第三講・平安前期(遷都と仏教の革新)

■遷都と仏教の革新

▶遷都と平安時代前期

 

 延暦三年(七八四)桓武天皇は七十余年間続いた平城京を廃し、山背国乙訓郡(やましろのくにおとくにぐん)の長岡の地に遷都した。新都造営は当初順調にすすんだが、やがて水害や天皇近親の不幸が相次ぐなどの問題が生じ、延暦十三年には同じ山背国の葛野・愛宕両部にまたがる地、すなわち平安京に再び遷都する。長岡京の時代はわずか十年間であるが、この時期に、仏像は衝撃的な転形の様相をみせる。仏像史における平安時代を長岡遷都から説き始めるのは、そのためである。やがて、新都平安京にも、旧都平城でもあたらしい仏像の造形が展開し、さらに地方にも広くおよぶ。これが平安時代前期である。その終わりは遺品の状況などから、十世紀前半延長年間(九二三〜九三一)頃と考えられており、その後の平安後期にくらべればやや短いので平安初期と呼ぶことも多い。第三講では、時代区分上では平安後期にはいった十世紀後半および十一世紀初めあたりまでもふくめて概観することにする。

▶仏教刷新と密教請来

 桓武天皇の遷都は寺院政策ともおおいに関係があった。長岡京には既存以外の私寺造営は禁じられ、平安京には官寺として東寺・西寺が造営されたが、それ以外の私寺造営は禁じられた。奈良時代の仏教が平城京内の大寺を中心として展開し、政治権力と癒着していたのを刷新しようとしたのである。都市を離れた山林における仏教修行は奈良時代後期には禁圧された時期があったが、末期にはむしちんろ復活が願われ、それによってえた法力を鎮護国家に役立てることが期待された。前講でのべた神仏習合進展の舞台もこのような山林修行の場であった。平安新仏教を打ち立てた最澄(七六七〜八二二)空海(七七四〜八三五)も山林仏教の伝統からあらわれた僧である。

 最澄・空海はいずれも延暦二十三年(八〇四)に入唐した。最澄(上図右)は天台教学を学んで翌年帰国し、桓武天皇の庇護を受けて日本天台宗を開く。空海(上図左)は青龍寺(せいりゅうじ)の恵果(けいか)に師事して正純密教の奥義を学び、大同元年(八〇六)に帰国した。正純密教とは、初期の密教(雑蜜・ぞうみつ)の諸尊を、大日如来を中心とする金剛界と胎蔵界の両界曼茶羅によって体系化(下図)したものをいう空海が問いたのが真言宗である。一方、最澄が学び、請来した天台教学では密教はなお不十分なものであったが、最澄の弟子円仁や円ちん珍は入唐して密教を学び、天台宗の密教化に成功している。これら密教の請来によって、それまでになかった仏像の種類やかたちが日本にもたらされた。

▶神仏習合と木彫

 神仏習合の進展により、すでに奈良時代に神像が成立していたことは第二講の最後にのべた。その具体的な姿が知られるのはこの時代以降であるが、神仏習合思想の深化と各地への伝播は仏像の展開にもきわめて大きな意味をもった。平安初期の仏像には、前代までにはなかった恐ろしげな異相をもつものや極端に誇張された表現をともなうものがあらわれるが、それらは荒ぶる神や怨霊(おんりょう・自分が受けた仕打ちに恨みを持ち、たたりをしたりする、死霊または生霊のことである)に対抗する強力な力を象徴するものと解されている檀像の尊重を契機とする木彫の興隆は、神仏習合の伝播とともに神の依り代(よりしろ)としての各地の霊木信仰と結びつき、この時期の一木造りの仏像の広範な展開の原動力となった。

■転形の時代

 まず都が長岡に移された時期の三躯の像をあげる。いずれもカヤ材の一木造りで、代用檀像として造られたものであろう。これらは、それぞれ別の背景をもちながら、あたらしい時代のあたらしい仏像の造形を木という素材によって現出したものである。ついで、それに続く八世紀末から九世紀初めの時期にも伝統を継承しながら、それを大きく踏み出した作品群をみることができる。

 なおこの時期の延暦八年(七八九)に、奈良時代に東大寺を造営するために設けられた役所である東大寺司が廃止されたのも、奈良時代の造形の解体を象徴するできごとである。所属した工人は一部は縮小組織の造東大寺所に残ったであろうが、多くは新都の造像を担当するあたらしい組織に転じた可能性がある。

▶神護寺薬師如来像

 

