オノマトペ建築

069■モダニズムと建築のアート化への批判  

 隈さんはいま事務所でのスタッフとのコミュニケーションに“ぱらぱら”や“つんつん”といったオノマトぺを使われているということですが。

建築を粒子化することで、世界と人間をより強く結びつける。

 設計の打ち合わせをする時に使っています。というか、ほとんどオノマトぺの連発だから、幼稚園的です(笑)。難しい言い方をすると、僕は建築をつくりながら今までのモダニズムの基本原理とは違うものを探しているわけですが、それが何だかまだよく分からない。よく分からないものを手探りでやっているところがある。将来、もう少しちゃんと言語化ができるかもしれませんが、それまでは取りあえず僕が考えている身体感覚にいちばん近いオノマトぺを探して所員に投げておくわけです。でも、所員がそれをどう受け止めるかというのはそれぞれて正直よく分からからない。つまり、既存の形態言語みたいに定義がはっきりしているわけではないので感じてもらうしかないし、受け手の感性に依存する部分が大きいわけですが、そういうものをまず投げることが大事だろうと思っているんですね。

 オノマトぺを使うことには、モタニズムの言語に対しての批判があると同時に、建築のアート化に対しての批判もあります。磯崎新さん以来、建築のアート化という流れが20世紀後半以降の世界を支配しました。20世紀前半が工業モダニズム、それ以降がアートモタヒズムで、磯崎さんはそれを「手法」と言ったわけですね。1970年代にモダニズムに対して磯崎さんがこの手法という概念を提示しましたが、それ以前のモタニズムは機能主義という曖昧な方法論に甘えていて、それ以外の具体的な方法論をもっていなかった。古典主義やゴシックなどの様式建築の方法論は、もっと明快でロジカルだった。それに対し、ピロティ、屋上庭園、横連窓程度のきわめて貧しい言語しかもっていなかった。

 磯崎さんはモダニズムの貧しさを批判して、たとえば正方形だとか、正方形の反復、あるいは波とかいったような、幾何学的で客観性のある科学的な形態生成の手法を提示した。機能主義という一種の科学的な構えを取りながら、その内実としては科学的なものはゼロだったというモダニズムの幼稚性、虚構性を磯崎さんは手法という概念を提示することで批判したわけですね。

 しかしこの手法というのがくせもので、一種の新しいフリをした復古主義でした。それが建築の世界を雁字搦(がんじがら)めにしてしまった。復古的幾何学性にのらないものは全部排除してしまった。手法にのらないものはダサイという、強烈な排除の仕組みをつくったんですね。でも僕は建築をつくり始めた時 から、手法という形式化にのらないもの、すなわち既成の幾何学にのらな いものが一番面白いんじゃないかと感じていた。

 でも、それを言葉にしたとたん、またしても手法というような、ロジカルなも のに搦めとられて、形態の1種類に分類されてしまう気がして、ちゃんとした 言語にせず取りあえずオノマトぺにとどめておいてそれを所員に投げてみ る。それで相手がどういうふうに感じて僕に投げ返してくるかを見ながら 設計を進めていくわけです。それからけっこう面白い結果が出てきているん てすね。

 建築の新しい原理のようなものを求める際のツールとして使うと同時に、言語  的な縛りを少なくするためにもオノマトぺを使われているわけですね。

 そうですね。言葉には定義するとか明確化するという役割があるわけですが、オノマトぺというのは、定義せず明確化しようという意志もない。そこが オノマトぺの可能性だと思っていま建築を既成の言語を使って設計しよ うとした途端に逆に建築を拘束することになって、磯崎的罠に陥ってしまう。 要するに言葉から逃れたいという思いがあるんですね

5パーセントの部分にかけてみる

 オノマトぺは受け取り方に個人差があるということですが、その個人差が逆に 面白いという部分もあるのではないですか。

 所員とのやり取りでは、僕が考えていることと少しずれた解答が出てくるこ とを大事にしています。これは今までの設計事務所のあり方とはだいぶ違う (笑)。たいていは所長が明確なヴィジョンを持っていて、所員は所長の手 足となってそのヴィジョンを実現していくわけです。所長は自分のヴィジョ ンを明確に伝えるために明確に定義された言葉を使う。あるいは自分で描 いたスケッチを渡すというかたちで一方通行になるわけですが、いずれにし ろ、自分が言葉で伝えたことやスケッチ以上の面白い答えが所員から出て くることは期待していない。こうした一方通行でできた建築というのはそん なに面白い建築にならない。1人の人間の脳から生み出されるものには限 界がある。僕のやり方というのは、所員に対して唆味なメッセージを投げて、それに対して所員が僕が思っていた以上の、あるいはそれから微妙にずれた答えを出してくることを期待しているんですね。

