鎌倉仏教

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 鎌倉時代は、日本の仏教が復興し、あるいは新時代にふさわしい仏教が生まれ、個性豊かな多くの高僧が登場した、日本仏教史上における画期的な時代です。 南都では、いわゆる南都炎上のあと、伽藍の復興に加えて教学や戒律の復興もおこなわれました。鎌倉時代の南都仏教界には、京都の仏教界と共に、新たな息吹きが感じられます。

 また、源空・親鸞・日蓮・一遍といった高僧によって、新しい仏教が誕生しました。高僧の活動は、各地の民衆の支持を得て日本仏教の姿を変化させていきます。 さらに、日本から中国へ渡った入宋僧や、中国からの渡来僧によって禅が伝えられました。これは日本と中国との文化交流の長い歴史の中でも特筆すべき出来事で、禅の文化は日本文化の中に重要な位置を占めるようになります。

 本展は、そうした鎌倉時代における仏教の展開を、第一部「南都仏教の復興」、第二部「新仏教の誕生と展開」、第三部「禅宗の受容と進展」の三部に分けて、高僧の代表的な筆跡、肖像画・肖像彫刻、絵伝、および高僧が制作に関わった優れた仏像、仏画、仏具などによって構成し、その面影・人柄や思想の一端に触れて頂くと共に、鎌倉時代の仏教美術の特質について理解を深めて頂こうとするものです。 本展の開催にあたり、貴重な文化財の御出陳に格別の御高配を得た社寺はじめ所蔵者の方々に厚く御礼を申し上げます。(平成五年四月二十四日 奈良国立博物館長 山本信吉)

■鎌倉仏教 −−高僧とその美術 −  

■はじめに 

 治承四年(一一八〇)十二月二十八日、平重衡は南都を焼き打ちし、東大寺と興福寺はその伽藍の大半を失った。のちに摂政・関白を歴任する九条兼実は、日記『玉葉』に

 仏法・王法滅尽し了(おわ)るか。およそ言葉の及ぶところにあらず。筆端の記すべきにあらず。余このことを聞き、心神屠(さ)くがごとし。

と悲痛な思いを綴っている。

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 東大寺の復興は、東大寺大勧進職(だいかんじんしき)に任命された重源(ちょうげん)によって進められた。そして大仏頭部の鋳造が完了した翌日、九条兼実(下図左)は大仏の体内に仏舎利を奉籠しようとして、願文(下図右)を作成した。

九条-兼実。 仏舎利奉納願文

 この顧文によれば、兼実は、源氏と平氏による全国規模での内乱は、治承四年の南都焼打ちによる仏法の破滅が契機になっていると考えており、大仏を再興しなければ、王法を再興することもできないと主張している。

 「王法」とは政治権力あるいは国家秩序のこと、「仏法」とは仏法そのものであると共に、具体的には仏法を保持する寺院のことも指す。兼実の願文にみらいれるような、王法と仏法は盛衰をともにするという考え方を「王法仏法相依(そうい)論」という。「王法仏法相依論」は平安時代の半ばすぎから顕著になり、王法と仏法はしばしば車の両輪・鳥の両翼の関係にたとえられた。鎮護国家をその任務にしていた奈良時代の仏教は、国家のための仏教であり、ある意味では国家に従属する存在であったともいえよう。しかし「王法仏法相依論」では、仏法は王法と対等であり、仏法の盛衰が王法の盛衰を決定すると主張される。

 ところで、「王法仏法相依論」が台頭した十一世紀は、末法思想が広まり始めた時期でもあった。末法思想とは、釈迦の入滅を起点として、正法、像法、末法の三つの時代を経過するに従って仏法が衰滅していくという考え方である。仏の教えだけが残り、それを実践する者はいなくなるという末法の時代は、わが国では永承七年(一〇五二)から始まると考えられていた。そして十一世紀から十二世紀にかけて、現在が末法の時代であることを意図的に強く主張したのは、寺院の側であった。寺院は、国司など他の勢力による寺領への侵犯を末法の現われだと主張し、不輸・不入などの特権を寺院に与えるよう訴えた。つまり寺院は、末法を克服して王法の衰滅を防ぐには寺院を経済的に保護せよと主張したのであり、このような寺院の主張は朝廷から承認された。

 平安時代の後期、十一世紀から十二世紀は、わが国における仏教のひとつの最盛期であった。「王法仏法相依論」と末法思想の広まりのなかで、上皇や貴比族は数多くの寺を建立し、塔を建て、仏像を造立し、写経に励み、そして次々に寺院へ庄園を寄進していった。寺院は、宗教界のみならず、膨大な庄園をもつ庄園領主として、政治的にも社会的にも強大な勢力となった。

 ところで、平安時代の後期から鎌倉時代にかけての時期、その当時の社会において「正統」な仏教だとみなされていたのは、南都六宗(法相宗、三論宗、倶舎宗、成実宗、華厳宗、律宗)と天台宗、真言宗のあわせて八宗であった。この八宗は、本来はそれぞれが独自の教義をもつ宗派であるが、現実にはいずれもが著しく密教化しており、神祇(じんぎ)信仰や民間信仰を包み込んで、ひとつのゆるやかなまとまりを形成していた。このまとまりを、ここでは便宜上、「顕密仏教」と呼ぶことにする。これは近年になって広く用いられるようになった用語で、顕教と密教を組み合わせた言葉である。

源空(法然  解脱上人(貞慶)坐像 江戸時代 海住山寺 

 この顕密仏教に対して登場したのが源空(法然)である。源空は承安五年(一一七五)に京都東山の大谷で専修念仏を説いた。これは、念仏は阿弥陀如来が選択した往生極楽のための唯一の行だとする画期的な主張であった。

 この当時、源空を激しく批判した人に貞慶がいる。貞慶が八宗を代表して専修念仏の停止と源空の処罰を求めて書いた「興福寺奏状」をみれば第一条では、源空が八宗以外の宗派を勅許なしに立てようとしたことを批判している。そして最終の第九条では、「仏法王法猶し身心のごとし」と王法仏法相依論がまず掲げられ、八宗は「偉口念仏を信じて異心なしと雖(いえど)も、専修は深く諸宗を嫌ひ、同座に及ばず」と専修念仏の姿勢が非難されている。他の条文の基本主張も同様で、阿弥陀如来だけを信じ、念仏だけに価値をおき、念仏者だけが救われるとする専修念仏が広まれば、八宗は衰えるつまり仏法が衰え、王法も衰えて国土は乱れる。八宗を代表して興福寺が専修念仏の停止を訴え出たのは(そして貞慶が筆を執ったのは)、このような憂慮にもとづいてのことであった。そしてこれこそが「正統」たる顕密仏教の論理であった。

 鎌倉時代にこのような論理にもとづいて迫害を受けたのは源空とその門弟ばかりではない日蓮、大日房能忍、栄西、道元なども流罪や寺院の破却などの迫害を受けている。その理由は、彼らの思想が新しかったためではなく、それらが顕密仏教を衰えさせ、それゆえに王法を衰えさせる思想と行動だとみなされたからである。次々と登場した鎌倉仏教の高僧は、顕密仏教との関わりのなかで何をめざしたのだろうか。そしてその高僧との関わりのなかで、どのような仏教美術の名品が制作されたのであろうか。

■第一部 南都仏教の復興(重源、栄西、行勇)

南大門(国宝) 戒壇院

 治承四年(一一八〇)に焼失した東大寺伽藍の復興は、造東大寺大勧進職に補任された重源(一一二一~一二〇六)によって進められた。まず大仏の鋳造に着手した重源は、貴賤を問わない勧進で費用を集め、宋の鋳師・陳和卿(ちんなけい)の協力を得て、平氏滅亡からまもない文治元年(一一八五)八月に開眼供養をおこなうことができた。この時期の復興事業を全面的に支援したのは後白河上皇で、そこには仏法の復興による王法の繁栄を頗う上皇の強い意志が感じられる。

