カラヴァッジョ

000001 130blog_20160409-020705-7a0seven20160531_31■カラヴァッジョと光

ステアァニア・マチョーチェ

 ローマで獲得した初めての公的な注文において、カラヴァッジョは既に斬新な光の扱いを身につけていた。サン・ルイージ・デイ・ブランチエージ聖堂コンクレッリ礼拝堂の装飾である。背景は大胆に省略され、イメージは暗闇から浮かび上がる。漆黒の空間に刃物のような鋭さをもった一筋の先が走り、物語の登場人物を照らしている。それは予期せぬ閃光であり、夜の帳の裂け目でもある。瞬間を捉えた写真のように、峻厳な時のなかのわずかな一瞬だけ、現実世界の断片が光によって照らし出されている。他の部分は一様に闇に包まれているが、その暗さは前例のない強固さでもって形態と空間を物理的に造りだしている。カラヴァッジョ絵画においで、暗闇は形態を構成するものであり、構造的な価値を備えているのである。

 コンタレツリ礼拝堂装飾以降、カラヴァッジョ作品の闇は強さを増し、それと同時に光もまた徐々に精神的な意味を帯びてくる。その作品の暗さは、十字架のヨハネと呼ばれたスぺイン人神秘主義者ファン・デ・イエぺス・アルバレスが、「暗い夜」と表現したものと共通点を持つ。十字架のヨハネの定義によれは、暗闇とは他を認識できない人間精神の恒常的状態であり、それゆえ信仰のみが唯一の導きとなる。「我は知る、夜にあっても泉はほとばしり流れ出ることを。その永遠なる泉は隠される。だが我は知る、夜にあってもその在りかがいずこであるかを。被造物たちはここに呼ばれ行き、渇きを癒す。夜ゆえの暗闇にあっでも」。

 世界を覆う暗闇は絵画の世界における行為、仕草、精神状態、表情を増幅し、その結果として描かれた場面に活力を与え、物語における「時と場所」を確固としたものにする。カラヴァッジョの光は、現代の写真技術において「斜光」や「サイド光」呼ばれる照明方法に対応する。順光と逆光の中間、撮影方向に対して0度から90度の間の角度に光源を設定する方法である。この照明方法は効果的に陰影を作り出し、彫刻のような造形的な明確さで対象を表現することが可能になる。写真という平面上に立体感を表現するのに効果的な光の扱いである。画布もまた平面でありその平面上に三次元的存在感を生み出すカラヴァッジョの絵画は、幾世紀も後になって開発される写真技術を先取りしているとも言える。

▶史料

 印刷物としてのカラヴァッジョの初めての伝記は、ネ一デルランドで活躍した画家・著述家カレル・ファン・マンデルによるものである。ファン・マンデルはイタリアの諸事情についての情報をフローリス・ファン・デイクから仕入れており、カラヴァッジョの伝記も彼に負うところが大きい。ファン・デイクは1600年から翌年までローマに滞在し、画家のジュゼッぺ・チェーザリ、通称カグァリェーレ・グルピーノと交友関係を結んでもいた。カグァリエーレ・クルピーノの存在は、コンタレッリ礼拝堂の装飾以後大きな名声を博すことになったカラヴァッジョの作品を知る上で大いに役に立っただろう。

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 フアン・マンデルの主張によれは、アカデミーの教えに従い素描にだけ基礎を置く画家というものは、美術の根本的な目標である自然模倣について大きな成功はなしえない。カラヴァッジョについては実物に基づき描く能力を評価しているが、その一方で自然を選択的に取り入れなかったということを批判してもいる。実際に、カラヴァッジョが主題として選んだのは美しいものや高尚なものは アカデミプクかりではない。同時代の絵画における伝統的な主題の位階に同調せず見たままを区別することなく描き出した。彼にとって美しさとはあるがままの自然の本質であり、恣意的な選択を排除してこそ見出されるものなのである。このことを考えれば、ファン・マンカレの批判は、アカデミー的な判断基準にとらわれた不当なものだと言わざるをえず、いくつかの点において後のバリオーネからの攻撃を予見するものとなっている。両者はまたカグァリエーレ・グルピ「ノの優位を認めるという点でも共通している。その一方で、カラヴァッジョの絵画の革命的ともいえる自然描写に、同時代の人々がどのように反応したか、ファン・マンデルは重要な情報を残してもいる。「ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョはローマにおいて驚くべきことをなしている。このミケランジェロは既にその作品によっで大いなる栄光と評価、名声を獲得した」。

