パリ留学までの太郎史

000■孤独な少年時代

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▶慶応幼稚舎時代の思い出

 幼稚舎の入学試験を受けたのは、大正七年の春だ。

 家族同様だった恒松安夫(後には慶応の野球部長などもしたが、この時は予科の学生だった)につれられて、三田通りで電車をおりた。その頃は夢のようにハイカラに見えた赤煉瓦の図書館の横を通って、構内をつっきると、まただらだら坂をおりる。その左側に幼稚舎の木造の建て物があった。黄色っぼいペンキ塗りの二階建てで、今考えればパッとしないボロ校舎だった。

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 教員室の真中に石炭ストーブがあり、そのそばで、まことに温厚な感じの森常樹舎長の膝の上に抱きあげられた。先生はチョッキのポケットから、当時の紳士のたしなみである懐中時計をとり出した。大型の、ごついダーバンだ。ピカピカの銀の鎖をながくのばして、私の頭の左の方にもっていった。にこにこして、「聞えますか?」 私がうなづくと、だんだん時計を耳から遠くもって行く。「聞えなくなったら、そう言うんだよ。」

 子供心に、こんなの試験かなあ、といぶかしく思った。もし聞えないのに聞こえると言ってしまったら、ウソをついたことになる、と心配だ。また、あんまり早く聞えなくなっちやうと困る、と思ったり……。だんだん小さい針音が遠ざかる。「伺えません。」と言うと、にこにこして「ああそうか、じや、こちら」

 今度は右側で同じことをやった。そして頭をなでて、「ああいい子だ。」と膝からおろしてくれた。それでOKだったのだ。今のように、家中が眼の色かえて大騒ぎしている時代から見たら、夢のような話だ。そこで幼稚舎に入った。私ははじめから寄宿舎に入れられた。関西とか、地方の子ばかり私の家は当時、白金にあったが、そんな眼と鼻の先に家があるような子などはいなかった。家では手に負えない暴れん坊だったので、つまり、隔離されてしまったわけだ。寄宿舎は構内にあった。その時分、幼稚舎の建物が三つ平行に並んで、その間に表・中・真の運動場があった。一番裏側の建物が寄宿舎だ。綱町の道路側には煉瓦塀が立っているが、一方は大学に向って、稲荷山とよばれる急な斜面だ。運動場よりも、この稲荷山が私たちの遊び場だった。

 春の陽ざしを受けて蝶が舞い、虻が群れ飛んでいる。ブーンと眠気をさそうような、何かものうい、何ともいえず満ちたりた気分だった。ここには巨大な古木がかなりあった。根っこの方が高く幾股にもわかれて、洞のようにえぐれている。そ‥にすっぼり身体をはめ:んで坐ると、とってもいい気持だ。そこで私たちはここを「ラクチン山」と名づけて、寝床にでもひっくりかえるように、よっかかって遊んだ。仲間でもガキ大将級が、まず坐る権利をもっている。ちやんとルールがあったものだ。

 寄宿舎生はその頃、百人以上いたのではないだろうか。二階が上級生、下が下級生だ。ここでの六年間の生活の思い出は、まことに濃い彩りにみちている。学校の構内に住んでいるのに、私は毎朝、遅刻した。とにかく学校はじまって以来の変り者だと言われた。たとえば靴は、幼稚舎生は当時の小学生に珍しい、編上靴なのだが、紐を結んだことがない。どうせまた解かなきやいけないのに、何故結ぶのか、と思ってし事つのだ。上衣のボタンもはめない。だって、どうせまた外すんだろう。ランドセルの蓋も、同じ理由で、あけっばなし。両方の紐を肩に通すのほ意味ない、という訳で片方だけを肩に引っかけて。だから私の歩くときはバタバタ、バクバク、ガタガタと大変なにぎやかさだ。・・・それで必ず遅刻して、この鳴物入りで教室に入ってくるのだから、まったく迷惑な生徒だったに違いない。幼稚舎六年間この状態だったのだから、驚くべきだ。どうして遅れるかというと、またそれには理由がある。起きるのは、誰よりも早く眼をさまし、起床の合図を待ちかねていたものだが、出かけようとすると、必ず何か見当らないのだ。たとえば靴下がない、靴下止め、上履き、毎朝きっとなくしものがある。どこにほうり出して来たのか、まったく覚えがない。今でもそんな所があって、身のまわりに無頓着、小取りまわしがきかないので、とほうにくれてしまうのだが。

