すべての僕が沸騰するために

■村山知義の意識的構成主義

五十殿利治

 もしエッフェル塔を破壊したら屑鉄の山ができる。この山はひとつのコンストラクションである。  リブモン=デセーニ

 

 大正の新興美術運動は1920(大正9)年ロシア未来派の父を自称したダヴィト・ブルリュークの来日が起爆剤となって急速に台頭していったようにみえる。ほぼ同じ頃に未来派美術協会や八火社が相ついで展覧会を開いて気勢をあげ,新興美術の勃興を一般に印象づけたところに,さらにブルリュークが将来したロシア未来派の作品の 数々が強烈な衝撃を与えた。しかも,それは狭い美術界に限定された出来事ではなかった。とりわけウラジオストックから敦賀に上陸したブルリュークの来日とその直後の行動は逸早く報道され専門誌はむろんのこと,一般のジャーナリズムの反応の方も目覚ましかったのである。そもそも新興美術自体が西欧の新しい動向に刺激されて活力を得ていた以上,美術界の反応は当然の結果ともいえるが,各新聞の過剰ともいえる報道ぶりは,たとえばシベリアをめぐる情勢としては尼港(にこう)事件などが起きて決して平穏ではないとはいえ,大正という時代の活力が溢れる開かれた精神を感じさせずにはおかない。

 村山知義のドイツからの帰国とその後の「マヴオ」に拠る活動も, それがもたらした衝撃とその受けとめられ方という点でブルリュークと同じように大正の新興美術らしい出来事と位置づけることができる。また,そもそも村山の留学自体が時代の刻印を帯びており,すでに「公」や「国家」(と「私」)との緊張関係・・・両者が合致するにせよ,乖離するにせよ・・・に常にさし挟まれていたそれ以前の世代の留学とはかなり趣きを異にしていたことが指摘されよう。このように第一次大戦が終わり,青年たちはもはや「国家」の影を背負うことなく,海を渡っていった。ドイツを目指した者のなかには村山知義がおり,この村山のベルリンでの案内役を務めた和達知男,村山の挿絵によって長編「望郷」を時事新報に連載することになる池谷信三郎がいた。ほかにも新興美術の関係では,(パリ経由ではあったが)東郷育児の義弟で,イタリア未来派の間では村山よりもその作品が評価された永野芳光日本ヘバウハウスを紹介し,自ら新興美術運動にも参加することになる仲田定之助等がいた。

 

 彼等が拠点をドイツ,というよりもベルリンに定めたことについては各々の事情があろうが,しかしここで問題にしたいことはむしろベルリンが何を与えたかである。彼等がたとえばパリにはない何をベルリンで学び得たかである。このことは村山知義がベルリンに到着した1922年の時点において,ロシア構成主義の西欧への流布あるいはドイツにおけるダダと構成主義の(あるいはダダから構成主義への)展開などを想起してみると,問いとしての意味合いがより明確になろう。そこから村山が帰国後「意識的構成主義」なるものを唱えることになる必然の糸を手繰り寄せそうにみえるのである。

  

 ベルリンこそ意識的構成主義の揺藍の地であった。村山が東から西から多彩な作家たちが訪れ定住し,そして交流したこのメトロポリスに到着したのは1922年2月のことであり,その年の暮れまで滞在した。わずか一年にも満たない期間であった。しかしこの間,彼もまた精力的に行動する。なにも制作活動に限らない。交友を結び,旅行し,まさに交通した。すなわち,シュトゥルム画廊のヴァルデン,彼を通してアルキペンコに出会い,さらにはイタリア未来派のマリネッティヴァザーリに紹介されノイマン画廊での国際未来派展に出品し(3月),デュッセルドルフの国際美術展芸術家会議にも参加し(5月),シュトゥルム向かいの本屋=画廊トワルデイーでの永野芳光との二人展を開催する(9月)……と息つく間もなく,ベルリンを中心とした前衛美術運動のネットワークに身を投じていくのである。