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 その後、教皇の首席侍医であったジュリオ・マンチーニが、カラヴァッジョについで記述を残しでいる。美術品収集家として、また目利きとしても著名な人物である。彼はカラヴァッジョに対して非常に肯定的で、画家の描法が革命的なものであり、多数の追随者を生むことになった。

 「ミケランジェロが導入した描画法は現在広く受け入れられており、我々の時代は彼に多くを負っている」。常軌を逸した画家の性格や暴力沙汰、さらには芸術活動の変遷についての記述のほか、いくつかの作品に関しては、画家が選択した図像や形式について注文主からの抗議が行われたことも記録されている。カラヴァッジョは物語の信憑性はもちろんのこと、その描写の迫真性にも並々ならぬこだわりを見せ、その結果として注文主からの「受け取り拒否」に発展することもあった。マンチーニは本当の意味での専門家であり、明暗の対比を強調する新しい描画方法の特異性を同時代の文脈に位置づけることができた。マンチーニはまた、強烈な光が物体の形を明確に浮かび上がらせるように、カラヴァッジョのアトリエでは壁の黒い部屋で制作が行われているのではないかと想像したが、これも的を射た推測だった。マンチーニの考えによれは、カラヴァッジョ以前に同様の制作方法を採用した画家はおらず、明暗を強調した新しい様式はひとつの流派を形作ることになったのである

 これとは正反対の証言を代表するものとして、カラヴァッジョの敵対的なライバルであったバリオーネの著作をあげることができる。そこではカラヴァッジョが自然描写を得意としていたとだけ述べられているが、その評価は極めて否定的なものである。バリオーネの著作の随所で光は様式を規定する重要なものとして扱われている。カラヴァッジョに関しても「光」という言葉が度々用いられでいるが、その絵画が備える光の「構築性」については一切言及されていない。結局のところ、バリオーネはカラヴァッジョ絵画が生んだ前例のない表現方法を正しく評価することはできなかったのだろう。このような判断はふたりのライバル関係を考えれはやむを得ないものでもあったが、その一方で根本的な理解の欠如にも由来する。バリオーネ自身の絵画制作では常にアカデミーの教えが守られており、表面的にはカラヴァッジョ的流行を取り入れるものの、徐々にその莫逆の性質を示すようになるのである。

 1629年から35年のローマには、ドイツ出身の画家兼版画家ヨアヒム・フォン・ザンドラルトが滞在した。1658年以前になされた彼の著作に、カラヴァッジョの伝記が含まれる。フアン・マンデルの著作や著者自身の見聞に基づき執筆されたもので、作品の制作年代や主題の特定には誤りも含まれているが、新しい絵画様式における自然主義と光の扱いについての意見は括目すべきものがある。カラヴァッジョ作品においては、明暗の対比が人物像を明確にかたどり、自然な立体感と周囲からの独立性を創り出している。光は常に直に射しこむものであり、その強度を失うことはない。おそらく、ザンドラルトはカラヴァッジョの光の構築性を本当の意味で理解した最初の人物であろう。その評価によれは、カラヴァッジョは伝統と決別し、小さな開口部や蝋燭の光によって照らされた暗闇のなかで実現される暗い色調の作品によって、目が捉えた真実のみを再構築することを欲した初めての画家である。

 古典主義的傾向をもつぺッローリは、17世紀を通じて大きな影響力をもった人物であるが、カラヴァッジョに関しても中庸の姿勢を保っている。ぺッローリが指摘するように、画家の初期作品における陰影は柔らかなものであり、それが徐々に強烈なものとなっていくのはデル・モンテ枢機卿の注文による作品以降のことである。ペッローリにとって、カラヴァッジョの様式とは特別な意味合いをもっていた。なぜなら、カラヴァッジョが描画法によって名声を確立した画家だったからである。ここでの描画法とは、物体の周囲に立体感を作り出すために黒を多用する方法を示している。ぺッローリはさらに、画家が描く人物像が陽光のもとに照らし出されたものではなく、褐色の空気に包まれていることを指摘する。閉じられた室内において、上部から差し込む光によって作られた激しい明暗のコントラストがもたらす効果である。成熟期の作品に関しての記述は簡潔なものであるが、バレルモのサン・ロレンツオ同信会祈祷所のために制作された≪キリストの降誕≫を光が闇の間に「拡散する」夜景だと評するなと、鋭い指摘も行っている。