 この時期の第一にあげるべきは京都・神護寺薬師如来立像である。和気清麻呂が道鏡事件において八幡神より受けた託宣(道鏡を皇位につけるべしとした託宣が虚偽であるとの託宣)にもとづいて建立した神願寺の本尊が、天長元年(八二四)に高雄寺に移されたものと考えられる。神願寺の所在地には諸説があるが、京都府八幡市の西山廃寺にあったとする説が有力である。神願寺の建立は延暦年間(七八二〜八〇六)といい、その十二年には清麻呂が墾田を施入しているから、本尊は延暦初年の造立と推定されている。史料に「檀像薬師」と呼ばれ、突き出す腕の別材も縦木を使うところからみれば、すべてを一材から彫り出す檀像の意識がつよいのだろう。像容にはあたらしい中国影響が認められるが、拝する者を畏怖させるようなすさまじい異相や自然な比例を無視して部分を強調する体躯表現などの破調に、道鏡の怨霊や道鏡一派の呪誠に対抗するための神威が仏像に籠められた神仏習合の性格をみる意見がある。

▶宝(ほう)菩提院菩薩像

 京都・宝菩提院菩薩坐像(上図左右)は、長岡京内にあった願徳寺の一院宝菩提院に伝来した像で、新都において造像されたものと思われる。のちに中尊が太秦(うずまさ)広隆寺に遷された乙訓社薬師三尊像右脇侍にあたる可能性もある。瞳に黒い珠を嵌(は)める異国的な風貌、みごとにととのった姿、複雑に翻転する衣の精赦な彫りくちには、中国製の小檀像を拡大して等身大にまとめあげた観があり、長岡京で行われた木彫の水準の高さをうかがわせる大阪・道明寺十一面観音菩薩立像(下図左)なども同時期の同様の性格の造像であろう。道明寺が桓武天皇の祖母の出た土師氏(はじし)の氏であるところから、両者に何らかの関係をみて、宝菩提院像も天皇ゆかりの像とする想像もある。

 

▶新薬師寺薬師如来像

 旧都平城にも、前代末からこの時期にかけての作例が少なくないが、なかでも代表的な木彫像が新薬師寺薬師如来坐像(上図右)である。新薬師寺は天平十九年(七四七)に聖武天皇の病気平癒を祈って七仏(しちぶつ)薬師を本尊として創立された官寺であるが、この像は、その別院的横能をもつ現本堂の本尊として、天平宝字六年(ほうじ・七六二)から延暦三年(七八四)の伽藍整肯期に造られたものと考えられてきた。奈良時代の伝統的な造形に通ずるととのいは官寺の造像にふさわしいが、それにしても目を大きく見開いた面貌や重厚な体躯に新時代の仏像の感覚が顕著であり、ややくだった延暦年間最未頃の製作とする新説もある。しかし、転形を示す最初期の作としての位置は動かないだろう。なお、突き出した腕や脚部の別材が縦木である点に神護寺像同様、檀像の意識が指摘されている。

▶奈良の木心乾漆像

 奈良には木心乾漆造りの技法がこの時期にも行われた。当然のことながら作風にも奈良時代からの連続性がつよいが、それらにもあとうしょうだいたらしい時代の感覚がうかがわれる。唐招提寺寺金堂の薬師如来立像・千手観音菩薩立像はなかでも大作として注目される。前代末以降の金堂諸像の造営は長期を要し、薬師如来像は掌に延暦十五年(七九六)初鋳の銅銭・隆平永宝(りゅうへいえいほう)が埋め込まれることから、それ以後の完成とわかり、千手観音像もその前後の製作であるが、いずれも前代の仏像とは異なる、やや簡略化した肉どりと横幅の広い像容がみられる。興福寺北円堂四天王立像は大安寺の旧像で、後世の銘文によって延暦十年の製作とみられるが、極端に大袈裟に誇張した盆慾の表情がおもしろい。天部像などの仏像の表現はくみしばしば諧謔(かいぎゃく・面白い気のきいたしゃれ)味を帯びることがあるが、平安初期にはそれがいちじるしい。

▶木彫

 木彫では、延暦二十年(八〇一)の造立と推測される奈良・法華寺維摩居士坐像、弘仁九年(八一八)以前の京都・広隆寺不空羂索観菩薩立像(上図右)、弘仁年中の神護寺本尊脇侍日光・月光菩薩立像(上図左)などが、この時期の規準的作品にあげられる。維摩居士像には後方につなびく衣文による運動感表現がみられ、それは「試みの大仏」の異称をもつ東大寺弥勤仏坐像(下図)などにも共通する。広隆寺像は衣文や天衣のやや煩辱な表現に捻塑(ねんそ)像の模倣がみられる。神護寺の両脇侍像は補修が多く下半身にしか当初の造形が認められないが、その衣文表現には広隆寺像同様に進展した木彫技法がみられる。この時期には空海が請来した密教図像などもあり、造形上のあらたな刺激には事欠かなかったと思われるが、さまざまな要素を吸収しながら、日本独自のゆたかな木彫表現が展開していったのであろう。

