忍性

■西大寺流律宗と忍性の常陸下向

▶西大寺叡尊と戒律復興

 奈良の西大寺(さいだいじ)は、天平宝字八年(七六四)の恵美押勝(藤原仲麻呂)の乱の翌年、称徳天皇の発願によって鎮護国家を祈願する四天王の道場として開創された。その偉容は東大寺と双璧をなしたが、平安期に退転して鎌倉時代初めには僅かな堂塔を残すのみであった。この西大寺を復興したのが、思円房叡尊(えいそん・一二〇一~一二九〇)である。叡尊は醍醐寺清滝本宮の神託をうけて密教を学び、高野山・東大寺などを遍歴して研鑽を重ねるうち、密教僧で堕落する者が多い現状は、釈迦在世中に厳しく守られていた戒律が廃絶していることに原因があると考えるようになった。しかし当時の日本では既に正式な授戒の資格をもち作法を知る僧はいなくなっていたため、叡尊は覚盛・円晴・有厳らの同志とともに研究を重ね、嘉禎二年(三三六)、東大寺羂索院で自誓受戒を行なった。自誓受戒とは仏から直接に戒を受ける作法で、その様子は 『自誓受戒記に詳しい。こうして正式な比丘となった叡尊は、受戒前に一度住した西大寺に戻り、暦仁元年(一二三八)から九十歳で入滅するまでの五十余年にわたって復興に力を尽した。

 

 同志の覚盛(かくじょう)は唐招提寺に住して復興に努めたが、早く没したため弟子の證玄がその遺志を継いだ。

 

 叡尊は、仏教の原点である釈迦に立ち返り、浄土への往生を願わずこの世で苦しむ人々を救うことを決意して生涯を送った。そして弟子の忍性(にんしょう)と共に文殊菩薩を供養し、社会の底辺で苦しむ人々の救済に尽くした。これは文殊菩薩が貧しく孤独な民衆の婆で行者の前に現れるという信仰によるものであった。また女性の戒壇を初めて設け、正式な尼への道を開いたため、西大寺末寺には尼寺も多かった(奈良国立博物館一九九一)。

忍性の生涯と竹林寺

 叡尊の門流を東国に広めたのは弟子の忍性であった。良観房忍性は建保五年[1217年 – 1303年)]大和国に生まれ、十六歳の時に大和額安寺で仮出家した。その後天福元年(一二三三)東大寺で受戒(仏教徒が守るべき、自分を律する内面的な道徳規範を学ぶ)、延応元年(一二三九)西大寺叡尊の許に学び律宗再興の志を高め、寛元元年(一二四三)七月、二十七歳の時に関東下向を試み伊豆山(走湯山)権現に身を寄せた。しかし忍性は「我レ無智ニシテ此法ヲ立ツコト叶マジキカ」と感じ、西大寺に帰って更に十年の修学の積んだと伝える (追塩一九九五)。

 建長四年(一二五二)、忍性は西大寺流を東国に布教するため叡尊の許しをえ、春日社に参詣して擁護を祈り、再び関東に旅立った。このとき定舜・頼玄ら数名の律憎が同行したらしい。忍性は八月、まず鎌倉に入るが、布教する間もなく常陸に向かい、九月には鹿島社に参詣後安居寺にしばらく滞在し、この時造営役として鹿島社修造にあたっていた若き日の小田時知と出会ったと推定されている。十二月には三村山に入り、清涼院で律を啓(ひろ)め、多くの寺僧の帰依(きえ・すぐれたものを頼みとして、その力にすがること)をうけ、遂には住職に寺房を譲られたと伝える。以後鎌倉に移るまでの十年間、当地を布教の拠点とし、堂宇(どうう・殿堂)の整備を進めた。正嘉年間(一二五七~一二五九)頃忍性は金沢六浦津の浄願寺(横浜市上行寺東遺跡か)で戒律を広めたというが、正嘉元年(一二五七)には鎌倉では大地震が起こって壊滅的な被害が出ており、震災後の救済活動を契機に鎌倉に赴き、幕府と関係を結んだ可能性がある。また三村山在住時代、忍性は当時東国唯一の戒律道場であった下野薬師寺妙性房審海と親交を結び、文通している。

