第六講・鎌倉後期・南北朝以後

■鎌倉時代後期

 文永三年(一二六六)の蓮華王院本堂の再興以後、元弘三年(一三三三)の幕府滅亡までを鎌倉時代後期とする。この時期、幕府においては北条得宗(とくそう)専制がつよまり、院政政権も摂関家も地位の低下はいちじるしく、王朝文化は終焉を迎えた。中央の仏師群は地方の造像に活路をもとめることになる。王朝的な造像規範は壊滅して、概念的な造形が増え、一部では当時の中国風の造形への傾斜がいよいよ急になつた。一二七一年の元王朝の成立にともない、この前後の中国風を宋元風という。

▶運慶三代目・四代目

 東大寺講堂本尊製作中に没した湛慶の後を継いで像を完成させたのは、蓮華王院造像でも湛慶にしたがった康円(一二〇七〜?)であった。運慶四男康勝の子と考えられ、建長元年(一二四九)から文永十二年(一二七五)までの活動がたどれる。文永十年の東京国立博物館文殊五尊像(興福寺旧蔵・下図左)は彼の代表作で、像相互の関係をわかりやすく表現した群像構成の妙にみるべきものがあるが、各像には誇張と説明過剰がめだち、湛慶の作にあったおだやかな調和は失われている

 なお最近の研究で注目された東京国立博物館愛染明王坐像・康円の事績(上図右)の多くが奈良地方のものであることに、この時点の慶派の動向がうかがわれる。康円と同世代の慶派仏師と思われる運実(うんじつ)、そして康円の次世代とみられる慶秀・湛康(たんこう・湛幸)が、「東方」(京都仏師)と称されながら、弘安三年(一二八〇)の大和長谷寺本尊・十一面観音像再興にたずさわるのも(『弘安三年長谷寺建立秘記・こんりゅうひき』)、その流れを示すものであろう。慶秀は建長六年に東寺大仏師職、建治三年(一二七七)には東大寺大仏師職についたらしい。湛康は弘安二年から元弘三年までの長期間の事績が知られるが、十三世紀末以降の遺品はいま九州地方に存し、南都からさらに地方へという動向が想定できる。その作風は康円よりも一段と概念的で、武骨なものになっている。

▶善春(ぜんしゅん)と康俊(こうしゅん)

 奈良では、善円(善慶・ぜんけい)の子の善春(ぜんしゅん)が父を継いで叡尊関係の造像にたずさわった。彼が弘(内山永久寺旧蔵)師とみられる。作者雲賀は康円周辺の仏安三年、八十歳の叡尊の姿を写した西大寺興正菩薩(さいだいじこうしょうぼさつ)坐像(上図)は鎌倉後期の肖像彫刻の傑作である。彼の周辺の善派仏師の足跡はこの時期、後述するように東国にも認められるが、奈良では前述した慶派主宰の長谷寺本尊再興仏師群のなかにみることができ、彼らと慶派との混交も想像しうる。そうした状況のなか、十四世紀初めの奈良にあらわれるのが、「南都大仏師(下図左)「南都興福寺大仏師」を名乗る康俊である(南北朝時代の慶派仏師康俊とは別人)。「高天康俊」とする史料もあって、室町期まで存続の知られる高天(たかま・高間)仏所先蹤(せんしょう・先人の事業の跡)らしい。その事績は九州までの広範囲におよぶが、叡尊教団関係が多い。穏健な作風も、この期の慶派よりむしろ善派との連続を思わせる。文保二年(一三一人)に、南北朝期におよんだ大分・金剛宝戒(こんごうほうかい)寺大日如来坐像(下図右)の長期の造像の間に没したらしく彼の肩書は子の康成に継がれることになる。

▶院派と円派

 京都の没落は、大集団を構成していた院派にとって他派以上に深刻な問題であったようだ。この時期の院派には地方進出の動きがめだつ。建治三年に院恵興福寺南円堂(なんえんどう)の仏像修理を担当し、弘安三年には結局敗れたもの院信(いんしん)・院恵・院清(いんせい)運実らと長谷寺本尊再興大仏師を競望するなどは、奈良への進出の動きである。島根・熊本などの地方にも十三世紀末の院派作品が残る。また十四世紀にはいると、真言律(しんごんりつ)寺院と結びつき、その活動は東国をはじめ全国の広範囲におよぶ。こうした動きに対応して作風も変化し、次代に顕著となる、やや癖のつよい作風が形成されることになる。京都・法金剛院(ほうこんごういん)十一面観音菩薩坐像(上図左)などの遺品にその過程をみることができる。

 円派では、隆円(りゅうえん)の後継者昌円(しょうえん)後嵯峨院の造仏を担当するなど、宮中の仕事は続いていた。比叡山の仕事も確保されていたようである。また、「熊野三山大仏師」紀州根来寺「仏所大工」の肩書を持つ円派仏師がいるが、これはこの派にも地方進出があったことを示すのであろう。ただし、鎌倉再末期の尭円(ぎょうえん)作京都・医王寺阿弥陀如来坐像(上図右)などをみると、なお温雅な都風が顕著で、円派があくまでも都の仏師であったことを思わせる。

