運慶

000■運慶の躯(からだ)、運慶の貌(かお)

山本勉

▶躯(からだ)  

 東大寺俊乗(しゅんじょう)堂に安置される国宝俊乗上人坐像。鎌倉時代初頭の東大寺再興をなしとげた大勧進俊乗房重源(一一二一〜一二〇六)の肖像彫刻である。この像から話をはじめよう。わたしは、この像の作者を、大仏師運慶(?〜…一二二三)だと思っている。像に銘記の類はなく、史料にも作者についてふれたものはないのだが、この像の造形を見るかぎり、作者として考えられるのは運慶をおいてない。

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 像は、背をまるめてうずくまるように坐り、それでもぐいと首をあげて正面を見据え、両手で数珠をつまぐる、老いさらばえた僧の姿である。作者はそれを、頭と体という二つの単純な塊として大胆にとらえ、その二つを頚部でつないでいる。そして胸の前で胸とのあいだに微妙な間隙をもってあげられた両手は東部の動きと呼応して、この像が包む空間をつくりだし、それが周囲の空間と交流して、この像の存在を確かなものにしている。一見、老僧を克明な写実でとらえたかに見えるこの肖像は、同時に一種抽象的ともいえるような構成をもった立体造形でもある。

 突飛なようだが、この重源像を見るたびにいつも、ピカソの《雌山羊・めやぎ》を思い出す。このブロンズ彫刻の原型は、籠やら陶器やら椰子の菓やらボール紙やらを寄せ集めて石膏で固めたものだというのだが動物の体躯を極端に単純な立体としてとらえた、二十世紀の立体派の巨匠の造形感覚をみごとに示している。しかし、東部と体躯を二つの塊としてとらえた簡潔なかたちは、十三世紀の日本で造られた重源像とあまりにもよく似ている。まさに時空を超えて、重源像と《雌山羊》は同じ造形感覚を主張しでいるのだ。

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 重源像に類する造形感覚をもつ日本彫刻として思い浮かぶものこれも肖像であるが、興福寺北円堂の無著・世親菩薩立像(上図左・右)だろう。運慶が主宰して、建暦二 (一二一二)年初め頃に完成した興福寺北円堂の弥勤浄土諸尊中の二躯である。太い柱のような 雄大な体躯と両腕の構えによってつくりだされた充実した彫刻空間は、重源像と同じ性格のものにほかならない。無著・世親像を担当した仏師は運慶の子だが、そこに示されている造形感覚は造像の統括者運慶のそれであろう。このレベルに達した彫刻は、この時期の以前にも以後にもない。重源像の作者を運慶と考えるのは、このような理由からである。

 重源像や無著・世親像に見られる、体躯(たいく)という立体へのこだわり、そしてその立体を周囲の空間と交流させる構成へのとりくみは、運慶の生涯を通して変わらなかったようだ。その志向は若き日の奈良・円成寺大日如来像(下図左・右)にすでにうかがわれる。この像の体躯は、若者のひきしまった肉体を写して、さらに抑揚をもったものとしてあらわされる。上半身にまとう条帛(じょうはく・仏像の左肩から斜めに垂らし、左脇を通り背面から一周し左肩へかけて結ぶたすき状の布)は わざわざ別材で作って粘り付けたことがⅩ線写真で判明しているが、それもこの時期の運慶の肉体表現へのなみなみならぬ関心を示すものだろう。そして金剛界(究極的実在を想像も及ばない無量無数の一切の如来たちの身体と言葉と精神が1つに集合した絶対界であると表現したもの)大日如来の智挙印(胸の前で、左手をこぶしに握って人さし指だけ立て、それを右手で握る印。右手は仏、左手は衆生(しゅじょう)を表し、煩悩(ぼんのう)即菩提(ぼだい)の理を示す)は、胸前の高い位置で、しかも胸から少し離して組まれで、像の周囲に複雑な空間をつくりだしている。

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 文治二(一一八六)年の静岡・願成就院(がんじょうじゅいん)阿弥陀如来像(下図)も同様である。おそらくは平安初期彫刻に学んだ圧倒的に量感あふれる体躯もち、その胸前に両手をあげて説法印(両手を胸の前に上げ、親指と人差し指を合わせて輪をつくる。如来が説法する姿をあらわす)を結ぶ。

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 この印相が選ばれたのにはもちろん宗教的な根拠もあったはずだが、ここでもこの印相が胸の前に空間をうみだしている。この両手の動きに呼応して、身にまとう衣に、激しく渦巻くように流動する衣文線があらわれるのも見逃せない。この衣文の動きは重源像にも見られるものだ。運慶の彫刻は空間の中で静止していない動き続ける円成寺大日如来像に見るように、抑揚のつよい体躯からはじまって、願成就院や神奈川・浄楽寺の阿弥陀如来像(下図左)のように肥満した圧倒的な量感をもつ体躯をへて、最後は一見、平安後期の和様に回帰したかのように痩せた興福寺北円堂弥勤仏像(下図右)まで、運慶の体躯の形態は一所に留まらぬ変遷を重ねたが、空間の中に置かれた体躯が空間の中でどのようなかたちを占めるのか、そしてそれは周囲の空間とどのようにかかわるのか、運慶の前には、つねにそのような課題があった。

