火焔土器のデザインと機能

■火焔型土器の誕生

國學院大学博物館

 縄文時代は約15,000年前にはじまる草創期、早期から前期を経て中期、そして後期から晩期に至る6期に区分される火焔型土器は、約5,000年前、縄文時代中期中葉、中部地方の日本海側に発達した縄文土器様式である。存続した期間は実年代で300年ほどと思われる。一世代を30年程度と見積もると、10世代に相当する。

 火焔型土器は、新潟県を貫流する信濃川流域を中心に、北は山形県境、西は富山県境、そして東から両方面は山並みに妨げられながら群馬県、福島県、長野県に囲まれている範囲に及ぶ。

 火焔型土器は、少なくとも新旧三段階の変遷をたどる。火焔型土器は、周辺の縄文土器の影響を受けて誕生した。火焔型土器の誕生期にあたる第1段階では、器体や口緑部の突起が小さいことが特徴である。

 火焔土器(上図・「火焔土器(馬高A式1号深鉢土器)」クリックすると3D画像操作できます)は、近藤篤三郎によって、1936年(昭和11)の大晦日に、新潟県長岡市関原町馬高遺跡で掘り出されたものと伝えられる。それまでは破片の一部しか見ることのなかった独特な縄文土器のひとつが、ほぼ全体の形態のわかるように姿を現したのだ。

 縄文土器を特色づける突起に特徴があり、とりわけ、4つの大仰(おおぎょう・おおげさ)な突起は燃え盛る炎を連想させ、いつしか「火焔土器」と呼ばれるようになった。ニックネームをもつ最初の縄文土器の誕生である。

 その後、同類が次々発見されることになった。それらが「火焔型土器」と分類された。さらに研究が進むと、火焔型土器のほかに「王冠型土器」などがあることがわかり、それらを総合して、「火炎土器様式」と呼ぶようになった。

■火焔型土器と王冠型土器

 火焔型土器と王冠型土器はよく似ている。破片だけでは、それらを区別する根拠を見出せない。しかし、両者には明らかに違いがあり、全体が復元されたものをみると、それぞれを分類できる。火焔型土器と王冠型土器おのおの厳然とした規格性があり、独自の個性を発揮している。

 典型的な火焔型土器や王冠型土器は、縄文土器の名の由来である縄目の模様「縄文」がない。容器を成形したうえで、その器面に粘土紐を貼り付けて、竹管を半裁した調整具で凹凸をつくり、渦巻文様やS字文様を生み出していく。

 火焔型土器と王冠型土器それぞれの明確な違いは口緑部にある。火焔型土器は水平の口緑に大きな4つの鶏頭冠突起と鋸歯状のフリルがある。一方、王冠型土器は4つの突起と一体となった波状口緑となる。 火焔型土器や王冠型土器は、鑑賞用作品でない。火焔型土器や王冠型土器の多くには内面にオコゲが残り、ほかの大多数の縄文土器と同様に、食品の煮炊きに使ったものと考えられる。日本列島の古い土器では魚類を煮ていた可能性が推定されている。科学の進歩によって、火焔型土器や王冠型土器に残されたオコゲや土器に染み込んだ脂質を分析できるようになった。

 火焔型土器や王冠型土器の科学分析の結果、土器に付着したオコゲの炭素窒素同位体比は、土器は遺跡ごとに違う種類の食品の煮炊きに使われたことを示唆している。また、脂質の分析では、信濃川上流の遺跡出土の土器は、サケのように海洋で大半を過ごした海産資源を煮炊きしていたことを示している。

■火焔型土器のココロ

 火焔型土器は食品を煮炊きした。火焔型土器に求められる機能として、必要な容量が確保されれば十分に事足りる。それゆえに口緑の突起は土器の使い勝手に直接関わらない。人目をひく大きな突起は無用の長物であり、むしろ食品の出し入れの障害物である。また、口緑部に突起があるがゆえに土器の重心は高くなり、不安定で倒れやすい。使い勝手が悪いうえに消費する粘土、製作に費やす労力もばかにならない。

 火焔型土器の突起が煮炊きの機能を実現するカタチの問題ではなく、縄文人の世界観に関係することを示唆する。人類が開発した生命維持にかかる土器あるいはまた道具全般は、総じて人類の能力を補うことを目的に、効率を重視した機能一辺倒のカタチがデザインされる。対して火焔型土器は効率を犠牲にしても、縄文人の心象が投影されて、はじめてデザインが成立する。

