花火の歴史

■江戸の花火とその周辺

土浦市博物館編集

▶︎花火の起源

 花火の原料となる黒色火薬は硝石、硫黄、木炭を粉にして調合したもので、十二世紀初めに中国で発明されました。大きな爆発力を持ち、煙や閃光を発するため、初めは軍事に使用されました。筒に火薬を込めてロケットのろしのように打ち上げる狼煙(のろし)が、煙や光を出して合図を送る情報伝達の信号として長く用いられました。 その後、軍事に使用された火薬技術は民間に広がり鑑賞するための花火も十三世紀の中国で誕生しました。

 日本で最初に花火を見たのは、天正十七(一五八九)年に米沢城で伊達政宗が、慶長十八(一六一三)年に駿府城で徳川家康が、などといわれています。家康が見た花火は、火薬を詰めた筒から火花が噴き出す花火でした。これらはいずれも明人が上げた花火で、当時の中国との交流を行った為政者(いせいしゃ・政治を行う者)たちが鑑賞したものでした。

 天文十二(1543)年、ポルトガル人から鉄砲とともに火薬技術が日本にもたらされました。戦国時代でもあり、急速に火薬の取り扱いと砲術が普及し、その後の花火技術の進展にも影響を及ぼすことになりました。

 戦乱が収まった江戸時代、花火は幅広く日本国内に浸透し、数々の文献に花火の記録が残されています。そこには、平和な時代が育んだ娯楽や鑑賞用の花火がある一方、武芸としての狼煙技術も伝承されていました。

▶︎両国の川開き

 慶安元(1648)年六月の触書には「町中にて鼠火、りゆうせい其外花火之類仕間敷事」とあります。この時期には地をはい回る「鼠火」と、上空へ高く飛ぶ「りゆうせい(龍勢)」などがあり、防火のため江戸市中での花火は禁止されていました

 花火が特別に認められていたのが隅田川の河口部付近です。17世紀初頭から隅田川では、旧暦5月28日に川開きが行われ、8月19日まで人々は夕涼みに花火を楽しみました。花火の名所となつた両国橋付近は、川筋に数々の露店や見世物小屋が建ち並び、川面には見物客を乗せた屋形船が繰り出しました。この川開き花火に刺激されて、隅田川沿いに屋敷を構える大名たちも、お抱えの砲術師などに花火を上げさせ、楽しんだと伝えられます。

 江戸の花火屋「鍵屋」、鍵屋から暖簾分けしたといわれる「玉屋」船上から花火を上げました。花火は両国橋をはさんで上流を「玉屋」、下流を「鍵屋」が担当して、技を競ったといわれます。

 夏の風物詩となつた隅田川の船遊びと花火に熱狂する人々の様子は、浮世絵に多数描かれています。花火には龍勢、打上花火、仕掛花火などがあり、多くは夜空に上がるものでした。

 江戸時代の花火は「和火」といい、在来の原料を使用した橙色のものでしたが、明治時代になると化学原料が輸入され、色彩豊かな「洋火」がつくられるようになりました。

▶︎三河と尾張

 江戸時代、両国の川開き花火のほかにも、花火の盛んな地域がありました。三河や尾張もその一つです。祇園祭礼などにともなう花火を特徴とし、氏子となる町内にょって行われていました。もともと、花火や火薬の取り扱いに対して寛容な地域であつたと考えられ、花火製作の技術が広まりました。

 一瞬で消えてしまう花火は、倹約令や奢侈禁止の対象となりましたが、祭礼などの際には盛大な花火が行われました。三河や尾張の花火は、独特な技巧を凝らした仕掛花火が特徴的です。三河では吉田神社(愛知県豊橋市)の祇園祭礼尾張では清洲(清須)の牛頭天王社(川上神社・愛知県清須市)の祭礼花火が全国に知られていました。

 吉田神社の祇園祭礼では、7月14日に花火が行われ、辻に巨大な骨組みの立物花火が立ちました。通りの中央に手簡花火を大きくした大筒が、両側には綱火の綱が長く張り渡されています。

 牛頭天王社の花火は清洲(清須)花火と呼ばれ毎年6月24日に行われました。神社のかたわらを流れる五条川に、提灯で飾り立てた二腹の車楽船を浮かべ、両岸には桟敷がつくられました。川面にはいくつもの仕掛花火が設置されました。

 三河や尾張の華麗な花火は、町をあげて住人により開催され、火薬の調合も自ら行っていたと考えられます。見物客が各地から訪れることで、その技術や文化は次第に周辺に伝わつていきました。

▶︎砲術と狼煙(のろし)

 花火と砲術はいずれも火薬を用い、その調合方法が秘伝とされた点が共通しています。江戸時代、砲術や火薬を扱う技術は武芸として発達を遂げ、多くの流派が誕生しました。

 18世紀前半、八代将軍徳川吉宗は武芸奨励の一環として砲術にも力を注ぎました。遠方への情報伝達手段として狼煙技術を評価し、砲術方の武士に学ばせました。18世紀後半、日本近海に外国船が頻繁に出没するようになると、寛政の改革を主導した松平定信海岸防備のために砲術を重視しました。

 江戸湾の佃島沖などでは、狼煙技術を発展させた火術稽古が幕臣や諸藩の藩士によって行われるようになりました。船上から打ち上げた狼煙は相図と呼ばれ、昼夜の区別があり、その技を競い合いました。

 この頃、国内の各藩で採用されていたのが荻野流や武衛流などの和流砲術でした。木製筒と花火玉による打上花火と酷似した狼煙技術の伝承に重きを置いていました。

 天保13(1842)年以降、忍藩は幕府により江戸湾の警備を命じられました。当時同藩で採用していた和流砲術の訓練では、火術稽古も行われました。

 土浦藩で聞流砲術を伝えた関家江戸湾の高輪沖相図の訓練を行いました。それまでの関流の奥義にはなかった、相図玉を打ち上げる技術を記した「南蛮流火術」 の伝書が残っています。