 その後の時代の美術批評は古典主義的な傾向が顕著になり、カラバァッジョの光について深い考察がされることはなくなった。1688年の著作においてフランスのアカデミー学者アンドレ・フェリビアンは、「〔カラヴァッジョ人物像には、私は美も優雅も見出すことはできない」と端的に述べており、ティツィアーノの絵画よりも数段劣るものとしている。さらに写実主義の生々しい表現は、18世紀の著述家たちの古典主義的な審美眼と反発をひきおこすことになった。実際に、カラヴァッジョの伝記を残したシチリア人画家フランチェスコ・スジンノは「野蛮さ」という言葉さえ使っているし、ナポリ出身の伝記作者デ・ドミニチはカラヴァッジョの低俗な刺々しさとクイド・レーニの古典主義的調和を対比させている。デ・ドミニチによれは、レーニは陰影で作り出された絵画を否定したという。かなり後の時代になってルイージ・ランツィがカラヴァッジョの絵画における光と影の対比と真実性の追求を高く評価するとともに、カラヴァッジョの描く人物像が舞台前面に配された役者であるかのようだという鋭い指摘も行っている。しかし、このような見解は例外的なものであり、19世紀のティコッツィは再び否定的な意見を表明している。騒々しい陰影、野卑で暴力的な人物、さらには筆触までもが批判された。斑状の筆触が、人物の輪郭を不明確にし、その人物像もまた高貴さを欠いた俗なるものとされたのである

 18世紀から19世紀にかけでの歴史的記述と密接に関係するのが、カラヴァッジョ作品をもとにした版画制作である。17世紀の末には未だに「民衆的」な主題の作品、つまりは風俗画に道徳的教訓を含んだ文章を添えることによっで、高貴なものにしようとする傾向があった。この分野においてカラヴァッジョの絵画は短くはあれと重要な役割を果たしたが、その存在は間もなく片隅に追いやられ、イタリアや他のヨーロッパ諸国の多数の美術コレクションにおいて、風俗画の存在を代表するだけのものとなってしまった。しばしば、他の画家の作品がカラヴァッジョのものとされ、一般市民の生活を描いた多様な主題の作品やその作者たちに対する評価が、カラヴァッジョの評価と混同されるようになった。画家の生涯が波乱に満ちたものであったこともあいまって、「悪辣な」画家とその作品というイメージが生まれた。このような解釈は、時間をかけて形成されたものであると同時に、極めて19世紀的なものでもある

▶20世紀における評価の概観

 1951年、ミラノの王宮で「カラヴァッジョとカラヴアジェスキ」と題された展覧会が開催された。この著名な展覧会においで、ロベルトロンギは画家がイタリアそしてヨーロッパの美術に果たした歴史的役割を初めて正しく評価した。ロンパルディアにおける形成期からローマでの活躍、ナポリ、マルク、シチリア、そしてトスカーナ地方ボルトエルコレの浜辺にまで続く晩年の逃避行へと、ロンギは画家にまつわる様々な伝説的な逸話を排除した上で、その画業の再構築を試みたのである。カラヴァッジョの美学の根本を示すものとして、1603年にバリオーネによって起こされた名誉棄損の裁判でのカラヴァッジョ自身の証言がある。「上手に絵を描くことができ、自然を見事に模倣できる者がヴァレントゥオーモです」、つまり現実を描くことができる画家こそが有能だと述べている。先駆的なカラヴァッジョの作品カタログを制作するにあたっで、ロンギは画家の知的に真筆な姿勢を初めて明らかとした

