永平寺の歴史

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高山幸典

▶永平寺の創建 

大仏寺

 道元禅師(一二〇〇〜五三)は寛元元年(一二四三)七月、六波羅探題の評定衆(ひょうじょうしゅう)で、越前国志比荘地頭であった波多野義重の支援のもと、京都から越前に移り、寛元二年(一二四四)七月、傘松峰大彿寺を開創する。大彿寺は二年後に吉祥山永平寺と改称され、今日までその法灯を伝えてきた。道元禅師の時代の伽藍は、僧堂(坐禅など修行の場)、法堂(説法の場)、方丈(住職の居所)、庫院(庫裡)で構成されていたと考えられている。道元禅師は、ここで二祖懐奘(えじょう)禅師(一一九八〜一二八〇)、三祖徹通義介(てっつうぎかい・一二一九〜一三〇九)、四世義演(ぎえん・?〜一三四)らを始め門人の育成に専念された

▶道元禅師示寂彼の永平寺

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 七百七十年に及ぶ永平寺の歴史の歩みは、決して順調なものではなかった。たび重なる火災による伽藍の喪失、あるいは為政者の交代などにより、時代の様々な波にもまれながら、永平寺は困窮と復興を繰り返して今日に至っている。

 建長五年(一二五三)八月二十八日、道元禅師は療養先であった京都にて入滅され、後事を託された懐奘禅師は遺骨を持して永平寺に戻る。永平寺二祖となった懐英禅師は永平寺の西北隅に塔を建てて、道元禅師を供養じょ・つようあんし、その場所を承陽庵と号した。懐奘禅師は二十年にわたって道元禅師に参随したが、道元禅師示寂後も、懐奘禅師は道元禅師が在世した時とかわらず、祖廟にお仕えしたという。その伝統は、いまも祖廟・承陽殿に奉仕する侍真寮に引き継がれている。

avg_masa1231-img600x450-14653882855dlhzt9476 仏性

 懐英禅師は、現在も広く宗門内外で読まれる道元禅師の聞き書き集『正法眼蔵随聞記』(上図左)を遺し、また、道元禅師の主著『正法眼蔵』の多くの巻を浄書された。中でも、校訂のあとも残る『仏性』の巻は、今に伝わって国の重要文化財となっている(上図右)

木造-徹通義介坐像 義演

 永平寺はその後、三世徹通義介、四世 と道元禅師の門弟が引き継いで行く。義介は、入宋して中国の伽藍をつぶさに調査し、『五山十刹図(ごさんじっせつず)』を持ち帰り、これにもとづいて、永平寺の伽藍や規矩(修行の規則)を充実させた。義介によって、本山として、そして修行道場としての、今日の永平寺につながる体裁が整えられた義介は、山門や廻廊を建立して七堂伽藍を整え、本尊仏(三世仏)や祖師像とともに伽藍神五体をも安置した。また、現存する『伽藍神立像・監斎使者像』(下図左)、伽藍神立像・掌簿判官像』(下図右)はこの時の伽藍神のうちの二体と考えられ、永平寺に現存する最古の仏像である。

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▶五世中興義雲の晋住と寂円派による相続

 永平寺四世義演が遷化(せんげ・高僧が死ぬこと)すると、道元禅師と時代をともにした後継者はほぼ皆無となり、永平寺は僧団として新たな段階に移っていく。五世には、永平寺の開基波多野家の懇請により宝慶寺(福井県大野市)二世であった義雲(ぎうん)(一二五三〜一三三三)が晋住(しんじゅう)する。義雲は、伽藍を再整備し、後に「永平寺中興」と冠されることになる。

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 嘉暦二年(一三二七)には、永平寺開創以来置かれなかった梵鐘(国重要文化財、上図)を鋳造するとともに、六十巻本『正法眼蔵』に基づいた『正法眼蔵品頌』を著して宗風(しゅうふう)の宣揚にも努めた。また、会下(えげ・禅宗などで,師の僧について修行すること。門下。)には臨済宗の法系に連なる中巌円月(ちゅうがんえんげつ)や月堂宗規(げつどうそうき)なども参じており、永平寺の復興の様子も推し量られる。