 むろん,この1922年という年はひとり村山にとって重要であったわけではない。デュッセルドルフの国際芸術家会議が発端となったワイマールにおけるダダイストと構成主義者の事実上はじめての会合がもたれた年,あるいはまた西欧の作家たちが刮目(かつもく・目をこすってよく見ること。注意して見ること。)したシュプレマテイズムや構成主義などを始めとしてロシア美術の現況を紹介する大規模な「第一回ロシア美術展」が開催された年なのである。もっとも,ロシアの構成主義全般の理解も直接間接に西へ向けて普及するなか「国際的」な構成主義の派生・形成にともない次第に変質してゆく時期にあたっていた。その過程で戦わされたさまぎまな論議が・・・なかんずく「MA」グループのカサックの展開した議論が・・・村山が謳うことになる造形思想,すなわち「意識的構成主義」にも投影したと見るべきだろう。

 村山知義は1923(大正12)年1月末の帰国直後から意識的構成主義を唱え始め,矢も楯もたまらず「意識的構成主義的小品展覧会」(5月)を開催してその成果を世に問う一方,マリネッティ(上図左・右)やモールを会員名簿に列挙して,永野芳光ととも「アウグストグルッペ」なる団体を強引に結成して美術界への最初の挑発を仕掛けた(7月)。その直後に開始される「マヴオ」の運動への破調の前奏曲(下図左・右)であった。

 当初,意識的構成主義は「ダダと構成派に時間的にも理論的にも次ぐもの」と規定され したがってロシア構成主義とはまったく異なると一貫して主張されたが,しかし,村山は一度としてその独自性を積極的に開陳したことはなかった。加えて,著述の上ではもっぱら「構成主義」批判に終始したために,つまり「意識的構成主義」の否定的な陰画しか提示しなかったがために(このこと自体はまことにダダ的といえよう),結局,思想として骨格を与えられないまま放棄されることになった。ただ,私達の手元にはまちがいなく陰画としての意識的構成主義は残されている。

 村山知義が展開した構成主義批判では,ロシア構成主義の著作をほとんど直接的に参照できていないことを割り引くなら(象徴的なことに彼は一度として「第一回ロシア美術展」に言及していないり,かなり鋭敏に的確にその理論が咀嚼されたというべきであろう。たとえば,冒頭に一部引用したリブモン=デセーニュの「デ・ステイル」誌に掲載された「ダダイズム」という文章も,村山自身が引用しており,彼にダダと構成主義の複雑な関係がよく洞察されていた証左である。なるほど自ら断わっているように,ロシア語の壁のために,彼の構成主義論はもっばら当時のロシア以外の国際的な前衛雑誌,MA,BROOM,MECANO,MERZ(メルツ)等の記事を土台とすることになった。いわば本文を欠いた注釈から本文を云々することになってしまうという逆倒した面が多々ある。

 しかし,当時としてはこれはひとり村山に限られない現象であり,いちいち無理解や誤認を取り上げてあげつらうことは穏当ではないし,その偏差を測ることが小文の意図するところでもない。ただし,事実経過としては,海外の文献に加え,ブルリュークと入れ替わるように来日して,革命後の最新の動向を伝えたワルワーラ・ブブノワの論文などに触れ ロシア構成主義についての認識がしだいに深まるにつれて,またマヴオや三科などの芸術運動にいっそう専念するにつれて,後段で述べるように,村山の論調は短期間のうちに極端な振幅で揺れることを余儀なくされた。

 ここで村山知義の意識的構成主義の理論的な輪郭をたどる前に,まず意識的構成主義の仕事として残された作例から判断する限り,シュヴイツタースの「メルツ」と様式的にはもっとも類縁関係が深い村山知義「名付け難き構成」1924年村山知義「親愛なるヴアン・デスプルグに捧げられたコンストルクシオン2」1924年ことを確認しておこう。シュヴイツタースとの間には雑誌の単なる交換以上の交際があったようで,実際,彼から『マヴオ』に「メルツ標準舞台」についての一文の掲載を頼む手紙が送られてきた,と村山は述べている(「或る十日甲の日記」仲央美剋大正14年4月)。アルプとリシツキーは「諸芸術主義』(1925年)で誤って雑誌『マヴオ」創刊一号の表紙に図版として用いられた山里栄吉の構成を村山作として<メルツ〉に分類したが,こと意識的構成主義の位置づけとしては妥当な判断であるように思われる。しかも,村山には僅かとはいえフアン・ドゥースブルフに捧げられた幾何学的要素からなる絵画の系列もあり,まさにドゥースブルフやシュヴイツタースの多元的な表現形式と並行しているのである。

