■北大路魯山人と岡本家の人びと

■北大路魯山人と岡本家の人びと

 佐々木秀憲(川崎市岡本太郎美術館学芸員)

▶はじめに

 明治38年(1905)、東京府京橋区南鞘町(現東京都中央区京橋1丁目14番)に書道教授の看板を掲げる岡本可亭(1857-1919)を、一人の男が訪ねてきた。

 身の丈は六尺をゆうに超えようかという大男は、上杖の執こはひどく痩せ、眼鏡の掛けられた両目からは、みなぎる自信を過ぎて、時には倣岸不遜な光さえ覗かれる。年は20歳をいくつか過ぎた頃であろうか‥若くして苦労した過去を持つことは、19になる自分の件一平と引き比べても、大男の面構えからして、納得させるものがあった。8歳にして父を、14歳にして母を亡くし極貧の果てに17の年に故郷を捨て、家再興のために走り続けてきた可亭には、眼前の大男の姿が、どこか若い頃の自分を想わせるようでもあった。大男の名前は福田房次郎

  

 のちに北大路魯山人(1883_1959)として、書に、蒙刻に、美食に、陶芸にと、つぎつぎに稀有な才能を開花させ、その特異な性格も手伝って、後世の語り草となる人物である。いまは未だ無名の22歳の魯山人こと房次郎青年が、版下書きの仕事を身につけるために門弟にして欲しいと、可亭先生を訪ねてきたのだ。

 「しかしお前さん字が書けるのか、どんな字かまあう枚書いて持ってきたまえ。」

 早速、書いて持っていくと、可亭はその鮮やかな運筆に驚き、房次郎の字をすっかり気に入ってしまい、はれ込んでしまった。房次郎は可亭の内弟子となることを許され、3年近くの間、岡本家に住込んだ。この時はまだ、房次郎と岡本家の人びととのつきあいが、三代にわたるものとなろうとは、当人たちですら知る由も無かった。

▶1.岡本可亭のこと

 岡本一平の父、太郎の祖父である岡本可亭(1857-1919、本名竹次郎、竹二郎、普卿、湖月、喜信なども使用)は書家で、版下作りの名手として知られた。安政4年、伊勢・藤堂藩に仕えた儒者岡本安五郎の次男として生まれた。幕末の動乱の中で、洋学がもてはやされ、その十方で儒学が疎(うと)んぜられるような風潮になって、安五郎は失職し、知人を頼りに山村に移り住んだものの、収入の道は閉ざされ、貧困の中に、竹次郎が8歳の頃(1865頃)没した。その間、竹次郎は家再興の使命を安五郎から諄諄(くどくど)と説き聞かされたという。

 父安五郎が没して6年目(1871頃)には母親も没し、その後、肺病を患って、働くこともできず寝たり起きたりの生活を竹次郎は続けていた。あわれに思った近所の人が、時折、豆腐など差し入れてくれる食べ物で、ようやく命をつないでいたあり様であった。そんなある日、このまま死ぬわけにはいかない、生きたいという欲求が竹次郎に芽生え、手習いで修得していた顔真卿(がんしんけい)の書を頼りに、村人たちの手紙の代筆や代読でいくらかの収入を得ることができるようになった。肺病もいつの間にか治り、蓄えたわずかのお金と、いくらもない遺産を処分したわずかなものを元手に、明治8年(1875)、17歳のとき村を捨て大阪に出た。先に大阪で働いていた兄・松之助の厄介になりながら、雑誌編集および書籍の版下作りに従事した。また、明治11年(1878)には上京し、号を「晋卿」、「湖月」として、ここでも版下作りに従事した。明治17年(1884)、「北海道で儲け由比利亜(しべりあ)へ渡って仕事して呉れよう」と決心し、函館に移り住み函館師範学校の書記兼三等助教諭となり、同敷地内に設けられた函館女学校の教諭も兼務した。明治19年(1886)、この地で関谷正を妻として迎え、同年、長男・一平が誕生している。竹次郎は、変転の末、ようやく家庭的な幸福を手に入れることとなった。明治22年(1889)、長女・セツ誕生間もなく、一家は大阪に転居明治24年(1891)東京に転居、東京府下でも京橋区南伝馬町、日本橋区数奇星町と移り住み、京橋区南鞘町に落着く。この頃から、「可亭」の号を使い始めた。当時の住まいは、現在の東京都中央区京橋1丁目14番地辺りで、中央公論社から歩いてう、4分の、昭和通りに出る角の辺りの、味の素ビルの前あたりで、関東大震災の後の都市整備の為、今や昭和通りの道路の真中になってしまっている

 もともとは小料理屋だったという家屋は、小部屋が多く、1階に4間、2階に3間、玄関の2畳に階段があり、二れを上がると手前に可亭の書斎、奥に一平の勉強部屋があった。ごく普通の家屋で、1階の奥で食事をしているのが玄関から見えたという。

 竹次郎は、岡本可亭として版下書きと書道教授業を営み、当時の東京における版下書きの二大勢力(岡本と河村)の一派を形成した。明治38年(1905)、福田房次郎(後の北大路魯山人、1883-1958)を内弟子としたことは既に述べた。晩年は、千葉県市川市国府台の隠宅で過ごし、娘婿などとの交流もあり、「まんざら幸せでないこともない晩年」であった。大正8年(1919)、肺臓癌により首の後ろに大きな腫れ物ができ没した。墓所は晩年の隠宅に程近いところにある共同墓地で、市川市国府台3-7(墓地番号40番)に眠る。

▶2.北大路魯山人(1883ー1959、本名・房次郎)のこと

 北大路魯山人は、明治16年(1883)、京都上賀茂に生れた。本名を房治郎という二実父・清操とは生誕以前に死別。実母とも生まれて間もなく生き別れ肉親の愛情を知ることなく里子に出され、服部家、福田家と養家を点々とする不遇な幼年期を過ごした。15歳の時から書の懸賞に応募して受賞を重ね才能を自覚するようになり、明治36年(1903)、20歳にして上京し、東京京橋で下宿生活を始めた。東京に住む実母と面会する願いと、正式に書家としての勉強をする願いとからであった。この頃の名前は、まだ、福田房次郎であった。ところが、母登女(とめ)とは心を通わせることができす当時の書の大家であった巌谷一六、日下部鳴鶴に面談でき、入門の可能性もあったものの、書家としての姿勢に失望し師事することを諦め、失意の中、独学で中国の隷書を修得した。

 当時、書の才能を生かして生計を立てる確実な道は版下書きであった。そこで魯山人は、東京の版下書きの二大勢力の1つであった岡本可亭の内弟子となることとした。可亭は魯山人の才能を高く評価し、約3年間、住み込み書生として版下書きの全てを魯山人に伝授した。この頃、魯山人は可亭の1字を借りて「可逸」と号している。