重文・公慶上人坐像(部分) 性慶作 江戸時代・14世紀 東大寺蔵l

 重源は次に大仏殿の再建にとりかかったが、これは予想外の難工事であった。そのため文治二年には周防国が、建久四年(一一九三)には備前国が東大寺造営料にあてられ、重源がその国務を執行した大仏殿の再建には源頼朝の全面的な援助もあり、ようやく建久六年に至ってその実現をみた。源頼朝が東大寺復興を支援したのは、信仰心のゆえばかりでなく、仏法の外護者としての地位を確立し、東大寺を焼いた平氏に代わって王法の中心的存在になろうとする意図が含まれていたと考えられている。

 このあと重源は建永元年(一二〇六)に八十六歳で亡くなるまで、戒壇院や南大門(上図左右)などの建立や仏像の道立に力を尽くした。

南無阿弥陀仏作善集

 重源の活動は東大寺復興に限らず、多方面にわたっている。重源の生涯における宗教活動の内容は「南無阿弥陀仏作善集」に詳しい。そこには重源がおこなった造寺・造仏・修理・施入物の品名や員数、場所などが記されており、多くの宋の文物を東大寺などへ施入している点が注目さや大仏殿の再建にも宋の技術が用いられたが、鎌倉時代の南都仏教復興には、教学、文物、技術など様々な面で宋の影響がみられる。復興といっても、それは古代そのままではなく、新時代にふさわしい内容をもつ復興であった。

 東大寺俊乗堂に安置されている重源の像は、東大寺復興の大事業にかけた重源の執念にも似た気迫をいかんなく伝える肖像彫刻の傑作である。

30 浄妙寺開山の退耕行勇。

 重源の死後、造東大寺大勧進職に補任されたのは栄西(一一四一~一二一五)そのあとを行勇(ぎょうゆう)(一一六三~一二四一)が引き継いだ。行勇は栄西の弟子で、東塔・大講堂・大湯屋・鎮守八幡宮などの再建や移建、そして大鐘楼と梵鐘の修復など多くの工事を完成させ、東大寺の復興に貢献した。

▶貞慶(じょうけい)、点遍、宗佐、凝然)

 貞慶・じょうけい(一一五三~一二二二)は将来を嘱望された興福寺の学僧であったが、建久四年(一一九三)に笠置寺へ移った。笠置には弥勤菩薩の巨大な磨崖仏があり、弥勒の一大霊場として世に知られていた。貞慶の本格的な宗教活動はこの時に始まる。

解脱上人貞慶

 貞慶は、釈迦・弥勤・観音にとりわけ深い信仰をもち、戒律の復興に力を尽くした。また勧進僧たちの求めに応じて多くの文章を執筆し、朝廷や幕府からの援助のほかにおそらくはこうした人々との深い関わりによって、荒廃した由緒ある寺々(笠置寺、海住山寺、元興寺、海龍王寺、惣持寺など)を復興した

絹本著色笠置曼荼羅図-

 笠置曼荼羅図・上図は貞慶が復興した笠置寺の姿を伝える唯一の図で、巨大な弥勤の磨崖仏を背景にして、貞慶が建立した十三重塔や礼堂などが立ち並ぶ様を描いている。貞慶が造営した笠置寺般若台には、重源も宋版大般若経や梵鐘を寄進している勧進僧とのつながりが密接だった貞慶が関係した寺や地域には、民衆の信仰を集めている場所が多く、専修念仏を弾劾する「興福寺奏状」を貞慶が八宗を代表して書いたのは、その学識や文章力のはかに、庶民の世界にも及ぶ広い視野をもっていたためだと考えられる。

 貞慶は、源空(法然上人)と対立してはいても、深く阿弥陀如来を信仰していた。貞慶が批判したのは、阿弥陀一尊だけを信じ、諸行往生を否定して念仏だけを往生行とする専修念仏の姿勢であった。貞慶が「汝は誰が弟子ぞ。誰かかの弥陀の名号を教えたる。誰かその安養(極楽)浄土を示したる」と源空を批判したように、仏教すべての教主である釈迦への信仰が、この時期、貞慶をはじめとする顕密仏教の改革派の中で著しく高揚する。そして末法の時代だからこそ釈迦の教えに還ろうとする運動が盛んになった。舎利信仰や戒律の重視などはその運動の主たる要素であった。なお貞慶は晩年に、古くからの観音の霊場であった海住山寺へ移る。晩年の貞慶は観音の来迎を得て補陀落山へ往生したいと強く願っており、貞慶によって、この地で初めて観音来迎図が考案制作された。下図左例

S17-801 明本抄

 貞慶はまた法相教学の復興と確立にも大きな役割を果たした『明本抄(上図右)は代表的著作のひとつである。

 

 貞慶の教学をさらに展開させたのが良遍(一一九四~一二五二)である。良遍は興福寺の学僧で、仁治三年(一二四二)に遁世して生駒の竹林寺へ移った。良遍は当時の僧侶の退廃を批判し、覚盛(かくじょう)らの戒律復興運動に共鳴していた。そして良遍は従来の法相教学の根幹であった五性各別説(衆生の先天的素質を五種類に分ける考え方。最下の無性は仏にはなれないとする)を超え、ついに一切皆成仏・いっさいかいじょうぶつ(すべての衆生が仏になれる)を主張するに至る。中国の法相教学の壁を破り、わが国独自の唯識説を創造した点で、良遍は注目すべき存在である。また良遍は東福寺の円爾(えんに)に参禅したこともあり、『真心要決』(18)では法相教学と禅とが一致することを説いている。

宗性

 宗性(そうしょう)(一二一〇二−七八)は東大寺の学僧で華厳教学を学び、また貞慶の『明本抄』で因明学を学んだ。やがて貞慶への思慕から笠置寺へ移り、弥勒信仰にもとづいて『弥勤如来感応抄』を編纂した。これはインド以来の弥勤信仰の史料を集めたもので、このあと宗性は仏教の歴史的研究に打ち込んだ。こうした仏教史の研究が鎌倉時代の南都仏教界では盛んにおこなわれた。これは社会状況の大きな変化を受けて、自己を歴史的存在と認識したためと考えられ、史書の編纂は未来への出発点と意識されたことであろう。宗性の著述は生涯に千巻を超え、現存する自筆本も数多い。

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 凝然(ぎょうねん)(一二四〇~一三二一)は東大寺の学僧で、鎌倉時代屈指の碩学(せきがく・修めた学問の広く深いこと。また、その人)である広く諸宗に通じ、二十九歳で『八宗綱要』という仏教概説書を著すなど生涯に千二百余巻の膨大な著述をのこした。仏教のはか、国史・儒学・諸子百家の外典にも精通し、その視野の広さと造詣の深さは他に類をみない。

 また凝然は華厳教学の組織化と体系化に大きな役割を果たした。それまでのわが国の華厳学が法蔵・元暁・慧苑・李通玄などの祖師の著作を個別に受け入れて未整理だったのに対して、凝然は法蔵−澄観の路線を正系として華厳教学を統一した。中国末代の新しい華厳教学の影響を著しく受けながらも、それとは異なるわが国独自の華厳教学を確立させた点に、凝然の、ひいては鎌倉時代の南都仏教の特質をみることができよう。

▶覚盛、叡尊、忍性

覚盛。 39

 嘉禎二年(一二三六)、覚盛(かくじょう)(一一九四~一二四九)と叡尊(えいそん)(一二〇一~九〇)は他の二人と共に東大寺羂索(けんさく)院で自誓受戒をおこなった。自誓受戒とは仏から直接に戒を受ける作法で、その様子は「自誓受戒記」(下図)に詳しい。

