黄檗禅の時代

0000■黄檗禅

柄井隆志

▶はじめに

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 黄檗宗は、承応三年(一六五四)、弘法のため長崎へ渡来した明の高僧・隠元 隆琦禅師(一五九二〜一六七三)によって開立された。隠元は、戒律を重んじる正統な中国臨済宗の法灯と厳格な仏教儀礼を伝え、当時沈滞していた日本禅宗界に新風を吹き込んだ。隠元の会下には、鎖国下で大陸への留学が果たせない、求道心に燃える日本僧が参集した。やがてその高風は幕府にも届き、隠元のための新寺建立が特別に許され、寛文元年(一六六一)、黄葉山萬福寺が京都宇治の地に開創された。

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 大陸風の伽藍配置と建築意匠により建立された萬福寺諸堂には、隠元をはじめとする黄崇高僧の筆になる扁額や聯が掛けられ、黄欒禅の精神を伝えている。堂内には、渡来仏師道生に命じて造らせた明清彫刻の様式そのままの諸像が安置されるなど、隠元の故山である福建省福州府福清県の責柴山萬福寺を彷彿とさせる寺観がほぼ再現された。ここでは儀礼法式の次第、唐音による梵唄、鳴り物、飲食作法にいたるまで、すべてが隠元の定めたとおりの厳格な明朝式の清規に従って執り行われている。

 平成二十三年(二〇一一)、黄葉宗大本山萬福寺は開創三五〇周年を迎える。このたびの特別展「黄葉−OBAKU 京都宇治・寓福寺の名宝と禅の新風」は、萬福寺開創三五〇周年を記念し、萬福寺が所蔵する名宝の数々と九州の黄葉寺院に伝わる優れた仏教美術を紹介するものである。企画にあたり意を払ったのは、隠元渡来前後から萬福寺開別に至る、日本黄葉宗開立の歩みを、十七世紀の東アジア世界という広域的な歴史のうねりのなかで捉えてみることはできないか、ということであった。結果として充分に達成できたとは言い難い。しかしながら、あえて当初のねらいに立ち帰り、そして展示資料を自由自在に結び付けてゆくことで、この展覧会の概要紹介にかえたいと思う。

▶十七世紀の東アジア世界

 

 中国を中心とする東アジア世界は、十七世紀に大きく変動した。中国の東北地方でヌルハチ率いる女真族が勢力を伸ばし、一六一六年、明から独立宣言し、後金を建国した。ヌルハチの後を継いだホンタイジは、崇徳二年(一六三七)に朝鮮を服属させ、天聴九年(一六三五)には内モンゴルを降し、翌年、後金国を大清国と改めた。

 明朝は、この頃すでに財政が危機に瀕していた。そのしわ寄せとして農民たちに負担が課せられた。農民たちは各地で反乱を起こした。順治元年(一六四四)、李白成率いる反乱軍が隆起して北京を占領し、崇禎帝が自殺。明朝はここに事実上滅亡した。崇禎帝の死後、華南では南京の福王、紹興の魯王、福州の唐王、肇慶の永明王が次々に擁立されて、明朝復興を目指す南明政権が樹立され、康照元年(一六六二)の完全な滅亡に至るまで各地で激しい抵抗が続いた

 朱舜水(一六〇〇〜八二)も、明朝復興運動に身を投じたひとりだった。舜水は日本、ベトナム、タイなどを頻繁に往来し、軍事物資調達など明の復興運動を支援する活動を行っていた。しかし、鄭成功による南京攻略が失敗したことを契機に、万治二年(一六五九)、長崎において亡命を決意した。筑後柳河港の儒官安東省奄(あんどうせいあん・一六二二〜一七〇一)は、興福寺住持の逸然性融独立性易など、長崎における黄檗渡来僧との交流を通じて舜水のことを知ったと考えられる〔下図左右)

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 肥前平戸生まれの鄭成功(ていせいこう・一六二四〜六二)は、援明抗清の旗手的存在であった。大陸での抵抗の傍ら、日本に対し、応援の軍隊派遣や軍需品の提供を求めてきた。長崎に入港した唐船がもたらした海外情報をまとめ、長崎奉行から江戸幕府へ進達された報告集『華夷変態』(下図)には、鄭成功が日本に援助を求めた書簡の内容やその息子の鄭経による援明活動について記録されている。

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 順治十八年(一六六一)十二月十三日、鄭成功はオランダが拠点としていた台湾のゼーランディア城を攻略し、オランダ軍を台湾から追放した。しかし、翌年五月八目、鄭成功は台湾で病没した。その直後、大将なき鄭氏軍団は福建省福州近海でオランダ艦隊と交戦におよんでいる。この海戦の様子を記録した羊皮紙製の海図が、新出の「福州沿海図」〔下図左)である。

