第四講・平安後期(盛期と定朝)

■平安時代後期の盛期と定朝

▶法成寺(ほうじょうじ)と康尚(こうじょう)・定朝

 

 寛仁二年(かんにん・一〇一八)、病のために出家した藤原道長は、鴨川の西に丈六阿弥陀如来像九体を本尊とする九体阿弥陀堂を建て始め、同四年に供養してこれを無量寿院(むりょうじゅいん)と号した。これが法成寺の始まりである。九体阿弥陀像は道長の大仏師ともいうべき康尚の最後の仕事であったが、院政期の開書集『中外抄』には、九体安置のときに、康尚の命で若き日の定朝(?〜一〇五八)が金色の仏面を削り直したという逸話をおさめる。真偽はともかく、この仕事で康尚の後継者として定朝が登場したことは信じられよう。このあたりからが定朝の時代、すなわち平安時代後期の盛期ということになる。第四講ではここから次の鎌倉時代の直前までを説くことにする。なお、九体阿弥陀堂は人の生前の信仰心や行為の善悪の相違によって九種の往生のしかたがあるという浄土思想にちなみ、九体の阿弥陀如来像を安置する堂で、無量寿院を始まりとして、その後流行するが、現存する平安後期の遺構は京都・浄瑠璃寺本堂が唯一である。

 法成寺には、この後、治安二年(一〇二二)には三丈二尺(1丈は10尺なので32×0.3m=9.6m)の大日如来像、二丈の釈迦・薬師如来、文殊・弥勤菩薩像、九尺の梵天・帝釈天・四天王像を祀る金堂、そして二丈の不動明王、丈六の四明王像を祀る五大堂が供養されたが、これらの巨像を造ったのは定朝であった。定朝はこのときみずから法橋(ほっきょう・僧侶に対し与えられた位階)という位を望み、授けられた。法橋とは、ほんらい国が僧侶に学識や年臈(ねんろう・受戒してからの年数)によって与えられる位である僧綱(そうごう・日本における仏教の僧尼を管理するためにおかれた僧官の職である)の一つで、それが仏師に与えられたのは前例のない破格のことであった。藤原道長はこの時期に摂関家の家格を王権にも近い地位にまで高めたが、法成寺金堂は仏法の面でそれを示す特別な堂であり、その本尊の仏師定朝にも特別の地位が与えられたのである。聖なる像を造るのは聖なる仏師であるという意識、仏像の由緒を作者の名で語る風がここに確立した。この時期の定朝作品はいま確認されていないが、すでにこの時期・段階で定朝によって仏像の和様が完成し、その造形が全国にひろまる基盤がつくられたことが想像できる。

 さらに治安四年供養の法成寺薬師堂の本尊七仏薬師像、日光・月光菩薩像、六観音像を造ったのも定朝であったことが記録されている。道長万寿四年(まんじゅ・一〇二七)に没するが、その後も法成寺には、釈迦堂・東北院・五重塔・講堂などの造営が相次ぎ、壮大な伽藍を構成するにいたった。これらの堂塔安置の仏像の多くにも定朝が関与したのだろう。

▶定朝の活躍

 

 定朝の活躍は法成寺にとどまらず、宮中の造仏もしばしば担当した。万寿三年の中宮威し子の御産祈意の等身仏二十七体の造像にあたっては、定朝の下に大仏師二十人がおり、定朝をふくむ二十一人の大仏師の下に小仏師各五人がいた。定朝の工房の巨大な規模がわかるが、僧綱位に象徴される高い社会的地位は、組織を統率するために有効であったろう。長久二年(ちょうきゅう・一〇四一)には花宴のための竜頭鷁首船の竜頭を造った事績も知られる。また、永承元年(えいじょう・一〇四六)に焼亡した藤原氏の氏寺(飛鳥時代に古墳、特に前方後円墳に代わって在地首長やヤマト王権構成員として君臨してきた有力氏族や王族の新たな祭祀儀礼の場として造られるようになった仏教の寺院)で奈良興福寺の仏像の修補・新造も手がけ、金堂・講堂・東金堂の落慶供養の行われた永承四年には法橋より一つ上の僧綱位で為る法眼を授けられている。この頃には南都周辺にも定朝の影響がおよんだことであろう。ついで天喜元年(てんぎ・一〇五三)には、道長の子である関白藤原頼通(九九二〜一〇七四)が発願した平等院鳳風堂の本尊阿弥陀如来像を造った。のちに定朝の仏像としてもっとも典型的な像とされた西院邦恒堂(さいいんくにつねどう)の丈六阿弥陀像を造ったのもこの頃であった。

