東寺の歴史

■東寺の歴史−教主護国寺という意識をめぐつて−

上島 有

東寺の創建と講堂(HP)

 東寺は西寺とならんで、平安京南面の正門である羅城門をはさんで、その東西に建立された寺院である。東寺は左大寺ともいい、平安京の左京さらには東国の鎮護を目的とし、これに対して西寺は右大寺ともいい、右京さらには西国の衛護のために造立された寺院といわれている。

 東寺の造営(境内・全体図)は、延暦十三年(七九四)十月の平安遷都後まもなくはじめられたと思われるが、当時の正史である『日本後紀』は欠けており、正確な造営着工の事情は不明である。東寺最高の学僧といわれる杲宝(ごうほう)が南北朝時代に編纂した東寺の歴史である『東宝記』には、「或記」の説として延暦十五年(七九六)に大納言藤原伊勢人が、東西両寺の「造寺長官」に任ぜられたとする。これについては、たとえば大納言藤原伊勢人なる人物は『公卿補任』にはみられないなどという疑義もあるが、東寺では古くからこれにしたがっている。平成七年(一九九五)秋、東寺では「創建一二〇〇年」記念事業が盛大に行われることになっているが、それはいうまでもなく、この『東宝記』の記事によったものである。

 弘仁十四年(八二三)正月十九日、嵯峨天皇大納言藤原良房を勅使として遣わし、東寺をながく空海に勅給した。ここに東寺は、鎮護国家の官寺として、さらにまた真言密教の根本道場として、新たな出発をすることになるのである。

 東寺の多くの伽藍のうちでもっとも重要なのは講堂である。東寺の講堂には、中央に金剛界大日如来を中心にした五仏五如来、大日・阿閦[あしゅく]・宝生・阿弥陀・不空成就)を置き、その向かって右に金剛波羅蜜を中尊とする五菩薩金剛波羅蜜・金剛薩埵[さった]・金剛宝・金剛法・金剛業)、また左に不動明王を中尊とする五大明王(不動・降三世[ごうざんぜ]・軍荼利[ぐんだり]・大威徳・金剛夜叉)の三群の尊像を配置している。これらの周囲を守護するように四隅に四天王、左右辺の中央に梵天と帝釈天を相対して、合計二十一体の仏像が安置されている。これは空海の密教の教えを表現する立体曼荼羅といわれている。

 そして、これら数多い諸尊が、大きな規模でしかも整然と配置された偉容は、いかにも密教の大伽藍にふさわしく厳粛をきわめるもので、南都の古寺とはおのずから趣を異にした新しい偉観を示しているのである。これら二十一体の尊像のうち、中央の五仏と五菩薩のうちの中尊の金剛波羅蜜の六体は、文明十八年(一四八六)以後の補作である。しかし、他はいずれも東寺草創当時のもの、すなわち空海当時のもので、平安初期の密教彫刻のうちの代表的なものである

 

 しからば、このような壮大な講堂の諸尊はどのような目的でいかなる経典にもとづいで作られているのであろうか。これまでは、これら講堂安置の諸尊は鎮護国家の目的で『仁王経』 にもとづいて作られたと考えられてきた。これは『東宝記』をはじめ、この講堂の諸尊について触れるすべての論著にみられ、当然の定説として広く行われてきたのである。いうまでもなく、『仁王経』は『仁王護国般若波羅蜜多経』 の略称である。『金光明経[こんこうみょうきょう、サンスクリット語: सुवर्णप्रभासोत्तमसूत्रेन्द्रराजSuvarṇa-prabhāsa Sūtra、 スヴァルナ・プラバーサ・スートラ)は、4世紀頃に成立したと見られる仏教経典のひとつ。大乗経典に属し、日本においては法華経・仁王経とともに護国三部経のひとつに数えられる。]』『法華経[(ほけきょう、ほっけきょうとも)は、初期大乗仏教経典の1つである『サッダルマ・プンダリーカ・スートラ』(梵: सद्धर्मपुण्डरीक सूत्र, Saddharma Puṇḍarīka Sūtra、「正しい教えである白い蓮の花の経典」の意)の漢訳での総称]』とともに「護国三部経」といわれ、鎮護国家を祈るための代表的な経典である。国土の騒乱や災厄にさいもて仏像を安置して『仁王経』を読諭するならば国土安穏の基となるといわれている。

 

 しかし、最近の細かい検討の結果では、これら諸尊のうちで 『仁王経』 にみられるのは五大明王と帝釈天・四天王の諸仏だけである。これに対して、中心の五仏は『金剛頂経』によるものであり、五菩薩も『仁王経』によるものではなく、『金剛頂経』系統の五仏に配せられる五菩薩と考えられるとされているのである。それだけではなく、これら五仏・五菩薩も、たんに『金剛頂経』『仁王経((にんのうぎょう、にんのうきょう)は、大乗仏教における経典のひとつ。仁王般若経とも称される。なお、この経典は仏教における国王のあり方について述べた経典であり、天部に分類される仁王(=二王:仁王尊)について述べた経典ではない。)』によるというだけではなく、さらに『守護経』も考慮されなければならないといわれている。それゆえ、この講堂の諸尊は、ある特定の一つの経典にもとづいているのではなく、まず中央には『金剛頂経』による五仏を配し、その左右には『金剛頂経』『仁王経』『守護経』による五菩薩・五大明王その他の諸仏を選んで、適宜それを組み合わせて一種の新しい曼茶羅を構成したと考えられるのである。

 

 『金剛頂経』は、正式には『金剛頂一切如来真実摂大乗現証大教王経』といい、略して『教王経』または『金剛頂大教王経』ともいう。『大日経』とならんで真言密教の「両部の大経」として重要視されている。大日如来が釈尊の問いに対して、その悟りの内容を明らかにし、それを具体的に示したのが金剛界曼茶羅である。また、『守護経』は正式には『守護国界主陀羅尼経(しゅごこっかいしゅだらにきょう)』といい、守護経法は仁王経法・孔雀経法とともに鎮護国家のために修する「三箇大法」といわれている。いうまでもなく、これも鎮護国家のための経典である。それゆえ、この講堂の諸尊は、一つにはまず『金剛頂経』(『教王経』)による五仏を中心にすえることによって、新しく唐よりもたらされた真言密教の根本道場としての役割を担うものであった。そしてその左右には、『仁王経』 『守護経』 による五菩薩・五大明王を配することによって、時代の要求する鎮護国家の修法壇場にあてるという二重の意図があったと考えてよいのである。