宝慶寺 義雲0

 義雲は京都の生まれで、道元禅師を慕って中国より渡来した宝慶寺の開山である寂円(一二〇七〜九九)の法を嗣いだ。これ以降、永平寺の世代は三十八世緑巌厳柳(りょくがんごんりゅう)(?〜一七一六)まで四百年にわたり、寂円の法系、いわゆる「寂円派」により引き継がれていくことになる。ただし、正確にはこの寂円派のうち二十世門鶴(もんかく)以降は、永平寺に晋任するために他派から寂円派に転じている。しかし、それを除いても、永平寺では五世義雲から十九世祚玖(そきゅう?〜一六一〇)までの三百年間は寂円派の法系が続いた。

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 この時代の永平寺は、後のたび重なる火災で史料が焼失したためであろうか、六世曇希(どんき)から十八世棟(そとう)まではその没年もわからないほど、歴史に不詳な点が多い。しかし、これら中世の永平寺住持のうち、九師の頂相(県指定文化財)が伝来し、数多くない永平寺頂相群の中で光彩を放っている(上図10人)。また、宝慶寺以来の寂円派の伝記史料で、十三世建綱(けんこう・在任一四五七〜一四六八)の著した『宝慶由緒記』、十四世建撕(けんぜい・在任一四六八〜一四七四)が記した道元禅師の代表的な伝記『建撕記』もこの時代に成立している。なお、寂円派では、実際には永平寺住職とはなっていない寂円を、永平寺三世とする寂円派独自の歴住の数え方があった。これは江戸時代、三十五世版橈晃全(はんぎょうこうぜん・一六二七〜九三)代の「世代改め」の機運を経て、最終的には五十世玄透即中(げんとうそくちゅう・一七二九〜一八〇七)代に幕府の許可が下りて改められるまで続いた。これも永平寺の歴史を物語る一つの大きな事象である。

大乗寺山門 大本山永平寺・加賀大乗寺

 一方、この時代の曹洞宗は、永平寺を出て加賀大乗寺(石川県金沢市)を開いた三世義介の弟子、瑩山紹瑾(けいざんしょうきん・一六四〜一三二五)禅師の門下から地方に大きく展開した。現在、一万四千ケ寺ある曹洞宗寺院の九割は瑩山紹瑾禅師から広がった系統であるといわれ、それに比べると永平寺は、寂円派の系統でひっそりと歴史をつむいでいった感がある。中世の寂円派の歴代住職の一代あたりの在任期間は約二十年と、永平寺の歴任のなかでも長いことと無関係ではないだろう。

 義雲に続き、宝慶寺三世から永平寺へ入った六世曇希(どんき)禅師の時代には、道元禅師の著作『学道要心集』、『永平元禅師語録』(『永平略録』)を含む四点の曹洞宗関係の典籍の出版事業が行われたことが特筆される。また、暦応三年(一三四〇)の火災により、永平寺は山門、方丈などを残してほとんど焼失するが、曇希は再建に着手し、二十年の歳月をかけてほぼ復興を遂げた。典籍の開版事業は、永平寺の開基波多野家ではなく、宝慶寺の大檀那である伊自良氏(いじらし)の手になるものであり、伽藍の復興もおそらく伊自良氏の援助によるものと思われる。また、現在の永平寺仏殿に安置される等身大の本尊三世仏のうち、弥勒、釈迦牢尼仏(しゃかにぶつ)坐像はこの時の造立と考えられ、本山級の寺院で、永平寺の本尊は数少ない室町時代前期のものである。

▶出世道場としての永平寺

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 応安五年(一二七二)、永平寺は後円融(ごえんゆう)天皇(一三五九〜九三)から「日本曹洞第一道場」と記された勅額を下賜され、永平寺は日本曹洞宗の第一の道場であることを朝廷から認められた。その原書は現在も永平寺に残されている(国指定重要文化財、上図右)。この「道場」とは今でいう修行道場という意味ではなく、いわゆる「出世道場」である。出世とは、朝廷からの許可を得て、本山格の寺院において、たとえ一日であっても住職をすることである。それによって、永平寺の場合、「前永平」(前永平寺住職)の称号が与えられる。地方から永平寺に上った僧侶は、出世にあたってのお礼や寄付金を本山の修造奉行に納め、永平寺の伽藍造営はそれによってまかなわれた。創建当初は、開基波多野氏、寂円派の時代になってからは宝慶寺の大檀那伊自良氏などの援助によって、永平寺の運営は成り立っていた。しかし、時代が変わって領主の庇護を受けられなくなると、このような形で永平寺の経営が行われるようになる。