 村山にとってこのようにダダや構成主義の造形的なイディオムを自由に操作できる多元性こそ彼の意識的構成主義の根幹である(これが確固としたスタイルとして完結しなかった第一の理由である)。と同時に,それがそのまま構成主義批判の最初の契機となるものであった。つまり彼がカサックの言葉を借りて述べたように,構成主義では表現形式における「純一の憧憬」が否定されていない点である(「構成派批判」「みづゑ』大正13年7月)。表現派を筆頭にしてさまぎまな流派が一斉に開花したようにみえるドイツ美術界の状況をつぶさに見聞した村山は,対象と形式の関わり方が多様化し,対象が視覚的なものに縛られなくなった以上,いたずらに唯一の形式に自らを限定することを戒めて,無限の対象に対する無限の形式があるべきであると考えるようになった。それが立体派や構成派などが抗(あらが・逆らう。張り合う。抵抗する。「圧力に抗する」)っていた表現の「マンネリズムと無意識」から逃れるために採るべき方途であった。要するに「表現の可能如何」に意識的ないし自覚的であり「全人生的なすべてのものを視覚的形成的に表現しよう」とし「その為めにはあらゆる表現手段とあらゆる材料を用ひよう」とするもので「観照者の側に於ける全的理解を要求する」のが,いうところの意識的構成主義である(過ぎゆく表現派・・・意識的構成主義への序論的導入」「中央美術』大正12年4月)。

 このように,全的なもの,無限的なものへの志向によって,否定/肯定あるいは破壊/創造という評価そのものをそっくり包摂することで無化し,もろもろの現実的な条件や束縛を一度に清算しようとする姿勢が歴然としているが,この点で造形理論としての意識的構成主義は概してダダに近く分析的な構成主義との直接の関りはむしろ希薄であるような印象を覚えさせる。ただ「構成」という一語のみが接点としてあるようにさえみえる。そこにはおそらく創造の火花をちらせる電流が流れていない。しかし,その反面,帰国当初,意識的構成主義は「超人の道」であるというように,あからさまにニーチェ的な用語法でもって語る村山には(彼はそもそも哲学を学ぶためにベルリンに留学した),ある理論的な展望が実感されていたのである。・・・やがて手から砂がもれるように急速に減退していくのだが,村山を捉えていたその実感が率直に吐露されている一節を引き,意識的構成主義のいわば等身大の姿,村山知義の「自己拡張の意志」を雄弁に語らせることにしよう。

 「僕のうちにはあらゆるゲビートが轟き込み轟き出し,魂は全く横溢し,知力と感性とは人間力の絶頂にあるかと思はれる。如何にこの三ヶ月来僕が豊饒になったか。まあ見てくれ。外見だけで云ふならば,僕の絵にはカンバスの上に盛り上ってふくふくと縫ひ附けられた布があり,ふさふさと垂れさがってゐるほんものの金髪があり,綱があり,針金があり,人形があり,電車切符がある。(それは或ひはダダイスティッシュだらう。しかしダダイズムなどは僕に取つてはなんでもない。)境遇がゆるす限り,僕の絵に於いてはその材料が無限となるべき勢ひを示してゐる。(略)すべての僕の情熱と思索と小唄と哲学と絶望と病気とは表現を求めようとして具象されようとして沸騰する。(略)僕は全く歓喜の絶頂にある。自分のみぢめさと困惑とに満足し切つてゐる。かくも絵が形成芸術が偉大なものだといふことを僕より先に誰が知つてゐたか?」(「過ぎゆく表現派」)