 平安時代の東寺および東寺講堂については、よく鎮護国家[(ちんごこっか)は、政府が仏教を利用して内政の安定を図ろうとした政策、または、仏教には国家を守護・安定させる力があるとする思想。]の官寺でありまた真言秘密の根本道場であるといわれる。そのいっぽう、前にも述べたように講堂は「仁王護国」 の尊像を安置するところとして鎮護国家の面だけが強調されてきた。これは、明らかに矛盾といわなければならない。この相反する二つの考え方を統一するものこそ、講堂の中央には『金剛頂経(こんごうちょうぎょう)」による五仏を配し、その左右には『金剛頂経』『仁王経』『守護経』による五菩薩・五大明王その他の諸仏を選んで、適宜それを組み合わせて一種の新しい曼荼羅を構成したという新しい解釈であろう。

 これはまさに「教王護国寺」である。「教王護国寺」という名称は、『東宝記』 に「教主護国寺の号は、もっぱら大師建壇(講堂の諸尊を作る)の因縁に起こる」というように、一義的には講堂をさす言葉である。そして、それはいうまでもなく「仁王護国の寺」、すなわち国家鎮護のための寺院と考えられてきた。「教王」というのも「国王を教化する」ということで、「仁王」と同義に考えられていた。しかし、ここでいう「教王」は『教王経』すなわち密教の根本教典である『金剛頂経』をさすものである。事実、「教王真言等を習諭し」(『通告諸弟子等』)という言葉もみられる。したがって、教王護国寺というのは鎮護国家の官寺という意味だけではなく、密教の根本道場と鎮護国家の修法壇場という二つの意味合いが分かち難く融合した言葉であるということを確認しておきたい。それはいうまでもなく、まさに講堂そのものであるが、しかし空海の段階あるいはその後しばらくは教王護国寺なる意識は成立していなかったのである。平安時代の公文書である官符・官牒はもちろん確かな文献・記録類にも教主護国寺なる言葉はみられず、すべて東寺である。したがって、教王護国寺の意識の成立そのものが問題となる。

▶『御通告』の成立と観賢 

 「教王護国寺」なる言葉が最初にみられるのは『御遺告』である。『御通告』といわれるものにはいくつかの種類がある。さきにすこし触れた『通告諸弟子等』もその一つであるが、ここでは承和二年三月十五目」の日付を有する二十五箇条の『御通告』のことに限定したい。その第五条に「一、東寺を教王護国の寺と号すべき縁起」として、教王護国寺という寺号は空海自らが命名したものであると述べている。『御遺告』といえば、古く真言宗関係者だけではなく、広く一般に空海自らが筆を執って作ったもので、もっとも信頼すべきものとされてきた。

 しかし、はやくからこれを疑問視する声もあり、宗教の問題とも関連して複雑な様相を呈していた。しかし、現在では空海の作ではなく、後になってから作成されたものであるというのはほぼ一致した意見といえる。そして、これを「偽作」「偽書」とするのが表的ないい方であるが、私は「偽作」という言葉は使わない。これは、空海の作になぞらえて真言宗内における東寺の優位性を確保するために作られたもので、「偽作」ではなく「仮作」、すなわち空海に仮託して作られたものであるという認識による。

 『御遺告』が空海に仮託して作られたものであるとすると、次にその時期はいつかということが問題となる。これについては、学界でも議論が多いが、ほぼ十世紀の成立ということでは異論はないものと考える。そして、久保田収氏はその作者を観賢に想定されているが、これは卓見といえる。

 観賢は、醍醐寺の開祖といわれる聖宝についで延喜九年(九〇九)東寺一長者となり、真言宗内において東寺の優位性の確立に最大の力を尽くした人である。観賢は長者になるや、まず祖師空海の顕彰を意図した濯頂院御影供をはじめ、さらには空海の弘法大師号の下賜を実現した。また醍醐寺座主・金剛峯寺検校を兼帯して東寺長者の権威を高め、さらには長く高野山に納められていた三十帖冊子の東寺への返還などという難問題を次々と解決した。これらは、いずれも東寺の自立・繁栄につながるものである。かくして、観賢の時代は「東寺全盛の時代」といわれるのも、十分理由のあることといわなければならない。

 『御通告』に流れる基本的な考え方は、東寺中心の真言宗を確立することにあったということは、現在共通の考え方になっていて、これに異論を唱える人はまずないものと考えられる。これは、まさに観賢に典型的にみられる考え方である。『御通告』と観賢との関係は具体的に述べたいのだが、紙幅の関係で一つだけとり挙げてみることにする。『御通告』の第十七条には、後生末世の弟子、祖師の恩に報い進むべき縁起」という条項がある。そのなかに空海の言葉として、自分が閉眼した後には弥勒菩薩の兜率天(とそつてん)に往生して五十六憶余年後には弥勒菩薩とともに人間世界に下生(出現)し、人々を救済すると述べられている。これはいうまでもなく弥勒信仰の考え方であるが、また空海は入滅したのではなく高野山奥の院で生けるがごとく「入定(にゅうじょう)」し、衆生を救済しつづけているという入定信仰(空海の死を入定と呼ぶように,死んでも永遠の生命をもって,今も生きているという信仰が生じたのである)にもとづくものでもある。

 この弥勒信仰・入定信仰というと、すぐ思い出されるのは観賢の高野山奥の院の石室開扉の伝説である。さきにみたように、延書二十一年十月二十七日、弘法大師号の宣下があった。そこで、観賢が勅書をもって高野山に登り、奥の院の御廟の石室を開いてみると、空海は生けるがごとく入定していた。そこで髭(ひげ)と髪の毛を剃り法衣をとりかえて再び石室を閉ざしたという。これは、『今昔物語集』をはじめ多くの観賢の伝記類にみられる説話であるが、高野山ではこの観賢の石室開扉にちなんで、毎年三月十七日に御衣加持の法会が営まれている。これはまさに、『御通告』の入定信仰と一致するものである。この観賢の石室開扉の話はあくまでも伝説ではあるが、『今昔物語集』にこの話を載せており、また高野山の御衣加持の法会が観賢にはじまるとされていることなどから考えると、観賢が金剛峯寺座主として空海の入定信仰形成に大きな役割を果たしたことは間違いなかろう。かくして『御通告』の弥靭信仰・入定信仰の記載は観賢と結びつく可能性は十分に考えられるのである。

 