 寄宿舎にはその頃、たしか、おしゅんさん、おゆきさん、おむらさんという、三人の中年女性がいて面倒をみてくれていた。今から考えると奇妙だが、彼女らを私たちは「下女」と呼んでいた。後に、たしか小林澄兄さんが舎長になられてから、「ばあや」とよぷように改められたが。私がうろうろしていると、彼女らの誰かが「またなくしたの」と呆れたように小言をいいながら、一緒になって探してくれたり、どうしても見つからないと、何とかやりくりして間に合わせてくれた。だが百人近くの子の世話をするのだから、私にばかり構っている訳にはいかない。とにかく一人で何人分かの世話を焼かせた。そうしているうちに、どうしても授業に遅れてしまうのだ。

 そのことで一番大きな、そして辛く不幸だった思い出は、はじめての運一動会の時だった。あの頃、運動会というのは一年に一回のすばらしい祭、よろこびの日であった。綱町のグランドで、大学、専門部、普通部、商工、幼稚舎まで、塾全部が集って行われた。しかも運動会用のユニフォームを着るのだ。ちょうど野球の選手そっくりのスタイルで、胸の所にKEIOとマークが入っている。大学の野球選手は子供にとっては神様みたいなもの。従って、それに見まがうユニフォームが嬉しくて、みんなハシャイだ。いよいよ運動会の朝、張り切ってとび出そうとすると、・・・私のバンドが見つからないのだ。まことに例の如くである。ばあや達もその日は忙しいから、とりあってくれない。仕方がないから、ズボンを手でもち上げて、ひっばりながら外に出た。手を放すと、落ちてしまう。その日は通学生は、親達の心づかいで珍しいお弁当や、おいしいお菓子などを持って来ている。当時、サンドイッチなんて大変ハイカラだった。チョコレートも上等なお菓子だった。みんなお母さんやお姉さんと一緒に、そんなのを食べているのだが、私の両親は無頓着なので、見に来てもくれないし、勿論届けものどころではない私には何もない。ただ寄宿舎であてがわれた、味気ない紙袋だけ持って、アンパンか何かかじって、我慢しているのに、その上ズボンを押えていなければならないのだ。

 私はひどく孤独だった。友達が、私にもお菓子をくれるのだが、片っ方の手に配給の袋をもって、ズボンを引っばり上げているのだから、お菓子を食べようとしても、はかばかしくいかない。だが、それが、バンドをつけてないせいだというよりは、もっと運命的な不如意(思うままにならないこと)のような気がした。半日、そうやって手で押えていた。いよいよ、幼稚舎一年生の徒歩競走になった。西組の私たちの駈けっこ。スタートラインについた。両手はズボンを引っぱりあげたまま。合図とともに、一せいに駈けだした。早く走ろうとすると、どうしても手を放す。するとズボンが落っこちて来て、足がひらかなくなってしまう。仕方がないから引っばり上げると、やっぱり走れないのだ。仕様がない。そのまま決勝点に駈けこんだ。ビリから二番目だった。その私よりまだ後から走って来た子がいたのだから驚く。畠中一郎君という、小さいきやしやな子で、やや発育不全の気味もあったのか、普通部のころ若死してしまった。残酷な思い出。生れてはじめて、自分がみんなとくらべられ、等級づけられたのだ。私の心に、この時、小さな歯型が刻みつけられた。(「仔馬」慶應義塾幼稚舎創立九十周年記念一九六四年慶應義塾幼稚舎刊より)

