中国の禅宗史 

■中国の禅宗史 

  東洋大学中国仏教・禅分野専門 伊吹敦

▶禅の起源                         

 伝統的見解によると、南インド出身の菩提達摩(達磨)が、釈尊から「以心伝心」によって代々伝承されてきた「悟り」を中国にもたらし、えかそれを弟子の慧可(えか・生没年未詳) に伝えることによって中国の禅宗が始まったとされている。  

 しかし、これは事実ではない。『洛陽伽藍記』(五四七年) に描かれた菩提達摩はただの旅行家に過ぎない。これに対して慧可が独創的な思想家であつたことは 『続高僧伝』によっても明らかであつて、達摩から慧可に授けられたとされる 『二人四行論』にしても、むしろ慧可が自分の思想をまとめ、それを達摩に仮託したものと見撤(とお)すべきである。

 後世の禅宗の直接の母体と認めるべきは道信(どうしん・五八〇〜六五一)、弘忍(こうにん・六〇一〜七四)の師弟による東山法門であるが、古い資料では道信のそうさん師を明示しておらず、それを慧可の弟子の僧璨(そうさん)であるとするのは後世の要請に過ぎず、史実ではない。しかし、道信には『二人四行論』の影響がうかがえるから、彼が慧可の児孫(じそん・子供と孫、子孫)に師事したことは間違いないであろう。ここにおいて我々は禅の起源として、慧可の伝記と思想を検討する必要に迫られるわけである。

 

 『続高僧伝』 によると、慧可は、達摩と別れた後、東魏の都の鄴(ぎょう)で布教を開始したが、禅観の大家と見倣されていた道恒に嫉(そね・うら)まれ、賄賂(わいろ)を送られた官憲によって捕えられて苦境を味わったという。そして、九死に一生を得た後、都市と山林を往来する遊行(ゆうぎょう・僧が諸国をめぐり歩くこと)生活に入り、世事になぞらえたり、俗謡(民間にはやる通俗的なうたいもの・民謡)に託したりして教えを説くようになったという(当然、私度僧(しどそう・律令制下、定められた官許を受けることなく出家した僧・尼であったはずである)。

 つまり、慧可は大都市で布教を開始したものの、結局は国家権力の及びにくい周縁部へと活動の舞台を移したのである。当時、山林には「悟り」を目指して頭陀行(ずだぎょう・乞食をしながら各地を巡り歩いて修行すること)に邁進する真摯な修行者の群れが存在した。彼らは、国家から僧侶としての特権を認められ、経論の講義や祈祷を主たる任務とする都市仏教とはまったく異なる価値観のもとで修行に励んでいた。慧可は、そうした人々に接近するいっぽうで、都市を捨てることもなく、都市と山林の接点において活動を続けたのである。彼の思想を伝える『二入四行論(ににゅうしぎょうろん)とは、達磨が人々に説いたとされる、自己修養の入り方・行じ方に関する論などからなる禅の典籍である。)』は深遠な教理や抽象概念に触れることなく、日常生活における具体的生き方を説くここにみられる万人に実践可能な教えは、彼のスタンスと無縁ではない。

▶東山法門の形成

 国家権力から距離を置き、出家と在家を区別しない慧可の立場東山法門(とうざんほうもん・中国の唐初、湖北省の蘄州黄梅県を中心として宗風を振るった道信(第四祖)・弘忍(第五祖)の師弟を中心とした禅宗の一門を指す言葉である)にも承け継がれた。すなわち、道信・弘忍の師弟は、中央を遥かに隔てた湖北省の山中に「悟り」を求める共同体を営んだが、彼らは僧侶としての特権には目もくれなかったため、その構成員の多くは私度僧であった。彼らは思想的には慧可以来の伝統をそのまま承け継いだが、ただ一つ、根本的に異なる点があつた。それは遊行生活を捨て、一カ所に定住したという点である。これによって数百人ともいわれる大教団の形成が可能となつた。

 彼らは「悟り」の獲得にのみ価値を見出し、それをめざして共同生活を送った。教団を維持するため、生活に必要な労働を構成員が分担して行うようになったが(これが「作務」の起源である)、そのなかにはインド仏教では禁止されていた農耕なども含まれており、戒律の受持は彼らの修行生活と相容れないものだった。そこで、彼らは自らの修行生活の理念を菩薩戒に求めた。菩薩戒(大乗の菩薩が受持する戒。悪をとどめ、善を修め、人々のために尽くすという三つの面をもつ)はもともと出家・在家に通用するものであったから、非僧非俗の立場に立つ彼らにとって好都合だったのである。

