描かれた禅僧たち

■南禅寺の頂相

山本英男 (京都国立博物館美術室長・中近世絵画史)

 禅の真理を端的にあらわす言葉として「以心伝心」や「不立文字、教化別伝」「直指人心、見性成仏」などがあるのはご存じだろう。要するに、仏はすべて人の心の中にあり、それを知覚することが悟りである、またそれは文字や言説によるのではなく、人と人、師と弟子との触れ合いを通して心から心へと伝えられていく、というのである。そうした教義のもとでは初祖・達磨からの法脈わけても師と弟子の関係が重んじられるのはいうまでもなく、同時に弟子にとっての師はまさに絶対的な存在とならざるをえない。「法そのもの」といってもよいだろう。弟子は師との生活や厳しい修業の中で己の内面を見つめ、その中に潜む仏性を感得するよう精進を重ねるのである。

 そんな禅宗の考え方や在りようが、その中で育まれた絵画に影響を及ぼさないはずはなかった。ここでは、その典型と目される禅僧の肖像画いわゆる頂相について南禅寺の主要な作品を例に挙げながら話をしてみたいと思う。

■頂相の形式

 「頂相」という聞き慣れない言葉は、本来はけっしてのぞき見ることのできない崇高な如来の頭頂部の相(姿)を指すものであったが、師や祖師の顔、姿もまた形にあらわしえないほど尊いとの考えから、その肖像画(肖像彫刻も含む)をもこう呼ぶようになったらしい。この点だけをもってしても、禅宗社会において如何に禅僧の肖像画が重要視されていたかが推察されよう。なお「頂相」の用例は北宋末から南宋時代(十二〜十三世紀)の文献に散見されるので、かなり古くまで遡ることがわかる。

 頂相には、華やかな法衣を着け、曲泉と呼ばれる椅子に坐す姿で措かれる全身像が最も多い。手には竹箆払子を持ち、足元には沓床とその1に沓が置かれるというのが一般的だ。自賛「無関普門像」(恥ほ、挿図1)くつとこや絶海中津賛「規庵祖円像」(恥16)など、本展出品作の大半がこの形式を取るものである。ただ、その中にはぜっかいちゅうしん きあんそえんぞう玄圃霊三賛「希豊彦像」(恥甲挿図2)のように地味な墨染めの衣をまとい、竹箆も払子も執らない特異なげんほれいさん や画像も含まれている。これは希世が出世を好まず、禅僧の法階としては最も低い侍者の地位に終始したことによるのであろう。隠逸志向の強い禅僧の画像にはこの種のものがままみうけられる。

 数の上で全身像に次ぐのが、腰から1だけを描く半身像である。自賛「円爾像」(恥ほ、挿図3)などがそれであって、袖に隠れた両手を前で慧、右手の親指だけをのぞかせて左手の袖先を押さえるようにあらわされるのが基本的を像姿である。また同じ半身像でも、初狙の達磨から二祖、三祖と続く歴代の祖師たちの姿を描いた雲谷等顔筆「三十祖像」(恥112)の如き作例も見出される。こうしたセット物の頂相は列祖像と呼ばれているが、これらが制作される背景に法服をことのほか重んじる禅宗の思想が反映しているのはいうまでもなかろう。このほか、少数ながら狩野安倍筆「英中玄賢像」(恥120)のように円内に像主を措く円相像や一息で半歩ずつ歩いて修業する様をあらわす経行像、松下座禅像などもあって、少ないながらも頂相のバリエーションを形成している。

■寿像と遺像

 これら頂相の最大の特徴は、やはり細赦をきわめた面貌表現にあるといってよいだろう。顔かたちが迫真性豊かに捉えられるのはもとよりのこと、像主の高い精神性や性格までも写し取ったような作例すら存在する。文字通り、頂相は顔が命なのである。そのために描き手は、まず像主と向き合い、その顔を小さな紙にデッサかみがたンすること(このデッサンされた紙を紙形と呼ぶ)から始める。頂相制作の最も重要な作業である。その場合、一枚だけでなく二枚から三枚、時には十枚、十五枚と措かれることもあった。そしてその中から一番気に入ったものを像主が選び、それに基づき本画が制作されるという手順である。像主としては少しでも見栄えよく措いて欲しいと願ったことだろうが、その思いが強すぎるあまり、なかなかオーケーを出さないケースもあっきせんしゅうし上うかのうまさのぶた。例えば相国寺の亀泉集証(?〜一四九三)の頂相制作では初め狩野正信に紙形を作らせたが似たものがとさうきょうのすけゆきさだ くぼたとうべえのじ上うなく、次に土佐右京亮行定に依頼する。ところがこれも気に入らず、今度は窪田藤兵衛尉を呼び寄せ措かせたものの、散々な出来であった。結局は正信に再度紙形を何枚か作らせ、ようやくその中の一枚を使うことになったという(『蔭涼軒日録』)。いつの世も、人は顔へのこだわりを捨てきれないものであるらしい。