■平等院鳳風堂

▶末法の世と平等院

 この時代の造寺造仏の大流行の背景には末法思想があった。末法とは仏教における「正法」「像法」「末法」の三時思想の第三時で、仏教の教えだけが残り、人がいかなる修行をしても悟りをえられない時代であるという。日本では、釈迦入滅から二千年後とされた永承七年(一〇五二)より末法の時代にはいったとされた。藤原頼通が宇治の別業(別荘)を寺に改め、平等院を創立供養したのはこの年であった。本堂は、しばしば「本堂御所」と呼ばれる住宅的な仏堂で本尊は大日如来像であったというが、この像に関する情報は少ない。むしろ本堂よりも平等院伽藍の中心として構想されたらしい阿弥陀堂、すなわち鳳風堂が完成するのは、翌天喜元年である。堂とともに、内部には日本仏像史上最大の存在である定朝とその一門の作品群が残されている。

▶阿弥陀如来像と仏像の和様

 本尊阿弥陀如来坐像は、阿弥陀定印を結んで結迦趺座(けっかふざ・両足を組み合わせ、両腿の上に乗せるものである・座禅)する丈六像(立像の高さが1丈6尺<約4.8メートル>ある仏像のこと)である。その構造技法に日本独自の寄木造り技法の完成した形がみられる。寄木造りとは、頭体幹部に規格化された複数の角材を組み合わせて造り、各部に通じる大きな内刳(うちぐ)り上・図解をほどこすものである。定朝以後に丈六像のような大像を造る際の基本的な構造技法になつた。この像はまた、表現の上でも日本独自の様式、いわゆる和様の完成をみせる。頬がまるく張った円満な顔。伏日がちの眼は拝む者を静かに見つめ、その表情は限りなくやさしい。頭・体の各部分はよく均整がとれて、奈良時代の古典的な仏像の姿を思わせる。また薄い衣のひだを簸ではなく、なだらかな隆起であらわすのも、奈良時代以前の捻塑(ねんそ・木屎漆などをもりつけけて造形する)系の仏像に通ずる。いわゆる天平復古の風が平安前期にすでに始まり仏像和様化の重要な要素になっていたことは第三講でのべたが、定朝が達成した天平復古は彼以前とは質を異にしていた。

 像の奥行きは極端に薄く、平安時代初期以来の木彫を特徴づけてきた塊量感は稀薄である。また鋭い彫りもまったくみられなくなった。胸をひいて背をわずかにまるめた姿勢はいかにも自然で、どこにも硬い緊張感がない。奈良時代以来の胸が厚く前に張った姿勢・体形は、古典彫刻の源流である中国唐時代の彫刻の様式の支配下にあったことを示すものだが、それを脱してこうした姿勢・体形が生まれたことは日本の仏像の大転換であった。この姿の源流を中国五代十国時代の呉越国(九〇七〜九七人)の造像にみようとする提案があるが、かりにそのような影響関係があるとしても、その選択自体に定朝独自の感覚があり、その様式が日本の仏像の典型として、こんにちにいたるまで定着・普及したことには、日本独自の感受性があったとみるべきであろう。それが仏像の「和様」である。

▶像内の心月輪(しんかちりん・清らかに輝く満月は浄菩提心のたとえであるから,観念のなかで満月の姿が完成したとき,自己の菩提心も清浄になり仏の悟りの本体と同一になる)

 像の内部には赤色顔料が塗られ、そこに心月給と称される、蓮台に載った円板が納入されている。心月輪は密教に説く、月輪にたとえられた菩提心すなわち像の魂で、白い円板には阿弥陀をたたえる呪文が墨書されている。

 心月輪はこれ以前の像では、十一世紀初めの兵庫・円教寺阿弥陀如来坐像の像内に墨描された例があるが、立体の例は知られない。像内納入品の画期と称してよいが、その造形化にも定朝がかかわっていた可能性がある。心月輪の納入はその後の上級貴族の造像において一般化し、鎌倉時代にかけてその造形や工作にも展開がみられる。頼通の子・橘俊綱(たちばなとしつな)のために寛治八年(かんじ・一〇九四)頃に造られた京都・即成院(そくじょういん)二十五菩薩像の当初像十躯の像内には漆箔がほどこされている。これも心月輪の納入にともなう荘厳(そうごん)であろう。同様の例はその後もみられるが、鳳風堂阿弥陀像の像内赤色塗りの発展と思われる。像内荘厳の展開も定朝の仏像に始まるのである

 

