栄西と建仁寺の品々

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田沢裕賀

■はじめに

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 栄西禅師(一一四一〜一二一五)は、日本に臨済宗を伝え、京都最古の禅寺「建仁寺」を開いたことで広く知られている。「えいさい」あるいは「ようさい」と呼ばれる。古くから両方の読みがあったようだが、今回展覧会準備で諸寺を訪ねると、とこでも「ようさい禅師」と呼んでいた。その理由を尋ねると、伝統的に「ようさい」と呼んできたとのこと。その根拠を強いて尋ねると、江戸時代の建仁寺を代表する学僧の一人で、栄西の著述と伝記を研究した建仁寺第三三五世高峰東晙(こうほうとうしゅん・一七三六〜一八〇一)が、栄西の主著である『興禅護国論』(恥召の解説のために書いた興禅護国論和解』(こうぜんごこくろんわげ)で「イヤウサイ」と振り仮名を付けていることを示された。建仁寺の「ようさい」という長年の読み方も、建仁寺の文化の一つと考え、今回の展覧会では 「ようさい」 と読むこととした。

 栄西は、茶祖ともいわれるように、日本に茶をもたらし、喫茶の習慣を根付かせた。海外では「禅」と「茶道」は、日本文化を象徴するものと考えられている。茶は、栄西以前から日本にもたらされていたが、茶葉を粉にして飲む抹茶の飲み方が広まるのは、平安時代未、宋との交易が盛んになってからのことであった。宋の文化を日本に広める上で重要な役割を果たしたのが、入宋した禅僧たちである当時中国で流行していた文化は、禅僧によって持ち帰られ、禅の修養の場に取り入れられて広まっていった。建仁寺では、古い禅院の茶法を受け継いだ「四頭茶会(よつがしらちゃかい)」が今も続けられており、日本最初の茶書喫茶養生記(恥25〜27召を著した栄西は、茶の文化を形成しでいく象徴的な存在と考えられ、「茶祖」として位置づけられた。

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 建仁寺は、多くの中国僧を迎え、また中国に渡った多くの僧が集まった。禅だけでなく、新しい文化が伝えられ、建仁寺で育まれていった。寺の特徴を人の面構えのように評した「建仁寺の学問面」という言葉がある。禅僧は自らの境地を詩文の世界に表現した。中国の最新文化を受容してきた建仁寺は五山文学の基地であり、漢詩は絵画や書の世界とも連動していた漢文の素養は、中国文化の研究理解、さらには中国・朝鮮との外交にも必須であった。鎌倉時代から室町時代の東アジアの文化は、本国ではなく日本の五山寺院にその姿をととめている。「禅」と「茶」に象徴される日本文化の特徴は、栄西によってもたらされ、それを受け継ぐ人々によって守り伝えられできたのである。

 本年は、その「栄西禅師」の八百年遠忌にあたる。栄西ならびに建仁寺ゆかりの宝物を通して、栄西が伝えたかったもの。建仁寺が果たした文化的歩みを考えてみたい。

■栄西の生涯とゆかりの品

吉備津神社

栄西は、永治元年(一一四一)四月二十日、備中国(現岡山県)吉備津神社の社家である賀陽氏の一族に生まれ十四歳で比叡山で受戒し天台と密教を学んだ

 当時は、遣唐使が廃止され、唐から入ってきた文化は和様化されていた。仏教の世界においても同様であり、漢訳仏典によりながら、しだいに日本化したものに変わっていた。日本の現実、その時代を生きる人々の要請にあわせて変わっていったのである。栄西が生きた時代、平安末期には、人々は争い、僧侶は戒律を修めず、釈迦の説いた正しい教えによる悟りは得られなくなるという末法の世に入り、仏教は衰退するという意識が広まっていった。時代は源平争乱の時、貴族から武士の世へと変わる転換期である。旧来の価値観をもつものと新しい改革を目指すものがそれぞれに仏教のとらえ直しを行なっでいた。浄土宗を立ち上げた法然(一一三三〜一二一二)ら念仏者は、比叡山に修行し天台の中から生まれ、法華経へ立ち返ることを主張した日蓮(一二二二〜八二)もまた比叡山の修行者であった。