▶地方の造像

 福島・勝常寺薬師三尊像(上図左右)は、弘仁年間に陸奥国で活動した法相の学僧徳一にかかわる像とみられ、地方における特色ある仏像製作の初期の大作である。奈良時代後期の中央の造像を忠実に写そうとしながら、重量感のある体躯や部分を強調するところなどに確かに新時代の造形感覚も流入していることがわかる。

■承和(じょうわ)様式の仏像

 唐から帰った空海は京都の洛北高雄山寺(神護寺)にはいり、嵯峨天皇の外護のもと、真言宗の発展につとめ、ついで高野山金剛峯寺(こんごうぶじ)の経営をすすめる。神護寺における空海の造像の実際は不明だが、金剛峯寺では塔二基を建立し、それぞれに胎蔵界・金剛界鼻茶羅の中心をなす五仏(五智如来像)を安置しようとしたという。両界曼茶羅を立体化し、真言密教の教えを具体化する仏像造立の試行錯誤があったものと思われるが、そのあたりを確かめられる遺品はいま知られない。空海が最後に構想した真言密教の仏像群が、承和六年(八三九)の東寺(教王護国寺)講堂の諸尊(下図左右)である。そこにみられる様式は、これに続く真言密教の仏像だけでなく、その枠を超えて同時期の貴顕にかかわるような中央の仏像にも共有されている。ここに平安最初期の多様な作風をある程度統一した様式が生まれたようだ。九世紀半ば前後の短い時期に展開したこの仏像様式を「承和様式」と呼んでいる。

 

▶東寺講堂諸尊

 平安遷都後まもなく創建された東寺は弘仁十四年(八二三)に空海に下賜されて、真言宗の根本道場となつた。東寺造営のために組織された造東寺司は造東寺所と名が変わり、翌年(天長元年)造東寺別当となつた空海は講堂の造営にとりかかった。仏像製作についていえば、かつての造東大寺司の系譜を引く官営工房の伝統技術をもった工人に対して、空海が密教家の立場から強力な指導を行った状況を想像しうる。諸尊は 『続日本後紀』 によれば承和六年六月に開眼供養が行われた。この間の承和二年に空海は没するが、堂の中央に五仏像、左方に五菩薩像、右方に五大明王像、 四隅に四天王像(下図右)、左右両端に梵天・帝釈天像(下図左)を安善する二十一驅の尊像構成は空海の構想によるものであろう。諸尊は早くから仁王曼茶羅と呼ばれ、その配置はかつては金剛界法で説く三輪身(さんりんじん)説から説明されることが多かったが、近年の研究では、空海の段階における密教解釈と伝統的な仏堂本尊の三尊構成を折衷して、中尊たる五仏の左右に両脇侍たる五菩薩・五大明王を配したものとする理解も行われている。

 二十一驅のうち五仏像すべてと五菩薩像の中尊金剛波羅蜜菩薩は後補に替わるが、他の十六躯は補修のあるものの当初の姿をとどめる。五菩薩坐像は乾漆を併用した木彫で、その技法や穏健な造形には奈良時代の作風の継承が認められ、造東寺所の工人の性格を想像せしめるが、曲面構成や腕の屈曲などの単純化が密教像特有の神秘感を生んでいる。五大明王像は、密教によって成立した忿怒形(ふんぬぎょう・悪を降伏し,威圧する忿怒の形相を示す仏像)の尊格である明王五種の集合体で、大日如来の化身とされる不動明王を中心に四明王がこれを囲む。不動明王には茫洋たる凄みがあり、四明王は多面多腎(ためんたひ・顔と腕が多い)の新奇な姿をみごとにまとめあげている。四天王像には顔の筋肉を誇張し、極端な前傾姿勢をとって運動感を強調するもち上うのなどがあり梵天は四面四腎で四羽の鵞鳥が支える蓮華座に坐り帝釈天は胸甲を着け象の背に坐る。いずれもあたらしい図像によっており、前の時代にも造られていた尊格に示される作風も新鮮である。