 忍性は弘長二年(一二六二)北条氏の帰依を受けて多宝寺に入り、更に文永四年(一二六七)に鎌倉極楽寺に移ってその開山となった。忍性は卓抜した経営手腕を発揮して鎌倉大仏寺・永福寺鶴岡八幡宮別当などを歴任したが、西国でも四天王寺別当、摂津多田院の修造などの諸寺の復興にあたるとともに北山十八間戸極楽寺療病院施薬院馬の病院をも設け非人・弱者の救済につとめ、架橋、道路・港湾修築など社会福祉事妾に尽力し、生身の如来と着えられた (和島 1959)。

 金沢文庫には絹本着色の忍性菩薩像が伝わっている。縦一〇五・二cm、横五五・〇cmを測り、典型的な律宗の祖師忌用画像で、大衣を左衽(さじん・ひだりえり)とするのは西大寺系の律僧に特有の装束である。大きく高い頭項、小さい眼、大きくて赤い丸鼻など、非常に個性的な風貌を的確に表現しており、その面影をよく伝えている。民衆から慕われた忍性の人柄もうかがえ、没後さほど経ずして制作されたと考えられる(奈良国立博物館一九九三)。

 忍性は嘉元元年(一三≡) 七月十二日に八七歳で示寂した。端座し律の大衣を身につけ、威儀を正し、観念に住し、手に密印を結び、口に真言を唱えての臨終であったという。

 性の遺体は極楽寺の西畔に茶毘所を設けて火葬され、舎利は遺命によって三分され、分骨塔が鎌倉極楽寺・奈良額安寺・奈良竹林寺の三か所に建設された。こうした分骨は、釈迦の八大分舎利塔の故事に因(ちな)むが、忍性が手本としたのは、隋唐時代の高僧で律宗の祖にあたる南山道宣(五九六~六六七)と推定される。道宣(どうせん)は死後三所に塔を建てるよう遺言した(大森 一九七七)。

 

 極楽寺忍性塔は伊豆安山岩製で総高三・五七m、茶毘所を地覆石で覆って基礎とする。地覆石は東材が最も長く、寺域の西に位置する点からも、五輪塔は東を正面とする随方の作法で造営されたと考えられる。枢座・格狭間と複弁反花座を表現した関東形式台座の上に五輪塔がたち、地輪部の裏側に二つの穴があり、そこに忍性と弟慈済の舎利容器が納められていた忍性舎利瓶は厚手で無骨な印象を与える蓋付きの鋳鋼容器で、東国の細工師の作と推定される。銘文は「良観上人舎利瓶記」として知られている(極楽寺一九七七)。

 

 額安寺忍性塔は寺より北西の鎌倉坂に位置し、花崗岩製で高さ二・九二mを測る。付近には大型の五輪塔数基が並んでいるが、忍性塔以外のほとんどの塔は近世に付近から集められたものである。また忍性塔自体も舎利容器の発掘を含む損壊をうけ当初の状況は失われていた。舎利容器は丸い石橋に納められていた薄手の優美な鋳鋼木瓜形で、極楽寺舎利瓶記とほぼ同文だが嘉元元年八月銘が刻まれており、古くから忍性舎利瓶記として知られていた (奈良県教育委員会 一九八三)。

 竹林寺忍性塔は寺城の西方に位置する。竹林寺は行基墓を中核とする律宗寺院である。五輪塔は破壊されて、反花座・格狭間を伴う須弥壇状の台座・基壇と塔の残骸を残すのみであった。近年荒廃を嘆いた唐招提寺によって忍性塔の復興が計画され、それに先だって発掘が行なわれた。溝に囲まれた一辺一〇・五mの方形塚の中央に土壌があり、内部は埋葬当時の状況をとどめ、中央部に据えられた花崗岩製の八角柱状石製外容器の内部に舎利瓶を納めていた<上図左> 墓塔を囲んで礎石の抜取穴や瓦がみられ墳墓堂があったと考えられる。このうち忍性舎利瓶を納めた八角柱状の石製外容器は、忍性の思想を考える上で特に注目される遺品である。

 年譜によれば、忍性は嘉禎元年(一二三五)から三年間にわたり、毎月欠かさず竹林寺に参詣を続けたが、その契機は、文暦二年(一二三五)の行基墓の発掘と舎利の出現であった。『竹林寺縁記』によれば、行基菩薩の舎利瓶は銀製で、八角石筒に納められていたという。よって忍性塔の八角石筒は、行基のそれを模したと推定される(前園一九八七)。忍性は生涯を通じ、文殊の化身とされた行基の事蹟に倣おうとしたが、その意識は、臨終の威儀に及ぶほど強かったのである。