重源 最澄像_一乗寺蔵_平安時代

 天台宗の開祖最澄(七六七〜八二二)は、中国に渡り天台山に登って天台の教えを学び、密教を修めている。栄西は仏教の正しい教えを求め中国に渡る決心をする。仁安三年(一一六八)、二十八歳で第一回目の入宋を果たした。彼の地でのちに東大寺再興で互いに力を尽くすことになる俊乗房重源(一一二一〜一二〇六)と出会い天台山に登り九月に同船して帰国した。日本に帰った栄西は、比叡山で密教の研究と修行を続け、備前・備中に活動の場を広げて、さらに、九州に本拠を移し、福岡の今津誓願寺で一切経の到来を待ちながら、再度の入宋の機会をうかがい、多くの著述を行なっている。誓願寺滞在中の治承二年(一一七八)の孟蘭盆会で、法華経一品経会を行なった際に書かれた「誓願寺孟蘭盆一品経線起」(図)は、舶載の華麗な唐紙に書かれたもので、多くの著述を残しながらも現在に残る自筆の少ない栄西の代表的な遣墨であり、そこには宋の四大家と称される黄庭堅風(こうていけん)の闊達な筆致をみることができる。また近年、大須観音宝生院の調査で発見された栄西の著作もこの時期に書かれたものである。それらは密教に関する著述であり、第二回入宋以前の栄西の活動は、密教僧としてのものであった。

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 文治三年(一一八七)、二回目の入宋は、玄奘三蔵の跡をたとりインドを目指したものであったが、南宋の王朝は異民族の脅威により国情が安定せず、入竺の許可を得ることはできなかった。再び天台山に登り、万年寺虚庵懐敞(こあんえじょう)のもとで、密教と禅の本質は同じものであると教えられ、四年にわたって臨済宗黄龍派禅を修行し、その法を嗣いで、建久二年(一一九一)に帰国した。帰国後、臨済宗の禅を普及しょうとしたが、比叡山からの排斥によりその活動は停止される。建久六年(一一九五)、博多に日本最古の禅寺聖福寺を建てる。博多には、日宋貿易の担い手であった博多綱首と呼ばれる宋の商人が居住していた。彼らの信仰の地であった博多百堂の跡に建てられた聖福寺は、博多に住んだ中国人にとって、信仰の拠りところとしてだけでなく文化の拠点として待ち望んだものであり、その創建には物心両面での強い支えがあったに違いない。さかのばって、虚庵懐敞に従って天童寺に移った栄西が、帰国後に天童寺の千仏閣再建を約束し、帰国後に千仏閣再建のために大量の大木を送ることができた背景には、宋に渡る以前から、博多綱首らの強い援助を受け、彼らの信仰のあり様をよく知っていたことが想像される。聖福寺創建期のものとされる仏手(恥16)の印相は、阿弥陀如来像のものと考えられており、入宋した俊芿(しゅんじょう・一一六六〜一二二七)が宋風で開いた泉涌寺に伝来した「阿弥陀如来立像」(東京国立博物館蔵)や、重源ゆかりの兵庫・浄土寺の快慶作「阿弥陀三尊像」にみられるくらいで、日本にはなかった中国独特の形をとっている。