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 福州沿海の海洋知識だけでなく、オランダ艦隊による鄭氏軍船団の撃破・睾捕の様子がこまかく記されている。本土沿岸部における清朝・鄭氏軍・オランダ三者の勢力圏が色分けされており、当時の勢力情勢を知るうえで貴重な情報を提供している。なお、寛文元年(一六六一)、萬福寺創建にあたり勝性印から寄進された大量の西域木であるが、これらはオランダが遅羅から仕入れて台湾に輸送したものだったが、悪天候のため陸揚げできなかったことと鄭成功による台湾攻撃の影響もあり、急遽長崎に輸送され、売り渡されたものであった〔上図右〕。

▶長崎唐寺の時代

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 日本では、江戸幕府による長い安定の時代に入った。初期の朱印船貿易により日本人の活動範囲は東南アジアまで広がるが、その後一転して鎖国政策をとった。キリシタン禁圧を断行し、唐船江戸時代を通じて中国は「唐」と呼ばれた)とオランダ船のみを相手とする、長崎を通じた管理貿易体制を強化した。それに伴い、長崎に居留する唐人の人口も増加していった。

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 長崎居留の唐人は出身地ごとにん」と呼ばれる同郷団体を形成し、同郷会館的な施設を設けて娠祖(まそ)神像(上図)を祀った娠祖は航海安全や海難救護の女神として華僑らの絶大な信仰を集めていた。彼らは、航海にあたり娠祖(菩薩などとも呼ばれる)の小像を必ず船内に奉安し、長崎に到着して荷役が終わると、持ち渡った像を出帆まで祀堂へ預けて祀った。この祀堂、すなわち娠祖堂が唐寺に発展していった。興福寺の娠祖像〔下図左右〕は、娠祖堂本尊として寛文三年(一六六三)に造立されたものである。

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 唐寺は、海上往来の祈祷のための娠祖廟として出発し、そこに先祖・同朋の菩提供養のための仏寺的機能が付与された。そのほか、唐船が持ち渡った娠祖像や檀徒の非キリシタンを証明することも重要な機能のひとつであった。長崎奉行は、長崎に来航する唐船にキリスト教宣教師が潜伏したり、マリア像などのキリスト教関係資料が持ち込まれることを警戒した。また、唐寺にキリシタンが潜入することも恐れていた。豊後臼杵・多福寺(臨済宗妙心寺派)の住持であった雪窓宗荏(一五八九〜一六四九)は、長崎奉行の命により、正保四年(一六四七)五月六日から二十八日まで、興福寺でキリスト教を排撃する説法をおこなった。説法の内容を筆録したものが「興福寺筆記」〔下図右)である。説法の場として興福寺が指定されたのも、唐寺に対する奉行側の期待と警戒のあらわれとみることができる。

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 唐寺の重要な機能として唐僧招請がある。唐寺三カ寺の草創事情をひもとくと、興福寺開基の真円(元和六年渡来)や福済寺開基の覚海(寛永五年渡来)らも当初僧侶として渡来したわけではなかったようである。崇福寺についても、香火を看守する者が数人いた程度の嗣廟に過ぎなかった。日本のキリシタン禁制への対応のため、同郷の来航唐人や長崎居留唐人、唐通事らが相はかって唐僧を住持として招請し、禅院として発足させる動きが高まった。

 招請の条件としては、同郷であることがまず重視された。興福寺では寛永九年(一六三二)に黙子如定(もくすにょじょう・江西省建昌府出身)(下図左)福済寺では慶安二年(一六四九)に羅謙戒碗(うんけんかいわん・福建省泉州府出身)〔下図右)崇福寺では寛永六年に渡来していた超然(福建省福州府出身)が招請された。彼らが入寺することにより、一段と伽藍の建造・整備が進んだ。

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 次に望まれたのは、より高僧を迎えることであった。これは、日本では宗教統制厳しいことから、宗教者として、また文化人としても、長崎奉行や大名に影響力をもつことが要されたためである。黙子、羅謙、超然いずれも、その師資や嗣法について伝えるものがなく正式な臨済嫡伝の嗣法者でなかったと考えられている。そのため、彼らの示寂(菩薩や高僧が死ぬこと。入寂。)により住持を欠くと、唐山(中国の禅刹)からの招請が繰り返されたのである。唐寺の歴史のなかで、正式な臨済嫡伝の嗣法者として最初に入寺したのが道者超元(一六〇二〜六二)〔下図左〕であったと思われる。道老は福建省興化府苫田県の出身で、隠元とは法姪(ほうてつ)の関係になる亘信行弥(こうしんぎょうみ・一六〇三〜五九)に嗣法した。