 このようにみてくると、『御通告』の作者を観賢に比定しても誤りはないものと考えるのである。しからば、次にこの『御通告』にみられる教王護国寺の意識はいかなるものであったのであろうか。さきにも述べたように、『御通告』の第五条に「二束寺を教王護国の寺と号すべき縁起」として、詳しくその由来を述べている。いまそれを私なりに解釈すると次のようになる。すなわち、空海が居で恵果から教えをうけた青龍寺は、もと大官道場といっていたのを、恵果の師である大興善寺の不空三蔵が勅命によって真言秘密の道場とし、龍寺と名付けた。いまそれにならって東寺を教王護国寺と名付けることにしたというのである。唐の大官道場を青龍寺と改めたのは、真言秘密の道場を官寺(鎮護国家の寺院)にかえたのではなく、まさにその逆である。したがって、東寺を空海が教王護国寺と改めたのも、桓武天皇によって鎮護国家の官寺として建立された東寺を、嵯峨天皇から真言秘密の根本道場として賜ったというのであって、教王護国寺という名称は一義的には仁王護国の寺ではなく、ここでは真言秘密の道場を表す言葉として意識されているのである。『御遺告』を素直に読む限りそういわざるをえない。かくして、「教主護国寺」という観念が文献上に最初にみられる『御通告』にあっては、教王護国寺とは真言秘密の根本道場と考えられていたのである。

 

 『御遺告』を通覧して感じられるのは、たびたびいうように東寺を中心として真言宗を統制しようとする意図であり、東寺を真言秘密の道場としてより純化しようとする意欲である。そして、不思議なことにこの『御通告』は鎮護国家の寺院としての東寺については一言も触れていない。この第五条の他に鎮護国家の意識に関係がありそうな条項を探してみると、後七日御修法に触れた第十四・十五条がみられる程度である。これは、「廿四口の定額僧を以て後七日御修法の修僧に召すべし」(第十四条)と、「御修法の修僧の得分を以て高野山の修理の費用に宛よ」(第十五条)というだけのことで、いずれも鎮護国家の思想を強調したものではない。

 とはいえ、この頃「教王護国寺」という意識のなかに鎮護国家の考え方がなかったというのではない。いうまでもなく、講堂には、その中心に『金剛頂経』(『教主経』)による五仏を安置し、真言秘密の根本道場であるのは当然であるが、その左右の五菩薩・五大明王は『仁王経』『守護経』によっており、間違いなく「護国の寺」でもあったのである。また、講堂においては、『仁王経』による行法は、その創建以来行われていたであろうし、また『守護経』を修して国家安穏を祈る安居講が毎年行われていたことも間違いない。ただ、『御通告』が作られた十世紀段階においては、東寺の自立と真言宗内における東寺の優位性の確立のためには、真言秘密の根本道場を強調せざるをえなかったのである。そのため、鎮護国家の堂舎という意識は当然のこととして、とくに真言秘密の根本道場ということが強く訴えられたのである。そして、これはまさに観賢の考え方を素直に表しているものといえよう。

▶日御影堂の成立と教王護国寺

 『東宝記』の杲宝(ごうほう(こうほうとも言う)、徳治元年(1306年)- 康安2年/正平17年7月7日(1362年7月28日))は、南北朝時代真言宗の学僧)の考え方によれば、教王護国寺はまさに鎮護国家の寺院そのものである。『東宝記』第一の「一、護国寺号事」という箇所には、まず「大師御記云」として、さきに述べた『御通告』の教王護国寺に関する文章を載せる。そして、次に「私云」として「教王護国寺之号」が「国家鎮護之大本」たる所以を述べる。よく考えると、この二つはまったく相反するものである。前者は密教の根本道場ということをいい、後者は鎮護国家の寺院ということをいっているのである。この矛盾が矛盾として意識されず、そのまま認められているところが、まさに東寺の東寺たる所以だと考えるのである。

 しかし、教王護国寺=鎮護国家の寺院という意識についても検討してみる必要がある。これは、中世寺院としての東寺の成立、さらにいうならば空海をまつる御影堂の成立と、それにともなう弘法大師信仰の定着ということと密接に関連するのである。

 天福元年(一二三三)十月十五日、寺務親厳僧正の宿願として仏師康勝が弘法大師像を彫刻し、西院不動堂に安置した。これが現在の御影堂の本尊の弘法大師像である。この弘法大師像は、はじめは西院不動堂に安置されていたが、それから七年後の延応二年(一二四〇)三月二十一日、現在の御影堂である不動堂の北面に移された。これが御影堂の成立である。そして、この大師影前において毎日朝昼夕の三時の勤行が行われることになり、この日は一長者覚教・三長者厳海・四長者行遍がこれを勤めた。また、この日寅一点(午前四時)には御影供が行われた。そして、新たに五口の供憎が置かれ、三人の長者などとともにこれを勤任することとなった。これが現在の毎月二十一日の御影供(みえく・現在の「弘法さん」)の出発になるのである。これら一連の新しい東寺の出発には、行遍とそれを支えた宣陽門院の力が与かって(かかわって)大なるものがあった。さらに、同三月晦日(かいじつ・毎月の末の日)には宣陽門院は宝蔵の仏舎利三粒を奉請、五重小塔に安置してこれを御影堂に施入、舎利講を行った。かくして、御影堂においては毎月二十一日の御影供(みえく・真言宗で、空海の忌日の3月21日に、その絵像を供養する法会)とともに、毎月晦日の舎利講が行われることとなった。

 越えて寛元元年(一二四三)四月二十二日には、宣陽門院((せんようもんいん、養和元年10月5日(1181年11月13日) – 建長4年6月8日(1252年7月15日))は、平安時代後期の皇族、女院。後白河天皇の第六皇女で、女院号は宣陽門院(せんようもんいん)。母親は高階栄子(丹後局))は霊夢によって、西院に長日生身供(しょうじんく・835年 空海は、高野山奥の院にご入定になりましたがいまも弘法大師が生きておられます。あくまでも入定)を始行し、備前国鳥取庄の年貢十三果(十三石)を供料とした。生身供とは、弘法大師像に対して生前同様に粥食等の給仕を行うことである。この生身供は、その後脈々として伝えられ、現在でも毎朝六時から御影堂で、多数の善男善女の参集のもとに厳粛に執り行われている。

 宣陽門院の御願によって、御影堂において新しい多くの法会が営まれるようになったが、その経済的基盤を確保するため、宣陽門院は大和国平野殿庄をはじめ伊予国弓削鴫庄・安芸国後三条院新勅旨田などの庄園を寄進した。これらは、広い意味での「仏宝」の充実といえよう。宣陽門院は、ついで宋版大般若経・宋版一切経の経典類をはじめ仏像・仏具などを寄進して「法宝(神通力を持った宝,万能の宝,打ち出の小槌)」の充実にも力を注いだ。

 ここに、御影堂を中心とした新しい東寺の信仰形態が整うことになる。この御影堂の成立は、まさに東寺が大師信仰を中心とした中世寺院への新たなる転換を意味するものであった。そして、その後の大師信仰の発展については、私がいろいろな機会に紹介してきたので、ここでは省略することにする。かくして、これまで講堂において分かち難く融合していた密教の根本道場と鎮護国家の堂宇(殿堂)という二つの性格が、密教の根本道場=祖師信仰の場が新しい御影堂に移されることによって、講堂=鎮護国家の堂宇という性格が鮮明になるのである。