51 総本山-御寺-泉涌寺小野浄土寺三尊

 次いで、『興禅護国論』を著し、禅は天台宗の教えに背くものではなく、禅を興すことは国を護ることであるという趣旨を述べる。鎌倉幕府の帰依を受け、鎌倉に居を移した栄西は、正治二年(一二〇〇)、源頼朝の一周忌にあたっで導師をつとめ、さらに北条政子の求めにより鎌倉寿福寺の開山に招脾される建仁二年(一二〇二)には、鎌倉幕府第二代将軍源頼家の外護により京都最初の禅寺として建仁寺が創建される。さらには建永元年(一二〇六)、第一回の入宋で知り合った重源の後を受けて東大寺大勧進職に就任し、東大寺の再建にも力を尽くし建保三年(一二一五)に七十五歳で亡くなった「東大寺大勧進文書集」(下図)からは、三代目大勧進職を継いだ栄西の弟子退耕行勇(たいこうぎょうゆう・一一六三~一二四一)をはじめとしで大勧進職をつとめたものの多くが栄西の門流であることがわかる。大須観音宝生院から発見された「栄西自筆文書」(下図)は、大勧進職在職中の動向を知るものとしても注目を集めている。

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 建仁寺は火災なと度重なる災禍により多くの文化財を失った。栄西の姿を伝える最も古い像は、鎌倉寿福寺にある木彫の「明庵栄西坐像」(9)である。恥7、8の画像にもみられる、頭頂が平らな円筒型の頭部は、普通の人とは違う異相で表現されていることを感じさせる。無住が編纂した鎌倉時代中期の仏教説話集『沙石集』には、栄西の逸話が記されており、その中に、低かった身長を行によって四寸伸ばした話がある。栄西は、十八歳で弘法大師空海が修したで知られる記憶力を増強する虚空蔵求聞持法の行を行なっており、特徴ある頭の形は、知恵の行によって伸びた身長を形象化したものと考えられるのではないだろうか。密教と禅の両方を修めた栄西にとつて、この頭部の表現には、釈迦の三十二相の一つで、悟りに達した如来の知恵を象徴する頂髻相(ちょうけいそう・頭の頂の肉が隆起して髻(もとどり)の形を成している。肉髻(にくけい)と同様の意味が秘められていると考える。

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■栄西後の建仁寺と僧たちの姿

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 寿福寺に迎えられた栄西に入門し禅と密教を学び、栄西の跡を継いで寿福寺第二世、建仁寺第二世、東大寺大勧進をつとめた栄西の後継者行勇や、栄西の弟子栄朝に禅を学び、久能山で密教を修めたのち、行勇に参禅し、入宋して無準師範の法を嗣いで東福寺を開いた円爾(一二〇二~八〇)が建仁寺の住持をつとめている。その頃までの建仁寺は、まだ禅密兼修の禅であったが、円爾のあとを受けて第十一世住持となった蘭渓道隆(一二一三~七八)のもとで、建仁寺は禅宗だけを学ぶいわゆる純粋禅の寺になった。

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 蘭渓道隆の四百年遠忌を期して延宝四年(一六七六)に制作された「蘭渓道隆坐像」(上図右)の体内に別の像の頭部が納入されでいることが、展覧会の事前調査で確認された。痩せて顎がとがった受け口の特徴ある顔立ちから蘭渓道隆の面部であることが確認され、制作時期も鎌倉時代に遡るものと推定される。たびたび災禍にあった建仁寺山内で最古の彫像遺品が人知れず「蘭漢道隆坐像」の内部に大切に伝えられていたのである(下図左右)。

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 禅僧たちの姿を伝えるのは、絵画や彫刻だけではない。五山文学の先駆者であった一山一寧(いっさんいちねい・一二四七~一三一七)が流れるような筆線の美しい草書によって自作の七言絶句を記した「一山一寧墨跡雪夜作」(下図左)や、元から来朝し僧堂の行動規範となる清規(しんぎ)を制定した建仁寺第二十三世清拙正澄(せいせつしょうちょう・一二七四~一三三九)が、尊敬する百丈懐海(ひゃくじょうえかい)の忌日に禅居庵で入滅する直前に書いた遣偈(下図右)には、力強い気迫があふれている。これらの墨跡には、禅僧それぞれの境地が示されている。また、禅僧所用の袈裟は、大切に受け書がれてきた衣鉢の重みを感じさせる。