 さらに、静物画の発展において画家が果たした役割の重要性も指摘する。静物画とは、現実的な「生活の一断片」であり、物語的な主題を排したものともいえる。「光と影の多寡によっで描き出された物言わぬ主題であり、それ自身として表現された物によってなされる自律的な魔術の一種である」。まさに光の扱いというその点において、美術の歴史におけるカラヴァッジョの根源的な役割が明らかにされた。特定の角度と効果をもった「個別的な光」の創出である。16世紀後半のロンパルディア地方の文筆家ロマッツオは、「物体なき光と質」という表現を用いた。19世紀末から20世紀初頭に活躍した彫刻家メダルド・ロッソは、空間のなかにあって物質的なものは何ひとつないと主張することになる。一方でカラヴァッジョは「陰影の形」を見つけるのである。物体は陰影のなかにあって光の裂け目によって形をとる。形はこの暗闇にあってその生の一瞬を生き、そしで再び闇に飲み込まれでいく。人間の存在の軌跡と驚くほど似ている。初期の透明感のある作品には、明るい光が満ちあふれでいた。そこから画家のなかに唐突ともいえる意識が芽生えて「燃え上がり」、「光と物質の間の摩擦」を形作っていくのである。思いがけずに差し込む光線は、黒い壁の部屋の裂け目のように降り注ぎ、動きとドラマを作り出す。レンブラントの芸術を予兆するかのようである。ここに概要を示したロンギの意見は、比類のない批評的判断を表現したものであり、さらにはボルジャンニ、ジェンティレスキ、サラチェーニ、そしてホントホルストらに代表されるカラヴァッジョの追随者たちによる光の扱いもその射程に収めている。

 ロンギに続く批評家たちによってなされたカラヴァッジョの光に関する膨大な言説のなかでは、カルヴェージによる寄与を重要なものとしてあげることができる。カラヴァッジョの作品は、深い宗教的な調子を帯びた精神的な息吹を背景として描かれる宗教的・世俗的寓意の延長上にあっで、精神的な開放を求める未解決の探求として読解された。光とは恩寵(おんちょう・主君や神のめぐみ・いつくしみ。)の隠喩であり、闇によって示される意に対しで恩寵が救済を実現する様を示すものである。ローマのドーリア・パンフイーリ美術館に所蔵される《悔俊のマグダラのマリア≫(下図左)を見てみよう。

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 悲嘆にくれた聖人は、自身の救済を願って孤独にふける痛ましい悔悛(かいしゅん・前非を悔いあらため、心をいれかえること)の姿として表されでいる。カルヴェージの初期の著述で既に指摘されでいるように、救済のモチーフこそがカラヴァッジョの他の作品にも共通するものである。簡潔な図像学的な設定は精神的な思想を反映するもので、しばしば初期キリスト教美術の知識を前提とし、また引用することもある。簡潔な宗教改革が掲げる理想や、聖フィリッポ・ネーリの思想との共通点を見出すことも可能だろう。つまり一般信徒の単純な宗教性にこそ超自然的な神聖が示されるのであり、それはまさしく、ロンドン・ナショナル・ギャラリーの《エマオの晩餐≫(上図右)でカラヴァプジョが描き出したものである。この作品は、新約聖書の「ルカによる福音書」が記述する逸話のハイライトともいえる場面を描き出したものであり、場面の左側には椅子から立ち上がろうとするクレオパの姿が、右側には巡礼者の象徴である月を身に付け腕を広げる男が描かれている。彼らふたりは、中央奥に描かれた男がパンを祝福した瞬間に、それが蘇ったキリストであると気付くのである。パンを祝福する行為は、キリスト教における聖餐式を暗示する。

  キリストは、良き羊飼いとして髭のない容貌で描かれている。初期キリスト教美術では頻繁に採用された描き方ではあるが判別は容易でなく、実際に啓示を受けていない宿の主人は男がキリストであることに気が付いていない。前景に描かれた静物はこの世の富のはかなさを示すものであり、一見写実主義的に見えるその背後に多くの象徴を潜ませている揺れるような光が作品に心理的な力を与え、鑑賞者を画面のなかに誘い込み、キリストと出会うことを可能にしている。このような精神的な光の扱いは成熟期、特にシチリア滞在期の作品にも見られるもので、光は細分化され幾千のきらめきとなり、描かれた物質に染みわたる。つまり描かれた物質とは、拡散し凝固した光でかたとられたものであっで、常に揺れ動く精神的省察の間断なき表出なのである。カラヴァッジョ作品の常として、静止している物は何もなく、安定は一時的なものであり、光の扱いは移りゆく状態を強調し、素早い動作は強調され確固とした触知可能なものとなる。光は神性の存在を示すものであり、恩寵を表現する唯一可能な方法であり、濃密な暗闇のなかに救済をもたらす人間存在の暗闇を照らすものなのである。