▶鎌倉地方の展開

 

 鎌倉地方ではこの時期に、西大寺系の真言律宗の進出にともない、従来の慶派にくわえて善派系統の仏師の足跡がみられるようになる。叡尊の高弟忍性が開いた極楽寺関係の遣品がある円覚は作風・構造技法の点からも善派の一人と考えられるが、その繊細な作風は、以後の鎌倉地方彫刻の基本に通じる。建治二年の神奈川・称名寺弥勤菩薩立像(上図左)は、その形式にも猫背の体形にも、鎌倉大仏に通ずる宋風が顕著であるが、構造技法に善円作品との共通があり、この像の作者も善派系と思われる。この時期の鎌倉地方彫刻の成立に善派は重要な役割を果たした可能性がある。十四世紀にはいって極楽寺その他での事績の知られる名に「円」字をもつ円西・応円なども、この系統の仏師であろうか。ただし、その時期には善派を凌駕するように、この地方の真言律寺院に京都の院派の進出がみられる。

 作家系統はともかく、十三世紀末にはこの地方の仏像の宋元風への傾斜はさらに急になり、次代に続く。足を崩し、あるいは片足を踏み下げ、くつろいだ姿勢で坐る遊戯坐の菩薩像、坐像において衣の端を台座に懸けて長く垂らす法衣垂下像などは、中国絵画を写したものであり、木彫の表面に土を型抜きした「土紋」を貼って装飾する技法など、中国彫刻のなまの影響もみられる。

▶鎌倉時代拾遺

 鎌倉時代の仏像の諸相を物語る多数の遺品があらわれるのも、この時期である。第五講でのべた前・中期にも、一部はつぎの南北朝時代以後にもかかわることをふくめ、ここでまとめておこう。

 まず、仏像のジャンルについていえば、「善光寺式三尊」(長野善光寺本尊阿弥陀三尊像の摸像・上図左)「清涼寺(せいりょうじ)式釈迦」(平安中期に裔然が将来した清涼寺釈迦如来像の模像・上図右)など特殊な由緒ある像の模像が流行したことは特記すべきである。肖像の発展も注目され、とくに禅宗では頂相の尊重が彫刻分野にもおよんで頂相彫刻が造られるようになつた。面部の的確な写実と簡潔に抽象化した体部との対照が魅力的な表現を生んでいる。他の新仏教各派や旧仏教でも祖師や中興の師を追慕・記念するために肖像が造られた。慈恵大師像・弘法大師像などでは、定型表現が生まれている。聖徳太子信仰の隆盛にともない聖徳太子の肖像も数多く造られ、その像容が太子伝を参照して数種に定型化された

 技法的な問題では、木彫における、肉身と着衣とを分離する造法の流行、玉眼の一般化、金泥塗り仕上げ、金銅製装身具の多用などの「生身(しょうじん・現に生きている体)」を意識した表現の展開が注目される。平安後期以来の例のある裸形着装像足裏に仏足文をあらわし、やがて巻いた銅線で螺髪をあらわしたり、口内に歯をあらわしたりするにいたる一連の阿弥陀如来立像の作例なども同様である。こうした生身表現への関心は、前記した特殊な模像の流行や、肖像彫刻の隆盛とも無関係ではない。また材質の多様化の問題もあげられる。奈良時代まで盛んで平安時代には減少した銅造の作例がふたたび増加した。これには善光寺式三尊像(上図左)が多く銅で造られたこととも関係がある。一部では鉄仏も造られた。また、これも奈良時代以前に作例のあった塑像も鎌倉後期以降に復活し、南北朝時代以後には脱括乾漆造りの遺品も知られる。これらはあらたな中国影響であろう。

■南北朝時代 

 南北朝時代は鎌倉幕府滅亡後、明徳三年(一三九二)に室町幕府の主導によって南北両朝が合体するまでの六十年ほどの短い時期である。仏像史に関していえば、伝統的な仏師の活動が依然活発で、鎌倉時代の余韻がなおつよい時代といってよい。

