法名・戒名の選び方

■自 序 

 法名を授けるということは、仏門における宗教的聖業の一つであるが、法名とは何ぞや、法名はどういう心得で選ぶものであるかということになると、知らない人が多い。かくいぅ自分もまた、その一人であった。小僧時代に、先師に法名のことを質問し、熟字を分けて作るのだといわれたことを覚えているが、それから長い間、法名のことは忘れていた。自分の生活が法名を授けるということと縁が遠かったゆえであろう。ところが昨今、自分の生活が、ときには法名を選定しなければならない境遇となり、法名の意義、法名の選定法ということが、自分の切なる問題の一つとなった。

 一般の人々に戒名を授けて法名を与える、仏教信者が死ぬと法名を与える、これは仏教の慣習であるが、いったいどういう心得をもって法名を選び授けるべきものであろうか、法名を受ける人が自分に聞いたならばどう答えたらよろしかろうか、自分が選んで自分が授けていながら、完全な答えができないのでは面目ないという、法名に対する苦悶が起こった。

 昔の人が「盗賊を見て縄を絢(な)う」ということわざを残しているが、実際、自分はこのことわざのとおりのまぬけである。それから禅門の語録を探しまわり、苗字のことを書いた書物をあさり、先徳に故実を尋ね、宗門の室内切紙を調べるなど、あれやこれやと心を馳せて、どうやら法名に対する信念を作りあげ、やや安心して法名を選定することができるようになった。盗賊をみて縄をなうのでも、縄を全然なわないよりはましだと思うようになった。

 『法名・戒名の選び方』は、自分が過去において、こうして苦心した成果を、やや順序をつけて書きとどめたものである。古徳(昔の、徳をつんだ人)がハッキリと書き残された指南に乏しいので、あるいは自分の見解が狭すぎたり、ときに横道にそれておりはしないかと懸念しているが、自分としてはできるだけの努力をして、人さまに迷惑をかけまいと気をつけ、これでも多少は仏教者を利益することであろうと信じている。法名に対する研究が浅薄なので、仏門の法名や道号を自分の精神で統一しょうというような、大それたうぬぼれは持っていないが、これによって一般仏教者の法名に対する自覚を喚起したいという熱望をいだいている。

 法号や道号という仏門の聖号が、なんらの自覚もなく、ただ漫然と慣習的に授けられ、それに対し仏教者としての自覚がないということは仏門の恥であり、尊霊に対する冒瀆(ぼうとく・清らかなものをけがす)行為である。聖号については、はつきりした宗教的識見が必要である。本書がその宗教的識見を樹立されるうえに、多少の資料となることができれば、自分としては大きな幸せである。

 世の中は広い。法名選定について書き残した好書をもっておられる方もあろう。仏祖の口伝を聞き伝えておられる方もあろう。自分として一個の識見を立てておられる方もあろぅ。そういう善知識のご指導を仰ぐことができるならば、間違いは訂正し、足らないところは補足し、もって後人を惑わさないようにしたいと念願している。

永久 岳水

■緒 言

 すべて名をつけるということは、念には念を入れてなされなければならないものであるが、仏教の信奉者であることをあらわす法名・戒名は、ことに慎重な態度で選び、つけられなければならないものである。仏教の信奉者、仏教の檀信徒が、年々幾十万というほど、顕界から幽界に旅立ち、その一人一人が例外なく法名・戒名をつけてもらうのが現代仏教界の慣習である。さすれば法名・戒名の選定ということは、仏教各宗に共通する宗教的聖業と言わなければならない。

 仏教界における法名・戒名選定の実状をみるに、俗名の選定ほども頭脳を絞ることがなく、これでも法の名、道の名の選定であるかと疑われるものが少なくない。あるものは漫然と四字戒名、二字戒名をつける。あるものは無意味に禅定門・禅定尼、居士・大姉の号を授ける。あるものは俗名を法名の中にとり入れることに重きをおいて、法の名の選定ということを忘却している。あるものは軒号、斎号、院号をむやみと授けて少しもあやしむところがない。法名とはいかなる意味のものであるか、道号とはいかなる意味のものであるかというようなことに考え及ばないで、葬儀に際しては、死者には法名・戒名を授けるものであるというような、漠然たる考えで漢字を並べるものが、かなり多いらしい。これは仏教の弘宣流布(法華経の教えを広く宣(の)べて流布すること。略して広布(こうふ)ともいう)に利益にならないばかりでなく、尊い人間の尊霊を冒潰する非宗教的な行為と言わなくてはならない。仏者が法名・戒名に対する自覚の乏しいのに較べて世間の人が俗名に対する関心の、ますます深くなるのに驚かざるをえない。