 村山はこれを「或る若い一人の画家の手紙の一節」として紹介したが,まず間違いなく彼自身が記したものであろう。彼が果たして表現派以来の,あるいはヒュルゼンべックやハウスマンの「新人」,さらにはリシツキーの電動人形劇(本来はクルチョーヌイフ=マレーヴィチ=マチューシンの未来派オペラ)「太陽の征服」に表現された「新人」という観念を意識していたのかはつまびらかにしない。とまれ、諸々の規範を根こそぎにするダダ的な「否定のファナティズム(熱狂)」は影を潜めている。反対に「自由さと力強さと現実性」という創造的な文脈で再びダダが捉え直された・・・「すべての僕」が「沸騰する」ため。そして,まさに同じ瞬間に,構成主義との微(かす)かな接点にも強力な電流が流れ込むのである・・・「それは最早や「絵」と称すべきものではなく(略)それはただ正当には「形成芸術』とのみ呼ばるべきものとなった」(「過ぎゆく表現派」)。

 

 意識的構成主義が最終的にどこに到達すべきかについて,村山にははっきりと目標地点が見据られていた。すなわち,「芸術の究局としての建築」である。1923(大正12)年の関東大震災は当然美術界にも大きな影響を及ぼした半面,新興美術の運動に思いがけない生気を吹き込むことになった。「アクション」グループバラック装飾社(下図)に代表されるように,たとえバラックとはいいながら,建物の内外装に・・・ある場合には新進の建築家と一緒に取り組んで,現実空間と直接相渉(あいかかわ)るという得難い機会に恵まれたのである。シュヴイツタースのメルツバウ(上図左)リシツキーのプロウンの部屋(上図右)とは径庭(隔たりの甚だしいこと。かけはなれていること。)があるが,村山も自ら三角のアトリエを設計する(下図)など,そのような方向に向けて逸早く歩を進めていた。

 しかも,翌1924(大正13)年春には,上野で帝都復興建築創案展が開催され創宇社,メテオール社,分離派など先鋭的な建築家のグループに相伍して「マヴオ」は会場の二室を与えられ建築的(?)な構想を発表することになった。展示された作品は「怪奇室」と騒がれたように「髪の毛,新聞の切ぬき,首なし人形」などを組み合わせたアッサンブラージュであり,通常の建築のマケットにはほど遠い代物であった。しかし,その形態が実際的であるかどうかはともかくとして(というのも,他のグループのマケットも果たしてすべてが実際的であったかどうか疑わしいからであるが),「建築」が「マヴオ」の主要な仕事として捉えられていたことが明快に表明されたのである。

 村山が提示した建築の概念は簡潔明瞭である。建築とは「無限の形と材料と実用性との問題の芸術的解決」であり,「現代的工業」と「来るべき時代の幻」を体現する「純粋芸術」と主張された(「芸術の究局としての建築」「国民美術』大正13年7月)。「ブルーム」誌掲載のタトリンの第三インターナショナル記念塔(下図)に関する記事を自ら訳出している事実(「構成派批判」)に照らしてみても,村山はロシア構成主義やデ・ステイル(上図左右)に同調して美術家が未来社会の鮮明なヴィジョンとして(「来るべき時代の幻」)建築的なモデルに想像力を働かせる時代的な意味合いをはっきりと認識していたといえよう。それゆえ「建築こそ新時代の芸術であり,究局最上の芸術」なのである。

 村山や「マヴオ」のグループを揺り動かしたこのヴィジョンは当然のことながら,生きること,生活することと緊密に結びついていた。帰国直後,彼が構成主義とともに,マリネッティによる触覚主義の紹介にも努めたことは,ロシア構成主義の「ファクトウーラ」という素材の表面についての概念に対応して,作品の構造を補強するためと解釈するというよりも,むしろ上でみたような,生の内奥から噴出するダダ=構成主義のヴァイタリスト的な意欲と密接な関係があろう。触覚主義自体は,マリネッティにより美術表現についてはフェティッシュヘ堕す危険を避けるために排除されたが,遠い感覚である触覚の覚醒を目指すことは,当然,村山が主張する通り美術作品と無縁のままにはとどまれない。かくて村山は昂然と警告を発する−「間もなく新しい芸術品が現はれて諸君を迷はすであらう。それは一箇独立の触覚的芸術品であるかもしれないが,また同時に,マリネッチの反対にも拘らず,それは絵画,彫刻等の他の形成芸術品とも協力して現はれるであらう」(「触覚主義と驚異の劇場」『中央美術」大正12年5月)。生活のあらゆる局面において触覚,つまり細部においてまで生の感覚を励起すること。そうすることによって意識的構成主義に普遍的価値を与えること。意識的構成主義は生の深部にまで一貫する普遍的な現象でなくてはならない。