▶観心寺と神護寺の密教像

 東寺講堂像に近接する時期に空海門下の僧によって計画され、講堂諸像と同一工房の手になるとみられる真言密教彫像の遺品が、承和七年頃大阪・観心寺如意輪観音菩薩坐像と同年から同十二年にいたる間の神護寺五大虚空蔵菩薩坐像である。観心寺像は嵯峨院太皇太后橘嘉智子(さがたいこうたいごうたちばなのかちこ)による、おそらく嵯峨上皇の病気平癒を祈願しての造立神護寺像は仁明(にんみょう)天皇御願の宝塔本尊としての道立と考えられ、いずれも当時第一級の造像である。一木造りで表面に乾漆を盛って仕上げる技法は東寺講堂五菩薩像と共通している。秘仏として伝えられた観心寺像は保存良好で、装身具や台座、表面の彩色にいたるまで当初の状態をよく残し、豊満で官能的とも称される平安初期密教彫刻の最高水準が示されている。神護寺像はやや補修が多いが、両者の作風は酷似し、同じ作者による製作とみられる。これらでは極端に単純化した曲面による肉身のゆたかな張りは東寺講堂五菩薩像より一層進展しているが、いまは失われた東寺講堂の五仏像がこれらと作風を共有するもので、これらを担当したのがこの期のもっとも主導的な工人グループであったとする解釈がある。

▶同時代の遺品

 

 真言密教彫刻以外にも、前記の諸像と同様の作風を示すものが少なからず認められる。承和七年に崩じた淳和天皇追善像とも、同十年の嵯峨上皇一周忌のための造像とも説かれる広隆寺講堂阿弥陀如来坐像(上図左)は、正純密教話来以前の経典に説かれる説法印を結ぶ像でありっかふざるが、右足を上に組んで結伽扶坐(けっかふざ)する点に密教の影響がうかがえる。作風は観心寺如意輪観音像神護寺五大虚空蔵菩薩像に酷似し、これらと同じ工人グループが製作にあたったとみられ、一木造りで表面全体に乾漆をかける技法も共通している。これらの工人は、寺院や宗派の制約なく貴顕の一級造像を担当する官営工房に属する者であったとみられる。奈良・法華寺十一面観音菩薩立像(上図右)はカヤ材の一木造り、素地仕上げの檀像系の像で、美しきくととのった翻波式衣文(ほんぱしき・太くまるい衣文線と細くとがった衣支線を交互に繰り返す彫り方)はみごとで、この系統の造像のもっとも完成した姿と評価されている。技法的には別の系譜に属する像であるが、その顔だちは承和様式の仏菩薩像に通じ、卓抜な運動感も東寺講堂四天王像などに通じるから、同じ頃の道立であろう。翻転(はんてん・ひっくりかえす)する天衣の形に空海請来と伝える図像との類似も指摘され、密教像とのかかわりも考えられる。

 さらに滋賀・延暦寺千手観音菩薩立像(上図右)、同・向源寺十一面観音菩薩立像(上図左)など天台系の仏像にも承和様式の諸像に通ずる作風がうかがわれ、承和様式が仏像の典型として中央においてある程度のひろがりをもって共有されていたことがわかる。

▶造形の変化

 しかし承和様式はかならずしも長期にわたるつよい支配力をもつものではなかったとみえる。諸説あるものの八五〇年代の造立とみられる京都・安祥寺(あんじょうじ)五智如来坐像(上図)は、空海の孫弟子にあたる恵運による造像で、観心寺如意輪観音像や神護寺五大虚空蔵菩薩像に続く時期の正統の言密教彫像で、これらと全体的な作風は共通するもののがふくらんだ下ぶくれの丸顔をはじめ全体のやや緊張感のゆるんだ表現に、承和期の諸像とはやや異なる感覚が萌(きざ)している。観心寺伝弥勤菩薩坐像・伝宝生如来坐像は同様の作風で同じ頃の製作とみられる。これらとは系統の異なる広隆寺講堂地蔵菩薩坐像同寺聖観音菩薩立像にも同様の顔だちの変化がうかがわれる。そうした感覚の変化は、彩色面でも指摘されており、貞観九年(八六七)頃の東寺西院不動明王坐像では、従来朱線を用いていた繧繝(うんげん・日や月のかさをかたどった染め模様。赤・青・黄・紫などを濃い色から少しずつうすくなるように段階をつけて色どる)彩色の文様の輪郭に白線を用いるという変化がある。神像として最古級の遺品と目される東寺八幡三神像の彩色にも同様の特色がある。