▶院派と唐様の仏像

 なかでもっとも注目すべきは、平安後期以来の伝統ある院派があたらしい権力者である室町幕府にいちはやく結びついたことである。前代末からの活動が知られる院吉(いんきち)とその子院広(いんこう)がその中心である。院吉は、足利氏の菩提寺として創建された等持院(のちの南等持寺)の本尊像を造り、その料として丹波国分寺地頭職をえ、同時に等持院大仏師職をもえたらしい。また後醍醐天皇菩提のために創建された天龍寺本尊釈迦三尊像院吉(いんきち)の作だった。このように室町幕府にかかわる大事業に従事した院吉の系統は、その庇護のもとにあった五山叢林を中心とする全国の臨済宗寺院に活躍の場をひろげた。この期の院派の作例は、たとえば観応三年(一三五二)の院吉・院広らの銘がある静岡・方広寺釈迦三尊像(上図)にみるように、癖のつよい面貌、箱を積み上げたような体形、曲がりのつよい曲線を多用する衣文など、様式的な特徴がきわだっている。独特の形式美をもつものといえなくもないが、飛鳥時代以来各時代に特色ある美しさを達成してきた日本の仏像の栄光の歴史を知る者には、いささかなじみにくいものがある。しかし、こうした造形がこの期の権力者の趣向を反映していたはずである。この種の作風は一世を風靡して、ある種公的な性格も帯びたものとなり、他派にまで、また後世にまで少なからぬ影響をもった。同時代の中国の彫刻様式との直接的な関係はみいだしにくいが、こうした院派に代表される作風を仏像彫刻における和様に対する「唐様」としてとらえてよい。

▶康誉(こうよ)・康俊と慶派仏師

 慶派では、この時代以降、京都の東寺大仏師職を継承する系譜こそが正系、すなわち七条仏所として認識されたようである。その系譜にあがってくる康誉・康俊(鎌倉末期の南都大仏師康俊とは別人)には数件の遺作が知られる。康誉は鎌倉時代の慶派正系とは系譜上の断絶があるらしいが、作品の銘記に「運慶五代之孫」を名乗る。貞和二年(一三四六)の栃木・遍照寺大日如来坐像(上図左)などは、武骨な男性的な面貌、がっしりした体驅、太く深い衣文に特徴があり、この時点での運慶様の理解を示している。康俊の作品の銘記には、兵庫・如意輪寺如意輪観音菩薩坐像のように康誉と同じく「運慶五代」を名乗るものと、岡山・妙囲寺釈迦如来坐像(上図右)のように「六代」を名乗るものがあるが、作風的には康誉のような運慶様の墨守は認められず、むしろ同時代の院派作品への接近がみられる。ただし、建武元年(一三三四)に京都長楽寺一鎮上人坐像(下図)を造った「幸俊」はこの康俊にあたる可能性が高くその高水準の写実表現は注目される。長楽寺は次の室町期にかけてのこの一派による時宗肖像が残り、また禅宗の頂相彫刻にも康俊やその周辺の作とみられるものがある。なお南北朝期頃には、仏師系統を問わず同じ仏師の造った仏像と肖像とに歴然としたできの差がある。肖像がはるかにすぐれているのである。鎌倉期以来、依然として対看写照(立体的な面としての表現を取り入れそれによって、あたかもその人物がそこにいるかのような独特の技法)を旨としていた肖像と、よき典型を失った、あるいはかならずしもすぐれたものとはいえぬ典型をもつにいたった仏像との差であろう。

 なお、鎌倉末期からこの期にかけての活動・遺品の知られる性慶は、湛慶に連なる系譜を主張するから一応慶派系統とみるべきだが、その作風はつぎにのべる尭円などに近いところがある。

▶円派

 院派と並ぶ京都仏師の名門円派は、鎌倉未頃から、「三条」の称号を系譜的に用いて、三条仏所と呼ばれるようになる。十四世紀前半の尭円(ぎょうえん)には、円派の前代以来の活動を受けて比叡山や宮中の活動が知られ、また豪円(ごうえん)は足利尊氏の母上杉清子(うえすぎきよこ)ゆかりの京都・安国寺本尊釈迦三尊像(上図)に銘を残す。彼らの作風には、都仏師としての品格が保たれている。他に根来寺や四天王寺でのこの派の活動が知られる。十四世紀後半の作品には、院派の影響がいちじるしくなるが、それでもなおまるみある作風に独自の伝統がみられる。

康成と初期椿井仏所

 

 鎌倉時代に慶派や善派を生んだ奈良では、南北朝期には南都大仏師康俊の子康成が父から称号を継いで活躍した。延文二年(一三五七)大阪・千手寺千手観音菩薩立像(上図)はその銘に「故法眼康俊」とあり、当時存命の七条仏師康俊と彼の父康俊とが別人であるとわかる。また寛慶・慶秀らにも作品があるが、彼らは椿井仏所の初期の作家と思われる。これらの奈良の作品にはいずれも前代の善派の作品に通ずる、健全な鎌倉時代風が残っている。

▶鎌倉仏師の濫塘

 