 信濃川流域の縄文人は、例えば土偶や石棒など縄文人の世界観に関わるものを多くの土製品や石製品を残している。多様な土製品や石製品は、火焔型土器とともに育まれた豊かな精神性を伝えている。

■基調講演縄文人の心象世界と縄文土器

谷口 康浩(國學院大學教授)

▶︎  1.器を超越した過剰デザイン

 縄文土器の歴史は非常に長い。約16000年前に土器の使用が開始されて以来、縄文土器の形や文様は多様に変化してきた。器としての種類や用途が次第に増えたという側面もあるが、著しいのはむしろ、機能や用途とはほとんど関係のない、文様や造形の発達とあくなき変遷である。その中でも特に目を惹くのは、中期の縄文土器に見られる過剰ともいえる造形である。火炎土器や勝坂式土器曽利式土器などに見られる大形の把手や躍動的な曲線文は、装飾の域を超えて縄文固有の美を創造・追求するものであり、その意味でart(芸術)と形容しても過言ではない。世界の先史土器に例のない、特異な土器文化である。

 縄文土器の歴史にはいくつもの画期的な変化があったが、中期の東日本一帯に現れた爆発的開化はもっとも大きな画期となっている。縄文土器文様の歴史を長期的視点でとらえ、そこから縄文文化が成熟していく過程や各時期の特質を見い出そうとした意欲的な研究がいくつかある

 山内晴男は世界の先史土器と比較してみたときの縄文土器の特質として、縄文の発達とともに口緑部の把手・突起の多さを挙げ、早期・前期に発生した小突起が中期にいたって世界に例のないような雄大な口緑装飾を生みだしたことに注目している。また、土器型式が移り変わる中で文様は変化していくが「文様帯」は継承されているという重要な見方(文様帯系統論)を提起し、中期後半から晩期にかけて文様帯の系統が連続していたことを論じている(山内1964)。

 稲田孝司は縄文土器文様の性質が中期を境にして縄文時代の前半と後半とで大きく異なることを論じている。前半期には、縄文・押型文・貝殻文・竹管文などのように施文具の材質や形態に規定された文様、すなわち「施文具形態文様」が発達したのに対して、後半期には、独特な単位文や区画文を沈緑などで表現する「方位形態文様」が著しく発達したことを見出し、中期を境とした大きな質的変化の意味を追究した(稲田1972)。

 小林達雄も重要な見方を提起している。樹皮籠や皮袋などの形を模写した草創期に対して、早期に土器と文様の主体性が確立したが、縄文土器の文様は、施文具の圧痕や簡単な図形による単純な「装飾性文様」から、土偶の発達などに示される神話的な世界像を表現した「物語性文様」へと、その性質が大きく変化したことを論じている。小林もまた中期における大きな質的変化を捉えており、土偶などの第二の道具の発達にも関連した縄文固有の世界観の確立・深化を表すものと理解した(小林1994)。

 

 松本直子は縄文土器文様の長期的な変化を、人間の視覚情報の認知と視的技法という視点から検討している。実用機能としては意味のない文様を土器につける理由には、①見るものに視覚的快感を与えるため、②技巧的に優れていることを示すため、③象徴的な意味や力をあらわすため、という3つがあると考え、前期までは①が卓越したのに対して、中期には③が顕著となり、後期・晩期には②が主流になると論じている(松本2008)。

 各論者の視点は異なるが、中期に土器文様の大きな質的転換が起こったことは確かである。器を超越した過剰デザインの爆発的開化はいったい何を意味しているのだろうか。なぜあれほどまでに土器の造形にエネルギーを注ぎ込み、何を表現したかったのであろうか。

▶︎  2.中期縄文土器の象徴性

 中期の縄文土器には、それ以前の時期にはあまり見られなかった興味深い現象が見られる。真相を探る手かがりとしていくつかの現象に着目し、先覚者たちが注目した中期の質的変化について考えてみたい。早期・前期までの土器にはなかった、中期の土器群の特異性として、私は次の5点に注目したい。