▶荘厳具  

 光背は二重円相部を中心に、その周囲に、蓮弁形透彫りの周縁部をつけるが、周縁部はそこに配する飛天中の六躯をのぞき近世の後補である。もとは雲に乗る飛天とその天衣で構成された、飛鳥時代以来の伝統をもつ飛天光背の意匠だったはずである。台座は蓮華八重座である。蓮華のすぐ下の普通なら敷茄子(しきなす)または束(つか)と呼ばれる、やや丈高い部分を反花(かえりばな・上反花)に代えることによって全体の高さを低く抑えているが、これは堂前の池を隔てた対岸の小御所(こごしょ)から像を拝するためであるとする記録がある。また台座下半の平面が円形でなく八角形となるのは、奈良時代の古例にしたがったものとみられる。天蓋(てんがい)は台座が載る須弥壇の平面とほぼ同じ箱形の方蓋と、その内部の円形の花蓋とからなる。これらの荘厳にほどこされた宝相華文(ほうそうげもん)をはじめとする文様は、いずれも変化に富んだ意匠で、立体感のあるダイナミックな彫法で彫り出される。それらによって生まれる深い陰影は、その中心に浮かぶがごとき阿弥陀像本体を明るくのびやかにきわだたせている。

▶雲中供養菩薩像(うんちゅうくよう)

 雲中供養菩薩像は現状五十二驅の群像で、鳳風堂中堂母屋内側の長押上の小壁に南北二つのコの字形に半数ずつ分けて懸け並べられている。各像はいずれも飛雲上に乗ってさまざまの変化に富んだ姿勢をとる。五驅は比丘形(びくぎょう・僧形)で、他は菩薩形である。比丘形の五驅はいずれも坐像で、三驅は合掌し、二驅は印を結んでいる。

 菩薩形の像は多くが坐像で、それらはいろいろな楽器を演奏したり、あるいは持物(じもつ)をとったり、合掌したりする姿である。菩薩形像のうち六驅は舞い姿の立像(りゅうぞう)である。全体として、これらの群像が浄土の阿弥陀如来を讃嘆供養するためにそれに向かって飛翔する姿をあらわしたものか、礼拝者に向かって来迎(らいごう)する姿をあらわしたものかは、鳳凰堂の堂内空間の性格の解釈ともかかわって、近年、議論のあるところである。

 各像のゆったりとしたやわらかな肉どりや、穏やかな顔だち、自然な衣文などは本尊阿弥陀如来像に共通している。これらは高肉の浮彫りであるが、材を割放して内刳り(うちえぐり)したうえで割首(わりくび)するという、いわゆる割矧ぎ(わりはぎ)造りの技法の完成形態を示すものが多い。製作は定朝の統一的な構想のもとになったと思われるが、多少の作風の相違もあり、それは数種に分類することができる。統率する定朝のもとで分担製作を担当した大仏師の作風の特色があらわれているとみられ、この群像の示す作風から、当時の定朝工房の構成のようすをさぐることもできる。

■和様の継承と耽美への沈潜

▶長勢(ちょうせい)・覚助(かくじょ)と定朝様

 定朝は鳳風堂像完成の四年後、天喜五年(一〇五七)に没する。定朝の後継は子息覚助と弟子の長勢であった。二人は、天喜六年に焼亡し翌康平二年から承暦三年(一〇七九)までに席次復興された法成寺の講堂の仏像の道立にたずさわるが、いずれかといえば長勢が主導的な立場にあったかとみられ、この問の治暦二九年(ちりゃく・一〇六五)に金堂・薬師堂・観音堂の供養に際しての賞で法橋の位をえた。覚助はこれに遅れて、康平三年(こうへい・一〇六〇)に焼け暦治三年に再興された興福寺の供養に際して法橋になっている。この後、即位した後三条天皇は生母が藤原氏ではなく外戚の権威から解放されて天皇親政をすすめ、これを継いだ白河天皇応徳三年(おうとく・一〇八六)に上皇となつて院政を開始する。この期に、後三条天皇が造営を始めた円宗寺、さらに白河天皇が白河に造営を始めた法勝寺(ほっしょうじ)の造像にも長勢・覚助がかかわり、いずれも延久二年(一〇七〇)円宗寺(えんしゅうじ)供養に際して法眼となったが、覚助は法勝寺供養の承暦元年(一〇七七)に没している長勢は法勝寺供養に際して法印にすすみ、その後も法勝寺の仏像を造っている。

 長勢の遺作として京都・広隆寺の日光・月光菩薩立像と十二神将立像がある。康平七年(一〇六四)に平安初期造立の霊験(れいげん)薬師仏の随侍像として造られたもので、日光・月光像ことに日光像には鳳風堂阿弥陀像に近似する作風がみられ、十二神将像はおそらく新薬師寺像のような奈良時代の姿を参照して優美にまとめた表現がみられる。覚助の遺作は知られないが、祀園社(現在の八坂神社)の本地仏で延久二年火災後の復興像と考えられる京都・大蓮寺(だいれんじ)薬師如来立像を、同様に定朝を継承しながら広隆寺像とはやや異なるおおらかな作風をもつものとして、覚助の作と推定する説がある。いずれにせよ定朝の後継者によって、さまざまな尊種において定朝作品の形式・表現がよく継承されたことが想像できる。

