画家と戦争

 ■戦時の美術

▶美術史の空白か〜

 河田明久

 「戦中の美術を研究しています」というと、「戦中に美術などあったんですか」と怪訝な顔をされることがある。答えはもちろんイエスだ。戦争のただ中にもかかわらず、否ただ中だからこそ、絵も彫刻も、それまでにもまして旺盛な制作が繰り広げられたという側面がたしかにあった。

 もっともその表情は、それ以前とも、以後とも微妙に異なってみえる。ここではそれらを、とりあえず戦時美術と呼ぶことにしよう。どんな美術もそうだろうが、この戦時美術にも二通りのニュアンスがある。すなわち「戦争のなかの美術」と、「美術のなかの戦争」である。

 戦争という事態に直面して美術家たちはどうふるまったか。「戦争のなかの美術」とはこのことをさす。だがその答えは、問いほど簡単ではない。

 まず戦争そのものの性格が刻々と変化する。少なくとも、局地の小競り合いからずるずると泥沼化した日中戦争の段階と、連合国のすべてを敵にまわし国家の稔力を挙げて死闘を演じた太平洋戦争では、社会への影響のあり方がずいぶんちがう。同じ太平洋戦争でも、上り調子の初期と、敗勢が覆い難くなった末期の雰囲気は、ひと続きの戦争とは思えないほどかけ離れている。

 それに、これを受けて立つ美術家たちの側も、事情は人によって様々だった。

 立場や年齢のことを考えればわかりやすい。たとえば従軍して戦争画を描くような画家の多くは、すでにそこそこキャリアを積んだ働き盛りの中年だった。早い話、あまりに老人では戦線への従軍取材は難しいし、さりとて無名の若手にはそもそも従軍画家の声がかかりにくい。応召し、命を落として戦没画学生になるか、戦争画家として働くか、戦争との直接的な関わりは避けてあくまでも従来の制作を貫くか。かれらの戦中の生き方をある程度まで決定づけていたのは、その世代だったといっても過言ではない。

 また、かれらのようないわゆる芸術家と、図案家や挿絵画家といった実用の分野に片足を突っ込んだ作家たちでも、戦争への意識や関わり方は同じではなかったろう。男女のちがいも同様だ。男たちが日々戦い、傷つき、死んでゆく戦争という日常において、女性画家の思いが男性のそれとまったく同じであったはずはない。

 しかも、作家には各々の作風というものがある。伝統的な美意識にさおさす日本画家もいれば、西洋の潮流を意識せざるを得ない洋画家もいる。私的な眼差しにこだわるものもあれば、社会への発言こそが作品の意義と考えるものもある。抽象絵画やシュルレアリスムのような実験的な制作を試みる作家がいるかと思えば、一方にはそれをはるかに上回る数の保守的な作風の作家たちがいる。海外で体験をつみ、広い視野をそなえた作家と、そうでない作家のあいだでも、日本の戦争のとらえ方は異なっていたはずだ。

 さらにいえば、美術の世界の住人は作者ばかりではない。昭和の初期にはすでに、新開や雑誌のような展覧会を取り巻くジャーナリズムの世界が出来上がっていた。それらは美術を報じるだけでなく、メディアイベントの主催者として積極的に美術家たちを巻き込んでゆくこともあった。戦中の美術を支える大きな力の一つは、まちがいなくメディアイベントにかける新聞社の熱意だった。大新聞社が肩入れしたいわゆる戦争美術などは、芸術であると同時にプロパガンダでもあり、かつまた別の側面は興行主である新聞社の商材でもあった。「戦争のなかの美術」 の奥行きは、だからなかなか深いのである。 こういう背景を踏まえてみれば、いわゆる戦争美術の表情も一様ではありえないことがわかる。同じ戦争の主題を描いても、作者の立場や志向に応じてその表現のあり方は異なってくる。「美術のなかの戦争」も多様なのだ。

 戦中のある時期から、軍は美術家たちに従軍を呼びかけ、その成果を記念碑的な大画面に残す企画を立ち上げている。これらは当時、作戦記録画と呼ばれた。作戦記録画が取り上げるのはもちろん、重要な軍事的主題のクライマックスの場面なのだが、折柄そんなものは、物心両面にわたる軍のサポートと、空想を自在に描きこなせるだけの資質がなければ措きようがない。なかば写生旅行のつもりで大陸や南方を訪れた多くの画家や、その機会すらもたない大多数の画家が措いたのは、もっとありふれた、しかし実際の見聞に根差した、前線や占領地、それに銃後国内の一コマだった。

 また作戦「記録」画というからには、そこには一定以上の写実性が欠かせない。作戦記録画の担い手が再現描写の技量に長けた洋画家に偏りがちなのは、ある意味当然だった。では、公式の戦争画にはお呼びのかかりにくい日本画家や、従軍そのものに二の足を踏みがちな老大家は、画家の立場からの戦争協力を怠っていたのかといえば、もちろんそんなことはない。写実的な絵を描かず、戦闘の場面も描かないかわりに、かれらの多くはそれ以上の熱意をもって、霊峰富士や旭日を措き、元殖や楠木正成の合戦の場面を手がけ、数多くの仏画を制作し、愛すべき祖国の山河を風景画に描いた。戦争を支えていた文脈が失われた現在、それらを偶々展覧会などで見かけたとしても、そこに戦争の影を見て取ることはもはや困難かもしれない。だがまちがいなく、それらも戦時美術の一月ではある。ここを見落としていては、美術のなかの多様な戦争の姿は見えてこないだろう。

 本書に目を通し、戦争のなかの美術と、美術のなかの戦争がはらむ奥行きにふれたうえで、なんだ、戦時という特殊な事情はあるにせよ、画家たちのふるまいはごく普通じゃないか、と思っていただければ、編者としてこれほど嬉しいことはない。戦中にかぎらず、戦争の前も後も、そして今も、美術家たちはあたえられた資質と立場に応じて、日々自身を取り巻く世界との交信を続けているからだ。囲い込まれがちな戦時美術をふつうの美術のように眺めることは、数多あるふつうの美術を戦時美術のようにとらえ返す姿勢にも通じている。戦中の美術をあらためて見つめる意味、というか美術の世界への本当の寄与は、どうもここにあるように思えてならない。

(かわたあきひさ・千葉工業大学教授)