中世の寺社と信仰

■中世の寺社と信仰

▶︎清滝観音と古道

 坂東観音札所 観音(観世音菩薩)は古来慈悲の菩薩として信仰されたが、平安末期、末法思想・浄土教が盛行すると、地蔵と並ぶ来世救済の仏としての信仰をえ、また聖たちの活躍で多くの観音霊場が生れ、それらが三十三観音の思想と混清して、西国三十三霊場の設置となった。 鎌倉時代、これを模して坂東に作られたのが坂東三十三霊場で、鎌倉の杉本寺を第一番とし、安房の那古寺を最後とする。札所というのは、参拝の信者たちが記念に札を受けたり納めたりするからである。

▶︎清滝観音

 南明山観音院清滝寺は坂東二十六番札所である。寺伝によれば、寺の開基は徳一、大同年間(八〇六王一〇)竜ケ峰に建てられ、のち古観音(現在地裏山を登った所)に移され、戦国期焼失して、享保年間(一七一六−三六)に現在地へ下りた。江戸時代に書かれた大仙亮盛の霊場記には、清滝観音の巡礼歌が載っている。 わが心今よりのちは濁らじな 清滝寺へまいる身なれば

▶︎坂東街道

 二十五番札所である筑波の大御堂から清滝寺に詣り、更に次の二十七番である銚子の飯沼観音へ向う信仰街道があった。新治村域では、小高と田宮の境の所(はなだて街道とよばれる)から、小高の古居屋敷の所を経て頭白上人の供養塔の所へ出、東城寺道を北上し、途中から日枝神社の真にHる。そこから山麓をめぐるようにして清滝観音に至る。次の札所への道は、寺を出て間もなく東へ折れ、甲山の北側を通って本郷から永井の寄居へぬけ、大日山の北側から泉を経て土浦市との境まで至り、北東へ方向を変えて佐谷へ出る。それからは志筑から石岡を経て行方・鹿島を通って銚子へ至ったようである。

はなだて街道

古道地図 

 なお、近世には清滝から真直南下して、下坂田・常名の境界線の所タイ(ここもはなだて街道とよばれる)を通り、土浦市虫掛から阿見・江戸崎を経由して、二十八番札所の滑川に向っているっ この道の変化がいつかは明らかでない。

▶︎鎌倉街道

 小高・田宮の境を通るはなだて街道から、清滝観音を経由じないで国府(石岡) へ向う道もあったっ東城寺へ向う道の途中から沢辺の古屋敷跡を通り、天の川に添う形で大志戸・本郷の南部を東進し、永井・今泉の境界線を通ってやがて信仰街道と一致する。

 しかし、もう一つ今泉・小山崎方面に、鎌倉街道とよばれる道があった。先程のはなだて街道を東城寺道の方に曲らず、小高字海道向から辻屋敷跡とよばれる所を抜けると新治中学校の所へ出る。ここから大畑新田を経て小山崎へ向うと、鎌倉街道に接続する。粟野から先は分らないが、信仰街道と合流するか、或は天の川の水運を利用するのであろう。

▶︎その他の古道

 小高ではなだて街道から分れて南下し、田宮の宿に出る道、また、田土部二向岡沖から斗利出坂を通って田宮の宿に出る道、これらは合流して藤沢に向う。その入口に上戸張という所がある。戸張は外張で、陣営の前面一・五キロメートル位の所を指すという。ここが藤沢城へのいわば大手道になるわけである。

 これらの外にも集落間を結ぶ古い道がいくつもあった筈である。例えば、藤沢他の台池の所から上坂田館ノ内の北側を常名へ抜ける道などもその一つであろう。

盛泉寺(本郷)

■中世の諸寺

▶︎永井成就寺と本郷盛泉寺

 成就寺は長井山普門院。江戸時代には瓦谷雲照寺の末で、現在は盛泉寺の兼帯である。弘治中(一五五五1五八)の火災で焼けたということしか分っていない。本尊は不動明王である。

 盛泉寺は龍光山宝蔵院、はじめ天台宗で峰の上(中央青年の家の谷向い、現千代田村雪入の地)に建てられたが、三世宥岳(雲照寺の瓦谷での開山とされる。元和四年没)の時に真言宗に変った。戦国末期、片野の太田五郎左衛門景資が寺地を提供したので、現在地に本堂・瞳裡・大門を建立したという。江戸時代は永井成就寺の末寺となった。もとの本尊は薬師如来だったようだが、現在は阿弥陀如来である。

