エピローグ 中世社会の変質

▶『神皇正統紀』の成立と三村山

 暦応元年三二三八)、伊勢より奥州への東上中に暴風にあった北畠親房は霞ケ浦南西岸の信太郡東条浦(桜川村)に漂着し、小田城へと入った。在城のさなか、後醍醐天皇の崩御を受けて執筆したのが『神皇正統記』である。この書は、皇統の神聖と正統性を述べたものだが、南宋僧志盤の著『仏祖統記』の理念や論述構成を参考に執筆されたことが判明している。『仏祖統記』は、釈迦の後継者である祖師の法系・所伝をまとめたいわば「仏祖正統記」ともいうべきものである。つまり親房の理論の枠組みは、実は仏教の釈迦・祖師信仰にあり、仏祖の法服を天皇の系譜に置き換えたものにほかならなった (平田 完九四 我妻一九八ロ)。 従来、親房は小田陣中で『皇代記』という簡略な歴史書一冊だけを参考に、超人的な記憶力で執筆したと信じられていた。しかし『神皇正統記』には、和書約五〇種、漢籍・経典約四〇種、侍殊な仏典も含む合計九〇余の文献からの複雑な引用があり、親房は小田城に近い三村山の蔵書を参照したとする説が出されていた(寺嶋一九九四)。三村山には走舜が将来した宋の律書・諸経論の施入が推定されるため、『仏祖統記』も存在した可能性が高い。親房は覚空と名乗る真言僧でもあり、吉野帰還後の興国六年(三笠)頃に密教書『真言内証義』を著した点からも、『神皇正統紀』執筆に際し、親房は三村山に親しく出入りし、その蔵書も利用したと考えるのが妥当であろう。 『神皇正統紀』は、鎌倉期に惣領制を支えた祖師信仰を天皇復権に応用したものといえるが、正統主義の強調自体、古い権威が崩れ実力社会に移りつつあったことの反映である。釈迦・戒律重視の律宗の伝統主義も、社会への影響力は確実に後退していたのである。 極楽寺僧円琳の生涯 興国二年(三四こ、吉野朝廷の内部が分裂し和平派が主流となり、十一月、吉野使者律僧浄光が小田城に下向し主戦派北畠親房の地位を否定した。十一月十八日治久は城をでて降伏し、北畠親房は開城に、春日顕国も大宝城に走った。『相良結城家文書』の興国二年二三四一)十二月に北畠親房が白河結城親朝に宛てた書簡によれば、高師冬が関城に極楽寺僧円林を遣わし、和議をもちかけたことがみえる。この円林は鎌倉極楽寺・多宝寺・称名寺ゆかりの律僧円琳房全玄である。知事系列とよばれる寺院経営の僧のなかでも特に敏腕の勧進僧で、有能な実務家として、その経営手腕は高く評価されていた。行動半径も国内のみならず大陸にまで及んでおり(小野塚一九八田)正和三年(三巴〜頃筑紫に下って唐船を造営し、三四〇年代前後の南北朝争乱のさなかには、加賀国軽海郷など称名寺領の未納・滞納年貢の徴収に奔走した。康永元年二三四二)には常陸久慈西郡政所の為替滞納をうけて徴収に赴いたようだが、このとき瓜連城に駐屯する高師冬と接触し、その緑で関城への軍使を依頼されたらしい。晩年は法隆寺大勧進職を拝任し、『西大寺光明真言結線過去帳』の記載より三四口年代に大和最福寺で没したようである。 民衆の支援をうけ南北朝期も活力を維持した西国の律寺と異なり、民衆の成長が遅れていた東国では、律寺は経営基盤を得宗や有力武士に依存するものが多く、北条氏滅亡と戦乱で、物流ルートや寺額などの軽営基盤を破壊されていった。円林のような優秀な勧進憎が本領を発揮する土壌は、東国から失われつつあったのである。ネットワークの崩壊は東国律宗の活力を急速に低下させ、孤立を深めていく律院は、勧進や諸宗往来の拠点としての性格をしだいに喪失し、地域に密着した田舎臭言・天台の道場へと変質していった。そして遊行・従軍僧など機動性を駆使した時宗・地域に根ざした林下禅にとってかわられていった。 臨済禅の展開と律宗寺院の禅寺化 中世常陸の語部たる無住通暁は、若年を東城寺の顕密僧、壮年を三村寺僧道匪なる真言律僧、晩年は尾張長母寺にあって臨済禅僧として生涯を終え、死後「大囲国師」の号を贈られた。個人的体験の中にも戒律からの離脱と禅への傾斜がみえはじめる(追塩一九豊)。古霞ケ浦沿岸でも鎌倉末頃から臨済禅寺が現れてくる。 潮来の海雲山長勝寺は文治元年(一一入五)源頼朝の開基と伝え、元徳二年(三二〇)年銘の梵鐘は下野天明鋳物師の祖と推定される甲斐権守卜部助光の作である。北条高時・下総国主千葉五郎禅門通暁(木内胤長) の施入で、鐘銘は、元からの帰化僧で鎌倉円覚寺住職の清拙正澄(大鑑禅師)の揮毎になり水郷潮来津を「客船夜泊、常陸蘇城」と詠んで、中国の港町蘇州の賑やかさになぞらえた。元が南宋を滅ばすと、異民族の支配を拒む多くの禅僧が日本へと亡命したが、彼らは異郷に生きる運命の中で、しばしば日本の風景を杭州や蘇州とだぶらせた。「常陸蘇城」を額面通りに受け取ることはできないが、当地の繁栄は事実であろう。 白鳥津の「安福禅寺Lにも正和五年二三一大】:−沙書菩性が鋳造した銘塞がかつて旧在Lた壬菩任吐玉里大技津から同寺川を遭った宍戸卓井を幸一とL、古書サ