 すでに長勢も没した嘉保三年(かほう・一〇九六)あるいは承徳元年(じょうとく一〇九七)に造られた京都・法界寺阿弥陀如来坐像も、この寺にあった定朝仏を模したものとみられ、鳳風堂像と同様の姿である。このように定朝作品にならう仏像の形式を「定朝様」という。定朝が完成した日本的な仏像の様式「和様」は定朝様の普及によって国内に広汎に波及することになった。ただし、法界寺像の瞑想的な表情や、やや単純化した肉どりなどには、すでに鳳風堂像からの変化が認められる。

▶三派仏師の時代

 定朝の系統の中央仏師は、十一世紀未以降の院政期には院派・円派奈良仏師の三系統に分かれる。院派は覚助を継いだ院助(?〜一一〇八)がその初めで、院助に続く世代に、十二世紀前半に活躍した院覚、同中葉に活動した院朝がいる。ついで十二世紀後半には院尊〔一一二〇〜一一九八)院慶がいる。

 円派は長勢の系統であり、その弟子円勢(えんせい・?〜一一三四)がその初めで、彼以後十二世紀には長円(?~一一五〇)・賢円明円(みょうえん・?〜一二〇〇)が活躍する。この二派は京都に住み、院・宮廷・摂関家関係の造像にたずさわった。それに対して、覚助の子頼助(らいじょ)は奈良に住み、藤原氏の氏寺である興福寺内の仏所を統括する仏師となった。

 頼助以降、康助・康朝・成朝と続くこの一派を奈良仏師と呼ぶ。京都関係の造像を担当することもあったが、当然、興福寺内の造像・修理が仕事の中心であった。彼らのうち、円派・院派はことに貴族社会に深くかかわっていた円勢は白河法皇に申請して京都清水寺別当を望み、自身は興福寺大衆の反対で辞めさせられたものの、その子長円は別当になるなど、仏教界にも権勢をもっていたが、右大臣源顕房(あきふさ)の孫円春長円の養子となり後に賢円の弟子になったのも、彼らの社会的地位を物語る院派の院朝も桓武平氏の一統に属する貴族の子弟に生まれながら仏師になった人らしい。

 十二世紀前半の貴族源師時(もろとき)の日記『長秋記』には、彼らの造像現場の状況を具体的に知らせるような記事が散見する。師時はある時には、京都西院邦恒堂の定朝作阿弥陀如来像を「仏の本様(ほんよう)」つまり仏像の手本と評して仏師院覚・院朝とともに邦恒堂におもむき、この像をこまかく採寸しているし、またある時には仏師賢円に命じて、できあがっていた仏像の胸を切って顔をうつむけさせたり衣の部分を削り直させたりしている定朝作品がことに厳格な規範となっていたようすや、貴族の繊細な美意識のなかで仏像の造形が忖度(そんたく)されていたようすがうかがえる。

院派・円派の作品

 三派仏師の系統による作風継承の道筋は、研究によって規準作品化している仏像によって、ある程度たどることができる。まず、円派作品として、康和五年(一一〇三)に円勢・長円父子が造った京都・仁和寺の旧北院本尊薬師如来坐像(上図)がある。基本的に定朝様にしたがう姿であるが、全体のずんぐりした体形や幅のひろい丸顔などに、鳳風堂像とは異なった特色がある。保延五年(ほうえん・一一三九)に建立された鳥羽上皇の墓所塔本尊として仏師長円の工房で造られたと推定される京都・安楽寿院阿弥陀如来坐像(上図)があげられる。この像では、鳳風堂像の胸をひいて背をまるめた姿勢やうすく平板な体つきが一層強調され、さらに顔つきがほっそりとして、鳳風堂像とも仁和寺北院薬師像(上図)とも異なる特色がみられる。光背・台座の意匠は繊細さを増している。奈良・西大寺四王堂十一面観音菩薩立像(下図中)はやはり鳥羽上皇発願の京都白河二条十一面堂の本尊として久安元年(一一四五)に円信が造ったものである。

 

 まるい面貌は仁和寺北院薬師像を継承しており、安楽寿院像(上図左上)とはやや趣が異なる。同派内でも作風に多少の幅があったことがわかるが、耽美的な表現の極致がこの派の共通した特色である。また、仁平四年(二五四)の峰定寺千手(ぶじょうじせんじゅ)観音菩薩坐像(上図左下)は西大寺像に顔がよく似て、円派の作と想像しうる。伝来不詳であるが、この期の名品として著名な東京・大倉集古館普賢菩薩騎象像(上図右)も同系の作である。