▶︎  現象1:土器型式・土器様式の地域色の強まり

 中期の東日本一帯では土器の造形の地域色が強まり、個性的な特徴をもつ土器型式や土器様式が各地で生み出された。縄文時代を通じて生みだされた土器様式は現在100以上が識別されているが、早期・前期に比べて中期の土器群は明らかに地域性を強めており、その結果、固有の名称が付された土器群が各地に割拠するような状態となっている(小林編2008)。信濃川流域に分布する火炎土器はその代表である。その頃の周辺地域には上山田・天神山式(富山・石川)、勝坂式土器(長野・山梨・西関東)、新巻類型・焼町土器(長野東部・群馬)、大木7b式・8a式土器(福島・山形)、七郎内Ⅱ群土器(北関東・福島)、浄法寺類型(那須・福島中通り)、会津馬高系(福島会津)、阿玉台式土器(北関東・東関東)、中峠式土器(千葉・茨城南部)などが展開し、相互に関係しながらそれぞれが固有の分布領域を有していた。

 中期は遺跡数が著しく増大した時期であり、縄文時代の人口がピークに達した時期と推定されている。東日本一帯で人口密度が高まる社会状況の中で、個々の地域集団がアイデンティティーを強め、対外的に自分たちの存在を誇示するような動きが激しくなってくる。それを物質化して目に見える形にしたものが、互いに張り合うように発達した個性的な土器であったと考えられる。つまり、地域集団のエンブレムのような性格である。

▶︎  現象2:異系統文様の折衷・融合、異系統土器の共伴の多さ

 中期の土器群にみられるもう一つの興味深い現象として、系統の異なる文様が一個の土器の中に合わさって起こる折衷や融合がある。また、出自系統の異なる異質な土器が一つの遺跡の中で共伴することも頻繁に起こっている。中期前葉から中葉への過渡期、中葉から後葉の過渡期にとくに顕著である。佐藤達夫は一個体の土器に異系統の文様が共存する事例に注目し、婚姻関係などによる地域を超えた人の動きを想定した(佐藤1974)。異系統の文様要素を合体させたこのような土器を佐藤は、ギリシャ神話のキメラ(ライオンの頭とヤギの体、蛇の尾をもつ怪物)に例えて「キメラ的土器」と称した。佐藤がキメラ的土器の実例として挙げた東京都八王子市楢原遺跡出土の土器は、関東的要素と北陸的要素とを合成した土器の一例である。

 

 複雑な造形で知られる勝坂式土器には、関東・甲信地方にまたがる広域の遺跡間で同一の土器文様が共有化される現象が見られ、中間地域を飛び越した特定の集落間でも文様要素が共有されている(今福1993)。情報や人の動きが活発で広域的なものとなり、異系統の型式の接触と折衷、あるいは融合と同一化が頻繁に起こっていた状況が見て取れる。これは集団関係や情報交換を示す性格である。

 

※勝坂式(かつさかしき)または勝坂式土器(-どき)とは、関東地方及び中部地方の縄文時代中期前半の土器型式名ないし様式名である。勝坂式は、隆帯で楕円形を繰り返す文様など通時的な変化を追えるものもあるが、器全体を豪壮、雄大な造形で表現することに特色があり、動物、人物などの顔面把手、蛇を模した把手などがつけられる土器は特徴的である。また、水煙式と呼ばれる中部山岳地方の土器は、勝坂式の終末に出現する。

 中期中葉の北関東における土器様相も非常に複雑である。現在の栃木県北部を中心とした地域で作られた深鉢形土器は少なくとも18類型があり、文様要素の互換や融合が起こっている(塚本1997)。その複雑さや変化の激しさは「様式」や「型式」という既存の概念では捉えきれないものである。

▶︎  現象3:記号またはコードとしての単位文様

 火焔型土器の特徴である4個の鶏頭冠把手には、内側にS字状の曲線文、外側に左右非対称のハート形の窓を配置する決まりがある。新潟県地域に分布する真正の火焔型土器はほとんどがこの規則に則って作られていることから、何らかの重要な意味があったことは確実である。

 様式・型式を超えて広く共有された文様もある。「玉抱き三叉文」がその好例である。中心となる円文または渦巻文とそれを囲む三叉文からなるパターンである。前期末・中期初頭に確立し中期中葉に発達したもので、北陸地方から関東・中部地方に広く流布している。大形石棒や土偶にも施文された例があり、後期・晩期にも受け継がれていく。玉抱き三叉文は縄文勾玉の造形に共通し、同じ象徴的意味をもつというのが私の持説である(谷口2011)。