 書家とはいえ、下町に住む版下書き中心の可亭は、芸術家というよりは、職人に近かったという。そんな可亭に、幼少時からの劣等感を持つ魯山人はむしろ親しみを感じたのか、以後、一平・かの子・太郎と、三代にわたって交流を持つことになった。

 当時、岡本家には、東京美術学校の学生であった息子の一平(1886−1946、太郎の父)がいて、二人はすぐに親しくなり、一緒に遊んだり、食べ歩いたりした。晩年、魯山人は、学生仲間と青春を謳歌していた一平がうらやましかった」と述懐している。

 明治40年(1907)、魯山人は京橋和泉町に独立することとなり、可亭から「鴨亭」の名を贈られ号とした。翌年には、京都から安見タミを呼び寄せ結婚し、長男櫻一をもうけた。

 

 また、同44年(1911)、京城に渡り見聞を広め、翌年帰国後、纂刻、看板、習字塾を始めたのは南鞘町(みなみさやちょう・東京にあった町名の1つ。現在は東京都中央区京橋の一部と)であった。そして大正8年(1919)に「大雅覚芸術店」「美食倶楽部」を開業し、美食への道を切り開いたのも南鞘町であった。東京京橋南鞘町は、青年期の魯山人にとって大切な場所であった。岡本可亭と北大路魯山人、そして野田可童、岡本可亭は独学の書家で、市井の書家として書塾を開き博文館の雑誌の題字を書いて生活を立てていた。書家としで一時は大変な人気を博し、現存するものでは、「山本山」の看板が有名で、関東大震災を逃れて、今日に残ったほぼ唯一のものである。この看板は、文字の輪郭を刻んで字画を表す「籠字」と呼ばれる書法を用いて制作されている。これは、魯山人が看板や濡額( 茶道では屋外に掲げる木製の額のことを「濡額」(ぬれがく)と言う)にしばしば用いた書法であり、また昭和10年代以降、陶磁器などに文字を描くときに用いた書法でもある。魯山人は15歳となった明治29年(1896)頃から養父で木版師であった福田武造の仕事を手伝っていたのではあるが、現存する魯山人の作品で籠字が用いられているのが大正期以降であることを考えると、魯山人の籠字は、可亭との関連の中で本格的に習得されたと考えて良いのではなかろうか。

 また、可亭の顔真卿流の書風を明確に伝えるものとして、大正5年(1914)に長男一平の処女作として刊行された『探訪画趣』の題字が知られる(上図右)。同書の序には夏目漱石が寄稿しているが、その後の自序に「表紙の字はおやぢに書いて貰った」と記されていることから、可亭による書として確実なものである。

 ところで、可亭の揮毫(きごう・筆をふるって)字や絵をかくこと)による書について、一平は著書『どぜう地獄』(1924)の中で次のように述べている。

 「ある時は書家仲間の団体に加はって展覧会に出品なぞもした。白い鬚の生えた意地強さうな老書家が出入りして落(らいらく・気が大きく朗らかで、小さいことにこだわらないこと)な態度で金を借りて行った。そして展覧会のおやぢの字を俗字だと嘲った。」 

 ここで述べられているように、「展覧会に出品」された可亭の揮毫による作品が存在したのであろうが、関東大震災と東京大空襲という二つの災難を経て、未だ見出すことができていない。

 そこで、野田可童(本名利衛、1902−65)に注目したい。野田可童は、可亭の弟子の1人で、3歳にして門弟となった。その天才児ぶりは、可亭が「可」の字を授けたことからもうかがわれる。可童が弟子となった1905年は、魯山人が同じく可亭に弟子入りした年でもあり、どちらが先に弟子となったのかは不詳であるが、当時3歳の可童と当時22歳の魯山人とは兄弟弟子であった。こうした縁もあって、現存する可童作品の落款はすべて魯山人が制作したものであるという。野田家は、当時、京橋南鞘町(現東京都中央区京橋2丁目8番地)で一貫堂という漢方薬局を営んでおり、近隣に複数の家屋を所有した素封家(昔からの財産家)であった。大正8年(1919)、魯山人が中村竹四郎美食倶楽部をはじめた家屋(現東京都中央区京橋2丁目9番9号の位置)も野田家の所有で、魯山人らに貸したものであり、通りを挟んで一貫堂の正面にあった

 幼き天才児野田可童は、風呂敷に包んでもらったおにぎりを襟がけにして、可亭のもとに毎日真面目に通い、可亭の準備した手本を丹念に写して書の修行に励んだという。したがって、幼年時の可童の作品からは、可亭の書風が推察できるのである。

 野田可童による『長楽帖』を見てみよう。《武楽》(上図)隷書体で書かれており、岡本可亭が得意としていた顔真卿の楷書とは異なっているが、可童がこれを書いた1910年頃までに、既に可亭は多数の実用文例集などの吉の手本を出版している。特に、実用文の書法と文例、そして函館時代に女子教育に携わった経歴を生かしての、女子用の書と文に関する書籍を次々に出版しており、その書法も顔真卿のみならす範囲が拡大されていたのであろう。野田可童の《武楽≫が隷書体で書かれていることは、そのことを示唆しているのである。

 

 また、野田可童筆《蘭図》には、中国・宋代の詩人陳与義(1090−1158)による七言絶句「墨戯二百・蘭」(上図上段)が書かれているが、その書法は、顔真卿の三稿の一つとして名高い《祭姪文稿》の筆法に近似している(上図下段)ようにも思われる。

 以上より、既に可亭の内弟子となる前年、日本美術展覧会書の部に隷書「千字文」を出品し、1等賞2席となり、宮内大臣田中光顕に作品を買い上げられた実績を持つ魯山人ではあったが、籠字や顔真卿の書法を本格的に修得したのは、岡本可亭の内弟子時代のことであったように思われる。当時は未だ福田房次郎であった人物は、顔真卿のその剛直な書風に強く打たれ、後にその号である「魯公」にあやかって、大正5年(1916)以降「魯卿」、そして大正11年(1922)以降「魯山人」と名乗るようになる

「顔真卿の書について魯山人は次のように述べている。「顔真卿になれば実に貫禄が上って、その示しているものは実に堂々としているのであります。殊に顔真卿は楷書がよいのであります。顔真卿には少しも無理なところがないのであります。そして顔真卿も、やはり素直であります。ふっくらとしていて、温かであります。」

 ちなみに、野田可童は、10歳のとき、大正天皇即位の祝辞を書にしたため、その早熟ぶりで世間を驚かせ世に知られるようになったという。可亭も魯山人も、この幼き天才を売り出そうと、東京に大阪にと連れて歩き、百貨店などの催事場で、人を集めて書を実演させてみせることに躍起になったという。晩年、野田可童はその頃のことを「二人ともまるで興行師のようだった」と述懐していたという。