 「そういう意味で言ったんじゃないんだけれども」みたいなケースも多そうですね。

 「なんでこんな答えが返ってくるんだよ」って(笑)、期待していたものとまったく違うじゃないかっていうことが多い。全然違っていて使い物にならないというのが?5パーセントかもしれないけれど、5パーセントぐらいすごく面白い答えが返ってくることがあるわけです。「あっ、こういう手もあったな」って。「そうかこういうふうに解釈するお前のズレ方は面白い」と(笑)。そしてその5パーセントのある種の誤読みたいなものを利用して次のステップに進んでいく。1段階階段を上るのにその誤読を使うわけです。1段階ずつ、やり取りの中で階段を上っていかないと面白くなくて、これが所長からの一方的なやり方だと階段を下がるだけという感じになってしまう。僕はやっばり階段を上っていきたいし、自分でもワクワクしたい。所員とのやり取りで意外な答えが出てくるところが驚きであるしワクワクする。それが設計のいちばんの醍醐味だと思っている。そういう醍醐味を味わうために、ある種曖昧性を保ったままの、前・言語としてのオノマトぺを多用するわけです。

 創造的誤読というか、生産的誤読みか、なものを期待しているということですね。

 それを創発性(部分の性質の単純な総和にとどまらない性質が、全体として現れることである。 局所的な複数の相互作用が複雑に組織化することで、個別の要素の振る舞いからは予測できないようなシステムが構成される)というかたちで言語化してしまうと、僕が言っている微妙なずれのニュアンスが無くなってしまう。創発性というのは脱構築の時代に盛んにはやった言葉ですれ創発性という言葉にすると、僕の言っている、ほとんど暴投95パーセントという、ずっこけキャッチボールの面白さが伝わらなくなってしまうんです

▶身体的経験レベルでの言葉

 オノマトぺというのは、建築をそれよりも上位の主体(建築家)の操作の対象としてとらえるのではなくて、建築と人間を同列にとらえるわけです。建築家は建築の上位にいるわけではなくて、ユーザーと一緒に建築の中をウロウロと歩き回る。そういう一種の身体的、体験的レベルで発せられる、動物的な音声がオノマトぺです。

 その身体はまず物質によって触発される場合が多い。オノマトぺでも、たとえば“ざらざら”といった言葉は、物質の状態なり印象なりを言い表していますね。

 無理に抽象化しないで具体的に考えようとすると、まず物質の問題に直面するわけです。物質というのは実はまったく科学的でも客観的なものでもなくて、建築的な経験を生み出したり引き出すという意味できわめて主観的でスピリチュアルなナマモノです。

 たとえば土を見て触ると、たいていの人はただの茶色い粉を触った以上のなにか、たとえばキタナイとかアッタカイとか感じる。物質を近代科学的に客観的にとらえるのではなくて、そこに身体を、ぶっけてみた時の反応としてとらえる。

 こういうことはドゥルーズ[※2]たちもさかんに言っています。硬さですらも主観的なもので、水というのは普通やわらかいものだと思っているけれども、高いところから水の中に飛び降りたらとても硬いものとして感じられる。同様に、温度というのも科学者は客観的なものとしてとらえているけれど、実はきわめて主観的なものなんですね。原広司さんが大栗博司の重力論にはまっていて、最近はその話しかしませんが、硬さと力、温度とかいままで客観的で計測可能だと思われていたものが、実は相対的なもので計測不可能だということが最近の宇宙物理学でわかってきている。科学が進化すると、逆に物質と主観というものの境が曖昧になってくるんですね。客観時世界が崩壊するんです。

 だから僕は、物質は経験的なものだって言いはじめたわけです。物質が経験的、スピリチュアルなものだと言うと、土俗主義的な考え方だとか、一種のプリミティヴィズムだとか言われますが、まったく逆です。科学の最先端の成果からすると、物質とスピリット、経験というものの境界は曖昧です。その状態を僕は建築を通じてみせたいと思っているわけです

▶ル・コルビュジェ、アールトの建築と身体

 身体的体験ということで言うと、アルヴァー・アールトやある時期以降のル・コルビュジェはとてもそうした部分を意識して建築をつくっていたと思いますが、モダ ニズム全般で見てみるとその方向でつくられた建築はあまり多くないですね。