 一般的な家庭の躾というものをほとんど受けずに育った太郎は、環境にまったく馴染めず、自分を貫き通す性格は、教師ともぶつかった。太郎は、わんぱくで、大人も手を焼くところがあったが、ただ反抗したわけではない。教師のことは尊敬していたが、その尊敬する教師が、嘘をついたり間違ったことをしたりするのが許せなかったのだ。相手が誰であれ、自分の信念を貫いた。

 幾度の転校の後、かの子の希望もあり、慶應義塾幼稚舎に入学した。裕福な家庭で育った子どもたちが多く通う慶應の幼稚舎は、分別のある子どもたちばかり、家庭環境の影響で、もの知らずだった太郎は、子どもたちだけでなく教師からも変わり者扱いを受けていた。

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 後に太郎はの状況を「今にして思えば人気者で愛されていた」と語っているが、当時の太郎にとって、周りの人間とのすれ違いほ、言いようのない孤独感をもたらし、その後ある思いへと変わっていく。

 小学校二年の頃、激しい虚無感が、死への憧れに変わっていき、自殺が美しい行為のように空想しはじめる。更にそれが、死への恐怖感へと変わり、日々自分が殺される妄想を抱きながらおびえ続けた。誰にも理解されない事からくる孤独感は彼の心を蝕んだ。

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 周囲に理解されることに絶望した太郎は、太郎14歳に描いた水彩画「敗惨の歎き」1925年同級生と謄写版で発行した同人誌に掲載された作品で、春のボートレースの対抗試合に負けた悔しさが表現されている。中学時代、わざとおどけて自分を変人あつかいさせることにより、あえて自分を理解されないようにした。そうすることで自分の世界を守った。そして、母からの教えもある、芸術に殉じ、その他の俗事とは関わりをもたない世界にいることを望んだのである。しかし、その世界も崩れ始める。

 太郎は、絵を描くことが好きだった。しかし、芸術の世界で生きていくことを決め、プロの世界へと進む、つまり仕事として描くことを考えると何を描いて良いのか分からなくなり、それが次第に苦痛へと変わっていった。何を描くかという芸術表現の根本への苦悩にともない芸術のみの世界に生きる太郎は、唯一残った世界ですら自分は無力であると感じ、不安は大きくなった。

 言いようのない孤独とそこから逃れるために殉じた、芸術の世界で、何もできないまま、迷いながらも美術学校へと進む。その半年後、本格的に絵を学ぶならフランスでと、美術学校を中退してパリヘと渡った。

 (おおたか・おさむ 川崎市岡本太郎美術館)

■1930年代の太郎

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▶序奏・・・戦いの始まり

 十人歳の太郎は、当時世界の芸術の中心地であったパリに渡る。パリにいた日本人の絵描きたちとは距離を置き、まず無条件で土地に溶け込み、絶対存在として生きる決意をした太郎は、そこで抽象芸術と直面したのだった。

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  一九二九年(18歳・昭和4年)、父・一平が朝日新聞社からロンドン軍縮会議特派員として派遣されることとなった。これを機に、太郎は入学したばかりの東京美術学校を中退、岡本一家は渡欧し一九三〇年一月(19歳・昭和5年)、パリヘ到着。家族と別れた彼は、以後、一九四〇年(29歳・昭和15年)、ドイツ軍がパリに侵攻して最後の引き揚げ船で帰国するまで、約十年間にわたって滞在することとなる。