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 建仁寺を支えたのは、禅僧たちばかりではなかった。制作年の知られる最古の女性単独肖像画とされる「総持正傑大姉像(そうじしょうけつだいしぞう)」(下図左)は、仏教に深く帰依して数々の寺を再興創建し、宋朝風の禅を深く学んで豊後に禅宗文化を根付かせた大友貞宗の夫人を描いたものである。その姿は、出家後の婦人の姿を描いたものであるが、他の女性肖像画と異なり、沓を脱いで曲彔(きょくろく・法会(ほうえ)の際などに僧が用いる椅子(いす)。背のよりかかりを半円形に曲げ、脚をX字形に交差させたものが多い)に坐す禅宗のスタイルで描かれている。

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 また、両足院の開山で、建仁寺第三十五世龍山徳見(りゅうざんとくけん)が元に留学して帰国する際に、随(したが)って来日し、饅頭の製法を伝えたとされる中国人林浄因(りんじょういん)の末裔で、饅頭屋を業とした塩瀬家からは、両足院の住持が多く出ており、江戸時代に至るまで両足院を支える第一の檀那であった「塩瀬家関係資料」(上図右)は、建仁寺が京都五山に列せられながら、幕府や武士だけでなく京都の町衆の支持をも受けていたことを示す好例である。

■近世建仁寺の再興

 建仁寺は、応仁の乱と、それに続く天文二十一年(一五五二)の三好・細川の争いによる兵火で多くの堂舎を失い荒廃しでいたが、天正十四年(一五八六)、豊臣秀吉が寺領を寄進した噴から再興の兆しをみせ、塔頭の再建も徐々に行なわれたようだがあまりはっきりとはしない。

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 松田政行(一五五四〜一六〇六、上図右図)の華渓庵(現霊洞院)や奥平信昌(一五五五〜一六一五)が慶長十三年(一六〇八)に開いた久昌院なと新たな塔頭も創建された。妙心寺が、美濃など地方に多くの寺院を有し豊臣政権下で大名となった武将との結びつきが強かったのに対し、先に名前を挙げた二人がいずれも京都の行政にかかわっているように、京都五山の建仁寺は、その支持基盤を京都の町に置いていた

 慶長二年(一五九七)の冬から翌年にかけて再興された禅居庵なと、当時描かれた障壁画も残っているが、江戸時代にも火災があり、当時の活況を伝えるものは多くはない

30 恵瓊

 建仁寺が本格的に再興するのは、慶長四年(一五九九)の安国寺恵瓊(えけい)による本坊方丈の移築再建からである。方丈の建物は安芸安国寺(現在の広島市・不動院)の客殿を移築したものと伝えられ「方丈」と掲げられた額に文明十九年(一四八七)の銘があり、建築はその頃のものと考えられている。再建に際しては、第二九一世梅仙東逋(ばいせんとうほ)が、「今度忌日有珠甫禅師、吾山維摩丈室再造、可謂禅師師再生」と述べて、恵瓊を、東福寺の開山で建仁寺の第十代住持として焼失した建仁寺の復興を果たした円爾の再来と称揚している。安国寺恵瓊は、東福寺の竺雲恵心(じくうんえしん)の弟子で、恵心が毛利隆元の帰依を受けていたことから師の跡を継いで毛利氏の外交僧となり豊臣秀吉にも重用されて大名となった。慶長三年には、東福寺第二二四世住持となっている

 関ケ原の戦いでは西軍の首謀者となり、慶長五年十月一日六条河原で斬首された。首は建仁寺に引き取られ、本坊方丈裏に埋葬され首塚が建てられた。建仁寺では今も命日に法要を続けている。