 では、像主が既にこの世にいない場合はどうするか。もしその像主の頂相がほかにあった場合にはそれを参考にすればよいが、原本に比べ、リアルさが減じられることは避けられない。また、そうした手本がない場合には生前の姿を思い浮かべるか、人に尋ねつつ想像して措くほか方途はないわけだ。従って、像主の生前中にぞう描かれたいわゆる寿像と没後に制作された遺像では、概して前者の方がその迫真性において勝るのは当然のことといえよう。もっとも、これはあくまで同じ像主の寿像と遺像を比較した場合のこと。描かれた時代や描き手の技量、性格の違いなどもあるから、必ずしも遺像すべてにリアルさが不足しているとはいいきれない。後挿図3 円爾像いしんすうでんぞうでも触れるように、狩野探幽筆「以心崇伝像」(恥紆、挿図4)は崇伝没後二十年ばかりのちに制作されたと思挿図4 以心崇伝像しき遺像だが、その不敵な面構えには全国の禅宗寺院を統括・管理する一方で、幕政の中枢にも参画した師の生きざまを彷彿させるものがある。探幽は崇伝と親交があったので、あるいは師の生前中にその耗形か頂相を描いたことがあったのかもしれない。

 なお頂相制作では縮が用いられることが多いが、中には紙を使ったものもある。制作を急ぐ必要に迫られたとか費用の問題など、さまざまな理由が考えられよう。本展出品作の中では既述の自賛「円爾像」(恥ほ)と後陽成天皇賛「規庵祝円像」(恥m)が紙に措かれたもので、とくに前者では、鎌倉時代の頂相にあっては異例ともいえる線描主体の簡潔な表現が試みられている。

■嗣法の証明

 頂相はいろいろな用途で描かれた。とりわけ注目されるのは、篇法したことの証明として制作されるケースである。師から賜る法語や法衣などと同じく、弟子が用意した師の頂相に師が着賛し与えることで(師が示寂した場合などには同じ法脈の先輩格の僧や名僧たちが着賛した)、弟子は師の法を嗣いだことが認知されるのである。他宗派にはみられない、この禅宗特有のシステムは既に南宋時代には一般化していたらしく、わが国でも中国からの渡来僧やそのシステムを体験した日本の留学僧たちによって徐々に定着していったと思しい。およそ十三世紀の後半頃、鎌倉時代のことである。

 そうしたシステムの構築に力があったのが、東福寺の開山で、南禅寺を開いた無閑普門の師にあたる円爾(聖い一ち酢恥 三〇二〜八〇)である。彼は宋に留学中に師の触郵鮮蹴から自賛像(東福寺)を賦与されたこともあって、仁治二年(一二四一)に帰国して以降、弟子や在家信者からの要請で数多くの自像に着賛した。『聖一国師語録』所収の着賛記事だけでも十二件を数えるので(これらのうち作品が現存するのは四件)、実際はもっと多かったに違いない。既述の「円爾像」(恥15)の賛も『語録』未収のもので、その末尾には現存する円爾自賛像の中では最も早い文永元年(一二六四)五月の年記が施されている。残念なことに授かった人物の名前までは記されていないが、無閑その人に賦与された可能性は検討されてよいだろう。『無関和尚塔銘』によると、無関は十二年に及ぶ宋での留学を終えて弘長二年(一二六二)薩摩に帰着、そこに二年滞在したのち上京して円爾に再謁したとされているので、ちょうど先の年記と符合するのである。この時、円爾は無関に東福寺第二世就任を要請するが、無閑はこれを固辞し、鎌倉へと旅立つ(『塔銘』)。そんなあわただしい状況下であったからこそ、絹ではなく紙に、また素描風に描かれることになつたとするのは、少々想像が過ぎるだろうか。

 ところで、弟子が師に着賛を請う時期だが、際立って多いのは師の最晩年期つまり死を間近に控えた頃である。先の円爾の場合もそうだし(『語録』所収の着賛記事の中で、時期の判明する九件のうちの七件が示寂し いしぃしやくた年とその前年になされている)、無閑の場合も示寂する前日に弟子たちが頂相を携え賛を求めにやってきたゆいけりと『塔銘』は伝えている。遺侭を想わせるくずれた書体の自賛「無関普門像」(恥望は、あるいはその時に着賛てんきょうれいちぞうされた一本であったかもしれない。また同様に「天境霊致像」(恥34、挿図5)にも遺偽風の自賛があるが、こ し上うせいいちらの方は天境が示寂する三ケ月ほど前の永徳元年(一三八一)八月、弟子の龍章清廣の要請で着賛したことがわかる。床から起き上がり気力を振り絞って筆を執る師と、かたわらでそれをじっと見守る弟子。そんな緊迫した光景すら想像させる生々しさが、これらの賛にはある。頂相への着賛が嗣法の証明というきわめて重要な行為であったことを改めて実感させる作例といえよう。ほかに最晩年期もしくはそれに近い頃の自賛像とやくおうとくけんぞうへいでんじきんぞうして「約翁徳倹像」(恥26、挿図6)や「平田慈均像」(恥33)、「玄圃霊三像」(恥撃などがある。挿図5 天境霊致像挿図6 約翁徳倹像27