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 『傷ましき腕』は、パリ時代、25歳の時に描かれた岡本太郎の代表作。モデルは「岡本太郎自身」という説が有力です。この作品で、象徴的に描かれる「リボン」は、岡本太郎がパリ時代に繰り返し描いたモチーフ。一体、このリボンは何を表しているのでしょうか。
「リボン」の解釈は諸説ありますが、ここではこの真っ赤なリボンを、颯爽とした生命力、何かに立ち向かう強い意思を象徴するものと解釈しましょう。痛々しく巻きつく黒い紐の痛みに耐える姿は、人間の根源的な孤独や悲しみ、怒り、苦しみを象徴しています。しかし、この痛みから逃げようとはせず、むしろ、この痛みを自らのものとして受け入れようとしています。ここには、「痛み」「苦しみ」「孤独」という自らが抱える「負」の存在を見て見ぬふりするのではなく、それを真正面から見据え、自覚し、受け入れることによってこそ、逆に生まれてくる鮮烈な生命力が満ち溢れています。この勇ましい生命力の象徴となるのが、岡本太郎が若き日に繰り返し描いた真っ赤なリボンなのです。「逃げない、はればれと立ち向かう」という彼のモットーは、この作品に体現されています。

 明治以来、多くの画家がパリに「留学」した。しかし、そのほとんどは美術学校を卒業した後、つてを頼って、日本人同士が群れていたような「留学」であり、十八歳でいわば「放り出された」ような太郎の場合とは、まったく事情が異なる。唯一藤田嗣治のみは、独力でパリ画壇における確固たる地位を築いていたが、太郎とすれ違うように帰国した。太郎が藤田をどう見ていたのか、これは今後の大きな研究課題である。

 太郎は、寄宿舎付きの学校に入って一からフランス語を学び、さらにパリ大学のマルセル・モースのもとで民族学を学ぶ。経済的には恵まれ、充分な仕送りもされていただろうが、パリにおける孤独な闘いの日々は想像を絶する。しかし、そんな孤独な運命を切り開いていった太郎は、抽象芸術運動の協会「アブストラクシオン・クレアシオン」の会員に迎えられ、また一九三六年の「傷ましき腕」がアンドレ・ブルトンによって第一回国際シュルレアリスム展に招待出品されたのを機に、マックス・エルンスト、マン・レイをはじめとするシュルレアリスムの作家たち、さらには過激な思想家、ジョルジュ・バタイユらとの濃密な交際を深めていくのである。

■パリ留学時代の青春 

                          楠本亜紀

▶パリ留学

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 神戸港出帆の箱根丸にて。一平、かの子、太郎1929年神戸に向かう東京駅では、新聞漫画で一世を風靡していた一平、歌人・仏教研究家のかの子、今後に期待される美術家の太郎の見送りに人垣ができたほどだったという。当時岡本家に寄宿していた恒松安夫、新田亀三も同行する。欧州航路船箱根丸は途中で上海、香i巷、シンガポール、ペナン、コロンボ、スエズ、ナポリの港に立ち寄り、ピラミッドやポンペイ遺跡などの見物をして約1カ月をかけてマルセイユに到着した。


 1929年、岡本太郎は入学したばかりの東京美術学校(現・東京芸術大学美術学部)一を半年余りで中退しパリに向けて出立した朝日新聞特派員として.ロンドン軍縮会議に派遣されることになった父一平と母かの子に随伴してのことである。一平は当時売れっ子漫画家で、同年売り出された『一平全集』全十巻はすでに五万セットの予約が入っているほどだった。

 大勢に見送られて東京駅をたち、神戸港から出帆して約一カ月後にパリに到着。観光もそこそこに、一平はかの子とともにイギリスに移る太郎は一人パリに残り、パリ左岸はカルチェ・ラタンの賄(まかな)いつきの下宿屋に逗留することになった。 若葉の萌えでる春、パリの暮らしにも慣れてきた太郎にも絵を描きたい欲望が芽生えはじめる。まずは芸術家の町モンパルナスにあるホテルに引っ越し、しばらくはフランス語を学びながら、美術学校アカデミー・ランソンに通っていた秋には友人とともにオランダ、ベルギーにゴッホやレンブラントなどの作品を見学する旅に出かける。だが、フランスの美術館も含めたくさんの名品を見て回るものの、ヨーロッパの絵画の伝統にも、当時パリで流行していたフォーヴイズムの様式にも違和感をおぼえ、自分が描くべき絵の方向が定まらなくなっていた。