 そう、だから、その身体性の部分は、ポストモダニズムとかモダニズムとかいったイズムを超えています。モダニズムは一種の運動ですから、運動というものの宿命として、強烈な言語化願望があるわけですが、一方で、言語に収まりきれないものへと行き着いたクレイジーな人がいるわけですね。コルビュジェは、運動というものの限界、運動というものが必然的に伴う硬直的な言語の限界に早い時期に気づいたクレイジーな人間ですね。

   ある意味、そうした硬直化の原因をつくった大本であるにもかかわらず。

 そう、にもかかわらずですね。早く気付いたからロンシャンの教会堂[※4]みたいなところへ行けたわけだし、アールトのパイミオのサナトリウム[※5]も30年代の早い時期のものですが、センシュアル(官能的)な感触がある。

10045501216 10045502103

 そうですれあのサナトリウムはモダンな印象が強いですが、同時に、身体に妙に訴えかけてくるところがある。

b106e58c 2011082923434507a

 だから、行ってみてどきっとした。そういう感覚を持っている人はモタヒズムの中にもいたわけだけれども、逆にポストモダニズムの連中というのは、モダニズムに対して批判的な立場を取りながらも、使っている言語が硬直均だった。言語でまず相手に打ち勝たなくてはいけないというアメリカ的な文化の影響が強くて、ポストモダニズムはモタニズム以上の硬直性をもっていた。そういう言語としての建築運動みたいなものを超えたいという思いが僕の中に強くあって、そうしたこともオノマトぺを使うことへとつながっているんです。

建築の経験と時間  

 建築を経験する、あるいは空間を歩き回るという時に、持続や時間というものに関してはどのようにとらえられていますか。

 時間というのはまさに経験の最も中核をなすものだと考えられていますが、温度と同じように客観的に成立するわけではなく相対的なものだというアインシュタイン以来のテーマが、最近の宇宙物理学の世界ではより強調されてきている。時計によって示されるような客観的な時間というのは人間の幻想に過ぎないんだと。

 そういう伸び縮みする時間というものをべースにして建築をつくってみたいと考えています。建築で時間や空間を問題にする時に、ギーディオンの『時間・空間・建築』がよく参照されます。ギーディオンは、時間と空間というものを転換可能だというアインシュタイン的な世界を建築で実現したのが近代建築だと言うわけですが、彼のアインシュタイン理解というのはきわめて幼稚な理解です。彼のアインシュタイン理解、時間理解というのは結局、ピカソやブラックのキュービズムにおける理解と同じです。絵画空間の中に複数の時間が描かれているというキュービズム的な理解にとどまっていて、アインシュタインの探し求めていた時間のぐにゃぐにゃした伸縮性は理解できなかった。

 キュービズムの絵は、人物や楽器といった対象がもつ多くの面を見ているそれ ぞれ異なる時間がひとつの絵に収まっているように見えるわけですが、それはアインシュタインの時間理解とは別ものだと。

 ギーディオンは、建築を透明にすれば、時間と空間の境が曖昧になると言っているだけで、透明化の方法はまったく提示していない。ガラスの箱を超えていない。

▶ポストモダニズムを超えて

 ポストモダニズムはモダニズム以上の硬直性をもっていたということですが、具 体的にはどのような建築家を念頭に話をされているのでしょうか?

 たとえば、マイケル・グレイブス下図左]とか、ピーター・アイゼンマン下図右]とか、ですね。あの人たちは当時の最先端の哲学を吸収した上で華麗なるロジックを組み立てて、そのロジックを建築にトランスファーした。まず言語があって、それを建築へと翻訳しただけで、建築は言語からの翻訳以上のものではなかった。それがポストモダニズムのリーダーたちの限界だったわけです。

portland_building holocaust-mahnmal-berlin_18780021_a-mario_duhanic

 それに対してポストモダニズムの中で僕が面白いと思っているのはフィリップ・ジョンソン[下図左右]で、ミースをアメリカに紹介したにもかかわらずその後AT&Tビルで最初のポストモタヒズム建築をつくった。彼は絶えずその建築スタイルの変わり身の速さを批判された。

1024px-bank_of_america_center_houston plaza_de_castilla_madrid_04

 しかしジョンソンの建築の微妙なずらし方、ユーモアの感覚には言語を超越した軽やかさがあった。彼は、アメリカ的な硬直性、言語の硬直性を超えた非常に興味深い人だった。彼は広大な庭の中に住んでいて、言語を庭の中で相対化した。僕は1985年から86年に、ポストモダニズムが最盛期のアメリカの建築家たちにインタビューをしたんですが、一言で言うと、グレイヴスアイゼンマンといった頭のいい人たち、頭の固い人たちは建築というナマモノをつまらなくしていると感じた。自分でその時代のアメリカを体験し、逆に彼ら言語派とは違うことをやりたいという思いを強くしました。