■和様の萌芽

 九世紀末には、承和様式の雰囲気を残しながら、そこに次の平安時代後期につながるさまざまの要素をふくむ作品があらわれ、日本の仏像のこのあとの方向がみえるようになる。

▶仁和寺阿弥陀三尊像と和漢融合

 その最初の指標としてあげられるのが、仁和四年(にんな・八八八)に字多(うだ)天皇が父光孝天皇追善のために造立された金堂本尊にあたると考えられる京都・仁和寺阿弥陀三尊像(上図左右)である。承和様式の中心的な像と同様に全面に乾漆を併用する鄭重(ていちょう・礼儀正しく、注意も行き届いて、態度が丁寧な様子)なつくりの像で、充実した作風も承和様式を推承するものであるが、やさしい表情にも果敢な体驅にも張り詰めたような趣は消え、典雅なおだやかさが支配的である。図像のうえでは、中尊が以後の日本でいちじるしく例の増える定印を結ぶ阿弥陀如来坐像であることが、まず注目される。定印の仁和寺・阿弥陀如来像は密教曼茶羅や請来図像にみられるうえものであるが、納衣(のうえ)の着け方は、金剛界曼荼羅では右肩を露出する偏袒右肩(へんたんうけん)、胎蔵界曼荼羅では両肩をおおう通肩(つうけん)であり、この中尊像の左肩をおおう納衣を右肩に少し懸ける形は、奈良時代までに成立していた如来坐像の定型との融合であるか、あるいは新渡(しんと・新たに外国から渡来したこと)の図像によるものであったとしても定型との共通から採用されたかと解釈できる。また中尊坐像に立像両脇侍を組み合わせる三尊形式も同様に伝統形式との融合と理解されている。この期にいたって、密教以後のあらたに中国からもたらされた要素を奈良時代以前の伝統に合致させて再構成する造形の方式が明確になっているといえる。前者のあらたな中国影響を「漢」、後者の奈良時代以来の造形を「和」とするならば、ここに仏教美術における和漢融合のありかたが示されている

▶絵画的な装飾性の志向

 前年に没した左大臣源融(みなみとのとおる)が発願した像を遺児(いじ・親が死んで、あとに残された子供)が完成して、寛平八年(かんぴょう・八九六)別荘・棲霞観(せいかかん)内の一堂に安置した像にあたると考えられる京都・清涼寺阿弥陀三尊像(下図左右)の中尊も仁和寺像(にんなじぞう)と同形であるが、こちらは両脇侍が坐像で、しかもあらたな請来図像によるとみられる複雑な印相を結ぶ。仁和寺像よりも「漢」の要素がつよい造像ということになろう。

 作風のうえでは、着衣部分の表面をおおう衣文には絵画的な装飾性への志向がつよく、像の量感や運動感と関連する表現ではないが、ここにも仏像彫刻のあたらしい方向性が顕在化している。実年代をどこにおくかについてなはお議論があるが、漣波式(れんぱしき・平安時代前期の木彫で衣文 (衣の皺) を,丸い波と角の波を交互に彫ってさざなみが立ったように表現する方法)と呼ばれる翻波式の変化形の流麗な衣文が美しく像の表面を飾る、奈良・室生寺金堂中尊薬師如来立像、これと一具の奈良・安産寺地蔵菩薩立像(下図左右)も同じ傾向の好例である。

▶いわゆる天平復古

 伝統的な要素の残存とは別に、ある部分に意識的に奈良時代の造形の再現をもとめるいわゆる天平復古の傾向もめだつようになる。そこで注目されるのが、初め東大寺に学び、醍醐寺を開き、東寺長者となり僧正位にのぼった真言僧聖宝(しょうぼう・八三二〜九〇九)にかかわる仏像である。聖宝は、各地に造像の指導者・監督者としての多数の事積が伝えられる。延喜七年(えんぎ・九〇七)醍醐天皇御願として聖宝により造り始められ、聖宝没後同十三年までに聖宝弟子・観賢(かんげん)によって完成した醍醐寺上醍醐(かみだいご)薬師堂本尊薬師三尊像(上図左右)の中尊像は、体躯は重量感に富むものの浅い翻波式衣文の彫りに九世紀末以降の時期の特色を示すが、上にして組む左足先を衣に包む点、左脛部(けいぶ・頭と胴体とをつないでいる部分)に逆三角形状の衣端をあらわす点などは奈良時代末ないし平安最初期の仏像にならう形であり、形に微妙な湾曲をつける顔つきも奈良時代の仏像の顔を意識しているようにみうけられる。両脇侍立像はやや中尊と作風は異なるものの、胸飾りや天衣(てんね)の形式、両脚問の渦文など、随所に古様の形式を指摘しうるうえに、比例がととのい、ゆるやかな動きをつけた形姿にも奈良時代風をうかがうことができる。同じ聖宝がかかわった像として同時に造立された五大堂本尊五大明王像のうち大威徳(だいいとく)明王像(下図右)が残り、また昌泰二年(しょうたい・八九九)から延喜九年の間に、つに造立された東寺食堂千手観音菩薩立像(下図左)もある。これらは作風が共通し、同一工房の製作と認められる。造東寺所や造東大寺所との関係もふくめ、聖宝の工房の性格について議論があるが、聖宝の造像事漬に南都(奈良の別称)関係のものが多いこととのかかわりは無視できないであろう。いずれにせよ前の時代からの継承ではなく、古典としての奈良時代の仏像の再現が部分的にではあるものの、この時期にあらたに、そして明確に、意識され始めていることがわかる。