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 絵が思うように描けないスランプのなか、太郎はかわりにフランスの文化教養を身につけようと、パリ郊外セーヌ県にあるリセに入学することを決断する。二十歳という年齢にもかかわらず、寄宿舎で寝食を共にしながら中学一年にあたる生徒と同じ机をならべ、半年間ほど歴史や数学、唱歌などの勉強をした。知的探究心が深まるなか、太郎は翌32年にはパリ大学ソルボンヌ校の聴講生となり、ヴィクトール・バッシュ教授のヘーゲル美学の講座を受講している。カントの純粋理性批判に傾倒し、ヨーロッパ精神の基礎を形作る弁証法の論理には大きな刺激を受けたものの、正反合の思考には割り切れないものを感じていた。「正」と「反」を保持しっつ、「合」には至らないものの可能性を太郎は見いだそう、としていた

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 初めての画集『OKAMOTO」

 1937年にパリの出版社G.L.M.社から刊行された初の画集。G.L.M.は創業者のギイ・レヴイ・マノの略で、シュルレアリスム作家の画集や詩集などを刊行している。序文は美術史家のピエール・クルチオン。33年から37年までに制作された作品14点を掲載。「空間」や「リボン」といった太郎が描いたモチーフの変遷がわかるとともに、戦災ですべて焼失してしまったパリ時代の作品を知るうえで貴重な資料となる。

▶抽象芸術の道を目指す

 一九三二年一月・21歳(昭和7年)両親が二年間のヨーロッパ遊学に終止符をうち帰路についた。太郎は永住する覚悟のもとパリに残るが、絵のほうにはまだ迷いがあった。そんなとき、思い立って出かけたラ・ポエッシー街のポール・ローザンベール画廊でピカソの作品「水差しと果物鉢と出会い、衝撃を受ける。

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 太郎は抽象芸術こそ、国境や人種、文化といった制約を超える表現手段であるということに確信をもった。突破口を見つけた太郎は、ようやく絵に精力的にとりかかった。自分独特の表現が加わってきたと思われる絵ができあがり、同年秋に開かれた新進で無審査の展覧会である第五回サロン・デ・シュール・アンデパンダン展に出品した。この処女作が批評家のテリアードに評価され、ラントランシジャン紙のアート欄展評で優れた作家の一人として名前を挙げられる快挙を遂げる。太郎は回想でその批評家がモーリスレイナルであったと記しているが、同紙の調査でテリアードであったことが判明した。また、太郎は前年に結成されたばかりの前衛芸術作家のグループで、カンディンスキー、モンドリアン、アルプらが名を連ねる「アブストラクシオン・クレアシオン協会」に参加することになり、協会が定期的に開催した展覧会への出品や、年鑑に作品を掲載するなど発表の機会を増やしていった。

 だが、太郎は次第に抽象表現にも限界をおぼえほじめる。そして、抽象と具象のせめぎあいのなかから生まれる具体的なモノや、生命のたえまない動きを作品のなかに取り入れようと、クルト・セリグマンらと「ネオ・コンクレティスム (新具体主義)」を提唱する。三六年には代表作となる「傷ましき腕」を完成し、具象表現を受け入れない協会を脱退した。

 太郎の活動は着実に評価され、37年(26歳・昭和12年)には最初の画集『OKAMOTO』がG.L.M.社から出版されている。また、アンドレ・ブルトンからの引き合いで三人年一月に開催された国際シュルレアリスム・パリ展に出品するなど、シュルレアリストたちとの親交も深まった。しかし、太郎は審美的で閉鎖的な美術にも飽き足りなさをおぼえ、美術の領域を超えた社会や思想の方面へと乗り出していく