▶反オブジェクトとアフォーダンス 

 隈さんが求めている建築の方向性はピヨンドモダニズム(モダニズムを超えて)たけでなく、ビヨンドポストモダニズムでもあるということですね。ビヨンド・モダニズムのほうで言うと、隈さんは「反オブジェクト」という視点を提示されています。モダニズムにおける孤立したオブジェクトや形態へのこだわり、周囲との関係性を切断してしまうという側面については、著書や建築を通してずっと批判的な立場を示されてきました

 反オブジェクトと言ったことの真意はどこにあるかというと、周りとつなげた後が重要なんでつながった後で、その状態に価値を生み出すのは体験の力だということ。単につながっただけでは面白くなくて、そこを歩き回って、身体的なワクワク感がほしいわけです。

 そこが反オブジェクトという言葉からいちばん読み取ってほしいことなんですね。オブジェクト主義というのは、周りから切断されたオブジェクトをどのように操作・コントロールするかという話なので、操作する主体は、オブジェクトの上にいて、上からの視線です。つなげようとした途端に、そういう操作主義では太刀打ちできなくなる。別の建築をつくるつくり方、考え方が出てこなくてはいけない。その時に自分を建築と同じ地面にまで下ろしていくと、ぱらぱらやつんっんといった、オノマトぺが自然にロから出てくるわけです。

 その「反オブジェクト」と関連してもうひとつ指摘したいのは、JJ.ギブソン[10]佐々木正人とつながる認知科学の考え方−アフォーダンスと言ったほうがわかりやすいと思いますが−その思考形式が僕の建築の方法とリンクしているので、佐々木先生にはおこられるかもしれないれれど、アフォーダンスの考え方を、素直に日常語に翻訳するとオノマトペになっちゃうんです(笑)。

なるほど、あるモノ(オブジェクト)にだけフォーカスしてその性質や価値を問題にするのではなく、環境にフォーカスした上でそのモノの性質や価値を探るアフォーダンスと隈さんの建築、そしてオノマトぺとは確かにつながりますね。

 世界という存在をどう認識してきたかを歴史的に整理すると、第一段階が物体論、第二段階が空間論、第三段階が粒子論とまとめられると、僕は考えています。まず人間は目の前の物体に目がいって、それが建築論でいうと古代ギリシャに発する古典主義建築のロジックで、ルネッサンスもその系統です。その次に、物体と物体の隙間に関心が移って、物よりその隙間のほうが人間にとって重要だという考え方が強くなり、空間論が生まれます。建築の世界ではルネッサンスの後にきたバロックは空間論だし、19世紀のゴットフリート・ゼンパー[建築家・下図左右]も、近代の空間論の代表選手です。ゼンパーの空間論が進化していって、アドルフ・ロースのラウムプランが生まれ、さらに20世紀モダニズム建築の「透明性」「空間流動性」といった議論を生み出したわけです。

dd-semperoper-in-1 dresda_semperoperadolfloos-2 looshaus

 アフォーダンス理論は、物体と空間と人間とを、科学的にインテグレート(〈いくつかの要素を〉統合する,統一する)しようとする議論で、その時に粒子という概念が重要になってきます。生物は粒子を媒介として世界を認識していて、粒子の存在しない、のっペリとした世界では距離も質感も判断するきっかけがなく、生物にとっては住むことのできない不安な世界だというのがアフォーダンス理論の発見です。 僕は自分が無意識につくっているばらばらしたりつんつんしたりする建築が、アフォーダンス理論を使うと見事に説明できることを知って興奮しました。僕がやっていることは、建築を粒子化することで世界と人間とをより強く結びっけようとしていることと言い切ってもいいわけです。そして粒子という概念を使えば、庭も建築も、粒子でできているということではまったく等価な、シームレス(途切れのない、継ぎ目のない、縫い目のない、などの意味)な環境なわけで、建築を切断されたオブジェクトから救出することも、アフォーダンスの考え方を使えばやりやすくなります。

 アフォーダンス理論によって発見されたともいえる、粒子で構成されたシームレスな環境を記述するのにもっとも適した方法がオノマトぺなわけです。

 粒子論という方法は、認知科学や建築に限らずあらゆる科学の基本的方法になりつつあり現代物理学の基本も粒子論で、このような姿が見えないものですから、物質どうしの粒子のやり取りを使って説明できるようになりました。

 そういう時代にふさわしいのがオノマトぺじゃないかというのが、僕の直感です。先端的科学が原始的言語につながるところがおもしろいのです。