 また、昭和4年(1929)1月17日、魯山人と可童は、亡き師可亭の墓参のため、共に千葉県市川市国府台の墓所に出かけたことが、可童の父峰吉の日記に記録されている。昭和4年頃の魯山人は、星岡茶寮の経営が軌道に乗り羽振りの良かった時期である。そうした時期に、兄弟弟子の可童と共に師可亭の墓参をしたことを考えると、魯山人が可亭に対し、如何に恩義を感じていたかが理解される

 以上述べてきた通り、明治38年(1905)年から3年弱の間、魯山人が岡本可亭の内弟子として過ごした期間は、当初は経済的理由からであったのかもしれないが、結果として、後の魯山人の創作活動において基礎となる部分を形成する上で、そして青年期の人格形成の上で、重要な意味を持つ時期であったと考えるべきではなかろうか。

 魯山人が、後年、可亭の孫・太郎らとの対談の中で、次のように述べたことは印象深い。

 (略)君[筆者註、太郎のこと]のおじいさん、かねがねおせわになっている  し、先生は京都を知らぬというから、(略)京都をずっと案内して、まず 多少の恩返しをしたような気がした。」

 「もう一ペん、これは君のお母さんとおばあさん、おじいさんで紀文という濱町のもうちょっと先の方にある料理屋に呼んで、僕は感謝の意を表するためにごちそうした。」

4.美食開眼と作陶

 その後、魯山人は、大正2年(1913)、京都の豪商で美術に造詣の深い内貴清兵衛宅、そして金沢の儒学者で骨董業も営んでいた細野燕台宅に逗留し、食客生活の傍ら美と味覚に対する見識を深めた。

 

 細野燕台に紹介され、石川県加賀市山代温泉の須田青華(1862−1926)窯で初めて作陶を体験してもいる。

 大正10年(1921)、魯山人(この頃の号は北大路魯卿)は、東京京橋南鞘町の大雅堂美術店2階で会員制の割烹「美食倶楽部」を開業した。美食倶楽部は、魯山人の創案による手作りの料理を、店の古陶磁に盛付けて出すことで人気を博したが、会員の増加に伴い、古陶磁の食器が不足するようになった。そこで魯山人は食器を自作することを思い立ち、同12年(1923)頃から陶磁器の制作を手がけるようになる。同年、魯山人は須田苦華窯で色絵磁器を、京都の宮永東山(1868−1941)窯で青磁を制作した。

 この年、関東大震災のため、南鞘町の大雅堂美術店も美食倶楽部も焼失したため、芝公園内の「花の茶屋」で美食倶楽部を再開大正14年(1925)には、中村竹四郎とともに赤坂に料亭「星岡茶寮」を開設した。

 

 星岡茶寮は、明治初期に公家たちの会食のための施設として設けられ、その後衰退したものを料亭として再興したもので、竹四郎が社長を務め、魯山人が顧問兼料理長として活躍した。昭和2年(1927)には、専用の食器を制作するために、北鎌倉山崎に「魯山人窯芸研究所星岡窯」を開窯した

 

 また、魯山人は星岡茶寮を舞台に、書、篆刻、陶磁器、漆器、絵画の作品展を毎年開催し、その多彩な才能を広く知られるようにもなった。

 昭和4年(1929)には、家族でヨーロッパに行くことになった岡本一平、かの子、太郎を星岡茶寮に招いて、魯山人が壮行会を開催している。

 昭和5年(1929)中村竹四郎は、兄伝三郎の死により、京都の事業を継承することとなり、星岡茶寮は魯山人に任せきりになった。そのため、経営状態が悪化し、昭和11年(1956)、魯山人は竹四郎から星岡茶寮を解雇され、以後、晩年まで北鎌倉山崎の星岡窯を拠点に陶磁器制作に専念することとなる。

▶5.北鎌倉山崎星岡窯の魯山人

 昭和2年(1927)、魯山人窯芸研究所星岡窯開窯の祝賀園遊会には各界の著名人、画家などが招待されたという。(上図右)

 魯山人の陶芸は、食器は「料理の着物」の言葉の通り、自分自身の料理を美しく盛り付けるために我流で開始されており、この点、他の陶芸家と事情が大きく異なっている。そのため、魯山人は、優れた陶芸家との交流から習得したものや、古陶磁をつぶさに観察して感得したものを吸収し、自分の中で消化してから、独自の作品として生み出すことを心がけていた。

 魯山人の作陶は、助手に下ごしらえをさせ、それに手を加えて一気に作り上げる独特の手法で行われた。また、各産地の優れた陶工を招いて、産地毎の窯を築き、産地から陶土を取り寄せて、独自の作品を制作することを始めた陶芸家の一人でもある。

 

 特に、戦後、備前焼の金重陶陽(1896−1967)を北鎌倉に招いて備前風の窯を築き、備前の陶土を用いてユニークな陶芸作品を制作したことは広く知られている。また、備前焼の器身全面に銀彩を施した作品なども発表した。昭和29年(1954)には、欧米諸国で展覧会や講演会を開催し、世界的にその名を知られるようにもなった。1930年(1955)には、織部焼に関する国の重要無形文化財保持者(人間国宝)の認定の打診を受けたが、「無位の真人」であることを望み辞退した。

▶6.魯山人と一平・かの子

 明治38年(1905)から5年弱の岡本可亭宅での内弟子時代のことを、「一

平がうらやましかった」と魯山人が述懐していたことは既に述べた。

 一平は、明治43年(1910)に東京美術学校西洋画科選科を卒業し、大貫かの子結婚、翌年に長男太郎をもうけている。一平とかの子は、結婚後しばらくは京橋の一平の実家で、可亭・正・セツ・シュン・クヮウらと同居した。裕福な家で養育母に育てられたかの子は家事が全くといっていいほどできず、また下町での生活にも馴染めず、翌年には青山に家を新築し一平・太郎との3人での生活を開始している。

 ところで、可亭は一平の書の腕前について、次のように述べていたという。

 「吉家なる僕のおやぢが、僕の字の下手糞なのを見て、『貴様は到底俺  の後嗣になれ相もない。絵は易しいから絵ならどうやら飯が食へやう』と、それから旧式な狩野派の先生の処へ毎晩習ひに遺された。」

 一方、幼少時に武家出身の養育母から御家流の書を教授されていたかの子の書について、可亭は次のように述べていたことを一平が記している。

「書家であるおやぢは女史の書く字を見てかういった。『あんたは手本の字は習はなくてよろしい。自分の字を書いて行きなされ』つまり天分を認めた。」かの子もまた、能書家であったのである。