 鎌倉後期に造仏の一拠点となつた鎌倉では、幕府滅亡後も活発に造仏が続けられた。遊戯坐の菩薩像や法衣垂下像などの作品が多く、前代以来の宋元風をつよく意識した作風が展開した。法衣垂下の形式は、中国絵画の影響を受けた、詫間(たくま)派のような日本の絵仏師の様式が二次的に彫刻に作用したものという妥当な指摘がある。仏師として名を知られるのは、康安年(一三六二)の東京・光厳寺(こうごんじ)釈迦如来坐像(上図右)の作者運朝(うんちょう)などであるが、詫間(たくま)派に対関係はともあれ、運朝の「運」字やその父・康恵(こうえ)するような仏所を構成していたのであろう。 彼らの系譜の源流は、実際の血縁関係や師承関係はともあれ、運朝の「運」字やその父康恵の「康」字が示すように、鎌倉初期の康慶・運慶であったろう。

■室町時代

 南北朝合一から、天正元年(一五七三)に将軍義昭が織田信長によって京都から追放されるまでのほぼ二世紀間が室町時代である。応仁の乱以後の一世紀ほどは一般史では戦国時代ということも多い。衰退が一段とすすみ、造形から写実性は失われて仏像史の上では暗黒時代称すべき時期であるが、この時代にもさまざまな仏師の活動が知られ、またその造形のなかに像や作家の伝統の片鱗を感じさせるものもみられる。

▶七所仏所

 

 慶派の伝統をひく七条仏所については、近年進展した東寺大仏師職相伝の状況の研究などから、その系譜と事績がかなりの程度明らかになった。多くの仏師の名が知られるが、ここでは十五世紀初頭の康秀、この世紀末の康珍(こうちん)の名をあげておこう。康秀は京都・長楽寺時宗肖像彫刻(下図)中少なくとも三驅を造り、南北朝期の二驅には劣るものの、なお肖像彫刻としての生彩をみせる。康珍の作品は明応二年(一四九三)の京都・東寺講堂大日如来坐像(上図左)文亀元年(一五〇一)の京都・智恩寺大日如来坐像(上図右)などが知られ、前者は弘法大師空海が構想した根本像の再興像である。巨像を破綻なくまとめた造形に、像の由緒や仏師系譜の伝統をうかがえるものの、平板な単調さはすでにおおいがたい。

▶院・円派系の仏所

 院派は南北朝期から続く系図が知られ、この時代も名に「院」字を冠する多数の仏師が知られる。院吉以来の丹波国分寺地頭職についた者がいることも知られる。この頃彼らの仏所は高辻(たかつじ)仏所あるいは高辻大宮仏所と呼ばれた。また、院派のなかには、おそらく平安後期の院覚の名にちなむと思われる「覚」字をもつ者のいることが鎌倉初期以来知られるが、この期には十五世紀に室町将軍家の祈祷仏を造った覚慶・覚寿・覚舜、この世紀の末に長谷寺本尊再興大仏師を競望した覚蔵ら、名に「覚」字を冠する一系列の存在が知られる覚蔵は万里(までの)小路大仏師と呼ばれた。永享八年(一四三六)に京都・西正寺愛染明王坐像を造った覚伝はこの一派の仏師であろう。作風的には、前代以来のこの派の特色は変わらず、硬化してそれらが一層強調された極端な造形になっている。

  いわゆる円派の系統に属すると思われる仏師は数人が知られる。この期のこの系統の大作としては、平安後期覚鑁(かくばん)が高野山上に建立した大伝法院の本尊の再興造像である、和歌山・根来寺大伝法堂の大日如来・金剛薩唾・尊勝仏頂の三尊像(上図)がある。大日に応永十一年(一四〇四)金剛薩埵(さった)に翌年の銘があるが、明徳二年(一三九一)に同寺弘法大師像を造った定円(じょうえん)ないしその系統の仏師の作であろう。またこの期にも宮中の造像を担当するところには造仏というしごとにおける伝統の意味を考えさせる。

 他に「弁」「定」などを系譜的に名に用いる中央仏師も知られるが、それらと院・円派との系統的なつながりは、それぞれに検討する必要がある

▶奈良の椿井・宿院仏所

 奈良では十五世紀には椿井(つばい)・高間・登大路・富士山・高間などの群小仏所の活動が知られるが、なかで椿井仏所はもっとも顕著な活躍をみせた。十五世紀前半の集慶は、将軍足利義教の命により奈良・達磨寺達磨大師坐像(上図)を造ったが、像の彩色を室町絵画の巨匠周文が担当している。十五世紀後半には春慶が活躍し、明応七年(一四九人)の長谷寺本尊再興を担当した。十六世紀には椿井は衰退し、天文七年(一五三人)の長谷寺の現本尊十一面観音菩薩立像(下図)は、奈良の造像伝統ぬきには語れない記念碑的な巨像であるが、運宗・遠海という系譜の知られない仏師の作である。

 