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 建仁寺の方丈は、禅宗方丈建築の基本である六室構成に準じており、仏間を除く五室に海北友松(かいほうゆうしょう・一五三三〜一六一五)により、気宇壮大な障壁画(上図)が描かれたこの障壁画は、昭和九年(一九三四)の室戸台風で方丈が倒壊したため、五十幅の掛軸に改装されて京都国立博物館に保管されている。各部屋には、琴棋書画図、竹林七賢図、山水図、花鳥図、雲龍図がそれぞれ異なったスタイルで描かれている。人物は梁楷(りょうかい)、山水は玉澗(ぎょくかん)、花鳥・雲龍は牧谿(もっけい)とそれぞれに中国の別の画家を手本にした描き方だが、もとになった中国絵画の「画様」 は自己の画風の中に取り込まれ、桃山の大画をさらに気宇大きくした、友松らしい気迫のこもったものである。制作時期の確定できる友松画の最初のものとなるが、友松はすでに六十七歳の高齢であった。

 海北友松は、近江国浅井氏の家臣海北綱親(つなちか)の子で、父が戦死したため、幼くして東福寺に喝食として入ったという。障壁画の友松への依頼は恵瓊と友松東福寺時代から旧知であったためと考えられている。しかし、東福寺に画家友松の足跡はなく、霊洞院や禅居庵に本坊よりも早い時期のものと考えられる友松の障壁画が残っていることから、建仁寺と友松の関係が本坊障壁画を描く前からあったことが推測される。建仁寺第二九二世永甫英雄(えいほようゆう)が細川幽斎(ゆうさい)の妹の子であることに注目し、『智仁親王御記』に友松と幽斎がともに八条宮智仁(としひと)親王のもとに出入りする仲であったこと幽斎の息子細川忠興(ただおき)の妻ガラシャが明智光秀の娘であり、友松の親友斎藤利三(としみつ)明智光秀の家老であったことなとから、川本桂子氏が、友松が建仁寺に障壁画を描くようになった背景に細川幽斎の存在をあげている(ヨ新編名宝日本の美術21 友松・山楽』小学館、一九九一年)のは、注目される指摘である

 永甫英雄は、慶長三年(1600)、安国寺恵瓊が東福寺第二二四世住持となった際に、諸山疏を作って贈っている。今後、慶長初年の建仁寺を取り巻く状況が明らかになることが期待される。関ケ原の戦い以後、友松が建仁寺から離れていったように作品はなくなっている。

 正伝永源院(しょうでんえいげんいん)には、織田信長の弟で茶人として知られる織田有楽(うらく・一五四七〜一六二一)が自身の隠居所として再興した正伝院から「蓮鷺図襖(れんろずふすま)」(下図)十六面が移され室中にはめられでいる。他に、もと正伝院の障壁画だったとされる「狩猟図」(下図)、「四季耕作図」(下図)、「禅宗祖師図」(下図)が残っている。

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 同じ部屋を飾ったと考えられる襖でも画風にはばらつきがあり、狩野山楽の画風がはっきりと認められる部分もあるが、やや神経質な描写の部分もみられることから、山楽一門による共同制作の可能性が指摘される。大坂の陣で、主ともいえる豊臣家を失い、自身も九死に一生を得た山楽は、有力な弟子も多くを失っていたかもしれない。正伝院の障壁画制作の際には還暦を迎えていた。養子の山雪(さんせつ)の画跡はまだこの頃にははっきりとしていない。絵の中には山楽から山雪に繋がる要素も認められるが、大坂の陣の体験は、山楽の画風にも影響を与え、豪放なものから計算されたやや神経質な作風に変わっていた可能性もある。今回は、正伝院障壁画を狩野山楽を棟梁としてその管轄の下に制作されたものとして、山楽筆として提示した。それを前提に、織田有楽斎像(おだうらくさいぞう・下図左)、義翁紆仁像(ぎおうしょうにんぞう・下図右)も山楽を筆者にあてている。