 魯山人は、太郎に対して、よく「あんたがいくら威張ったって、何しろぼくはあんたがおっ母さんのおなかに入る前から、何もかも知ってるんだからね」といって面白そうにからかっていたという。太郎がかの子のおなかに宿った頃のことについて魯山人が語った内容を、女流陶芸家の辻輝子が、次のように記している。

 「・・・かの子が一平の子を宿し、産もうかどうか迷って、魯山人先生に相談したとのことです。魯山人先生いわく『できたものは産んでしまえ』。そして生まれたのが太郎さんというわけでした。だからアオレがいなかったら、オマエなんかこの世に生を受けなかったんだよ』」

 といって太郎のことをよくからかって魯山人は面白がっていたという。また、魯山人は太郎との対談の中で、一平・かの子夫婦の微笑ましい様子を次のように語っている。

「いつだったか、君の親爺夫婦と酒を飲みに行った。その時君はまだヨチヨチ歩きかけたばかりで。“オシッコがしたい!”と言い出した。お母さんが何かデンと腰を下ろしている。“連れて行ってやりなさい、あなた”と言われて一平が人ごみの中をごそごそ君をつれて中腰でトイレヘ行ったことを覚えている。」

 その後、一平とかの子は夫婦間の葛藤から、仏教に救いを見出した。特に、かの子の仏教への造詣は深く大蔵経(〘仏〙 経・律・論の三蔵を中心とした仏教聖典の叢書。梵語・パーリ語の原典のほか,チベット語・中国語・蒙古語・満州語の訳本がある。一切経。蔵経。 )を読破もした。観音経への傾倒も強く、自身の小説に濃厚に反映されている。かの子の「女人観世音」は版画家の棟方志功(1903ー1975)の創作の源泉となったことは有名である。かの子の仏教的悟りの高みは、晩年に書かれた「仏教の新研究」)に理解されるが、それによると「空」や「重々無尽」など、大乗仏教の要諦を的確につかんでいたことがうかがわれる。

 ところで、魯山人は、江戸っ子で負けん気の強かった一平の気性について、太郎との対談の中で、次のように述べている。

 「君のお母さんとおばあさん、おじいさんで(略)料理屋に呼んで、僕は感謝の意を表するためにごちそうした。ところがやはり一平が食ってかかる。(略)かの子夫人が出てきて、うちの一平はよくあんなことがあるのです。悪しからず、横山大観ともこの間ケンカしてつらい思いをしたというんだ。君のお母さんが。」

 昭和4年、魯山人が家族でヨーロッパに行くことになった岡本一平、かの子、太郎を星岡茶寮に招いて壮行会を開催したことば既に述べた。

 さらに、昭和8年(19うう)2月に、魯山人は『魯山人小品画集』第1輯(便利堂発行)を刊行しているが、同書を魯山人が一平に寄贈したことが星岡茶寮の広報誌『星間』(同年5月号)に記載されている。結局のところ魯山人と一平とは、いがみ合っても理解し合える家族のような間柄だったのであろう。

 一方、一平・かの子側から見た魯山人像というのは、かの子の小説「食魔」の中に表されている。小説「食魔」に登場する主人公の電四郎が、若い頃の魯山人をモデルにして書かれていることは有吉佐和子によって指摘された。「食魔」について、太郎は次のように述べている。

 

 「母かの子の小説『食魔』などに出てくる鮮烈、ユニークな料理の工夫や、傲岸でいてぴりぴりとデリケートな天才肌の料理人の面影などは、もちろん創作だが、いくらか魯山人さんにヒントを得ている点があったのではないかと私は思っている。」

 小説「食魔」は、かの子没後の昭和15年(1940)3月に刊行された短編集『鮨』の中の一編として初めて発表された。かの子没後の作品は、一平が遺稿を整理し発表したことは広く知られているが、その際、かの子の遺稿に一平が作品完成のために加筆した可能性が高い作品がいくつか指摘されている。「食魔」もその1つで、例えば、電四郎のモデルが魯山人であること、電四郎の友人であるメーゾン檜垣の主人が病む癌の症状が、一平が「泣虫寺の夜話序」(大正12年10月刊)で描写した父可亭の症状と近似していること、そして電四郎の愛する「トンネル横町」という小路が、明治44年(1911)第5回文展に入選した一平の油絵の題名であり、それと同じ風景が文中に描写されていることなどが指摘されることが多い。これに対し「これらは妻であるかの子が知っていて当然のことばかりではなかろうか」という反論もある。

 しかしながら、昭和17年(1942)11月に一平が刊行した『かの子の記』に、かの子没後に書かれた一平の随筆「父」が所収されているが、そこに再び父可亭の病状と臨終の様子が、さらに詳細に記されており、「食魔」の檜垣の主人の病状の描写といっそう近似しているのである。特に、檜垣の主人と父可亭の両者の死生観、すなわち自分が歩んできた生を肯定し、迫り来る死を静かに受け入れようする態度が、近似していることは注目に値する。

「(略)私は死の機が迫つたとき『もう時機でございます』といってあげた。  おやぢは『さうか』と返事をしたが、障子の硝子から晴れた空をつくづく眺めたのち、突如、枯れた両腕を上げるやうにして「萬歳』を三唱した。それから間もなく落ち入つた。」

一方、「食魔」のメーゾン櫓垣の主人の方は、次の通りである。

「これを聞いても檜垣の主人は驚かなかった。『したいと思ったことでできなかったこともあるが、まあ人に較べたらずいぶんした方だろう』「この辺で節季の勘定を済すかな』笑いながらそういった。」

 この二つの描写は、一平の加筆が広く認められているかの子の小説『生々流転』中の市塵庵春雄の手紙にみる死生観とも近似している。以上より、「食魔」は、かの子の死後に部分的に一平が加筆して発表された作品と解するのが自然なように思われる。既に多くの碩学(せきがく・学問が広く深いこと)が指摘する通り、かの子と一平とで「岡本かの子」を演じたと理解すべきなのであろう。

 ところで、「食魔」の中で、魯山人をモデルとした主人公の電四郎は、次のように描写されていて、一平・かの子が、この人物をどのように見ていたかが推察され興味深い。

「彼は高飛車に人をこなし付ける手を覚え、軽蔑して鼻であしらう手を覚えた。何事にも批判を加えて己れを表示する術(すべ)も覚えた。彼はなりの恰好さえ肩肘を張ることを心掛けた。彼は手鏡を取出してつくづく自分を見る。そこに映り出る青年があまりに若く美しくて先生と呼ばれるに相応しい老成した貫禄が無いことを嘆いた。彼はせめて言葉付だけでもいかつく、ませたものにしようと骨を折った。彼の取って付けたような豹変の態度に、弱いものは怯えて敬遠し出した。強いものは反撥して罵った。」