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ハンス・アルプ1886−1966 彫刻家、画家、詩人。

 1916年にトリスタン・ツァラらとダダを立ち上げるほか、アブストラクシオン・クレアシオンにも参加。親子ほど年の離れた太郎のことをかわいがり、パリ郊外のムードンのアトリエに招くなど親しい交流があった。太郎が戦後に執筆した「中世の庭」の論考は、日本の庭園の美しさを礼賛したアルプヘの応答の意があったと思われる。1954年(43歳・昭和29年)のベネチア・ビエンナーレヘの出品を機にアルプから受け取った刊掛こは、太郎がいまも「私たちの芸術運動の急進的な仲間だ」と記されていた。

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アンドレ・ブルトン1896−1966 詩人、シュルレアリスト。

 1924年に「シュルレアリスム第一宣言」を発表し、純粋な心のオートマティスム(自動現象)を追求した。太郎の「傷ましき腕」を見て、国際シュルレアリスム・パリ展への出品をすすめる。太郎とブルトンの付き合いは戦後も続き、太郎からの手紙がパリのアンドレ・ブルトン・アーカイブに保管されているほか、エリザ夫人没後の2003年に開かれた、ブルトン遺品の一大オークションの目毒剥こは画集『TOKAMOTO』(美術出版社・1954年)も含まれていた。

▶パリの思想家たちとの交友

ジョルジュ・バタイユ1897−1962死、エロティシズム、非・知に関する独自の論を展開し、20世紀を代表する思想家となる。太郎ははじめて会ったときのバタイユの印象を次のように記している。「重みのある身体。くぼんだ、しかし熟をおぴたトビ色の眼。だがもっとも印象的なのは彼の口、というより歯である。糸切り歯がやや前向きに生えていて、樺猛な魚の牙をおもわせる」。太郎はバタイユから発言することと行動することを学んだと語っている。

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 岡本太郎蔵書のバタイユ著「エロスの涙」 1961年に遺作として書きあげられたバタイユのエロティシズム研究の集大成。自ら集めた多数の図版とともに、人間存在の根底にあるエロティシズムについて論じている。函のメモ書きから、太郎は読売新聞に書評を寄稿したと推測される。バタイユ「蠱惑(こわく・人の心を、あやしい魅力でまどわすこと)の夜」(1957年)にも序文「ジョルジュ・バタイユの思い出」を寄せてぉり、聖社会学研究会やアツセファルの思い出について記している。

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 岡本太郎(夜)1947年(36歳・昭和22年) 後ろ手にナイフをもった少女が、枇した態度で夜の森に立ち向かっている。前には目に火花を散らし、歯をむ岡本太郎≪夜》1947年き出した木が臥化されて描かれおり、後ろの披からは骸骨が顔をのぞかせている。少女と髑髏(どくろ)のモチーフは母かの子の小説「生成流転」(1940年)の表紙にも使われており、太郎がパリ時代に体験したアッセファルの儀式から着想を得たものと思われる。太郎が花田清輝と発足させた「夜の会」は、アトリエに掛けられていたこの絵から命名された。

 1936年1月、ピカソの作品との出会いと同様の決定的な出会いがあった。太郎はマックス・エルンストに誘われ、パトリック・ワルドベルグらとグラン・ゾーギュスタン街の屋根裏で開かれた反ファシズムの革命的知識人闘争同盟「コントル・アタック(反撃)」の集会に参加する。その発言者のなかにひときわ太郎を惹き付ける人物がいた。ジョルジユ・バタイユ、ときに三十人歳であった。太郎はバタイユの演説に感銘を受け、その純粋で情熱的な全人的な存在感に圧倒される。やがて二人は知りあいになり、バタイユに協力者の一人と目されるまでになった。太郎は「コント〜・アタック」が瓦解したのちバタイユが組織した「聖社会学研究会」に参加した。‥の研究会ほ毎月定期的に書店の一角で会合をもち、バタイユを中心に、ピエール・クロソウスキー、ミシェル・レリス、ジュリアン・パンダ、ロジェ・カイヨワ、アレクサンドル・コジェーヴといった面々にょる討論が行われた。バタイユによるヘーゲルの弁証法を独自に転倒させた牽引力と反発力についての論議はのちに太郎が唱える「対極主義」に大きな影響を与えることになる。