 また、彼らは「悟り」を得るのに最も有効な修行法を探求し、独特の観法(真理と現象を心のなかで観察し念じる瞑想の実践修行法のこと。観,修観,観念,観想,観行などの総称)、念仏による心の浄化などの方法を生み出した。これらは集団的、あるいは個別に行われ、それによって進境が得られると、師の部屋を尋ねて自らの境地を示し印可(悟りを開いたと認められた弟子の僧侶が、師の肖像を絵師に描いてもらい、師はその肖像の上に「偈文」という漢詩の形を取った説法をしたため、これを一種の卒業証書とした)を求めたのである。

 東山法門では、菩薩戒の精神に基づく生活規範、観法を中心とする修行法、それらによる「悟り」の獲得の三つが一体と見徹された。それはインド仏教とは異なる新たな「三学」の主張であつたといえる。また、ここから日常生活が「悟り」から分離されてはいけないという禅特有の思想が育まれることにもなった。

中国禅宗史関係地図

 東山法門では比較的容易に「悟り」を得ることができた。そのため全国から門弟が集まり、「悟り」を得ては全国に散って布教を行った。こうして各地に分派が生じることとなったが、そのなかでも特に注目されたのが中原(ちゅうげん)に進出した人々であつたことはいうまでもない。

▶南宗と北宗

 初めに中原に進出したのは、弘忍門下の俊英法如(ほうにょ)であった。彼の活動によって東山法門への関心は高まつたが、若くして入寂したため、長老格の慧安(えあん)神秀(じんしゅう)が入京し、大きな反響を巻き起こした。二人は「帝師」として過されたが、特に神秀は、武則天(則天武后 在位六九〇〜七〇五)から輿に乗ったまま参内を許されるなど、破格の扱いを受けた。その後、「帝師」の地位は神秀門下の普寂と義福に承け継がれ、二人は南京(洛陽・長安)における指導者として権威を誇った。

 東山法門が南京の人々から熱狂的に受け入れられたのは、彼らが出家・在家の別を問題にせず、「悟り」の可能性を万人に開いたためである。彼らは菩薩戒を授けるとともに思想と修行法の伝授を行うワークショップ(「開法」)をしばしば行い、東山法門の普及に努めた。それに接した人々は自ら進んで禅師に師事して修行に励んだのである。そのため、「悟り」を開いて印可を得る在家も少なくなかった国家が東山法門の指導者を「帝師」として処遇したのは、人々の崇敬を政権の側に取り込むことが目的の一つであつた。

 東山法門に対しては、他宗の僧侶から戒律に厳格でないという批判がしばしば浴びせられた。皇帝のお膝元である中原で活動する以上、そうした批判を無視することができなかつたし、また、南京の大寺で他宗の僧侶と一緒に生活する以上、東山法門伝統の生活規範は維持することが困難であった。こうして普寂の時代には、菩薩戒(大乗仏教における菩薩僧と大乗の信者に与えられる戒律である)だけでなく小乗戒(小乗仏教の戒律。僧俗男女といった区別によって,五戒・八戒・十戒・具足戒の別がある)も重視するように方向転換が行われた。東山法門は中原に進出することで一躍脚光を浴びたが、その代償として、日常生活と「悟り」の一致、反権力といつた慧可以来の伝統を見失うに至るのである。

 

 弘忍門下で最も辺境の嶺南(れいなん・大庚嶺の南、主として現在の中国広東省広西自治区とベトナム北部をさす)で布教を行った慧能(えのう・六三八〜七一三)に師事し荷沢神会(かたくじんね・六八四〜七五八)は、自身、「南宗(なんしゅう)」「頓悟(とんご・修行の階梯(かいてい)を経ず、ただちに悟りを開くこと)」を標榜(主義主張などをかかげて公然と示すこと)し、彼らを「北宗(ほくしゅう)」と呼び、その立場を「漸悟(だんだんに悟ること。順序を追って悟ること)」だと批判したが、その主たる対象は、両京(国家に複数の都を置く制度)に出たことによる思想的変質に求めるべきである。神会の活動は大きな反響を得たが、彼ら荷沢宗の人々が国家権力に近づくことで北宗に代わる地位を得ようとしたことは紛れもない事実であり、その点では同じ穴の狢(むじな)であったといえる。従って、荷沢宗も北宗ともども歴史の表舞台から消えてしまうが、彼らの顕彰(功績などを一般に知らせ、表彰すること)活動の結果、禅宗の第六祖が神秀ではなく慧能と定められたことの影響は甚大であつて、後に禅宗の主流となる馬祖道一(ばそどういつ・七〇九〜八八)石頭希遷(せきとうきせん・七〇〇〜九〇)らの人々が自らの系譜を慧能に結び付ける原因となった。