 椿井仏所(つばいぶっしょ・奈良を中心に活動した仏像工房)衰退後の奈良で顕著な活動をみせのは、宿院仏所(室町時代に入ると俗人の仏師が現れるが,宿院の仏師はその好例で,彼らは番匠つまり大工集団から出たもので,仏師の下請け的仕事をしているうちに仏師として独立した)である。彼らは当初は源次(上図右)・源三郎・源四郎などと名乗る俗人仏師の集団で、本来建築等の材木工事を担当していた「木寄番匠」が、初期には僧侶がプロデュースした造像に小仏師的な役割で参加し、やがて仏像製作に進出したらしい。棟梁源次が永禄三年(一五六〇)に造った奈良・大福寺の長谷寺式十一面観音菩薩立像(上図左)は、彼らの祖が明応・天文の長谷音本尊再興などにも深くかかわったことを象徴するような遺品である。明快な形式、まるみをもった体驅、鮮やかな刀痕を残した素地仕上げなどに、この一派の特色があるが、そこにはやや平俗ながらも奈良の鎌倉時代の仏像の伝統とやがて到来する近世の明るい気分とをあわせ感じることができる。なお、奈良の仏像の象徴である東大寺大仏は、永禄十年に松永久秀の兵火により甚大な被害を受けるが、直後の応急修理に、宿院仏師の棟梁源次が北室仏師としてかかわった形跡がある。

▶鎌倉仏所

 鎌倉でも独自の仏所の活動がみられるのは南北朝期と同様である。十五世紀初頭に覚園寺を舞台に活躍した朝祐(ちょうゆう)は、前代の運朝らに連なる仏師であろう。覚園寺薬師堂薬師三尊像の両脇侍像十二神将像、伽藍神像がその作である。薬師三尊両脇侍法衣垂下の形は、鎌倉五山第一位の建長寺仏殿本尊地蔵菩薩坐像に似たものがみられる。応永二十一年の回禄後の製作とみられ、朝祐ないし周辺の作だろう。いずれにせよ、これらのスケールの大きい彫技は、同時期の中央仏師の作には失われた造形の活力を保っている。

 十五世紀後半以後には、鎌倉では名に「円」字をもつ仏師の活躍が知られる。まず十六世紀前半にいたる長期間、鎌倉大仏所を名乗る弘円(こうえん・一四四二〜一五二九)が古仏の修理や新造に盛んに活動して、その前後の時期にかなり多くの「円」字の仏師がいるほか、十六世紀後半には泉円・快円父子がいる。彼らは鎌倉末期頃に鎌倉で活動した「円」字の仏師の後商であろうか。総じて素朴な作風であるが、活動が桃山期におよぶ快円の作などには近世的な整いもみられる。また、十六世紀には長盛・長慶・長勤など、名に「長」字をもつ鎌倉仏師の活動も知られる。これらの仏師が近世の鎌倉仏師の系統につながってゆく。

■桃山時代

 室町幕府崩壊後の織豊(しょくほう)政権の時期、そして慶長八年(一六〇三)江戸開府後も豊臣氏がなお大坂にあった慶長二十年までの四十年余りの時期を桃山時代とする。この呼称は美術史分野の伝統的なもので検討の余地があるが、この時期を区分することは仏像史にとって無意味ではない。時代の覇者織田信長は比叡山焼き討ちなど過酷な仏教制圧で知られるが豊臣秀吉は仏教に対して一部の抵抗勢力をのぞけば概して友好的で、その政策には寺院の再興・新造もふくまれる。仏像の造形は一般的には室町時代以上に粗放なものが横行した時期であるが、ここにあげるような、豊臣氏関係の造像に起用された仏師には、伝統をふまえて停滞を脱するかのようなあたらしい動きもみられるのは注目される。

▶宗貞(そうてい)と宗印(そういん)

 おそらくは前代未に宿院仏所の棟梁源次東大寺大仏の再興にかかわったから、源次の子であった源四郎・源五郎兄弟が、兄は下御門仏師宗貞と名乗って、弟は北室仏師を継ぎ宗印と名乗って、天正十四年(一五八六)、豊臣氏による方広寺大仏の造営の初期に参加した(神田雅章「宿院仏師から北室仏師・下御門仏師へ」〔『仏教芸術』・二九二〕 二〇〇七年)。方広寺像への彼らの関与の実態は不詳で、文禄五年(一五九六)に完成した大仏そのものも完成の年に焼失しているが、宗貞・宗印はいずれもこの後の豊臣氏関係の造像に起用されている。天正十九年頃の彼らの作とみられる奈良・金峯山寺(きんぷせんじ)蔵王堂(ざおうどう)蔵王権権現(ごんげん)立像三驅(下図)のほかそれぞれに遺品があるが、宗貞の奈良・伝香寺釈迦如来坐像、最近確認された宗印の東京・増上寺釈迦三尊像(上図左右)(洩漱毅「増上寺三解脱門の釈迦三尊像および十六羅漢像について」〔『学叢』三〇〕二〇〇八年。十六羅漢像をともなう)が代表作としてあげられる。鎌倉時代初期の快慶作品あたりに学んだ端正なまとまりがあり、奈良の地の長い造像伝統が突然花開いた観がある。

▶七集仏師康正(こうしょう)

 