▶平安時代前期の終焉 

 法隆寺上堂釈迦三尊像(上図)は、聖宝の孫弟子にあたる観理(かんり)により、延長三年(九二五)の焼失後まもなく再建された法隆寺講堂本尊にあたるもので、聖宝関係の像を造った工房の造像と思われるが、この期の一般的な作風を集約したというだけで緊張感にとぼしく、また醍醐寺像にみられるような積極的な復古のこころみもみられない。さまざまの造形要素が流入し、多様な個性が展開した平安時代前期という激動の時代は、このあたりで終息を迎えたようである。

■典型の模索

 十世紀前半の承平年間(じょうへい九三一〜九三八)の初め頃からを仏像史では平安時代後期として設定している。つぎの鎌倉時代の初め、文治元年(一一八五)までの二百五十年以上にわたる長い時代である。この時代のピークは第四講でとりあげる十一世紀前半頃で、その時期に仏像における和様が成立したものと目されている。ここではその直前までの一世紀近い歴史をたどるが、それは長い時問をかけて、日本の仏像の姿の典型をもとめ、ささやかな模索を続けながらゆるやかにあゆんだ時期である。

▶天台の平安京進出

 この時期の冒顔、つまり平安時代後期の仏像の指標とされているのが、京都・法性寺千手観音菩薩立像(上図左)である。法性寺(ほっしょうじ)は、左大臣藤原忠平(ただひら・八八〇〜九四九)が天台座主(ざす)法性房・尊意(八六六〜九四〇)を開山として平安京内東山に創建した天台の大寺の法灯を継ぐ寺である。忠平はやがて摂政・関白を歴任するが、いわゆる摂関政治の基盤をつくつた人で、法性寺の建立は藤原摂関家の勢力安定と同時にこれと深い関係をもった天台の平安京進出を象徴するものと評価されている。問題の千手観音像は法性寺灌頂堂(かんじょうどう)の旧本尊と伝える像で、尊意承平四年(じょうへい・九三四)に初めて法性寺にを灌頂を修したときの本尊にあたると考えられている。二十七面四十二臂(ひ・ひじ・うで)の姿をおだやかにまとめあげた像容で、やさしい表情には密教像特有の神秘感は感じられず、体躯にも重量感や部分を強調する方向は認められない。

 これに近い時期の十世紀前半の中央の規準作品はほとんど知られず、京都・岩船寺阿弥陀如来坐像(上図右)があげられる程度である。岩船寺像は丈六像で、ずんぐりした体形に平安初期の余風を認めるが、端正でおだやかな面貌を造ろうとし、翻波式衣文はごく浅い線条にととのえられているあたりに、この時期の志向をうかがわせる。なおこの像の像内に多くの梵字真言・種子が墨書されているが、これは東寺講堂諸尊に種子真言(しゅじしんごん・密教において、仏尊を象徴する一音節の呪文(真言))を書いた紙片を納入しているのにつぐ事例として、そして像内銘記としてのその初例として注目される。

十世紀後半の造像

 

 京都・六波羅蜜寺本尊十一面観音菩薩立像(上図左)は、京都市中をめぐり念仏を勧めたことで知られる空也(九〇三〜九七二)天暦五年(九五一)に造立したと伝える像にあたると考えられる。この像は、図像的に奈良時代の仏教に連なる可能性も指摘され、この世紀初めの醍醐寺薬師三尊像両脇侍(上図右)にみたような天平復古の作風を展開させた趣があるが、目鼻だちの小ぶりな表情やなだらかな抑揚の体躯はいかにもおとなしく、一方で衣文に渦文を多用するなど表面の装飾性は増したところがある。これと同時に造られた四天王立像は増長天(鎌倉時代の補作に替わる)(下図)をのぞく三躯が残っている。このうちの持国夫は東寺講堂像の模刻であり、全体もおそらくそれを基本に構成されたために、平安初期製作の原像の形を写し取ることによって、かえってこの期の造像の面的・絵画的な造形処理がめだつという指摘は興味深い。古典摂取のありかたは次の時期の和様成立やさらにその後の仏像史の展開をめぐる重要な着眼点になる。