 八角石筒に接して検出された磚組蔵骨施設には陶磁器・金属製など一三個の追納蔵骨器が納められ、うち三個に紀年銘が残されていた。凝然の『竹林寺略録』(三宝)には、竹林寺忍性墓に関東をはじめ遠近の人々の納骨・参詣が行なわれていたことがみえるが、紀年銘で最も新しい鎌倉極楽寺比丘尼妙覚の容器には「正和二年発丑 (一三一三)正月十七日他界(1303没)」銘があり、竹林寺五輪塔は十回忌以降に造立された可能性が高い。

 以上忍性塔は規模や内部構造に差異がある点も見逃せないが、いずれも大型五輪塔に鋳鋼製の宝瓶形分骨容器が納入され、また忍性の遺徳に結線しょうとする人々の分骨容器が追納されている点で共通している。忍性の生涯との関係をみると、額安寺で仮出家し、竹林寺では行基菩薩の墳墓開掘を契機に三年にわたって参詣し、東国では鎌倉極楽寺を活動の拠点としてここで生涯を終えた。このように分骨塔は忍性の生涯のうちでも重要な場所に残されており、特に額安寺は如意輪観音の化身である聖徳太子の熊凝精舎竹林寺は文殊菩薩の化身である行基菩薩の墓所と仏教史上の偉人と生前の自身の結縁の場に死後にわたる結縁のための塔を設けた観がある。

▶忍性の常陸下向と思想的背景

 忍性の事跡は以上のようなものであるが、従来の研究では、忍性の常陸下向三村山止住の背景は、十分に説明されていない。忍性が弘長二年(一二六二)の西大寺叡尊の鎌倉下向の下地作りのためだけに常陸に入ったとみると、東国律宗教団の形成過程も、古霞ケ浦沿岸という特異な座標も、ともに見失われてしまう。

 忍性の常陸下向の意義は、①鹿島滞在にみる神仏習合思想 ②三村山止住にみる戒律復興と祖師信仰、の二つの側面から捉えることができる。

 忍性は常陸に旅立つ前、大和の春日社に参詣している。叡尊らは興福寺の法相教学を継承しているが、もともと興福寺は藤原氏の氏寺で、鎮守社は藤原氏の氏神たる春日社である。春日社は藤原氏の祖中臣鎌足が鹿鴫の出身と伝えることから、常陸より鹿島社を勧請したことに始まった。のち下総香取社・摂津枚同社などが加わり四座の神を合祀するようになっても、常に一宮鹿島神、二宮香取神が重視されてきた

 

 春日社の神々は、それぞれ興福寺の諸堂と対応するものとみられていた。対応関係は時代とともに変化したが、概ね一二世紀後半〜末頃には、一宮鹿島神と南円堂不空羂索観音、二宮香取神と東金堂薬師如来が同体とされていた。ところが一三世紀に入る頃から、一宮鹿島神を金堂釈迦如来二宮香取社を北円堂弥勅菩薩と同体とする異説が現れてくる。金堂は中臣鎌足北円堂は藤原不比等の菩提所であり(宮井 一九八九)、鹿島・香取を藤原氏の祖霊神化する動きが強まるとともに、鹿島の本地を菩薩から如来に昇格させる意図もうかがえるが、もうひとつ忘れてならないことがある。

 それは法相僧解脱房貞慶によって唱えられた弥勤浄土信仰である。釈迦の恩恵を感謝するとともに、弥勤菩薩の下生(げしょう・上品(じょうぼん)・中品(ちゅうぼん)・下品(げぼん)と分けた、それぞれの最下位。九品(くほん)の、上品下生・中品下生・下品下生の総称)を願い、それらの本地である春日明神の加護を願う復古的な信仰で、ここに釈迦(舎利)=弥勤=春日を一体とする思想が形成された(平岡 一九五五)。貞慶の釈迦信仰は晩年戒律復興に結びつき、西大寺流への影響は極めて大きかった。よって忍性の常陸下向と鹿島滞在は、鹿島=釈迦、香取=弥勤とみる貞慶の思想を背景としつつ、東国の中でまず法相擁護神の聖地たる古霞ケ浦沿岸を教化するため、釈迦の本地鹿島に結線したと見ることができる。