 また七条仏所の正系を継ぐ二十一代・康正(こうしょう・一五三四〜一六二一)も桃山時代を代表する仏師である。室町未から活動を始め、東寺大仏師として東寺請像のほか蓮華王院本堂二十八部衆像など多くの著名な古像修理の事績が知られ、信長が焼き討ちした比叡山の仏像や鎮守日吉社の神体の再興も担当している。最近では新造作品も少なからず知られるようになったが、代表作は豊臣秀頼の命により慶長九年(一大〇四)までに完成した東寺金堂薬師三尊像(上図左右)であろう。平安遷都直後という創建像の復興像で、古式の像容をとるなかに充実した剛健な作風がみられ、ここにも運慶以来の伝統の回復をみることができる。台座に据えめぐされた十二神将立像(下図右)康猶(こうゆう)・康英(こうえい)ら康正一門の製作で、創建像の形制を守りながら、作風は鎌倉彫刻に多くを学んでいる。

■江戸時代

 慶長二十年(元和元年、一六一五)のいわゆる元和偃武から明治元年(一人六人)の明治維新にいたるまでの約二百五十年間を江戸時代とする。徳川幕府による長期政権町時代で、幕藩体制と呼ばれる支配が安定をつくりあげた。

元和偃武(げんなえんぶ)とは、慶長20年(元和元年・1615年)5月の大坂夏の陣において江戸幕府が大坂城主の羽柴家(豊臣宗家)を攻め滅ぼしたことにより、応仁の乱(東国においてはそれ以前の享徳の乱)以来150年近くにわたって断続的に続いた大規模な軍事衝突が終了したことを指す

 仏教政策としては、初期に示された寺院法度のなかに本末制度や寺檀制度が規定され、仏教制度の根幹をなした。本末制度は本山と末寺の関係を宗派ごとに固定化し、上下関係を作るものである。また寺檀制度は、キリシタン禁制のための寺請(てらうけ)制度に端を発し、寺院(菩提寺・檀那寺)と一般の人びと(檀家)とを政治的に固定したもので、これにより寺院は行政の末端の役割を果たすことになった。仏教は幕府の統制を受けると同時に庇護をも受けることとなり、全国の寺院数はいちじるしく増加した。当然そこに安置された仏像の数も彪大であるが、造形のうえでも、過去の彪大な歴史を岨嚼(そしゃく・食べ物をかみくだくこと)し、反映した伝統的なものがある一方で、あらたな中国影響もあり、またある意味で近代的ともいえる機知や奇想のみられるものもあるなど、多様な時代である。

▶幕府御用の造像と七条仏師

 元和偃武[(げんなえんぶ)とは、慶長20年(元和元年・1615年)]の翌元和二年(1616)に徳川家康が没した。家康の晩年に信頼をえて日光山を領していた天台僧天海(一五三六〜一六四三)は、天台宗の山王神道の立場から家康に東照大権現号の勅許をえて、翌年遺骸を日光に移し、日光東照宮と別当寺輪王寺の建立を始めた。また覚えい永二年(一六二五)には上野に寛永寺を開いた。いずれも江戸幕府による社寺創建の初期の大事業であったが、これらにくわえ増上寺や江戸城内紅葉山霊廟などの 「幕府御用」すなわち幕府関係の造像を中心的に担ったのは、桃山時代に活躍した康正の系譜をひく京都の七条仏師であった。康正一門の起用は天海と比叡山との関係からであったと想像されている。

 

 幕府御用をつとめた最初は康正の子の二十二代康猶(こうゆう)で、天海の指図を受け、日光東照社三所権現本地堂薬師三尊等の諸像を造り、寛永寺でも東照社神体や諸仏を造ったというが、それらの作品は確認されていない。康猶を継いだ二十三代康音は寛永十六年(一六三九)の家康二十五回忌の本尊の造像が記録されているが、そのうち二十五回忌本尊の五大尊像が中禅寺五大堂(上図)に、十二天立像が輪王寺護摩堂(上図)羅喉星像(らごうせいぞう)と大士(中国、南北朝時代の在俗仏教者)・二童子像が輪王寺冷蔵に、維摩像が輪王寺法華堂に現存することが近年確認されている。上野寛永寺で寛永八年に創建され、同十六年に焼失し、ただちに再建された東照宮五重塔に安置されていた四方四仏坐像(東京都建設局蔵)(下図)は、再建時のおそらく康音の作だろう。これらは鎌倉前期彫刻によく学んでいるが、それをいかにも平明にまとめている点で、剛健さを強調した康正の時期の作風とは異なる感覚が認められる。なお、日光山輪王寺護摩堂には寛永十七年に康音が造った天海の寿像である慈眼大師坐像(下図)も残る。迫真の写実は過去の栄光の時代の肖像彫刻に遜色ないものである。

  

