アントニオ・ガウディ

■アントニオ・ガウディ

■ガウディは実は初代建築主任ではなかった!?

 ガウディがその人生をかけた(サグラダ・ファミリア)と聞けば、彼自身の熱い思いで始まった壮大なプロジェクトと思うのが普通だろう。しかし、実のところガウディは当初は無関係だったのだ。

 この教会は1865年、宗教書の出版社を経営するホセ・マリア・ポカベーリヤが設立し急成長していた聖ヨセフ信徒協会の聖堂として計画されたもので、バルセロナ建築学校の教授であるフランシスコ・ビリャールを建築主任として、1882年3月に着工した。だが翌年には早くも聖堂のデザインをめぐりビリャールと建設委員会のメンバーだった建築家のジョアン・マルトレイが対立し、ビリャールは辞任。

 困ったポカベーリャは次の建築主任を誰にすべきかマルトレイに相談したところ、彼のもとで3年間、助手を務めていた31歳の若きガウディを推薦されたという。当時、ガウディは建築家としてほとんど実績がなかったことを思えば大抜擢だが、それだけマルトレイの信頼を得ていたのだろう。2代目建築主任に就任したガウディは定収入と社会的信用を得ることになり、そのキャリアの大きな一歩を踏み出したのだ。

▶︎サグラダ・ファミリアには図面が存在しない。これって本当なの?

 <サグラグ・ファミリア>には設計図がない・・・こうした伝説に近い逸話の絶えないガウディの建築手法だが、正確には図面が最初からなかったわけではなく、生前に弟子に描かせた大まかな図面は存在していた。ただし、この図面は1936年のスペイン内戦で焼失してしまっている。

 とはいえ、ガウディは図面を重視せず、常に手がける建築の1/10あるいは1/25という比率の大きな石膏模型を作り、それで職人に直接プロポーションを理解させる方法をとった。その方が図面で説明するよりはるかに伝わるからだ。しかも建設が進むごとに、現場で生まれたアイデアをもとにどんどん修正を加えていった。1925年に(サグラダ・ファミリア)のアトリエに寝泊まりするようになってからは、寝室に模型を置いて毎日のように手を入れ続けたという。

 つまり、この時点で当初の図面はほとんど意味をなさないものになっていたのだ。長い設計期間に及んだ(サグラグ・ファミリア)には、そうした継続的な設計変更のプロセスが顕著に見られる。ガウディにとって設計は、絶えず進化を続ける動的なものであった。

▶︎荘厳な教会の形は糸と重りを使った実験から生まれた?

 ガウディはそのキャリアの初期に(サグラグ・ファミリア)の建築家に就任し、73歳で亡くなるまで40年以上にわたり設計に取り組んだ。その間に並行して多くの建築を手がけて実績を積んでいる。ガウディはそうした仕事を通して得たアイデアや技術を(サグラグ・ファミリア)の設計に導入し、資金不足でたびたび中断する工事の計画にその都度、修正を加えながら反映させていった。中でも1898年に着手した(コロニア・グエル教会)の設計のために始めた「逆さ吊り実験」その構造に決定的な影響を与えている。

 この実験は天井に両端を留めた紐に重りをいくつも吊り下げていき、その紐が描く曲線を逆さに見ることで、最も効率的に荷重を支えながら空間的にも美しい構造を直観的に、計算を使わず割り出すという、建築史上類を見ない画期的な手法であった。構造的な合理性と空間の審美的な折り合いをつけるのに10年間を費やしたことで、さまざまな高さの塔が連なる全体の構成から、樹木のように枝分かれする聖堂内部の柱まで、(サグラグ・ファミリア)の骨格となる構造が導き出されたのだ

【ディテール】Detail

 1926年、聖堂建設の1 夢半ばでガウディが不慮の事故で亡くなったため、この壮大な事業は助手であつたドメネク・スグリヤーネスに引き継がれ、35年までに生誕のファサードの4本の鐘塔が建設された。