 この例のように、シンボルまたはコードとしての性質をもつ定型的で規則性の強い単位文様が中期の土器にはよく見られる。その多くは渦巻や曲線文であり、ミミズク状把手などもかなり広く取り入れられている。それらは単なる器の装飾ではなく、ある種の観念や意味を象徴的に表現するものであった可能性が高い。土器はそれを伝える媒体としての性格をもっているのである。

▶︎  現象4:土偶と土器の造形的融合 

 中期の土器に現れた新現象の一つに、土偶と土器の造形融合がある。土偶は草創期から存在したが、中期になって急増した「第二の道具」である。中期には土偶文化が開化すると同時に土器と土偶の造形上の融合という興味深い現象が生じてくる

 

 中期中葉の勝坂式土器には土偶の顔面を表現した把手をもつ「顔面把手付き土器」や土偶の上半身を取り付けた土器が特徴的に見られる。土偶と土器との融合例は後期・晩期にも続いていくが、顕著になるのはこの時期からである。山梨県津金御所前遺跡出土顔面把手付き土器は、身ごもった土偶のイメージを表現する好例であり、胴部正面に付けられたもう一つの顔面から、出産シーンを表現したものと解釈できる。この種の顔面把手付き土器に胴の膨らんだ器形が多いのは、機能的な必要からではなく、妊娠した土偶のイメージからくる表現なのであろう。中期後半になると勝坂式の顔面把手のような直裁な表現は影をひそめ、より抽象的な形にデフォルメされてしまうが、土偶の要素を取り入れた文様自体がなくなるわけではない(谷口1998)。

 土器の作り手たちの頭の中は土偶の観念で満たされているのであり、ここにも器の概念を超越した造形動機が垣間見える。土偶の正体はいまなお謎であるが、この両者の関係から洞察すると、土偶に象徴化された神観念は食物や調理という基本的な生活文化要素と密接に関連していた可能性が高い

▶︎  現象5:土器と炉との関係性

 中期の人々は住居の炉にある種の象徴性を認めていたようである。前期までの質素で実用的な炉とは違って、さまざまな種類の、凝った造りの炉が作られるようになる。住居の廃絶や建て替えにあたって、炉の緑の石を取り去る儀礼的行為や、炉内の灰を掻き出す行為なども見られ、そこにも炉に対する特別な意識が読み取れる。中期には土器を埋設した炉や土器片を敷き詰めた炉が現れたが、これは彼らが土器と炉または火との密接な関係を認知していたことを暗示している。

 アイヌの信仰と儀礼を調査したマンローによれば、カムイーフチすなわち火の姥神はすべての先祖の霊を代表する神であり、また先祖の霊は囲炉裏のすぐ下に住むと信じられている。そして炉またはその周りに供えられた酒や儀礼食がカムイーフチの力を介して祖先の霊に届けられるという信仰がある(マンロー1962)。縄文中期にも炉にまつわるこのような信仰と儀礼があった可能性があり、土器はそこでも重要な役割を演出したのである。

▶︎  3.まとめ

 縄文人は文字をもたなかった代わりに「物質文化」の中に彼らの観念や心象世界を実に豊かに表現している。縄文人の作り出す「モノ」は、道具であると同時におそらく彼らの言語や信仰と密接に結び付いており、それらの造形には情報やイデオロギーを伝達する社会的なコミュニケーションの媒体としての性質が強く滲み出ているのである。可塑性のある粘土で形づくられた縄文土器は、縄文人の観念や世界観を自在に表現できる、もっとも身近な媒体であった。また、人口が増大し社会関係が複雑化していく中で、土器は地域集団のアイデンティティーを表示する役割や集団間の融和を象徴する役割も担った。中期の土器がそれ以前の土器と異質なものに激変したように私たちの目に映るのは、そのような性質が一気に開化したからである。それは器の機能を超越した象徴としての造形であり、もはや土器という概念では捉えきれないものである。

 「縄文土器。これを見たとき、心がひっくりかえる思いだった。人間生命の根源その神秘を凝集し、つきつけた凄み私はかつてこんなに圧倒的な美観にぶつかったことはなかった。全身が、“ぶるぶる”ふるえあがった。」岡本太郎