 康音の後継は第二十四代康知である。慶安四年(一六五一)に没した徳川家光の遺言で造営され、翌年完成した日光大献院廟の造像が彼の事績の中心で、遺骸を安置する奥院霊窟上の宝塔本尊銅造釈迦如来坐像、廟内安置の家光坐像とこれを護持する四天像、夜叉門四夜叉像などが完存しているが、他にも承応三年(一六五四)の紅葉山大猷院殿霊廟四天王立像(東京・光明寺蔵)明暦四年(一六五八)の京都・長講堂後白河法皇坐像(下図)が確認されている。次の第二十五代康乗は、寛文二年(一六六二)以後の事績が知られ、同四年将軍家綱の生母宝樹院殿十三回忌に際して造った霊牌所宝塔の銅造釈迦如来坐像、四天王立像(寛永寺蔵)、同十一年の家光二十五回忌用釈迦如来坐像(輪王寺護摩堂)などが確認されている。それぞれの個性もあるものの、いずれも康音の代の作例に通ずる伝統を堅持した作風を示し、とくに如来像に、この期の七条仏所がめざした鎌倉前期風の造形の完成がみられる。

 康乗の次代二十六代康祐は幕府御用を継承するが、元禄九年(一六九六)に七条仏所歴代が継いできた東寺大仏師職を弟子筋の志水氏に譲ったり、元禄以前に黄柴山仏師をつとめていたり、その造像環境には従来と多少の変化があった。黄葉山仏師との関係でいえば、黄葉様と呼ばれる中国明暗代の様式にしたがった仏像も造っていることがおおいに注目される (黄葉様については後述)。

さまざまな京都仏師

 貞享二年(じょうきょう・一六八五)開版の京都の地誌『京羽二重』の諸職名匠の項には、前記の康祐他の名があがり、七条仏師正系以外にも多くの仏師が京都にいたことがわかる。そのなかの一人久七(きゅうしち)は、康正の弟子久七康以(こうい)と同人ともその裔(あとつぎ)とも説かれるが、寛文十三年の長野・長雲寺(ちょうんじ)愛染明王坐像(上図右)や天和三年(一六人三)の香川・根香寺(ねごろじ)五大明王像(上図左)中三躯などに七条仏師正系に遜色ない腕前をみせる。また室町一条上ル町の右京は、吉野右京と呼ばれることが多く、ことに京都・醍醐寺にすぐれた肖像彫刻を残したことで知られるが、そのうち理源大師坐像(下図)の銘には「尊氏之大仏師印書法印末孫大宮方大仏師」と南北朝時代の院派仏師院吉の流れをくむことが示され、後述するいんたつ院達と同人である可能性がある。彼らのみならず、ここに名のみえる仏師は、他にも全国各地に遺品を残す者が少なからずおり、京都仏師の広範囲の活動と十七世紀造像界の水準の高さをうかがわせる。

僧侶の造像

 

 江戸時代は専門仏師以外にも造像にかかわった者がめだつ時代である。奈」艮宝山寺を開いた真言密教僧湛海(一六二九〜一七一六)はなかでも顕著な存在で、その熱烈な信仰から不動明王・歓喜天などの絵画・彫像を多く造ったことが知られる。たとえば奈良・元興寺不動明王坐像(上図)の銘では、図像や彩色は湛海の指図であり、そのほかの「手伝ヱ作者」は京都仏師清水隆慶(上図)だったというように、彫像の実作はこの清水隆慶や院連などの専門仏師に多くをゆだねていたらしいが、そこに精神性を吹き込み、迫力ある表現を達成できたのは、やはり湛海の関与あってのことだったようだ。なお清水隆慶は単独の仏像製作について十分な資料がないが、晩年には余技の人形製作に活路をみいだした節がある。その名は後商に継がれ、四代までの活動が知られる。

 僧侶の造像への関与という点では、東京・浄真寺の九品阿弥陀如来坐像(上図)もあげてよいだろう。同寺の開山・珂碩松露(かせきしょうろ)が寛文四年から七年にかけて、弟子珂憶(かおく)の助力もえて完成した、丈六仏九驅である。九驅の像容・作風は、定朝様にのっとったもの鎌倉時代風のもの、やや租豪なものまで一様でなく、珂碩(かせき)の指導のもと多くの専門仏師が製作したものとみられるが、日本の仏像史を一堂に集めたような迫力ある偉観をつくりあげたのは珂碩らの宗教的情熱といってよかろう。

▶黄檗様(おうばくよう)と松雲元慶(しょううんげんけい)