 後深草天皇の建長四年(一二五二)二月、長者道乗どうじょう・1215-1274* 鎌倉時代の僧。建保(けんぽ)3年生まれ。頼仁(よりひと)親王の王子。真言宗。仁和(にんな)寺で出家,東寺の良慧(りょうえ)に師事し,灌頂(かんじょう)をうける。建長3年大僧正となり,東寺長者,法務をかね,後深草天皇の護持僧をつとめた。宮大僧正 仁和寺上乗院門跡)の上奏(大臣・議院・官庁等が天皇に意見を申し述べること)によって、さきの延応二年の五口の供僧(ぐそう・寺院で本尊に奉仕する僧)に加えて、新たに十口の供憎が任命された。延応の五口は、諸堂に配置されることなく、御影堂において三時の勤行・御影供・舎利講を修するだけであった。しかし、この度の十五口は、講堂・金堂・濯頂院・食堂・西院とそれぞれの諸堂に三口ずつ配せられることになった。この年二月十四日、この十五口の供僧は西院集会所に集まった後、講堂に入り、勅使奉行平惟忠・院司高階邦経の臨席のもと、供僧一南の法印権大僧都厳遍が供養法をはじめ「天長地久 長日御願」(『東宝記』)を行った。その後、諸僧はそれぞれ講堂に分かれ、そこでそれぞれの行法を修した。そして、これら十五口の供僧はその後加増され、文永九年(一二七二)には十八口となり、この新しい供僧は鎮守八幡宮に配せられた。かくして、講堂をはじめ講堂に配せられた供僧はそれぞれのところで修法・祈蒔を行うようになり、各伽藍でいとも厳粛に修法・法会が営まれた平安時代の盛時の完全な復活を思わせるものであった。

 この十五口供僧(ぐそう・寺院で本尊に奉仕する僧)の設置については注目すべきことがいくつかある。これまでの宣陽門院の東寺保護は、御影堂中心すなわち大師信仰の興隆に力が注がれていたといえる。しかし、この度は講堂をはじめとする平安時代以来の諸堂に供憎が配置されたということでもわかるように、講堂を中心とした伝統的な修法・法会の復興に主眼があったといえるのである。それは、この十五口の供僧設置の目的が、前述のように「天長地久 長日御願」であり、また「各修三密之喩伽 奉祈万歳宝絆」(建長四年二月補任状)であることによっても知られるのである。すなわち、宣陽門院の保護によってほぼ基礎の固まった大師信仰についで、平安時代以来の伝統的な「鎮護国家」の宗教の復活を意図したものであるといえるのである。この頃、はじめて「教王護国寺」という言葉が文書にみられるようになるのもこれと関係するものである。

 『御遺告』のような文献ではなく、正式の文書類に「教王護国寺」なる言葉がはじめてみられるのは、仁治元年(一二四〇)十月日教王護国寺三綱等解(東寺文書 御七)である。これについては、詳しく述べなければならないが、この「教王護国寺三綱」という意識は、この文中に「勤行公家御祈、奉資天長地久之御願」ということに相応ずるものであって、「公家御祈」=「天長地久之御願」、すなわちまさに「鎮護国家」の思想の表現といえるのである。これ以降、時に公文書その他の文書類に「教王護国寺」なる言葉がみられるようになるが、その多くは「鎮護国家」の意識と密接に関連しているのである。かくして、鎌倉時代にいたって「教主護国寺」なる意識が「鎮護国家」と結びつくことになる。そしてそれは、さきにも述べたように「教王護国寺」という寺号は、空海が「仁王護国の尊像」を講堂に安置したことによるという『東宝記』の記事にいたって定着し、現在一般に考えられている「教王護国寺」=鎮護国家の寺院なる考え方を形成するのである。

 

 さきの建長四年の十五口の供僧設置、さらにその後の十八口の供僧の整備によって、大師信仰の中心である西院はもちろん、講堂を中心とした平安時代以来の伽藍においてもそれぞれの長日行法が行われるようになった。しかし、正中三年(一三二六)正月十八日の太政官牒(東寺文書 楽乙四)に、「講堂の仁王経(にんのうきょう・は、大乗仏教における経典のひとつ。仁王般若経とも称される)の行法は天長の昔にはじまり、建長年間に再興されたがその供料の欠乏によって供養法(行法)は行われず、ただ転経のみが修せられたにすぎなかった。そこで高祖弘法大師が講堂を創建した本意が失われ、ただ教主護国寺の寺号を空しくするのみである」とみえるように、「公家御祈(くげおいのり)」を全うするという十八口の本供僧の設置も、十分にはその目的を達することができていなかったというのが実情であった。ここに、後醍醐天皇は仏法興隆の志をおこし、正中二年正月一日、六箇の御願を立てて皇室の御願寺であった最勝光院を永代東寺に寄進することとなる。その六箇の御願というのは、最初に「講堂において仁王般若経を修すること」と述べているのをはじめ、鎮守八幡宮・濯頂院・塔婆においてそれぞれの行法・法会を営むことを願っている。これはさきの十八口の本供僧の設置の目的を徹底させたもので、全体として平安時代以来の伝統的な修法・法会=鎮護国家の祈藤のいっそうの充実を意図したものといえる。そして、これは後醍醐天皇の「延喜の古にかえす」という政治理想とも一致するものでもある。この御願にもとづいて、文永の十八口の本供僧、さらには後宇多法皇による廿一口供僧のほかに、新たに講堂に六口、濯頂院護摩堂に三口の供憎がおかれ、これらは最勝光院方(さいしょうこういん・現京都市東山区にあった後白河法皇の御願寺(ごがんじ)の一つ。法皇の院御所の法住寺殿の一部に建てられ,その女御建春門院平滋子とその子高倉天皇を本願とする。1173年(承安3)落慶法要)という供僧の組織を形成した。そして、前者は講堂供僧といって講堂において仁王般若の長日行法を行い、後者は護摩供僧といって濯頂院護摩堂で長日護摩を修することになった。そして、これらの修法・法会を経済的に保証したのが、後醍醐天皇の寄進にかかる最勝光院領庄園であった。

 かくして、鎌倉中末期から南北朝時代になると、十八口供僧・廿一口供僧・最勝光院方、さらにはここでは詳しくは述べなかったが、学衆方・鎮守八幡宮方・植松方・宝荘厳院方・不動堂方など数多くの寺僧組織が結成される。そして、これらの組織がそれぞれの設立の趣旨にしたがって、各種の修法・法会を営むことになるのである。さらに室町時代になると、これらの組織もいっそう整備され、整然たる体系のもとに寺院活動が行われることになる。いま、応永十一年(一四〇四)頃の東寺の修法・法会の模様の一部を、『廿一口年預記』(東寺文書 追加之部)などによって述べると次のようになる。