 芸術家をそこまでふるえあがらせたのは、察するに縄文人の息遣いや造形動作に微塵の迷いもためらいもないからである。そこに縄文人の心象世界が数千年もの時空を超えてもなお生き生きと表現されていることを芸術家の眼が鋭敏に感じ取るからなのだろう。

■岡本太郎が視た「縄文」1951年11月7日水曜日の「事件」前後   

石井 匠 (國學院大學博物館/岡本太郎記念館)

▶︎はじめに

 1952年2月、美術雑誌『みずゑ』に岡本太郎が発表した「四次元との対話縄文土器論」。このセンセーショナルな論文によって、縄文が日本美術の源流と認められるようになり、太郎の影響で日本美術史が変わりました。

 それ以前、日本美術史のはじまりは、早くて弥生時代の銅鐸、大抵は古墳時代の埴輪からが通例でした。縄文土器や土偶について、多少書かれることはあっても、絶対に、縄文を巻頭グラビアとしては掲載しない。それが当時の日本美術史の原則のようなものでした。

 日本美術史の本をみると、今では当たり前のように縄文土器が巻頭に掲げられていますが、当時は、そのようなことはありえなかったのです。

 太郎の縄文土器論が発表された直後、どのような変化があったのかというと、4ケ月後、今泉篤男・岡康之助・滝口修造編『日本の彫刻』1上古時代(美術出版社)が刊行され、表紙は人物埴輪ではあるものの、土偶が巻頭グラビアを飾ります。

 また、翌年の1953年6月刊行の東京国立博物館編『日本美術全集』第四巻二重篇では、縄文が巻頭におどりでることはないのですが、太郎の縄文土器論に掲出された火焔土器の写真が「縄文式土器上古時代」として載せられています。

 2冊の例のように、一般向けに刊行された日本美術史関連の商業誌や概説書には縄文土器論の影響がみてとれます。以後、縄文土器が巻頭を飾る本は続々と刊行されますが、太郎の縄文土器論自体に言及はなく、その状況は数十年続きます。

▶︎縄文との選進・・・1951年11月7日

 さて、今から65年前。終戦後の停虜生活をへて、中国から復員した5年後の11月7日。岡本太郎が向った上野の国立博物館(現・東京国立博物館)で開催されていたのは、秋の特別展「日本古代文化展」でした。雑誌『みずゑ』の執筆依頼で見にいった太郎は、そこで縄文土器に邂逅(かいこう・思いがけなく会うこと)します。

 考古学の資料として陳列されてあった土器を見て、私は愕然とした。少年時代から芸術を志し、美術史も学んだ。パリでは民族学もやったが、その頃日本にこんな凄い美があることはまったく知らされていなかったのだ。ああ、これこそ日本だ。そして同時に世界に向かってひらいている強烈な生命感だ。己の存在の根源にふれる思いだった。熱い共感が身のうちに燃えあがった。(岡本太郎1975「縄文の美学」『縄文人展』朝日新聞社)

 興奮冷めやらぬまま、太郎は、当時の有名レストラン・銀座オリンピックで行われる雑誌『草月』の「いけばなあれこれ放談会」に出席するため、上野駅から電車を利用して銀座へ移動。その数十分たらずの電車の中で、彼の脳は爆発したようです。

 15時開始の放談会出席者は、進行役の美術評論家・水沢澄夫、岡本太郎、画家の藤川栄子、いけばな草月流の創始者・勅使河原書風、写真家の土門拳、作家の安部公房という面々。そこで太郎は、さっき見てきた縄文について、唐突に語りだします。太郎よりちょっと年上の土門と、一回り以上年下の安部との忌悼なき65年前の議論をみてみましょう。

岡本 ちょっと話は違うが、きょう実は縄文式の土器を見たんです。実に沢山の問題がある。とにかく素晴らしいものだよ。.