自誓受戒記

 このあと叡尊は家原寺(えばらじ)で別受戒をおこない、国家の伝統的な授戒制度とは異なる新たな授戒システムを創り出した。このことば新しい律宗の誕生ともいうべき画期的な出来事であった。叡尊は暦仁元年(一二三八)に西大寺へ選任し、その復興を開始した。また覚盛は唐招提寺に任してその復興に貢献した。

 叡尊は授戒を中心とする布教活動によって多数の信者を獲得した。叡尊の経済基盤はこうした信者から寄進された田畠や金銭であった。それらは狭くまた少額であったが、蓄積されると西大寺を復興させる大きな力となった。また文永元年(一二六四)に始められた光明真言会は、寄進田畠を飛躍的に増加させた。さらに叡尊とその後継者たちは勧進活動によって、荒廃していた由緒ある古寺(法華寺、海龍王寺、般若寺など)を復興し、それらを西大寺(さいだいじ)の末寺に組織した。そして末寺のもとには多数の信者が組織されていた。顕密仏教の寺院が庄園を経済基盤にしていたのに対して、叡尊が生み出した収集体系は土地に頼らない異質なもので、これは商品流通の発達などによる新たな社会状況に対応したものであった。

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 叡尊の基本姿勢は、仏教の原点である釈迦に立ち返ることであった。叡尊は「生身の釈迦」として格別の信仰を集めていた清涼寺の釈迦如来像を模刻し、また舎利を荘厳するために舎利塔や舎利容器(3132)を制作した。叡尊の釈迦信仰は主として釈迦の壌土成仏を讃える『悲華経(ひけきょう)にもとづいており、浄土への往生を廟わずにこの世でこそ苦しむ人々を救おうという叡尊の決意も、『悲華経』の釈迦に学んだものであった。なお、貞慶、覚盛、高弁(明恵)の著作にも『悲華経』はしばしば引用されており、貞慶が結線した峰定寺の釈迦如来像(14)の像内に納められた樹菓結縁文にも、『悲華経』に説かれる釈迦の「五百大鹿」の語がみえている。

 叡尊は弟子の忍性と共に文殊菩薩像を造立し、社会の底辺で苦しむ人々に食料や生活必需品を支給してその救済にも尽くした。これは文殊菩薩が貧窮孤独苦悩の衆生となって行者の前に至るという『文殊師利涅槃経』の所説に拠るものであった。また叡尊は女性のための戒壇を初めて設け、女性が正式な尼になる道を切り開いた法華寺など尼寺が末寺に多いのはそのためである。

 こうした叡尊の宗教活動はやがて朝廷や幕府から注目されるようになった。弘長二年(一二六二)に叡尊は鎌倉へ下向したが、これは仏法がすたれて国土が荒れているのをその教えで正したいという前執権北条時頼と金沢実時の申し出に応じてのことであった。

 西大寺に伝わる叡尊の肖像彫刻は、弘安三年(一二八〇)に叡尊を慕う多くの門弟たちが合力して造立した八十歳の折の寿像(生存中につくられた肖像)で、細部にまで神経を注いだ迫真の像である。作者は仏師善春。多数の人々が同心合力して造った像であることが、叡尊の特質をよく物語っている。

忍性菩薩像(鎌倉時代-1 忍性菩薩像(鎌倉時代)

 叡尊の門流を東国に広めたのは弟子の忍性(一二一七~一三〇三)であった忍性は北条重時一族の帰依を受けて鎌倉の極楽寺の開山となった。忍性は卓抜な経営手腕を発拝すると共に、社会事業に尽力し、また密教修法で雨を降らせるなどして名声を高め、ついに生身の如来と讃えられるようになった。

▶栄西、高弁(明恵)、俊朽

 源氏と平氏による全国規模での内乱や南都炎上は、人々に末法を実感させたが、後白河上皇は、乱世の原因を顕密仏教の僧侶「苦修練行の心」が欠如していたためだと記している。確かに平安時代後期の仏教界には、仏道修行の基本である戒・定・慧(え)のうち慧学(えがく)の極端な偏重がみられ、戒律や禅定(ぜんじょう)は軽視される風潮があった。しかし内乱と南都炎上は、結果的に、戒律を正しく守って禅定に励む本来あるべき姿をした僧侶の登場を待ち望む社会状況をつくり出した栄西・貞慶・高弁(明恵)・俊前による戒律復興などの改革運動が、期待をもって迎えられ、高い評価を受けたのはそのためである。

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 栄西(一一四一⊥二一五)は「僧尼を励まして戒律を持たしめば、諸龍時雨を降らして国土豊蔑ならん、諸天福祐ありて逆徒退却せん」と願文に記している。そこからは持戒持律によって内乱を鎮め、国土を豊餞にしようという栄西の願いを明瞭にうかがうことができる。のちに覚盛も願経(望の奥書に、国土の豊餞は当世の持戒持律の威徳力によるものかと記している。

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 高弁(こうべん)(明恵・みょうえ・一一七三~一二三二)は京都高雄の神護寺で学び、東大寺で受戒したが、名利だけを求める僧侶達を嫌って紀州の山中に住み、修行と学問に励んだ。のちに京都栂尾(とがのお)に高山寺を創建した高弁は、釈迦を思慕し、戒律を重視し、華厳教学や密教を極め、また在家の人々のために易しい行を工夫するなどして、後鳥羽上皇や北条泰時をはじめとする多数の人々の帰依を受けた。代表的著作には、源空の『遠択本廠念仏集』を批判した『推邪輸(さいじゃりん)』のほか、「入解脱門義』や「明真言土沙勧信記』などがある。建仁三年(一二〇三)正月、春日明神が高弁に託宣を下して天竺行きを止めたことは当時からよく知られ、延慶二年(二二〇九)に奉納された『春日権現験記絵』(聖にもその場面が劇的に描かれている。高弁はまた、承久の乱で夫や子供を亡くした多くの女性のために善妙寺という尼寺を建て、その救済にも力を尽くした。

大唐天竺里程書

 高弁の周囲には、運慶・快慶・湛慶など慶派の仏師や成忍・俊賀らの絵師がおり、冒同山寺縁起』によれば、高山寺の堂塔の仏像の多くが慶派の仏師によって造立されたものであった

運慶座像 湛慶座像

 嘉禄元年(一二二五)に勧請(かんじょう・神仏の来臨を願うこと)された高山寺の鎮守に安置されていた白光神像(下図右)や善妙神像(下図左)も湛慶(タンケイ)の作だと考えられている。また高弁のもとには宋の仏画や一切経などが集められており、従来とは異なる新しい華厳思想や図様を学んで、仏の姿をみずから指導して描かせることもあった。山中の松樹に坐す高弁を描いた肖像画(下図左右)は弟子の成忍の手になると考えられ、宋画の清澄な画趣がとり入れられている華厳宗祖師絵伝(下図)は華厳宗の祖師である新羅の義湘と元暁の行状を描いたもので、色調などにやはり宋画の影響が顕著である。その詞書の作者は高弁自身だと推測されている。高弁の思想とそれにもとづく造形活動には、このように新しい要素が様々に存在し、新しい時代の息吹きが感じられる。

重文・善妙神立像・高山寺・鎌倉時代- 白光神立像 高弁国宝・明恵上人樹上座禅像-1 国宝・明恵上人樹上座禅像華厳宗祖師絵伝

 高弁が亡くなった時、天台座主の良快は「天台座主の如きを世に聖人といふは前代の事なり。当世は明恵上人(高弁)の如きを聖人と謂ふべし」と述べている。鎌倉時代の中期になると顕密仏教の側にも次第に意識の変化が見られるようになり、高弁をはじめとする顧密仏教の改革派の人々は顕密仏教の理想的指導者と讃えられるようになっていくのである。