 

 これらについては、表面施工の彩色・切金文様等の検討も必要である。なお、やや時をおいた安元三年(あんげん・一一七七)の作であるが、鎌倉初期の興福寺復興にも活躍する明円が造った京都大覚寺五大明王像(上図左・右)が現存し、新時代の感覚もとりいれた繊細な巧技をみせることにもここでふれておこう。

 院派作品は前にふれた、寛治八年(一〇九四)頃の即成院二十五菩薩像院助あたりの作かもしれないが、確かなものとしては、鳥羽天皇の中宮待賢門院(たいけんもんいん)発願堂の本尊として院覚が大治五年(たいじ・一一三〇)に造った京都・法金剛院(ほうこんごういん)阿弥陀如来坐像(上図左)がある。その、やや角張ったような固さのある像容は定朝作品に厳密に準拠したためかもしれない。光背・台座の意匠は安楽寿院像同様である。また、やはり待賢門院のための近い時期の造像と考えられる京都・醍醐寺炎魔天騎牛像(えんまてんきぎゅうぞう・上図右)院覚周辺の作であろう。

■新時代への胎動

 三派仏師のもう一派、奈良仏師の作と判明するものは、十二世紀前半にはほとんど知られない。元永三年(二二〇)に京都・広隆寺上宮王院(じょうぐうおういん)聖徳太子立像を造った頼範(らいはん)が頼助周辺の仏師かと推測される程度である。しかし、十二世紀半ば頃から、康助やその周辺の作と判明する作例があらわれ、この系譜のなかで次の鎌倉時代の新様式が醸成されてゆくさまをみることができる。なお、広隆寺像は聖徳太子五百回忌に開始された「聖徳太子生身供」の本尊として実物の衣を着せるのを前提に下衣の姿で造られた裸形着装像で、この後の、仏像を「生身」に擬するための試行錯誤や像内納入品の展開を考えるうえできわめて重要である。

▶康助の大日如来像 

 久安四年(一一四八)に関白藤原忠実ただざね・一〇七八〜一一六二)が発願した高野山金剛心院の旧本尊である和歌山・金剛峯寺(こんごうぶじ)大日如来坐像が、忠実の造像を担当することの多かった康助の作と推測されるが、この像は全体的には定朝様にしたがいながら、脚部の縦に流れるえもん衣文の形式は密教図像や平安初期彫刻(同じ高野山に残る旧西塔本尊大日如来像のような)にならったものとみられ、時代の限界のなか」で図像や古像に典拠をもとめた表現をあらたな仏像の姿として提示しようとする姿勢をうかがわせる。また、この像の天冠台(てんかんだい)には文様のない帯(無文帯)があるが、これはこの後の奈良仏師系統の遺品に限つてみられる流派独自の意匠である。

▶長岳寺阿弥陀三尊像と玉眼

 奈良・長岳寺の仁平元年(一一五一)銘阿弥陀三尊像は、両脇侍の天冠台に無文帯を配しており、奈良仏師系統の作と考えられる。銘記によれば願主は憲章という無名の僧であり、中央貴族の関与した造像ではなかった。やや特異なこまかい木寄せと 『兵範記』紙背文書に残る康助の自筆書状に「木も板も細々に注し侯也」という特殊な用材の注文がみえることとを結びつけて、作者に康助を想定する説が従来からあるが、玉眼の用いられた彫刻の初例としてことに著名である。玉眼とは、木彫像の限の部分を刳りぬいて内刳り部に貫通させ、内側から瞳を描いた水晶レンズを嵌(は)める技法である。光沢ある眼球の現実感を出す効果があり、仏像「生身」化との手近な工作として鎌倉時代以後には一般的になった元永三年の広隆寺聖徳太子像では鉱物質の素材でできた瞳を内側から飲める技法がすでに用いられており、玉眼自体の発案の時期はもう少しさかのぼると思うが、この三尊において、その技法が全体の表現とかかわって効果的に用いられているのが注目される。全体の形式では、三尊像の両脇侍(きょうじ)が片足を踏み下げる形はこれ以前の定朝様作品には類例がなく、奈良時代ないし平安初期作品との関連を考えさせる。着衣の形式では脇侍像において裙(くん)の上に巻く腰布が背面で裙の折り返しによって隠されず、その上縁をみせる形が平安初期の密教彫像のそれと共通する。中尊の右肩に少しのうえ懸かる納衣(のうえ)が長く肘(ひじ)近くまでのびる形や、右脇侍の左肩にのみ天衣を懸ける形は、平安後期には類例がない。衣文は隆起がつよく、これも定朝様の作品の浅く平行にととのえられたものとは異なる。中尊では右脚部に折り返しを造っているが、これは奈良・室生寺釈迦如来坐像など平安初期の像に似た形がみられる。荘厳の形式では中尊光背の光脚の部分が、奈良時代風の宝相華の葉状の形をしている点も注意される