 村山知義においては,同じマリネッティの「驚異の劇場」の宣言と同時に紹介されたことに浮彫にされているように,触覚主義の主張は身体の運動感覚と通底して,舞踏や演劇などのパフォーマンスの実践への跳躍台という役割を果たした。村山の自叙伝が「演劇的自叙伝」と銘打たれているように最終的には村山の本領は舞台美術を含めて演劇の分野を中心に発揮されることになるのだが,その萌芽はすでにずっと以前に芽生えていた。

 

 ドイツ留学中,彼はむろんフォルクスビューネ,カンマーシュピーレなどの劇場に通い,彗星のように登場したニッディ・インペコーフェンのダンスにも夢中になった。また,注目すべきことに,デュッセルドルフの国際展のレセプションではじめてダダイストたちに出会い,「中でもオランダから来た連中は,ラフな恰好で,歌ったり,叫んだり,踊ったり,大騒ぎ」するのを目撃した。しかも,「その中に舞踏家夫婦というのがいた。多分,オランダ人だったと思う。二人は半裸体で,テーブルや椅子の上で,妙な踊りを踊って見せた」という(『演劇的自叙伝 第2部』)。大会出席者の名簿と比べると,オランダから来たダダイストといえば,まさにドゥースブルフの一行のことを指す(ここでドゥースブルフがシュヴイツタース等と「ダダ=マチネ」をオランダ各地で催すのは約半年後,翌年1月からであることを想起しよう)。村山は彼等が「ハメをはずすことはなかった」と断わっているが,ともかくダダイストによる挑発的なパフォーマンスをいくぶんかなりとも経験する機会に恵まれたのである。

 帰国後,村山は「マヴオ」の運動によってその経験を活かすことになり,さらに1925(大正14)年5月の「劇場の三科(上図資料)」に結実させることになった。それは「三科」に属した美術家たちによる実験劇場,というよりも大掛りなパフォーマンスであり,大正の新興美術のいわば総決算のような意味合いがあった。これ以前に,むろん村山は踊り,日本最初の構成派の舞台装置となった築地小劇場所演の「朝から夜中まで」の舞台美術にも手も染めた。(下図) しかし,もっと過激なパフォーマンスが演じられた事実が知られている。1924(大正13)年6月に行われた村山と岡田龍夫の舞踏,そして高見沢路直の「サウンド・コンストラクター」による音楽のパフォーマンスである。中央新聞紙上で「名のつけられない踊り」と皮肉られた村山たちの舞踏を伴奏する「ブリキ錐に糸車をくつ付けたもの」などでできた,その奇妙な騒音発生機はパフォーマンスの最後に観客の眼前で破壊されたという。「劇場の三科」においても,作家たちによる12の演目が上演された。村山作・演出による劇や舞踏,神原によるジョン・ケージ的な「消極的効果」による芝居が演じられ また満員の会場をオートバイや焼魚などの音響と匂いと煙で満たし,観客の度肝を抜いた。それは一晩かぎりの上演ではあったが,大正の新興美術のひとつの到達点を示した出来事であり,村山の貢献には顕著なものがあった。

 村山知義の意識的構成主義は彼のいう形成芸術の立場として唱えられたものであり,必ずしもこうした身体的な表現の領域まで包摂するものではなかったが,しかし村山個人の表現思想としては一貫しており,彼のヴァイタリスト的な意欲が表出されるための回路は美術表現であろうが,身体的表現であろうが,選ぶところはなかったのである。