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 慶安三年(一六五〇)に渡来、崇福寺第三代住持として迎えられた。崇福寺の道者の会下には、臨済宗妙心寺派の盤珪永琢(ばんけいようたく・一六二二〜九三)をはじめとする多くの日本人禅僧が参じた。隠元渡来以前に多くの日本人僧俗を法化した功績は、日本禅宗史上看過できない。

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 ところが、道者の在住中であったにもかかわらず、一方で、元の法嗣である也懶性圭を崇福寺住持として招請する動きがおこつた也懶性圭これに応じて清・順治八年(一六五一)六月度門を出航するが、まもなく暴風のため難破し、溺没してしまう。これを受けて、かつて崇福寺檀越らに也懶を推挙した無心性覚(一六一三〜七一)は、興福寺住持の逸然也懶の本師である隠元を招請するよう懇請した。逸然は、唐通事や唐寺三カ寺の檀越(だんえつ・だんな)らとはかり、福建省福州府福清県の黄葉山高福寺住持である隠元の招請に動き出すことになった。隠元にとっても、也懶性圭の死がのちに東渡を決する大きな一因となっている。承応三年(一六五四)、隠元は長崎に渡来し、ただちに興福寺に晋山(しんざん)した。ここに、日本における黄檗宗発展の礎が築かれたのである。

 このように、唐寺による唐僧招請の一連の動きが日本仏教史上きわめて重要な覚醒を促し、同時に、それぞれの唐寺を一大禅刹へと劇的に発展させることに繋がったのである。

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 「寛文長崎図屏風」(長崎歴史文化博物館)〔上図]は、寛文年間末頃の長崎の街を活写する。向かって左から一扇目と二扇目の中央付近に「漳州寺」(福済寺)、三扇目上方に「南京興福寺」、四扇目と五扇目にかけての上方に「福州崇福寺」が描かれており、十七世紀後半における唐寺の伽藍を概観することができる。まさにそれは、それぞれが黄檗派の一大禅刹としての地位を確立し、もっとも輝いていた時の景観だったのである。

唐人渡来仏師・花道生

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 萬福寺の宝物を語る上で欠かせないのは、唐人渡来仏師・范道生(はんどうせい・一六三五〜七〇)が造った仏像である。萬福寺の仏像のうち、弥勤菩薩坐像(天王殿)、達磨大師坐像(祖師堂)、白衣観音坐像および善財童子立像・龍女立像(禅堂)、十八羅漢像(大雄宝殿)、緊那羅王菩薩立像(斎堂)、華光菩薩倍像(伽藍堂)、隠元隆碕倍像(開山堂)、孝駄天立像(文筆殿保管)の二十七躯が茫道生の作になる。明清彫刻の様式そのままで造られたこれらの諸像は、伽藍建築とともに萬福寺の中国的魅力を構成する重要な要素でもある。

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 このうち、本展には、隠元隆碕像〔上図左〕、白衣観音坐像〔上図右〕、十八羅漢像のうち蘇頻陀尊者坐像〔上図左〕と跋陀羅尊者倚像〔上図右〕 の四躯が出陳されている。隠元隆碕像と白衣観音坐優については、今回が一般初公開となる。

 范道生は福建省泉州府安平の出身で、万治三年(一六六〇)五十三番船で渡来し、福済寺に寓した。『唐通事会所日録』をみると、寛文元年(一六六一)十一月頃と寛文三年二月の時点で福済寺、同年九月の時点で興福寺での造像が確認される。興福寺での造像は、同年三月八日の大火による焼失(観音堂と鐘楼を除く)をうけての復興造像であった。また、同年二月頃から、萬福寺に上ってくるようにと再三要請があったようであるが、造像中の仕事を終えた九月十三目、ようやく長崎を出発したと思われる。

 ところが『普照国師年譜』寛文二年の条をみると、隠元はこの年親書、韋駄天、伽藍祖師、監斎等の各像を范道生に命じて造らせたとある。観音とは禅堂の白衣観音坐像のことで、寓福寺には同年九月十九日付の隠元自筆の開光法語が伝えられている。伽藍・祖師の両像についても同年十一月一日付の隠元自筆開光法語がある。先述のとおり、寛文二年の時点では范道生はまだ長崎にいた。すなわち、少なくとも白衣観音坐像や華光菩薩倚像、達磨大師坐像については長崎で造立され、完成後、萬福寺まで運ばれて開眼されたとみてよい。

