宍塚・般若寺の梵鐘

■宍塚・般若寺の梵鐘

茂木雅博(土浦市博物館・館長)

▶︎常陸三古鐘とは

 茨城県内にある鎌倉時代の優れた銅鐘を指すもので、土浦市には3基中2基が所在します。土浦市宍塚の般若寺・大手町の等覚寺、潮来市の長勝寺がそれで、すべて工芸品として国の重要文化財に指定されています。 

 

 古い友人に奈良市東大寺の戒壇院前で見つかった日本最大の梵鐘鋳造所跡を発掘した研究者がおります。彼はその後梵鐘の鋳造法を研究し、古代から中世にかけての梵鐘に関していくつかの論文を発表しています。特に近年は、中世律宗の忍性和尚がから筑波山麓に止住し、鎌倉の極楽寺に移る以前にこの地で布教を行った事実と、律宗が土浦周辺に残した様々な文化財に注目して、何度か土浦市を訪れて調査をした。般若寺の梵鐘は、結界石や石造五輪塔などとともに、律宗が鎌倉時代に栄えた頃の文化的な遺産であり、その梵鐘調査の成果が昨年暮れに公表されたのでご紹介します。

 寺伝によると般若寺は、天暦元年(947年)平将門の孫娘如蔵尼(にょぞうに)が尼寺を宍塚の台地上に創建したのを始めとし、平安時代の終わり頃に現在地に遷(うつ)ったそうです。鎌倉時代になると五重塔を有する大寺院となり、その寺域は旧宍塚小学校を含む広範囲におよんでいたと推定されています。戦国時代には兵火にかかりましたが、幸い梵鐘は今日まで残り、重要な歴史的事実を伝えてくれています。

 梵鐘は総高115.2センチメートル、口径62センチメートルを測り、鋳造年代などを記した銘文が刻まれています。それによると建治元年(1275年)8月27日とあり、大和西大寺の叡尊の弟子で凍る源海が大勧進となり、北条時宗が元寇による国難を救うために寄進したと寺伝は伝えています。

 

 鋳物師(いもじ)は丹治久友と千門重延の2名が連名で刻まれていますが、千門は地元の鋳物師と推定されます。丹治久友は河内(大阪府)般若寺梵鐘(国指定重要文化財)の鋳物師で、般若寺を含めて4つの梵鐘の製作が知られています。現存するものは宍塚般若寺のほか、埼玉県川越市の養寿院(文應元年・1260年)、奈良県東大寺真言院(文永元年・1264年)があり、銘文の記録のみが残る奈良県吉野金峯山蔵王堂(文永元年・′1264年)の鐘銘には「鎌倉新大仏寺鋳物師丹治久友」と記されています。この銘文によって、鎌倉大仏の鋳造に加わった丹治久友はその後、川越養寿院の梵鐘を鋳造して、.いったん大和に帰国して東大寺と吉野金峯山の梵鐘を製作の後、般若寺の梵鐘を鋳造するために再び土浦にやって来たものと思われます。

 

 この梵鐘は現在、般若寺境内の鐘楼に懸けられています。その銘文は大変鮮明に彫られており判読可能ですので、ぜひ一度足を運んでみてはいかがでしょうか。さらに、この寺の境内には、県指定文化財の結界石や石造五輪塔など、鎌倉時代の文化財を見学することもできます。

▶︎補足

我が国における金属器の鋳造は、弥生時代、渡来鋳造製品の模倣生産を端緒として始まる。飛鳥時代になると、仏教の伝来とともに新たな鋳造技術が伝えられ、仏像や仏具の鋳造が始まった。奈良時代には、東大寺大仏のような巨大な鋳造も可能となった。新しい鋳造技術の伝来と受容は、他の主要な渡来技術と同様に政治的あるいはその他の契機によって、波状的・間欠的に行われてきたのであろう。

寺院の梵鐘が日本国内で鋳造された確実な事例は、七世紀後半に遡る。新しい文化の受容に積極的であった飛鳥時代・奈良時代には、中国・朝鮮半島の鋳造技術者が頻繁に渡来し、我が国の鋳物河内鋳物師の活動と重源と鋳物師の活動場所師たちの技術も高度に保たれていたに違いない。平安時代になると海外の文化を摂取することに消極的になるためか、寺院の梵鐘も10世紀後半を境にして、約200年の間、ほとんど鋳造が行われていないようだ。日常雑器等の小型製品は継続して鋳造されるものの、高度な技術と人員の組織力を必要とする大型製品鋳造のために必要な知識と経験は、我が国から一度失われてしまったようだ。

このことは、後白河法皇の意を受けた藤原行隆が、養和元(1181)年に勅使として大仏の破損状況を検分した際、同行の鋳師10余人が「非人力之所及」と申し立てている様からも判断できる。彼らは蔵人所に属する燈炉供御人と思われ、我が国を代表する鋳物師と言って過言ではなかろうが、その彼らですら巨大な金銅仏を再鋳する知識も技術も持ち合わせていなかったのである。 重源は同年8月に東大寺造営勧進の宣旨を賜り、勧進による東大寺再興事業を開始した。だが、大型製品の鋳造技術を持たない日本の鋳物師たちだけでは、巨大な大仏を鋳造することは適わない。寿永元(1182)年、重源は、宋から九州の鎮西へ渡来していた陳和卿を招聘して宋の工人7人で大仏鋳造集団を編成し、その翌年2月から大仏の鋳造が始まった。当初は宋人達だけで鋳造が行われていたが、4月の大仏頭部鋳造からは、草部是助が率いる河内鋳物師14人がグループに加わった。これに先行する3月には、草部是助が、重源と縁の深い上醍醐寺の大湯屋湯釜を鋳造している。

重源が是助ら河内鋳物師たちに課した実技試験のような趣旨であったのかもしれない。『玉葉』寿永3(1184)年正月5日条には、重源が「河内国鋳師」を鋳造集団に加えたことに対して、宋の工人に「不快之色」もあったが、重源の「誘」によって納得した旨が記されている。この後、大仏の鋳造は順調に進み、同年6月に鋳造が完了する。文治元(1185)年8月、後白河法皇自らが筆を執り、諸国から参集した多くの人々の中で、大仏開眼供養が盛大におこなわれた。河内鋳物師たちは大仏の鋳造を通じて、宋の進んだ鋳造法を学び、我が国から失われていた大型製品の鋳造技術と知識を体得したのである。

大仏鋳造は完了したが、再興を果たすためには、大仏殿・廻廊・中門・南大門・東塔等を再築して伽藍を整えねばならない。このために大量の資材と莫大な費用が必要となる。開眼供養の翌年、法皇から東大寺造営料国として周防国を与えられた重源は、杣から建築資材となる木材を切り出し始める。その後、周防国に加えて、東大寺領の播磨国大部荘、備前国を東大寺再興に必要となる資金・資材の調達地として知行して、民衆に施しを行い、土地開発を進め、経営の安定化に努めた。