 このごろ、一般世間においては、姓名判断というものが流行している。人間の栄枯盛衰、人間一生の幸福と不幸せ、人間の成功と不成功、人間の病気と健康、人間の短命と長命、そうした人間一生の吉凶禍福は、人間につけられている姓名の適合いかん、善悪いかんによって定まるものであるから、姓名を十二分に選定してつけなければならないというのが、姓名判断士の主張である。人間一生の幸福と不幸、生命の長短、富と貧乏、成功と不成功というようなことが、人間につけられた名前と密接な関係があり、名前が原因で、吉凶禍福は結果であるというようなことは、理性を有するものの合点しがたいところであるが、名前のつけ方について、軽忽(きょうこつ・ 軽々しく、そそっかしいこと)にしてはならないという根本精神は、人間精神の機微にふれるところがあるといわなければならない。縁起をかつぐということは、理論のうえからいえば迷信かもしれないが、縁起が人間の生活を支配する実際の力となっている以上は、縁起ということも無視することはできない。自分は自分の実際の生活経験からして、名前は人間と人間との区別の符号にすぎないものであるから、権兵衛でも太郎兵衛でも、虎・熊でも、狐・狸・馬でも、なんでもよろしいという気持ちには、どうしてもなれない。できるだけ注意して、できるだけよい名をつけるのが、人間の要求に満足をあたえるものであると信じている。人間は幸福を追求してやまないものであるから、幸福と縁の深い名前をつけても何ら排斥するかどはないのである。

 実業家などが、商品に名をつけるときには、惨憺(さんたん・心をくだき苦心するさま)たる苦心をする。一般大衆を引きつける名称をつけないと、実質のよい品物でも買い手がつかず、事業に失敗しなければならない。商品の名称が、利益か損失かの一つの重大な分岐点となるのであるから、物品の名称をつけることには、莫大なる財貨と苦心を惜しまないのである。物品の名称をつけることについてすら大なる犠牲を惜しまないのが社会の実際であるから、人間の名前をつけることについて、容易ならぬ苦心をするのは、人間の当然なすべきこと、なさなければならないことであるということができるのである。

 法名は俗名と異なり、その子孫が永遠にわたつて祖先を追慕する対象となる道のうえにおける名前である。五年、十年、百年で消えてなくなるものでなく、子孫のつづくかぎり、仏間において尊崇の道標となるものである。物品の名前や、人間一生の肉身の名前とは意義を異にしているのであるから、法名・戒名の選定については、さらに甚深なる注意を払い、敬度な精神をもってこれにあたらなければならない。

■法名と戒名の意義

 法名と戒名の意義 仏教では、普通の人が仏教信奉者になると、仏法の仲間に加入したというので、法名というものを授ける。法名というのは仏門に帰入した、仏教教団に加入し、ただの平俗の人間ではないという、俗名にえらぶ名称である。

 戒名というのは、仏教に帰入し、戒法を受けたものが受ける名前である。戒法を授かって、そこでもらうから戒名というのである。真宗のごとく戒律を授けない宗門では、戒名ということはないわけであるが、実際には、法名も戒名も同じく、仏門に帰入(もといたところに戻ること)した名称といってよろしい。禅門の例でいうと、南無帰依仏、南無帰依法、南無帰依僧も、三帰戒といって、戒の一つに算えている。真宗の教法とても、南無帰依仏以外のものではないのであるから、真宗の人のもらう仏法名も、戒名といっていえないことはないこととなるのである。しかしながら受戒の儀式を経る経ないにかかわらず、仏法に帰入したものに与える名は法名、受戒の儀あるものは戒名、法名は範囲が広く、戒名は範囲が狭いといえば、一般には諒解(了解)してよいであろう。禅宗では、仏教信奉者には、あるいは三帰戒を授け、あるいは三帰五戒を授け、あるいは三帰八斎戒を授け、あるいは三帰戒、三乗浄戒、十重禁戒の十六条戒を授け、同時に仏法名を与えることになっているから、戒名というもよろしく、また法名というもよろしく、いずれをいってもよろしい。

 社会の現状をみるに、俗名は人間が生きているときの名前、戒名とか法名とかは、人間が死後にとなえる喪亡の名前であると思う人が多い。これは人間が死んで、仏式をもって葬礼を行なう場合に、尊霊に対して法名とか戒名とかをつけることが多いから、それで死後の名称のごとく思うようになったものであろうが、この法名とか戒名とかいうものは、決して死後の名称ではない。