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 また、バタイユが同じく組織した秘密結社「無頭人(アッセファル)」にも、太郎はワルドベルグからの推薦で38年(28歳・昭和13年)に参加している。新月の深夜にマルリーの森で「雷に打たれた木」の観相の儀式と供儀が行われたというこの会は、樹木崇拝の地母神信仰にも通じていた。太郎が戦後に日本での再出発をかけて描いた作品「夜」(1947年)には、樹木の前に後ろ手にナイフをもった少女が描かれており、このときの体験が色濃くうかがえるだろう。

 時には、太郎の家でワルドベルグやカミーユ・ブリエンらといった面々と夜の会合がもたれる‥ともあった。太郎が発表した内容は「道教と密教」について。パリの仲間と交わるためには、日本についての知識も同時に深めていく必要があることを、太郎は痛感する。

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上:岡本太郎「リボンの祭り」1935年(画集FoKAMOTO』より)

左:「リボンの祭り」の前で。1935年パリで制作した作品ではリボンが重要なモチーフとなっていた。空間に漂う布のようなものが次第にリボンとなって形を結び、この作品を描きあげた直後に描きはじめられた「傷ましき腕」では、少女の頭部を覆い隠す深紅のリボンが圧倒的な存在感を放っている。リボンは母かの子の暗示とも受け取られる。この作品はアブストラクシオン・クレアシオン協会の年報(No.5)に「コントルポアン」とともに掲載された。

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 バタイユに導かれて通過儀礼ともいえる体験をした太郎であるが、やがてその運動にも「権力ヘの意志」をみてとり、限界を感じる。美術界でもアブストラクシオン・クレアシオン協会を辞め、バタイユからも距離をおいた太郎は、抽象でも形而上学でもない、より具体的なモノの手触り、生命感のあふれる人間的なヴィジョンを求めていた。

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パリ・人類博物館(ミュゼ・ド・ロム)

 1937年に開催されたパリ万国博覧会を機に、民族学者のポール・リヴエがシャイヨー宮に設立した博物館。前身は1878年に設立されたトロカデロ民俗誌博物館。2006年にはコレクションの大半が新しく開館したケ・ブランリー美術館に移され、現在は先史学と自然人類学の部門に縮小されている。万博を機に博物館を建てるという構想は太郎も引き継いでいる。泉清一や梅樟忠夫らが世界中から蒐集し、大阪万博のテーマ舘に展示された資料はのちに国立民族学博物館のコレクションとなった。写真提供=ユニフォトプレス

■太陽の塔と民博のつながり(人類博物館の創設の意図していた太郎の企み)

 渋沢の死後、1964年に日本民族学会などは国立民族研究博物館の設置を政府に要望し、1965年には日本学術会議が総理大臣に国立民族学研究博物館の設置を勧告した。一方で、1970年に開催された日本万国博覧会では、岡本太郎がチーフプロデューサー・小松左京がサブ・プロデューサーを務めるテーマ館に世界中の神像や仮面、生活用品などを陳列するため、東京大学教授の泉靖一と京都大学教授の梅棹忠夫らが中心となって、世界中から資料を蒐集していた。

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 万博終了後に、政府は会場の跡地利用について、文化公園とする基本方針を打出し、その中心施設として従来から要望が高かった「国立民族学博物館」の設置が決定された。


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 岡本太郎蔵書のマルセル・モース『Manuel d’EthnograPhie』邦題「民族誌学の手引き』1947年初版 

