大和の古墳を掘る

■館長講座  日時 3/17 PM2:00~  土浦市博物館

茂木館長

▶︎題材テーマ「大和の古墳を掘る(櫻井茶臼山古墳・四条古墳)」

■録音-1(3分)

■録音-2(3分)

■録音-3(3分)

■録音-4(3分)

■録音-5(3分)

▶︎大和の古墳を掘る(櫻井茶臼山古墳と四条古墳)

■ 桜井茶臼山古墳〈桜井市外山522-5〉



 昭和24年8月12日、上田宏範・森浩一が現地視察をして盗掘跡を発見し、末永雅雄先生に報告、先生は15日上野と秋山日出雄を帯同して現地を視察し、発掘調査を決定し、所有者の了解を得て、10月初旬から調査に入った。

◉第1次調査(昭和24年10月6日〜16日、22日〜24日の13日間主任上田宏範)

 竪穴式石室中心・・・盗掘坑を中心に調査し天井石の上から鏡鑑片や赤色粘土を確認し過去に大がかりな盗掘が行われた事を確認する。天井石12枚を確認。

 石室内部調査・・・石室は墳丘主軸線上に平行して存在し、天井石から50cm位まで土砂が充満し排出する。土砂内に木棺材が混入し、底近くになると鏡鑑片や鉄器片採集する

 

◉第2次調査(昭和25年8月16日〜25日の10日間主任中村春寿)

 石室外側と埴輪の遺存状態の調査・・・墓墳と石室の関係と土師器の調査。

■調査の成果・・・全長約207m、後円部径約110m、前方部先端幅約61mを計測し、後円部 三段、前方部二段築成である周障は前方部丘尾切断部で約13m、前方部東側で約20m、復円部西側は約20m等で水田として利用されている。竪穴式石室は後円部上に幅5,4m、長さ10,6mの長方形墓境内に全長6,75m、幅中央部1,13m、高さ平均1,60mの安山岩の書幅を主とした′川積である0蓋石は安山岩と花崗岩である。

▶︎副葬品

○玉製品(玉杖頭1、杖身・緻1・凱、鉄芯碧玉管若干、玉葉3、五輪塔形石製品1、 鍬形石片1、石釧片2、車輪石片2、異形石製品1、用途不明石製品5、硬玉勾玉1、碧 玉製管玉6、ガラス製管玉1、ガラス製玉類若干)。

○武器・武具類(剣身片3、刀子1、不明鉄器1、銅鉱2、鉄鉱多数、緻形鉄製品1、 鉄杖 身5、同片1、鉄製利器1、錐片1、)。

○其の他(鏡鑑片30片、壷型土器若干、土師器皿若干)。

鏡鑑片(内行花文鏡5、画文帯神獣鏡1、神獣鏡24?)

 中村・上田『桜井茶臼山古墳』奈良県教育委員会 昭和36年

▶︎平成21年度の調査(2009年1月〜3月予備調李、本調査8月〜3月担当者豊岡卓之・岡林孝作 9月3〜19日)(研究代表寺沢薫『東アジアにおける初期都宮および王墓の考古学的研究』) 

 南面する前方後円墳で、全長200m、後円部径1120m、高さ24m、古墳時代前期(3世紀後半〜4世紀代)、大型前方後円墳で竪穴式石室を見られる最古の古墳である。

大和政権初期の大王(おおきみ)の墓の可能性がある奈良県桜井市の大型前方後円墳、桜井茶臼山(ちゃうすやま)古墳(3世紀末~4世紀初め、全長200メートル)で、後円部から複数の柱穴跡が見つかった。被葬者を安置した石室の真上部分で、約150本の丸太で囲まれていたとみられる。
 橿考研によると、古墳から木造構造物跡が出土したのは初めて。石室の神聖さを守る「結界」の役割や、死者を弔う祭礼の館の可能性があるという。
 同古墳は1949~50年に発掘調査されたが、竪穴式石室の構築法などの解明を目指し約60年ぶりに今年1~3月に再調査した。後円部中央にあった「方形壇」と呼ばれる祭壇遺構(東西9.2メートル、南北11.7メートル、高さ約1メートル)の周囲98平方メートルを調べた。
 方形壇の周囲4カ所から幅約1メートルの溝が見つかり、いずれにも丸太がすき間なく並んだとみられる柱穴(直径30センチ)が計10個あった。柱が埋め込まれた深さは1.3メートルで通常はこの2倍程度が地上に出るとされる。未発掘の部分も含め当時は、地上高2.6メートルの約150本の柱が「丸太垣」として、方形壇を四角に囲っていたらしい。
格式が高いとされる前方後円墳など定型化した古墳が出現する古墳時代以前では、弥生時代の墳丘墓上から柱穴が出土した例がある。方形壇上は板石と白礫で化粧されていたらしいが、白礫は櫛山古墳や玉手山○号墳、巣山古墳などからも検出されていた