 法系は醍醐三宝院流親快方の流れをくむ親玄の系統で、今泉法泉寺や阿見の蔵福寺なども同系であった。

▶︎大志戸千福寺

 清滝山地蔵院。中世には古寺跡といわれる墓地の所にあったとされる。江戸時代には松壌東福寺末となっているが、過去帳によると、金田日輪寺の祐尊が開山であり、その関係で現在日輪寺の兼帯になっている。祐尊には室町初期の人と江戸初期の人といるが、ここの祐尊は世代からみて江戸初期の方らしく、中世に遡る寺史は明らかでない。

 法系は親快方で親玄と同門の実勝の流派で、神郡普門寺開山の乗海や小幡報恩寺開山寿仁、大岩田法泉寺・永国大聖寺開山祐尊を祖にもつ。

▶︎上坂田成就寺

 山王山阿弥陀院。寺伝によれば、平安時代天台宗として創立され、孝吉改宗は鎌倉末期とも室町初期ともいう。更に、十六代祐海上人のあとを、神郡普門寺の五代広海(普門寺略系は八世弘海、享徳元年(一四五二)没)が継いで、法系が明らかになったとされる。

 古くは字立野にあった。現在地へは近世になって移ったので、ここはもと土塁に囲まれた郭内の地である。

天文の印信(神宮寺蔵)許可血脈(写)(神宮寺蔵)村指定 木造・地蔵菩薩立像(池の台

▶︎大畑惣持院と藤沢神宮寺

 藤沢神宮寺は山号を小神野山、院号を惣持院というが、中世にはそれぞれ別の寺だった。小神野山神宮寺はもと高岡にあり、小神野宮の神宮寺だったが、惣持院は大畑にあり、神郡普門寺弘海の弟子祐重の中興とされる。室町末期に二寺が合併し、藤沢城跡に移建されたので、今でも大畑・藤沢新田に檀家をもっている。

 中世の印信が残されているが、永正十六年(一五一九)の印信は祐秀から祐珍へ、大永五年(一五二五)のは覚印から祐弁へ、天文十年(一五四一) のは祐誉から祐海へのもので、これを法系でみると、

 祐重−祐秀−祐珍…祐誉−祐海−右雛

となり、祐析と祐弁は同一人と思われ、覚印は大岩田法泉寺契尊より扶を継いでいるので、そちらの法脈も加わったとみられる。

 このあとの法系を、永正七年祐重から祐秀に与えられた 「許可血脈」写しの書き込みでみると、「朝緋・朝誉・祐信・祐教・祐泉・祐悼・亮雄・宥聖・栄伝・真雄・祐度・朝伯」と続く。一方、大永五年の 「伝法かんちようそうしようけちみヤく港頂相承血脈」では、祐弁のあとは「朝誉・朝伯」と二人しかない、双方とも朝伯のあとは「宥仙・祐覚・俊光・霊天」と同名が続く。従って朝雛以下朝伯の前までは、住持以外の者も含むであろうし、住持の世代は不明とするほかない。

 ほかに、永禄十一年(一五六八)に建てられた薬師堂を起源とする石城寺(富岡山東福院)には、薬師如来坐像が、小田氏治ゆかりの他のム[の法華院には木造地蔵立像が安置されていることも附け加えておく。

■中世の諸塔

▶︎下坂田の板碑

 板碑には左のように刻まれている。梵字は中央がキリ  永仁六年朋凍r  孝子都南九呵祇絶碑カ」敬白 四月廿一目ークで阿弥陀如来、右がサクで勢至、左がサで観音の種子だから、阿弥陀三尊種子の板碑である。ただし、観音と勢至の位置は普通とは逆になっている。

村指定 板石塔婆(法雲寺様)

村指定 板石塔婆(法雲寺様)

 南無阿弥陀仏と孝子敬白の文字は年号の字形と違う感じなので、後刻ではないかと思われる。

 永仁六年(一二九八)は鎌倉時代。鎌倉期の年号の入った板碑は近在では桜村古来と土浦市般若寺にあるだけである。高さは九三センチメートル、県の文化財に指定されている。

▶︎法雲寺の板石塔婆

 これは延文六年(三一六一)の阿弥陀一尊種子板碑で、緑泥片岩製のいわゆる青石塔婆である。高さは四六・五センチメートル、幅は一六・六センチメートルの小型のもので、項部は三角形、種子は蓮台上に置かれ、南北朝期の特徴をもった武蔵型板碑である。村の文化財に指定されている。

▶︎本郷の五輪塔

 空風輪が比較的大きく、火輪の軒口上部の端が反りをもつため分厚い感じがでている、戦国時代の典型的な五輪塔である。 高さはl・七メートル、県の文化財に指定されている。 五輪塔ではほかに、頭白上人塔や松岳寺の小田成治墓碑、法雲寺境内の小田朝久・政治墓碑なども文化財指定をうけているが、別記しているので省略する。

みみみ