 数多くの刺激的な論考を残しているにもかかわらず、まとまった著書はわずかしかないモースが戦後に出版した著書。自身はフィールドワークにほとんど赴くことはなかったが、教え子たちや後学のために、本書ではフィールドワークにあたっての手引きとして、観察の方法、社会形態学、身体技法、美術、経済、宗教などの現象を取り上げて説明している。太郎がどういった経緯でこの本を入手したかは明らかではない。

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 マルセル・モース1872−1950社会学者、文化人類学者。代表的な論文に「贈与論」がある。講義にはクロード・レヴィ=ストロース、ジョルジュ・バタイユ、ミシェル・レリスら数多くの知識人が参加した。太郎は1939年から出席。1975年にはモースの教え子で映像作家のジャン・ルーシュが撮影した「岡本太郎−マルセル・モースの肖像」に太郎が出演し、モースからの教えを自らの作品制作のなかで実践していることを示した。

 そんなときに出会ったのがマルセル・モースの民族学であった。おそらくこれもバタイユからの影響があるのだろう。バタイユはモースの贈与論に強い影響を受け、消尽やポトラッチに関する論を展開していた。太郎は三八年十一月(27歳・昭和12年)からパリ大学の哲学科に籍を置き、前年に開館したばかりの人類博物館(ミュゼ・ド・ロム)やソルボンヌ校、コレージュ・ド・フランスでモースが行っていた授業に出席した。特に人類博物館の展示物を前にした授業では、抽象論を超えた実感にみちた学問のあり方に共感する。太郎は絵画を中断し、画壇からも距離をおいて、モースのもとで「人間」の学問である民族学を学ぶために人類博物館に二年間ほど通いつめた。具体的な学問から形而上学を見つめなおし、両極の立場から考える土台を築こうと思ったのだ

 だが、その間に大きな変化が太郎に訪れる。モースのもとで学びはじめてからほどない一九三九年二月(28歳・昭和14年)、母かの子が脳充血で亡くなった。太郎は母の「死」を受け入れるためには、「生きる」という血みどろの戦いを続けなければならないことを父への手紙で書き送り、日本に戻ることを考えはじめる。また、折しも同年九月にはドイツがポーランドに侵攻し、第二次世界大戦が勃発した。パリの街は騒然とし、芸術家たちも動員により次々と街から姿を消していった。

 翌40年、日本に帰ることを決意した太郎は、パリ国立図書館に勤めていたバタイユや救援たちに別れを告げパリ陥落の一日前に、最期の引き揚げ船白山丸で帰路についた。十年半のパリ滞在のあとに待ち受けていたものは、日中戦争という壮絶な現実だった。

パリ大学時代の在籍簿・岡本太郎のパリ大学ソルポンヌ校の在籍簿がフランス国立公文書館で発見された。1930年代から40年代にかけての学生の在籍簿がアルファベット順に収められた箱のなかに、太郎のサイン入りの在籍講が計3枚保管されていることが調査でわかった。手前ピンクの紙が太郎のもの。太郎のパリ大学の在籍期間については、記述にもぷれがあり不確かなところが多かったが、この在籍簿を見る限り、在籍していたのは1932~33年度の約半年(から1年間)と、1938~40年度の約1年半であることがわかる。1932~33年度は文学部美学専攻1938~40年度は文学部哲学専攻とある。後半は民族学専攻と推測されることが多かったが、哲学を専攻しながら民族学の講義に出ていたということであろう。在籍簿には居住地も記されている。サン・アマン街31番地、15区(1932~33年度)とエルネスト・クレッソン街18番地、14区(1938~40年度)。両方ともパリ大学からそれはど遠くなく、芸術家たちが多く集まっていたモンパルナス近辺にあった。

(詳細は拙稿「岡本太郎のパリ大学在籍簿」『川崎市岡本太郎美術館研究紀要 第一号』参照。)撮影=楠本亜紀