  

▶馬祖と石頭

 

 後世の禅宗では、南嶽懐譲(なんがくえじょう・六七七〜七四四)と青原行思(せいげんぎょうし・?〜七四〇)を六祖慧能の二大弟子とし、それぞれの門から馬祖道一、石頭希遷を出して後世の禅の源流になったとされている。しかし、懐譲や行思の名は慧能関係の古い資料には見えず、また、彼ら自身が有名であつた証拠もない。従って、懐譲や行思は、むしろ弟子の属祖や石頭によって世に知られるようになったのであるし、彼らが慧能の弟子だというのも馬祖や石頭の例の要請であつた可能性もある。

 

 いずれにせよ、馬祖と石頭、とりわけ「平常心是道」を説き、「大磯大用(だいきだいゆう)」を強調する馬祖の禅は斬新で魅力的であつたため、多くの弟子が集まり、その門下は禅宗の主流を形成することになつた。

 

 「平常心是道」とは、「仏性」のような抽象的なものではなく、我々が普段生活していて抱く喜怒哀楽の気持ちそのものが「真理」として絶対的なものだという主張、「大磯大用」とは、人間のあらゆる営為はそのまま完全肯定されねばならないという主張であり、我々は、本来、「真理」そのものだとする思想を表現したものである。これは、東山法門以来の、日常生活と「悟り」を分離してはならないという思想の徹底であったといえる。

 馬祖以降の禅では、禅匠は弟子に対して「悟り」を生きるように、あるいは、現に生きている「悟り」に気づかせるよう指導し、また、相手がそれを生きているかどうかを確かめる必要があった。そのため、師弟の間、あるいは門弟間でしばしば「禅問答」が行われ、それを記録した「禅語録」が編輯(諸種の材料を集め、書物・雑誌・新聞の形にまとめる仕事・編集・編纂)されるようになつた。形而上学を否定し、日常への徹底を説く以上、「悟り」を生きている禅匠の日常をそのまま記録に留める以外に、真理を表現する方法はなくなったのである。

 彼らの禅は確かに斬新ではあつたが、新たな思想の創造ではなかった。その起源はすでに東山法門にあったからである。馬祖の弟子、百丈懐海(ひゃくじょうえかい・七二〇?〜八一四)が定めた「清規(しんぎ)」(禅宗で、寺院での生活について定めた規則)は、後世、濫觴(らんしょう・意味や解説、類語。《揚子江のような大河も源は觴 (さかずき) を濫 (うか) べるほどの細流にすぎないという「荀子」子道にみえる孔子の言葉から》物事の起こり。始まり。起源。)として敬慕されることになるが、実際にはそれ以前から東山法門以来の生活規範・修行法が行われていたはずで、いうところの「百丈清規」も、それを整備した一つの例に過ぎなかったであろう。

 では、何故、彼らだけが他派とは異なり、東山法門の伝統を維持・発展させることができたのであろうか。その理由は、中央をめざすことなく、地道に地方で布教を続けた点に求めるべきであろう。禅思想には、もともと「反権力」の刻印が押されている権力に近づくことによって禅が力を失うことは北宗や荷沢宗の例でも明らかであり、馬祖の門下でも中央に進出したものの系統は後世に伝わることはなかつた。

 

 この反権力という性格は、武宗(ぶそう・在位八四〇〜四六)による破仏(仏教の大弾圧)や中央集権の緩みといった社会状況のなかでいよいよ本領を発揮し、他の仏教諸宗が衰えるなかでひとり禅のみが勢力を拡大していった。馬祖の系統から出た代表的な禅僧には、趙州従諗(じょうしゅうじゅうしん・七七八〜八九七)、潙山霊祐(七七一〜八五三)、仰山慧寂ぎょうさんえじゃく・八一四〜九〇)、臨済義玄(?〜八六七)等があり、石頭の系統からは、洞山良扮(八〇七〜六九)、曹山本寂(そうざんほんじゃく・八四〇〜九〇一)、雲門文偃(うんもんぶんえん・八六四〜九四九)、法眼文益(ほうげんもんえき・八八五〜九五八)等が出た。彼らの多くに語録が伝えられているが、なかでも『臨済録』『趙州録』『雲門録』などは有名である。