 中世の永平寺では、先に触れた暦応三年(一三四〇)の後にも、文明五年(一四七三)、天正二年(一五七四)にも伽藍の大半を失う火災に見舞われた。火災からの伽藍復興のため、永平寺は積極的に地方寺院に出世の呼びかけを行い、一定期間、永平寺の世代として迎えた。このような形での出世は特に十五世紀中どろから盛んに行われるようになる。これが、現在の瑞世(ずいせ)制度(本山である永平寺(えいへいじ)と總持寺(そうじじ)に拝登し、一晩住職をつとめるという儀式)につながるもので、江戸時代を通して、永平寺、及び総持寺の経営を支える重要な制度であった。また、十六世紀初頭からは朝廷より禅師号の勅許を受ける事が一般化し、朝廷との結びつきも強まって、本山である永平寺・総持寺へ出世することの権威付けが定着していく。現在も、一般寺院の開山堂に並ぶ位牌に彫られた歴代住職名の多くに「前永平」や「前總持」とついているのは、「瑞世」とも呼ばれる本山での出世が一般的となったことの証しでもある。

▶中世末期・戦国時代の永平寺

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 出世道場としての永平寺が形成されていくのとはぼ時代を同じくして、越前の戦国大名である朝倉氏との関わりが文書史料により散見されてくる。明応四年(一四九五)には、永平寺納所(なっしょ)の寿仙が、寺領目録を差し出し、朝倉貞景(さだかげ・一四三七〜一五一二)より寺領を安堵されている(「永平寺井諸塔頭霊供田目録」42)。本書にはその寄進者として、その筆頭に開基波多野家がある。永平寺に寄進された全三十三町余の寺領の内、波多野家が八町余りの寄進者となっている。朝倉貞景は、永平寺に寄進された土地の所有を保証しており、波多野家、永平寺ともども朝倉氏の完全な支配下になっていたことがわかる。また、塔頭(たっちゅう・禅宗で、高僧の塔がある所)領も合わせて本山から近い順に記載されており、承陽庵(開山塔頭)、霊梅院、地蔵院、霊山院、如意庵、多福庵の六塔頭の存在も確認できる。承陽庵は現承陽殿であり、地蔵院、如意庵、多福庵は現在も山内外の塔頭として残る。霊山院は本山から独立した一寺院として現存し、霊梅院は明治初期まで存続した。

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 越前一国を支配した朝倉氏であったが、織田信長(一五三四〜八二)に敗れ、その支配もほぼ百年で終る。朝倉氏の滅亡後は越前国内の混乱が収まらず、信長が配した武将はことどとく一向一揆に敗れた。天正二年(一五七四)には一乗谷、平泉寺、宗門では永平寺、宝慶寺、龍沢寺、慈眼寺、龍雲寺、龍興寺などの主要寺院をはじめ、越前国中の武士の館や寺院はことどとくが焼き払われたという。永平寺は、この前にも火災の記録があるが(元文本建漸記)、いずれにせよこの時期に永平寺がはぼ全焼したものと思われる。

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 天正三年(一五七五)、越前の一向一揆は織田信長によって平定され、永平寺は信長から禁制を下される「織田信長禁制」上図)。その後、越前は江戸時代を迎えて安定するまで、目まぐるしく領主が変わる。永平寺はその都度領主からの安堵状などを受け、復興を遂げていく。この四半世紀の間に、領主から永平寺に下されたものに、柴田勝家(一五二二〜八三)、羽柴秀吉(一五三七〜九八)、丹羽長重(一五七一〜一六三七)、堀秀政(一五五三〜九〇)・秀治(一五七六〜一六〇六)父子らが発給した判物、禁制、安堵状などがあり、これらも永平寺に現存している。

▶江戸時代の永平寺

 元和元年(一六一五)、江戸幕府は、曹洞宗の本山である永平寺に対して「永平寺諸法度」(下図左)総持寺には「総持寺諸法度」が布達され幕府は永平寺・総持寺を本山として全国の曹洞宗寺院を末寺として統制させる(本末制度)