■その他の用途

 頂相は、像主の周忌や遠忌法要などに用いるべく制作されることもあった。例えば無関普門が示寂した翌年の正応五年(二一九二)、亀山法皇はその追慕のために師の頂相を措かせ、図上に賛を加えたことが知られる。おそらく一周忌法要で掛けられたのであろう。今、その画像は伝存しないが、それを賛ともども写した大幅の後柏原天皇賛「無開普門像」(恥13)が遣る。また無閑の後継者で実質的な開山ともいうべき規庵祖円の三〇〇年遠忌法要(慶長十七年一六一二)に際しても、師の頂相が制作された。既述の後陽成天皇賛「親庵視     たっし上円像」(仙川)がそれである。法要は以心崇伝が導師を務めたが、頂相の制作には規庵の塔所である帰雲院のばいしんせいご梅心正悟が中心的役割を担ったらしい。この画像もまた頂相としてはかなりの大幅であって、寺が盛大に行う周忌、遠忌の法要の場にはそれに相応しいサイズの頂相が求められたものと思われる。

 そのように考えると、南禅寺に遣る探幽筆の大作「亀山法皇・無関普門・規庵祖円像」(三幅、恥2および恥2解説挿図、挿図7)についても同じ用途で制作された可能性が高まる。とくに法皇像がその中に含まれることからすると、やはり法皇関連の儀式に用いられたとみるのが妥当であろう。画の署名に「探幽法眼謹 ぎ▲うねん筆」とあることから、その作期は探幽が法眼位を得る寛永十五年(一六三人)以降、署名に「行年」を入れ始 だるまがまてつめる寛文元年(一六六一)より前となるが、興味深いことにちょうどこの間の年記をもつ探幽筆「達磨蝦暮鉄かいず拐図」(三幅、挿図8)が南禅寺に伝来する。しかもその年記は承応三年(一六五四)、つまり亀山法皇三五〇年御忌の年に制作されているのである。

 加えて、この「亀山法皇・無関普門・規庵阻円像」と密接な関わりをもつとみられるのが、先述した探幽筆「以心崇伝像」(恥87)である。というのも、本画像はそれらと寸法をほぼ等しくするばかりか、署名の文言や書体、捺された印の種類のほか、表装の裂の一部まで同じであるからだ。この「以心崇伝像」が法皇の御忌法要で用いられたかどうかはわからないが、それら三幅と同時期に描かれた可能性は濃厚である。金地院 さいがくげんりょうに伝わることやその作期からすると、施主は崇伝示寂後の同院を継いだ弟子の最嶽元良あたりであったろうか。私物というより同院に納めるべく制作されたものと思われる。そういえば、既述の亀泉集証の頂相制作の場合も自坊への安置が企図されていたようだが、像主本人が施主であった点が大きく異なる。あまり記録にはあらわれないものの、こういったケースは多かったことであろう。

 このほか、派祖の塔所を師が再造するに当たり、弟子が師の頂相を描かせて賛を求め、安置したという事例も見出される。いうなれば落成を記念しての頂相制作である。惜しくもその画像は失われたが、先にも触れた「希世霊彦像」(恥50)が写しとして遣る。また平田慈均が東福寺住持在任中の観応二年(二二五一)に着賛した自像(恥33解説挿図)の賛には二、三人の弟子の求めによることが記されているが、たぶんこれも同様のケースかと思われる。当時、師の退居寮(のち塔所となる)であった雲輿庵に安置するためか、さもなくば何かの記念として師に呈すべく措かれた可能性も考えられよう。既に述べたように全身像や半身像などひとつの形式に則ってあらわされる頂相だが、制作の経緯や目的はさまざまであった。

 南禅寺は度重なる火災によって、多くの文化財を失った。それは頂相とて例外ではなく、実際に描かれたであろううちのほんの一握りしか遺されていないのが実情である。だが逆の見方をすれば、そんな不幸な事情があったにもかかわらず、よくもこれだけの質・量を備えた頂相が伝わった、ともいえるだろう。そしてそれを可能ならしめたのは、禅僧たちの問につねにある先師への山宗敬の念であったに違いない。禅の法が師から弟子へと連綿と受け継がれていくように、その象徴ともいうべき頂相もまた、彼らによって守られ続けてきたのである。