 范道生(はんどうせい)の萬福寺滞在期間は、寛文三年十月頃から翌年九月初旬までのわずか一年弱であった。その間に、寿像である隠元隆埼僑像(同年十一月四日竣工)弥勤大士像(同年十一月二十七日開眼)十八羅漢像(同年十一月八日起工、寛文四年五月十八日十八躯のうち八躯開光、同年八月二十九日全竣工) を造立したことになる。

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 范道生は、十八羅漢像の完成後まもなく、安南にいる父賃公の古稀を祝うため萬福寺を辞した。この時、即非如一に従い、長崎への帰終についたと思われる。長崎に着くと再び福済寺に身を寄せ、ほどなく船便を得て離日した。帰国中、黄檗山漢松院の独吼性獅のもとに十八羅漢図を送ってきた。これらは後年画帖にまとめられ、「十八応真図」(福岡県みやま市・江月寺)〔上図〕として伝えられている。そこに描かれている羅漢の姿態が萬福寺の十八羅漢像とほぼ一致することは興味深い。そして寛文十年(一六七〇)、二十六番船で再び渡来したが、新来唐人の扱いを受け、上陸と滞在の許可がおりなかった。萬福寺からも木魔性璃の代僧が駆けつけ、長崎奉行との交渉が重ねられたが、そうするうちに病に躍り、同年十一月二日、船内にて絶命した。享年三十六歳だった。

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 この若い唐人渡来仏師が萬福寺に招致されたのは何故だったのだろうか。『普照国師年譜』寛文二年の条をみると、「師、国に入りてより見るところの梵像、はなはだしくは如法ならず」とあり、隠元の目には日本の仏像が法にかなっているとは映っていなかったようである。また、『松堂続集』所収の「世尊瑞像有序」には「老僧、この土の三坐道場に至り、つねに像を造らんと欲すれど、とくに巨匠なし」とあり、渡来後つねに造像の意向を持っていたが巨匠がいなかったとも述べている。黄檗山萬福寺の造営本格化を控え、そこに安置する諸像の造像を誰に託すか検討されたであろう。その結果、隠元の意向をくみ、中国で見慣れた仏像を造ることができる長崎の渡来仏師から、ひとり范道生が選ばれたと思われる。

 隠元が范道生を知るきっかけになったと想像されるのが、寛文二年十一月に開刻された『黄檗和尚太和集』所収「牛頭栴檀瑞相歌井引」に見える。長崎の津田又左衛門が三十年前に入手した赤栴檀について触れたあと、「前歳適々唐人至る。善く能く減塑す。この香を出して観仏を離成す。宝相厳麗、胎祀みな希有と嘆ず。」とある。ここでは具体的な仏師名は記されていない。この詩が詠まれた時期も不明であるが、少なくとも寛文元年以降、同二年十一月以前のことであり、さらにその前年に渡来した唐人仏師となれば、万治三年に渡来した范道生のことをさす可能性は高い。

 長崎では福済寺に寓居して造像を行っていた。福済寺には彼の作になる彫像が伝えられていたはずだが、残念ながら、原爆のため、今はひとつも残っていない。東福寺の白衣観普坐像や華光害薩倍像、達磨大師坐像などが長崎で造立された可能性が高いことば前述したが、その場所は福済寺周辺だったと想像される。白衣観音座像については、范道生作品のうち唯一の脱活乾漆造の作例である。崇福寺の釈迦三尊像〔下図左〕、達磨大師坐像、葦駄天立像など乾漆像五躯、さらには福岡県久留米市・福衆寺(臨済宗妙心寺派)の釈迦三尊像(崇福寺釈迦三尊像の模造)と併せて、十七世紀明清彫刻の造像技法研究の検討材料がひとつ加わった。

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 また、『唐通事会所日録』の記述から寛文三年九月には興福寺で造像していたことが確かめられる。興福寺には、商福寺の范道生作品と共通した形式と作風を示す像が確かに存在する。具体的には、娠祖堂の媽祖倚像および侍女立像〔上図〕大雄宝殿の葺駄天立像〔上図〕などがそうである。姫祖堂の関帝倚像〔上図右〕も、絵画作品であるが、長崎市・聖福寺の関帝像(寛文四年木庵性格賛、落款印章はないが范道生筆と推定される)や北九州市・福聚寺の華光害薩像〔下図)と姿態や衣文表現の特徴が一致する。。このように、興福寺には范道生作と推定される彫像が数多く伝えられており、萬福寺諸像の作風や造像技法を検討する格好の比較材料として、さらには、江戸時代彫刻史における范道生(はんどうせい)の位置付けを再検討するうえでも、もっと注目されてよい。