   

 馬祖道一以降の禅思想は人間の個性が禅風に反映される道を開くものであったから、各禅匠は、それぞれに特色ある布教を行い、百花繚乱の様相を呈した。そうしたなかで系統によっては特有の禅風が形成されるようになつた。「五家(ごけ)」と呼ばれる「臨済宗」「潙仰宗(いぎょうしゅう)」「曹洞宗」「雲門宗」「法眼宗」 はその代表である。このうち、潙仰宗、法眼宗の系譜は早くに絶たれ、北宋期に隆盛を極めた雲門宗もやがて衰え、南宋以降は、基本的には臨済宗と曹洞宗の二宗のみが行われるようになった。

▶宋の成立

 官僚制専制国家、宋の成立は、禅宗に大きな変化を迫るものであつた。新たな支配層となつた士大夫階級の支持を待た禅宗は、他宗の衰退もあつて、仏教界を代表するものとなつた。禅の歴史を記した『景徳伝灯録』(一〇〇四年)等の「四灯録」は入蔵の栄誉を受け、禅宗そのものが国家から承認された。しかし、まさにそのために、禅は国家に対して従順を誓わなくてはならなくなつたのである。禅宗寺院では、皇帝の長寿を祈る祝聖(しゅくしん)国家のための祈祷が定期的に行われるようになり、大寺院では十方住持制が採用され、官僚の監督を受けた(南宋期には、官寺として「五山十刹(ごさんじっせつ・五山制度に基づく寺格の一つ)」が定められた)。また、叢林(そうりん・禅林に同じ)の形式化も進み、嗣書が一般化し、寺院の公文 士大夫(中国の北宋以降で、科挙官僚・地主・文人の三者を兼ね備えた者)との交流は、禅寺の権益を守るためにも必要であつたため、詩文書画といつた士大夫文化が叢林に流入し、禅は「出世聞」というよりも、士大夫社会の一部を構成するものとなった。禅に固有の反権力の思想は、単に「悟り」の体験の中でのみ維持されたといっても過言ではない。

 宋代の禅で注目すべきは、公案批評(禅宗で、古人の公案を取り上げて、批評すること)の流行である。禅問答が陳腐化したため、直接禅問答を交わす機会が減り、過去の禅問答を取り上げて独自の見方を提示することで自身の禅境を表現するようになつた。師はこれで弟子の悟境の程度をうかがうとともに、自らの境地を示して弟子に追体験させるようになったのである。特定の問答が多くの禅匠に繰り返し取り上げられることでますます有名になり、やがて「公案」と呼ばれるようになつた。この公案批評は、時とともに盛んになり、禅語録の重要な構成要素となり、また、『碧巌録

』(一二五年)、『無門関』(一二二九年)などの「公案集」と呼ばれる一連の文献を生み出していった。 

 南宋になると、この伝統のなかから新たな修行法が生まれる。臨済宗の大慧宗杲(だいえそうこう一〇八九〜一一六三) によって大成された「看話禅(かんなぜん)」 である。これは「趨州無字」のように思弁の対象となり得ないような公案を弟子に与えて疑団を起こさせ、半ば強制的に「悟り」を開かせるものであって、「悟り」の獲得という点で顕著な成果を上げたため、大いに流行した。ただ、この方法には「悟り」への執着を生む弊害があり、曹洞宗の一部には、これに批判的な目を向け、坐禅への徹底を説く人々も存在した(「黙照禅」)。

 

 禅思想そのものは、すでに馬祖禅によって完成の域に達しており発展の余地はなかった。宋代における禅の展開は、その思想をまったく異なる環境のなかで維持してゆくための模索であつたといえよう。その後も、中国の叢林からは元の中峰明本(ちゅうほうみんぼん・一二六三~一三二三)古林清茂(くりんせいむ・一二六二〜一三二九)、雲棲袾宏(うんせいしゅこう)禅師(一五三五〜一六一五)のように著名な禅匠が輩出したが、次第に教禅一致、禅浄双修、三教一致の傾向を強め、禅本来の立場から逸脱していった。その意味で、栄西や道元によって宋朝禅が伝えられたことは、日本にとって大きな僥倖(ぎょうこう・思いがけない幸運、またはそれを願うさま)であったといえよう。   

 (いぶき・あつし 東洋大学教授)