 ところで構成主義批判として上述の「純一の憧憬」という表現形式の問題に加えて,村山は「民衆芸術とエクセントリックな尖端芸術との関係の問題の未解決−デカダンの処置」を第二の論点とした。これは第三の論点「革命芸術と社会主義芸術との関係の未解決」とほぼ同じ問題設定としていい(「構成派批判 下」「みづゑ』大正13年9月)。このような鋭い政治的・社会的な視点が根本にあったために,1925(大正14)年8月号の「アトリエ』(「構成派に関する・・・一考案」)で,社会批判への傾斜をさらに深めた村山は構成主義とは革命芸術ではなく社会主義芸術であり,建設の芸術であるが,日本においては現に階級闘争が戦われている以上 むしろ破壊の芸術であるネオ・ダダイズムこそが当面要請される,と実質的に政治的効用を優先させた主張をするようになった。革命が成就したロシア以外の国ではそもそも構成主義が支持され 存立する社会基盤がない。換言するなら,今戦われている階級闘争がプロレタリアの勝利に終わるその暁には構成主義がふたたび要請されるというのである。

 かくて「現在の日本には,構成派を用意するためのネオ・ダダイズムが必要である」と断言する彼には,当面であるにせよ,自分自身を支える拠点として構成主義を克服したはずの意識的構成主義を唱える根拠が失われた。もはやその名称さえ文中で言及されてはいない。このように左傾する村山知義の視野から外れた結果意識的構成主義は造形思想としての充分な検証を経ないまま葬り去られた格好になった。つまり,意識的構成主義は芸術的な終局あるいは芸術としての死を迎えなかった,あるいはあてもなく延期されたのである。

 一方,構成主義についてはさほど簡単には決着をつけることはできなかった。しばらくして,1925(大正14)牛9月彼自身が全身で打ち込んできた三科の新興美術運動が内部分裂から事実上消滅した後,1926(大正15)年2月になって出版された「構成派研究』ではそれまでの主だった構成主義に関する論考が誤りの多いものと退けられた上で,ほとんど正反対といっていいような評価軸の逆転が生じることになった。すなわち,以前ロシア以外では「ネクタイの単なる流行に過ぎない」と一蹴したはずの構成主義を再度,生産的・建設的な芸術として,社会性,アメリカニズム,機械,機械化,そして建築を主要な項目としてたてて肯定的に論じることになったのである。もちろん,これらの指標そのものはすでにそれ以前から折りに触れて挙げられていた。つまり,評価の軸だけがドラスティック(思い切ってやるさま)に変化したのである。この再度の視点の転換をもたらした第一の要因はやはり村山のプロレタリア芸術運動への参加と秩序紊乱(びんらん・混乱している)的な三科運動の総括の結果と考えられる。村山は岡本唐費や神原秦等の「アクションー造型」グループから破壊的な「陰惨」な暗い表現をしばしば攻撃されていたことも手伝って,新しい社会建設への展望を提示することを迫られたにちがいない。事実,1925(大正14)年12月には明るい楽観主義的な「造型」の方針をめぐって「明暗論争」(岡本唐貴)が開始されていた。だからこそ村山は建築=建設について,世界再建のヴィジョンについて高調した口吻で述べて「構成派研究』を結んだのだろう。

 「さて建築の想念は簡々の家屋の建築から大都市建築の想念にまで進んで行きつつある。そしてやがてトロツキーの理想の如くんば,人は山野河海を再調査して自然の欠陥を訂正するだらう。そして最後には地球を改造するであらう!」

 しかし,この村山の構成主義論も,ここではもう論じる余裕はないが,彼が一層深くプロレタリア芸術に荷担する(他方プロレタリア・リアリズムが台頭する)にともない,またもや「抹殺すべき本」となる命運をたどる(『プロレタリア美術のために』昭和5年)。もはや「政治」の季節が到来していたのだ。

 こうして二重三重の否定の網をかけられて切り刻まれ「構成主義」も「意識的構成主義」も村山自身の内部でさえ発展されるべき実質をすっかり失った,新興美術が日本の近代美術史の突拍子もないエピソードのような位置づけしか与えられていないように。だとしても,村山はたまたま,新興美術の走路を走り始めたのではないというべきだろう。もしそれが単なる偶然であるならば早晩,走路外へ出るなり,走路上で歩みを止めたとしてもおかしくないのではないか。

 よしんば意識的構成主義がそのような偶発的で周辺的な現象であったとしても,美術のみならず,舞踏,演劇,パフォーマンスの領野を疾走した村山知義の軌跡として残された「沸騰する」ような「人間力」の刻印まで消し去ることはできないだろう。