俊--1 俊-泉涌寺-(せんにゅうじ)。

 朝廷や幕府の有力者をはじめとする多くの人々の尊崇を集めた俊芿(しゅんじょう)(一一六六~一二二七)もまた、そうした一人であった。戒律の衰微を嘆いて中国に渡った俊荊は十三年にわたる研鞭によって律部と天台の教理をきわめ、建暦元年(一一二一)に帰国した。京都において展開された俊前による戒律復興は、南都における戒律復興にも大きな影響を与えた。また俊荷は帰国の際に法帖や こスノさんこく碑文など書道関係の資料を多数もたらしており、代に流行していた黄山谷(一〇四五~一一〇五)流の書法をわが国に広めた功績も大きい。承久元年(一二一九)、京都泉桶寺(せんにゅうじ)の造営費用を調達するために俊芿が筆を執った「泉涌寺勧縁疏」は、美しい色香りの蠟牋(ろうせん)に黄山谷流の雄渾でのびやかな筆跡で記されている。この勧縁疏の素晴らしさは当時の人々を驚かせた

■第二部 新仏教の誕生と展開

▶源空とその門流

法然上人座像

 源空(げんくう)(法然)は比叡山の西塔黒谷で学んで「智恵第一の法然房」と讃えられた。しかしやがて山を下り、京都東山の大谷に住んで専修念仏を説いた。これは源空が善導(ぜんどう)(六一三~六八一)の『観憮量寿経疏』散善義の一文によって「たちどころに余行を捨て、ここに念仏に帰」したためであった。源空は九条兼実 の要請によって『選択本願念仏集』(下図左右)を著した

法然-1 法然-2

 その要旨は、阿弥陀如来はすべての人々を平等に救うために念仏だけを選択して本願の行とした、ということであった。この主張は、念仏以外の諸行(造像起塔、修学、発菩提心、観念、持戒、持経など)は阿弥陀如来の本願ではないので極楽往生のためには価値がないということにもなり、顕密仏教からの非難が当然予想された。このため源空は門弟にさえも容易にはその閲覧や書写を許さなかった

 源空は仏教を聖道門浄土門に大別している。聖道門は顕密仏教のように学心にする仏教、浄土門は極楽浄土への往生を厭う仏教である。そし法の現在、浄土門でなければすべての人々が救われることはないとした。源空の主張の根底に、今が末法であるという時代認識が強くあったことを忘れてはならない

 源空の周囲には多くの賛同者が集まり、専修念仏は北陸や東海の諸国にまで浸透した。源空自身は戒を守り、『選択本願念仏集』を公にすることもなかった。しかし、末法の時代においては阿弥陀如来がみずから選択した念仏以外での極楽往生は不可能(諸行往生の否定)と主張する専修念仏は、数限りない他の行や教学を内包する顕密仏教には承認できないもので、のちに建永の法難」「嘉禄の法難」をもたらした。

 源空の門弟は、人によってその教義がかなり異なっていた。有力な門弟には、弁長、証空、幸西、隆寛、長西、親鸞などがおり、これらの人々を中心にして小さな教団が生まれ、それぞれの形で源空の思想が社会に定着していった。このうち二度の法難のあとの京都で大きな役割を果たしたのは証空(一一七七~一二四七)である。証空は内大臣源通親の猶子(ゆうし・兄弟・親類や他人の子と親子関係を結ぶ制度)で、貴族との関係が深く、天台座主(てんだいざしゅ・日本の天台宗の総本山である比叡山延暦寺の貫主(住職)で、天台宗の諸末寺を総監する役職。)の慈円とも親しかった。証空を祖とする一派を西山派(せいざんは)というが、西山派の特色は、天台的色彩と貴族的色彩が強いことだと言われる。証空は当麻(たいま)曼荼羅の信仰を横棒的に広めたことでも知られている。なお源空の門流のうちで中心的存在になったのは、弁長から始まる鎮西派(ちんぜいは)であった。鎮西派の特徴は諸行往生の肯定にあり、顕密仏教と対立する存在ではなかった。鎮西派はまず九州と関東に広まり、やがて京都に進出して、源空ゆかりの地である大谷に建立された知恩院を伝領し社会に完全に定着した。応長元年(一三一一)、東大寺の凝然(ぎょうねん)は「三国仏法伝遠縁起』で八宗の歴史を概説したが、最後に禅宗と浄土宗を挙げて、この二宗を加えれば十宗になると記している。このように浄土宗は十四世紀に入った頃には既に社会から認知されていた。『法然上人絵伝』の四十八巻(下図)が後伏見上皇の勅命で延暦寺の舜昌(しゅんじょう・1255~1335)によって制作されたといわれるのも、そうした状況にもとづいている。鎌倉時代の中期になって社会が安定し始めると、専修念仏がもつ「異端」的な部分は次第に薄らいでいった。

総本山知恩院に伝わる『法然上人行状絵図』

 源空の最古の伝記は、滅後まもなく成立した『知恩講私記』で、安貞二年(一二二八)の写本が宝菩提院に伝わっている。伝記絵は嘉禎三年(一二三七)「伝法絵」以来、数種が制作され、知恩院の四十八巻本は源空の伝記を集大成したものである。源空の肖像は、『法然上人行状図絵』によれば、似絵画家の藤原信実が描いたものをはじめ、在世中にすでに画像が五、木像も一軀(く)あったとされる。興善寺の証空書状(下図)にも、源空の御影(みえい)の制作に関するのではないかと思われる記述がみられる。

興善寺

 二尊院本(下図左)は「足曳(あしびき)の御影」の名で知られ、現存する最も古い遺品のひとつである。肖像彫刻では南北朝時代に制作された当麻寺奥院の木像(下図右)最古の遺品である。なお源空に限らず、鎌倉時代に新しい思想を展開し、教団の祖師と仰がれるようになった人々の肖像や伝記絵(絵伝)の制作は、弟子や後継者にとって重要な仕事であった。それらの作品は、従来の仏像や仏画に代わって信者の崇敬の対象となり、多くの転写本が作られて布教にも大きな効果を発揮した。

二尊院「足曳の御影」遺品 法然上人座像

 源空に関わる絵画としては「摂取不捨曼荼羅(せっしゅふしゃまんだら)」と「二河白道図(にぎゃびゃくどうず)」がある。前者の遺品は現存しないが、貞慶の「興福寺奏状」などから図様を知ることができる。それによれば、阿弥陀如来から出た光が専修念仏の人々だけを照らし、聖道門の人々に向かった光は途中で折れ曲がっているという刺激的な図様であった。一方、「二河白道図」は二河白道の譬喩(下図参照)を絵画化したものであるこの譬喩(ひゆ・比喩・たとえ)は善導の『観無量寿経疏』散善義のなかで説かれ、源空がこれを説法に用いたり『選択本願念仏集』に引用したりしたために広く知られるようになり、やがて絵画化された。光明寺本(駈)は最古の遺品で、聖道門の僧を賊として描いている点が注目される。これは高弁から「聖道門をもって群賊に菅ふる過失」を非難された『選択本願念仏集』の趣旨をそのまま反映したもので、鎌倉時代の後期以降の遺品にはみられない特徴である。

二河白道図

 玉桂寺の阿弥陀如来立像(下図)は、源空の一周忌に門弟の源智(源空は臨終の二旦別に、専修念仏の極致を示すとされる「一枚起請文」という法語を源智に与えている)が造立したものである。像内には、数万人の名前を記した結線交名が源智の願文と共に納められており、源空を慕う人々の広がりを知ることができる。

玉桂寺の阿弥陀如来立像 photo_2

親鸞とその門流

 親鸞(一一七三−一二六二)比叡山の常行堂(じょうぎょうどう)の堂僧であったが、建仁元年(一二〇一)に京都六角堂に参籠して聖徳太子の示現(じげん・神仏のお告げ)を受け源空を訪ねて専修念仏に帰した。その後は源空のもとで勉学と聞法(もんぽう・仏の教えを信じる第1段階として重要視されている)に励んだが、建永二年(一二〇七)の法難で越後へ流され、以後は非僧非俗の立場をとった。赦免後もすぐには京都に戻らず、建保二年(一二一四)には妻子と共に常陸国へ移った