▶康助の不動明王像

 京都・北向山不動院不動明王階下像(上図)は、奈良仏師の動向を考えるうえでの重要な新資料である。この寺は、東方にある安楽寿院の不動堂の後身と伝えるが、不動堂心久寿二年(きゅうじゅ・一一五五) に藤原忠実が建立し、本尊以下の仏像の担当仏師は康助であった。右足を踏み下げる不動明王の彫像は平安時代には他に知られず、密教図像にその例があるのみである。おそらく製作過程で像容を変更したため、頭体を通した材を頭部・頚部・体部等で上下に切断したことが報告されている。こうした臨機応変の製作態度や玉眼を散人する点が長岳寺像と共通するのは注目される。

▶千体千手観音像

 しかし、これらの康助ないしその周辺作品にみられる新しい要素は中央にもひそかに進出していたものの、ただちに新様式に発展したわけではない。後白河法皇が自邸法住寺殿の西側に営み、長寛二年(ちょうかん・一一六四)に供養された蓮華王院本堂千体千手観音像の造像は康助が主宰し、おそらく三派の共同で行われたと推測されるが、鎌倉中期の再興本堂に現存する創建当初像百二十四驅をみる限りすべてがおだやかな平安後期の典型的な様式でまとめられている。流派間の、あるいは流派内の作風の相違も認められないことはないが、さほど顕著なものではない。おそらく平安最末期にいたるまで、正統の造像では三派仏師は基本的にはこうした保守的な作風に終始していた康助における藤原忠実のような、新奇を好む外護者もいたが、奈良仏師が独自の表現を試みるのはやはり特別な場合だった

▶玉眼蔵人像の系譜

 

 長岳寺阿弥陀三尊像北向山不動院不動明王像にみられた玉眼は、その後の奈良仏師系統の作品に継承されている。まず、応保二年(おうほう・一一六二)の東京国立博物館昆沙門天立像(上図左)は奈良・中川寺十輪院(なかかわでらじゅうりんいん)の旧像と知られるが、中川寺は南都の戒律復興を推進した実範が開いた寺院で、康助の造像も知られ、この像も奈良仏師の作であろう。特殊な甲の形式や二頭の邪鬼を踏む姿には図像との関連が考えられ、忿怒(ふんぬ・ひどく怒ること)の誇張を抑えた実人のごとき表情は、鎌倉時代の運慶らの天王像にみられる表情の蹤(せんしょう・先人の事業の跡。先例)である。つぎに、愛知・七寺(ななでら)の観音・勢至菩薩坐像(上図右)は、仁安二年(一一六七)の同寺再興時の作と考えられる(一具の中尊阿弥陀、随侍する二天王像は戦災で焼失)。おだやかな菩薩形像だが、部分の写実的な表現に清新の趣があり、また勢至の光背頂上に標幟(ひょうじ・口を通しての音声的表現が最も抽象的なものとすれば,より具象化の進んだ仏の手に持つ持物(じぶつ)のようなシンボルは,仏の誓願の意志を示すには最もふさわしい。)である水瓶(すいびょう)を配する点には図像との関連が認められる。

▶平安時代の康慶・運慶

 康助の子康朝の弟子康慶は奈良仏師の正系ではないが、その子運慶とともに鎌倉彫刻の成立に重要な役割をはたした。すでに仁平二年の造像記録があり、治承元年(じしょう・一一七七)蓮華王院五重塔供養の際法梼に叙せられた。運慶は長男湛慶の誕生が承安三年(じょうあん・一一七三)だから十二世紀半ばの生まれかと推測される。いずれも平安時代の遺品がある。

 

 運慶作品は奈良・円成寺(えんじょうじ)大日如来坐像である(上図)。台座の銘記によって「大仏師康慶実弟子運慶」が安元元年(一一七五)十一月に造り始め、翌年十月に完成したものとわかる。鎌倉時代を代表する仏師運慶のもっとも早い遺品である高い髻(もとどり・髪を頭の上に集めて束ねた所)の形東寺講堂五菩薩像(上図下)のような平安初期の密教彫刻にその源流がもとめれる。地髪部の処理は奈良後期の乾漆像に似ている。腰布の着け方は長岳寺阿弥陀三尊像両脇侍と同様である。また光背光脚の宝相華形の意匠は長岳寺阿弥陀三尊像中尊と同様である。これらの点に古典研究の深まりがうかがわれるが、この像の典拠として東寺講堂の創建当初の大日如来像、あるいはやはりそれを典拠とした康助作品の介在などを想定する説がある。おだやかな面構成はなお定朝様式にしたがっているものの、胸を張って腰をひきしめた姿勢にはきわめて清新な感覚が認られる。なお、運慶の記名は花押をともなう自署であり、仏像作者が自身の名を像に書き留めた初例として造像銘記史上に画期的な意義をもつ。