永平寺諸法度 97松平

 慶長三年(一六〇〇)の関ケ原の戦い後、越前には徳川家康(一五四三〜一六一六)の二男である結城秀康(一五七四〜一六〇七)が入り、越前(福井)藩が成立する秀康の生母である長松院(一五四八〜一六二〇)は永平寺への信仰が篤く、道元禅師の袈裟(けさ)を包むための被子(ふくす)を寄進している上図右)。また、長松院は、元和五年(一六一九)十二月六日に死没するが、長松院の廟所が永平寺の承陽庵の北側に建てられている。さらに、福井三代藩主松平忠昌(一五九八〜一六四五)、及び忠昌に殉死した七名の家臣の墓所が境内に設けられ、領主松平家との関わりも深まっていく。寺領も寛文元年(一六六一)には五十石に(「松平光通寄進状」49)、さらに延宝四年(一六七六)には七十石に加増された(「松平昌親寺領安堵状」)。

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 永平寺の住職は、五世義雲以降、寂円派によって相続されてきたが、慶長二年(一五九五)に二十世門鶴(?〜一六二五)が関東から上山する門鶴は、道元禅師の語録『永平広録』(上図)を書写させる。これは「門鶴本」と称され、現存する最古の写本である。また、門鶴は一向一揆によって焼失した山門の再建を行う。これは彦根藩主井伊直政一五六一〜一六〇二の葬儀を勤めた際の布施一千両によりまかなわれた。慶長七年(一六〇二)は道元禅師三百五十回忌にあたり、戦乱によって失われた伽藍もこの頃までに復興を遂げていたものと思われる。また、近年の境内林調査により参道に並ぶ「五代杉」と呼ばれてきた杉巨木の大半は樹齢四百年余りとされ、戦乱後にあたる十六世紀後半に植樹されたことが判明した。しかし、それより樹齢が古い杉も一部残っており、これらは戦乱をくぐり抜け焼け残ったもの、あるいは、多くが伽藍再建のために使用され、その一部が残されたもの、などと考えられる。

永平寺・五代杉

 二十世門鶴以後、永平寺住職は関東からの入山が相次ぎ、特に二十七世嶺巌英唆(れいがんえいしゅん・一五八九〜一六七四)以後は、武蔵龍穏寺(埼玉県越生町)、下総線寧寺(千葉県市川市)、下野大中寺(栃木県栃木市)のいわゆる「関三剰」からの晋住が、江戸時代を通じて一般的となり、関東との結びつきが強国となっていく。

▶江戸時代の火災と復興

 政情が安定していた江戸時代であっても火災による伽藍の焼失は繰り返された。一山のかなりの部分を失った火災だけでも、寛永十八年(一六四一)、正徳四年(一七一四)、天明六年(一七八六)、天保四年(一八三三)がある。これらは五十年に一度ずつ奉修された、道元禅師の大遠忌を中心に、全国末派寺院への勧募によりその都度復興された。そのような歴史もあり、現存する最古の建造物である山門(県指定文化財)でも寛延二年(一七四九)の建立と三百年に満たない。

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▶五十世玄透即中の功績

 天明の火災による伽藍の喪失やその他の事情により、永平寺では三年あまり、無住(住職不在)の時期があった。この疲弊した状況を打開するために入山したのが、十世玄透即中(げんとうそくちゅう)であった。寛政七年(一七九五)に永平寺に入った玄透は、伽藍復興をはじめ、黄欒宗の影響を受けていた永平寺の宗風を道元禅師の教えに立ち返らせる「古規復古」につとめ僧堂・衆寮の改築、道元禅師の『弁道法』等のいわゆる『永平清規(えいへいしんぎ・曹洞宗の開祖道元が,曹洞教団の守るべき規則や理想を記したもの。寛文7 (1667) 年にまとめられた。)』に準じた行持の実践、『校訂冠註永平清規』、『祖規復古雑稿』の上梓(じょうし・図書を出版すること)、『永平小清規』の制定などを行った。また、総持寺との転衣の一件を解決して永平寺の経営を立て直し『正法眼蔵』の開版、世代改めなども行い、江戸時代にあって大きく永平寺の宗風の軌道修正をなし遂げた。

玄透即中

▶吉祥講の結成

 寺社参拝が盛んになった江戸時代であるが、曹洞宗でも十八世紀頃から「道元講」などの名前で各地に独自に講が作られていった。講とは講組織で積み立てをし、それを元に代表が参拝(代参)する仕組みである。五十七世載庵禹隣(さいあんうりん・?〜一八四五)は、文政十二年(一八二九)の二祖五百五十回遠忌に際し、香資の勧簿とともに、全国に吉祥講の勧諭を行った永平寺に版木が残されている全山図も、この勧諭のために作成して配布されたものと考えられる。また、宿泊施設と思われる凌雲閣が大庫院に付属して再建されているのも、この動きと無関係ではない。たろう。