 大師信仰の中心になる西院御影堂(みえいどう)においては、毎日早朝弘法大師像に供物を捧げる生身供、さらに毎日朝昼夕の三時勤行がしめやかに行われた。また、御影堂内の舎利塔の前では後宇多法皇立願の不断陀羅尼(だらに・経文の中のその呪文)が修せられた。これら日常的あるいは恒例の長日祈商のほか、毎月二十一日には御影堂御影供が修せられ、また毎月晦日には宣陽門院寄進の五重小塔の前で舎利講(仏舎利を供養する法会)が営まれた。毎年定例のものとして、修正会(正月三日)・涅槃講(二月十五日)・仏生講(四月八日)・孟蘭盆講(うらぼん・7月15日を中心に祖先の冥福を祈る仏事)などの仏事が行われ、正月十四日の高倉院追善(死者の冥福を祈って、仏事行事)仏事、同十五日の行円比丘尼追善仏事をはじめ応永十一年頃には三十余りの仏事が営まれている。さらにこの頃になると光明真言(不空大灌頂光真言(ふくうだいかんぢょうこうしんごん)という密教の真言である)講も行われるようになり、御影堂は弘法大師像を中心に線香の煙はたえることなく、四六時中敬度な祈りが捧げられていたものと思われる。

 これに対して、講堂・金堂・鎮守八幡宮などの伽藍においてもそれぞれの修法・法会が厳粛に執り行われた。その代表として、講堂の場合をとりあげてみることにする。講堂においては仁王(にんのう)般若秘法[十六大国(紀元前6世紀頃から紀元前5世紀頃にかけて古代インド(ここでいうインドは主に北インドを指す)に形成され相互に争っていた諸国の総称]は,鎮護国家のためには般若波羅蜜多を受持すべきであると説かれている。また,この経を受持し講説すれば,災難を滅して幸福を得ると説かれている)を修する恒例の長日行法が行われた。これには後醍醐天皇の御願(ごがん・天皇の勅願)にかかる六口の講堂供憎が順番をきめて交代でこれを勤めた。そしてこの勤行の割り当てを、とくに「教王護国寺長日供養法結番定文」と称しているのも注目されてよい。すなわち、講堂のもっとも重要な行法が「教主護国寺長日供養法」であったのである。この頃になると、室町将軍のためにその「息災安穏、増長宝寿」を祈って講堂で仁王経の読経が行われる。足利義満の誕生日は延文三年(一三五八)八月二十二日であったから、正月・五月・九月・十二月のそれぞれの二十二日に定例の行事として行われている。これは戦国時代にいたるまで引き続き行われ、それぞれの将軍の誕生日にあわせて仁王経読謡が行われたのである。室町将軍のための仁王経説諭が鎮護国家の堂宇(殿堂)である講堂で執り行われているということは、この頃の室町将軍の地位を象徴的に表すものといえよう。この他、講堂だけではなくそれぞれの伽藍では長日の祈祷はもちろんのこと、武家・公家といったこの頃の支配者層のための定例あるいは臨時の祈祷が数多く修せられ、平安時代以来の伽藍においても新しい御影堂に劣らず、各種の修法・法会が盛大に行われたのである

 これまで、応永十一年頃の東寺の宗教活動の一部をみてきたが、すでに明らかなようにこれには大きく二つの流れがある。一つは鎌倉時代にはじまった新しい御影堂を中心にした信仰である。一言でいうと大師信仰といってよいが、祖師弘法大師だけではなく広く東寺の発展に寄与した人たち、それは光明真言講にみられるように名もない一庶民も含めて、東寺が主体的に行う法会である。これに対して講堂を中心にした伽藍における法会・祈祷は、平安時代以来の鎮護国家の寺院としての伝統をうけつぐものであって、幕府・朝廷を含めた当時の支配者層のために行われた。したがってこれは、それぞれの命令・依頼によるいわば他動的なものであったということができるのである。東寺の主体的な祈祷(大師信仰)と、他動的すなわち時の支配者などの依頼による祈祷(鎮護国家の祈祷)、それは祖師信仰も含めて大きく来世の往生を願う祈祷と、鎮護国家も含めて現世利益を目的とする祈祷というように分けることもできようが、この二つがそれぞれ御影堂と伽藍というように、別の堂舎で行われたところに中世東寺の特色があったといえよう。ここに東寺とは別に教王護国寺なる意識が成立する理由があるのである。

 この頃の東寺の信仰には、このような二つの流れがあったとはいえ、それは相反する二つのものではなく、まさに分かち難く融合して東寺という一つの寺院を形作っていたのも、また中世東寺の特徴である。それは、この頃の東寺の寺僧組織をみるとよくわかる。さきに、東寺の寺僧組織としては廿一口供僧をはじめ、数多くのものがあることを知った。しかし、これらは完全に独立した組織ではなく、多くの寺僧は廿一口供僧・鎮守八幡宮供僧・学衆を兼帯し、さらに最膠光院方や宝荘厳院方その他の供僧などを兼ねるものもみられるのである。したがって、供僧といい学衆というも、いずれも東寺ないしはその関係の寺院の僧侶である。かれらは行法・法会の目的にしたがっていくつかの組織に分かれるが、その構成員は同一人がいくつもの組織を兼ねており、全体として、束寺の寺僧という一つの集団を形成しており、これらは混然一体となって東寺という一つのまとまりを形作っていたのである。かくして、教王護国寺という概念は、一方では鎮護国家の官寺という性格が強調され、また一方では密教の根本道場を意味するものとして用いられてきた。そして、この二つがなんの抵抗もなく、またまったく矛盾を感ずることなくそのまま受け入れられているのである。それは、まさに以上のような中世東寺のあり方によるものであるが、それはまた東寺創建以来積み重ねられてきた歴史的所産であるともいえよう。

(花園大学教授)

▶薬師三尊像 金堂講堂内部

■東寺の美術

■彫刻

 西寺とともに限られた官寺の一つであった東寺は、その伽藍も奈良時代風の整然とした配置である。南大門と中門を通ると、金堂・講堂・食堂が南北一直線に並び、金堂前の東方に五重塔が建つ。これと対称の位置に塔がもう一基あれば薬師寺式の伽藍配置となるところ、ここに灌頂院が置かれたのは、空海の意図によるのだろう。このほかに主な建物として、灌頂院の東に鎮守八幡宮、境内西北隅に西院、東北隅に宝蔵が建つ。