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 運慶はどうしてこうした課題をもつにいたったのだろうか。運慶が生まれた時代、平安代後期の京都の仏像を、運慶の仏像とくらべると、それらは重さがないように思える。こちらに迫ってくるような感じもない。手を伸ばせば、突き抜けてしまうような感じすらする仏像。それは、わたしたちがいるのと同じ現実の空間に確かに存在するというよりも、どこか夢の中にいるような、そしてわたしたちを夢の中にいざなうような雰囲気をもった仏像だった。そんな仏像が一世を風靡していた時代にも、おそらく古い仏像は、過去の由緒とともに確かな存在感をもって、古き場所にまつられていたはずだ。やがて、それらに学び、それら再現しょうという仏師たちがあらわれた。それが運慶の先祖にあたる奈良仏師である。彼らによって仏像は、重さと確かなかたち最り戻しはじめた。確かなかたちは、こちらに近づいてきたり、去っていったり、確かな動きをもつようにもなる。

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 こうした試みも変化も、もちろん仏師だけが意図したものではない。当時の仏教界や社会の、国外との関係もふくむ大きな渦のなかから生まれたものだが、奈良仏師はそれを実現しうる幸運な条件に恵まれていた。その条件を最大限に生かしたのが運慶の父康慶であり、そこに誰よりもすぐれた彫刻的才能をもってあらわれたのが運慶だった。

 ▶貌(かお)

  平安後期から鎌倉への時代の変化の中で、仏像はたしかな表情も取り戻しはじめる。どここを見ているのかわからなかった仏像の視線は、はっきりと拝する者に何かを語り始める。この道筋もなら仏師が主導したものであったようだ。中国の仏像に何らかのヒントを受けたのかもしれないが、とにかく・・・まさにそのためのものだろう

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 仏菩薩像の目がはっきりと見開かれたのには、運慶の父、康慶の功績大きい。彼畢生(ひっせい)の大作、文治五(1189)年。五(一一八九)年の興福寺南円堂本尊不空羂索観音像の見開きがつよく、うねるような輪郭の目はことに印象的だが、その目つきはこれを十年以上さかのぼる静岡・瑞林寺地蔵菩薩像にすでに近いものが見える。

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 康慶の弟子快慶は、やや遅れてであるが、康慶の目を彼なりにアレンジして彼自身の目を獲得したようだ。運慶はといえば、文治二年の興福寺西金堂本尊であった仏頭には、比較的康慶作品に近い抑揚のつよい輪郭をもった目つきが見られるが、おおむね生涯を通じて、康慶作品よりもやや繊細な、しかも作品ごとに微妙に異なる目が展開している。円成寺大日如来像に見られる、両目のあい、比較的せまい、少し思いつめたような感じは生涯変わらないのだが、それでも運慶の作品は一作一作がちがう表情を見せる。

 運慶についてよく語られる、玉眼の使用不使用も、これに関連する問題である。ある時期以後の運慶が、明王・天や肖像には玉眼を駆使して、如来・菩薩像には玉眼を使わずに、いわゆる彫眼であらわしたというのは、おおむね正しい。さとりをひらいた、あるいはひらこうとする存在である仏菩薩のまなざしには、なまなましい玉眼は似合わないと考えたというのも当たっているだろう。しかし、それは運慶の製作の原則を示すのではない。一作一作の製作に対する運慶の周到な配慮を示しているのだと思う。

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 玉眼は運慶よりも一世代ないし二世代前から用いられた技法である。しかし、運慶ほどに玉眼を効果的に使った仏師が、ほかにいるだろうか。和歌山・金剛峯寺(こんごうぶじ)八大童子像(上図左)を見るがよい。矜羯羅(こんがら・華厳経に登場する数の単位である)のいぶかしげなまたたきや、制咤迦(せいたか)の素直そうな瞳、そして恵光の複雑にゆれ動く光など、少年のさまざまなまなざしが表現されている。そして、興福寺北円堂の羅漢像では、老年の無著は瞳の奥深くに慈愛の光を込め、壮年の世親の目はきらきらと光っで涙をたたえたようにも見せる。

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 それらに対するのが、玉眼を用いない仏菩薩像のまなざしであり、表情である。晩年の興福寺北円堂弥勤仏像を拝すると、仏菩薩には玉眼を用いることを避けた運慶の意図が少しわかるような気がする。玉眼を使っていないその日は、随侍する無著・世親の人間的な感情をたたえた日とは異なり、何も映さず、何を語ろうともしない。容易に内面をうかがうことなど許さないこのまなざし、この表情こそが、運慶が経験を重ね、理解を深めて、たどりついた仏像の顔なのではないか。

 最後に、もういちど東大寺の重源像に戻ろう。無著・世親像とは異なり、彫眼であらわされた、この老僧の日は何を見ているのだろう。何かが見えているのだろうか。それがわからないところにも、この肖像彫刻の特異性があるのだが、その表情とその存在感は、北円堂の弥勤仏像に通ずるものがある。やはり重源像は運慶の手になったものにちがいない。

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 運慶の時代はやがて過ぎる。社会の激動の終息を見届けたように運慶は生涯を閉じるのだが、仏像の世界もまた、長い歴史の中で臼見れば、ほんの一瞬の興奮がおさまったようだ。仏像のからだもかおも、また、どこかへ隠れてしまうことになる。

(やまもと つとむ/清泉女子大学)