新事実 

① 埋葬施設は岩山を削り出した後円部中央の長方形の墓墳の中に竪穴式石室を構築して、木棺を納め、その後石室を埋めて方形の垣を築き、「丸太垣」をめぐらせたものである。墓墳の規模は南北約11m、東西約4,8m、深さ約2,9mで、南辺西半分は切り通しのように掘り下げられ、前方部から続く作業道となっている。ここから石材や木棺が運び込まれた

② 石室内部は赤色顔料(水銀朱)を塗布した、南北長6,75m、北端幅1,27m、高さ 1,60mの空間を有しする。基底は南北に浅い溝状に振られ、板石を二・三重に敷き詰め棺床上を置き、その上に木棺を安置していた。木棺は腐朽と盗掘による破壊で原形をとどめていなかったが、遺存した棺身の底部分、長さ4,89m、幅75cm、厚さ−27cm、重さ264kgを測る長大なものであった。年輪年代学による年代は270年と試算された。(奥山)木棺内の銅(C11)と朱(Hg)の含有量は周辺地域と比較して極めて高濃度である。これは木材や土壌のみに由来するとは考えにくく、副葬品の銅製品と施朱に由来する可能性が考えられる。

③ 副葬品は玉製品、鉄製品、青銅製品等であるが、いずれも盗掘によって攪乱・破壊され、置かれた位置や数量は不明である。詳細は以下の通りである。

石製品97片(玉杖片64)、玉類15片、鉄製品55片、鏡鑑片331片。

鏡鑑の81面内訳(舶載鏡71・彷製鏡10・三角縁神獣鏡26・神獣鏡類16・内行花文 鏡19他)。

④ 埋葬終了後に全面に束を塗布した12枚の天井石を懸架して石室を閉じ、さらに天井石には、ベンガラを繰り込んだ赤色粘土を覆い、粘土の上面を直径5〜7cmの先端の丸い棒で突き固めていた。その後、墓墳の上部を埋め、周囲をより高く盛り上げて、方形の壇を築いている。その規模は南北長11,7印、東西幅9,2m、高さ1m未満と 推定される。壇の上面は板石と円礫で化粧し、縁近くに体部を半ば埋めた二重口縁壷を並べている。壷の内側の広場では火を使用した葬送儀礼が行われた事を証明する木炭片が採集された。

⑤ 方形壇の裾には幅・深さ共に1,1m前後の溝(布掘り振方)が振られ、その中心に沿って直径30cmの柱が相い接する様に立て並べられていた。布掘りの外周規模は南北長13,8m、東西幅11,3mである。布掘りの総延長から柱の総数は150本程と推定される。なお柱は1,3m程埋め込まれている。この事実を古建築の知識を参考にすると地表面にはその倍ほどの高さがあったものと想定され、この「丸太垣」というべ き堅牢な塀が「石室とその上部の方形壇を外界から保護していた。四角に立ち並ぶ「丸 太垣」の姿は、埴輪の方形配列と共通するものであり、古墳に埴輪を配置する起源を 考える上で、重要な示唆を与えるものと思われる。 

 多数の鏡を埋葬した古墳としては、椿井(つばい)大塚山古墳(京都府木津川町)の37面、黒塚古墳(奈良県天理市)の34面、さらには平原(ひらばる)1号(福岡県前原市)の40面などが知られている。だが、桜井茶臼山古墳に埋葬されていたとされる鏡の数量は圧倒的で、これまでの発見例を倍以上も上回る

 古墳時代前期の銅鏡の出土例としては、椿井大塚山古墳の36面、奈良県広陵町の新山古墳の34面、黒塚古墳の34面、佐味田宝塚古墳の約30面、大和天神山古墳の23面、大阪羽曳野市の御旅山古墳の22面、紫金山古墳の12面、岡山県備前市の鶴山古墳の30面、備前車塚の13面、愛知県犬山市の東之宮古墳の11面などがある。
三角縁神獣鏡の破片の一つに、「是」という字が刻まれているものがあった。この縦1.7cm、横1.4cmの小さな破片を「三次元デジタル・アーカイブ」のデータと照合した結果、蟹沢古墳(群馬県高崎市)から出土した「正始元年」の銘がある三角縁神獣鏡に刻まれた字と形が同じで、同じ鋳型から作られた鏡であることが判明した。正始(せいし)元年は西暦240年。卑弥呼が魏の都洛陽に派遣した使節が、魏の皇帝から下賜された銅鏡100枚を含む品々を携えて帰国した年の魏の年号である