 天徳年中(てんとく・九五七〜九六一)造立と伝える醍醐寺千手観音菩薩立像(下図)六波羅蜜寺十一面観音像の作風をいくらか単純化したような趣があり、短く単純な下向きの弧線をなす眼ややや太い鼻梁が特徴的である。六波羅蜜寺薬師如来坐像(上図左)は、貞元二年(九七七)に天台僧中信がこの寺にはいり天台別院にしたときの本尊とする伝えが信じられ、醍醐寺千手観音像と同様の特色がある。如来像の肉撃と地髪部の別が判然としない頭部の形は、現在の滋賀県を中心としてこの期の天台系の如来像などに例が多い。なお薬師如来像の頭体幹部を左右二材正中矧(は)ぎ(寄せ木づくり・頭部・胴身部からなる主要部を二材以上の木を寄せ合わせて造るもの)とする構造は、十一世紀に技法的な完成をみる寄木造りのもっとも初期的な手法を示すものとして注目されている。

▶浄土信仰と観想  

 この時期十世紀後半は、比叡山を中心にいわゆる天台浄土教が興隆した時期である。永観(えいかん・九八五)には源信(九四二〜一〇一七)が『往生要集』をあらわし、極楽往生のための観想念仏の意義を説き、その論理は貴族社会にもひろがっていった。観想の重視はこのあとの造寺造仏の大流行を導くのであるが、観想念仏という課題は、この時期の仏像のイメージの模索にもかかわりがあるらしい。『往生要集』 では仏のいわゆる三十二相(仏のみが備えている、32のすぐれた身体的特徴)についてほんらいの釈迦の相を観想による阿弥陀如来のそれにおきかえ四十二の相として詳しく説くが、そのなかでとくに「面相円満にして満月のごとし」としている。前にふれた、この時期の天台系の如来像の肉髻(にっけい・仏像の頭頂に一段高く隆起した部分のこと)と地髪部の別がはっきりしない、つまり頭部全体としての単純な丸顔などは、こうした観想のイメージを具体化するための試行錯誤の一段階であるといえよう。なお、近年では、この時期の日本における浄土教興隆の経緯は国内で完結する現象ではなく、同時代の五代北宋の中国における浄土教の隆盛とのかかわりを重視すべきで、美術についても彼の地の浄土教美術を受容した可能性を検討すべきであるとする提唱があるが‥吉村捻子「三千院蔵阿弥陀聖衆来迎図考」〔『美術史』一六二 二〇〇六年)、少なくとも美術に関していえば、こうした刺激が自国に存する過去の造形をあらためてみなおす契機となりえただろう。

▶康尚(こうじょう)

 ここまでの時代、仏像作家すなわち仏師に関する情報はきわめて少なかった。平安時代前期において、名を知られる仏師は決して多くはないもののいずれも僧名で、すでに官営工房に属する工人ではなく寺院に所属する僧籍をもった者が中心であったとみられるが、十世紀末にいたって、僧ではあるがさらに寺院の所属から離れて、独立した工房を営む仏師があらわれた。その最初の仏師が康尚である。

 康尚は正暦二年(しょうりゃく・九九一)に仁康上人(にんこうしょうにん)のために河原院(かわらいん)の丈六釈迦如来像を造ったのを最初として、以後多くの事積が知られるが、摂関政治の最盛期を築いた藤原道長(みちなが)の日記『御堂関白記』や、道長の信任厚かった藤原行成(ゆきなり)の日記『権記』にしばしばその名がみえ、行成の世尊寺道長の木幡浄妙寺(こばたじょうみょうじ)の仏像を造ったことが知られるほか、天台・真言の別を問わぬ造像にたずさわっていた。第四講でもふれ道長の無量寿院九体阿弥陀堂の仏像をその子と思われる定朝とともに造ったのが最後の記録である。この間、長徳四年(ちょうとく・九九八)には土佐講師に任じられ、寛仁二年(かんにん・一〇一八)に おうみは近江講師としてみえるなど、高い僧位にもついたことが知られ、以後の仏師の社会的地位向上の基礎をつくった人でもあった。