親鸞マップ 親鸞座像

 親鸞は師の源空に対する絶対的な帰依を表明しているが、実際にはその思想内容は独自の展開を遂げた。

 善人なをもて往生をとぐ。いはんや悪人をや。しかるを世のひとつねにいはく、悪人なを往生す、いかにいはんや善人をや。

 『歎異抄』にみえるこの言葉は、親鸞にとって善人よりも悪人の方が宗教的価値の高いことを示している。親鸞は深く自己の罪障を自覚していたが、親鸞にとって末法の時代にはすべての人々は悪人でしかありえず、その点において人々は平等であり、念仏は悪人であるすべての人々がおこなうべき唯一のものであった。そして親鸞は、信じる心も念仏しようとする心も、すべて阿弥陀如来から賜わったものであるという徹底した他力信仰に到達した。

 親鸞(60~63歳頃)が京都に戻ったのは、文暦二年(一二三五)の幕府による念仏者の取締りと関係があると考えられているが、そののち東国の念仏者たちは有力な門弟を中心に結集して、やがて次々に小教団を誕生させた。それらの小教団は、所在地の名をつけて高田門徒、横曽根門徒、鹿島門徒などと呼ばれた。

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 京都では親鸞の死後、末娘の覚信尼(かくしんに)が東国の門徒と協力して親鸞の墓所を造営した。これがやがて本願寺になる本願寺は覚信尼の子孫が代々相伝することになっており、第三世の覚如(一二七〇~一三五一)は本願寺を中心に教団を統合しようとしたが成らず、各地の小教団の自立化は更に進んだ。なお親鸞の門流が全国に広がって大きな勢力になるのは、室町時代の後期に蓮如(れんにょ)(一四一五~一四九九)が登場するのを待たなければならない。

 ところで親鸞は、仏像などの形ある本尊を必要とはしなかった。晩年の親鸞は道場の本尊として自筆の十字の名号(「帰命尽十方無碍光如来」または「南無尽十方無碍光如来」)を多く用いたこれを名号本尊という名号本尊には六字(「南無阿弥陀仏」)と八字〔「南無不可思議光仏」)のものもあるが、親鸞の死後には阿弥陀如来像を本尊にすることも始められた。

親鸞-3 親鸞-4

 親鸞の肖像画では「鏡御影(下図右)」(かがみのみえい)、「安城御影」(あんじょうのみえい)、「熊皮御影」(下図左)がよく知られている。前二者は親兼の生前に描かれたいわゆる寿俊で、(下右図の親鸞像)は簡潔な線描ながらその面影をよく伝えた迫真の画像として名高い。

親鸞座像 親鸞-5

 このほか一幅中に親鸞とその後継者である如信と覚如の三人を描いた列座像(下図左右)もある。こうした血脈図はとくに仏光寺派で発展して絵系図となり、これを布教に用いた仏光寺派の教線拡大に貢献した。

親鸞如信覚如三上人像-1 親鸞如信覚如三上人像-2

 親鸞の伝記絵には永仁三年(一二九五)の三十三回忌を記念して覚如が編集した「禅信聖人絵(下図左右)があり、親鸞伝の根本史料のひとつとなっている。原本はすでになく、専修寺と西本願寺にその古写本が伝えられている。なお専修寺本の末尾の大谷廟堂の場面には、廟堂の中に親鸞の彫像がみえる。

01135_5 Nishizaki-08w 善信上人親鸞

▶日蓮とその門流

 正嘉元年(一二五七)、大地震で鎌倉は壊滅状態となり、さらに天変地異が相継いだ。文応元年(一二六〇)七月、日蓮(一二二二~八二)前執権の北条時頼に「立正安国論』(下図右)を呈上した。その要旨は、災害が打ち続くのは専修念仏の盛行によって諸天善神が国を捨てたからであり、人々が浄土教への施をやめて真実の教えである『法華経』に帰依すれば災害を克服できる、さもなくば内乱外寇によって国は亡びるであろう、ということであった。

 日蓮は、仏教の精髄は『法華経』にあるとして、『法華経』の眼目である題目(「南無妙法蓮華経」)を唱えれば、真横、男女、善人悪人の別なく、そのまま成仏できると主張した。また、この国土は釈迦如来の御領で、正法にもとづく政治をおこなった時に初めて国主の支配権が正当化されると考えていた。ここでは仏法は王法よりも上位に位置づけられている。また日蓮にとって、理想世界はあくまでこの世界(此土)に求められるべきものであったので、必然的に政治と深く関わることになり、幕府への諌暁(かんぎょう・いさめ,さとすこと)が繰り返された。さらに「法華経』への絶対的な信仰にもとづき、「念仏無間、禅天魔、真言亡国、律国賊」と他宗を激しく攻撃したので、日蓮は念仏者などに何度も襲われ、幕府によって伊豆や佐渡へ流されるなど、生涯を通して法難を受けた。しかし日蓮は配流先の佐渡でさらに確信を深め、『開目抄』(下図左)や「観心本尊抄』を執筆し、自筆の曼荼羅本尊を創作して新境地を開いた

開目抄 立正安国論

 赦免されて鎌倉へ戻った日蓮は、再度幕府へ諌言(かんげん・いさめること)を試みたがついに容れられず、甲斐の身延山(みのぶさん)に隠栖(いんせい・俗世間を逃れて静かに住むこと)した。身延の日蓮のもとには各地の信者から食料や銭などが届けられた。数多く現存する日蓮の書状の大半は、こうした届け物への礼状であるが、その筆先は次第に「法華経』の教義や信仰へと向かう。日蓮の書状からは信者に対する深い情愛があふれ出ており、その独特の奔放な筆跡と共に印象深い。

絹本著色日蓮聖人像 富木殿御書 日蓮筆

 日蓮の門流は、日蓮の在世中はまだ小さな教団に過ぎず、地域も東国に限定された。この初期の教団を支えたのは地頭・御家人クラスの有力武士や地方の小領主であったと考えられる。そのひとりに下総の富木常忍(上図)がおり、常忍やその妻に宛てた書状には親しい間柄がよくうかがえる。

 日蓮の教団は、日蓮の死後、教理や伝道方法をめぐって分裂したが、各派はそれぞれに教線を伸ばし、室町時代の中期にははぼ全国に浸透した。京都への布教は弟子の日像(にちぞう)(一二六九~一三四二)によってなされた。永仁二年(一二九四)に上洛した日像は積極的な布教につとめ、商工業者を中心に多数の信者を獲得した。日像が創建した妙顕寺はやがて天皇の勅頼寺と室町幕府の祈帝所になり、日蓮宗の京都での地位は急故に上昇した。

池上本門寺。 日蓮彫像

 現存する最古の日蓮像は、池上本門寺の木彫像である。これは日蓮の七回忌を前にした正広元年(一二八八)六月に供養を遂げたもので、力強く堂々としていて、生けるがごとき像である。画像では「水鏡御影(みずかがみのみえい)」の名で呼ばれる浄光院本と説法聴聞の場面を描く妙法華寺本がよく知られている。

日蓮上人画像

▶一遍上人とその門流

 一遍(1239~98)は、浄土宗西山派の聖達(しょうたつ・下図)に浄土教を学び、一時還俗したのち再出家し、念仏を勧める旅に出た。1239年 伊予国の豪族・河野道広の子 幼いときに寺に入り 1248年出家、随縁と名のる 1251年大宰府に行き聖達(浄土宗西山派の祖証空の門弟)に師事 智真と改名