「それはどまでにして彼は尊敬なるものを鼠ち得たかったのであろうか。然り。彼は彼が食味に於て意識的に人生の息抜きを見出す以前は、実に先生といわれる敬称は彼にとって恋人以上の魅力を持っていたのだった。」「弱きものよ汝の名こそ、まこと。自分にそういうものを無みし、強くあらんがための芸術、偽りに堪えて慰まんための芸術ではないか。」

ところで、この「食魔」には、一平とかの子たち自身と考えられる人物も登場する。

「女流歌人で仏教家の夫人がこの古都のある宗派の女学校へ講演に頼まれて来たのを幸、招いて会食するものであった。画家の良人も一しょに来ていた。テーブルスピーチのようなこともあっさり切上がり、内  輪で寛いだ会に見えた。しかし電四郎にとってこの夫人に対する気構えは兼々雑誌などで見て、納らぬものがあった。芸術をやるものが宗 教に捉われるなんて、(中略)とうとう彼は雑談の環の中から声を皮肉にして詰った。夫人が童女のままで大きくなったような容貌も苦労なしに見えて、何やら苛め付けたかった。」

「彼は遜る態度を装い、強いて夫人に向かって批評を求めた。そこには額仕立ての書画や纂額があった。夫人はこういうものは好きらしく、親し気に見入って行ったが、良人を顧みていった。『ねえ、パパ、美しくできてるけど、少し味に傾いてやしない?』良人は気の毒そうにいった。『そうだなあ、味だな』電四郎は咲笑して、去り気ない様子を示したが、始めて人に肺腑を衝かれた気持がした。」

「夫人も健喫だったが、画家の良人はより健啖だった。みな残りなく食べ終り、煎茶茶碗を取上げながらいった。『ご馳走さまでした。御主人に申すが、この方が、よっぽど、あんたの芸術だね』そして夫人の方に向い、それを皮肉でなく、好感を持つ批評として主人に受取らせるよう夫人の註解した相槌を求めるような笑い方をしていた。夫人も微笑したが、声音は生真面目だった。『わたくしも、警句でなく、ほんとうにそう思いますわ。立派な芸術ですわ』」

 以上より、魯山人と一平・かの子は、適度な距離を保ちながら、創作上、時には触発し合い、また親戚のように理解し合える関係であったように思われるのである。

▶7魯山人と太郎について

 岡本太郎(1911~1996)については、いまさら紹介するまでもなく、第二次大戦後、日本の前衛芸術運動の旗手として縦横無尽の活躍をした。魯山人について、太郎は次のように述べている。

 「魯山人さんとは不思議な緑だ。(略)彼は若い頃、私の祖父、書家だった岡本可亭の門弟だった。京都から書家になろうと上京して来て、京橋の祖父の家に内弟子として住み込んだ。(略)私の父の一平とは同世代でもあり、互いに親しく暮らしていた。だから父母の結婚前後のいきさつもよく知っている。」

 太郎の記憶に初めて登場する魯山人は、星岡茶寮での壮行会のことであった。

「昭和四年、ちょうど十八歳の時、両親とともにヨーロッパに旅立つ直前、彼のやっていた星岡茶寮に一家で招かれた。心のこもった送別会だった。(略)丁寧で行き届いた応対、こまやかなお料理の味とともに印象深かった。」

 また、魯山人との関係を、次のように述懐している。

「三代のインネンだからどっちも遠慮がない。はたで気をもむほどぼんぼんと毒舌を投げかわし、やりあう。そのくせ(略)銀座あたりに誘って、嬉しそうに御馳走してくれたり、大船の家に招かれたこともある。私にはいつも変らず優しい身内のような人だった。」

 魯山人一流の毒舌の犠牲となり、不愉快な思いをした人びとは多かったであろうが、その魯山人と面と向かい合って毒舌を交し合い、それでいて信頼関係が崩れることなく、親しい関係を保てたのは、太郎ぐらいのものであったのではなかろうか。

 太郎は対談の中で、魯山人のことを気遣ってもいる

「とても同情しちゃうんだ。おやじとかおい、さんの関係で(略)あなたとつき合ってみるととてもよきおやじだし(略)おれのおやじ、おじいさんの関係で思ってしまうんだが。(略)だけれども純粋だよ。あなたはほんとうを言っている。うそを言わない男だもの。その意味で世の中みんな誤解している。」

 これに対し、魯山人は太郎に次のように応えている。

「買いかぶるからそういう同情が出る。」「(略)好々爺に過ぎるというのか。」「(略)おれはおじいさんの関係は多少残っていますよ」「(略)世の中がそういうものだと知っているんだ。そうくよくよ心配せんでもよろしい。(略)なんぼ言うてもオシツコさしてもらったヤツがこんなことになったという先入観があるから、かわいさがありますよ。」

 戦中戦後の混乱期を経て、太郎が魯山人との接点を持つようになったのは、記録の上では、昭和28年(1953)12月、雑誌『淡交』企画の座談会での席上のころからである。この座談会の出席者は太郎のほか、北大路魯山人、勅使河原蒼風、棟方志功、そして司会は青山二郎であった。

 また、太郎は1954年4月1日、北鎌倉山崎の魯山人邸を訪問している。もっとも、このときは魯山人邸の離れ「夢境」山口淑子夫人(当時)と逗留中であった彫刻家イサム・ノグチ(1904−1988)を訪問することが目的だったようで、その様子を伝えるスナップ写真が川崎市岡本太郎美術館に保管されているものの、どのカットにも魯山人の姿は写されていない

 というのも同年4月5日から魯山人はアメリカ、ヨーロッパ各地を旅行しており、太郎が魯山人邸を訪問した4月1日には、既に主は留守だったようである。 ちなみに、ノグチと太郎がはじめて会ったのは昭和25年(1950)5月、初来日したノグチを囲んで日本アヴァンギャルド美術家クラブが主催し、東中野のレストラン「モナミ」で約40名の会員を集めて開かれた「イサム・ノグチ歓迎会」でのことであった。太郎とノグチとはフランス語を介して話がはずんだという。さらに、昭和26年(1951)12月に2度目の来日を果たしたノグチは、翌27年(1952)9月、神奈川県立近代美術館で「イサム・ノグチ展」を開催するが、太郎は魯山人邸訪問を兼ねてこの展覧会を見ている。

  

 これに対し、ノグチは同年10月に大阪の高島屋で開催された太郎の個展を山口淑子夫人と共に訪問した。

 