▶事 実  

 光によって構成される類まれな作品をカラヴァッジョがどのように実現したかを理解するためには、画家の生涯の一場面を想像してみれは十分であろう。ローマで彼が居を構え、足繁く通ったカンポ・マルツイオ地区とサンテクスクキオ地区の間を少し歩いてみよう。17世紀のローマは享楽的な、そしで危険な町だった。路地の暗闇では殺人や暴行が日常茶飯事であり、娼婦や賭博師、そしてあらゆる種類の貧者がいた。カラヴァッジョは一時、カンポ・マルツィオのサン・ビアージョ小路(今日のディゲィ「ノ・アモーレ小路)に居住したことが史料から判明している。ローマ滞在の末期、画家は使用人とともにこの場所にアトリエを借りた。貸主はプルデンツィア・ブルーニという女性である。契約の特記事項として、画家からの興味深い要望が付け加えられている。屋根裏を破り、「部屋の半分の覆いをはずす」というものである。

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 光を使いこなしたカラヴァプジョが、照明の問題を改善するために天井に穴を開けることを望んでいたのだとしたら、これほと興味深いことはないだろう。しかし実際のところは、当時注文を受けていた大型のカンヴァス画を制作する準備として、部屋の構造を改変する必要があったのだと思われる。賃貸契約の終了時に借主負担で原状回復を行うという条件で、改変は認められた。目を覆いたくなるような画家の行状について、貸主は多くは知らなかったのかもしれない。暴行、傷害、窃盗、収監に胡乱(うろん)な輩との付き合いと、悪漢そのものの半生である。いずれにせよ、賃貸契約は1604年5月8日に締結され、飲み屋や売春宿で夜を過ごした後に戻るねぐらはサン・ビアージョ小路に確保された。しかしある事件により、画家はローマから逃亡せざるを得なくなる。約14か月後の1604年7月29日、カラヴァッジョはナヴオーナ広場でアックモリ出身の公証人マリアーノ・バスクアローニに対して暴行を加え、ローマから逃亡する。バスクアローニが「カラヴァッジョの女」と呼んだレーナをめぐって起こされた事件である。画家が賃借していた間に、物件に加えられた損害とその総額を示す史料が存在する。事件後カラヴァッジョが突然姿をくらましたため、家主であったプルデンツイアは画家の財産の差し押さえの権利を裁判所から得る。滞納されていた6か月分の家賃と、破損した天井の修繕費用としてである。この時差し押さえられた財産の一覧はよく知られており、日用品のほか、鏡1点と何点かの絵および画布があった。これらの品はプルデンツィアの管理するところとなったのだろう。特筆すべきは、「絵1点、絵2点、大きなものでこれから描く」、「それ以外に3点のより小さな絵」、「10点の大きな画布、大きな板絵1点」である。10点の絵と何点かの画布のうち、6点までが「大きなもの」と記されている。他には3点が「より小さい」とされた。実際のサイズは知りようもないが、「大きな」とされた6点の絵画と画布は祭壇画であった可能性が高い。プルデンツィアの家に住んでいた14か月の間に、カラヴァッジョは多数の公的注文を請け負った。そのような作品の大部分は大型のもので、例えば1604年から1605年に制作された≪ロレートの聖母≫(下図左)は高さ2.6メートル、幅1.5メートルのサイズを誇る。その関連作品としてあげることができる≪聖母の死≫(下図右)も巨大なもので、1605年5月から1606年5月の間に制作された。≪ロザリオの聖母≫(下図下)もほぼ同じ大きさの作品である。このようなサイズの作品を、通常のアトリエで制作することは難しい。賃貸契約の際になされた「部屋の半分の覆いをはずす」という要求は、上階の部屋との問の屋根裏部分を取り壊すというものだったのだろう。差し押さえの際に言及されたように、カラヴァッジョのアトリエの天井は被損していた。この事実は、光と空間というふたつの絵画要素に関連する。