 しかし勧化(かんげ・仏の教えを説き、信心を勧めること)の途中で迷いが生じて熊野本宮に参龍(さんりゅう・祈願のため、神社や寺院などに、ある期間こもること。おこもり。)し、熊野権現から、十劫(じっこう・非常に長い時間をいう)の苦から一切衆生の極楽往生は決定しているのであるから「信不信をえらばず浄不浄をきらわず」に念仏札を配ればよい、という神託を受けた。

yippen1s 「一遍聖絵」一遍上人画像-(清浄光寺蔵)

 このあと一遍は、「南無阿弥陀仏・決定往生60万人」と刷った小紙片を配りながら(これを賦算(ふさん)という)念仏を勧め、門弟と共に全国を遊行した。遊行先は北は奥州から南は九州に至り、諸国一宮や信仰を集める寺々、そして市場などをたずねながら人々を教化した。

 一遍は「名号は信ずるも信ぜざるも、となふれば他力不思議の力にて往生す」という名号に対する強い信仰をもっていた。また信濃の小田切里で始められた踊念仏は、世間の注目を浴びた。「わが化導(けどう・衆生を教化 (きょうけ) して善に導くこと)は一期ばかりぞ」と常に語っていたように、一遍には教団を作る意志はなかったと考えられる。

顔枷の木像:他阿真教 無量光寺本堂

 一遍のあとを継いだのは他阿真教(たあしんきょう)(一二三七~一三一九)で、真数によって教団が組織された。真数は北陸と関東を遊行したのち、嘉元二年(一三〇四)正月、相模当麻の無量光寺に止任した。その前年、幕府は諸国を横行する「一向衆」に対する禁制を出しておりその禁制が止住(しじゅう・ある場所にとどまって住むこと)の契機となったとされる真数は門弟(時衆という)も各地の道場に止任させて時衆教団の姿を一新させ、無量光寺を中心として関東に教線を伸ばした。

 一遍と真数の門流(時衆教団)の最盛期は南北朝時代から室町時代にかけてである。帰依(きえ・(仏や神など)すぐれたものを頼みとして、その力にすがること)したのは貴族から庶民まで幅広かったが、中心になったのは各地の武士であった。『太平記』などの軍記物には、最後の十念を受けるために(時衆教団では臨終直前の最後の十回の念仏を特に重視する)戦場に時衆(門弟)を伴う武士の姿が描かれている。室町時代には、時衆は能、立花、作庭、連歌など芸能や文学の世界でもめざましい活躍をみせた。

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 一遍の伝記絵には、正安元年(一二九九)に完成した「一遍上人絵伝」(上図)がある。これは一遍の異母弟といわれる聖戒が、一遍の十回忌を記念し、一遍を追慕して編纂した十二巻の絵巻で、美しい自然の中に一遍の遊行の生涯を見事に描き出した鎌倉時代絵巻物の最高傑作である。伝記絵にはこのはか、宗俊(そうしゅん・他阿真数の弟子か)が編纂した「宗俊本」と呼ばれるものがある。これは前半の四巻に一遍の生涯を描き、後半の六巻には他阿真教教団を確立していく姿を描いたもので、時衆教団の正史(せいし・国家事業として編修した歴史書)とでも言うべき絵巻である。原本は焼失したが、その性格上、転写本が多く、金光寺の「遊行上人縁起絵」(93)は鎌倉時代末期頃の古写本である。

『遊行上人縁起絵』 第三巻一段-

 ところで、「一最上人絵伝」巻十二の末尾には一遍の墓所が描かれており、宝形造の廟堂の中に一遍の等身大の立像がみえる。この像は、短い法衣をつけ、左足を前にして立ち、合掌する、遊行賦算の姿をしており、その後の一遍像の祖型となった。一方、他阿真教の肖像は坐像(下図右)であらわされるのが古例で、道場を建てて止住(しじゅう・ある場所にとどまって住むこと)した真教(他阿たあは、鎌倉時代後期の時宗の僧。遊行上人2世。正しくは他阿弥陀仏と称し、他阿と略する。法諱は真教)を象徴するかのようである。

称願寺は、正応5年(1292)。 他阿上人座像 称願寺

■第三部 禅宗の受容と進展

 鎌倉時代において、禅宗は多くの派に分れて展開しており、臨済宗や曹洞宗という宗派に統合されてはいなかった禅僧はそれぞれの派を比較的自由に移動し、めざす師について参禅した。

達磨宗-1 達磨宗

 この時代に禅宗を広めようとした最初の人は大日房能忍(だいにちぼう のうにん・生没年不詳)である。能忍は摂津の三宝寺を拠点にして達磨宗と称したが、無師独悟(禅にある言葉で、師匠の元につかず、独力で悟りを目指す)であることを批判されたため、二人の弟子を入宋させ、文治五年(一一八九)に中国臨済禅の拙庵徳光(せったんとっこう)から法衣・頂相(肖像画)・達磨像を与えられ、印可(師がその道に熟達した弟子に与える許可のこと)を受けた。しかしなおも延暦寺を中心とする激しい非難を受け、建久五年(一一九四)に達磨宗は禁止された。その最大の原因は、能忍が戒律を尊重しない点にあった。能忍の門弟の多くは、やがて道元の門下に入る。のちに日蓮は、禅宗を広めた人物を能忍で代表させ、源空(法然)と並べて能忍を批判しており、鎌倉時代には能忍は相当な影響力をもった存在であったことがわかる。

30 _栄西禅師「興禅護国論の序」-

 二度目の入宋で虚庵懐敞(こあんえしょう)から臨済禅を学んだ栄西(一一四一~一二一五)が帰国したのは、建久二年(一一九一)のことであった。末法の世を正法の昔に戻す強い願いをもっていた栄西は、その手だてを禅の興隆に求め、『興禅護国論』を執筆した。文中に「今この禅宗は戒律をもって宗とす」とあるように、そこで何よりも強調されているのは戒律の重視であり、栄西の禅の本質は持戒持律主義(戒律を正しく持つこと)にあったと言える。

法系図

 第一部ですでに述べたように、南都炎上や全国規模の内乱によって人々は、末法の時代の到来を実感すると共に、本来あるべき姿をした僧侶の出現を期待し始めていた。栄西・貞慶・高弁・俊祈らによる戒律復興などの改革の動きは、当時の人々から熱い支持を受けた。まもなく栄西は幕府に招かれて鎌倉へ行き、寿福寺を建立した。これは、厳重に戒律を守り、密教の行法にも身心を打ち込む姿勢が評価されたためで、「吾妻鏡』には、栄西は持戒持律の密教僧として登場する栄西のように禅と密教を兼修する立場を兼密禅とよぶ栄西は京都には建仁寺を建て、禅の修行に励んだ。栄西の門流を黄龍派という。

寿福寺

 中国宋朝風の純粋な禅は道元(一二〇〇−一二五三)によって伝えられた。入宋した道元は天童山の如浄に学び「身心脱落」の体験をして仏教の精髄を会得した。帰国した道元は、『普勧坐禅儀』(77)を著して出家在家を問わない布教を始めたが、やがて越前の深山幽谷に一寺(のちの永平寺)を建て、京都を離れた。道元の主張は、ひたすら坐る(只管打坐・しかんたざ)ということで、道元においては、修行と悟りはひとつのもの(修証一等・しゅうしょういっとう)であった。道元は「曹洞宗」はもちろん「禅宗」と称することもなかった。道元にとって、これだけが唯一の正しい仏教であり、その思想は「正法眼蔵・しょうぼうげんぞう』()に結実している。

道元-(1200-1253) 普勧坐禅儀

 道元の死後、その門流はまず三派に分れた。このうち永平寺を出て加賀の大乗寺を本拠とした門流は、瑩山紹瑾けいざんじょうきん(一二六八~一三二五)のときに民衆化の方針に転換し、顕密仏教と習合しながら、南北朝から室町時代に飛躍的発展を遂げた。瑩山紹瑾(下図右)の筆跡は三代嗣法書下図左)や広福寺伝衣付嘱状にみることができる。また大日房能忍の門下から道元の弟子となった寒巌義尹・かんがんぎいん(一二一七~一三〇〇)は、肥後の大慈寺を拠点にして九州西部に教線を広げた。