 本地垂跡説(ほんじすいじゃくせつ・神仏が現れること)の資料に、千葉県佐原市観福寺に伝わる四体の懸仏(かけぼとけ・円形板に浮彫の仏像を取付け,上方2ヵ所に釣手環をつけて吊下げるのに便利にしたもの)がある。これらは香取神宮から廃仏棄釈に際して移されたもので、弘安五年(一二八二)に大禰宜大中臣実政が「異国降伏心願成就」、すなわち元冠の戦勝記念に施入した十一面観音・釈迦如来・薬師如来と、延慶二年(一三〇九) に大禰宜大中臣実政の子が施入した地蔵菩薩からなる。いずれも径60㎝程の鏡板に像高三五㎝程の座像を取り付けたものだが、通常の懸仏と異なり本体が本格的な鋳鋼仏である点は特筆される(奈良国立博物館 一九六三)。元冠の戦勝記念という特殊な願文からみて、執権北条時宗の意向を受けて奉納された可能性もある。これらは香取明神の本地薬師如来を中心としつつも、鹿島明神の本地を釈迦如来と解釈して制作されたと考えられる。

 忍性は康元元年(一二五六)、四十歳の時、鹿島神託(神の意を伺う事)を受けたことが 『性公大徳譜』にみえる。これは教学の権威を鹿島明神に求めたもので、その背景には、本地不空清索観音・釈迦がともに戒律とかかわりが深いことが考えられる。また忍性と親交があった審海も、この年鹿島に参籠して願文を捧げ将来の勧請を誓約し、のち称名寺にこれを勧請(かんじょう・神仏の来臨を願うこと)した(吉井一九八九)。茨城県下の律宗寺院に隣接してしばしば鹿島社が見られることは、鎮守社として鹿島神が勧請されたことに由来するものであろう (菊池一九八六)。

▶西大寺沙門徳一と忍性

 坂東の地(今の静岡県と神奈川県との境にある足柄(あしがら)の坂より東の意。足柄・碓氷(うすい)峠以東の地。関東。)には、古くから戒律仏教の萌芽があった。

 

 徳一(八~九世紀)はもと興福寺の僧侶で弱冠にして東国に下り会津恵日寺を開いた人物である。空海から徳一に宛てた書簡には「聞ク道徳一菩薩、戒珠水玉、智海弘澄タリ、斗□離京、振レ錫東二征ク」とあり、空海・最澄と互角に論争する博識の師であった。

 道忠(どうちゅう・七三四~八〇〇頃・奈良時代末期・平安時代初期の律宗の僧侶)は鑑真の弟子で「持戒第一」と称せられる程戒律思想に通じ、下野薬師寺戒壇院設置に派遣された三師七証の一人と推定されている。下野・上野を根拠に活動、のち東下した最澄に協力し、弟子からは天台宗を躍進させた円仁らを輩出している。

 関東を二分した両者に共通するのは、いずれも南都仏教(南都仏教とは奈良時代に中国仏教の影響を受けて平城京周辺に盛んとなった仏教で、学派仏教とも考えられ、平安・鎌倉時代の祖師仏教とはおもむきを異にしている)の出身者で東国にくだり、厳しい持戒のもとで教団を組織し、民衆の帰依を受けた点である(田村 一九八六)。このため東国では徳一・道忠以来、精進潔斎する持戒の僧は高い呪力を持つ存在として崇敬された。

 筑波山中禅寺は徳一の開基と伝え、教団が筑波山周辺に拠点を持っていた可能性は高い。筑波山中には廃仏棄釈による寺坊の廃滅まで、徳一廟や開山堂も存在した。現在山項に鎮座する筑波山神社は、徳一の守護神である春日社・日吉社および厳島社からなる。これらは旧千手堂(大御堂)の鎮守社で、寛永十年(1633)に将軍家の再建した社殿である(寛永3年・1627年から、徳川家光により筑波山造営が開始される。)(茨城県 一九八一)が、鎮守社そのものの勧請は中世に遡ると推定される。

 また筑波山中禅寺旧在の鎌倉前期の阿弥陀如来像(上図)が現存しており(茨城鼎立歴史館 一九九六)、境内から出土した瓦の大部分は中世のものとされる。

 系図によれば八田知家(はったともいえ・小田氏の始祖であり小田城の築城者・平安時代末期 – 鎌倉時代初期・康治元年(1142年))は八男明玄を筑波山寺別当[(べっとう・平安朝以後江戸時代まで)親王家・摂関家・大臣家・社寺などの特別な機関に置かれた長官]としたと伝える。一族を挙げて、聖地筑波山を外毒し、氏族の守護者として徳一に帰依していたようだ。