 承応三年(一六五四)当時の清から禅僧隠元が長崎に渡来した。彼を開祖として成立したのが臨済宗黄檗派(現在の黄檗宗)である。隠元が開いた京都宇治の萬福寺の仏像は、当時長崎にいた中国人仏師范道生(はんどうせい・一六三五〜一六七〇)が招致されて担当した。その後、黄檗派の展開につれて、明末清初めの苑道生作品の形式や作風にならう仏像が、禅寺を中心にある程度ひろがることになるが、これを「黄檗様」と呼んでいる。平安後期以降、圧倒的に和様が席巻した日本仏像史のなかで、南北朝時代以後に院派仏師などを中心に展開した唐様に次ぐ、第二の唐様ともいうべき様式である。前にのべた七条仏師廉祐など伝統仏師が黄檗様の仏像を造った例もある。特筆すべきは京都仏師であった松雲元慶で、彼は黄檗僧鉄限道光(てつげんどうこう)に師事して出家してから黄檗様の造像を行うにいたったとみられ、延宝五年の東京・豪徳寺(ごうとくじ)仏殿三世仏(さんぜぶつ)坐像の銘札にいう作者「洛陽仏工祥雲」は彼にあたる。またみずから五百羅漢の造立を発願して江戸に下り、元禄四年には造像に着手、同人年に本所に羅漢寺を開き、同十三年までに五百羅漢像(下図)をほぼ完成した。これらは一部をのぞき東京・五百羅漢寺に現存し、黄檗様をよく消化した作風を伝えている。

▶円空と木喰

 この時代の伝統的な仏像の盛期と時期を同じくして遊行僧円空(一六三二〜一六九五)の造像があった。美濃生まれというが前半生の事績は不明で、寛文三年頃の出家以降、諸国を巡歴し、その足跡は北海道から畿内までの広範囲にわたり、材の割り痕や整痕をそのままにした簡潔で大胆な造形の仏像を各地に残す。その数は生涯に十万あるいは十二万体に達したといわれ現在でも五千体に近い数が確認されている。円空の仏像が美術史的に評価されるようになったのは昭和初期に日本美術院で活躍した彫刻家橋本平八による評価を契機としており、その後、円空の仏像を日本仏像史のなかで飛鳥時代の仏像や平安時代以降の行者系の仏像の系譜上に載せるこころみなどがあった。それはともあれ、円空の仏像の体驅のとらえ方などには和様の伝統に基本的にしたがっている一面があるのだが、それにしても機知に富んだ斬新な感覚は、やはり伝統的な仏像の展開のなかで考えるのはむずかしい。諸芸術のジャンルを超え江戸時代の近代性などを考える場に検討をゆだねたい

 円空とともにとりあげられることの多い木喰五行(一七一人〜一八一〇)は江戸後期の甲斐に生まれた遊行僧で、安永二年(一七七三)に日本廻国を発願して以後、北海道から九州におよぶ巡錫(じゅんしゅく・《錫杖(しゃくじょう)を持って巡行する意》僧が、各地をめぐり歩いて教えを広めること)を続けた、その間に各地でやはりおびただしい数の仏像を刻んだ。木喰の仏像を発見し評価したのは近代民芸運動を提唱した思想家柳宗悦であったが、木喰の一種の素人性も、円空とは別の意味で、伝統的な仏像史の枠組みを超えるところにある。

 

▶江戸時代後半の動向

 ここまでにのべたように江戸時代の仏像は時代の初期に、過去の遺産に学んだよき典型をつくりあげたが、十八世紀にはいると、仏師集団の分散なども関係があるのか、造形の上、つほう停滞や形式化はおおいがたい。享保九年(一七二四)に幕府から当時の倹約令の一環として出された「三尺以上の仏像を造る場合には届け出て指図を受けるべし」との御触れ、また寛政十一年(一七九九)に出された「仏像はすべて三尺以下に限るべし」との定めは、仏像の小品化・形式化に拍車をかけたものと想像されている。これらの仏像を造るのは、江戸時代に急速に教線(教えの伝わる経路)をひろげ多数の寺院に本尊を下付するシステムをとった浄土真宗であれば、西本願寺の渡辺康雲、東本願寺の宗重のように本末制度のなかに組み込まれた仏師がいたし、多種の尊像を安置する日蓮宗にも林如水のような専従仏師がいた。以上の仏師はいずれも数代が名を継いでいる

 また、庶民が菩提寺に寄進するような仏像なら、とくに専門仏師の作である必要もなく、市中や村落に工房をかまえる町仏師の作でさしつかえなかった。そこで尊ばれるのは、過去の図像や造法に関する知識などよりも、細工・技巧の腕前であったのだろう。江戸の幕末四巨匠と呼ばれる高橋宝山・高橋鳳雲(ほううん)・松本良野村源光(げんこう)の逸話などもそれらを顕彰するものばかりである。高橋風雲の作品でよく知られるものに神奈川・建長寺三門楼上の鋼造五百羅漢像下図・木彫原型を造る)があるが、その精敵な技巧に驚嘆するものの、それはもはや仏像ではなく、置物彫刻であるといったほうがよさそうだ。

 このようななかで明治維新が到来した。神仏分離令とそれにともなう廃仏毀釈の嵐は、仏像と仏師の伝統の命脈を断つものであった。ここに日本仏像史はひとまずの終焉を迎える。