三代嗣法書 瑩山紹瑾坐像

 道元の門流はこのように地方へ展開し、多くの派に分れながらやがて全国に勢力を拡大した。室町時代の中期には、瑩山派がその実力によって永平寺に復帰し、これを拠点とした。

円爾 無準-師範ぶじゅん-しばん

 鎌倉時代の中期に禅を根付かせた最大の功労者は円爾・えんに(聖一国師、一二〇二~一二八〇)(上図左)であった。円爾は入宋して無準師範(ぶしゅんしばん)(上図右)から臨済禅を学んで印可を受け、頂相(円爾印可状・下図)を得た。同門に几庵普寧や無学祖元がいる。帰国後は博多に承天寺を開くなど九州北部に禅を広めた。やがて摂政九条道家の招きで京都に上り、東福寺の開山となった。

『与円爾印可状』(無準師範筆、東福寺蔵、国宝)

 東福寺は、五丈の釈迦如来を安置する仏殿をはじめ、法堂・楼門・鐘楼・経蔵・僧堂・衆寮・方丈・知事頭首寮・庫裏・浴院・東司など、本格的な禅宗寺院としての伽藍が備わっていた。また一方で東福寺は、五重塔や港頂堂を備え、天台宗や真言宗の祖師像を掲げる密教道場であり、九条道家の子で天台座主にもなった慈源が検校をつとめたように、台密と禅の兼修をその特色とした

 円爾(えんに)には九条道家のほか多数の貴族が弟子の礼をとり、後嵯峨・亀山・後深草天皇の帰依(きえ・仏や神などすぐれたものを頼みとして、その力にすがること)を受けた。また幕府からも重んぜられた。円爾のもとには各宗派の僧侶が多数集まり、多くの優れた門徒を出して、その門流(聖一派)は大いに発展した。

無本覚心 紀州由良の西方寺(のちの興国寺)の開山

 栄西や円爾と同じく禅と密教を兼修した人物として無本覚心(むほんかくしん)(法燈国師、一二〇七−九八)がいる。覚心は真言密教の出身で、紀州由良の西方寺(のちの興国寺)の開山となり、やがて亀山上皇の帰依を受けて宮廷に禅を説いた。正応五年(一二九二)に覚心が制定した紀州粉河の誓度院の規式(112)をみれば、覚心の禅がいかに密教的色彩の濃いものであったかがよくわかる覚心の門流(法燈派)は、このあと南北朝時代まで聖一派と並ぶ大きな勢力を保持した

 鎌倉時代の半ばになると、顕密仏教との関わりが比較的少なかった幕府の指導者層が禅宗に強い関心をもち、中国から積極的に禅僧を招くようになった。この時代の中国では、弾圧や法難で経典が散伏し、仏教は各宗派とも不振をきわめていた。しかしその中にあって禅宗は、宗教面のみならず、学問や文芸そして美術の分野でも社会の中心的存在となって栄えていたのである。蘭渓道隆(らんけいどうりゅう・下図右)一二一三~七六)、兀庵普寧(ごったんふねい・一一九七~一二七六)、無学祖元(下図左)むがくそげん(一二二六~八六)、清拙正澄(せいせつしょうちょう・一二七四~一三三九)といった人々はこうして来日した。

無学祖元 蘭渓道隆

 また元の使節として来日した一山一寧・いっさんいちねい(一二四七−一三一七)もいる。これらの渡来僧は、いずれも中国宋(元)朝の屈指の名僧であったので、その影響は大きく、宋朝風の禅は鎌倉を中心に栄え、武士階級に多くの信者を獲得した。

蘭渓道隆墨蹟法語規則(建長寺蔵)

 宋朝禅を鎌倉に定着させるのに大きな功績があったのは蘭渓道隆(大覚禅軒)である。蘭渓道隆は寛元四年(一二四六)に来日し、北条時頼の帰依を受けて建長寺を創建した。建長寺は禅宗寺院としての大規模な伽藍堂宇を備え、二百人を超える門弟が集まった蘭渓道隆が制定した規則(上図)は厳格で、これを破るものは寺から追放し、または一斤(あるいは二斤)の油が燃え尽きるまで坐禅をさせた。蘭渓道隆の三十数年にわたる教化で、鎌倉には本格的な来朝禅(外国人がわが国に禅を広めにやって来ること)が広まり、「ことに隆老(蘭渓道隆)唐僧にて建長寺宗朝のごとく作法行われしより後、天下に禅院の作法流布せり」(『雑談集」)といわれた。

 円爾の帰国(一二四一)と蘭渓道隆の来日(一二四六)ははば同時期であり、このように京都では兼密禅が、鎌倉では宋朝禅が栄えた。

一山一寧墨跡-「園林消暑」偈 重要文化財-一山一寧坐像南禅寺

 京都に宋朝禅を広めるのに貢献したのは一山一寧(いっさんいちねい・上図右)である。元の使節として来日した一山一寧は建長寺の住持となり、やがて後宇多上皇の帰依を受けて、正和二年(一三一三) には京都の南禅寺の第三世となった。一山一寧と後宇多上皇の親しい交流は後宇多上皇の和韻詩によく示されており、一山一寧の来任で南禅寺は宋朝禅に一新された。一山一寧は高峰顧日、虎閲師練、夢窓疎石など多くの優秀な弟子を育てて、その後の京都禅林に大きな影響を及ぼした。また一山一寧は書や詩文の分野でも高い評価(上図左)を受けた。こうして鎌倉時代の末期には京都にも宋朝禅が浸透し、京都と鎌倉の差はなくなった。

瑞泉寺開山堂夢窓疎石坐禅像頭部

 このあと禅宗は、五山(ござん)制度などの室町幕府の保護と統制のもとに大いに発展する。その中心になったのは夢窓疎石(一二七五−一三五一)の門流で、夢窓派を基軸にして諸派は大きな派閥を形成した。これを五山派とよび、地方へのhソんか布教を主とした諸派を林下と称する。室町時代中期まで幕府の手厚い保護政策のもとで五山派が栄えるが、応仁の乱(一四六七−七七)後に幕府の支配権が弱まると、五山派は衰退し、代わって林下が台頭することになる。

南浦-紹明 大燈国師像

 林下を代表する一派に南浦紹明(なんぽじょうみょう)大応国師、一二三五−一三〇八)の門流がある。南浦紹明は建長寺の蘭渓道隆に参じたあと、入宋して虚堂智愚の法を嗣いだ。そして帰国後の三十数年を筑前(興徳寺・崇福寺)ですごし、全国にその名を知られた。晩年には後宇多上皇に招かれて上洛し、さらに鎌倉にも任した。この門流を大応派といい、弟子に宗峰妙超(大燈国師、一二八二−一三三七)がいる。

 宗峰妙超(しゅうほうみょうちょう)は、もと高峰顕日に師事したが、その和様化した禅にあき足らず、南浦紹明の門に入って宋朝禅を学んだ。峻烈な宋風で知られた宗峰妙超はやがて花園上皇の絶大な帰依を受けた。宗峰妙超が創建した大徳寺は花園上皇や後醍醐天皇の祈願所となり、宗峰妙超の門流だけが相承するよう定められた

関山慧玄 妙心寺。

 また宗峰妙超の弟子の関山慧玄(かんざんえげん)(一二七七−一三六〇)は、花園上皇の援助で妙心寺を開創した南浦紹明(大応国師)・宗峰妙超(大燈国師)・開山慧玄と相承するこの法系を、世に応燈関と称するが、花園上皇は応燈閑の禅に強く共鳴し、天台・真言・念仏・儒学などと混合しない禅を支持した妙心寺派は大徳寺派と競いながら各地へめざましく発展し、やがて戦国大名の帰依を受け、衰えの目立つ五山派の地方寺院を次々に吸収していった。