 現存する中で、筑波山中禅寺の徳一開基伝承を記す最古の資料は、正嘉元年(一二五七)に、常陸で浄土僧愚勸住信(当時四八歳)が集記した『私衆百困操集』 の「伝教大師伝」である。ここでは徳一が藤原仲麻呂=恵美押勝の第四子で、元西大寺の沙門であり、空海の弟子だと述べているが、こうした徳一像は同時代資料との矛盾から、事実ではないと考えられる。

 

 西大寺はもともと、恵美押勝の乱後に国家鎮護の四天王の道場として開基されたもので、押勝の子が寺僧となるなどあり得ないし、徳一は西大寺僧ではなく興福寺僧であったようである。また空海と論争したことはあるが弟子ではない。ではなぜそうした伝承が鎌倉中期にまことしやかに信じられていたのであろうか。

 最近、説話や伝承が寺社の勧進(かんじん・寺社・仏像の建立(こんりゅう)・修繕などのために寄付を募ること)を目的として編纂された例が指摘されている。例えば『さんせう太夫』は、丹後国分寺の再建にあたり、勧進にあたった西大寺律僧が作った物語を原形とするという(桧尾 一九九五)。

 すると徳一を西大寺僧とする伝承も、西大寺の東国布教の過程で再編された可能性が考えられてくる。

 三村山(別名・宝篋山・つくば市小田字向山5204番地)・極楽寺跡では「常州極楽寺・正嘉二戊午・一二五八)」銘の平瓦が採集され、忍性止住時の造営が確かめられる。これは『私聚百因縁集(鎌倉時代の仏教説話集。9巻9冊。愚勧住信著。正嘉1 (1257) 年7月常陸 (茨城県) で成った。天竺 (インド) ,震旦 (中国) ,和朝の3部に分れ,147話を収める。仏法の正しさを説話によって示して,衆生に極楽往生をとげさせる機縁とすることを目的として著わされたもの)』 が編(あ)まれた翌年にあたり、「伝教大師伝」は、忍性ら真言律僧の勧進活動の中で脚色された徳一像を収録したとも考えられる。

   

 『私聚百因縁集』「我朝仏法王法縁起由来」には、法然の弟子で『撰択本願念仏集』を授けられた高弟(弟子(でし)の中で、特にすぐれた弟子)が列挙されているが、常陸にゆかりの深いはずの親鸞の名前が、わざと伏せられていることが指摘されている。その背景には、建長の法難」(一二五五)と翌年の善鸞義絶という浄土真宗の弾圧と分裂の影響が推定されている(追塩・一九八八)。すなわち作者の愚勸住信は、親鸞らの一向専修と訣別した諸行本願義や鎮西義など戒律的な浄土思想の持ち主であったと考えられる

 本書は専修念仏の弾圧を経て、浄土宗が律宗との共同歩調を示し始めた試みとみることもできよう。

 『私衆百因縁集』 には、当時既に磐城・常陸に多くの徳一開基を伝える寺院があったことを伝えているから、筑波山中禅寺も含め、忍性下向以前から徳一開基伝承が拡がっていたことは確かである。そしてその分布範囲の南線は、千葉県笹川町の東福寺を南限とする古霞ケ浦沿岸で、一五世紀に成立した『神明鐘』も、徳一の常陸下向の理由に鹿島の霊威をあげている。

 すると忍性の三村山入寺の契機は、持戒僧徳一の筑波山中禅寺の開基伝承に触れ、筑波山を擁する小田氏に働きかけた可能性が考えられてくる。

 南都教学の再生のなかで法相宗最高の学匠、徳一菩薩の復権が促され、藤原仲麻呂という逆賊の系譜も西大寺との付会で滅罪浄化される。徳一を藤原氏の出身とする伝承と春日社の勧請は、小田氏を含む藤原末流氏族の祖霊信仰とも結びつき、ひいては彼らの西大寺や興福寺への支持という効果が期待できる。

 忍性らが筑波山麓の三村寺に入った背景には、西大寺東国布教の大先達にして戒律堅持の法相学侶徳一に結線するという意識があったのであろう

(桃崎祐輔)