土門 縄文式というのは、日本民族のものかね。あれは実にアクの強い炒なものだね。

岡本 僕は、やはり日本民族の芸術だと考えたいね。

土門 案外、現在の僕たちに通ずるところはあると思うんだが、普通考えられている日本民族というよりは、僕は漢民族的な体質を感ずるんだ。

岡本 日本の芸術と言えるかどうかわからをいけれども、そこらへんを徹底的に調べたいと思っているんだ。

土門 縄文式文化と弥生式文化との対立があるでしょう。千五、六百年から二千年前のものが、現在でもその二つの流れとして継続しているような気がする。たとえば岡本さんの意見が縄文式で、藤川さんが弥生式なんですよ(笑声)それははっきり言えるね。

岡本 そうなんだな。問題は縄文式は狩猟時代のものだし、弥生式は農耕時代のものだね。おれは電車に乗りながらつくづくそれを考えてみたんだが、同一人種があれだけに変化することはないかもしれぬ。三つの可能性が考えられる。

 つまり新しい農耕民が西から日本に入って来て土着し、日本民族を形成する。文化は高いが、非常に軟化してしまった。つまり人種の断絶があるという考え方だね。

 もう一つは狩猟時代の民族というのは、どうしたって闘って獲物を得る激しさがあるわけさ。同じ人種が農耕時代に移る。人々は田で働いて秋の実りを待つ。非常に計画や打算が出て来るでしょう。そこに平衡だとか柔かさというものが出て来るんじゃないか。

 もう一つは縄文時代の闘争的なものを持っていた民族が後から入って来た弥生式文化の民族と混血したとも考えられる。いずれにしても縄文式の美観は絶対に今の日本民族にはないよ。ほんとうにそういっそ意味では、岡本太郎しかいないんだ。(笑声)

土門 縄文式と弥生式の時代とはかなり混淆しておる時代があるのじゃないですか。

岡本 もちろんありますね。江戸時代の末期と明治維新あの前後みたいなものさ。斬新的に行ったということはあるでしょう。だから縄文式と弥生式の折衷みたいな土器もかなりあるわけだ。

水沢 縄文式と弥生式、あれは生産形式の違いから出て来た表現形式の違いだと思う。

岡本 ぼくの言うのもつまりそこなんだよ。

鹿野 しかし現在縄文式では困るね。

岡本 弥生式の方がいいというのかい?

安部 そういうわけじゃないけれども、ある原始的な生産の中の闘争形式でなくて、闘争形式でないから、弥生式がいいという意味でなくて、農耕時代には農耕時代の闘争形式があったはずです。現在でも時代化された闘争形式があるわけです。何か縄文式というものを民族固有の伝統という面から見た場合、やはりそれはおかしいよ。岡本太郎らしくない妥協だと思うな。

岡本 おれの言うのはそんな意味じゃない。縄文式というのはね。東洋の古代に共通したものがある。たとえば支那でも殷、周の雷文なんか、非常を激しさを持って居る。佛印のクメールとか、南米のプレ・コロンビアンだとか、いろいろな形はあるが、実に特徴的な日本においてもあの激しさは縄文時代にしかない。おもしろいことは、あの時代のものはちっともいやったらいつもりではなかったと思われることだ。岡本太郎なんかは、これでもか、これでもかとやっているが、向こうはそのつもりじゃないね。それが優美だと思ってやってやったに違いない。

 縄文と出会った直後、彼が知己たちと放談した内容には、その3ケ月後、『みずゑ』誌上に発表され、日本美術史を変えることになる「四次元との対話 縄文土器論」の骨子がみてとれます。

 

 戦前、盟友ジョルジュ・バタイユとパリで決別した後、「日本の泥」にまみれるために帰国。三十路を越えての徴兵。第二次大戦の死線をのりこえ、日本古代文化展で新たな「縄文」というモノの盟友を得た瞬間、太郎は、泥の底に眠る「世界の縄文」を眼差していたのです。

▶︎国立博物館の動向・・・日本古代文化展の開催前後

 国立博物館の「日本古代文化展」の会期は、1951年10月10日〜11月11日(同月25日まで会期延長)。企画担当は、当時、縄文研究の牽引者の一人であった東博の考古課長、八幡一郎です。八幡は、1951年10月1日、『国立博物館ニュース』第53号1面冒頭の「日本古代文化展の意義」で日本人の祖先問題にふれながら、「今日、日本が置かれている地位につながりをもつ問題」で「われわれに課された国士愛護の使命を新たに感ずる必要がある」とし、明治以来の人類学や考古学の成果にもとづき、「国立博物館は、これらの物を通して祖先にかれらのいとなみを率直に語らせるべく、ここに日本古代文化展を設け、ひろく国民の自己認識に資することとした」と記しています。