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▶江戸期における永平寺の文化活動

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 道元禅師関係でほ、二十世門鶴(もんかく)による『永平広録』の現存最古の書写本(上図)、三十五世版模晃全によるそれを元にした、五十世玄透即中(げんとうそくちゅう)による本山版『正法眼蔵』の木版版刊行事業が挙げられる。また、享保十九年 (一七三四)、四十世大虚喝玄(たいこかつげん一六六一〜一七三六)の招きで、永平寺に拝登して二十日間滞在した際に学僧面山瑞方(めんさんずいほう・一六八三〜一七六九)が残した『吉祥草』も秀逸である。これは、従来の永平寺境内の名勝『永平寺十一境』をもとにして、喝玄が題した十境・十景に、面山が偽を賛したものである。絵巻物の形で宝物として残されている。宝暦二年(一七五二)には、永平寺蔵版として開版、道元禅師五百回大遠忌の記念品にもされた。また、道元禅師五百五十回大遠忌中に発願し、文化十四年(一八一七)に開版された『訂補建跡記図絵』は、誰にでもわかりやすく道元禅師の伝記を述べたもので、吉祥講の勧諭や檀信徒教化に役立てられた。

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▶近代の永平寺

■明治初期の窮乏と憲法会

 明治に入ると幕府や福井藩の後ろ楯を失った永平寺は、所持していた山林まで上地となって失い、他の多くの寺院と同様、経営基盤が大きく揺らいだ。それは、わずか二十年前の嘉永五年(一八五二)の大遠忌で鋳造されたばかりの大梵鐘や衣類二百六十四品を売り払い、さらに福井藩(のち足羽県)から借財を余儀なくされたこ  ひっとや、不老閣など主な伽藍をたたんで塔頭の地蔵院に遺そく塞したことなどから、疲弊の深刻さが推し量られる。

滝谷琢宗-1 魯山琢宗

 その疲弊は特に明治十年頃までがひどかったというが、それでも明治十一年の二祖六百回忌は九月二十二日から三日間おこなわれ、七万余人の拝登者があった。その翌十二年には、承陽殿等四棟が焼失するという火災に見舞われたものの、寄付が順調に集まり、十四年には再建を果たした。この江戸時代からの三百年を振り返ると、およそ百年に二度ずつ大きな火災に見舞われている。しかし、この明治十二年(一八七九)を最後として今日まで百年以上、永平寺では大きな火災がなかったことは特筆してよいであろう。その後、新しい時代の本山護持運営の体制として、六十三世魯山琢宗(ろざんたくしゅう・一八三六〜九七)が総持寺執事時代から取り組んだ、全国寺院檀信徒に呼びかけての護法会の勧簿により、両大本山の経営は安定していく。

▶交通の発達と大遠忌(※表1参照)

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 近代の永平寺は、鉄道を中心とした交通網の整備により、全国の一万四千ケ寺の宗門寺院、及びその檀信徒の参拝や参寵(宿泊)が日常化していったことによって変容していく。それは、五十年に一度ずつ行われる高祖道元禅師、二祖懐契(えじょう)禅師の大遠忌(だいおんき・仏教諸宗派で,宗祖などの没後数百年たって行う法要)が大きな契機となった。

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 その最初の契機は、明治二十九年に北陸線が福井まで開業し関東や関西地方と鉄道で結ばれて迎えた、明治三十五年の高祖大師(道元禅師)六百五十回大遠忌であった。この遠忌では、仏殿(三菱岩崎家の寄進)や僧堂など主要伽藍の改築のはか、特に宿坊の整備が注目される。それまで唯一宿坊的設備であった凌雲閣が、瑞雲閣として大広間を持つ二階建ての建造物に変わり、さらに名古屋吉祥講宿坊(第一吉祥講宿坊)、諸国吉祥講宿坊(第二吉祥講宿坊)が新たに建てられた。宿坊と名付けられた二棟は、場所も七堂伽藍の廻廊の外(南西)側に位置したことも特筆すべきであろう。いわゆる近代の伽藍拡張の発端をここに見ることができる。

