日本の信仰文化への自負からも、民族の差を超えて普遍的真実を発信しようとした道元禅師の立ち位置を示すものと思われる。禅僧の語録は、上堂法語を根幹として編集された。道元禅師の語録(『永平広録』、下図も、門弟達がこの方針によって編纂している。

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▶越 前

 寛元元年(一二四三)、道元禅師とその僧団は、にわかに越前国志比庄(しひのしょう)に拠点を移した『正法眼蔵山水経』(一二四〇)など、早くから道元禅師の山への思いは深かったが、この大移動の理由はいろいろ推測されている。

(一)深草の興聖寺を破却される事態にあったこと。

(二)興聖寺の隣地ともいうべき位置に、財力をかけて巨大な東福寺が創建され、臨済宗の円爾弁円が開山となったこと。

(三)六波羅探題に勤務する鎌倉武士の波多野義重は、道元禅師を自宅に招いて説法を聴聞するほどに親しくなっていたが、その所領が越前国志比庄であり、強く勧められたこと。

(四)集団移籍してきた達磨宗の人々の拠点波著寺(はじゃくじ)が越前国にあって、道元僧団の多くにとって気心の知れた土地であり、道元禅師の意向を実現しやすいと考えられたこと。

 などが、あげられる。また如浄から受けた「国王大臣に近付くな」という教えを再 えつ確認したとも、如浄の故郷が「越(えつ)」なので越前の名にひかれたともいわれる。きっかけと条件が何重にもあったにちがいないが、この決断には、道元禅師特有の構想があったことだろう。その構想の中で重要なのは、京都の政治権力との距離の保ち方であろう政治権力の一部をなすような寺院勢力から自立して、遁世の寺院であっても、霊地霊場としての内実ある寺院の創建をめざしたと考えられる。波多野義重が開基となり、適地を探して創建された大仏寺は、やがて永平寺と寺号を改めた。このころ永平寺の山奥から梵鐘の音が数多く聞えたり、道元禅師が布薩説戒(ふさつせっかい)している方丈の明障子に五色の雲が映ったりしたという。京都から参詣に来た貴族の同席が記録され、見た人々の交名(きょうみょう)や起請文(きしょうもん)が作られた。のち嘉暦二年(一三二七)勧進活動により鋳造された初めての梵鐘(参考図版)の銘にも、鐘声の伝承が刻まれた。永平寺は「霊地」として認識されている。すでに道元禅師自身にとっても、仏祖と感応道交する霊地が、永平寺に実現しはじめていたことであろう。

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▶鎌 倉

 宝治元年(一二四七)道元禅師は、鎌倉に出向いた。これは執権北条時頼の招きに応じたというが、この旅を企画したのは、波多野義重と考えられている。義重の司にあたるのは六波羅探題北方(たんだいきたかた)北条重時であり、その娘の姉妹が義重の妻と時頼の妻になっていた波多野氏らには、信仰だけでなく、政治的立場に関わる思惑があったろう。他方、帰国当初に中国の在家居士を讃えた道元禅師としては、果たして日本にも在家居士が育ちうるか、可能性を見極める必要があったろう。在家居士が悠久の信仰に誠実であり続けるか。それとも自ら参禅修行することで、むしろその政治的立場を神秘性で覆ってしまおうとするか。時頼は、最も可能性のある人物だったろうが、道元禅師の在家居士への期待は失敗におわった。

波多野義重-1 波多野義重

 一方、日本の遁世の場合は、各々捨て切れないしがらみを抱えていても、信仰に命を懸けているという強い身分的建前が生きていた。この点で在家居士とはまったく異なる。道元禅師が、このころから出家の意義を強調するのは、まさにこの身分制を離脱する身分的な自己選択を多としたからであろう。中世の身分制社会が、遁世する人を生み出し続けるかぎり永平寺をめざす出家も尽きないことになる鎌倉下向の結果は、出家への肩入れを決定的にした。万人に対し、可能なら出家することを進め、在家男女の得道はない、とした。信仰を主導するのは出家であって在家ではない、というインドからの仏教の枠組みを再確認している。しかしこれはむしろ中世身分制社会の実態に寄り添った判断の結果であった。