 さらに、「本館としては右の趣旨で一堂に集め配列した個々の遣物すなわち埋蔵文化財をして真実を語らせ、観る人おのおのがみずからの感受性、体験、知識、史観に訴えて心の耳でそれを聴きとること」を意図した、ともいうのです。

 この展覧会では、小冊子のみが販売され、図録は刊行されていません。しかし、好評だったため、朝日新聞社の企てで、1年半後、展覧会の図録『日本考古圖録』が刊行されます。監修は、東京国立博物館。編者は八幡です

 

 当時の館長、野長武の巻頭言に「近時著しく進展した考古学の体系に順応させるよう陳列して、最近頓に昂まってきたこの方面への一般的関心に寄与しようと意図した」とあります。戦中の見えない圧力からの解放や、1951年の平和条約締結など、時世の変化もあったのでしょう。

 八幡も「はしがき」で「ことに戦後のわが国においては、日本歴史、そのうちでも古代に対して世間一般の興味と関心がたかまり、勢い考古学にむかってその成果を求めることが異常に強くなってきた」と記しています。

 戦後、日本史や日本民族の起源を追求することへのタブーがなくなそれまで抑圧されていた知的欲求が、学者のみならず世間の人々の心からも堰を切ってあふれだし、戦前・戦中に語りたくても語りえなかった考古学的成果を世に問う時期がきたと、東博と八幡は踏んだのでしょう。

▶︎岡本太郎がみた「縄文」

 さて、岡本太郎が「四次元との対話縄文土器論」冒頭ページに掲げたのは、「火焔土器」でした。オヤジギャグで始まる縄文土器論の語りだしは「縄文土器の荒々しい,不協和な形態,紋様に心構えなしにふれると,誰でもがドキッとする.なかんずく爛熟した中期の土器の凄まじさは言語を絶するのである./激しく追いかぶさり重なり合って,隆起し下降し旋廻する隆線文.これでもかこれでもかと執拗に迫る緊張感.しかも純粋に透った神経の鋭さ,常々芸術の本質として超自然的激越を主張する私でさえ,思わず叫びたくなる凄みである」。

 この文章と火焔土器の写真を合わせると、いかにも太郎が火焔土器を見ながら語っているように思えてしまいます。ところが、1951年11月7日、太郎が国立博物館で驚嘆したのは、この「火焔土器」ではありません。「日本考古圓録』別冊付録の「日本古代文化展総目録」には、火炎土器は1点もみあたりません。展覧会で火焔土器は展示されておらず、彼は実物を見ていないのです

 しかし、おそらく太郎は、火焔型土器の写真をみていたはずです。展覧会では、B6判小冊子『日本古代文化展見方と解説』が25円で売られていました。この家形埴輪が表紙の小冊子をひらくと、「埴輪の馬 群馬懸多野郡平井村白石出土」が巻頭に掲げられ、次のページをめくると「彌生式土器図2『日本古代文化展見方と解説』より102 愛媛懸松山出土」の大ぶりの写真と「埴輪円筒の尊掘現場」写真が上下にならび、左ページに小さめの写真の火焔型土器が掲示されています(この火焔型土器は岡本の縄文土器論掲出の火焔土器と別個体、下図)

 火焔型土器の左に「金印」、下には半ページを占める「狩猟文鏡」、次ページは銅鐸です。つまり、弥生時代と古墳時代の遺物に囲まれて、縄文土器はばつんと1点のみが掲載されているのです。

 日本古代文化展の目的は、美術としての縄文の紹介ではなく、明治以来の考古学的成果の披露でしたが、弥生・古墳の遺物に火焔型土器をまぎれ込ませるかのように掲載したのは、八幡一郎です。

▶︎岡本太郎と八幡一郎

 先史学と民族誌を領域横断する八幡は、太郎の縄文土器論に先だつ1950年、国立博物館編「日本美術鑑賞先史美術』(巧芸社)を刊行しました。民族誌的知見を織りまぜた考古学的文章ですが、美術的な観点を意識しつつ「縄文式土器の美」と「弥生式土器の美」を対比していて、翌年に自らが担当する「日本古代文化展」への布石とも読めます。また、彼が「序説」で語ることは、岡本の縄文土器論に通じる部分もあります。