 しかし、間もなくスペインでは内戦が激しくなり、(サグラグ・ファミリア)はその戦場となってし事つ。聖堂はアナーキストたちの襲撃に遭いガウディが生前に手がけた設計図や石膏模型とそれを隠していたロザリオの間が焼き払われてしまった。こうしてガウディの残した資料がほぼ失われたため、建設の再開は極めて困難な状態に陥った。その後、4代目主任建築家となるフランシスコ・キンターナらによって破壊された石膏模型を拾い集めて復元する作業が始まり、建設工事が再開するのは50年代に入ってからのこと。

 現在進行している建設工事は、主に模型の復元研究とガウディの弟子たちが残した完成予想図などを手がかりにしている。(サグラグ・ファミリア)の地下には、破壊された模型をさまざまな方法で復元する模型室と、復元模型や資料をもとに3D CADなどを駆使して設計する設計室があるのだ。

▶︎日本のゼネコンが 参加したら完成は早まる?

 着工から早130年がたつ(サグラグ・ファミリア)。いくら複雑かつ難度の高い建築物とはいえ、さすがに時間がかかりすぎ?

 では、仮にこの教会の建設工事を、世界的に見ても高い技術力を誇る日本のゼネコンが請け負ったとしたら、圧倒的な早さで完成させてしまうのではないか。そんな疑問を磯崎新アトリエ・スペイン代表の建築家でガウディ研究家である丹下敏明さんにぷつけたところ「なかなか難しいと思います」との答え。

 「もちろん日本のゼネコンは設計チーム、工程管理、施工図、すべてが圧倒的に高いレベルを誇っています。とはいえ、(サグラグ・ファミリア)の建設現場は街中にあるため、クレーンや資材置き場が取れず、プレキャストでつくられたパーツの搬入口も限られている。

 しかも、これから垂直に積み上げる塔の建築が待っているのに、その現場に毎年300万人もの観光客を入れているんです。こうした状況下では、たとえ日本のゼネコンの技術力をもってしても工事のスピードアップはかなり厳しいと見るのが妥当だと思います」

▶︎コンピュータもコンクリートも掟破りではない?

 (サグラグ・ファミリア)の造形や構造についての研究はいまだ途上にあり、こうした分析には1980年代からコンピュータが導入されてきた。85年から主任建築家の補佐役を務めた8代目主任建築家ジョルディ・ボネット氏は「コンピュータによって円柱の二重螺旋システム、双曲線面などの幾何学的変形システム、建築の各要素間の寸法体系までを突き止めることができ、建設工事のスピードアップに大きく寄与した」とその貢献を語る。では、ガウディの生前には使用されなかった鉄筋コンクリートが90年代から導入されている点は、どう解釈すべきか。

 「ガウディは建材に何を使うべきか詳細な指示を遺していません。しかし彼は常に新しい技術や素材を検証し、取り入れていました。その姿勢に倣い、私たちも実験の上で現在の技術を利用しています。ただし、ガウディは〝雨に晒(さら)される部分については必ず石とレンガを使うように″ と語っていましたので、その言葉に従い、聖堂の屋根には、鉄筋コンクリートは使用せずに仕上げているのです」

■病気がちの少年が庭で育んだ自然への観察眼。

 ガウディの建築が自然の造形にヒントを得たのは一目瞭然。樹木の枝のような支柱、巻き貝を思わせる螺旋階段など、多くが動植物の形状からソースを得ていることは間違いないと見える。しかし井上さんは「だんだんそれだけでもないのかなと思い始めた」と言う。

 「形だけでなく、もっと大きな、自然の設計の〝理″ みたいなものに、ガウディは絶対的な信頼を置いていたと思います」

 そうした自然に対する感性をガウディはどこで育んだのか。その答えのひとつに、幼少期の生活環境が挙げられる。ガウディは幼くしてリウマチを患い、うまく走ることができなかった。ガウディが育ったレウスの郊外、リウドムスという村には、彼が生まれ、16歳まで週末を過ごした別荘(マス・デエフ・カルデレラ)が今も残る。