 これらの諸堂の安置仏像と、法会に所用の面・仏像などを、順を追って解説しよう。

 最初に起工されたと考えられる金堂には、薬師三尊像が安置された。東寺がまだ密教化しない以前の様相がここに残る。中尊の丈六薬師像は、左手を与願印(よがんいん)とし(掌上に薬器を載せない)、左足を上に組んで坐す(降魔坐)という奈良時代顕教仏と同じ像容を示す。光背には七仏薬師を付け、下に十二神将(下図)を置いたという。現存の像は堂と同じく慶長八年(一六〇三)に再興されたものだが、創建時の像容に忠実に従った姿が見られる。像内の銘から、大仏師康正が康理・康猶・康英などの小仏師を従えて道立したことが知られる康正はこの頃の東寺大仏師で、同寺仏像の修理・新造など、当寺の慶長期復興造像のほとんどを手がけた仏師である。

 弘仁十四年(八二三)、まだ未完成の東寺が空海に下賜された。同寺が真言密教専修の道場となったのであり、講堂がその中心堂宇とされた。天長二年(八二五)講堂の図様が定められ、さっそく安置仏像の造立が始められたが、落慶供養は、空海没後四年を経た承和六年(八三九)六月のことであった。七間四面(桁行<けたゆき>七間の身舎<もや>の四面に一間通りの庇<ひさし>が付くプラン)の講堂の中に長大な石積みの須弥壇が築かれ、、その上に五仏・五菩薩・五忿怒(ふんぬ・五大明王)・梵天・帝釈天・四天王の合計二十一等が安置されたのである。

 建久八年(一一九七)の修理の際に取り出された梵字真言により、主要な尊名は次のように決められる。

◎五 仏‥大日・阿閦(あしゅく)・宝生(ほうしょう)・阿弥陀・不空成就

◎五菩薩‥金剛波羅蜜・金剛薩埵(さった)・金剛宝(1)・金剛法・金剛業

◎五忿怒‥不動・降三世(ごうざんぜ)・軍荼利(ぐんだり)・大威徳(2)・金剛夜叉

 図示したように後補像が六驅あり、当初の姿を留めるのは十五驅である。いずれも被災・修理・復興などがたびたびあり、移動の際に尊像が誤って配置されたこともあったようである。十世紀初めの『不灌鈴等記』の図を現状と比べると、五仏のうち四仏、五菩薩のうち四菩薩、および梵天・帝釈天の位置がそれぞれ異なっている。同書編纂の頃までに尊像の移座はなかったと考えられるので、この図のとおり、四仏・四菩薩・四盆怒・四天王の各座位がいずれも東南方から始まるとするこの配置が、当初の状態をあらわすとみてよい。

 

 同書の図中に 「仁王経曼荼羅(上図右)」という書き入れがあり、その当時、これら諸尊が同曼荼羅に基づくとする説のあったことが窺える。しかし『仁王経』に説く五方曼荼羅とは必ずしも一致せず、むしろ現在では、金剛界法と仁王経法の重複した独特の曼荼羅と解されている。不空訳の『仁王経念詞念誦儀軌(ねんじゅぎき)』 には五菩薩・五忿怒・五守護天(四天王と帝釈天)の各五尊を、それぞれ中・東・南・西・北の五万に配することを説いているが、この構成を基本とし、その上位に立つものとして金剛界五仏を置き、さらに帝釈天と対をなす梵天(下図左・右)を加えたものが、この二十一尊である

 

 講堂はその後何度も災害にみまわれている。文明十八年(一四八六)の土一揆の際はことに被害甚大で、五仏と五菩薩中尊が焼失した。このうち五仏中尊の大日像は明応六年(一四九七)に復興造立された。仏師は中島ともあるいは康珍ともいう。さらに天正十三年(一五八五)、文禄五年(一五九六)の度の大地震でも被害を受けたが、北政所(秀吉の母)により復興が行われ、仏像の修理は康正が担当した。現存の五仏のうち阿閦(あしゅく)・宝生(ほうしょう)・不空成就の三像はこの期の造立とみられる。また、阿弥陀像は天保五年(一八三四)に古仏(平安時代後期)の頭部を利用してつくられたもので、五菩薩中尊の金剛波羅蜜像も江戸時代の作である。

 このように被災を何度も経験した講堂諸像ではあるが、近年、創立当初に遡る部分の見直しが積極的に進められている。その一は、五仏中尊大日像の光背に付けられている三十七体の化仏のうち一体(上図)が九世紀創建時のものであると確認されたこと。第二は、大日像の台座に八体の獅子が、また金剛波羅蜜像の台座には六体の獅子が、それぞれ付けられていたのだが、そのうちの一体とみてよい獅子像「(5)が出現したこと。第三には、この獅子像と同時期・同一工房の作と考えざるを得ないほどよく似た獅子・狛犬像(下図)が発見され、金堂または講堂の旧安置と推定されることなどである。

 これらの像は、その立体的な量茶羅の構成だけでなく、各尊像それぞれを見ても、多面多臂(ためんたひ・顔や腕の数の多いこと)や忿怒形(ふんぬぎょう・怒りの様子)という密教独特の図像による迫力ある造形に、それまでになかった新たな信仰と美意識の誕生を看て取ることができる。

 

 食堂(じきどう)の建立はこれよりさらに遅れて、聖宝(しょうぼう・天長9年(832年) – 延喜9年7月6日(909年8月29日))平安時代前期の真言宗の僧。醍醐寺の開祖で、真言宗小野流の祖)が東寺長者だった時のことである。本尊の千手観音像とその周囲に配された四天王像は聖宝の主宰により造立され、開眼供養に宇多法皇が行幸、内裏では誦経(経典を朗誦すること)が修されたという。完成の時期は昌泰二年(八九九)から延菩九年(九〇九)の間と考えられる。像内に納入された桧扇(7)には元慶元年(八七七)とえいう年紀が畫かれていた。仏像の作者として、聖宝説と会理(えりえり、仁寿2年(852年)- 承平5年12月24日(936年1月20日))は、平安時代中期の真言宗の僧)説の二つがあるが、いずれも造像に直接手を下したというよりは、指導的立場にいたのであろう。

 千手像・四天王像とも昭和五年十二月の食堂火災に焼損した。千手像の修理は同四十年まで待たなければならなかったのだが、その際、面相部の上にかぶさる鎌倉時代と江戸時代の漆の層を取り除いた結果、造立当初の面影をよく残す相貌が現れたのであった。一方焼損の度合いがより大きいため放置されていた四天王像(8)は、最近施された樹脂硬化処置の後の姿を見ると、思いのほか原状をよく留めており、千手像とともに、なおこの時期を代表するに足る基準作品であり続けている。空海からいえば孫弟子の源仁のさらに門下に当たる聖宝の時代となると、造像の傾向も草創期のそれを離れて、図像的には雑密(ぞうみつ・空海以前の密教)の尊像が多くなり、作風も天平彫刻を範としたような大づくりなものになるという特徴を、これらの像はよくあらわしている。