▶康尚時代の仏像

 廉尚の時代には銘記や文献によって製作年代の知られる仏像が急速に増加する。その永祚元年(えいそ・九八九)頃の京都・遍照寺(へんじょうじ)十一面観音菩薩立像、正暦五年(九九四)頃の京都・真正(しんしょう)極楽寺阿弥陀如来立像、長保五年(ちょうほう・一〇〇三)頃の京都・平等寺薬師如来立像などの中央のすぐれた作風の像をもって、康尚周辺の造像のありさまを想像することができる。これらにはそれぞれの個性はあるものの、いずれも六波羅蜜寺薬師如来像にめだっていた武骨さが払拭され、なお量感を残しながら肉どりの抑揚はさらに少なくなって、衣文などの彫りは角が立って線条的であるが一層浅いものとなる。面相はますますやさしく、おぼろともいうべき夢幻的なものになる。こうした方向の到達点が寛弘三年(かんこう・一〇〇六)の京都・同聚院(どうしゅいん)不動明王坐像や同九年の広隆寺千手観音菩薩坐像であろう。

▶同聚院不動明王像

  

 同聚院不動明王像藤原息平創建の法性寺に道長が造営した五大堂の本尊五大明王像の中尊が残ったものである忿怒形(ふんぬぎょう・悪を降伏し,威圧する忿怒の形相を示す仏像)であるから上記の一連の像とは比較しにくいところもあるが、すぐれたできばえと由緒から、これこそ仏師康尚の作と考えられる。これ以前の不動明王像にくらべ、頭部が小さくあまり肥満のみられないスマートな体形で、盆怒の形相にも誇張は少ない。ゆるやかな抑揚で構成される表面各部にはごく浅いが明確な彫りで荘厳具や衣の輪郭が彫り出されている。条帛(じょうはく・仏像の左肩から斜めに垂らし、左脇を通り背面から一周し左肩へかけて結ぶたすき状の布のこと)には翻波式衣文も刻まれている。このように表面に装飾的処理をほどこす点や、正面観と側面観がゆるやかに移行せず体驅にはなお奥行きを残す点などに十世紀の仏像の特色を残している。構造は頭部と体部前面を丸太状の一材から彫り出す一木造りで、なお寄木造りを採用していないが、各部の内到りは深い。やはり康尚周辺の作と考えられる広隆寺千手観音像(下図左右)は頭体幹部を上からみて田の字形の四材から造っており、その構造はのちに定型化する寄木造りに近いものになっている。

■清涼寺釈迦如来像の請来

 第三講の最後に、十世紀の末に日本にもたらされた一体の中国の仏像にふれておこう。清涼寺の釈迦如来立像である。永観元年(九八三)に入宋した東大寺僧・奝然(ちょうねん・九三八〜一〇一六)がその二年後(北宋・雍熙[ようき]二年)、新江省台州で現地の工人に造らせ、寛和三年(かんな・九八七)に平安京へ持ち帰った。当時の中国に何体か存した優填王思慕像(うでんのうしぼぞう・釈尊在世中にインドの優填王 (ウダヤナ Udayana) が造らせたという最初の仏像)、すなわちインドの優填王が釈迦在世中に造立したという由緒をも釈迦如来像の一体で、長く揚州開元寺にあった像を模したものであった。

 その姿は、縄目渦巻状の頭髪、両肩をおおういわゆる通肩の禍衣の着け方、下半身に着ける裾の下縁を二段にあらわす形など、おそらく中国五世紀の製作とみられる原像にならった形式面でも、髪に練物と呼ばれる鉱物質の素材を盛り上げる、両眼の瞳に黒い珠、両耳の孔に水晶を嵌めるなど技法面でも、当時の日本の仏像とはいちじるしく異なつている。釈迦如来像は請来当初から、三国伝来の圧倒的な由緒をもつかねいえ仏像として、摂政藤原兼家(かねいえ)以下の朝野(ちょうや・政府と民間)の尊崇を集めた

 しかし、ここにあげたような特徴ある姿が、当時あるいはその直後の日本の仏像に与えた影響はごく部分的なものにとどまるようだ。仏師康尚の事積としてふれた正暦二年の河原院釈迦如来像は、清涼寺像が京都にもたらされてから四年後の道立であったが、実はこの像は飛鳥時代後期造立の奈良大安寺釈迦如来像を模して造られたものだった。

 この模刻は、新渡の清涼寺像の由緒に対して、大安寺像の美しさに価値をみいだしての行為ではなかったかとする重要な指摘がある。それは九世紀の密教請来にともない、中国からの多量の新情報をえて、一時は造形のうえでもそれに敏感に反応しながら、やがてそれらを国内の過去の伝統と融合させ、さらに、少なくとも外見的にはみえないものにしでいった動向の当然の帰結のようにも思えるが、ともかく、清涼寺像の請来が造形の展開に直接的には影響しなかったことに、和様成立を目前にした、当時の日本の仏像の方向性がよくあらわれているように思われる。なお、清涼寺像の像内にはその由緒を証するかのように、おびただしい量の納入品が納められていた。そうした行為の日本の仏像への影響は、また別の問題として注意しなければならない。