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 近年のカラヴァプジョ研究では、画家のアトリエの状況が研究主題のひとつになっている。このように画家がモデルをポーズさせたか、あるいは「自然(実物)から」描写を行うために、どのような器具が用いられたかなとである。差し押さえにあった財産のなかに鏡があったため、カラヴァッジョがある種の光学器具を用いていたのではないかとも推測されている。より具体的には、凹面鏡を用いた映写技法が用いられていた可能性が提起されている。16世紀の後半以降、映写技法や光学器具に関する関心は様々な文献に記されているが、実際に画家たちが利用していたかは未解決の問題である。この点に関して、既にロベルトロンギが問題を明確にしている。バリオーネによる有名な一節に、「鏡に写された小絵画」という表現がある。ロンギはこれを、対象を「直接にではなく、鏡を使って」描いたものと解釈した。この直観は、近年の研究が提示する仮説とも一致する。過去数十年間でカラヴァッジョ作品になされた技法的な調査もまた、制作に鏡が用いられていたことを示している。光に関するカラヴァッジョの革新は、レオナルド・ダ・ヴィンチによる『絵画論』の提言にも関連するようにも思われる。レオナルドは、「鏡はそれ自身に真実の絵画を含んでいる」から、立体感や陰影を表現するために平面鏡によって写された像を研究すべきだとしている。同様の考えは、16世紀末のフェデリコ・ズッカリの著述にも見られる。カラヴァッジョに関しては、アトリエの天井の大部分を撤去することによって室内にともかくより多くの光を取り込むことができただろう。そしでその光を、モデルの向きや配置に従って調整することも可能になった。

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 実際、マンチーニは「反射されることなく高所からそそぐ光」という記述を残している。周囲に光を反射させるような平面のない暗い場所で、屈折も回折もなく、集中した状態を保つ光について言及したものだろう。カラヴァッジョのアトリエでモデルがどのように配置されたかを分析した諸研究から、画家がコントラストを強めかつ調整するために、光の向きに関する実験を行っていたことが判明している。様々な再構成案が示すように、カラヴァッジョの絵画は高所の斜めからの光を採用しているが、モデルは奥の壁に差し込む光線によって照らし出されている。ローマ滞在期に制作された作品のうち、室内に場面を設定した諸作品に共通する特徴である。モデルに対するこのような照明は純粋に美的観点から採用されたのであり、大抵の場合、作品全体の主要な光の向きとは一致しない。複数の光源が採用されでいるためときに場面の光は拡散したものとなっている。その一方で、複数の光源をすべて記述することは困難であるから、分析は「主たる光」に集中した。描き出された光は、自然な効果故に、「現実」のものと見なすことはできない。むしろ手の込んだ技巧とも言えるものである。アトリエの窓やおそらくは屋根裏にあった開口部からの光は、照明に関してより幾何学的な効果を生み出すことができたろう。照明の効果は、様々な時や天候における状況を組み合わせて作り出されたのである。両凸面レンズと凹面鏡を利用し光を天井からそそぐように調整し、描くべき対象を直接に画布の上に映写したという可能性も高いが、照明とモデルを変える場合は映写方法も修正する必要があったかもしれない

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 先行研究でも指摘されているように、光学器具が利用された痕跡は作品中にも多数見て取ることができるがピント調整のためのレンズは当時存在しなかったから、映写された像を明確なものにするために画家はたびたびレンズの位置を調整しなけれはならなかった。以上を鑑みると、描写は対象の細部ごとに分けて行われたと判断することができる。現代の映画産業における撮影セットさながらに、カラヴァッジョはモデルや光源を配置したのかもしれない。現代におけるカメラと同じように、レンズと鏡は像を画布の上に映写し、素早く描きとめることを可能としただろう。笑い顔、瞬間的な表情や仕草といったものの主要な特徴が写し取られ、光と影の現実を描く天才であるカラヴァッジョの才能と結合したのである。

伊藤拓真訳

 *本稿においては、カラグアブジョの光について近年イタリアでなされた主要な研究のうち、最も重要なもののいくつかに限って言及する。そのため、以下の註であlデる文献は厳選したものであり、当然のごとく画家に関するイタリア内外の全研究を網羅したものではない。

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