 正始元年(240)の年号が記された鏡は、上記の蟹沢古墳の他に森尾古墳(兵庫県富岡市)と竹島御家老屋敷古墳(山口県周南市)からも出土しているが、邪馬台国の有力な候補地である奈良県では今まで見つかっていなかった。ちなみに、卑弥呼が使節を派遣した景初3年(239)の銘がある三角縁神獣鏡は、和泉黄金塚古墳(大阪市和泉市)や神原古墳(島根県雲南市)で見つかっている。

 不思議なことに、実在するはずがない景初4年の銘が入った鏡も広峰15号墳(京都府福知山市)や持田古墳群(宮崎県高鍋町)で出土している。魏の二代目皇帝・明帝(曹叡)は景初3年(239)1月1日に崩御し、曹芳(そうほう)が皇位を嗣いだが、その年は景初3年の年号がそのまま用いられ、翌年(240)の1月に正始元年と改元された。したがって、景初4年という年号は存在しないのだが、なぜかこの年号の銘がある三角縁神獣鏡が我が国では見つかっている。

◉被葬者

 少し離れた近鉄桜井駅の南側付近は阿部と呼ばれる地域であったり、安倍寺や安倍文殊院などアベに繋がる遺跡などが存在することから、アベ氏 ( 阿倍か安倍かわからん ) に関係する氏族の祖先が葬られていたのかも知れない。

■ 四条古墳(橿原市四条町九坪) 

■調査 西藤清秀 林部均 1987年調査(12月4日〜17日)

2010年(平成22年)時点で12基が確認されているが、いずれも後世に破壊され、地上に墳丘としては存在しない埋没古墳である。

○墳丘規模

 西面する前方後方形の空墓。全長38m、後方一辺28〜29m、西側に長さ9m、幅14mの前方部状の「造出」がある。周達が二重に廻り、内側は幅約6m、長さ東西48m、南北40m、深さは一定しない。外側は幅2〜3m、長辺約64mを測る。周捜間は幅約5mの堤が存在する。盛土の痕跡も埋葬施設の痕跡も全く確認できない。

 内側の捏内には大きく 3屑の土層が確認され、上面が藤原京関連の整地土、次が有機質土、最下層が砂質土等である。整地土は一気の作業による堆積で、円筒埴輪の底部が多く存在する事から削平された古墳の盛土であると思われる。有機質土は長い年月を経て形成された植物遺体の堆積で、常に湿潤であったと思われ、殆んどの遺物がこの層に含まれていた。

○遣 物

 ほとんどが濠内の有機質土から出土。主要なものは、木製品・埴輪・土器である。木製品は多種多様に亘り、大部分が東と南に集中した。

笠(蓋)形 46、杭形 30、石見形盾27、盾形2、翳形2、曜(翳状)形3、飾り板付(翳状)3、幡竿形2、鳥形3(大1、小2)、ほぞ付材5、刀形2、他に机形・弓形・鉾形・剣形・沓形 鋤柄形・つちのこ形・槽形・耳杯形・簾形・火きり臼形等各1であⅣが他に多量の用途不明品がある。

埴輪は木製品同様に多量に発見され、多くは円筒埴輪であるが、形象埴輪には馬3、鹿2、鶏2、犬1、家3、盾2、鞍2,人物20?(頭部13・腕15・胴部2・脚部4)多数の蓋がある。

土器は土師器・須恵器があるが数は多くない。須恵器は(TX23・TK47・MT15)5世紀後半から6世紀中葉である。

▶︎あとがき

 私はこの空墓は6世紀前半である点を重視して、男大連(おほど)大王(継体天皇)の時期に構築された神倭磐余彦墓(かむやまといわれびこのすめらみこと・神武天皇(じんむてんのう、庚午年1月1日 – 神武天皇76年3月11日)は、日本神話に登場する人物であり、古事記、日本書紀によれば、日本の初代天皇とされている。)と想定する。神武天皇陵としては最初の墓であり、この後には聖徳太子が畝傍山(うねびやま)の裾に丸山を、壬申の乱の最中に大海人皇子(おおあまのおうじ天武天皇(てんむてんのう、? – 686年10月1日(朱鳥元年9月9日))は、7世紀後半の日本の第40代天皇(在位:673年3月20日(天武天皇2年2月27日) – 686年10月1日(朱鳥元年9月9日)))側が?を、元禄期に徳川光圀が探索したが未決定、幕末期に徳川斉昭が四条の神武田に神倭磐余彦(神武天皇陵)を治定している。