   

 図示したように後補像が六躯あり、当初の姿を留めるのは十五躯である。いずれも被災・修理・復興などがたびたびあり、移動の際に尊像が誤って配置されたこともあったようである。十世紀初めの 『不濯鈴等記』 の図を現状と比べると、五仏のうち四仏、五菩薩のうち四菩薩、および梵天・帝釈天の位置がそれぞれ異なっている。同書編纂の頃までに尊像の移座はなかったと考えられるので、この図のとおり、四仏・四菩薩・四盆怒・四天王の各座位がいずれも東−岡方から始まるとするこの配置が、当初の状態をあらわすとみてよい。

 

 同書の図中に 「仁王経曼荼羅」という書き入れがあり、その当時、これら諸尊が同量奈羅に基づくとする説のあっにんのうきょうたことが窺える。しかし『仁王経』に説く五万曼荼羅とは必ずしも一致せず、むしろ現在では、金剛界法と仁王経法ふくうにんのうの重複した独特の塁茶羅と解されている。不空訳の 『仁王考経念詞儀軌』 には五菩薩・五盆怒・五守護天(四天王と帝釈天)の各五尊を、それぞれ中・東・南・西・北の五万に配することを説いているが、この構成を基本とし、その上位に立つものとして金剛界五仏を置き、さらに帝釈天と対をなす梵天を加えたものが、この二十一尊である。

 講堂はその後何度も災害にみまわれている。文明十八年(一四八六)の土一揆の際はことに被害甚大で、五仏と五菩薩中尊が焼失した。このうち五仏中尊の大日像は明応六年(一四九七)に復興道立された。仏師は中島ともあるいは康珍ともいう。さらに天正十三年(一五八五)、文禄五年(一五九六)の二度の大地震でも被害を受けたが、北政所(秀吉の母)により復興が行われ、仏像の修理は康正が担当した。現存の五仏のうち阿問・宝生・不空成就の三像はこの期の造立とみられる。また、阿弥陀像は天保五年(一八三四)に古仏(平安時代後期)の頭部を利用してつくられたもので、五菩薩中尊の金剛波羅蜜像も江戸時代の作である。

  

 食堂の建立はこれよりさらに遅れて、聖宝が東寺長者だった時のことである。本尊の千手観音像(上図)とその周囲に配された四天王像(下図)は聖宝の主宰により造立され、開眼供養に宇多法皇が行幸、内裏では詭経が修されたという。完成の時期は昌泰二年(八九九)から延菩九年(九〇九)の間と考えられる。像内に納入された桧扇(7)には元慶元年(八七七)とえいう年紀が善かれていた。仏像の作者として、聖宝説と会り理説の二つがあるが、いずれも造像に直接手を下したというよりは、指導的立場にいたのであろう。

 千手像・四天王像とも昭和五年十二月の食堂火災に焼損した(上図左右)・千手像の修理は同四十年まで待たなければならなかったのだが、その際、面相部の上にかぶさる鎌倉時代と江戸時代の漆の層を取り除いた結果、造立当初の面影をよく残す相貌が現れたのであった。一方焼損の度合いがより大きいため放置されていた四天王像は、最近施された樹脂硬化処置の後の姿を見ると、思いのほか原状をよく留めており、千手像とともに、なおこの時期を代表するに足る基準作品であり続けている。空海からいえば孫弟子の源仁のさらに門下に当たる聖宝の時代となると、造像の傾向もぞうみつ草創期のそれを離れて、図像的には雑密(空海以前の密教)の尊像が多くなり、作風も天平彫刻を範としたような大づくりなものになるという特徴を、これらの像はよくあらわしている。

 

 今は宝物館に移されている聖僧文殊像(上図左)はもともと食堂安置である。僧侶の生活の場に、生身(しょうしん)が信じられた尊像(聖僧)を置く習慣は中国では古くからあったが、文殊を聖僧として食堂に置くことは、唐代八世紀、不空(不空三蔵・不空金剛・上図右)により広められ、わが国にも伝えられた。本像は聖僧としての文殊の最古の例。食堂建立よりはるか以前、当寺草創期の作であるが、一部に後世の改修が見られる。

 中世、食堂にはこのほか地蔵菩薩像(上図左)と兜抜毘沙門天像(上図右)が一時置かれた。前者は西寺伝来と伝え、平安時代十世紀後半の作。後者は平安京羅城門に旧安置の像で、この門の顛倒(倒れること)ののち移されたという。中国唐代のものである。

 

 五重塔の建立も遅れたようで、元慶年中(八七七−八八五)の落慶(社寺の新築または改築工事が完成した祝い)ともいう。その内部には阿閦(あしゅく・上図左)・宝生(ほうしょう・上図右)・阿弥陀・不空成就の金剛界四仏(それぞれの両脇に二菩薩が配される)が置かれた。塔自体が大日如来の象徴なのだから、合わせて金剛界五仏としているのである。現在の塔は寛永十二年(一六三五)の火災後の復興で、安置仏像もその時のものである。

 灌頂堂には仏像はないが、南大門に金剛力士像(二王・上図左右)が、中門には二天像が置かれた。建久(一一九〇−九九)の復興時に、前者は仏師運慶・湛慶父子がそのほかの運慶の子息たちの助力を得てつくり、後者は運慶の子息六人(湛慶・康運・康弁・康勝・遠賀・運助)が分担して造立した。しかしいずれも現存しない。また、最初南大門に置かれ、のち中門に移された夜叉神像(13)が、現在では食堂前の夜叉神堂に祀られている。

 空海在世中の住房と伝える西院は、その南面の不動堂空海の持仏堂といい、北面はその肖像を祀る御影堂である。しかし西院創建の年次をいう確たる文献はなく、不動像も空海没後の貞観九年(八六七)頃の作と考えられている。そうとすれば、この像は講堂諸像よりも約三十年後の道立となり、彼のもつ激しい覇気が、本像では薄められ幾分弱くなっているという違いは、約三十年という間隔、ひいては担当仏師の世代の交代に起因するといえよう。本像と一兵をなす天蓋、大壇(下図左右)もこの時期のものである。

弘法大師像 西院御影堂鎮守八幡宮内部

 御影堂本尊弘法大師像は天福元年(一二三三)、仏師康勝によってつくられた。康勝は運慶の第四子現存最古の弘法大師の彫像(下図左)。それ以前からもあったであろう大師彫像の流れを汲み、同時に後世の規範となるべき典型がここにつくられた。大師信仰の隆盛にともない、大師像の道立はこれ以後盛んとなる。しかし当初、本像の安置場所は西院内でも応急の場だったらしく、現在の北面の位置に定められ御影堂とされたのは、延応二年(一二四〇)のことであった。