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 范道生に代表される唐人渡来仏師の活動は、一六八〇年代以降、急激に確認されなくなる。これは、元禄二年(一六八九)、長崎郊外に唐人屋敷が完成し、これまで市中に雑居していた唐人や新来の渡航者がここに収容されるようになったことが要因のひとつと考えられる。寛文十年、范道生が再渡来しても上陸の許可がおりなかったように、新たに中国から仏師を招くことも出来なくなった。こうして長崎唐人仏師による造像活動は終止符を打たれた。そのかわり、これ以降は中国から彫像を舶載する例が増えてくる。聖福寺大雄宝殿の釈迦如来坐像〔下図左〕および迦葉尊者立像・阿難尊者立像は元禄十一年に、同じく天王殿の葦駄天立像も翌年に舶載されたものである。萬福寺では、漸江省湖州府で造られて舶載され、宝永二年(一七〇五)に安置された天王殿の葺駄天立像〔下図右〕などがある。

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黄檗禅の新風

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 隠元によって開かれた重要な法会のひとつに、黄檗三壇戒会がある。授戒とも呼ばれ、いわば仏門に入道するための最初の儀式である。黄檗派下二十歳以上の末授戒の僧に対し、前後八日の間に初壇に沙弥戒、二壇に比丘戒、三壇に菩薩大戒を授けるものである。隠元は、これを一般にも門戸を開放した。わが国では初めてのことであった。そのため、隠元は「鑑真和上の再来」ともいわれた。また、隠元は黄檗三壇戒会を開くにあたり、戒会の順序や方法を記した『弘戒法儀(ぐかいほうぎ)』という指導書を編集した。萬福寺で最初の黄檗三壇戒会は、寛文三年十二月一日に開戒された。隠元は、古黄檗時代を含めると十六回戒壇を設けているが、その最初は、黄檗山南福寺に晋山した年である崇禎十年(一六三七)十二月一日に聞戒されたものであったが、この戒会で受戒円成した大眉性善(だいびしょうぜん)に給付された戒牒〔下図〕が東林院に伝わる。恐らく、この時のものとして現存唯一と思われ、大変貴重である。

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 本文は木版墨刷であるが、授戒和尚である隠元の法諒「隆琦」や各戒役の僧名、給付を受ける性善の出身地、年齢、法名などや給付の年月は墨書されている。黄葉山第四代住持をつとめた独湛性彗(どくたんしょうけい・一六二八~一七〇六)が描いた「血画毘慮舎那如来像」(下図)は、元禄三年(一六九〇)九月に開戒された第七次黄檗三壇戒会の本尊として使用された可能性もある。

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 寛文十二年(一六七二)、隠元は『黄檗清規(おうばくしんぎ)』〔作品番号80)の骨子を制定し、のちに刊行された。清規とは禅院での起居動作など生活規範をいう。隠元は晩年をむかえて黄檗派教団としての清規を制定することで黄檗山萬福寺の興隆と黄檗派の発展を後世に託した。この黄檗清規の制定・刊行は、臨済・曹洞の既存両禅宗に対し、さまざまな影響を及ぼした。曹洞宗内では黄檗の清規に準拠する風潮も生まれた。その一方で、祖師の清規に復帰し、あるいは整理、刷新を図ろうとする動きなども生み出した。

▶おわりに

 黄檗禅の特色は、戒律を重んじる正統な中国臨済宗の法灯と厳格な仏教儀礼が、隠元をはじめとする渡来僧によって十七世紀の日本にそのまま移植されたことにある。それはたしかに、日本禅宗界への新風となって吹き込んだ。また、禅の教えだけでなく、当時最新の中国生活文化も、そっくり日本に持ち込まれた。萬福寺や長崎唐寺をはじめ各地の黄檗寺院から全国に発信されていった多彩な黄檗の文化は、新奇さと渇望の念とをもって受けとめられ、江戸時代の文化をおおいに刺激した。

 この展覧会では、萬福寺と九州の黄檗寺院に伝わる宝物を中心に構成したため、かなり偏った内容と映るかもしれない。しかしながら、展示室は異国的な魅力を放つ仏像や躍動感あふれる墨蹟などで埋め尽くされることになり、かえって原初のままの中国文化を感じていただけるのではないだろうか。会場で何かしらの驚きや興奮を感じていただけたとすれば、それは江戸時代十七世紀の人々と同じ体験をされたことになる。企画者としては、これにまさる喜びはない。

(くすい たかし 九州国立博物館主任研究員)

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