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 建仁寺第二九五世三江紹益(さんこうじょうえき)は、木下家定の帰依を受け、常光院の第三世となった。その縁から秀吉の正室北の政所が秀吉の菩提を弔うために開いた高台寺は、寛永元年(一六二四)三江紹益を中興開山にむかえ曹洞宗から臨済宗に転じている。寛永十四年(一六三七)には、霊洞院の才林慈俊(?〜一六三八)が、豪商の打官公軌(?〜一六四七)の支援により、霊洞院の管理であった京都宇多野にある妙光寺の再興をはかったが、翌年亡くなっため三江紹益がそれを引継いでいる。

秀吉とねねの寺-高台寺

 妙光寺は、京都十剃(じっさつ)に数えられた由緒ある禅寺であったが、打它家の別荘のような役割も果たし、内部に印金(下図左)の貼られた人麻呂堂(開山堂)が名高い風流な寺であった。俵屋宗達筆の「風神雷神図屏風」(下図右)は、妙光寺に幕末まであったと建仁寺山内では伝えられでいる。

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■建仁寺と建仁寺兼の名宝

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 建仁寺には、禅寺らしく、もと東福寺の什物であった「十六羅漢図」(恥124)のようなすぐれた仏画も伝わっているが、建仁寺に伝来した宝物の多くは天文の戦火による荒廃でほとんとが失われたと考えられる。

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 一方、近世の復興期に塔頭を飾るために描かれた海北友松(かいほくゆうしょう)の作品は数多く残っており、「友松寺」とも評されている。友松の最初期と考えられる「山水図襖」(下図)や本坊方丈の障壁画より早い頃と考えられる「琴棋書画図屏風(きんきしょがず)」(下図)、友松が得意とした押絵水墨画による「人物花鳥押絵貼屏風」(下図)なとである。伊藤若沖が「動植菜絵(どうしょくさいえ)」 に先駆けて描いた「雪梅雄鶏図」(下図)長沢芦雪(ながさわ ろせつ)が掌や指を使って描いた「牧童吹笛図」(下図)など京都ゆかりの画家の作品のほか、建仁寺山内に寓居していたとされる奥田頴川(おくだえいせん)やその弟子仁阿弥道八(にんあみどうはち)の陶磁器が多く残るのも建仁寺の特徴といえる。218 227228 212235 233

 一方、江戸時代海外との唯一の窓口であった長崎にある春徳寺には、十七世紀以降の中国福建地方の仏画の影響を受けた、民間信仰を取り入れて吉祥モチーフを描きこんだ「捏磐図」(上図)が伝えられる。また、シーボルトの絵師として知られ、出島の西洋画家から学んだとされる川原慶賀(かわはらけいが・一七八六〜?)の写実的画法によって第十五世住持「皐洲祖鶴像(こうしゅうそかくぞう)」(恥157)が写実的に描かれるなと、長崎らしい品々が伝わっている。第十四世住持鉄翁祖門(てつおうそもん)は、長崎を訪れた文人との交わりが深く、多くの舶載画を目にして描いた南画によって、長崎三大文人画家と称されている。

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 八坂塔で知られる法観寺建仁寺より創建は古く、はるか前白鳳期の瓦や樽仏の破片が出土している。鳥辺野に近い「六道の辻」にある六道珍皇寺も同じく建仁寺より古い歴史をもつ。地獄と往き来したとされる小野笠に関する伝説が伝えられており、「熊野観心十界量茶羅(くまのかんじんじっかいまんだら)」(上図)の絵解きも行なわれでいた。両寺には参詣卓茶羅(上図)があり、古くから東山の地が備えていた宗教的イメージと庶民信仰の性格を、禅宗寺院となった後も引き継いでいたことがわかる。

 それぞれの寺がもつ特有の文化的特徴を示す宝物の数々は、建仁寺派の歴史を考える上でも大変興味深いものである。栄西そして建仁寺の歩んできた文化的広がりをこれらの宝物が今に語っている。

(たざわひろよし 東京国立博物館学芸研究部)