 

 この年はまた宣陽門院(後白河上皇の皇女)五重小塔(上図右)を西院に施入した年でもある。明らかに御影堂の設置に合わせた処置で、仏舎利三粒を納め、大師像の脇に置かれたこの塔を本尊として、以来毎月晦日に西院舎利講が修されるのが慣いとなった。

——————————17     18————————————————-

 宣陽門院はまた仁治三年(一二四二)に弥勒菩薩像(18)と釈迦如来像(17)を御影堂に施入している。ともに舎利講に際して祀られるべき像としてであったに違いない。

 鎮守八幡宮は東寺草創の時期に、平安京鎮護のために勧請(かんじょう・神仏の来臨を願うこと)されたが、この時はまだ神体は置かれていなかった。嵯峨天皇の代、いわゆる薬子(くすこ)の乱(藤原薬子が平城上皇の重祚<ちょうそ・一度退位した君主が再び即位することである>を企てて挙兵した乱)の時の祈願により、空海が重ねて勧請したところ、虚空(こくう・何もない空間・空中)に八幡三神と武内宿禰(たけのうちのすくね)が現れたので、これを紙に写し、のち木に刻んで、社壇に安置したという由来がある。『東宝記』に三神は法体(ほったい)・俗体・女体とあり、現在八幡宮に祀られる三神(僧形八幡神、女神(二体 下図左右))と比べると、形の上での齟齬があるけれど、現存像は九世紀前半に遡る作であり、この伝承そのものに相当する像とみて、まず間違いない。八幡神は、その後の作例では僧形と二女神の三尊が一般的なので、本三神像も当初からの構成とみてよい。神仏習合を積極的に推進してきた八幡神だけに、神像もかなり早い段階からつくられていたらしい。本像は八幡神像としてだけでなく、わが国神像の現存最古例でもある。ただし武内宿禰像(20)だけはそこまでは遡らず、十一世紀前半頃の作。

 

 塔頭(たっちゅう・禅宗寺院で、祖師や門徒高僧の死後その弟子が師の徳を慕い、大寺・名刹に寄り添って建てた塔(多くは祖師や高僧の墓塔)や庵などの小院)にも古い仏像が伝えられている。もっとも著名なのが、観智院(かんちいん)に伝わる五大虚空蔵像(下図左右)であろう。実慧(じちえ・空海の弟子)の弟子恵運(えうん)が中国からもたらしたもので、もとは山科の安祥寺(上安祥寺)の礼仏堂 (根本北堂とも)に安置されていたが、この堂が顕倒したため、勧修寺を通して観智院に移された。中国唐代九世紀の貴重な木彫像の通例でもある。

 ここまでは、堂の順に安置仏像を見てきたわけだが、次に法会に使われた仮面や仏像に移ろう

 灌頂院を創建した実慧(じちえ)奏講(そうせい・天皇に申し上げて,その決定を求めること)により、承和十年(八四三)、真紹伝法灌頂(でんぽうかんじょう・阿闍梨という指導者の位を授ける儀式である)が授けられ、翌年結縁濯頂(けちえんかんじょう・密教儀式の一つ。広く在家の人々に仏縁を結ばせるため行う)が行われた。これが東寺における灌頂の最初である。この灌頂会の行道(ぎょうどう・,仏会で本尊や堂塔の周囲を仏を念じて経文を称えたりしながら回る礼拝形式をいう)は、讃衆・持金剛衆・楽人・持幡天人・阿闍梨(あじゃり)・輿持・執芸大童子・小童子・十弟子から成り、このうち楽人が十二天の装束(しょうぞく・衣服を身に着けること。装うこと)をしたという。

 現在十二天面はすべて寺外に出、京都国立博物館に七面(帝釈天・火天・風天・昆沙門天・伊舎那天(自在天)・梵天・日天 上図)、アメリカのホノルル美術館に二面(羅刹天・月天)あるのが確認される。長保二年(一〇〇〇)の宝蔵火災の折にこれらの面は取り出され無事だったが、十二天の行道は装束等の煩いのため廃され、代わって十二天屏風に改められて、残った面は五重塔供養の行道に転用されるようになった。応徳三年(一〇八六)と建武元年(二二三四)の塔供養にこれが使われたことが各面裏の墨書により知られる。しかし文禄三年(一五九四)の塔供養会では面の使用さえも略されてしまった。

 このように変転の多かった十二天面の制作時期を推測すると、円融法皇が灌頂院で両部伝法灌頂を受けた永祚元年(えいそ・九八九)が、有力候補として浮かび上がる仏師康尚(こうしょう)の活躍した時代の風をよく残すつくりからすれば、可能性のある考えである。

 もう一つの重要な法会が舎利会である。これは古くからあったようだが、一時中断し、康和五年(一一〇三)に再開された。しかし道具類の整備は遅れ、装束や面の制作は鎌倉時代までもち越された。この時代の半ば頃につくられた八部衆面は、個人所蔵となった二面を加えて七面(禦が現在確認でき、写真だけで知られる残りの一面を入れると、比較的近時まで一具八面が揃っていたことになる。別に獅子口取(ししくちとり)が三面、獅子子(ししこ)が二面あるが、もとはともに四面あったはずのものである。

 なお近年、八部衆面のうち四面分の後頭部が発見された。これにより、面相部の縁に後頭部を紐で連結し、あたかも伎楽面のように演者の頭全体をすっぽりと覆うように被られるものであることが判明した。

 

 毎年の正月八日から七日間、宮中で行われる後七日御修法下図左右(ごしちにちのみしほ・真言宗の最高の儀式・国家/五穀/国土などを祈って、7日間(二十一座)にわたり祈念)の中日の翌日(十二日)、仁寿殿(のちに清涼殿の二間)で ふたま観音供が修された。この本尊が二間観音像(下図)である。弘仁十四年(八二三)、空海の奏による始修というが、その本尊は何度も罹災(りさい)と復興を繰り返し、現在の像は鎌倉時代前半頃のもの。白檀材を彫出し、表面に截金(きりがね)文様を多用した檀像である。最近、貞永元年(一二三二)に造立供養された観音像に比定しうるという有力な見解が出された。

 以上で、諸堂安置の仏像、法会所用の面と仏像の簡単で羅列的な解説をひとまず終える。しかし東寺には、本来どこに祀られたか判らない像や伝来の不明なものが、なお少なからずある。それらは今後の研究で正統な位置付けを得られるものも出てこようが、それでも残る謎の多さは、東寺の歴史の深さそのものの反映でもある。

伊東史朗