 禅宗では授戒会(じゅかいえ・仏の弟子になって、戒という約束事を守ることを誓う儀式で授戒を受けると戒名がつき、徳を積むことができるという)というものがあって、授戒会に参加し、一七日の修行をつむと、生きている人に戒名を授け、あるいは得度式を簡単に行なって、法名を授ける習慣が行なわれている。法名は葬式にあたって、にわかに授ける名前でもなく、死んでから後にはじめて唱える名前というわけのものではないのである。名というものは、人間が生まれるとまもなくつけられるものである。これは俗名である。これまで一個の平凡人として生活してきた人間が、仏法教団の内に入り、仏教精神によって生きる人、道によって生活する人として新たに生まれかわったから、法の世界に新たに生まれた人として法名をつけるのである。

 法名というものは人間の存生中にあたえ、存生中に用いるのが本義で、死後にあたえるのは一種の権道(けんどう・正しいとはいえないが目的達成のために便宜的にとる手段)である。生前仏門に入らなかったものも、死んで仏式をもって葬儀を行ない、仏戒を授け、仏経を読み、仏儀によって引導すれば、仏氏の仲間に入り、仏弟子といぅことをさまたげず、そこで法名を与えるのも尊いことにはちがいないが、生前に仏門に 入れ、法名をあたえるのが、本来の姿であるということを牢記(ろうき・しっかり心にとどめて忘れないこと)しておかなければならない。

■尊称・性称の意義

 仏門に奉祭せられている霊牌をみるに、聖号の1下に、尊称や性称を表わす表号がつけられている。上につけられるものに、○○院、○○院殿、○○寺殿、○○庵、○○斎、○○軒、○○房の号がある。下につけられるものに、童子・童女、信士・信女、禅定門・禅定尼、居士(こじ)・大姉(だいし)、大居士(だいこじ・在俗者のものとしては最も格が高い)・清大姉(せいだいし)の号がある。世間の俗人としては書田・智愚・利鈍の区別があろうが、仏門に入った身としては同じ釈氏(釈迦)の豪族である。平等蒜を宗とする宗教門内にまで、階級の等差をつけるのはおもしろくないが、宗教専門家の間においてさえ厳重な階級があり、また実際、人間にはいろいろな意味で相違があるのであるから、これらの違いがあらわれるのも詮方ないことといわなければなるまい。

位号は、院号と同様にその人の信仰の深さを尊んで付けるものです。

仏教信者として五戒や十善戒を保つ成年を指し、満十八歳以上で死亡した者に対して付けられるものとして男性では、大居士(だいこじ)、居士(こじ)、大禅定門(だいぜんじょうもん)、禅定門(ぜんじょうもん)、清信士(せいしんじ)、善士(ぜんじ)、信士(しんじ)、清浄士(せいじょうじ)などがあります。
成人の女性では、清大姉(せいだいし)、大姉(だいし)、大禅定尼(だいぜんじょうに)、禅定尼(ぜんじょうに)、清信女(せいしんにょ)、善女(ぜんにょ)、信女(しんにょ)、清浄女(せいじょうにょ)などがあります。
剃髪・得度をしていない未成年の男女を指し、満十八歳までに死亡した子供に対して付けられるものに、男子では、童子(どうし)、大童子(だいどうし)、禅童子(ぜんどうし)、清童子(せいどうし)がある。
女子では、童女(どうにょ)、大童女(だいどうにょ)、禅童女(ぜんどうにょ)、清童女(せいどうにょ)がある。
4、5才位の小さな子供に対しては、幼児(ようじ)、嬰児(えいじ)、孩児(がいじ)、幼女(ようにょ)、嬰女(えいにょ)、孩女(がいにょ)があります。
死産や乳児の頃に亡くなった場合は、水子(すいし あるいは すいじ)と読むが、最近は霊感商法の影響からか、「みずこ」と読むことが多い。

 元来、これらの違いは、一つには男女の相違を明らかにすること、二つには仏道修行の浅深を表わすことにあったのであるが、後には、その人の世間における社会的位置、政治上の位置、経済上の格差、寺院に対する勲功の軽重などを表わすようになったもので、仏教の世間への妥協の結果である。

 現今においては、本来の仏教よりみて好ましいことであると否とにかかわらず、これらの違いをつけることが、仏教一般の慣習になっているから、その意義を簡単に述べて、一般の参考にしたいと思う。

▶信士と信女との意義

 信士(しんじ)・信女(しんにょ)とは、仏道に帰入し、仏法を信奉する男女の通称である。信士は男性の通称、信女は女性の通称である。信士とか信女とかいえば、人間が死んだ後にのみ用いる仏教上の通称であると思っているものが多いが、これは慣習からきた誤解で、生死に関係した名称ではなく、仏法信者の意を表わす共通の名称である

 信士・信女の上に、清の一字を加えて、清信士、清信女ということがある。これは仏祖の正法を信じ精神生活も清く、その行業にも不善の醜行がないというところから、清の字を加えたのである。信士・信女よりも一段上の尊称として清信士・信女ということもあるが、意味の上からは格別の違いはない。