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 永平寺では三門の呼称は通常使われないが、龍門(現在は正門)、通用門(または勅使門)、および山門がそれにあたる。第一門である龍門から第二門である通用門までの聞は、従来は塔頭が並び、大本山の七堂伽藍へ足を踏み入れるためのいわば準備空間でもあり、あるいは道場を守るための緩衝域でもあった。入り口から、地蔵院、隆昌院、嶺梅院、長寿院と四つを数えた塔頭も、嶺梅院、隆昌院は廃されて宿坊に生まれ変わった。その後、大正八年には、長寿院も寺籍を長野県(山ノ内町長寿山広業寺)に移し、門前衆の菩提寺は地蔵院に集約された。また、大正二年には北陸線の全通で信越方面とも直結しており、さらに十四年に永平寺鉄道(のちに京福電鉄を経て廃止)により永平寺門前まで電車が通うようになり、全国津々浦々と鉄道で結ばれて、昭和五年の二祖国師六百五十回大遠忌を迎える。

 この二祖国師(懐奘禅師)大遠忌における伽藍をはじめとする、周辺環境の整備開発はこれまでにない景観、および質的変化を永平寺にもたらした。すでに大正初期頃には境内に水力発電所を設置していたが、この遠忌に合わせて七堂伽藍方面では大光明蔵、大庫院、瑞雲閣(大庫院と一体化)、調理場、東司が建て替えられ、そして、七堂伽藍外に両堂殿(檀信徒の位牌安置・法要施設)、傘松閣(大広間・宿泊可)、玲聴聞(宿坊)、小庫院(調理場・宿坊)、鳳来坊(宿坊)、浴室(参籠者用)、総受付、宝 こむろすいうん物館が新造された。中でも、正面に南画家小室翠雲の「松竹梅」の障壁画・襖絵を配した、格天井、総木曽桧造の武田五一の設計による大光明蔵(愛知県寺院檀信徒の寄進)、また、当代を代表する日本画家百四十四名による二百三十点の花鳥図を格天井にちりばめた傘松閣山形県寺院檀信徒の寄進)は、近代和風建築を代表する建造物といってよいであろう。かつて塔頭があった一帯は、第二の門、通用門を下手に移設し、傘松閣以下、総受付まで、宿坊的施設を中心とする第二の大木造建築群が形成された。永平寺は、いうなれば「七堂伽藍群」と「宿坊群」という二つの伽藍群で構成されることとなり、七百余年の歴史の中でも極めて大きな質的変容を遂げたのであった。実際この大遠忌(だいおんき・浄土宗で、宗祖法然 の50年ごとの年忌。浄土真宗では宗祖親鸞 の50年ごとの年忌)を含む法要期間三週間の宿泊者数は五万人に及んでいる。さらに、門前には永平寺駅からの新参道の建設とともに新門前街が形成され、境内も(御廟所を移転して)それに続く現在の正門と参道が敷設されて、永平寺内外の景観は昭和五年を境に一変した

▶戦後の永平寺

 戦後も、昭和二十七年、昭和五十五年、平成十四年の三度の大遠忌があり、伽藍も変わっていく。昭和四十六年完成の、地下一階地上五階の檀信徒研修道場である吉祥閣をはじめ、特に「宿坊群」で鉄筋コンクリート化、設備の近代化といった伽藍の更新は進んだ。そして、高度経済成長、さらに高速道路網の発達によって、檀信徒の参拝だけでなく一般の観光客も急増した。そのピークは、国内各地の観光開発が進む前の昭和末期、バブル景気の前後で、年間最大で百四十万人の参拝者を数えたこともあった。これら、檀信徒の参拝や一般観光客の上山が永平寺の経営を支える大きな柱にもなっていった。また一方、交通、通信網の発達の影響は修行僧の(地方の道場から)本山僧堂への集中という形でもあらわれ、永平寺は、常時二百〜三百人の僧侶を擁する国内最大の修行道場ともなっていった。現在の永平寺のあり方を一般的な目で見るならば、修行道場、檀信徒の信仰の対象としての大本山、国内外の旅行者が訪れる観光地といぅ三つの側面をもっているといえよう。そして、これら多くの参拝、参籠を受け入れながら、道元禅師の教えを守り受け継いで、多くの雲水が修行しているところに今日の永平寺の特色がある。

▶禅の里事業

 近年、振り返る間もなく進んだ近代化をかえりみ、永平寺では信仰のふるさと、心のよりどころとしての大本山を再認識し、門前・永平寺境内の一体的な景観の復元・向上をはかり、「禅の里事業」構想のもと、行政、門前と協力して新たな取り組みが行われている。

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