 じつは、岡本太郎と八幡一郎には、共通点があります。芸術家の眼差しから縄文の美を発見した太郎が、パリ大学で民族学の父とも称されるマルセル・モース門下で民族学を学んだとき、専攻領域として選んだのは、南太平洋でした。

 いっぽう、八幡は、民族学の成果を考古学に取り入れつつ、ミクロネシアを中心に南太平洋の民族学的研究も行い、縄文を美術としてみる眼も持ちあわせていました。もしも、ふたりが対話を重ねていたら、美術史学と考古学に大きな実りをもたらしたかもしれませんが、現実は違いました。

 1969年刊行の『日本文化の歴史』(学研)の1・2巻は、太郎が考古学者たちと共に編んだ本です。八幡は、第1巻「大地と呪術」(国分直一・岡本太郎編)の書評を『考古学ジャーナル』30号(1969年)に書いています。八幡が『日本文化の歴史』の編集陣から相談された際、自分が国分直一を推挙したと語り、編集両名をほめたたえますが、太郎色の強い主題「大地と呪術」に対する遠回しの批判のあと、次の苦言が呈されます。

 ただここに一つの苦言を自他ともに与えねばならをい。読者は研究者のみでなく、その大部分が一般読書人である。研究者の独りよがりが、そのまま受け入れられることを考えて、自分の研究が完成したものではなく、なお多くの解明すべき問題を残していることを自覚し、人に与えることに対して謙虚であク、またジャーナリズムのベースに乗らぬよう自戒すべきだという点を、老化した私自身に与えるととも/ご、前途ある研究者諸君に提案したいと思う。これは本書の批判ではないが、このような企画ももうそろそろ終わるであろうから、杞憂に過ぎぬとは思うが、あえて年寄りの冷水を申し添えた。その点誤解なきを祈る次第である。

 この八幡の、奥歯にものがはさまったような自他への苦言は、岡本太郎へ向けられていたように、私には思えてしまいます。

 八幡は、民族学と美術史へ関心をよせつつ、戦後に自ら企画する「日本古代文化展」へむけて入念な準備を進め、展覧会を成功させました。しかし、センセーショナルに世間で受け入れられ、評価されたのは、考古学者の展示でも言葉でもなく、商業美術雑誌に掲載された芸術家の論文でした。ここで八幡が語る苦言は、彼が太郎に対し、長年抱いていた想いの吐露のように私には読めてしまうのです。

▶︎考古学者の岡本太郎への無関心

 権威ある考古学者が岡本太郎論を発表するのは、太郎の縄文土器論から49年後です。小林達雄による「岡本太郎と縄文の素顔」(2001年『岡本太郎と縄文展』NHKプロモーション・川崎市岡本太郎美術館)ですが、それまで太郎は、考古学から無視され続けてきました。

 たとえば、1956年3月23日の出来事。太郎と敏子が縄文土器の撮影ため東大を訪問した際、対応したのは、縄文考古学の時の権威、山内清男です。撮影後、太郎は芹沢長介とも会い、縄文土器論の一読をお願いしたようですが(岡本敏子の日誌)、特にリアクションはなかったようです。

 その後、1964年3月、山内の編集による「日本原始美術1縄文式土器(講談社)」が刊行されますが、山内は、太郎と縄文土器論に一切ふれません。(この頃から考古学者が原始美術を担当するようになりますが、考古学的な文章に終始します)。その2ケ月後、逆に太郎は、読売新聞(5/31朝刊)の書評で、「迫力ある大型図版=縄文式土器』」という見出しのもと、【第一巻を手にとり、一枚一枚ページをくりながら、からだじゅうが熱くなる」と本書を大絶賛しています。

 また、太郎の書評から2ケ月後、「日本原始美術1』に続いて 「日本原始美術2 土偶・装身具」が考古学者・甲野勇の編集で刊行されます。しかし、甲野の序文「序日本原始芸術の発見」や他の文章でも太郎への言及はなく、巻末の美術評論家・奥田直栄による「縄文式文化の芸術性」にいたっては、岡本縄文土器論の剽窃(他人の文章・語句・説などをぬすんで使うこと)といっても過言ではない内容です。当時の考古学者たちの太郎に対する冷淡さが、如実に表れているように思えます。以後、いまだに、考古学者たちの太郎への無関心と無理解は続いています