 昭和30年(1955)4月5日にほ、淡交社の企画による「実験茶会」を東京青山のアトリエで、太郎は亭主として、魯山人等を招いて催している。その案内状を、太郎は揮毫(きごう・筆をふるって字や絵をかくこと)でしたためたのであるが、この書状を見て魯山人は太郎の書を絶賛している。

 続いて、同年9日14日には、静岡県網代温泉で催された「伊勢海老を食べる会」で、再度、太郎と魯山人は接触することとなる。この集まりは、そもそも内山雨海・書家(1907-19830)らによって企画され伊勢海老漁解禁となる9日15日の前夜祭として開催された。参加者は、魯山人と太郎、内山雨海の他に、伊東深水(日本画家、1898−1972)、宮尾しげを(画家、1902−1982)、尾崎一雄(作家、1899−1983)、前田雀郎(川柳、1897ー1960)、水戸光子(女優、1919−1981)、辻輝子(陶芸家、1920生まれ)、一条美恵子(愛犬家)、山品賢治(建築家)、河野雪川(彫刻家)であった。午後10時頃から、クイズを楽しみ、要は盛り上がって、太郎は片肌を脱いで包丁を握り伊勢海老を料理すれば、水戸光子はそのかたわらでワサビを下ろしているといったハシャギ具合で、夜中のう時頃まで、参加者全員、句の伊勢海老に舌鼓を打って楽しんだ。この模様は、ラジオ東京(現TBSラジオ)によって収録され、同年9月17日午前8:00から15分番組「伊勢海老受難記」として放送された。

 このときの魯山人と太郎の様子を辻輝子は次のように記している。

 「伊勢海老を食べる会』で魯山人先生にひけをとらず迫力のあった人・・・それが、岡本太郎さんです。だいたい二人が会った瞬間から、すさまじい言葉のやりとりで、なにしろ魯山人先生が太郎さんのことを頭ごなしに子供扱いするのです。(中略)『オレがいなかったら、オマエなんかこの世に生を受けなかったんだよ』と。一方、太郎さんもそんなこといわれて黙っていられるわけがありません。先生をばかよばわりして反撃する。いやはやもう、大変な騒ぎでした。」

 ところで、辻輝子は昭和16年(1941)、東京世田谷若林に開窯し、女流陶芸家の草分けとして一貫した創作活動を展開している。魯山人と辻とは昭和29年(1954)頃から親子のように交流し、辻にとって魯山人は最も影響を受けた人物の一人となった。そんな辻とは太郎も親しく、初期の陶芸作品である《笑い》(1952)《スモーキング・セット》(1953)、《犬の植木鉢≫(cat.no.86)などは、辻の窯で制作された。また、上述した「実験茶会」に際して、太郎が茶碗を制作したのも辻の工房においてのことであった

 昭和52年(1937)12月、雑誌「淡交』が、再度、企画した座談会で太郎と魯山人は再び顔合わせすることとなる註う1)。

 その後、魯山人と太郎との接点は、記録上は確認できない。ただし、2005年4月に急逝した岡本敏子氏が、「何度か、魯山人から招待されて、太郎さんと一緒にごちそうになった」と証言していたことは興味深い。それ以外のエピソードを聴取して記録できなかったことは誠に悔やまれる。ただ、魯山人にとって太郎は、自分の子供のようにかわいい存在だったのであろう。そして、両者の交流は、昭和う4年(1959)12月、魯山人が76年にわたる数奇な運命の生涯に幕を下ろすまで続けられたのである。

▶8.岡本太郎と陶芸

 筆者は魯山人の陶芸観について考察したことがある。そこでは、「魯山人の陶芸理念が、偉大なる古典作品を範としながらも、これに束縛されることのない、自由闊達の境地で、自然美を目指して進められた『雅美』にあり、作品に於いては、あくまで食器を作ることで、日常生活の美化を目的として行なわれた」と考察した。

                                      ところで、太郎の陶芸観は如何なるものであったのだろうか。岡本太郎による本格的陶芸作品の制作は、昭和27年(1952)のオブジェ的作品《顔》(上図)からである。これは、長野県戸倉のスポーツランドのためのモニュメント《動物》(1959年12月)以降、本格的に開始される彫刻作品の制作に先行するものであった。1952年、地下鉄日本橋駅に、壁画<創生>をモザイク・タイルで制作するに際し、太郎は常滑の製陶工場に逗留した

 この時に制作されたのが《顔≫である。

 昭和26年(1951)年、太郎は東京国立博物館で見た縄文土器から受けた衝撃を「四次元との対話一紙文土器論」として『みづゑ』に発表しており、縄文土器の持つ「いやったらしい美しさ」、「縄文的」なるものへの深い興味と探求を強く意識し始めていた。このことこそが、太郎に、彫刻に先行して陶芸に着手させた原因であったのではなかろうか。この辺りに、太郎による陶芸作品の独自性があるように思われる。

 通例、陶芸を主たる表現手段とする作家の重要な創作テーマとして「土との飽くなき対話」あるいは「焼成による昇華」があるのに対して、陶芸を主たる表現手段としない作家の陶芸作品のテーマは、あくまで自己の内的宇宙にめばえた芸術意欲の表出であり、その手段として土が妥当と判断されたために陶芸作品が制作されることが多い。一方、太郎の場合は、縄文土器から受けた衝撃そのもの、土そのもののもつ超自然的な力ヘの興味こそが陶芸の重要なテーマであったのであり、陶芸家のそれに近いのである。この辺りに、太郎の陶芸を理解する手がかりがあるように思われる。

 一方、陶土による作品を多く残した彫刻家のイサム・ノグチも、1950年に陶芸作品を手がけるようになり、陶芸家に近いテーマを大切にした作家であるが、「火の洗礼」を受ける芸術としての土の仕事が、「火」の魔術によって人間臭さを払い落とし、本質的に象徴化の傾向を倍加することに興味を抱いていた(イサム・ノグチ『小自叙伝』)において、太郎とは位相をやや異にしている

 

 ところで、《顔》(1952年10月初出品)が、前衛陶芸集団・走泥社の主宰者であった八木一夫が1954年12月に東京フォルム画廊においてオブジェ作品《ザムザ氏の散歩》を発表するよりも早く、制作され発表されていることは注目に値する。この頃、八木一夫は上京の度に太郎と会う機会があり、親しく交流した。両者の友好関係は生涯にわたって続けられたという。

 また、1970年代後半に制作された《風神≫(上図右)《歓喜》(下左・右)などは、彫刻作品の制作を経て得られたモチーフを用いて、土の持つ超自然的な力と、施柚して焼成することによって得られる象徴性を、太郎のいう「縄文的」なものとして具現した作例といえよう。