▶公 界(くがい)

 鎌倉から戻ったあとの道元禅師は、永平寺に籍をおく出家僧団の運営に、以前にははっきりしなかった新しい視点を明確にした。宝治二年『庫院須知(恥21)において、永平寺庫院の貯蔵米を「公界米(くがいまい)」と名付けている。「公界」は、宋代の禅宗の用語である。この言葉は、参禅修行者が遍歴する広大な空間を想定していた。「公界の礼」「公界上堂」という用例からわかるように、公開された公共の世界で、共通のルールによって成り立つ。「公界の手巾(手拭い)」は、私物の手巾と区別され、修行僧が共用する手巾であった。永平寺の「公界米」とは、常住物(じょうじゅうもつ)であり、各地から集まってくる修行僧の公的に共用すべき米を意味した。施主が銭をもって修行僧に斎食を施入した時、一時的に公界米を用いてもよいが、その分は必ず買い求めて補充して置かなければならず、施入された銭を他の用途に使ってはならない。また、公界米で、冬至・改歳用の菓子をつくったり、おかずに変えたり、部外者に貸出したり、薪炭に換えたりすることも禁じた。この規定には、道元禅師の「公界」の理念と、同時代の流通社会への対処との両面が、示されている。道元禅師は、果てしなく広がる公界の拠点を、ここ永平寺に築こうとしたのであろう。早くから『正法眼蔵』には重要な意味をもつ「公界」ということばが散見するが、その社会的理念としての意義を、ついに文章に残してもらえなかったのは残念である。

 次に翌年(一二四九)『永平寺住侶制規(じゅうりょせいき)』がつくられた。永平寺の住侶は、天皇などの護持僧として参勤したり、道理があっても朝廷・幕府に訴訟したり、僧綱(そうごう)や寺院勢力の中の役職についたり、貴族諸家の例時作法に招請されたり自他の寺院の勧進活動を請け負ったり地頭・守護所の政所に訴訟を起こしたりしてはならない、とし、祈祷する験者に招かれるのも、施行を待ち受ける他所の僧徒の仲間になることも墓所の供僧や三昧(さんまい)僧になることも禁じた。列挙された項目は、この時代に遁世僧が社会に関わる場合としては、いかにもありふれた多種多様な事能である。しかも禁止されたのは、共通して世俗の権勢に従わざるをえない場面ばかりである。永平寺の住侶もまた、寺の外で直面しかねない事態であったろう。この規定が主張するのは永平寺の住侶(じゅうりょ・その寺に住む僧侶)は遁世の境涯にあっても、この屈辱に甘んじさせないという決意である。永平寺の維持すべき社会的性格を、明解に具体的に示している。これを貫き、裏打ちする社会的理念は、道元禅師風に捉えられた「公界」であったと考えられる。なお『永平寺住侶制規』は、この規定を朝廷か幕府かに「仏法興隆」のため承認させる手続き書類として起草されていた。

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 道元禅師は、建長四年(一二五二)秋に病を得、療養 ゆいげのため京都の俗弟子の許に身を寄せ、翌五年八月遺偶(別れの詩)を残して、数え年五十四歳、ここに示寂した。

 道元禅師の軌跡は、人類普遍の課題を、日本の信仰文化を通じて幼児から背負い、同時代として希有の異文化体験を通して達成した、懇切で実践的な回答であり、それは今日にも直結する。しかし同時にまた、身分制社会と対峙した歴史的な軌跡でもあった。そこから何をどう汲み取るかも、ひとつ大切であると思われる。

(すがわら・しようえい 駒沢女子大学名誉教授)