 康慶の静岡・瑞林寺(ずいりんじ)地蔵菩薩坐像(下図左)は像内に仏頂尊勝陀羅尼(ぶっちょうそんしょうだらに)・宝筐印(ほうきょういん)陀羅尼等の陀羅尼真言類治承(じしょう)元年八月の造立の日付、「大仏師法橋康慶」をはじめとする作者名その他を墨書する。康慶はこの年十二月にえた法橋位を、さかのぼつた日付の銘に記したのであろう。右脚を前にはずす安坐(あんざ)の形式、右肩を覆肩衣(ふげんえ)が右胸下方の納衣にたくしこまれる部分で一旦たるみをみせる形式、また納衣の左襟の縁に下層の衣を少し懸けて垂らす形式は奈良時代末期ないし平安初期の彫刻に先例があり、運慶の円成寺像同様にこの期の奈良仏師の古典学習のあり方をうかがわせる。表現の上では、張りがあって柔軟な肉どり自由な衣文構成など、円成寺像よりも一歩すすんだ写実の段階を示している。

 

 平安時代の康慶関係の作品として、ほかに、「僧康慶」の銘があり、治承元年の法橋叙位以前の彼の作である可能性のある香川・與田寺(よだでら)不動明王立像(東寺旧蔵(下図左)、鎌倉後期に康慶作の伝承が語られた東大寺二天王立像(内山永久寺旧蔵)(下図右)、また円成寺像によく似ながらやや素朴な特色もみられる京都・浄瑠璃寺大日如来坐像(上図右)などもある。

 

■地方造像の拡大

 平安時代後期には、それまでにも増して地方の造像が拡大し、高水準の仏像も少なくない。中央の三派仏師の工房に地方から造像が依頼される場合もあったろうし、三派に属する下級仏師が地方に下って造像にたずさわる場合もあったであろう。この時期の地方の仏像には像内の銘記に仏師名があらわれる場合が少なくないが、そのことは願主と仏師の社会的地位に関係があり、仏師が願主と対等以上の場合に名が書かれたとする研究がある。地方では、中央と何らかの関係を有する仏師の名を仏像に書き付けることは、像の価値を増すことになったのであろう。銘記にみえる仏師の称号に、僧綱位よりも一段低い講師職が多いことも、地方の仏像製作の事情を物語る。

▶西と東の仏像

 西国では、奈良時代創建の福岡・観世音寺に、延久元年(一〇六九)銘十一面観音菩薩立像(上図)など、康平七年(一〇六四)やその後の罹災(りさい・災害をうけること。被災)に際してのすぐれた復興像があり、大分・宇佐八幡宮の周辺、六郷満山にも真木大堂(まきおおどう)不動明王立像(下図左)同堂大威徳(だいとく)明王騎牛像(下図右)など、中央作品に遜色ないできばえの像が複数あげられる。六郷満山に近い地域には、岸壁に彫られた磨崖仏の遺品も多く、臼杵磨崖仏はことに著名であるが、これらも中央の仏師の作風がこの地にもおよび、地域特有の石造文化のエネルギーと混交したものとみられる。

 

 東北地方は、全般には西日本よりも土着的な仏像が多いが、そのなかに突出した中央風の仏像がみられる地域もある。現在の岩手・中尊寺を中心とした平泉である。中尊寺は十二世紀初めに鎮守府将軍藤原清衡が再興を企てた寺で、天治元年(てんじ・一二一六)に供養された。現世浄土現出のために、中央文化の移植にことに意が用いられた。現存する金色堂は天治元年(一一二四)の創建で、須弥壇(しゅみだん)の中央壇の壇下には天治三年に没した清衡の遺骸を、その後左右に増設された壇の壇下には藤原基衡・秀衡の遺骸を納め、各壇上の阿弥陀三尊・六地蔵・二天像は各壇設営時に造立安置されたものとみられる(現状の配置には混乱があり、他堂から移入した像や亡失した像もある)。

 東北特有のヒバやカツラを用材とするから、この地での造像とみられるが、その高水準の作風からみて中央仏師がこの地に招請されたのであろう。

 

 大長寿院文殊五尊像(下図)は、中尊寺経蔵本尊だったもので、渡海(とかい)文殊の五尊構成は当時の中国五台山信仰の隆盛を受けた、最先端を行く図像であるが、玉眼が用いられることも注目される。