 1980年代の《踊り≫(下左図)《むすめ≫(下中央図) <ひらく肖像》(下左図)などは、土、すなわち大地から湧き出た妖精とも解されるものたちの様をユーモラスに表出した作例である。

 以上概観した通り、太郎の陶芸観は絶文土器に触発されて生まれたものと考えられる。太郎の陶芸が、縄文土器に見るような土着的な「いやったらしい美しさ」あるいは「呪術的」で「超自然的」な力を理想として展開されたことは、魯山人の陶芸が自然美を理想として「雅美」を目指して展開されたことと好対照を成すものといえよう。

▶9.岡本太郎と黒い線

 昭和30年(1955)4月3日、東京青山の岡本太郎邸で開かれた「実験茶会」のために、太郎が揮毫(きごう・(筆をふるって)字や絵をかくこと)でしたためた案内状の字を北大路魯山人が絶賛したことは既に述べた。太郎は旧来の書法に拘泥しない、独創的な書を多く残した。書への想いを、太郎は次のように述べている。

「真白な紙の上に、黒々と線を走らせる。そこになまなましく人間の生命感が躍動する。『書』には、絵を描くのとはまた違ったよろこびがある。だから私はよく、筆を持つ。絵だか字だかわからないような字が、躍り出る。字は誰でも書く。書けるものだ。書になっていようが、いなかろうが、かまわない。平気で、無条件に己をぶつけ、線を引いてみたらいい。筆と書、あるいは無限の彩りで。」

 

 太郎が意識して本格的に書をものすようになるのは、1970年代後半以降のことである。《夢>(上図右)や《挑む》(上図左)は代表的な作品である。また、太郎は、纂書体とも隷書体とも異なる独自の書を多数描き『遊ぶ字』として上梓(じょうし・図書を出版すること)してもいる。

 しかしながら、太郎が書のような黒い線を描いたのは、この頃に始まったことではなかった。太郎と黒い線とのかかわりを考察する際、すぐに想起されるのは、1960年以降、太郎の画風が変化し、書あるいは梵字に似た象徴的なモチーフがカンヴァスに描かれるようになった頃のことである。この変遷の要因として、太郎が、1950年代後半から美術雑誌『芸術新潮』の連載のために日本各地を巡って、縄文土器に見出した日本人の根源的な生命観・原生日本を探るための取材旅行を行ったことが挙げられることが多い。一方、取材旅行は一つのきっかけに過ぎす太郎と黒い線との関係は初期の作品から見られるものであり、太郎に本来的に在ったものが前面に出てきただけであることを早くから指摘していた瀧口修造の見解は卓見であった註59)。この評論は、1968年に美術出版社から刊行された画集『岡本太郎』にも再録されており、太郎自身も正鵠(せいこく)を射(い)た[物事の急所を正確につく]評論と考えていたのであろう。この頃、太郎は「はじめて絵かきになったような気がして、どんどん絵が描けるんだ」と語っていたという。この評論の中で瀧口は太郎の絵を次のように評している。

 「こんどの作品群を見ていると、たしかにカリグラフィツクに変わったとい  えないことはない。が、それも考えてみれば以前の作品、たとえば《森の捉》のような極度にテーマ的な野心作にさえ、形をうごかしていた動勢に感じられたものではなかろうか。岡本太郎のフォルムの根底には、この書というよりも手蹟(しゅせき・筆跡)の根源にあるようなものがはじめからあったのだと思う。(中略)私はむしろいまの作品に端的に出てきたものが、過去の作品にもすでにあったものであり、あの黒い骨組みであるデッサンが 過去の作品にもあり、そのなかにあるⅩをもっとあかるみに出す作用をするであろうと思いたいのである。」

そこで、「黒い線」に注目しながら、太郎の絵画作品を概観してみたい。《傷ましき腕》は1956年、パリで抽象芸術運動に参加しながらも抽象的な表現に限界を感じ、より現実に迫る表現を模索していた時期に制作された。

大きく描かれた赤いリボン。皮膚を切り開かれ、黒く細い紐で縛られ、握り締められた右腕。手の先で鞭のように翻る黒い線が特徴的に用いられている。太郎の絵画に「黒い線」が特徴的に描くかれたのは、初期からであったことを本作品は示している。

 《作家》(上図)には、机に向かう人物が大きくデフォルメされて描かれている。本作品が制作された1948年、父一平が死去している。そのため、ここに描かれた作家は−一平であり、漫画家であった父への思いから、太郎は本作品を、黒の輪郭線を用いて、平面的で明快な漫画風に描いたとする説もある。一平の描法について、清水昆は追悼文の目頭で「先生の好んで用いられた金釘をつないだような描法は、その源を南画に発する」と表現している。《作家》にも「金釘をつないだような」黒の輪郭線が不自然なくらい使用されており、父一平の筆法を意識して描かれたことがうかがわれる。太郎にとって「黒い線」がどのような意味を持つものであったのかを考える上で、興味深い作品である。

 《森の捉》は、漫画的な表現でユーモラスに描かれた作品である。どのモチーフも輪郭線が用いられることで、背景に溶け込まずこ浮き出して見えるように描かれている。かつて、美術史家のハインリヒ・ヴュルフリン(1864−1945)は、『美術史の基礎概念』の中で「線的なものと絵画的なもの」とを対比して、「縁取りが強い発言力をもっている間は、形は移動することができず、現象がいわば固定している」と述べた。明確な輪郭線で構成された本作品はダイナミックな動作の、静止した1コマを見るような線的な作品といえよう。

 

 《青空≫(上図左)は、1952年に発生した「血のメーデー」事件をテーマとした作品である。皇居前広場に入り込んだデモ隊に当時の警察予備隊(後の保安隊)が発砲した事件を、太郎は2年を費やして描き上げた。ヘルメットや銃弾、天空から振り下ろされたような制服の袖、そして赤い布の翻った黄色い裏面には、犠牲となった市民を象徴して、純粋な眼差しが描かれている。右から左へ、上から下へと弧を描く黒い線の構成は、騒乱の激しさと振り下ろされた権力を思わせる

 ここで、本作品の習作を見てみよう。習作①(挿図2)には、画面上部に三角翼の戦闘機が描かれている。これにより本作品に描かれている青い鋭角三角形が三角翼の戦闘機を意図して描かれたことがわかる。空と戦闘機のディペイズマンであり、ゆえに本作品は《青空≫と命名されたのであろう。三角翼の戦闘機が、イギリスで開発中であることを、1952年8月29日付朝日新聞夕刊は第1面に挿図付でAP=共同通信社配信により報道している。また1955年1月17目付朝日新聞夕刊は第4面で「空とぶ“三角”世界で盛んにじっけん“三角翼飛行機”の時代へ」との見出しと共に各国で開発中の三角翼戦闘機4点の写真を掲載して報道している。この記事の中の4つの写真のうちの1つが、習作に描かれた戦闘機に、向き・角度・形態ともに近似している。このことは、事件発生後、太郎が2年をかけて1954年に本作品を完成させたことと矛盾しない。これにより、本作品の制作に当たって太郎は、作品完成までの2年間に新聞等によって得た知識で、造形上必要であると判断したモチーフも描き込んだことが理解されるのである。