 ところで禅宗においては、師の肖像画である頂相がとくに尊重され、すぐれた遺品が数多く伝えられている。これは禅宗がひとりの師からひとりの弟子へ法を伝える(師資相承・ししそうしょう)のを原則としており、大悟徹底して正しく法を嗣いだ証明に師から弟子へ項相が与えられたためである。そしてこの場合、肖像の上方に師の自賛を施すのが原則であった。

 頂相は通常、全身像と半身像に分けられる。全身像は曲泉と呼ぶ椅子に法被  くつとこをかけて結軌扶坐し、手には払子か竹箆をとる。曲泉の前には沓床があって、つ脱いだ沓が置かれており、傍には拉杖をたてかけることが多い。半身像は上半身だけを描いたもので、両袖口を合わせるように手を組む。このはかに歩く姿 毒んひんを描いた径行像(きんひんぞう)もある。

 頂相にとって最も肝心なのは顔の描写である。伝法の証として項相が与えられる時、像主である禅僧は現存しており、像主を前にしてその容貌をありのままに写しとること(対看写願)を原則とした。たとえば円爾に与えられた無準師範の頂相(下図)をみれば、顔の描写がとくに写実性に喜んでおり、温和な人柄さえをも見事に写しとっていることがわかる。

無準-師範ぶじゅん-しばん

 鎌倉時代には、入宋した禅僧によって中国末代の頂相が数多くもたらされた。貞治二年(二二六三) に筆記された『仏日庵公物目録』(下図)には、末代の禅僧の頂相が三十九幅も記されている。

円覚寺・佛日庵公物目録。-

 中国における頂相の制作と付嘱を受けて、わが国でも頂相の制作が始められた。『聖一国師年譜』には、仁治二年(一二四一)に円爾の頂相が描かれたことがみえる。現存する円爾の頂相には、文永元年(一二六四)制作の半身像(天授庵)や弘安二年(三七九)制作の全身像(咋万寿寺)がある。わが国で制作された初期の頂相には、このほか北条時頼が長嘉に描かせた几庵普寧の頂相(正伝寺)や、朗然居士に与えられた文永八年(一二七一)制作のなどがある。前者には平安時代以来の伝統的な作風がみられるのに対して、後者はわが国で描かれた宋風の頂相として画期的であり、わが国の頂相がこの時期に到達していた水準の高さをうかがえる

 頂相は像主の生前に描かれて自賛を施すが原則だが、没後に、喪儀や年忌法要にあたって追善のために描かれる場合もあり、この時には像主にゆかりのある、それにふさわしい高僧が賛を書くことが多い。たとえば正和四年(一三一五)に一山一寧が賛を書いた無本覚心の頂相(興国寺)の場合、正和四年は無本覚心の十七年忌にあたっている。この頂相は華やかな袈裟に特色があり、無本覚心の死の三ケ月前に自賛が施された永仁六年(一二九八)の頂相(妙光寺蔵)が、白描に近い水墨画で、死に近き無本覚心の、しかし気晩に克ちた姿を描いているのと対照的である。これについては、前者が無本覚心の門流(法燈派)の教線伸張期に制作されたこととの関係が指揺されている。

 禅僧の肖像彫刻も頂相(あるいは区別して頂相彫刻)と呼んでいる。頂相彫刻の形式は絵画の全身像の場合と同じで、やはり顔の描写が最も肝心である。無本覚心の項相彫刻には、建治元年(一二七五、六十九歳)造立の安国寺の俊(…)と弘安九年(一二八六、八十歳)造立の興国寺の像があるが、その顔には明らかに像主の年齢の違いを見てとれる。

 「禅宗では頂相のはかにも様々な人物画(仏祖を含む)が描かれ、鑑賞された。

 たとえば釈迦、観音、達磨、政黄牛(せいおうぎゅう)図、寒山拾得などである。このうち達磨は禅宗の初祖あるいは禅宗の象徴として、絵画や彫刻に数多くあらわされた。蘭渓道隆の賛をもち、北条時宗に与えられたと推測される向嶽寺の達磨図は、宋画の影響の強い最初期の水墨画の遺品として注目される。達磨図には伝せ書り説や故事にもとづぐ「渡海(とかい)達磨図」、「瀘葉(ろよう)達磨図」、「隻履(せきり)達磨図」などがあり、南浦紹明の賛をもつ正木美術館の隻履達磨図は、肥痩(ひそう・からだの、肥えていることとやせていること)のある淡墨線で輪郭や衣の翻りを商連に表現した、初期水墨画の貴重な遺品である。

 禅宗では墨跡も大切にされた。墨跡という言葉は中国末代の頃から禅宗の中で禅僧の筆跡の意味で用いられるようになり、わが国でも鎌倉時代から使われ始めた。円爾が中国からもたらした典籍の目録である「普門院議書目録』(写本が現存する)には、「古人墨跡」という言葉がみえている。

 鎌倉時代に入宋した禅僧たちは、留学中に学んだ師の墨跡を大切にもち帰った。嗣法の証である印可状はもちろん、その時々の説法の内容を記した法語などは、参学の証拠になると共に、師の人格や宗風を端的に伝えるものとして尊重された。こうしてわが国には宋・元時代の墨跡が次々にもたらされ、わが国においても数多くの墨跡が生まれ、尊重されるようになった。『仏日庵公物目録』には墨跡の部類がたてられており、そこには円爾の師である無準師範や一山一寧などの墨跡が、中国僧と日本僧とに分けて列記されている。

 墨跡の内容は偈(げ)、法語、印可状、字号、詩、画賛など様々であるが、それらは厳しい修行によって鍛えあげられた禅僧の自由な精神が表現されたもので、個性に富み、気晩に満ちて、見る者に強い印象を与える。たとえば、禅僧が臨終にあたって書きのこす偈を遺偈(ゆいげ)というが、これは死の直前に渾身の力をふりしぼり、到達した境地や感想を四言四句や七言絶句などの形式で記すもので、墨跡の中でもことに尊重された。とりわけ円爾の遺偈(ゆいげ)(下図左)や清拙正澄の遺偈(ゆいげ・下図右)はよく知られており、後者は「棺割(かんわり)の墨跡」の名で呼ばれている。

円爾の遺偈 清拙正澄の遺偈

 渡来僧には能書(文字を上手に書くこと。また、上手に書く人)の僧が少なくなく、たとえば蘭渓道隆は張即之・ちょうそくし(一一八六−一二六三)風の書法を身につけており、やや荒けずりできびしさのある楷書は特にすぐれていた。また無学祖元の書は正しい筆法で確かな造形性をもち、気品がある。一山一寧は草書の絶妙なことで天下に知られた。

栄西-1 泉涌寺勧縁疏

 わが国からの入宋僧には、栄西、俊荊、道元のように、末代に流行した黄山谷・こうざんこく(一〇四五−一一〇五)の書を学んだ人が多い。栄西の「誓願寺孟蘭盆縁起」(上図)は、末代の書風を反映した最も早い遺品である。また俊芿(しゅんじょう)が泉涌寺の造営費用を募るために筆を執った「泉涌寺勧縁疏」は、まさに黄山谷流の書で、その雄渾でのびやかな筆跡は人々を驚かせた。道元の場合には筆を鋭く紙面にくい込ませる独特な書風であり「普勧坐禅儀」の謹厳で力強い筆跡からは、求道者道元の姿がよく伝わってくる。こうして鎌倉時代には宋風の書が盛んとなり、鎌倉時代の末に活躍した宗峰妙超の場合には、入宋はしていないが、やはり黄山谷の書を学んでいるといわれる。しかし、峻烈で気宇壮大な宗風で知られた宗峰妙超の書には内からほとばしり出るものがあり、気塊に満ちた独自の書の世界を作っている。「看読真詮榜(かんどくしんせんぼう)(下図)はその代表作である

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