 近事男(きんじなん・五戒を受けた在家の信者)近事女(きんじにょ)という文字を、信士・信女の代わりに用いることがある天竺インドの言葉で優婆塞(うばそく)・優婆夷(うばい)というのを、漢語に訳して近事男・近事女というのである。出家しない在俗の男女が、世間渡世の業をすてずして、しかも仏・法・僧の三宝に親近し、仏法の行事をこととしているという意味で、男性を近事男、女性を近事女というのである。信士・信女と意において変わりはない。霊牌(死者の戒名(かいみょう)などを書き、霊代(たましろ)として祭る木札。位牌(いはい))に、ときおり近事男・近事女の称が用いられているのをみるが、これはすこぶる用例が少ない

 清浄士(しょうじょうし)・清浄女(せいじょうにょ)という言葉が、信士・信女の代わりに用いられていることがある。これは、ときおり霊牌のうえに発見する文字である。仏教に帰依し、不殺生、不倫琴不邪姪、不妄語、不飲酒の五戒、あるいは八斎戒、あるいは十戒、あるいは十六条戒を受け、心・口・意の三業において、悪不善のところなく、身心ともに清らかであるというところから、清浄士・清浄女というのである。

 清士・清女、清浄士・清浄女、善士・善女、信士・信女、清信士・清信女といっても、意において違いはないが、信士・信女、あるいは清信士・清信女が、宗教的な感じがいちばん濃厚で良いと信ずる。

▶居士と大姉(だいし)との意義

 居士とはいかなる意味であるかというに、居とは生活の止住点、生活の中心をいずれの場所においているかということ、士とは古くは農工商の上に立ち、商工耕作の業をなさず、いずれかといえば精神労働に従事するものの意である。『祖庭事苑(そていじえん)・「雲門録」などの禅宗関係の図書から熟語二千四百余語を採録し、その典拠を示して注釈を加えたもの」の中には、一には仕官を求めないもの、二には欲を少なくし徳を薀(つつ)むもの(こころゆたか)、三には財にいて大いに富むもの、四には徳を守ってみずから悟るもの、この四徳を具えているものを居士というと述べてある。

 『菩薩行経』には、財にいるの士、法にいるの士、家にいるの士、山にいるの士、いずれも通じて居士というとある。家にいるというのは、官に仕えないことを意味するのである。居士という意義は、インドー中国と地方を異にするにつれて変化があり、また同じ中国でも、時代により教えによって違っている。そういうわけで、一概に居士とは、こういう意義であるといいがたいが、相当の学識があり、仏道を信じてこれを楽しみ、道徳を守り、かつ財産もあるという人の世において尊敬すべき人を居士というのだと思えば間違いはない。居士といえば財産のある人などというと、ブルジョア気分が濃いというものもあろぅが、財産といっても私有財産が山ほどあるということに解さなくもよろしい生活の基礎が立ち、他人に迷惑をかけない独立生活の人という意と思えばよろしい。

▶敬称の順位

 仏門に行なわれている敬称は、だいたい上述のごとくである。この敬称に順位をもうけることは、地方の慣習によって困難なことであるが、だいたいの基準を示せば次のごとくである。

 第一信士と信女、第二 晴信士と晴信女、第三 禅定門と禅定尼、第四 大禅定門 と大禅定尼、第五 居士と大姉、第六 大居士と清大姉。

 清士と清女、善士と善女は、信士・信女と同じ位置でよろしかろう。小どもには小より大におよぶとすると、

 第一水子、第二 嬰児と嬰女、第三 該児と該女、第四 幼児と幼女、第五 童子と童女、第六 禅童子と禅童女、第七 大童子と大童女。

 善童子と善童女は第六位と同位置である。嬰児といっても、かなり大きい小どもをいうことがあるのであるが、しばらく、こういうように分類しておく。小どもには四字の聖号をつけず、二字の法名だけにしておくべきものである。聖号の上につける敬号の順次は、これも等差がむずかしいが、

 第一軒号、第二 斎号、第三 院号、第四 院殿号。

 である。房号を用いるならば、軒号と同位置か一段次位。庵号を用いるならば、斎号と同位置。寺殿号はほとんど見受けないが、この寺殿号を用いるならば、第二と第三の中間か、第三と同じであろう。

 これら上位の敬号は、昔時は禅定門・禅定尼の敬号にも用いられているが、現今は居士・大姉以上の敬号のあるものでなければ、これらの軒号、斎号、院号はつけられない。という意味は、居士・大姉の号があつても、軒、斎、院等の上位の敬号のないものがあるが、上位の敬号のあるものは、必ず居士・大姉、大居士・清大姉の号が授けられるというものである。