 ところで、本作品の画面右上(挿図3)と左上(挿図6)に黒い紐のように描かれている人物のようなモチーフに着目してみよう。習作㈪(挿図3)は、これらのモチーフの習作であるが、習作②(挿図4)を併せてみると、これら黒い紐のようなモチーフが、平仮名をモチーフとした絵文字であることが推察される。習作②は、左から「あ」「ん」「ほ」と描かれているようでも、右から「ほ」「あ」「ん」と描かれているようでもある。「安保」ということば自体は、1952年3月21日付朝日新聞夕刊の第1面の中見出しに「日米安保条約も批准」の記述があることから、かなり早くから流布していた略語であることがわかる。一方、「ほ」「あ」「ん」とは、「保安」のことで、1952年10月15日に警察予備隊を改編して組織された、自衛隊の前身である保安隊のことと解される。保安隊を組織する保安庁の成立にあたっては、吉田茂内閣の下、国会は紛糾し、当時の新聞の第一面の大見出しには、連日「保安」の文字が躍っていた。上述した通り、太郎が三角翼戦闘機のモチーフを新聞記事から得た可能性が高いことを勘案すると、時事性が反映されていることから、「ほ」「あ」「ん」と描かれていると解する方がふさわしいように思われる。したがって、《青空》に黒い紐のように描かれている人物のモチーフは、「ほ」「あ」「ん」の絵文字であり、事件発生当時の警察予備隊で、後の保安隊が、デモ隊をなしていた名も無き民衆に国家権力を振り下ろした事実を意味していることになるのである。

 《赤のイコン》(上図)には、梵字に似た抽象的なモチーフが激しい筆致で描かれている。中心のモチーフである黒い線を際立たせるため、絵具の上には、カシューと呼ばれる漆に似た光沢のある塗料が施されている

 これまで太郎の絵画作品を初期から概観してきた通り、画中に黒々とうごめくように描かれた太い線は、《傷ましき腕》の頃から、あるいは本来的に太郎の内面に存在したものであり、それが端的に描かれるようになったものと考えるべきであろう。

 《装える戦士》(上図)の黒く太い線を見るとき、太郎が1952年に縄文土器の造形の緻密さに衝撃を受け、その印象を論文「四次元との対話一縄文土器論」として『みづゑ』誌上に発表したことが想起されてならない。太郎はその中で縄文土器の印象を「激しく追いかぶさり重なり合って、隆起し、下降し、旋回する隆線紋。これでもかこれでもかと執拗に迫る緊張感。しかも純粋に透った神経の鋭割と描写している。

 1982年に制作された彫刻《縄文人》(上図)には、壷形の胴体を持つ人物に、縄文土器の隆線紋のような帯が巡らされている《装える戦士》の黒い線の動きと《縄文人〉の帯の配置とは、絵画と彫刻との違いはあれ、近似しているように思われる。「線的な絵画」と彫刻とを、太郎が同じ意識で制作したと考えられる興味深い作品である。

 《予感》(cat.no.74)には、簑書とも、隷書とも、象形文字とも異なる象徴的な形が描かれている。面からなる大画面に、直感的、抽象的なイメージが、荒々しい筆致で躍るように描かれている。赤・青・黄色の原色は、輪郭線としての黒の呪縛から解き放たれたかのようであり、その結果、渾沌とした世界観を現出させている。

 《明日の神話》(上図)画面中央には原爆で炸裂する人体が象徴的に描かれ、同右には1954年にビキニ環礁の水爆実験に巻き込まれ被爆したマグロ漁船・第五福竜丸が擬人的に描かれ、そして同左には平安な世界で憩う人々の姿が抽象的に描かれている。画面中央の炸裂する人体を中心として、人類が過ぎ来たり、過ぎ去って行く世界を絵巻物風に描いているようでもある。太郎はこの作品について、次のように述べている。「原爆が爆発し、世界は混乱するが、人間はその災い、運命を乗り越え未来を切り開いて行くといった気持ちを表現した」。画面中央のガイコツは輪郭線で縁取られることで静止した瞬間としての今が強調されて表され、画面を横切るように描かれている黒い帯状の線が、人類の罪業と未来への希望を時間的推移の中で意識されるように構成されている

 概観してきた通り、太郎の絵画において「黒い線」は、一貫して描かれている重要な要素であった。それは、本人に宿るエネルギーのようなもの、縄文的なものを象徴しているようでもある。あるいは、密教が説くところのクンダリニー(とぐろを巻くもの)の呪術的な力が形象化したようですらあるのである。

■まとめ

 太郎の絵画に見る「黒い線」の系譜を遡ると、祖父可亭の顔真卿流の書に端を発し、魯山人に派生し、一平の漫画の描線を経て、太郎にもたらされた天与のもののように思われる。それは、例えば、かの子の小説の普遍的テーマであった「家霊」が形象化したものであったのかもしれない。一平は、随筆「父」の中で、「家霊」について、次のように述べている。

 「女史[筆者註、かの子のこと]の短篇に『家霊』といふのがある。他に女史の小説に、この種のものを扱ったものが多い。ここに一つの血統といふものがあれば、それ相当に持つところの、価値と力がある筈である。滑らかにそれが搬出されない場合、家門の人間に歪曲凹凸を生ずるこしかし家霊は手を変へ品を代へ、やはり人によってつひに表現を見出す。家族然り、民族然り、今日時局を前にして日本歴史を顧りみるとき、いかに潜みし『民族霊』とでもいふべきものの、質量が大きかったかに気付く。」太郎の曽祖父安五郎以来の命題であった家の再興は、「黒い線」となって受け継がれ、太郎に至って達成されたのであろう。そして、かの子にいわゆる「家霊」は、ここに至って、見事に成仏したということになるのではなかろうか。

 上述した一平の「家霊」への理解を踏まえれば、魯山人も北大路家の家霊に突き動かされ自己を表出した芸術家なのであろう。であればこそ、魯山人は、かの子の小説「食魔」のモデルとなり得たのである。そして、可亭も、一平も、かの子も、太郎も岡本家の家霊に突き動かされて自己を表出した芸術一家なのであろう。魯山人と岡本家の人びととの交流は、家霊に突き動かされて自己を表出せんとした者同士の、婆婆での憩いのひと時であったと理解されてくるのである。