 藤原基衡とのかかわりほうげんを伝える山形・本山慈恩寺には、保元二年(一一五七)の火災後の復興像とみられる一群の像があり、釈迦堂本尊にあたるとみられる伝阿弥陀如来坐像(下図左)やこれに随侍する像と思われる普賢菩薩騎象像(下図中)・十羅刹女立像(じゅうらせつにょ・現存五驅)と文殊五尊像(現存四驅)(下図右)などがあり、それらの図像や作風の先進性に驚かされる。

 

▶地方固有の仏像

 中央の作風が各地に広範におよんだ一方で、平安前期の地域性や野趣が残存して、地域独特の魅力をもつ仏像、すなわち地方仏が数多く生まれたのもこの時代である。そのなかに みられる立木仏は、霊木から仏が出現するさまをあらわすために自然木の板やそれをかたどった台座をそなえるもので、第三講でもふれた古来の霊木信仰と仏教との習合を具体的に示すと解される。また、東北地方や関東地方に遺品のめだつ銘彫りは、像の全面や大部分に水平方向の丸ノミ痕を意図的に残すもので、代表的な像として、岩手・天台寺聖観音菩薩立像、神奈川・宝城坊薬師三尊(上図左)像、同・弘明寺十一面観音菩薩立像(上図右)などがあげられる。

▶中尊寺金色堂

 立木仏同様に霊木からの仏の化現をあらわすとする解釈のほかに、最近はそのノミ痕の誇示に、経典に典拠をもつ造俊行為の視覚化という観点の必要性も提起されている(奥健夫「一日道立仏の再検討」〔『論集・東洋日本美術史と現場』所収〕三〇一二年、竹林舎)。

■南都復興の開幕 

 まさに平安最末、平重衡の軍勢の手で東大寺・興福寺が焼かれ、東大寺大仏以下多くの奈良時代以来の古像が失われたのは治承四年(一一八〇)十二月のことである。

▶興福寺主要堂宇の造像分担

 藤原氏の氏寺興福寺の主要堂宇は、翌治承五年六月、諸堂の造営費の分担が決まって、建築が始められ、七月には主要四堂に安置される仏像の御衣木加持(みそぎかじ・仏像を造顕するための用材(御衣木・神仏の像を作るのに用いる木材)を刻み出す前に,穢(けがれ)を除き,霊性をもたせるために行う加持<諸仏が不可思議な力で衆生(しゅじょう)を守ること>の式)も行われた。各堂の造営費の出所とその建築工匠とのあいだには一連の関係があるが、堂の仏像を造る仏師との間にも同様の関係があった。『養和元年記』によれば、氏長者沙汰(うじのちょうじゃのさた・藤原氏の当主が負担)の講堂像は最有力の京都仏師院尊の、公家沙汰(朝廷の負担)の金堂像はこれに準ずる明円の寺家沙汰(じけのさた・興福寺自身の負担)の食堂像は輿福寺専属ともいうべき南京大仏師成朝の担当である。ただし、講堂と同じ氏長者沙汰の南円堂像が奈良仏師康慶の担当に決まったのは注目される。

▶大仏再興と重源

 養和元年(一一八一)、東大寺の再興大観進となった俊乗房(しゅんじょうぼう)重源(一一二一〜一二〇六)が最初に着手した仕事であった。重源は九州にいた宋の鋳師陳和卿(ちんなけい)を招いて鋳造を担当させた。頭部の原型製作者は不明であるが、当時の仏師界の第一人者であり、のちに大仏光背を造った院尊あたりだろう。重源という特異な人物が東大寺再建の中心となったことは、のちに彼と深い関係をもつ奈良仏師一派の東大寺再興造像での活躍を準備することになる。

▶運慶廣経と慶派

 仏師運慶が円成寺像を製作した安元年中に発心して料紙を準備していた法華経、いわゆる「運慶願経」の書写を完成したのは、寿永二年(じゅえい・一一八三)のことだった経の軸身には、この三年前に焼けた東大寺の柱の残木を用いたといい、このことに運慶らの南都復興にかける意欲をみることもできよう。奥書に記す礼拝結縁者の中には 「慶」字をもつ名が多くいみえる。そのうち実慶・快慶・宗慶・源慶・静慶などは、のちに活躍の知られる仏師である。宗慶の名は康慶作の瑞林寺地蔵菩薩像の銘記中にも小仏師としてみえた。彼らはおそらく康慶の弟子とみられ、この時期にいたって、奈良仏師康慶の工房に多くの俊秀がそろってきた様子が想像される。奈良仏師の傍流(ぼうりゅう・主流派からはずれた流派)から生まれたこの系統をいま慶派と呼んでいる。やがて仏像史における新時代の扉を開くのは彼らだった。